2002年12月11日(水)  Make a Wish

会社の100周年事業として各国(外資系なので世界のあちこちに会社がある)で何か社会の役に立つことをやろうという話になり、日本ではメイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンのPR活動を支援することになった。メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンは、アメリカで生まれ、世界32か国で10万人以上の難病の子どもたちの夢をかなえてきた非営利ボランティア団体、Make a Wishの日本支部。その事務局長の大野さんを迎えた説明会に、今日出席した。これまでも存在はなんとなく知っていたものの、実際に活動されている人の言葉は力強く、心を打った。「夢を見る力は、生きる力。長い闘病生活で夢を見ることさえ忘れている子どもたちに、もう一度夢を見てもらい、その夢をかなえることで、生きる力を励ましたい」と日々奔走されているが、その活動は病気の進行という「時間の壁」と限られた予算という「お金の壁」との闘いでもあるようだ。「活動は三輪車のようなもの。夢をかなえる前輪、資金調達と広報という二つの後輪。この三つの車輪がかみあわないとうまく進めない」と大野さん。難病と闘う子どもたちとその家族が、一人でも多く、一日でも早くメイク・ア・ウィッシュに出会うためにも、ひとつでも多くの夢を実現させるためにも、この団体を広く知ってもらい、理解と共感を呼びかけることが大事、と訴えられた。

しんと静まり返って説明に耳を傾ける社員の間から、鼻をすすり上げる音が聞こえてきた。夢を見るというあまりにピュアな行為の大切さに気づかされ、心が揺さぶられる。夢を実現した子どもの一人、呼吸器をつけている少年の映像が、自分の子ども時代を思い出させた。幼稚園の年少組まで、ぜんそくに悩まされていた。幸い、発作が止むと元気に走り回っていたし、空気のきれいな町に引っ越すと嘘のように治ってしまったので、さほど重い症状ではなかったのだろう。それでも、小さな体(今でも小さいけれど)に受け止めるには十分な重荷だった。風邪で咳き込むのは大人になった今でも苦しいけれど、当時はひとつ咳するたびに体が反り返った。息が苦しいのは生きるのが苦しいこと。時間とともに辛い記憶は薄れてしまったけれど、うまく呼吸ができなくて「このまま死んでしまうんじゃないか」と怖かったこと、祖母が背中をさすりながら「かわいそうになあ。代わってあげられたら、ええのになあ」と言ったことなどは覚えている。咳が止まらないときに思ったのは「早く楽になりたい」ということだった。その気持ちは生きたいというベクトルと逆のほうを向いている。発作が長引いていたら、ぜんそくが治らなかったら、今のように前向きな考え方をできていただろうか。呼吸器をつけた少年は、わたしが体験したのとは比べようもない試練と闘い続けている。そのような状態で夢や希望を持ち続けることは並大抵ではないだろうと想像する。同じ夢をかなえるにも、健康な体の子どもの何倍も大きなエネルギーが必要になるだろう。けれど、どんな子どもにも夢を見る権利があるし、それをかなえるチャンスがなくてはならない。そんな人として当たり前のことを当たり前にできる社会を目指して活動しているのが、メイク・ア・ウィッシュという団体なのだと理解した。

アメリカで暮らした一年間、「善意」はもっと身近なところでやりとりされていた。教会の存在も大きいのだろう。日本では、ややもすると、慈善は偽善と誤解され、ボランティアというと堅苦しさを感じてしまうことが多い。だけど、本当は「shareしたい」という気持ちを、できる範囲で示すだけのことなのかもしれない。わたしにも何かできることはないだろうかとメイク・ア・ウィッシュのサイトをのぞいてみると、使用済みテレカを集める、マイレージを寄付するなど個人でできる協力が見つかった。その中に「リンク協力」とある。まずはこのカフェを使って後輪のひとつを後押しすることから始めてみようと思っている。

2001年12月11日(火)  『ハッシュ!』 1本の傘 2本のスポイト

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