2003年09月21日(日)  花巻く宮澤賢治の故郷 その2

7時起床。わたしには奇跡的な早さだが、「8時半出勤」で鍛えている恵子は朝風呂を浴びる余裕。一晩中聞こえていた水の音は雨ではなく川のせせらぎだった。今日は宮澤賢治の命日。賢治と宮澤家のお墓参りに向かうと、京都から修学旅行の中学生が来ていた。引率の先生によると、4つあるコースのひとつが「宮澤賢治の足跡を訪ねるコース」なのだそう。

義父は賢治関係の行事に出席のため、盛岡のIさんが車で案内してくれることに。Iさんも賢治研究会の方なのだが、「せっかくのお客さんだもの、賢治さんのゆかりの地を見せてやらにゃあ」と張りきって案内役を務めてくださった。宮澤家の皆さんをはじめ、地元の人たちは「賢治さん」と親しみを込めて呼ぶ。それが何ともあったかくて好ましいので、わたしも真似させていただくとしよう。

わたしと恵子のリクエストで、小岩井農場をめざす。花巻の中にあると勝手に思っていたが、実際は盛岡よりもさらに北上した場所に位置していた。だが、小岩井農場もまた賢治さんとゆかりの深い場所。『花と修羅』に収められた長編詩『小岩井農場』のほか、『遠足引率』という随筆などにも登場している。しかも花巻から百キロの距離を歩いたという。歩くのが好きな人だったらしい。

警察官を定年まで務め上げたIさんは安全運転、地理にも明るい。さらに歴史にも明るい。賢治さんに関することはもちろん山の名前やその山にまつわる昔話まで、観光ガイドと辞書を内蔵しているかのように何でも知っていて、その説明が上手でユーモアたっぷり。「今わからなくても、十年後に思い出してくれたらいいから」とおっしゃるが、すいすい頭に入ってしまう。
現在の小岩井農場は羊とふれあえる牧場や子供用のアスレチック公園などがあり、遊園地化されているが、まずは「賢治さんが訪ねた頃の小岩井農場から見にゃあ」。賢治さんが「気取った本部の建物」と表現した洋風建築。盛り上げた土で作った天然冷蔵庫、ベルトコンベアーならぬ落下式流れ作業で作物を4階から下の階に落としながら出荷商品に仕上げていく倉庫、洋式のサイロや農耕器具。農場の歩みや賢治との交流を紹介する資料館もあるが、訪問客はまばら。「本当の農場はこっちなんだけど、あんまり知られてないのさ」とIさん。Iさんが建立に関わった碑には『小岩井農場』の一節が刻まれていた。

牛乳工場を見学し、ソフトクリームを食べる。あまりの寒さに、湯気の立つものが欲しかったが、ホットドリンクはないとのこと。「ホットワッフル&ソフト」を選ぶ。遊園地のほうの農場『まきば園』へ移動すると、駐車場はほぼ満車、レストランには長い列。ジンギスカンとだんご汁の昼食。あったかさがうれしい。
羊園の小屋では、先週生まれたばかりの小羊がアイドル状態。「こっち向いてー!」とあちこちからカメラが向けられる。外の牧草地にはのどかに草を食む羊たちの姿が。小学生のモップがけのように横一列に並んでムシャムシャ。

農場近くに広がる湿原、春子谷地(はるこやち)にも賢治さんの碑が。後ろには岩手山の素晴らしい眺め。もっと作品を並べて芸術村にする予定だったのが、開発していた会社が立ち行かなくなり、計画が暗礁に乗り上げてしまったらしい。建てたまま使われていない黄色い壁の洋館が見えた。カフェやイタリアンレストランが似合いそうな建物だが、ここまで客を呼び寄せるのはひと苦労だろう。
花巻に戻り、宮澤家に着くと、大勢のお客さんが集まってきた。賢治さんを慕い、命日に宮澤家を訪ねる人たちのために、今は亡き母・イチさんが精進料理を出していた。その心遣いが戦後の今に受け継がれている。「賢治さんのおふくろの味」を守るのは戦前から宮澤家で給仕を手伝っていた女性たち。今も命日に集まり、腕をふるう。

