度々旅
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民主党の代表選挙立候補者の街頭演説に出くわした。菅氏と横路氏の演説は終わっており、鳩山氏と、野田氏の演説のみ立ち止まって聞いてみた。鳩山氏は相変わらずなかんじ。野田氏には、勝手連が沢山ついているようで、聞いている側が適度に盛り上がっておりました。
ところで、この選挙。私達一般市民が投票するには1000円払ってサポーターになることによって可能になるとのこと。むぅ。党首=首相だったならば、払っても良いかもと思いつつも、1000円払ってまで投票して党首や首相なって欲しい人はいないのぉ〜と。
結局二人の演説しか聞けなかったが、それぞれの言い分もわかるし、政策も頷ける所が多々。しかし、その政策の先にある社会の未来というものが、やっぱり見えないなぁというのが本音。政策というものが、現状の修正や改善を目的としたものが多いことにいつも納得がいかない。現状を直すのではなくて、その先に築こうとしている社会に向かって政策を展開して欲しいものだなと。
官僚主体の政治であり、民主主義国家という名を掲げながらも社会主義国家であると言われるわが国であります。いつも思うのは、そういう中途半端さがいけないのだと。国民自身も悪いのでありますが、何かが起きると、国や企業に責任を求めますが、責任をとってくれる場があるということは、そこに対して、自分の選択権を少しばかり委ねることになる。
例えば、レストランで残り物を持ち帰りたいと言った場合、レストラン側は食中毒を恐れてそれを拒否することがある。でも、私は持って帰りたい。レストランがとめるのを無視して、私が残り物を持って帰り腹痛に見舞われたら、あ〜言うこと聞いておけばよかった。私って、バカねぇ。と思うことでしょう。反対に、レストランが持って帰ることを勧めも、とめもしなかった場合に、私が残り物を持って帰ってきて、腹痛になったならば。。。もしかしたら、こういう時の責任のありかは法律で決まっているのかもしれませんが、私自身の見解では、こういう場合も持って帰ってきてしまった自分の判断ミスということで、自分に責任があるなと感じます。私自身が、選択する自由を行使して、自分の判断で行った行為なのですから。でも、人によってはレストランが持って帰ってはいけないという表示をしていなかったとレストランに責任を求める場合もあるでしょう。
どこまで相手に責任をとって欲しいのか。国民側が、どこまで自己選択権を持っていたいのか、それを明確にすることが非常に重要だなと思うのであります。公務員の給料や人数が多いから、賃金カット、人員削減しろとかではなくて、どこまで必要か国民は考えるべきであり、そのためにはどれだけの予算が必要であるかを国がはっきりさせ、互いに納得していかなければならない。国民全ての願望を満たし、平和かつ公平、皆豊かなどということは無理なのですから、して欲しい所と、我慢することを国民自身がもっと考えて、国の方向を考えていかなければ、いつまでたっても、目の前の問題をえっちらおっちらと直して、うねうねぐるぐると回っている、前が見えぬ国になってしまうなと思う。
どこまで必要か。どこまで、自分で選択したいか。どこまで守って欲しいか。守って欲しいし、与えて欲しいし、選択もしたいというのは、無理なのですから。
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