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■ エーシーオー沖縄『国防まんじゅう顛末記』演出の戯言、当日パンフレット掲載文
演出の戯言「クテーランまさこ」 今作の作家・伊波雅子さんとは辺野古を題材にした『クテーラン人びと』に始まり、軍用地主一家の葛藤を泣き笑う『与那覇家の食卓』、又吉栄喜さんを原作に『亀岩奇談』(原作には登場しない「亀」が大活躍)と歩んできて、事の序でにと東京で僕の演出作への歌詞提供と力を借りて、そして『国防まんじゅう顛末記』である。 今回は材を与那国に取った。その意味はきっと観て感じてもらえばわかると思うのでこの場では触れないが、それじゃ一緒に取材を!となるも、雅子さんは出発前日にコロナ罹患し飛べなくなり、僕は一人で与那国の土を踏むこととなり、雅子さんは次週に延期。すると今度は台風に当たり飛行機が飛べず延期、どれだけ島の神様に嫌われているのかと思いきや、漸く雅子さんの来与那国かなった日は年に一度の豊年祭なのであった。その際ご当人が気にしていたのは「何度も何度もチケット変更頼んで、きっと変なおばはんと思われてる」ということだった。雅子さんは、この芝居の家族、田原家の面々と引けを取らないバイタリティの持ち主である。転んでもタダでは起きない。そして粘り腰だ。何度も何度も書き直しを重ね、「もうこれでいいわよね!」となってからも俳優さんの実際の声を聞くと「こっちの方がいい!」と日々直しを重ねる。「今日は行かない!」と言いながら小道具を自宅から見繕ってやって来る。そして「まだぁ!」とか言いながら、色んな方の意見を大きく吸収しながら世界を編んでいく。あきらめない。だから雅子さんとの作業には終わりがない。そして推敲に推敲を重ねる程、世界は開かれていく。大事なのはそこだ。重ねた対話の上に開かれていく世界なんて、この効率とタイパばかり求められる風潮の向こうをいって実にステキじゃないか(ご本人は苦行だと言うかもしれませんが)。 そうやって描かれるとある家族の顛末記(※「顛末(てんまつ)」とは、物事の始まりから終わりまでの一連の経過や事情を指す。辞書的には「顛(いただき)から末(すえ)までの意」とされ、事件や出来事の一部始終を意味する。)、事は国境の島での出来事である、事実を基にしたフィクションではあるけれど、終わりの見えない、終わりなき現在進行形の「今」、あれよあれよとS県への全島避難まで言われるようになった島で生きる田原家の面々の物語である。その家族の道行を稽古場の演者さんたちとあーでもないこーでもないとしている沖縄の日々に飛び込んできたのは― 「代替滑走路選定まで普天間返還せず」の文字。 じゃあ、あれは、なんだったの? いったい、なにが、どうなってるの? なんのために、だれが、どのたちばで?もめるいみがあったの? ふざけてるの? …あまりのことに変換すら忘れた沢山の?が頭上を通り過ぎていく。その後には反動か厚顔無恥・独断専行・傲岸不遜・寡廉鮮恥…と画数の多い沢山の四字熟語が通り過ぎていく。考えるのを辞めたくもなる。思いを巡らせるのを止めたくもなる。そして嘆息とともに辛うじて出る言葉は「また…。」そして思考停止…チーン。 でも、でもなのだ。田原家の面々ならどうだろう? そのまま停止しているだろうか? きっと文句を言い合いながらも次の手を探るだろう。もちろんそこに「終わり」はないし、「解決となる対案」なんてないかもしれない。でもぶつかって、また傷ついて、気が付いて、可能性を探すにちがいない。そんな凸凹と壁にぶち当たりながら、失敗しながらもネバーギブアップ。自分たちが求める「なにか」について。 そんな「あきらめない」雅子さんが生み出した一筋縄ではいかない「クテーラン」キャラクターたちに日々勇気をもらいながら、どっちがどっちを乗りこなしているんだか日々稽古を重ねている。そして忘れてはいけないことを思いながら、彼らがお客さんの前に立つ時を考える。大丈夫、雅子さんは島の神様に気に入られているのだから。 本日はご来場ありがとうございます。どうぞ最後までお楽しみください。 藤井 ごう
2026年03月21日(土)
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