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■ 『郡上の立百姓』パンフ掲載文。
演出の戯言 「わたし。」は「生きて。」いる? 一揆といえば「困窮に絶望した庶民の暴走による破壊的暴動(≠一揆)」とゆうイメージをいつの間にか持っていた。それがこの作品へアプローチするうちに「明確な目的をかかげ、作法(戦略と戦術)を守る組織的な政治行動」つまり「高度な目的意識性に支えられた、生活すべてをかけた農民の運動(=一揆)」へと変っていった。 生活の苦しいことが背景にあるが、自分たちの立場を主張するという気骨や意欲があることが大切で、一揆は多勢の人のためになり、正しいことだという信念ある指導者がいて初めて成功するものだとゆうことも見えてきた。 そのギリギリさ故に、僕たちは幕府権力に対する絶望感と結末の悲惨さばかりに心奪われがちだが、怒れる農民とその憤りのエネルギーの結集はまさに市民運動そのもので、故に百姓一揆側にも、「百姓たちのやむをえない行為である」と人々を納得させるだけの訴えの内容とそれに相応しい組織・行動様式が求められ、共通認識が形成されていったのだ。 そんな一揆の中でも郡上一揆の特殊性は、富農層や村役に指導されるたんなる百姓一揆とはちがい、五年とゆう長期間に渡る闘争で立百姓が生まれ寝百姓が生まれるなど、言わば弱者の知恵に支えられた農民一人一人の斗い(フリガナふってください「たたかい」)になっていった点だ。 今夏をかけて稽古を重ねながら、そうそうクローズアップされることのない、江戸時代の百姓たちゆう存在に思いを馳せた(今度の大河ドラマは山奥の百姓!…と言ってもどうも絵にならなそうだし、大名萌えなんて言葉も聞く世の中だけど、百姓萌え、○○村孫三郎の生き方に学べ!なんて聞いたことがないし、 しかも場所も華やかなりし江戸ではない。岐阜の郡上。貧困で身分制度の中で虐げられた奴らが追い詰められ打ちこわしに立つのか!?)。そんな単純化された封建制度下の百姓とゆうイメージとは一味違う、人物たち、考え方、その選択、その行動に。 この「郡上の立百姓」を一言で表そうとして、俳優さん、スタッフさんとの対話の中で見えてきたのは、 「わたし。」 「生きる。」 とゆうコトバである。 …なんだか専門学校のうたい文句のようで気恥ずかしいし、国民的アニメ映画のうたい文句で聞いたことがあるなど思いながら(とゆうか既に一言でなし)、この現代に生きる僕らにとって当たり前にあるもの、あると思っているもの、ネタバレを恐れずに言えば、この作品はそこに辿りつくための、獲得していくための行道を描いているのだと思う。 巧妙な幕府、お上のやり方に対して(今と同じような懐柔政策にあったり、当該市民同士での争いに転化されたり)、百姓が連帯(反対運動)する中で、百姓とゆう(人口的には7割超え)立場のへの盲従から、「死」とゆうことに自覚的になった人間が、どう「生きる」べきかを問い、選択し、彼らは「私たち」がすべきこと、あるべきことを獲得し、「私」がどう生きていくべきか、とゆう真理にまで達する。伊丹万作のコトバを借りれば、置かれた状況への家畜的盲従の中から、批判力、思考力を獲得し、自立意識を持ちえたのだ。 郡上一揆は遠い記憶、などではない― ある意味、伊丹のコトバの書かれた戦後の社会より激しい無気力、無自覚、無反応、無責任が充満する現在にあって、果たして当たり前に権利だの、個人だの、夢だのゆう僕らはこのことをどう捉えるのか? 彼らがカクトクしただろうコトガラと今、ちゃんと向き合えているのだろうか? 批判力、思考力を高め、信念を忘れず、「誰か」ではなく、「私たち」であること、「私」であることとは何なのか、問いかけなければいけない瞬間に僕らはいる。 名もなき個人の選択が必ず未来を切り拓いていく。 人間の尊厳とは? 人が人としていられることとは? 「わたし。」は「生きて。」いる? 総勢40名以上のキャスト、スタッフ。また裏でしっかり支えてくれた劇団員、関わってくれた方々、衣装・小道具を提供してくれた方々、この作品を生み大切に育んだ劇団はぐるまの全面的協力、その総ての創造のエネルギーに支えられた公演です。 どうぞ最後までお楽しみください。 藤井ごう
2016年09月30日(金)
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