un capodoglio d'avorio
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2002年12月27日(金) Au Revoir, アカレンジャーさん・・・

たとえばの話、ね。

たとえば、どかがICUに入学したときにまだ、陸上競技部が存続していたら、きっとどかは日本民俗舞踊同好会に入部することは無かったんな。そしたら、間違いなくどかは今のどかではなく、もっとちがった「カタチ」になってたのな。すごい下世話な話をするとすれば、おそらく今はまだ普通に勤め人をやっているにちがいないな、と思う。

でもね、どかはいまのこのカタチでいられて、やっぱり満足で。つまり、いかに今「社会的なリスク」を背負っているこんなカタチのどかとはいっても別に怖かない。でも他のカタチにどかがなっていたことで背負う「本質的なリスク」のがむしろとても、怖い。それはね、もう本当に怖いのだ。いまのこんなどかで、心底良かったと思う。

じゃあ、いまのどかをこんな「カタチ」にするために最も大きい彫拓をかけてくれたのは何だったのかというと、それは民舞で出会った先輩だった。その先輩諸氏のなかでも、ずば抜けた「対人影響力」の持ち主、たなかサンの送別会が、今夜、あった。

たなかサンを形容する言葉は、いろいろ尽きないほどあるけれど、中でも親方が言い切った次のフレーズが、含蓄があって好きなどか。

  たなかサンはねー「戦隊モノ」でゆうと、
  どう転んでも真ん中のアカレンジャーになっちゃうヒトだよね・・・

ほんとうにいろいろお世話になった気がする。と言っても、おそらくアカレンジャーが意図的にどかの面倒を見てくれたということも大きかったけれど、それ以上にアカレンジャーのそばにいて勝手にどかが思ったり感じたり、驚いたり落ち込んだり、喜んだり泣いたりしたことのほうがずっとずっと大きかったんさ。へまをして叱られたり飲み会でぽろっとこぼれたりした「言葉」も、それはもうハイパーだった訳だけれど。でもそぉゆうんじゃない「言葉」に拠らない波動こそ、大学入りたてのどかがそれまで経験したことのないレベルでの「被爆(暴言多謝)」だった。

きょうも、飲み会やカラオケでアカレンジャーをアカレンジャーたらしめるバイタリティをたっぷり「被爆」しつつ、心底思った。どかはいまのどかに成れて良かったな、どかはたなかサンに会えて本当にラッキーだったなって。最後、握手したときはもすこしで泣きそうだった。でもそこで泣かずにふんばれて、かつ「被爆」してものけぞることなく脚をふんじばって立っていられる今のどかを見せられることができたこと、それこそがたなかサンへの精一杯の恩返しなんだなあと、勝手に満足しつつ帰り道、チャリをこいだ。


↑カラオケ後の記念写真、他も凄いメンツ・・・

・・・もう一つだけエピソード。

どかがいっちばん感慨深い思い出は、1997年の11月、連雀通り沿いの某ラーメン屋でバッタリたなかサンに会って、いっしょにラーメンをすすったこと。もはや相手はすっかり忘れているだろうけれど、そのときどかは人生最大の蹉跌にまみれて前後不覚に陥ってたのね。そんで、たなかサンに会いたいけど会っても何も話せないし相談も出来ないしって。でも部屋にいてもまる1日半何も食べてないし眠れないし、お腹空いたし、ラーメン食べ行こ。って思って半泣きでラーメン屋に行ったら、居たの。もう、涙をかくしながら鼻をすすってラーメン食べて、その後帰り道少しだけいっしょに歩いて、世間話だけして別れたんだけど、あの帰り道で考えたことは決して忘れない。

  自分はぜったい、ぜったいに、大丈夫だ。

それは無条件の感謝、その感謝はたなかサンに向けられたものですらなく、どかを取り巻く全てのものに対する、完全なる「服従」。そんな決定的などかの契機に主要人物としてさっそうと現れちゃうのだから、やっぱりあなたは、アカレンジャーです。

最後に。

  お元気で、ご活躍をお祈りしています。
  ワタシも絶対、ベストを尽くします。


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