| 2004年04月13日(火) |
障害者を差別する人々 |
最近、障害者に差別的な思想を持っている人々と話す機会があり、思いっきりげんなりした。集団でみんなとおなじレベルのことをこなせない個人を、排他的に考えているのだ。
また、一口に障害といっても、いろんな分野でいろんな重度のカテゴリーがあるわけで、簡単に定義づけをすることは難しい。ややそういう傾向がある、というだけで、まわりは極度の偏見を持つ。
社会福祉先進国のドイツでは、ごく普通に車椅子の人も知的障害のある人も一緒に暮らしている。まわりの気遣い、心遣いも社会を挙げて徹底していた。私たちも、長年暮らすうち、そんな環境がごく当たり前のことだと疑いの余地もなく受け入れてきた。しかし、そういう環境で暮らしたことがない人に、理解を求めるのは難しいようだ。
公立校で学んだ人は、特別養護クラスなどがあるから一応障害者を理解をする心はある。けれども、私学の進学校に通って勉強だけしてきた人は、そもそも私学校自体がそういう子達を受け入れないし、偏差値を競う相手の範疇に障害者は初めから入れていない。ましてや障害者と一緒に勉強させられたら、自分たちのレベルが落ちてしまうとでも考えているのだろう。そういう環境が、障害者を「足手まとい」とするような視点を育んできたに違いない。
私は人種差別的な発言にも、内心胸を痛めたり、すぐにキッと目くじらを立てたりする。ドイツで外国人排斥運動のまっただなかで長年暮らしてきたからだと思う。外国人である自分たちが実際にそういう渦中にいなくても、外国人の仲間たちの身近に起きる出来事を痛々しく見てきた。
障害者に偏見を持っている人は、同様に外国人を差別する傾向がある。そして自分が、東洋人としてのコンプレックスを持っているが故、他の誰かを低く見下ださずにはいられず、心の裏側で何か自分の感情のはけ口になる弱者の対象を探している。 それは、やがては確実にいじめに発展する感情の芽生えでもある。
子供というのは、心がまっさらなので先入観というものを一切持たない。 子供が何らかの偏見を持っているようならば、それはその親が教えたことなのであろう。直接どうのこうのいわなくても、幼いころからの日常会話を通しての情操教育の結果だといえる。 IQ(知的指数)が高い子供でも、EQ(情操指数)が低ければ、その家庭の親の親の世代までさかのぼって、否が応でもどういう教育を受けてきたのかと疑ってしまう。
今回いろんな人を通して、大人も子供も、学校のお勉強よりも「心の教養」のほうがよっぽど大切だとしみじみ思った。学校を卒業してしまえば、勉強はそれでお終いと思う人が多いかもしれないけど、心の勉強は生を受けたときから生涯をかけてするべきだと思う。
私が心の手本にしている人が何人かいる。 心に教養がある人は、決して人を横目で見ることはない。 そして、瞳がまっすぐできれいに澄んでいるものだ。 その瞳の色は、朱に交わっても決して赤くはならない。
|