un capodoglio d'avorio
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2003年05月24日(土) 学会@関西学院大学

「久しぶりに来たなあ」
と、感慨にふけるのを止められない。
だって、このまえに関学来たのって、入試の時やん。
つまり、阪神大震災の直後に来たんだよな。
あのときはまだ最寄り駅の甲東園まで阪急電車、走れなくて、
そんで手前の門戸厄神で降りて、延々歩いたんや、確か。
でその道すがらに「全壊」とか「半壊」という言葉の意味を知った。
黄色い給水車にバケツ持って並ぶ列の横を、
ポチポチ、丘を登ってこのキレイなキャンパスを目指したんさ。
んー、まさか8年後にこんなカタチで再び訪れることになるとわ。
国内屈指の美しいキャンパス、緑に白いチャペルが映えて、
会場になってたホールの壁も真新しい白で、でもそれは、
純粋無垢な昇華ではなく、逆。
震災のあとに立て替えられたその白のしたの、
グレーの記憶の、沈殿。

でボスに勧められて、この美術史の学会に参加することが、
今回の帰省の理由、目的因(最近アリストテレスかじったから)。

昼過ぎから参加。
「ターナーの風景画の地誌学的研究」の発表と、
この全国大会のメインイベントであるシンポジウムに出席。
テーマは、「美術と修復」。

いろいろ、思ったり考えたけど、
なんとなく、修復ってさあ、カウンセリングと似てるよね、臨床心理の。
傷んだ絵への対処ってさあ、傷んだヒトへの手当と何だか、
かぶったなあ、修復師サンとか美術史家サンの話聞いてたら。
やみくもに絵をキレイにすればいいってもんじゃなく、
昔の状態にむりやり戻せばいいってもんじゃなく、
そんなん、トラウマなんて消せるもんじゃないンだし、
それを消そうとして処置することは不可能じゃないけど、
でも、後々、ぜったい何かしらのひずみを生むし。
しかししかし、一方でその「トラウマ」も綺麗であれば放置しましょう。
っていうのも、なんだか妙な話になってくるし。

「あなたの、その傷ついて陰の差した横顔が好きだから、
 しばらく落ち込んでいてくださいね、お・ね・が・い」

なんて、ぬかすカウンセラーがいたらはったおすよな、まず
(でも絵画の場合、これと同じコンテクストの言説はまかりとおる)。
それはただ、回復のために現状見守るというのはありであったとしてもだ。
修復家やカウンセラーの主観がいたずらに入ってはいけない。
クライアントにとっての「ほんたうのしあわせ(by宮沢賢治)」を
希求しなくては成らない。
でも、じゃあ、ヒトや絵画の幸せって、何?



↑関西学院大学、正門から

時間は流れるのではなく、そこに静かに積もっていくことがある。
いや、本当は、流れているようにみえていても、
全部ちゃんと、そこにあるんだわ。
水面の下の群青のフィルターに隠れて、ちゃんとあるのに、
みんなそこにフィルターがあることに、気づかないふりをする。

最初から、何も失われていないし、
そしてもしかしたら、最初から何も、与えられていなかったのか。

きっとみんな、そう。

修復とカウンセリングについて、思いながら、
一方で、8年前にまさにこの場所で感じた余震のゆれが、
ふと、体感として脳幹をよぎった。


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