再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 村松英子サロン劇場公演情報、28日から

村松英子サロン劇場 語り芝居『冬のロマン』

⚪️会場
目白台和敬塾内 旧細川邸サロン(東京都文京区目白台1-21-2)

⚪️作
室生犀星(「不思議な魚」)
夏目漱石(「夢十夜」より)
村松英子(「扇の不思議」)

⚪️演出
藤井ごう

⚪️出演
村松英子
中山仁

村松えり

フルート 鈴木章浩

野村万蔵

⚪️日時
11月28日(金)19:00
29日(土)14:00/19:00
30日(日)14:00
12月1日(月)14:00
2日(火)19:00
3日(水)14:00
4日(木)14:00
5日(金)19:00
6日(土)17:00

⚪️料金
5000円

★全席自由・開場は30分前

⚪️上演時間
お芝居は1時間程度
終演後、参加ご自由の小一時間のパーティーがあります

お申し込み&お問い合わせ

gofield1210@gmail.com

サロン劇場tel&fax
03-3945-5384


(朝日新聞より)女優の村松英子が主宰する「サロン劇場」が28日〜12月6日、東京・目白台の和敬塾内の旧細川侯爵邸で、3作品の語り芝居「冬のロマン」を上演する。村松が、オスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」をもとに、大正時代の上流階級の設定に直し、脚本を書いた「扇の不思議」が見どころだ。村松は「母性愛がテーマ」と言い、劇中の母娘を、長女の村松えりと共演する。室生犀星の「不思議な魚」、夏目漱石の「夢十夜」も上演。入場料5千円。03・3945・5384(同劇場)。

 (毎日新聞)村松英子主宰の「和敬塾サロン劇場」第12回公演が、28日〜12月6日に東京・目白台の和敬塾内旧細川邸サロンで催される。テーマは「冬のロマン−語り芝居」。室生犀星の短編「不思議な魚」と夏目漱石の「夢十夜」▽オスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」を村松が一幕劇に脚色した「扇の不思議」を上演する。

 「扇……」は舞台を原作の英国から日本の大正期に置き換えた。

 風見伯爵は妻ひなの誕生パーティーに間宮夫人を招く。若き日に娘ひなを置いて出奔した間宮は、娘に会いたい一心で風見邸を訪れるが、間宮が母と知らないひなは夫との仲を疑い、自分に言い寄っていた男性のもとへ走る。間宮の求婚者である清野伯爵を巻き込み事は思わぬ方向に動く。

 「サロンで1日の間に起きる喜劇です。心理劇としておもしろいので以前から上演したいと思っていた」と村松。村松が間宮、長女の村松えりがひな、中山仁が清野、狂言師の野村万蔵が風見を演じる。問い合わせは03・3945・5384。【小玉祥子】


2014年11月28日(金)



 『島』パンフレット掲載文。。。

演出の戯言

この猛暑の中、島のことを考えながら、何の変哲もないとある住宅街を歩いていた。
フト目に入ってきたのは、

「ちょっとだけ」 離れるだけでも まず「施錠」

という看板。
要は、町の標語である、ちゃんと七五調だったりするところがニクイ。
出来上がった時点で、これはもう、近所の中華料理屋かなんかで乾杯しているにちがいない。
でも、とても違和感があった。わかるんだけど。これは町会の標語なのだ。
で、その違和感で立ち止まって、周りを眺めてみると―
まず目に飛び込んでくるのは壁に貼られた「犯罪!」の文字。続いて「ダメ!」の文字。
そのちょっと先には、「防犯カメラ稼動!」さらに先、「ひったくり注意!」
―なんだろうか、これは。ここは一体どんな犯罪地区だと言うのだろう…この暑さ以外は見た目長閑な地区には、昼の顔と夜の顔、全くの違いがある、とでも言うのだろうか、途端、この場にいるのが不安になり怖くなってみたりするじゃないか。人間だもの。

