与太郎文庫
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2003年01月25日(土)  前橋スナック乱射事件

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030125
 Ex libris Web Library;週刊新潮 20160225 新潮社
 創刊60周年記念“特集;永田町の黒幕を埋めた「死刑囚」の告白”
https://ameblo.jp/eighty-eight88/entry-12130559237.html
 
…… 平成15年(2003年)1月25日午後11時半ごろ、前橋市三俣町の
スナックで、指定暴力団住吉会幸平一家矢野睦会の幹部組員2人が店内
などで拳銃を発砲し、客の市民ら3人を含む4人を殺害、指定暴力団
稲川会大前田一家本部長、後藤 邦雄元後藤組組長ら2人に重傷を負わせ
た。
 平成16年(2004年)2月に首謀者とされる矢野睦会会長、矢野 治と
実行役とされる小日向 将人が逮捕され、もう1人の実行犯として指名
手配されていた山田 健一郎も同年5月に逮捕された。
 事件の全容解明は、小日向 将人の全面供述によるところが大きかっ
たが、矢野 治、小日向 将人、山田 健一郎3人共に1、2審と死刑判決
を受けた。
 また銃乱射事件に巻き込まれ死亡した一般市民の男性の遺族が、住吉
会・西口 茂男総裁らに、使用者責任があるとして、およそ2億円の
損害賠償を求めた訴訟で、住吉会側は、使用者責任を認めて「深く遺憾
の意を表する」と謝罪したうえで、再発防止を約束、遺族に9750万
円を支払うことで和解が成立した。
 乱射事件は、2001年8月、前橋市の稲川会系大前田一家(解散)
の幹部2人が東京都葛飾区で営まれた住吉会系幹部の通夜で、住吉会
住吉一家向後四代目と滝野川一家七代目の総長を射殺した事件が発端と
される。
 稲川会は、住吉会側に大前田一家の「家名抹消」などを伝え、両組織
は手打ちとなったが、住吉会幸平一家上層部などが大前田一家の元組長
らへの報復を計画し、幸平一家矢野睦会が中心となって事件を引き起こ
した。
https://matome.naver.jp/odai/2139728068707520101


 津川 静夫 不動産業 1936‥‥  伊勢原 19960810 60 /絞殺
 斎藤 衛  不動産業 1949‥‥ ‥‥ 東京 19980408 49 /殺害
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181113-00010001-jomo-l10
 矢野 治   死刑囚 1949‥‥ ‥‥  /2003‥‥(69) 確定/元暴力団会長
 小日向 将人 死刑囚 19‥‥‥ ‥‥  /2003‥‥( ) 確定/実行犯/全面自供
 山田 健一郎 死刑囚 19‥‥‥ ‥‥  /20061128( ) 証言/実行犯
 後藤 邦雄      19‥‥‥ ‥‥ 前橋 20030125 ? /殺害
 □□ □B      19‥‥‥ ‥‥ 前橋 2003‥‥ ? /殺害
 □□ □C      19‥‥‥ ‥‥ 前橋 2003‥‥ ? /殺害
 □□ □D      19‥‥‥ ‥‥ 前橋 2003‥‥ ? /殺害
────────────────────────────────
 □□ □□      19‥‥‥ ‥‥   1996‥‥ 60 /行方不明
 □□ □□      19‥‥‥ ‥‥   1998‥‥ 49 /行方不明
 楡井 英夫  裁判長 19‥‥‥ ‥‥  /20181213( )東京地方裁判所

 
…… 死刑囚の元暴力団会長が、男性2人の殺害を告白する手紙を警察
に送って発覚した殺人事件の裁判員裁判で、東京地方裁判所は「手紙の
内容は信用できない」として無罪を言い渡しました。
 無罪を言い渡されたのは、住吉会系の元暴力団会長、矢野治死刑囚
(69)です。平成8年と10年に当時60歳と49歳の男性2人を殺害した罪
に問われていました。
 矢野死刑囚は、平成15年に前橋市のスナックで4人を殺害した罪で
平成26年に死刑が確定し、その後、警察に行方不明の2人の殺害を告白
する手紙を送って2つの事件が発覚しましたが、裁判では一転して
「手紙は出したが、内容はうそだった」などとして無罪を主張していま
した。
 13日の判決で、東京地方裁判所の楡井 英夫裁判長は、「手紙による
告白が唯一の直接的な証拠だが、被告には死刑執行を引き延ばすために
うその告白をする動機が十分にあり、信用できない。殺人の実行犯と
認定するには合理的な疑いが残る」と指摘し、いずれの事件についても
無罪を言い渡しました。
 刑法では、死刑囚に対して新たに懲役などの刑を執行できないと定め
ていて、裁判員たちは刑の執行がされない事件に対して判断する異例の
裁判となりました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181213/k10011745701000.html
 

http://twitter.com/awalibrary
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ検索)
http://booklog.jp/users/awalibrary(書籍目録)
 |
http://q.hatena.ne.jp/adlib/(はてなQ&A)
http://d.hatena.ne.jp/adlib+bilda/(準公開)
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=gswyn755
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030125
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)

