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2003年04月24日(木) NODA・MAP「オイル」1

どかは先日、夢の遊眠社時代の野田戯曲をまとめて読んだ。
感想は、若き日の野田のほうが、いまよりも才能に溢れていたという事実だ。
言葉を紡ぐスピード、イメージの連鎖、ものがたりのグルグルうずまき、
全てが渾然一体となり、開幕直後から一気呵成にクライマックスを目指す迫力。
それは最近の野田秀樹が既に失って久しいきらめきだ。

しかし鴻上尚史と違って、野田秀樹はただで才能は手放さなかった。
イメージの無限の広がりと破壊的な高揚感、沁み渡る情緒を失う代わりに、
野田秀樹は実直・朴訥なリアリティをとった。
かつてのスピードレースを諦めて、少し「普通の」演劇に近づいた。
「オイル」はそんなコンテクストの上に乗っかる最新バージョン。
でも、どかはかつての破滅的天才・野田秀樹じゃなくても、
いまの分別をわきまえた職人・野田秀樹もじゅうぶん、大好き。
いつになくダイレクトな言葉遊びは、もはやイデオロギーに濃厚にまみれ、
切れ味はあまりないけれど、その分重みや深みをいちいちに感じさせる。

ストーリーは、古代と終戦直後の二つの時代を行ったり来たり
(以下、ネタバレ注意)。
そこから投影されるのは現代社会の病巣のシルエット。
古代と現代の心理的距離と、終戦直後と現代の心理的距離が、
全く変わらないように見えるところにめくるめく野田寓話の粋が。
「人間って、ほんっとに、成長しないんねー」
って言葉遊びに笑いながらしんみりしんみり。

舞台は島根、出雲の国。
「いずも」と「いすらむ」をかけていくところから、
ものがたりは転がりはじめ、かつてここにマホメットがいたという仮説。
終戦後、占領軍将校のマッサーカーが島根を統治するためにくるが、
真の狙いは別の所にあり、この戦後の話と並行して、
古代の国譲りのものがたりが展開する。
天照大神配下の八百万の神々が、もともとそこにいた大国主命に対して、
国を明け渡すように強要、虐殺を繰りかえすというプロットが挿入。
大国主命の下にいた民衆は「時間」という概念を持たず、
それ故に天照大神軍の虐殺を記憶することもできず、
なされるがまま、へらへら笑ってなよなよしていた。
そこにたどり着く、異国の預言者・ムハンマドがそのへらへらしてる民に、
「時間」の概念を教え、「老いる」ことを教え、「復讐」を教える。
そして古代の民が「老い」て埋葬され炭化して熟成され「オイル」となって、
終戦後の島根に、再び吹き返す、それは「復讐の黒くうごめく炎」となった。
島根の人々はその油田の利権を守るために、進駐軍と戦うことを決意。
彼らのシンボルとなったのは霊感豊かで油田の位置を予言した、
電話交換師の娘・富士であり、彼女は「復讐を!」と人々をあおり、
二台の飛行機への給油を命じる、行き先は・・・「ニューヨーク」!

とまあ、こんな感じで最近の野田秀樹っぽく、物語の寓話度合いを落として、
現実的で観客がついて行きやすい実際的なイメージを真ん中にすえている。
しかし、決して直接的に「戦争反対!」と叫んでいるわけではない。
そこがやっぱり、ポイントなんだと思う。
どかは寓話度合いを落としていく野田秀樹って、残念だったりするけれど、
やっぱり「演劇という総合芸術でなければ表現できないこと」にこだわるのが
野田秀樹という演出家、イデオロギーはあくまで重層的に立ち上がる。

1つには日本人の刹那的・快楽主義的体質への痛烈な皮肉がここにある。
それは最近、小泉首相の言説にもっとも端緒に顕れる日本人的精神世界。
日本人はこらえ性がなく、目先の楽しみ、
例えば「アメリカンライフスタイル」をちらつかされるともうダメ的な。
普通、イラク戦争を考えると、やはり中東情勢を長い時間的スパンで
とらえることになって、そしたらサイクスピコ条約などを引き合いにだして、
イスラムの復讐の精神というのをひもとくのが「常套」。
でも野田秀樹はあえてそこを飛び越して「古事記」の古代まで飛び越える。
これが衰えているとはいえこのヒトの想像力の非凡なところ。
アジア各地でさんざんヒドいことをやってきているにもかかわらず、
そもそも「復讐」という概念に疎すぎる私たち日本人も、
その始まりにまでさかのぼってみれば自分たち自身に
インプットされているはずのアイデア、私たちも被侵略民なのさ。
ちょっと、そこんとこさ、考えてみようよ、
忘れっぱなしじゃやっぱ、まずいっしょ、と野田サンは問いかける。

そして、やっぱり野田サンステキとどかが最も思ったポイントは、
この「忘却」するという弱さと滑稽さをステージいっぱいに展開しつつ、
「復讐」するという強さの違和感を観客席に剛速球でぶつけてくることだ。
信じられないくらい、頭がよいよこの人、そして圧倒的な、バランス感覚。
およそ「二律背反する切なさ」を表現するのに、演劇以上の表現手段は、
無い・・・と、どかは思う。
もすこしつっこんでポイントを明らかにすると、
「忘却」の滑稽さはステージ上で表現し「復讐」の恐ろしさはそのまま、
観客席に投げつけてくる。
たとえばこれが、どちらかのみだったら観客は気持ちよく劇場を後に出来るわけだ。
シンプルかつストレートなイデオロギーは、やはり心地よく安心できるもん。
そして実際、そういう芝居こそがいまのメインストリームだよね
(例えば、まさしく、新感線、キャラメルがそう)。
でも演劇という表現手段は、そんな陳腐なテーマに堕するにはもったいなさ過ぎる。
NODA・MAPの舞台を観ていると、無限に広がる演劇の可能性を、
いつも感じさせられるよなー。

ちょっと脱線しちゃったけど。
「忘却」には、その先、なにもおこらない、進展しない。
進展しないと言うことは、同じ過ちが何度も何度も繰り返されるということ。
でも時間の概念を覚えて「老いる」ことを知って「オイル」になってしまったら、
その先は無限地獄、修羅の道、「復讐」の血みどろしか残ってない、のか?

(続く)


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