2004年01月06日(火)  引っ越したお隣さんと舞い込んだ鳥

■お隣さんが引っ越して行ったらしい。わたしより20センチぐらい背の高いお姉さんが住んでいた。会って言葉を交わしたことは数回しかなかったけれど、そのうち一回は強烈な出来事だったので、忘れようがない。■3年前のこと、朝、植木に水をやろうとベランダに出たら、鳥が死んでいた。すずめのようなかわいいものじゃなくて、頭から尻尾まで40センチぐらいあった。あたふたと出張先のダンナの携帯に助けを求めると、「なんでそういうことになるんだ?」と間の悪さを責められた。鳥が死んだのはわたしのせいではないと思うけれど、こういう目に遭うのは、間が抜けている証拠かもしれない。大阪の母に電話すると、ゲタゲタ笑うばかりで話にならない。そんなに娘の悲劇がおかしいか、と東京の義母を電話でつかまえると、「あらまあ、かわいそうにねえ。死んじゃったのねえ」と嫁よりも鳥に同情を寄せる有様。よし、もうこうなったら頼れるのは自分しかいない、と再びベランダへ向かったものの、かがんで鳥を間近に見ると、足がすくんでしまった。頭から流した血が固まっていて、どうやら窓ガラスに激突した模様。ガラスが見えなかったのか、曲がり損ねたのか。鳥の死骸は消せない事実としてそこにあった。何とかしなくてはと思いつつも、手を出す勇気が出ない。■そのとき頭にひらめいたのは、「困ったときは、お隣さん」。わたしが子どもの頃は、隣近所が何かと助け合っていた。引越のときに挨拶したきりのお隣さんをピンポーンと訪ね、「すいません。びっくりしないでくださいね。ベランダで鳥が死んでいたんです。で、わたし、こういうの苦手でして。できたら、わたしが鳥の死体を片付けるのを横で見守っていてもらえませんか」と訴えた。お隣さんは不思議そうな顔をしつつも、わたしについてきてくれた。「よかったら、やりましょうか」とまで言ってくれたが、さすがにそこまで甘えるわけにいかず、「いえ、がんばります」。誰かが見てくれるということが、こんなにも怖さや苦手意識を忘れさせてくれるというのは驚きだった。バーベキューの炭バサミに靴下を履かせて鳥をつかみあげる作業の間、余計なことは言わず、見守る人に徹していたお隣さんは、菓子箱の棺に納められた鳥に「南無ー」と手を合わせた。■鳥の話には後日談があり、管理人さんに「どうしましょう」と相談すると、「区役所に聞いてみましょう」と菓子箱の棺を預かってくれた。数日後、「犬や猫は埋葬サービスがあるらしいんだけど、鳥はなくてね。うちの庭に埋めておきました」と言ってくれた。ゴミと一緒に捨てるのは気の毒だしね、という言葉がうれしかった。マンション暮らしにもほのぼのとした交流はある。つぎはどんなお隣さんが来るのだろうか。

2002年01月06日(日)  非戦

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