un capodoglio d'avorio
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2003年11月22日(土) つかこうへいダブルス2003「幕末純情伝」<楽日前>

(1999年「新・幕末純情伝」レビュー参照のこと)

2003年晩秋、つかこうへいはスターの登場を待ちくたびれたつかフリークへの贈り物として、度肝を抜く企画をぶち上げた。4年ぶりの「幕末純情伝」、9年ぶりの「飛龍伝」という自ら封印し続けた幻の代表作を、筧利夫と広末涼子のコンビで、一ヶ月半、続けて公演をうつというのだ。とくにつか自身の演出による「飛龍伝」再演は、超弩級のスクープだった。きょうは「幕末」楽日前。どかは新感線品川駅から青山まですっとんで来た。息を整えている間に、開演のブザーが鳴る。

この脚本は1999年の「新・幕末純情伝」再々演バージョンと全く、本当に全く同じモノだった(99年レビュー参照)。演出はフジテレビの杉田成道。あの「北の国から」などを撮ったベテランディレクター。99年のときの演出家・岡村俊一は、はっきり言って舞台の邪魔しかしてなかったけれど、杉田サンは本当に無味無臭で透明。「何か仕事、したのかしら」と穿ってしまうほど、恣意的な演出のあとが見えない。「ああ、利口だなあ」とどかは思う。ヘタに演出つけたって、本家つか演出には勝てっこないし、だったらつかが書いた言葉を、つかが愛でた役者にそのまま「丸投げ」してしまって、自分はおとなしくしていよう。そう、考えたのだろう。うん、でもそれが正解だよ、唯一のね。実際は自らを「無味無臭透明」にすることは演出プラン的にむしろ極めて難易度の高い業なのだろうけれど、いろいろマニア間では意見は分かれるにせよ、どかはこの演出には好感を持った。演出がしゃしゃり出なければ、本と役者の良さが、そのまま残る!

さてその透過度の高い演出に妨げられることなく、役者は自らのリアリティを思う存分、板の上でぶつけ合うことができるわけである。役者同士の力関係が一目瞭然になってしまう、ある意味最も残酷なバトルフィールドとも言えるのだろう。戯曲が全く同じなので、1999年「新・幕末純情伝」の役者とも比較しながら、個々のキャストについての感想を書いてみる。最初に断っておくと、おそらく舞台としてはこのあとの「飛龍伝」の出来が「幕末」を凌駕するのは間違いない。でも、キャストは圧倒的に「幕末」のほうが華があふれている。キャストの華だけで、どこまで日本一の演出家・つかこうへいに対抗できるのか。どかの興味は最初その一点に収斂されていった。


勝海舟:春田純一('03) ≧ 春田純一('99)

つか芝居の重鎮・春田サマは、続投組。筧利夫が去り、山本亨が去り、山崎銀之丞が去ってもなお、ただひとり、98年〜02年のつか芝居のほとんど全てに出演して、つかこうへいの台詞の「強度」を孤塁となって守り続けた偉丈夫。このヒトがいなかったら、つかは途方に暮れていただろう。つか芝居は絶滅していたかも知れない。そう思わせるほどに、強く凛々しい横顔。無機質な砂嵐にもまれながらもこのヒトが最後まで倒れなかったからこそ、筧は帰る場所があったのだ。筧のスピードに対して春田は台詞に質量を添えていく。質量とは情の重さである。軽やかに空駆ける華ではなく、地にしばられもだえうつ情念の凄みである。春田サマはこれまで、筧や銀之丞がいない間はずっと自身で「空駆ける華」を背負わざるを得なかった。でも筧が帰ってきて、このヒトは自らがもっとも輝けるポジションへと再び返り咲く。「コンプレックスにまみれた負の恫喝」をやらせて、このヒトの右に出る者はいない。ちなみに春田サマは89年の初演、98年の再演でも勝海舟を演じている。桂木順一郎と並ぶ、最高の当たり役である。99年再々演時よりも今年はさらに重厚さを増し、それがかたくなに硬直しすぎない柔軟さも加えることでスケールアップした。


  勝 :岩倉、大政奉還受けてもらうぞ
     あの刀を持つ者が、あの男を斬るなら、帝の不足は無かろうが

  岩倉:お前、そこまでして・・・

  勝 :この世で一番恐ろしいものは、狂った女と、男の嫉妬にございます!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


岩倉具視:武田義晴('03) ≫ デビット伊東('99)

