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■ 今、改めて「新劇」を考える��
僕は自分たちを継承する世代だと思っている。その作品が書かれた時代や状況に本当の意味で戻って考えることはできないし、今の感性でしか語れないことを理解した上で、だからこそ、現場に足を運び、人の話を聴き、資料もできる限りあたって、俳優さんとその感覚を共有し、国や時代、文化の違う市井の人々の`生活`を描く。 僕らの仕事は「問題の正しい提示」でその「解決」ではないというチェーホフに倣いつつ、 演劇の力―社会的なテーマを極めて人間的な、個人にも切実な問題として描くことができることで、観客は人物や物語と出会うことで「共感し」、劇場に入る前と後で目の前に広がる風景が違って見える―を信じてみる。 そして作品の面白さは演出の発想に従うのではなく、演出の想像力と俳優の存在感との決定的な出会いによって生まれるものだと思っているので、そのベースとなる作品の筆圧の高さみたいなもの、その動力、戯曲の面白さを発掘すること、そこから作品の奥行を見つけていくこと。登場人物たちの「普通の生活」に思いをはせることが、今この瞬間、舞台上を生きる人物を創りあげ、目の前の観客と出会い直すことができる。
演劇は客席と出会うことで初めて成立する。だからこそ、鑑賞運動各地域の客席と出会えることで、作品自体も、俳優も育てられていく。劇団の体力だけではこれだけのステージ数は作れないし、在京の劇団であれば普段届けることのできない、多くの方々と作品が出会う機会を与えてくれる得難いチャンスです。特に現在回らせてもらっている「島」は、今の世情、3・11前後で作品の受け取られ方も大きく変わった。「演劇が時代を映す鏡」であることを実感できるのも、鑑賞会、市民団体があるからだと感じています。
でも、社会的テーマを背負っていようがいまいが、やはり、劇場では「魅力的なこと」が展開していて、その場所が「豊か」だからこそ人が「また来たい」となる。「演劇は面白い!」でないといけない。その為に表現者たちは甘んじたり、安住することなく「進化、深化」し続けなければ、これだけ娯楽が溢れる世間でわざわざ出かけていかなくていいものに吞み込まれてしまう。鑑賞活動は、名作を呼び、そしてそこに会員さんが出かけていく。その時点からもう、演劇は始まっている。創り手の責任は大きいー 今、この最後のところをパリで書いています。 九月にやはり青年劇場さんでやる『アトリエ』の取材で来ています。公称自費です(笑)。一見華やかですが、日本より先の諸問題と対峙している国の緊張感を感じています。 戦後パリを強く魅力的に生きる人々の話ですが、ユダヤの問題を取り扱っている作品。 また果てしなく大きなテーマをもらい、僕としては自分の足でリサーチした上で、生き生きとした登場人物たちが舞台上を埋め尽くす土壌を作るため、何より、自分のため、に来仏しました。 ユダヤ人である父を奪われた作家グランベール氏は取材の最後にこう言いました。 「僕はその時闘うことができなかった。だから、書くことで闘っているのかもしれない」 その思いに向き合い、その母の自伝的戯曲を日本で紡ぐこと。やっぱり責任を感じます。 ヒトラーは指導者の座を盗んだのではない、ポピュリズムによってドイツの国民によって選ばれ、そしてドイツ国民を破滅させたのです。考えることをやめないこと。 改めてまた皆様と出会える機会となるよう、現在鋭意研鑽中です。
2017年07月08日(土)
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