ほどよい甘さのおふかし(赤飯)、生姜が効いた豆腐のおすまし、舞茸と里芋のクルミあんかけ、牛蒡のクルミあえ、野菜の天麩羅、酢の物、お漬物。どれも上品な味つけ。微妙で絶妙なさじ加減は、レシピがあれば再現できるという甘いものではなく、守り伝え、続けていく苦労は並大抵ではないだろう。こんな貴重な献立を、義父にくっついてきたわたしにもふるまっていただけるのはありがたい。

年に一度、この日だけ活躍する器の中には、空襲で焼けずに残ったものもあり、「こちらの器は箱に『喜』と書いてあったので、喜助さん(賢治さんの祖父)のものだと思います」という話も聞けた。
今宵は賢治祭。会場の銀ドロ公園に到着すると、『雨ニモ負ケズ』の詩碑前広場は、子どもからお年寄りまで何百人もの熱気に包まれていた。ここで問題発生。昨日、「賢治祭でスピーチを」と軽くお願いされ、軽く引き受けた。「他にもいろんな人がお話ししますから」ということだったが、プログラムを見ると、そのいろんな人というのは花巻市長や宮澤賢治記念会理事長だったりで、わたしの出番となっている「参加者の中から」のコーナーで話すのは、わたしともう一人だけ。しかもタイトルは「宮澤賢治と私」となっている。

「雅子ちゃん、まずくない?」と恵子が心配してくれる。「そうだよね。語れる立場じゃないよね」と義父に相談すると、「初めて来た感想を率直に話せばいいよ」と言う。幸い、もう一人の方、旭川から来た女性が先にスピーチされ、「今年で12回目です」と熱い思いを披露されたので、「わたしは『初めて路線』で行こう」と腹をくくった。

脚本を書いていることを明かし、賢治さんの作品は教科書程度しか知らないが、脚本や映画の関係者にファンが多いので気になっていたというところから話しはじめた。インスピレーションが沸くことを書き手たちは「降ってきた、降りてきた」と言うが、昨日から賢治さんの足跡をたどっていると、次々と降ってきて、つかまえるのに忙しい。この手につかまえたものは、花巻にちなんで、花の種のようなものではないだろうか。賢治さんが亡くなって70年経つと聞くが、彼の蒔いた種は今でも不思議で面白くて、育ててみたくなる。だから彼の世界に影響を受けた作品が、今でも生まれているのだろう。わたしもせっかく種を見つけたことだし、新しい花を咲かせたい、と話した。

最後に、「今夜ここで披露される歌や舞いやお芝居や朗読も賢治さんの種から生まれた花だと思うし、その花は、この空のどこかにいる賢治さんにも見えているはず」と賢治祭の成功を祈った。

「花の種」のたとえは突然思いついたものだが、スピーチの後の演目が『種山ヶ原』のハンドベル演奏だったのを見て、種でよかったのだと思った。ほほえましい子どもたちの劇、なごやかなママさんコーラス、勇ましい鹿踊り、それぞれに見応えがあった。

進行役の女性も印象に残った。自分の言葉で美しい日本語を話されていて、あたたかく、やわらかく、賢治祭にふさわしい名司会だった。とくに「『ポランの広場』とはどこのことか」を推理するくだり。ポランの語源には諸説あるが、ポランから変化したポラーノという言葉はロシア語で「火」を意味するらしく、「かがり火を焚いているこの広場がポランの広場かもしれませんね」と言われたときは、本当にそんな気がした。この方に限らず花巻の人は言葉遣いがきれいで、「XXがありますでしょう」という丁寧な言い回しが自然に出てくる。

宮澤賢治作品は東京でいくらでも手に入るけれど、その土地に足を運ばないと見えないもの、感じないものがあるように思う。花巻には至るところに賢治さんの蒔いた種が降っている。不思議で、面白くて、興味深い、はてな(WONDER)の種。はてながいっぱいでWONDERFUL。その種は、「なんだろう」と手に取ってみて初めて、花の種になるのかもしれない。

てはてはてなの種 
に取ってみれば 
にが育つやら花の種

2002年09月21日(土)  アタックナンバーハーフ

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