ハラグロ日誌
書人*ちる

   

  




反・ムーブメント考
2004年07月10日(土)
最近「勝ち組の論理」とか「負け犬」のナントカとか、そういう書名の本がやたらと多い。それは実際、世の中のムーブメントなのだと思う。
私には、本意はどうあれ(本気でも、冗談でも、謙遜でも、卑下でも)、「負け組」とか「勝ち組」とか自分や他人の人生を勝ち負けに喩える事が下品に思えてならない。
人は誰でも(どんな静かな人生を送りたいと願っている人でも)、自分の人生の英雄であり、日々のルーティンをこなしたり、時にスペシャルな事を楽しんだり、浮きつ沈みつそのささやかな英雄譚を綴り続けている。恋人がいるとかいないとか、結婚してるとかしてないとか、仕事があるとかないとか、子供がいるとかいないとか、どの順列組み合わせを選んだ人生であっても、自分は自分の物語にとって英雄なのだから、その人生を愛してあげられない人生は、淋しい。
相対評価や競争の原理は人間の歴史の向上にとって、必要不可欠なものだと思うし、個人にとっても時には起爆剤になるけれども、それを個人がふりかざし「自分は勝ち残る」とか「人より優れている」と声高に口にした時点で、その人の人間性の底が見えてしまうというものだ。人はいくらでも、したたかになれるし、野望も持てる。でも、それを他人に誇示したがる事は本当に品がないとしか言いようがない。本当に手に入れたい事やものは人には言うべきではないし、静かに1人で戦う覚悟がないのなら、それを望む資格がない。
「自分は負け組だ」と宣言する事は、その逆に見えて、実はそうではない。負けた!と宣言している人が「勝ち」とする人たちの人生を選び直せたとして、果たしてどのくらいの人がそちらへ進むのか、甚だ疑問だ。自分の人生が誰に比べて勝敗が決まるというのか、それとも自分との勝負の勝敗なのか、どちらにせよ、そんなものは自分の心の中だけで満足や悔恨に浸っていればいい事じゃないんだろうか?他人の人生をよく知りもしないで羨んだり、自分と比べて満足してみたりする事自体、思い上がりだし、自惚れ以外の何ものでもない。
人はもっと慎みを知り、自分を知る訓練を怠ってはいけない。何になりたい、どうしたい、という事を見失おうとも、こうありたいと思う事を忘れずに慎ましく生きていきたい。









設計*しゑ(繊細恋愛詩)
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