これはもう勝負づけ以前の問題だけど。武田サンは北区つかこうへい劇団のベテラン劇団員(卒業してないのかな?)。どかは武田サンのことを、最近の北区では岩崎サン・岳男サンと並んで突き抜けた役者サンだと思ってる。北区では随一の芸の幅を誇り、その芸の裾野の広さがそのまま頂のテンションの高さに直結している、すぐれてバランスの取れた役者。今回はそのテンションの高さを最大限に発揮して、つか版変態岩倉具視に挑戦。赤フン姿の半裸で登場し鞭を片手にわめく姿に、周りはみな笑ってたけどどかは泣きそうだった。感動しちゃって。テンションの高さと突き抜け方で言えば、筧・龍馬と張るくらいだ。そして岩倉の変態度が増すほどに、後半の勝海舟のエグさが際だつ構成であるから、この武田ー春田ラインは大成功だったと言えるだろう。とにかく、あのハスキーボイス!裏声なのに、太く重く、ドスが効いて、かつ台詞を言うときに身体の軸がぶれないから、無意識に人はそこに頼れる定点を見いだし、物語へと感情移入していける。変態でも、頼りになるのだ。どかはこの公演の敢闘賞をひとり選ぶとしたらこのヒトを選ぶよ。もう、スター級のリアリティ。


  岩倉:立場だと・・・こらっ!のぼせあがるな!
     だったら京都の立場はどうなんだよ
     公家には歌と踊りをやらしとけ、
     政に口出そうもんなら打ち首か島流しだ、
     そう言ってオレらを三百年もほったらかしにしてたのはてめえらだろうが!
     今更徳川が困ったから帝に大政をお返ししたいじゃ、
     話が通らねえんだよ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


桂小五郎:鈴木ユウジ('03) ≦ 木下浩之('99)

敢闘賞次点が、きっと鈴木サンだな。すごいなー、北区卒業してから、どんどん上手くなってるもんな。あんな愛嬌の「引き出し」、北区のエースの頃は持ってなかったもん。かつ暗い狂気もガンガン引っ張ってこられるんだから・・・。桂はこの戯曲中、もっともプラスとマイナス、軽さと重さの振れ幅が大きいキャラクター。それを全く問題なくそつなくこなして、びっくり。でも・・・、まだ木下サンの域には達していないことも事実。あと少しだと思うけれど、軽い愛嬌の最後のほんの数センチと、暗い狂気の最後のほんの数ミリ、届いていない気がする。でもきっと、あと数年したら鈴木サンはもっとスケールアップして、この最後の熾烈な数センチと数ミリを埋めてしまうのだろう。サイドチェンジ(サッカーみたいだけど)の素早さは天下一品で、鈴木・桂が舞台センターに来るだけで青山劇場が明るくなったんだもん。北区の若手で、そんな芸当できるヒトは、誰もいません(でももう一度、あの木下サンの下卑た微笑を観てみたいなあ、寒くなるような怖いやつ)。


  桂 :勝海舟みてえな、江戸の旗本三千石のボンボンに、
     はいつくばって米拾ってた俺の気持ちが分かってたまるか!
     鼠食って間引きされてった弟たちの気持ちが分かってたまるか!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


岡田以蔵:山本亨('03) ≫ 吉田智則('99)

筧復帰の大スクープの影に隠れてしまったけれど、98年の「熱海・モンテ」以来の山本亨の復活は、どかにとって筧のそれに勝るとも劣らない大きなニュース。というか、ほんっとうに、大好きで、筧や銀之丞と同じくらい、ずーっと好きだったから、以蔵が初めて出てくるシーンは、懐かしさの余りに少し泣いたほどのどか。亨サンが見せるコンプレックスとは春田サンのそれとは少し違い、もう少し土臭い泥にまみれた怨嗟の響き。海舟の台詞は自ら拠って立つプライドのために命がけで言うものであるり、対して以蔵のそれは、自らの卑しい出自をさらけ出してなお「恥」とは何をか問う台詞である。亨サンが自らのコンプレックスを露呈するとき、目がくらむような千尋の崖を見下ろしたかのような漆黒の闇が舞台から客席へと広がる。観客が、すくむような恐怖に耐えて目をこらすと、そのコンプレックスの真ん中にかすかだけど決して消えない明かりが見えてくる。亨サンの台詞術とはそのようなものだ。そして、何よりもあの、凄みに満ちた殺陣!春田・勝と、山本・以蔵の斬り合いは劇中、最も速く最も危険な斬り合いで目を見張ったよー、やばい、まじかっこいい!残念ながら、吉田クンには求めようもない深みがそこにはあったのだ。亨サンは'98モンテ以降、TPTに活動の場を移して静かで硬質な翻訳物のストレートプレイを主にレパートリーとしてきた。芸の幅を広げるためだろうか?どかはTPTの「蜘蛛女のキス(レビュー未収録)」の亨サンのモリーナの凄さを充分に認めた上で、でも言わせてもらう。亨サンは「Mr.つか芝居」を襲名できる役者であり、最も輝く舞台はあくまで、つか芝居なのだと。