 
(20181214)
 
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2003年01月24日(金)  本日多忙

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030124
 
 Let'20030123-0124 from Mr.馬場 久雄
 
 お元気でお過ごしのご様子嬉しく思います。
 冊子をわざわざお送り頂き有難うございました。
 懐かしい方々の文章と相変わらずのち密で豊富なデーターに感動を覚
えました(この文章もいつの日か掲載されるのではないかと不安に怯え
ています)。
 さて一昨年祇園で旧交を暖めてお互いの健在を確認し、夫々若い頃の
魂を持続していることに、安心を越えて諸兄に畏敬の念を感じた次第で
す。あれをきっかけに吉田兄と再度会食しました。今年も会う予定です。
 ところで同志社のカレソンのメロデイを私も映画で聞いた覚えがあり
ますが、カサブランカとは知りませんでした。「西部戦線異常なし」だ
と信じていました。またイエール大学校歌も同じだと言う新たな知識を
得ることが出来ました。ついでに有賀さんの Tell Me Why The sters
do shine のメロデイで同中の由良キャンプを思い出しました。連想ゲ
ーム的にいうと、キャンプで歌った「由良 will shine tonight」の曲
が立教大学のカレソンであることを後で知りました。(蛇足ながら)。
 皆さんメイルを駆使して通信をされていますが、私は私の「主義」で
メイルは使用していません。「主義」については次の機会にでも述べま
す。
 また京都に出て来てください。 お元気で。
────────────────────────────────
 馬場君は、ワープロで「メイルを使用しない主義」について書いてき
た。吉田君とふたりで意気投合したのかな?
 雑誌《日経パソコン》再購読の勧誘電話あり。
「わたしは15年間に酒もタバコも、ビデオ録画も新聞も止めたんだ。
こないだは百科事典も捨てちまった。それも《日経パソコン》が推進し
たインターネット生活に、はまったからだ。その結果タダで読めるのに、
再購読をすすめるのは、おかしいんじゃないか?」
「あっ、さようでございますか。ではまた機会がございましたら……」
 相手は、いそいで電話を切ってしまった。
(向こうもちの電話で、インターネット論を述べるつもりだったが)
 彼はテレアポ・セールスマンであろう。こうした契約社員の増加は、
成功報酬ばかりの社会構造となって“ムダ噺”の文化が廃れるのだ。
 溜息をついていると、宅配ピックアップ・サービスで、パソコン到着。
「天気晴朗ナレドモ、波タカシ」本日多忙なり。


2003年01月23日(木)  Hosanna Chorus

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030123
 
“ホザナ > ホサナ”Hosanna or Osanna

── 折しもエルサレムは過越の祭りにさしかかり、神殿に来拝する人
々で通常より人口が膨れ上がっていた。その中をロバに乗ったキリスト、
弟子たちと付き従って来た群衆が入城する。 (図版5−1)
 都にいてイエスを知らない人々はこれを見て驚き、知っている人や評
判を聞いていた人々は「主の名によって来られたかた、ダビデの子にホ
ザナ!」と口々に讃える。
 ホザナはH*sannaで、ヘブライ語で「今、我を救い給え」という意味。
口短調ミサにでてきたOsannaも同じ言葉で、民衆が口々に叫ぶ声がフー
ガで表される。
 エルサレムで神殿に入ったイエスはそこで商売をしていた人々を追い
払い
「祈りの家である私の家をあなたたちは強盗の巣にしている」と叫ぶ。
(マタイ21:12、マルコ11:15、ルカ19:45、ヨハネ2:13)(図版5−2)
 あまり自分からは物理的に物を壊したりしなかったイエスが、縄の鞭
で屋台や両替商の台などを壊しているくらいなので、相当なお怒りだっ
たのであろう。神殿で病人を癒す奇跡を行い、説教するイエスはユダヤ
教の指導的立場にいる律法学者やファリサイ派の人々の偽りの信仰を徹
底的に非難した。彼らの危機感は一気に高まり、やがてイエスを殺す計
略が企てられる。
── 《絵画にみるイエス・キリストの生涯》
── http://schneidt.hp.infoseek.co.jp/Bansan.htm

