2007年04月18日(水)  マタニティオレンジ107 子どもの世界の中心でいられる時間 

ここ数日の大きな変化。保育園に通い出した娘のたまが、人の顔をじーっと見て、知っている人と知らない人を区別するようになった。毎日会う保育士さんには「知ってる知ってる」という顔をし、初めての保育士さんには「知らない」という目を向ける。そろそろ人見知りが始まったのかもしれない。そして、わたしのことも、はっきりと認識し、他の人たちと差別化している。保育園へ迎えに行っても知らんぷりでおもちゃに夢中になっていたのが、わたしの姿を見つけると、ぱっと目を輝かせるようになった。まだ言葉を話せない子どもが、瞳を見開き、両手を広げ、「ママ!」とまっすぐに訴えてくる。この子に母親として認められつつあるんだ、とうれしさと誇らしさがこみあげる。一日中離れていても、ちゃんと覚えていて、とびきりの笑顔を見せてくれる。なんてけなげな、愛しいヤツ。「やっぱりママがいちばんなのねえ」と言いながら、保育士さんが引き渡してくれる。

思い出したのは、数週間前に読んだ新聞記事。4才と1才になる幼い兄弟を置き去りにして、交際相手の家へ向かった女性がいた。1才の弟は餓死してしまったけれど、4才の兄は生ゴミや冷蔵庫の調味料で飢えをしのいで生き延びた。そして、ひと月ぶりに姿を見せた女性に飛びつき、抱きついたのだという。このくだりを読んで、わたしは「えっ」と不意打ちを食らった。同じシチュエーションを脚本に描いた場合、「ぐったりと弱りきって動けない男の子」や「心を閉ざし、母親に背を向ける男の子」を思い浮かべただろうが、「抱きつく」は思いつかない。死んだ弟と二人きりの閉ざされた家の中で命をつないでいた兄は、そんな状況にあっても、なのか、そんな状況だからこそ、なのか、母親を待ち続けていた。母親にとっては子どもが世界のすべてではないけれど、幼い子どもにとっては母親が世界なのだ。置き去りにした女性は、それが重かったり煩わしかったりしたのかもしれない。彼女が家に戻ったのは、子どもが心配になったからではなく、荷物を取りに帰るといった個人的な理由だった。とっくに死んでいると思っていた息子が生きていたことに、彼女は驚いたそうだ。記事にはそこまでしか記されていなかったけれど、抱きついた子どものあたたかみと重みを受け止めた彼女の中で、眠っていた「母親」が目を覚ましたかどうか、気になっている。

間もなく8か月になるたまは、これから言葉を獲得し、歩くようになる。「ママ、ママ」とつきまとい、追い回すようになる。だっこさえしていればごきげんな今とは違い、「やだ、やだ」とだだをこねたり、あれしたいこれしたいと主張したり、やっかいな生き物になっていく。そうなったとき、わたしにも、娘を煩く思うことがあるかもしれない。娘が生きている小さな世界に占める母親の大きさを忘れないようにしたい。子どもの世界が広がるにつれ、お母さんの存在感はどんどん小さくなっていく。全身で、全力で頼られるのは、とても短い時間のことなのだと思う。

2005年04月18日(月)  日比谷界隈お散歩コース

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