  以蔵:聞こえるはずもない総司の声が聞きたくて、
     江戸に耳を傾けたこともあった
     総司の櫛が流れてくるんじゃないかと、
     川をさらったこともあった
     その希望の光をどうしたのかと聞いとんじゃ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


土方歳三:吉田智則('03) ≪≪ 山崎銀之丞('99)

今回の幕末、唯一しんどかったポストが土方歳三。この戯曲の土方に求められるのは、切なくなるほどの愛嬌である。女々しいコンプレックスの固まりで重度の愛されたい症候群でもある土方は、だからこそ、役者の愛嬌ある華で染め上げないと役どころ自体が成立しなくなってしまう。というか、銀之丞にあて書きされたキャラクターだもんなー、どう考えてもこれは。それを他のヒトがやるのがどだい、難しいのだ。吉田クン、どかは昔、吉田クン好きだったよ。「ロマンス(レビュー未収録)」の牛松役は、歴史に残る好演だった。「2代目はクリスチャン(レビュー未収録)」でもどかは吉田クン好きだった。しかし。どこまでいっても無くならない薄いオブラート、スターさんと普通のヒトとの間にある壁。それを痛切に感じさせて痛くなる。頑張れば頑張るほど、声が裏返れば裏返るほど、痛くなる。どかは2000年の内田有紀の「銀ちゃんが逝く(レビュー未収録)」の吉田クンが演じた銀ちゃんにはこれっぽっちも涙しなかった。あれでは泣けない。銀之丞の台詞まわしを必死になって頭で再生しながら観てたもんな、どかは。だって、どこまでいっても彼の汗では「オブラート」は破れなかったから。あと数ミリの狂気が足りない。あと数ミクロンの愛嬌が足りない。例え数ミリでも数ミクロンでも、不足は不足なんだもん。その不足を意識させてしまうのはきっと、かつて銀ちゃんを演じ、土方歳三を演じた正真正銘のスターさん:山崎銀之丞を意識的にか無意識にか、そのままトレースしてコピろうとしているからだと思う。じゃあ、吉田クンは吉田クンの銀ちゃんや土方を演じればいいのか?どかはそこまで楽天的にそれを肯定できない。やっぱりセンターで華のある重要な役を張るのはスターさんにのみ許された特権だと思うから。・・・だって、土方歳三は、坂本龍馬を恋敵にまわして、沖田総司を奪い合う役なんだよ?筧・坂本の圧倒的な華に対して、土方はそれに負けないほどの圧倒的な分量の情をぶつけなくちゃいけない役なんだよ?つか芝居に特有の痛いほどお互いを傷つけあうシーンの本質は冷酷な力関係の顕れであり、明白な勝ち負けがあとに残るということである。吉田・土方は、筧・坂本に、全く歯が立たなかった。せりふ回しは銀之丞のそれの表層的なコピーにしか聞こえなかった。でも吉田クンの責任では無いのかも知れない。彼をキャスティングしたのは別の人間なのだから。


  総司:やっぱダメだね、百姓は
     そのひがみ根性、どうにかならんのか

  土方:じゃどうすりゃ俺とお前が幸せになれたんだ?
     百姓の俺と、お姫様のお前が、どうやったら幸せになれるんだよ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)



ふむ・・・、まあそんな感じ。楽日前のきょう、さすがに喉がくたびれてきているヒトも数名見受けられたけれど、おおむね、集中力も高いいい出来だったような気がした。1999年バージョンの印象なども思い起こされて、それを再び噛みしめつつ今回の舞台を頭で再生するどか。演劇が現代における祝祭として機能しうるのであれば、今回の舞台はまさに完璧に近い。生粋の舞台役者であるスターさんがここまで揃ってしのぎを削って己の命の輝きをほとばしらせたのだもの。どかは後半、泣き通しだった。一番感動したのは、でも、やっぱり、亨サンの以蔵と春田サンの勝とのすさまじいスピードと迫力の殺陣シーン、そのあとの以蔵の長台詞かな。懐かしくて懐かしくて、どかがかつて初めてえげつないまでの吸引力をつかこうへいに感じたあの瞬間をはっきりと思い出したことだったよ。


(続く:筧・広末については千秋楽レビューで書く)


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