“ホサナ”の用例

── 1924年(大正13年)5月には、創立30周年記念祝典が行
われた。この時代、画家の吹田憲一氏、京大教授の波多野精一氏、絵更
沙の元井碧氏(元井叶兄の父)、同志社高校の美術の教師でありホサナ
コーラスを指導された中堀愛作氏、三高教授の山谷省吾氏、海軍の将校
であった堀外喜男氏(堀喜望兄の父)、京大助教授の松村克己氏、バル
ト研究において将来を嘱望されたが難病のため若くして死んだ松尾相氏
など、多彩な人々が室町教会に加わった(吹田氏と中堀氏の絵は現会堂
に飾られている)。
── 樋口 進《室町教会略史 199405・・ 室町教会》創立百周年
── http://www2.justnet.ne.jp/~higutisu/RYAKUSI.HTM


“愛作 & 伊佐久(誤=伊作)”from Isaac or Isaq
 
 中堀愛作・田中伊佐久・柳島彦作の諸先生を“同志社の三作”と称す。
 ひそかに与太郎が名づけたにすぎないが、中堀先生だけが教職者で、
あとの二人は聖職者(牧師)である。
 聖職者は、ときに芸人のようなパフォーマンスの才能が求められる。
開口一番、聴衆の心をつかむための工夫をこらすので、生涯を通じて
忘れられないものとなる。
 たとえば柳島牧師は、聖壇に立つや、割れんばかりの大音声で、
「カムチャッカ半島の……」と説教をはじめた。
 およそ九百人の中学生はドギモを抜かれたのだが、田中牧師の登場は、
もっと強烈だった。
「わたしの名は田中伊佐久、さかさまに読むと“クサイ・カナタ”……」
 この時の爆笑は、だれも忘れないが、そのあとの説教が思いだせない。
 そもそもイサクとは、旧約聖書の登場人物(イスラエル民族の族長)
に由来するが、日本名の“イサク”はまずい、ということで、中堀先生
の命名は英語読みの“アイザック”を採用されたのではないか。
 アイザック・ニュートン、アイザック・スターンで知られる。

── Isaac [aizak] n. 1 男の名《愛称 Ike》. 2 【聖】イサク
(Abraham の子、Jacob と Esau の父)。
── 岩崎 民平・他《新英和中辞典 196812・・ 研究社》P789

 中堀先生が、新島襄の一周忌に誕生されたことを、生前に語られたか
どうか定かではない。与太郎の世代からみると、もっぱら“ご老体”の
イメージだが、本来ホザナ・コーラス第一期OB(結成時のメンバー)
だったので、名実ともに終身指揮者をまっとうされたのではないか。
 一昨年、本宮先生のお宅で拝見した写真に、当時三十九才の中堀先生
が若々しいモダン・ボーイのような服装で柳島先生ともども写っている。
 十数人の生徒がピカピカのラッパを抱いているので、昭和5年ごろの
同志社中学吹奏楽部の結成記念と目されるが、誰がどのような理由で、
高価な楽器を購入したのか、翌年春に早くも栄光館に出演している。
 本宮先生によると、同志社中学高校管弦楽の発祥の謎であるらしい。

(のちに田中牧師は有賀誠一・勝村叡子の媒酌(19650320)をされた)


 名簿再編集によせて             中堀 愛作

 今度また三年生の有志の人たちのお世話で、新しい名簿が作られる事
になった。嬉しいことだ。ホザナコーラスの最初の名簿が出来たのは、
昭和二十九年高校卒業の、西垣喜光君、塩路良一君達が二年生の時、同
君等の並々ならぬ努力によって謄写刷りの第一号を出し、三十年十二月
に其れを更に改訂を加えて完成して呉れたのが、次年度三年生の原良之
祐君、山田英二君、小山素麿君たちであった。
 名簿を作ることは大変な仕事である。年々卒業して行く人々は、数年
過ぎれば殆んどみな境遇が変り住所も移り、姓名の変る人も出来て来る
のだから、之等を調査し訂正して名簿の作成に当るのは、並大抵な努力
で出来ることではない。ホザナコーラスの第一回の卒業は大正十二年だ
から、考えて見ると随分沢山の先輩と長い歴史とを持っているわけだ。
今の現役も日ならずして先輩の中に入って行き、ホザナの家族は年毎に
増加する。此所に先輩達をなつかしく廻想しつつ名簿第三号を送り出す
次第である。

