un capodoglio d'avorio
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2003年12月26日(金) 野島伸司「ウサニ」2

(続き)


コーゾーが幼い頃に、母親から聞かされたという小話。


  人の胸の中には透明な鉢があるのよ
  それを心と呼ぶのよ
  生まれた時、赤チャンの心にはきれいな水がいっぱい入っているの
  そのずっと底の方にね、小さなお魚が泳いでいるの
  だけど、その人が嘘をついたり、他人をねたんだり、悪口を言うと、
  どんどん心の水は濁ってしまうのね
  そうして最後は小さなお魚は苦しくて死んでしまうの

  (野島伸司「ウサニ」より)


そのコーゾーは、レーコさんを殺したのは嫉妬に狂ったウサニだと思い、
ウサニを学校の焼却炉に放り込んでしまう。
しかし実の犯人はレーコさんのもうひとりの愛人、コーゾーの父親だった。
ウサニを救いに走るコーゾーだったが、煙突から上る煙を見て悟る。
自分にとってウサニがどれほど大切な存在であったかと。
セックス無しでも生活を共にし、お互いへのいたわりを交感していたこと。
ウサニがいることで、どれほど無防備に休むことができたかということ。
しかし「ウサニも、子魚も、もう生き返らない」ことに絶望するコーゾー。

目に見える「愛着」と、目に見えない「愛」の違い。
たとえ「愛着」としてのドキドキでも、それがキープ出来る方法。
それは相手と距離をとって、いつまでも相手のことが理解できない状況を、
できるだけ長く続けること、相手への渇望を、引き延ばし続けること。
確かにその方法でなら、ドキドキはかなり長く、
それこそ4年という時間を超えても、キープは出来そう。
けれども、それではあまりにも空しい。
お互いに惹かれていても、お互いを理解し合うことはない。

・・・でも、何か寂しい。
レーコさんとウサニの両方を失って、
どちらが、彼にとって大切であったのかを知ったコーゾーは、
「愛着」に執着するニヒリズムにはもはやとらわれない。
曲折を経てコーゾーと野島伸司が見つけ出した「愛」へ至る手がかりとは、
実は、4年という歳月を超えた果てにたどり着く「倦怠」だった。
「倦怠」という言葉を、ネガティブな響きのくびきから、
解き放たなければならないと説く。

ドキドキから派生する相手へ夢中になる気持ち、
嫉妬、執着、束縛したいという気持ち、
それらはすべてある種の緊張状態に他ならない。
そのとき自分では感づいていなくても、
身体はどんどん消耗し疲弊していってしまう。
やがて、穏やかな時の中で相手を理解しあえるようになり、
「安心感」が生まれる、これが罠だった。
「安心感」とは当初相手に認めていた価値の減価償却の進行であり、
遺伝戦略的に見ても4年間という時間で相手への興味は薄れていく。
相手は自分に飽き、自分は相手に飽きる。
それを「倦怠期」であると疎んではならない。
それを理解し合い、安心感のある、
本当の「愛」の始まりと認識すべきだ・・・。

うーん、野島さんぽーい・・・。
動物の本能ではなく人間の叡智への信頼、祈願。
こういう風に短く要約してしまうと、
でも、とたんに難しくなるなあ、分からなくなる。
第一、説教臭いし。
どかもこのことを、ただ上記の風に説得されても納得はいかない。
「なーに、ゆってんだか」って聞き流すと思う。
そもそもかつて「ドキドキ至上主義」を標榜してたどかだしね
(恥ずかしいな・・・でもいまさら、隠しはしない)。

でもね、違うんだなー。
この小説のクライマックスであり、ハイライトのシーン、
コーゾーとウサニが再会するシーンのすさまじさを踏まえられると、
上記の内容が、すんなり、入ってくるんだな、これが。
どか、バスの中で、またも嗚咽してたもんな、苦しくて。
野島伸司は、小説家ではなくあくまで本職はドラマの脚本家、
だから小説としてはやっぱり技法的にイマイチな部分も目につくけど、
重要な場面を、映像として立ち上げる手腕は圧倒的だ。
この再会のシーン、どかの目にはそのままビジュアルイメージが再生されて、
そのすさまじさえぐさすばらしさに圧倒された。
圧倒されてしまうと、自分でもびっくりするほど、
胸に彼のメッセージが沁み渡っていくのが分かる。

そう言えば彼は、絵本「コオロギくんの恋」でも言ってた。


  せいじつな せいじつな愛情とは
  とても たいくつなものなんだ

  (のじましんじ「コオロギくんの恋」より)


あれを初めて読んだときは「いいなー」とは思ったけど、
いまいちピンとこない部分もあった、
アタマではわかるけど、うーん、実感としてどうだろう、って。
でも、いまなら、グッとくる。
以前とは違うレベルで、分かる気が、する。

どかは「ウサニ」より「スワンレイク」の方が好みだ。
あの思弁的なヒンヤリした特異なスタイル、凛々しい文体は、
読んでいてかなり鮮烈な印象だったし、
野島伸司の他を圧倒する虚無感に触れられるのが良かった。
「ウサニ」はやっぱり、ちょっと、説教臭い。
しかも、文中、宗教よりも哲学の優位性を説くわりに、
読後感はかなり宗教的な印象が強くなる。
もちろん、それを全て昇華しうるくらいの物語だからOKだけれど、
確かに「スワンレイク」はかなり難解であり、
「ウサニ」はストレートなわかりやすさがあった。
わかりやすく、しかも自分のメッセージを薄めないという二律背反を、
見事に覆したのが、小説第2弾だったのだと、どかは思う。

後は蛇足。

来年1月から、フジで野島脚本「プライド」が始まる。
しかも、時間は月9、主演木村拓哉、主題歌 QUEENという、
ドラマ最高視聴率を厳命されたも同然の作品である。
どかは、あまり、期待しない(見るけど)。
多分、視聴率はとると思う。
野島サンがその手腕を「視聴率」に向けたら依然無敵だと思うし。
でもな・・・、野島サン自身、微妙だろうな。
きっと藤木直人・上戸彩の「高校教師」が低視聴率に終わったことで、
ある種、ドラマに(ドラマをみる視聴者に)見切りをつけてる気がする。
だから、彼は自らの本気のメッセージは「小説」に残して、
余技でドラマはやっていこう・・・。
いくらなんでもそこまで、やさぐれてはいないだろうけれど、
そんな節が、少し、見える・・・悲しいな。

悲しいよ。


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