再生するタワゴトver.5
りばいぶ

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■ 俳優座『ガリレイの生涯』パンフレット掲載文。

演出の戯言『疑いの必要』

「今日の世界は演劇で再現できるのか―」嘗てより、表現という媒体が大きく広がった世の中で、アナログならではの同時代性を謳いながらも、現在進行形とするほど即時性を伴えない演劇において、過去の名作を題材にしてこの文言は通用するのか。そして、もし今ブレヒトがこの暴力と脅しが蔓延り、誹謗中傷の横行する世界を眺めているとしたら、この改編を重ねた「ガリレイの生涯」をどう見つめ直すのだろうか―そんなことから始まったクリエーションの旅は随分と長い期間をかけて、迷走を試走と実験を繰り返しながら、今日この日を迎える。

他のブレヒト作品に比べて、真っ当な物語の進み方をする「ガリレイの生涯」だが、一方では…と、カメラのアングルが変わっていく。一見、一本の筋を通らないシーンの並びは、実は一つの現象、事象、事実に対して多方面から積み上げていくことであり、それは、物事を多方面から捉えること―肯定的なものにも必ず否定的な裏面を見ようとする弁証法的な考え方、つまり、一側面からではなく「複眼的に捉える」ことに繋がっている。
ブレヒトが本作を執筆したのは亡命先のデンマーク、お目見えは大戦渦中のアメリカ、その直前にヒロシマ・ナガサキへの原爆投下があり、ラストにかけて(特に14景)大きく書き換えられた。実際にアメリカ版は15景と5景(ペストの蔓延)のシーンがカットされているし、ドイツに戻ってから(ご本人逝去の後も)も15景(知識は国境を越える)はカットされて上演されることが多いようだ。つまりガリレイ自らの断罪で終わるわけだ。ではガリレイの罪とはなんだろう? ブレヒト劇の、ヒーローとは言えない人間臭い欲望に塗れたガリレイ像は「正義の人」という印象との対比が確実にあり、それはナチスドイツの迫害を受けながら大衆に訴える作品づくりを続けたブレヒトに合わせ鏡のように通じているし、あえて露悪に寄っている感すらある。
ではそのガリレイが悪いのか、撤回させた権威が悪いのか、果たして誰が悪いのか。

科学者ガリレイの基本的な態度は「疑い」である。これは原作者ブレヒトも同じ。
「疑いを持つ」文字面だけを見たらマイナスに映る言葉だが、その本質は「考える」こと。その「思考」から広がる物語──

我々は誰かが作った価値観、常識によってどれ程のことをそのルーツを探ることなく判断しているだろう。ネットの急速な発展で圧倒的情報量に触れる機会を得られるようになった。だが情報の真偽を測る術も努力もなく大勢が良いということ、自分が安心できるテリトリーでだけ良しとされる意見、それでもわからないことは大きい声を放ってくれる人に寄って安心を得る。そんな僕ら小市民が、本当に自分の頭で判断していることってどれだけあるのか。力ある者の意志で回るようになってしまった地球で、どうせ変わらない、と自分の周囲が成立することを一番にする世界では、多様性とか表向きは心地のいい文言を踊らせながら、その実、片側の正義を振りかざした差別、脅迫、虐殺、戦争と枚挙にいとまがない。その体験からも人類を絶望へと導く核兵器を減らす方向にシフトしていた地球は、もはや逆回転している有様…。既成の権威、常識を鵜呑みにすることからでは変革は生まれない。「疑い」の必要…。

「日常を疑う」という意味では、科学と芸術も同じなのだ。

 演劇は人のウィークポイントを見つめ、わからないを「疑い」、愛して「仮説」をたて、稽古で「実験」し「検証」し、「確認」して「改善」そして「実験」と何重にもサイクルさせながら、そのチームにおける「真説」を導き出す。楽しくも、険しい道のりだが、効率と真逆のアナログで遠回りな円運動の先に拓ける豊かな宇宙が必ずある。 
これは演劇の一つの側面。
もう一つは…、想像力をフルに使ったエンターテイメントとしての魅力である。
本日はご来場ありがとうございます。想像力の翼を広げ、疑い、そしてお楽しみいただけたら座組一同嬉しく思います。どうぞ最後までごゆっくりご覧ください。

藤井 ごう

2026年09月18日(金)

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■ 俳優座「ガリレイの生涯」 原作以上「広がりある世界を」 | 毎日新聞

Topics:俳優座「ガリレイの生涯」 原作以上「広がりある世界を」 | 毎日新聞

mainichi.jp/articles/20260…

ブレヒトの名作が9月、藤井ごうさんの翻案・上演台本・演出、斉藤淳さんのガリレイでよみがえります。会場は東京・両国のシアターΧです

2026年09月02日(水)
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