 編集後記

 昭和30年に先輩の手によって完成された、ホザナコーラス先輩現役合
同名簿を見て、私達も頑張って再編集をしようと思い、此処に第3回の
名簿を作成する事が出来、私達一同心から喜んでおります。
 今回も殆んど全先輩に往復葉書で御伺いしたのですが、とにかく先回
の名簿編集から現在に至るまで、すでに4年半もの長い年月が、経って
いる為に転居されていらっしゃる方も相当多く、その後もいろいろと調
べたのですが、どうしてもその内6、7割は、はっきりしないままに、
とうとう発行する事になり、非常に残念に思っています。又、今回は都
合で少人数で編集致しましたため、まだまだ不充分ではありますが、中
堀先生を始めとして、先輩の皆様のご協力と励ましに依ってようやく此
処までこぎつけられました事を、感謝し又嬉しく思っています。
 尚、先輩の御住居、御職業に変更があり次第ホザナコーラスにも御通
知下さいます様、お願い致します。又“転居先不明”とある先輩方の新
住居について御存知の方がいらっしゃいましたら御面倒乍ら一言御連絡
下さいませば幸いに存じます。
 次回こそは本当に完全なものを作成致したいと思っておりますので、
今後ともよろしく御協力下さいます様、お願い致します。
── 《ホザナコーラス第3回先輩現役部員名簿 19600528》
── Let'19600522-0608


── 《ホザナコーラス第1回先輩現役部員名簿 1953・・・・》
── 《ホザナコーラス第2回先輩現役部員名簿 195512・・》
── 《ホザナコーラス第3回先輩現役部員名簿 19600528》蔵
── 《ホザナコーラス第4回先輩現役部員名簿 196・・・・・》
── 《ホザナコーラス第5回先輩現役部員名簿 196・・・・・》
── 《ホザナコーラス第6回先輩現役部員名簿 197112・・》蔵
── 《ホザナコーラス第?回先輩現役部員名簿 199703・・》

 同志社中・高ホザナコーラス部 非公認(?)ホームページ

 大先輩の部(定期演奏会に掲載されていない年度です)
 注。掲載氏名は名簿(1997年3月発行)に記載されていたものです。
 記載漏れ・誤字・脱字がございましたら、ぜひお知らせください。
 加筆・訂正させていただきます。         
 空欄は資料がないところです。お手持ちのものがございましたら、ぜ
ひお知らせください。よろしくお願いいたします。(敬称略)  
── http://www.biwa.ne.jp/~t-fujita/
── http://www57.tok2.com/home/hosannafamily/index.htm

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 各号の名簿編集者は、つねにわかくて未経験のため、過去のデータを
活用したがらない傾向がある。また、姓名の誤植が多く、しばしば改姓
後の同定が困難なケースがある。改姓後の姓名から引くよりも、旧姓の
ままの索引であるほうが合理的だが、編集者たちの思いこみによって、
混乱を増している。
 この時代、カード分類が全盛と伝えられていたにもかかわらず、実は
普及していなかったようである。
 手もとに残る名簿二冊と、HP(定期演奏会・大先輩の部)によって
エクセルに転記しておく。
(Day'20021006)(20130209)
  
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2003年01月22日(水)  深窓の真相

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030122
 
 革島 香 ピアノ・リサイタル 〜 演奏会評 〜    出谷 啓

 これは「京の俊英演奏家シリーズ」の第19回に当り、革島は京都の生
まれで、桐朋学園からパリのエコール・ノルマル音楽院に留学、2001年
の9月に帰国して以来、関西を中心に演奏活動を続けている。今回のプ
ログラムは、ハイドンのソナタ第20番ハ短調、武満徹の「雨の樹素描」、
フォーレの主題と変奏、それにラヴェルの「鏡」というもの。

 演奏はフォーレが、最も充実していたように思う。音色の変化に神経
を使い、各変奏を丁寧に描き分け、しかも楽器を十分に鳴らし、最も安
定した演奏になっていた。彼女の場合はメカニックの面がそう強くない
のか、全体にサウンドが軽く、音の中心が高音域に集中する傾向がある
が、このフォーレでは弾き込みが十分だったせいか、平均した音域でそ
れぞれの音が鳴りきっていたと感じられた。
 反対に最も魅力薄だったのが武満で、これは曲が短過ぎるせいもあっ
ただろうが、表現そのものが表面的で、彼女の軽いタッチと音色感がマ
イナスに働いた例だろう。決して不愉快な音を出さず、音色のコントロ
ールにもいろいろ工夫をしているのが分かるのだが、いささか消化不良
のまま終わってしまったようだ。
 ハイドンはペダルを節約した清潔な表現で、古典派のクラフィーアサ
九品にはふさわしいアプローチだったといえる。音楽の表現が丹念過ぎ
て、冗長感がなかったとはいえないが、これだけ端整にハイドンを弾き
上げれば、合格点を献上して差し支えないだろうと思う。

