再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 踏み出せない。。。

月曜日雪予報、そんな中夜半には積もるの報が出ているので、電車は早々に止まるであろう事が予測され、足利行きは車で。(行きは早く着きたい思いもありながら、高速道路三車線、「凍結防止剤」を撒き車が三台ぴっしり横並び、六十キロ。なんか、パレードのようだった、、、)
で、終わり頃しっかりと雪は降り、そして、それでも帰路走らせながら、なんとまあ、走り辛いこと、でもって、途中で情報、チェーン規制。私の車は、見事なノーマルタイヤで、チェーンは生憎持ち合わせていない…

まあ、武蔵野線は早々に雪のためかは知らんがポイント故障につき不通だから、電車を選択してても帰れないわけだが。結果佐野藤岡インター近くまで来たもののすごすごと足利の我が家へ。。。まあ、身体が大事、ですからね。
戻りしな、すっかり雪は止んでいる、、、⇒東京方面だけ?

作品は、土曜日日曜日かけて粗立ち状態で頭から最後までやったことは前記したけど、なにしろ、時間をじっくりとかけられるのは週末しかない。そして、あと週末は本番まで二回、舞台を使えるのは一回きりである。
正に産みの苦しみと、でもって、この先は「忘れても指示してくれる」を最終的に待つことで、「自分が(役が)今どこにいるのか」を見失うことのないよう、「自家発電」(と蓄電?)「対照化」これが大切である。
「自分はこうする」とゆう自覚があって初めて。大転換や、細かい転換、そしてそれを演者で進めていかざるを得ない選択は、過重がかかりすぎることは重々承知、そんでもってかけられる絶対時間数が足りない今回、「今舞台で何が進行していて、自分は「これ」をし、で、「役」は…」と色んな頭と身体が必要、使う回路はひとつじゃないのである。
それも全て、最終的に客席と「物語を届け運ぶ」為に。役の人生を体現しながら、作品を全体で捉えることは、全部舞台の魅力を表現することに繋がるわけである。目一杯で向かって欲しい。せめてただ漠然と他人任せにしないよう、足並は各々が一歩踏み出せば自然と合うのだから。

と、雪のせいで一歩も踏み出せなくなっている私である。。。

2012年01月25日(水)



 ちょっと思う。

ドーフマンの「谷間の女たち」芝居を創りながら、色んなことに直面する。
取材を受けたりしても、どうしても「チリ」においての話、とゆうだけに限定されがちだ(そりゃまあ、確かに題材だからそうなんだけどさ)、だから南米のそんなことなんて知らないし、難しい。とイコールにされたりもする。
稽古していてもその部分を感じる事はあるんだけどさ(稽古を重ね、識っていくなかで現場は大きく変わっていることは確か)
ここに作者の前書き(抜粋)を載っけてみたりして…(しかも別の戯曲からだったりするが、ドーフマンの場合は、書いている作品の根本は同じだから)

どうしたら、抑圧が深い傷になっている国を、はっきりと発言する恐怖が今も強くはびこる中で癒すことができるだろう。どうしたら、嘘が習慣になっている国で真実にたどりつけるだろう。どうしたら、過去の囚人とならずに、過去を生かし続けられるだろう。どうしたら、将来、また繰り返す危険を冒さずに過去を忘れられるだろう。平和を守る為に、真実を犠牲にするのは、正当だろうか?過去と真実が私たちに囁きかけ、呼びかけてくる時に、それを抑えつけると、どんな結果になるのだろうか?そうした状況の下で、暴力は避けられるのか?そして我々すべては、最も苦しんだ人々のなめた辛酸に対して、どれくらい有罪なのか?そして最大のジレンマは、国全体のコンセンサスを破壊せずに、こうした課題とどう対峙するかでる。


以上。
…別に、特殊な国の特殊なことを特殊な人たちがやっている訳ではないとゆうことを、僕は言いたいのだ。


2012年01月23日(月)
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