あたろーの日記
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2004年09月18日(土) 『山姥』

 旧暦8月5日。
 今朝起きたら10時だった。
 何がきっかけでこんなに寝坊助になったのかと、愕然とする。
 だけど、まあ、1日好きなことしてたので満足と言えば満足な休日でした。『山姥』(坂東眞砂子・新潮文庫)を読む。上下巻の、今日は上巻。以前同作品でこの著者が直木賞を受賞した直後、母からハードカバーを借りて読んだものの、あまり身を入れて読めなかった。でも、今日再読してみて、この作者のあまりの非凡な才能に驚いてしまった。他の作品が映画化されたりして、土俗的な作品を書くホラー作家というイメージが強い。どうもねちっこくて読む気がしないのだけれど、で、この『山姥』もねちっこさはあるんだけど、この坂東眞砂子という人は、読者をぐいぐい作品の中に引き摺り込んでしまう筆力を持った作家だと脱帽せずにいられない。7年ほど前だったかに初めて読んだ頃に比べて、自分が主人公の涼之助はじめ他の登場人物にぐんと親近感を持って作品の中に入り込めることに気がつき、驚いた。特に、涼之助と、てるの夫鍵蔵。登場人物の心の綾を巧みに拾い上げて紙面に描き出し、そして作者は緻密に伏線を張り巡らせて、クライマックスへと読者を導く。
 けれど、この作者の他の作品を読もうという気になれないのは、私にとって損なのだろうか。どうも、彼女の現代物にはそそられない。他の作品を読んでいないのに言うのは間違っていると思うけど、おどろおどろしさも『山姥』が限界だ。簡単に映画化できるような小説には惹かれない(奢った言い方かも知れないけど、この点は譲れません)。映像には映像の良さがあるし、小説には言葉を紡ぐことによって出来上がる世界がある。『山姥』には言葉でしか表現のしようがない独特の闇がある。読み手の中で、他人による映像化を拒むような、ある種の独占欲に似た気持ちも、優れた小説は引き出すことが出来るのだと思う。自分が好きで夢中になった小説が映画化されると聞いたとき、腹が立つか、待ってましたと喜ぶか。。。作者と読み手との間に、映像を司る他の人間が入り込む余地のないような小説、書く側と読む側との間だけに繋がる太い線、たとえ実力のある映画監督であっても、読み手の中に出現した小説の世界を超える映画を作るのは至難の業ではないか。
 ・・・と話がどんどん逸れていることを承知で続けるのですが、要は、小説を原作としたいい映画やテレビドラマは沢山ある。。けれど、映像は映像、で、映像だけではその小説の作者の言わんとしたことを拾い尽くすのは不可能だと思うのです。映像の醍醐味もあるけれど、やはり、紙に書かれた小説には小説の良さがある、文字を追うことでしか得られない興奮がある、と思うのです。映画と小説はあくまで別物だと思うのです。と、ここまで書いて気がついた。坂東眞砂子作品、映画化された物も含めて、じゃあ、読んでみなきゃいかんがな。

 
 
 
 


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