 ラヴェルは例の高音域に音が集中するスタイルだったが、ハイドンの
ようなケアレス・ミスもなく、洗練された小じんまりした趣味の良さを
窺わせていた。とにかく革島の場合は、軽めではあるが音色の美しさと、
控えめな表現にその美質があり、さらに感性とセンスに磨きがかかった
とき、優れたピアニストに成長するだろう。
(1月12日・京都府民ホール・アルティ)
── http://homepage3.nifty.com/detani/new_page_1.htm

 このホームページは、あっというまに削除されるので、気づいたらす
ぐにコピーしておかねばならない。おまけに、筆者に質問することもで
きない。(実はメール番号を教えてくれたのだが、非公開らしいので、
たいした用でもないのは迷惑だと察して、ここで書くことにした。)
(20030122)


from:kei detani [********@symphony.plala.or.jp]
Mail'平成19/01/18 (木) 1:27→正しくは平成15/0118 (土) 1:27
Sub:返信の件

 郵便確かに拝受しました。なお小生の生年月日は、1940年の6月14
日です。また電子メールのアドレスは、次のとおりです。
********@symphony.plala.or.jp

Mail'2003/0118 (土)

 簡潔な返信をありがとう。
 貴君のパソコンは、あやまって平成19年(2007)に設定されており、
曜日がずれている。(以下略)
                         阿波 雅敏

 革島医院の外観写真
── http://www.tcn.zaq.ne.jp/sakitaka/kentiku/kawasimaiin.html


■2003/01/22 (水) 深窓の父娘 

 京都うまれの革島家の令嬢がピアノ、ときけば、後輩の革島良子の娘
かと思ってしまう。
 革島医院の前を、ヴァイオリン・ケースを下げた少年が通りかかる。
 少年が見上げると、二階の窓からピアノの音が聞こえてくる。
 ♪ドビュッシー《雨の庭》……。
 少女の練習が終わると灯りが消えて、少年も、とぼとぼ帰途につく。
 以上は、半分は真実であり、半分は与太郎の想像による。
 少年の名は(いまのところ)明かせないが、すぐ近くの十字屋楽器店
でレッスンを受けた帰途である。
(十字屋は三条寺町、革島医院は麩屋町六角)
 数年後に、少女は、与太郎の指揮する同志社高校シンフォニエッタの
琵琶湖一周演奏旅行にゲスト・ピアニストとして参加している。さきの
少年が参加していたかどうかも(いまのところ)明かさない。
 このときの楽器紹介で、彼女が一節弾いたのが《雨の庭》である。
 同志社中学高校から女子大学音楽学部に進んで、そのまま教職につく。
同志社女子中学高校の音楽教諭となったらしい。

 NHKプロデューサーの阿満利麿(現=明治学院大学国際学部教授)
氏と河原町を歩きながら、つぎの教育番組の司会者は、どんなタイプの
女性が望ましいか、というような雑談をしていた。このとき、女子大生
だった彼女に出会ったのである。
「阿満さん、さっきの話ですが、いま通りすぎた娘は、どうですか?」
「きみに会釈していった女性かい?」
「そうです、高校時代の後輩で、ピアノが弾けるし、歌もうたえます」
「いいじゃないか。きみの知りあいなら、話してみてくれないか」
 その夜すぐに電話すると、彼女はしばらく考えてから、こう答えた。
「わたし、いまとてもピアノを大切にしてるんです。将来も、ピアノの
お仕事ができるかどうかわかりませんが、できるだけ頑張ってみたいん
です。こんどのお仕事をお受けするには、ピアノの時間を減らすことに
なるかもしれないのが心配です。あとになって(そのお仕事をしてみた
かったと)後悔するかもしれませんが、いまの気持ちは、ピアノに決め
ておきたいのです」
「そうか、わかったよ。がんばりなさい」
 せっかくの話だったが、彼女も心をこめて答えてくれたのだ。
 そのまま伝えると、阿満さんも残念そうだった。
「きみが推薦するだけあって、しっかりしてるね」

 与太郎は、あるいは彼女が思いなおすかもしれないと考えて、阿満氏
が有能で、京都放送局きっての紳士であることを手紙で書きおくったが、
返事はなかった。
 何年かたって、与太郎は「ロンパー・ルーム」という子供番組をみて、
うつみ・みどり(現=うつみ・宮土理)というタレントの存在を知る。
 やれやれ、深窓の令嬢はテレビなんか出なくてよかった。
 うっかり人気が出たりして、変なオジサン(愛川欣也)なんかと結婚
したりしなくてよかった。“ケロンパ&キンキン”夫婦はともかくも、
バラエティ番組などで、チャラチャラしゃべる姿は想像したくない。

