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■ CMHパンフレット掲載文
演出の戯言
コミュニケーションとゆうのは、普段当たり前のようにとっている気がしながら、実はとても難しいものだと痛切に感じている。
僕は聴者だ。
だから、本当に聞こえないとゆうことに関しては、想像はすれど、実感はやはりできない。
相手の側にたって、なんて意見が、いかに体よく無責任な言葉であることか…(とはいえ、その想像を捨ててはいかんのですが)
手がかりとして他の方と違うだろう部分は、かつて中耳炎であり「手術をしなければ、いずれ耳がきこえなくなる」とゆう手術を、物心つく前に両親が受けさせてくれたことぐらいだ。
コミュニケーションとは一体なんなのか、聞こえる同士でいれば、聞こえることを前提に相手がどう受けとるのかなんて、結構あさってにして喋っているのが常だし、
こうゆう機会に恵まれ、
初めて、普段どれだけ「耳」に頼って生きているのか、
「会話」「対話」とゆうものを、如何にいい加減に「そこにある当たり前のもの」として「ゾンザイ」に扱っていたか気付かされる。
そして、ひろえさんはじめ、ろうの方々と出会うことで、
普段、どれだけ五体満足な感覚を「鈍化」させて生きているのか、気付かされている。
「言葉」「身体」「感覚」全部使って、「感じあう」ことで
「壁」を越える。
最初に掲げたテーマと真っ向からぶつかっている今。
演劇という行為を、「コミュニケーションの再生」と言った先人もいる。今回は「コミュニケーションの発見」でもある。 とても豊かな時間だ。
真に人間のドラマにまで到達するべく―
これは一人の、大橋ひろえと言う、ろうの女性の著作を元にした物語である。 エネルギーに満ち溢れた彼女の、無限の可能性についての物語である。
でもそれは、ひろえさん自身が単にスゴかったからとゆうだけではなく、壁をひとつひとつ越えるのに、ぶつかり、悩み、苦しみ、助けられ、助け、やってきた結果(彼女にとってはあくまで過程!)の積み重ねであり、
立ち止まったり、ため息を吐いたり、前を向いているのがしんどくなったり、小さな痛みや悩みをたくさん持った人それぞれにとって、みんなの物語となれることを望んでいる。
本日はご来場くださいましてありがとうございます。
最後までごゆっくりご覧ください。
藤井ごう
2011年04月19日(火)
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