再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 『名も知らぬ遠き島より』戯言。

演出の戯言

時は1946年、第二次大戦後の北満州、牡丹江、旧日本軍の病院、現ソ連軍収容所。多くの死んでいった人々、そこに生活せざるをえない人々ー

戦後うん十年が当たり前のように過ぎたことになって、端的で声がでかくて、でもって内実ともなっているかどうかは別ながら強い意見に流れる。本当の意味での対案を提示しない限り、意見をしてはいけないような風潮、今の世情。
この芝居じゃないけれど、全ては繋がっている。
個人のたった一つの歩みだったり、行いは、ゆくゆくの大きな事態の一つの要因となるだろう。(もうゆくゆくでもないか)
子ども世代、更にはその下の世代にとって、
漠然と漫然と転がっている今は、いつか、あの時!と評される時であるかもしれないのだ。(かもじゃないか)
僕らにできるのは、
あの時は戦争で多くの悲しい死があった。ではなく、名もなき死者の一人一人に寄り添ってみること。そしてその事と向き合うこと。
言うのは簡単、行うは難しだ。
でもそこに向かう。それが作家、山谷典子の手触りな感じがしている。

僕らには想像力とコトバとゆう武器がある。

「無気力のあとに無感情が支配した。死を待つだけの日々。収容所は健康なものであれ身も心も痛めつけた。」と資料にあった。確かにそうだろう。
でもそこには『生きたい』と渇望する思い、棄てられたのにそれでも『日本』へ帰りたいとゆう矛盾する思いが溢れ、虐げられ翻弄されながらそこでも人間は、思い出話をし、下世話な話に花を咲かせ、唄い、笑い、恋すらする。力強く生きゆこうとしている。
人の営みの灯は簡単には消えない。
たら、れば、の話をしても仕方ないが、
場所と状況が違えばドラマにはならないかもしれない。でも、ここじゃない場所でもし彼らが出会っていたら…など想像する日々である。

本日はご来場ありがとうございます。
最後までごゆっくりご覧ください。

藤井ごう


2016年04月26日(火)



 新年度を迎えて2

意味のわからない絶叫とか、
思想などどんなことがあってもいいと思う。でも。

しゃべる前に決まっている感情とか、
妙に泣こうとして泣く演技とか、
誰かがしゃべっている間固まらされている周りとか、
ここを見なさい啓示的灯りとか、
何より登場人物たちが話を、次に起こることを知っていて逆算の見えすぎる立方とか、
情緒的と抒情の大きな勘違いとか、
神の手的なドラマを生むための、しかもそれが次の言いたいことを生むためだけの偶然の連続とか、
情に訴えかけるために仕掛けられる人を喰った仕掛けとか、
全てを支えるはずなのに浅薄な生活感とか、
確かに人は愚かだけど、はなから救いようもなく愚かしい存在のさせ方とか変化とか、
周りがいるのを鑑みない、極々プライベートなやりとりとか(つまり他人の事など一部の隙すらも考えてない勝手な人たち)、
立場において順番で発せられる演説的な思いの丈とか、


こうゆうものを全排除して
または、そうゆう時間を通過してモノは人前に晒されるはずで、
自己満足、スゴイ大事なことをしているアピール。
そんなものを師は壊し、創ろうとしたはずで、
そうでなければ、作為的な側面は極めて見せないように、人間の行為を、人の心の変化を、それこそ、選択する瞬間に真実を現そうとしてきたのではなかったか。
私も作品によって変化はすれど、基本の価値観はここにある。

もはやこれは演劇でもなし、
稽古場にて話す禁じ手ばかりが舞台上を支配する時、
でも結局のところ、それでもこの人たちはいいのだな。
と勝手に思えてきて、
呆然と、驚きと、怒りを覚える。。。
芝居をつくるってなんだろうなぁ。。。
難しい→難しくない→複雑→シンプル
ウロボロスの尻尾のよに巡る。



あ、今やってる芝居じゃないですよ。
こちらは千秋楽@座・高円寺14時からです。
我がふり、ちゃんとしないと。




2016年04月24日(日)
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