 与太郎のパソコンでは、彼女の消息は同志社女子中高音楽教諭になる
あたりで途切れている。つまり、結婚したかどうかも分らない。すると
彼女が、革島香の母だとすれば、ムコどのでも迎えたのだろうか?
 与太郎の同期生に、同姓の革島八重子嬢(三歳上の親戚か)がいて、
どちらも世代的には合うが、あまり似ていない。

 いかに革島嬢が“深窓の令嬢”であるか、つぎのエピソードが語る。
 かつて自家用車を持っていたのは医師である。大病院の院長クラスは
運転手つきの外車だったが、中小医院の院長が自分で運転しはじめたの
は昭和三十年代の“マイカー・ブーム”第一世代である。
 革島嬢の父、革島史良院長はその“はしり”でもあった。
 世の中の動きにつれ、すすめられるままにフランスの小型車ルノーを
買った。もちろん免許取りたての、ホヤホヤである。
 父上は、麩屋町六角の自宅を出発して、南に向い、四条通りに出た。
 四十五年前とはいえ、いまもむかしも京都いちばんの交通量である。
 当時は信号などなかったので、父上は慎重に左右を確認した。よし、
右からやってくるトラックが行きすぎたら、交差点を渡ろう。すると、
またしても左からタクシーがやってきた。よろしい、さらに慎重にやり
過ごして、ふたたび右を見ると市電が走ってくる。うーむ、これにも先
を譲って、左をみると三輪車がやってくる。右にはリヤカーも見える。
 というような次第で、父上が慎重であるほどに、やがて日が暮れて、
「今日はアブナイから明日にしよう」と決断して、自宅に戻ったという。
 あくまで伝説であるから、与太郎もすべて信じているわけではないが、
だれもが「さもあらん」と一様にうなづくのである。
(20030122)


2003年01月20日(月)  Happy Birth-Day !!

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030120
 
 Mail'2003/01/20 (月) 15:11 Re: 楽譜目録
 
 阿波 雅敏 様
 
 さっそく膨大な楽譜目録、どうもありがとうございました。
 私は現役当時何しろあまり熱心な部員ではありませんでしたので、覚
えのある曲は少ないかも知れません。
 また重複しているものなどもございますので、目録分の中でどの曲を
掲載させていただくかは私の方にお任せいただくことになりますが、か
まいませんでしょうか?
 スキャナーの作業、やはりお忙しいようですから私の方でさせていた
だいた方が良いかもしれませんね。
 しばらく楽譜をお預かりさせていただいて”ボチボチ”という作業に
なりますが、そのようにさせていただいてもよろしいでしょうか?
 また、外注など”費用”の発生する方法は当ページでは全く考えては
おりませんので、どうぞ私のほうにお申し付けくださいませ。(どうし
ても”楽譜”の管理がご心配でしたら”断念”いたしますが(笑))
 
>掲示板の“訂正”(昭和58年度→昭和33年度)
「小生は、同志社高校(昭和33年度)19590331卒業です。」<
 数字の誤りについては承知しておりましたが、書き込み内容をこちら
で勝手に書き換えるという行為が憚られましたのでそのままにしており
ました。訂正のご希望を確認しましてからコッソリと訂正いたしますの
でお申し付けください。
 
>あなたのホームページは“非公認”ということですが、ほかに“公式”
のホームページは見あたりませんね。<
 ホザナコーラスの公式HPとしては「中学ホザナ」のものが存在します
が、それ以外には今のところどなたもお創りにはなってはいないようで
す。私自身、自分の高校時代のクラブ活動を少し懐かしむ年代となり
(現役当時はとても”熱心”とは言えない部員でしたのに)、少し探し
ては見たのですがどなたもそのようなことをされてはいないようでした
ので、自分自身が楽しむという目的もあり、ホザナのHPを勝手に作って
しまったという経緯です。したがって、”非公認”という但し書きがつ
いたままになっております。
 
 最後になりましたが、阿波様のお名前が同学年の皆様の中で記載漏れ
しておりましたこと、深くお詫び申し上げます。
 大先輩(概ね60年代半ば以前に高校ご卒業)の皆様につきましては手
持ちの名簿より転載いたしましたが、名簿に掲載されていない方が多数
おられるようです。
 また、少しだけ在籍されていた方は相当数おられるかも知れませんが、
そのような方々のお名前は全く分からない状態です。
 阿波様のようにご自身で名乗りを上げていただきますと、私自身”冷
や汗もの”ですがとても助かります。
 早速有賀様、立石様たちの学年へ追加掲載させていただきたいと存じ
ますが、よろしいでしょうか?
 
