日記ふう雑感 ひとりごと
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| 2007年11月18日(日) |
『大学の試練と挑戦』 |
昨日は娘と連れ立ってhttp://www.adm.u-tokyo.ac.jp/res/asahisympo-j.pdf に行ってきた。
ケンブリッジ大学長の話にも興味があったが、一番の目的は新しい藝大学長の話を聞くにあった。 事の発端は、「今度の藝大学長はユニークらしい、一度実物を見てみたい、よし、この機会だ」、というのが第一の、「大体、藝大学長がこのような席に連なるというのは珍しい事である、だから、この機会だ」、というのが第二の、およそ学術的でない”もの見たさ”にあった。
なるほど、、面白い人であった。そのユニークさはある関係筋から聞いていたが、その某筋の言う事がわかる気がする。 若者が大好き、日本の文化・芸術をこよなく愛しているという思いをストレートに表現する方であった。 今の藝大を引っ張っていくにふさわしい人物だろう。 「人をひきつける話のできる大学人」だ。強いて欠点を挙げれば“話が上手い”ということか。
大学の改革が進む昨今、生き残りをかけて各大学の長の力量が問われている。 これからの日本の大学は、外に対して、独自性と社会性の両面をバランスよく発信できなければならない。 日本の文化芸術、歴史を考える時、藝大の存在には独特なものがあるが、世の変化への対応を迫られているについては例外ではない。 リーダーシップだの、世界に誇れる学力だの、確かに大事ではあるが、そういう議論の中で、 「エリートとはなにか、、真に涙を流せる奴である!」と言い切った藝大学長の心情に共感した。
全体を通して、藝大を除く他の日本のトップの方々とケンブリッジ大、カリフォルニア大の学長方の”大学が育てる者”についての認識の違いが垣間見られた気がした。 後者おふたりはもっぱら、自分で考え解決し未来を切り開いていく能力のある若者を育てることを力説され、前者の方々は、社会のリーダとしてのエリート教育の重要性を繰り返された。
主催が東京大学と朝日新聞ということを考えると当然の結論かもしれない。 要はこういう議論がなされていることを我々一般庶民が日常的に知ることである。 そういう意味では東大の方向性としての『開かれた知』は上手く時流を捉えたものといえるだろう。 そして、その目指すところの“「本質を捉える知」、「他者を感じる力」、「先頭に立つ勇気」をもつ人材を育てる”、はなるほどどこからつつかれても取りこぼしのない、完璧な達成目標と言えよう。
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