度々旅
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2003年03月23日(日) 感情の垂れ流し

 過去を思い出させられたここ最近。2週間程まえに、高校の友人からきた電話。浪人時代の友人の写真展。大学時代の友人がとまりにきた。旅先でで会った夫妻からの手紙。そして浪人の時の友人との食事。
 どの人も、今の私をつくってくれた人たち。私の中に、確実に編みこまれている人たち。私という人間を編んでくれた人たち。
 きっと、私は意識的にではないにせよ、それぞれの人たちに違う顔を見せていたことだろう。彼ら彼女らが知っている私は、同一人物だけれど少しずつ違うに違いない。それぞれの人と共有した時間を思い出しながら、少し今の自分との距離を感じる。その距離が、良いものか悪いものか私にはわからない。もしかしたら、とんでもなくひどい方向に行っているような気もする。まるで、過去の自分を他人を見るような目で見ている私。決して過去の自分を否定するわけではないけれど、そして、過去の自分と私が何が違うのかと言われれば困るけれど、何かとても距離を感じているのは事実だ。
 私は感受性が強いと言われていた。そんな私は、気づいたら自分の感情を出来るだけ殺すようになっていたように思う。感情的になるのは、感情をストレートに出すのは、裸になるようで恥ずかしいと思うようになっていた。嬉しい、ありがとう、という気持ちを表すのは別としての話だが。悲しいとか、悔しいとか、怒りといったものは、出来る限り押し殺していた。そのうちに、私は自分自身のそういう感情と距離をとるようになっていた。そして、そういう感情がどういうものかよくわからなくなっている。
 しかし、そうはいっても、はやり人間なのだから、悲しいなどの感情はどこかで感じているわけで、時々思いがけないところで、涙が出そうになってしまったりする。まるで、普段無視されていた感情が氾濫を起こすようなかんじだ。悲しいのだか、悔しいのだか、なんなのかわからないものが洪水のように湧き上がり、私はその感情をコントロールすることができず、ただただ恥ずかしいと思いながら涙と一緒に垂れ流す。
 「感情の垂れ流し」という言葉を私にくれた人は、もう自分では何なのかわからない感情を、いつでもそのまま飲み込んでくれて、消化してくれて、次の栄養を私に与えてくれた人だ。過去の出会いをたどりながら、以前にもまして、自分の感情を出さなくなっている自分に、本当はそんなものを完全にどこかへ置いてきてしまったのではないかと不安になってみたり、その置いてきた感情がいつかどこかでとんでもない氾濫になるのではないかと怖くなってみたり。けれど、もしかしたら、自分でも気づかない方法で、うまく垂れ流してコントロールできるようになっているのではないかと、少し期待してみたりするのだった。


こげんき |MAILBBS

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