 また、阿波様のHPを拝見したところ、本宮先生のことなど、とても懐
かしいことや興味深いご発言にしばし時間を忘れて見入ってしまいまし
た。少し年代の差はありますが、共有できることもいろいろとありそう
です。これをご縁に今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
 あっ、今日はお誕生日だったのですね。
 おめでとうございます!!
 
 藤田 隆
 
 
Mail'2003/01/20 (月) 23:<<
 
 藤田 隆  様
 
 訂正の件、名簿追加の件、よろしくお任せします。
 なにしろ小生は一月生まれで、小学校二年生と高校二年生を繰返した
ため、同期生の数は三倍におよびます。
 同志社中高同窓会では、高校卒業年度ごとに単純分類していますが、
小生にとって、最後の二年間よりも、五年間一緒だった同窓生のほうに
親友が多いのです。
 古いホザナOB名簿(誕生日入り!)を、エクセルで編集したCDが
ありますので、のちほど(楽譜と一緒に)お届けしましょう。
 旧姓・改姓・復姓など、プライバシーに抵触するデータについては、
表示方法などに慎重な配慮が必要かと思います。亡くなられた先生方の
生没年月日についても、信頼されるような“公式ホームページ”に発展
されるよう、期待しています。
 
 小生は、同志社高校器楽部「シンフォニエッタ」結成時(1956-1960)
のエピソードをすこしずづ公開するつもりです。
 ことし春の、ホザナ・コーラス演奏会のプログラムに、本宮啓先生が
「同志社中高管弦楽団略史(仮題)」を執筆されるそうです。
 → http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20011123
 
 
Mail'2003/01/20 (月) 05:00
 
 お誕生日 おめでとうございます!! 
 さるさる日記より、お祝い申し上げます
 
 いつもさるさる日記をご利用くださいまして、ありがとうございます。
 今日は与太郎さまの64歳のお誕生日ですね!おめでとうございます♪
 与太郎さまにとって、64歳が素敵な年になりますように!
 
 ところで、もうお誕生日の日記はつけられましたでしょうか?
 この特別な一日を、ぜひ思い出の1ページに残してくださいね。
 
  与太郎さまの日記
  http://www2.diary.ne.jp/user/174942/

 それでは、これからも『さるさる日記』をよろしくお願いします。
 
*-----------------------------------*
日記レンタル 『さるさる日記』
E-mail:info@diary.ne.jp
URL :http://www.diary.ne.jp/
*-----------------------------------*
 
 
 日本人クローンが「きょうにも誕生」、宗教団体が主張
 2003 年 1月 20日 Yomiuri On-Line
 世界初のクローン人間を誕生させた、と主張している新興宗教団体
「ラエリアン」は19日、「日本人の男児のクローン人間が20日にも
誕生する」と述べた。ラエリアンの日本の広報担当者によると、日本人
の夫婦が1年半前に事故で死亡した2歳の男児のクローン作りを、教団
の関連会社「クローンエイド」に20万ドル(約2400万円)を払っ
て依頼したという。
 詳細は23日にも記者会見を予定しているとし、現段階で出生地など
は明らかにしていない。
 ラエリアンは昨年末に米国でクローン人間の誕生を発表、今月4日に
はオランダ人のクローン人間誕生を発表している。しかし、両例ともク
ローン人間であることを証明するDNA検査は行われておらず、専門家
の間では発表の信ぴょう性を疑問視する声が強い。
 日本は、クローン技術規制法で、国内でのクローン人間作りを禁じて
いる。ただ、日本人が海外でクローン人間を作っても、処罰はできない。
 
 
 カトリックの政治家は中絶に反対を…バチカン通達
>>
 
 2003 年 1月 18日【ローマ=秦野るり子】
 バチカン(ローマ法王庁)は16日、カトリック教を信じる世界中の
政治家に対し、妊娠中絶や同性間の結婚を合法化する動きなどに反対す
るよう求める「教義的通達」を発表。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世指
導のもと、「生と性」の問題に保守を貫くバチカンの方針を再確認した。
 「通達」は、立法の過程で政治家が「『多様性』、『寛容』、『選択
の自由』の名の下に妥協することは許されない」と言明。クローン技術
を厳しく規制する法整備の必要性を改めて訴えた。
 
<<
 


2003年01月19日(日)  おぢいさんの古楽譜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030119
 
 2003年01月17日 平井 堅 (19720117生) 31歳の誕生日
 
── 《おぢいさんのふるどけい/おじいさんの古時計》
◇[英]My Grandfather's Clock
○[楽]アメリカの歌謡作家ワーク(H.C.Work)作曲のアメリカ民謡。
「大きな古時計」とも呼ぶ。◎1876(明治 9)作曲。
── http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/japanese/oka.htm
 
