2014年10月08日(水)  「100円でいいからください」の人

先週のこと。毎週水曜の定例打ち合わせに出た帰り、渋谷駅に向かって歩いていたら、誰かに声をかけられた気がした。

なんと言われたか、咄嗟には意味を汲めなくて、立ち止まって振り返ると、消え入りそうな女性の声が、さっきと同じ言葉を呪文のように繰り返していた。

「100円でいいからください。100円でいいからください」

女性は長めの裾のすぼまったスカートをはき、くるぶし丈の靴下をはいていた。
髪は真っ白で、年齢は70歳前後に見えた。

繰り返される「100円でいいからください」に足を留める人はいない。
彼女自身に向けられているようにも聞こえるか細さで、自分に向けられた言葉と思わない人も多いのかもしれない。

呼び止められたように思い、実際足を止めたわたしも、それ以上彼女に近づけなかった。

「100円でいいからください」と言われて、100円だけ差し出すべきなのか。
もう少しまとまったお金を差し出すべきなのか。

わたし自身も貧しかった学生時代、貧乏旅行で訪ねたアメリカで、電車賃をくれないかと手を差し出され、小銭を渡して「いつまでもこんなことをしていていいの?」と声をかけたら、手のひらに涙が落ちて来たことを思い出した。あの人は、小銭で救われたのではなかった。

自由に使えるお金がふえた社会人になってからの旅行で訪れたバリでは、百円玉をにぎりしめて「チェンジ」と両替を頼んで来た子どもたちがいた。「100円でいいから」を集めた結果、まとまったお金になったのだ。だとしたら、目の前の彼女に差し出すわたしの100円は、それだけでは微力でも、誰かの100円とあわされば、彼女を助けられるのではないか。

だけど、ただお金を差し出すのがいいことなのか、とも考える。

だったら、どこかお店に一緒に行って、好きな物を食べてもらって、彼女の話を聞かせてもらう代わりにごちそうするのはどうだろう。
いい考えのような気もしたけれど、それは彼女が求めていることではなく、わたしが差し出したいことであって、こちらの意思の押しつけではないかと思い直した。

100円渡そうと、1000円渡そうと、焼け石に水ではないのか。
こういう人こそ生活保護を受ける対象なのではないか。
だったら、彼女の住んでいる町の役所について行って、一緒に申請するのがいいのだろうか。
それもまた、彼女が望んでいることがどうかを確認してからでないと……。

頭のなかをいろんな考えが飛び交ったのは、時間にすれば短い間のことで、結局わたしは彼女に背を向けて駅へ向かった。その背中に「100円でいいからください」の声が突き刺さった。

わたしはどうしたら良かったのか。

彼女のことが頭の片隅から離れなかったせいか、その後、わたしの住む町でも、お金に困っているらしき方を二人見かけた。一人は自動販売機のおつりの返却口に指をつっこみ、小銭を求めていた。わたしが小さい頃、同じことをしている男性を駅でよく見かけた。老いた犬を連れたその男性は、誰かの忘れた小銭で生活しているのだった。もう一人はベンチを寝床にしている男性。このベンチには住人がいたりいなくなったりする。人が入れ替わっているのかどうかはわからない。

渋谷の女性も、わたしの町で見かけた男性二人も、いずれも高齢の方だった。仕事を見つけるのも大変なのかもしれない。渋谷の女性が「100円でいいからください」と訴えるようになるまでには、どんな挫折と葛藤があったのだろうか。

今週彼女がいたら声をかけてみようと思って同じ道を歩いたけれど、「100円でいいからください」の声は聞こえなかった。

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