2007年09月27日(木)  1979〜80年「4年2組 今井まさ子」の日記

7月以来の関西仕事で、たまを連れて大阪の実家へ。20年前にアメリカで買い求めたFamily Treeの本を探して、「雅子」と書かれたダンボールを掘り返す。名前を書き込んだり写真を貼ったりして家系図を完成させる本で、クラシカルな洒落た装丁だった記憶がある。めあてのものは見つからず、切手コレクションや映画のパンフレットや父の教え子が作った紙芝居(ZIGGYというタイトル)などが出てきた。

その中に、「私の思い出 4年2組 今井雅子」の表紙がついた日記があった。小学校のとき、毎日用紙が配られて宿題で書いていたもので、飛び飛びだったり「?月?日」があったりするものの、ほぼ一年分あり、一日数行とはいえ読みごたえがあった。表紙の「雅子」は漢字だけれど、日々の記名欄は「まさ子」。四年生といっても難しい漢字はほとんど使っていないし、たまに背伸びすると間違っている。習字を習っていた割には書きなぐったような乱暴な字で、「しゅう字の日はきらいです」とはっきり書いてある。

妹がきらい弟がきらい、友だちがいそがしくてつまらない、テストばっかりで死にそう、班のまとまりが悪い、などと嘆いたりぼやいたり文句ばっかり言っている。今のわたしはどちらかというとポジティブな部類に入るように思うのだけど、小学四年生のわたしは相当愚痴っぽい。傷つきやすいところ(母親のなにげない一言を引きずる)や正義感が強いところ(おとなしくてクラスになじめない転校生をやたらと気にかけている)は今と同じなので、やっぱりこれはわたしなんだな、と思ったりする。

しゅう字の日とじびかの日が週に一度ずつあり、たいそう教室(バレーボールを習っていた)が二週に一度あり、あとは幼なじみたちと家を行ったり来たりしてよく遊んでいる。夏休みの日記を読むと、毎日のようにあちこち連れて行ってもらっていて、旅行も立て続けに行っている。旅行の間は愚痴も減り、「楽しかった」と書いてあった。

「死ぬ」「ころす」といった物騒な言葉が遠慮なく使われていて、どきどきしてしまう。「妹とじさつのマネをした」日もある。「いきをとめるのがしんどかった」と続くので、遊びだとわかるけれど、はらはらする。ダークなものに憧れる気持ちの強さの割に善悪の判断基準がまだあやふやでブレーキ機能も未発達。だから危なっかしいことを平気で言ったり書いたりしてしまう。無邪気で残酷。もしもこの頃にわたしが何か事件を起こしていたら、日記が参考資料として押収され、危険な発言てんこもりの内容に「やっぱり……」となったのだろうか。「子どもの頃の自分が怖くなった」と母に言ったら、「子どもってそんなもんやで」と笑っていた。日記を読んでいると、子どもだけの「ほったらかしの時間」がたくさんあり、きょうだいや友だちの間でもまれながら、好奇心を満たし、問題を解決し、生きる力をたくましくしていったのがうかがえる。でも、自分の娘が四年生になったとき、日記に何が書いてあっても「子どもってそんなもん」と笑ってられるかどうか、自信がない。手出し口出しするより見守ることのほうが難しそうだ。

日記は1979年5月17日からはじまる。「(書くことが)とく意ではない」と書いているのは、謙遜だとしたらいやらしいけれど、本当にあまりとく意ではなかった可能性もある。日を追うごとに文体(口調)のバリエーションがふえ、行数もふえ、「筆がのって」きている。もしかしたらこの日記が書くことを好きにしてくれたのかもしれない。実家にいる間に何日分かをアップしたが、当時の時間割や持ち物が書いてあるのも興味深い。

1979年5月の4年2組日記
1979年6月の4年2組日記
1979年7月の4年2組日記
1979年9月の4年2組日記
1979年12月の4年2組日記
1980年1月の4年2組日記
1980年2月の4年2組日記
1980年3月の4年2組日記

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