2007年08月01日(水)  バランスがいいこと バランスを取ること

最近立て続けに読んでいる向田邦子さんのエッセイの一冊、『夜中の薔薇』に収められた「男性鑑賞法」と題した一編に「らしく、ぶらず」という言葉が出てきた。落語家の橘家二三蔵さんを紹介する中で、文楽師匠の言葉として登場するのだが、「落語家らしく、落語家ぶらず」ありなさい、ということらしい。家のつく職業同士ということで、「脚本家らしく、脚本家ぶらず」と置き換えてみると、なかなかしっくりくる。職人の腕や心意気は感じさせたいけれど、下手なプライドは持たないように気をつけたい。「らしく、ぶらず」の微妙で絶妙なさじ加減が求められる。

さらに、橘家二三蔵さんを「七分の粋と三分の野暮」と表現するくだりがあり、調理師の小田島実氏を取り上げた一編には「自信と謙虚」が同居するさまが描かれていた。足りないとなめられるけれど、過剰だと鼻につく。何事も押し引きのバランスが肝心だなあと感じる。ちょうど、少し前に紹介されて会った映像製作会社の方から「バランスのいい人」という第一印象を受けたと言われ、そんな風に見えているのか、とうれしくなった矢先だった。

ところが、今日の読売新聞の夕刊で原惠一監督のインタビューを読んで、はっとなった。「作り手であるがゆえにかかる病気」というくだりがあり、「面白くするためにみんなで知恵を絞らなくてはならないはずなのに、他のスタッフを納得させるのはどうしたらいいか、という考えになってしまう。その結果どんどん角が削れて平板になる」と語っている。自分のことを言い当てられたようで、新聞の前で背筋が伸びた。打ち合わせの席でのわたしは、テーブルを囲んでいるプロデューサーや監督を納得させることに気を取られ過ぎていないか。まず社内を説き伏せ、得意先を説得してはじめて視聴者にメッセージを届けられるという広告会社時代の「丸く納め体質」がしみついていないだろうか。120度ずつ違う方向を向いて収拾がつかなくなっているスタッフの意見を交通整理して、皆が納得するアイデアを出して喜ばれて、自分もいいことした気になる。でも、バランスを取ることが、作品にとっていいこととは限らない。誰が何と言おうとわたしはこれをやるんだ、こうしたいんだ、と突っぱねるものを持っていないと、作品は熱や勢いを失ってしまう。鬼から角が取れたら、ただの人間だ。「一人の頭のおかしいやつが突っ走って作った作品が持つ、一種の”いびつさ”」が映画の本当の魅力なんじゃないか、と語る原監督。まさにそうだと思う。

インタビューを読みながら、2002年の宮崎映画祭でお会いしたときの監督の印象を思い出していた。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』をひっさげて参加されていた監督は、『パコダテ人』で映画脚本デビューしたばかりのわたしの話に、じつに楽しそうに興味を持って耳を傾けてくれた。余計な気負いを感じさせず、ただ作品を作るのが好きだというまっすぐな気持ちが響いてきた。自分の作品をしっかり愛し、人の作品にも敬意を払える、「らしく、ぶらず」の監督だった。バランスのいい人が意見のバランスを取ることより自分の意志を貫いた場合、それは暴走とは受け取られないのかもしれない。そうして生まれた作品には、でこぼこやごつごつが均さずに残され、観た人の心にも引っかかりを残す気がする。そんなにおいが感じられる原惠一監督最新作の『河童とクゥの夏休み』を観なくては。

2002年08月01日(木)  日傘

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