日記ふう雑感 ひとりごと
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先日、 大学時代にお世話になった先生のジャズ・ライブを聴きに行った。 大学当時は、ジャズはもちろん 自ら楽器を演奏されるなどということさえ知る由もなく、 はじめて話をお聞きしたときは少なからず驚いた。 さらに驚いたことは演奏のみならず、 作曲もされているというこという事実であった。 パワフルな曲と演奏にすっかり聞き入り見入ってしまい、 演奏しているピアニストは自分の恩師であるということさえ いつの間にか忘れてしまっていたほどである。 ジャズはクセになるというが、本当だ。 「先生の演奏」だからではなく、 「あの演奏」を是非もう一度聞きたいと思った。
ピアノはわたしも子供の頃習っていたことがある。 当時はかなり本気で練習をしていた。 中学生になってあるきっかけで自分の力を思い知らされてから その情熱も冷めたが、 それでも高校時代までは何かと関わりを持っていた。 そしてある日突然、曲とも雑音ともつかぬ「弾き」を発見し、 のめりこんで抜け出せたくなったことを覚えている。 恩師の演奏を見てあの感覚を思い出した。
絵もそうだが、いわゆる現代の芸術に関しては、 形式を抜け出すことに価値があるとか、 自分を忘れる中から芸術が生まれるなどといったコメントを 聞いたり読んだりすることがある。 実はわたしもそう思っていた時期がある。 しかし最近、他人と共有する空間を使って何かを表現する以上、 見る人或いは聞く人にも何かを感じてもらえるものでなければ ならないのではないかと思うようになった。
描く方或いは演奏する方ものめり込んでいるのだろうが、 同じようにそれを観る或いは聞いている人も 何かプラスの感情を共感できる表現。 そういう表現に不思議と多くの人が同じ感覚を持つものだ。 たった一つの絵なり音楽なりからこのプラスの感情 ―中身はもちろん個人々で違うものだが―、 気持ちをマイナスにしない何かを自分は認めたと 如何に多くの人が言い得るかで、 その絵や音楽がいいものかどうかの評価がされるように思われる。 私個人的には、 多くの人が認めるか否かで良し悪しが決まるとは思わないが、 少なくとも同じ感情を持っている人が 他にもいることを知ることは嬉しいことだ。 それを共感とか感動とか呼ぶのかもしれない。
回りくどい言い方になってしまったが、 恩師の演奏を聞いてこのようなことを思った次第である。 のめり込んで演奏することが多いというジャスの演奏だが、 我を忘れているようでいて決して他を無視ししてはいない。 そこに共感が生まれるのだろう。
良い思いをした一日だった。
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