もちろん、「犯罪!」はそれ自体より小さく「不法投棄」、「ダメ!」にはその大きな字の中に「ポイ捨て」、「防犯カメラ」は病院の「安全確認のため、立入禁止 病院長」と書いてあるわけだが、
この恐怖と不安を煽る言葉たちは一体なんなのだろうか、自己責任論から生じる危機意識の高揚、とでも言うのだろうか、
確かに、ルールを破る行為者がいてのことなのだろうが…

そのゴミ集積所には「みんなで守ってキレイに」やら「綺麗な町」やらの文字も踊っている。そりゃあ、汚いよりキレイの方がいいのは勿論だし、ゴミだしのルールがキチンと守られていれば街角名物「ゴミ集積所おばちゃん」みたいな人の登場もないわけだし。
しかし、ゴミはなくなったとして、時間も守られたとして、その雑多なくせに整然と貼られているその紙たちを見て、これが町の「キレイ」と呼べるのだろうか、これで町の「キレイ」が守られたと言えるのだろうか、と突っ込みをいれてみる。そんな文字を子どもの頃から見せ付けられていると、どうなってしまうんだろう…。
この町あげての言葉の奥に見え隠れするのは「誰もルールは守らないから、そうそう人の事など信用しないで、甘い考えでいるとやられるよ。人の心はキタナイよ。でも、これを書いている私たちは大丈夫だけど」というメッセージである。自衛の為の、先制攻撃だ(実際はどちらが先だかはわからないのだが)、平和が乱されるから未然に防ごうとする。
これは是か非か、黒か白かの二元論に囚われた僕達の、学が白髪の老人といえる存在になっている頃の、日常東京の風景だ。これはとても小さなハナシだ、でもとても大きなハナシに繋がっている。恐怖と不安を煽るように、日々メディアから発せられる警句に、真偽を確かめる術もないままに、僕らは息をつまらせるしかないし、何せ、北京で蝶が飛べば、この際桶屋が儲かる、くらい言ってしまってもいいくらい、世の中は複雑で雑多に繋がっているのだから。

「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」

ゴミの話ではない。先人の書いた、大いなる矛盾についての言葉を思う。
人という存在自体が矛盾そのものである、でも矛盾している存在だからこそ「考える」ことができ、「考える」ということは、可能性に向かって開いていくことと、同義だ。
特に、この情報過多の時代に、「鵜呑み」ではなく「自分の頭で考える」のは至難の業だし、
みんなどっかで傍観者だ。傍観者は静に物事を眺め、大勢に添うもの、わかりやすいもの、声の大きいものになびいてしまい、いつのまにか「自分が考えたこと」と「みんなが言ってること」が同意に捉えられ、気付くと思っていたのとは全然ちがう場所に来てしまっている。

だから、みんなの意見はコロコロと変わる。
「自分」と言う主語をなくしてはダメだ。自分で考えてみるのだ。一人ひとりの自分が「なぜ?」「どうして?」と問いかけ、面倒くさがらずに深く問い続けること、その一つの個の思いから、大きく動いていくこともあるんだから、

この「島」は決して、「過去の遺産」ではない。
今の日本、でもある。白でもなければ、黒でもない、間の地点である。
島で生きている人間達も、決して「ただの創造上の過去の人物たち」ではない。
今と繋がっているのだ。
全ては人の行為の上にあり、人は人同士の関係の中で動いている、蠢いている。
僕らは彼らにどんな風に出会えるだろう。
学とは? おきんとは? 邦夫とは? 清水とは? 諸々…


その「死」とか「傷」とか「記憶」とか「時代」とか、誰が悪い、ではなくて、現在生きている人間全てが、捧げる思い、祈り、誓いとして昇華させるべきもの。
「自分」として、決して忘れてはならないものがある。


以上は初演時に書いた戯言。
状況は刻々と動いていき、たったの四年、されど四年。
東日本大震災、政権交代云々…
動かすと疲弊するので色んな事にココロを動かさないようにしていたり、覚えていようと思っていたのに忘れてしまっていたり、気づき見回すと情勢は思ってもいない地点に来ている。
あずかり知らない場所を歩いてやしないだろうか?
現在、2014年ー

改めて、人物と、そして「自分」と出会い直す必要を強く感じている。

2014年11月27日(木)
初日 最新 目次 HOME