再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 来ないことにしない。

演技って不思議である。
台本に、「来ない」と書かれていれば「来ない」訳だが、実際にその場で演じる場合には、「来ない」を知らない必要がある。(同じように「来る」と書かれていれば「来る」わけで)て、当たり前の事のようで、間違いがちだ。
「来る」と思ったモノが「来なかった」のと「来ない」と思ったモノが「来なかった」のでは人の感情としても多いに違うはずである。
でも、「ここで奴はこないから、で、こうなって、こうなって、云々」と頭で段取りを組んでしまう。で、そのさして「来ない」から重要ではないとふみ、ただセリフを通過させる。これはいけない。

そんな時、打ち合わせなしでその場に誰かを登場させる事がよくある。大概演じ手は「来ない」はずの所に、イレギュラーで「来た」ことに驚き、戸惑う。で、なんで?と突っ込むと、「いや、来ないはずの場所に予想外に人が来たから…」とのたまう。違うのだ、「来る」のが当たり前ならば、「来ない」ことの方に驚きが生じ、実際に「来た」ことについては「当たり前に」対処しなくてはいけない。要はその登場人物(本人の解釈でなく)の肚の据え方なのだが。。。
勿論、上記の場合だけでなく、書かれ方によって違いはあるにせよ。段取りしてないからできませんではすまない。文字面だけを追っているとこうなりがちだ。役の目的を露わにしなくては、自由が利かない。人間味も舞台に乗らない、ひいてはその場に存在できない。
バックボーンとかゆうけど、ある程度表現に直結できる具体性を持たないと意味がない。(ここがきっと、「頭でっかち」と「考えが身体を通る」の境目か…)

文字通りの表層だけで人の気持ちなど動いているわけないではないか(笑)と、言えば当たり前にわかりそうなことが、そこをこだわらずに決まっていくことがどれだけ多いのだろう。書かれた文を読み、言った言わないの揚げ足取りを繰り返し、「討論」とか言っている輩と変わらんでしないかそれでは。。。
まずは「来ないことにしない」ことから始めるしかないのだな…

2012年01月27日(金)



 踏み出せない。。。

月曜日雪予報、そんな中夜半には積もるの報が出ているので、電車は早々に止まるであろう事が予測され、足利行きは車で。(行きは早く着きたい思いもありながら、高速道路三車線、「凍結防止剤」を撒き車が三台ぴっしり横並び、六十キロ。なんか、パレードのようだった、、、)
で、終わり頃しっかりと雪は降り、そして、それでも帰路走らせながら、なんとまあ、走り辛いこと、でもって、途中で情報、チェーン規制。私の車は、見事なノーマルタイヤで、チェーンは生憎持ち合わせていない…

まあ、武蔵野線は早々に雪のためかは知らんがポイント故障につき不通だから、電車を選択してても帰れないわけだが。結果佐野藤岡インター近くまで来たもののすごすごと足利の我が家へ。。。まあ、身体が大事、ですからね。
戻りしな、すっかり雪は止んでいる、、、⇒東京方面だけ?

作品は、土曜日日曜日かけて粗立ち状態で頭から最後までやったことは前記したけど、なにしろ、時間をじっくりとかけられるのは週末しかない。そして、あと週末は本番まで二回、舞台を使えるのは一回きりである。
正に産みの苦しみと、でもって、この先は「忘れても指示してくれる」を最終的に待つことで、「自分が(役が)今どこにいるのか」を見失うことのないよう、「自家発電」(と蓄電?)「対照化」これが大切である。
「自分はこうする」とゆう自覚があって初めて。大転換や、細かい転換、そしてそれを演者で進めていかざるを得ない選択は、過重がかかりすぎることは重々承知、そんでもってかけられる絶対時間数が足りない今回、「今舞台で何が進行していて、自分は「これ」をし、で、「役」は…」と色んな頭と身体が必要、使う回路はひとつじゃないのである。
それも全て、最終的に客席と「物語を届け運ぶ」為に。役の人生を体現しながら、作品を全体で捉えることは、全部舞台の魅力を表現することに繋がるわけである。目一杯で向かって欲しい。せめてただ漠然と他人任せにしないよう、足並は各々が一歩踏み出せば自然と合うのだから。

と、雪のせいで一歩も踏み出せなくなっている私である。。。

2012年01月25日(水)
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