再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 「サンセット大通り」

先週、シノゴノ言いながら、情婦→つまり「検察側の証人」を観なかったこともあって、
ここはしかと観に行く。
なんだろう、狂気と、狡猾と、人間の奥深さとそんなものが、何気出会いからして荒唐無稽な物語(もちろん、DVDも持ってるし、あれなんだがね(笑))なのに、そこがクローズアップされっていく、果てはもちろん、狂気と、底知れない哀しさに行き着く。
どうやら死者が語る、とゆう手法が物語の推進力を保っているのだな。。。
しかしまあ、絵になる俳優さんたちだ。

昼からは桜美林大学の打合わせ。
夜は急遽に、人形劇の打合わせが入ってくる。

全てがまだ動き出していない中。
宿題だけが増えてゆく…(笑)


2011年06月06日(月)



 善意って

別に今現在の話ではない。
ただ、どうしても行きがかり上読まなければいけない本やなんかで、どうにも気になって仕方のないもの、「善意」である。
特に、三月以降の日本は、批判を覚悟でこれにつきると言ってもいいのかもしれない。

とても必要なもの、
必要な気持ち、

でも「善意」なだけに、ずれたり、齟齬が生じたりした時が兎に角厄介である。

時は三月、
毎日の
自粛ムード、そして、節電の駅の前に募金箱を携えた一団は多く見受けたわけだが、
その日も「Lクラブ」(仮名)の方々が赤いスタッフジャンパーを着て、北口を占拠…いや、善意の募金活動。
しかし、である、
きっと、それは震災当日から二週間は経っている時期で(って、別に流行りものでないし、こういう活動は、一過性のもの、ではなく、永続的に続けることが大事であることは大前提)
、駅の構内を抜けて、階段を下りて、その道の左右には募金箱を携えた若手が並び、
その間を僕ら一般人が通る。
で、問題は、この、普通の人の導線上に鎮座まします、Lクラブのお偉い方々なのである。

まず、端的に言って邪魔、なのである。
少なくとも、駅前、まっすぐ一本の道、
両サイドに関してなにかをいうつもりもないのだが、その、導線に鎮座ましましながら、
「募金を―」とのたまわっている、お偉方、どうなんだ、である。
ま、その方々がいらっしゃるので、
小銭をもてあましている人々は、その道の真ん中から、端により、募金箱にその小銭を入れることになるわけだ。

でも、邪魔、なのですよ。

募金活動に反対なわけではありません。
でも、やればいいってものでもありません。
やり方、とゆうものがあると思うのです。
募金活動は、自分たちのボランティア精神を満たすためにするべきではなく、あくまで、その渡る先の人たちの為に行われるべきなのではないか。

でもって、偉そうなのですよ。

わたしはその人が本当に鎮座ましますような位の人々なのかは知らない。
しかし、偉そう。
その奥に見えているのは
「私たちは人として、集団として、グループとしてとても正しいことをしている、という自己満足感と、正義感」そして「正しい事を仕切っているという優越感と満足感」ではないのか。

で、もちろん、私もそこを通るわけで、
「(高圧的に)どうぞ募金お願いしまーす!」
頭が高いんだよなー(感想)
立ちはだかられるわたし。
なぜだ。

ちなみに、わたしは募金活動自体を否定しているわけではないし、事実、もうとっくに募金振り込みはしている。(それで終わりかどうかはわからぬが)

わたしは聞きたい、
わたしは現場に行く為にいま、この道を通っているわけで、
それを、その道筋を遮るあなたは誰なのだ。
「Lクラブです、募金をお願いしています。」
あんたたちがLクラブなのかどうかもどうでもいいし、そもそもLクラブって、何よだし、
あなたの善意に、わたしが善意で答えると決まっているわけではないではないか。
「こちらで義援金受け付けてますんで」

…うるさい。
←人としてどうかと思うのだが、しかし、
我慢ならないわけだ。

その、「自分たちが正しい活動をしている」
(いやだから、募金活動自体がおかしい、とゆうことじゃないのよ)とゆう妄想から、
他人が「その善意」にのらない事が、
まるで「悪意」に出会ったかのようにしていること。
善意とゆう衣を纏って、普段行動の場所を妨害していることに気がつかない盲目さ。
おそろしい、

…邪魔なんですけど。

へ?
って顔をする。
心外ってこういう時に使うんだな…
ま、そうですよねぇ、、、
分からんやつに言っても仕方ない、とは思いながら。
なんか、更に偉そうな人たちが寄ってくる。

…だから、邪魔。

色々言われる。
まるで「こういう募金活動に参加できないとは人間ではない、それでも本当に日本人か、この非国民め」
と言われているようである。

わたしは日本人だし(特に愛国心はないが)
奥ゆかしい国民性からすればちょっとストレートな感想を言いすぎかもしれんが、

わたしは、仕事に遅れたくないのだ。
普通に駅への道を闊歩したいのだ。
そして、少なくとも、
そんな厚顔無恥なクラブからの募金活動に、ゼッタイに参加したくないのだ。
ひいては、善意の塊であるところのこういう行為自体にも疑念を抱いてしまう。

被災地を思いながら、
「何かやらなくては!」
とゆうのはよくわかる。
だから、節電にも協力するし、
自粛ムードの中、
日常を被災地域でない地域の人間が止めたらいかんだろ、と普段通り飲み屋に通うし(言い訳?)
芝居の(劇場の)明りも消してはいかんと思う思い、表現だからこそできることがあるとゆう思いも強いながら、こんな時でも需要があれば、仕事だからまっとうしようとするし、
でも、他人に善意を「強要」し始めた時に、
それは既に、何かからの逸脱である。「評価」を求めたらそれはもうボランティアですらない。
そして、そういう活動に自分、団体が「俺たちは正しいことをしているだろう?」と前面にクラブを押し出しながら、その行為自体に「酔っぱらって」いることに気がつかないのは
また別の被害につながっていくことに気がつかなくては。。。


大分落ち着いてきたけれど、
仕事上、言葉がことさらに強く受け取られることがあるから、気をつけている。
特に、3・11以降のあり方について。
盲目、狂信的なことにならないように。
わたしはわたしとして、演出とかをしている立場としてこう思う。
徒党を組むとは違う、
自分の頭で考えること、
そして、
そのことを疑いながら、
次の手を探すこと。
それぞれは違っていいのだ、

こんな考えても結論の見えない結果に対峙した時こそ、
人力が試されていると思うのだ。
「善かれと思って」何をするのか、ああ、難しい。。(この言葉は常に間違った時に使われる?)

お国をよい方向へと導いて行く筈の方々の、責任のなすりつけあいと、茶番ぶりを見るにつけ、これらが代表ならさもありなん、南無。。。

2011年06月02日(木)
初日 最新 目次 HOME