 作曲 WORK,Henry Clay (18321001-18840608,51)
 原題《ジョージアへの行進》“チック・タック”の語源か?
── 《古時計のルーツを求めて 20010810 23:00-23:50 NHK》
 
 通説の日本初登場は《みんなの歌 1962 NHK》というが、与太郎の
もっているガリ版刷りの楽譜には日付がないものの、同志社高校二年生
(1956-1957)以前のものである。
 与太郎がホサナ・コーラスに在籍したのは1955年以後だから、おそく
とも五年前に日本語に訳されていた。
 ホザナ・コーラス非公式ホームページ掲示板に投稿。
→ 《虚々日々 20001231 阿波文庫》P36-37“楽譜目録”参照
 
 古楽譜 投稿者:与太郎 投稿日:2003/01/19(Sun) 15:25 No.467
 
 小生は、同志社高校(昭和58年度)19590331卒業です。
 ホザナ在籍は 1955-1956(同期に、立石義雄・有賀誠一両君など)。
 当時の、ガリ版刷り楽譜(約50曲)を保管しています。
 これらを(できれば全曲)Web公開していただけるなら、ぜひとも
提供したいと存じます。容量など技術的課題についてご検討ください。
── http://www57.tok2.com/home/hosannafamily/yybbs/yybbs.cgi
 
 
 ガリ版の《おぢいさんのふるどけい》の訳詞は、つぎのように古い。

1.おとぎのくにの やまよかわよ こびとたちよ
  シンデレラのおひめさまよ きえていまはいずこ
  たのしよるがおとずれたのに ふりこのうごかない
  とけいとけい おぢいさんのふるどけい
2.おさないころのゆめが いつもむねにうかぶ
  しろいひげに まるいせいの おじいさんのすがた
  やさしこえはきかれないけど あのひのときをさす
  とけいとけい おぢいさんのふるどけい
 
 これだけでは訳詞者も編曲者もわからないが、見開きに印刷されてい
る《海女の子供》には、つぎの署名がある。
 Ar. by Y.Nishimura / Cop.by K.Hasegawa
 OB名簿によれば編曲者は、西村義雄(1930生1948卒)氏とみられる。
同世代の《少年ジャンプ》編集長と同一人物かもしれないが確証はない。
── 創刊に関わり編集長も努めた西村義雄著「さらば、我が青春の少
年ジャンプ」(幻冬社文庫)、「漫画王国の崩壊」(ぶんか社)
── http://www1.ocn.ne.jp/~wanted/recruit/publish.html
 
 二曲とも、ガリ版の筆耕者は、長谷川和彦(1935生1953卒)あるいは
長谷川邦男(19371019生1955卒)両氏いずれか。与太郎の在籍年から推
して後者の可能性が高い。この人たちにたずねれば、訳詞者がだれで、
当時どんな事情からこの曲が選ばれ、初演されたかが判明するであろう。
 おどろいたことに、長谷川邦男氏は Four by Four というアマチュア
男性クヮルテットのトップ・テナーとして、いまなお現役であることが
わかった。あいにくメール・アドレスが見あたらないのが残念だ。
── http://www5a.biglobe.ne.jp/~crl-4by4/page13.htm
 
 与太郎自身は、《おぢいさんのふるどけい》を練習した記憶がない。
《海女の子供》も、中学時代に連日キャンプ・ソングとして歌ったので、
(いかに不朽の名曲といえども)ホザナ・コーラス演奏会の演目として
そぐわないのである。
 
 
Mail'2003/01/19 (日) to:info@tagoto.com
sub:《おぢいさんのふるどけい》について
 
 御蕎麦 本家田毎 堀部 勝也 様  気付
 
 まことに恐縮ですが、長谷川邦男さんのアドレスがわかりませんので、
このメール・アドレスをお借りして送信いたします。
 なにとぞ、ご高配ください。
 
 長谷川 邦男 様
 
 小生は、同志社高校ホザナコーラスでは二年後輩にあたります。
 このほど、ガリ版の楽譜《おぢいさんのふるどけい》を発見しました。
 西村義雄・編曲《海女の子供》と見開き印刷されていますが、右頁の
《おぢいさんのふるどけい》には、訳詩者・編曲者の記載がありません。
 印刷者の署名が、あなたのものと推定されますが、あなた自身の訳詩
・編曲であれば、どのような事情で選曲されたのか、あるいはいつ初演
されたのか、知りたいと思い、ご連絡いたします。
 このことについて、先にホザナコーラス非公式ホームページ掲示板に
投稿しましたので、こちらにご回答いただけるとよろしいかと存じます。
 
 古楽譜 投稿者:与太郎 投稿日:2003/01/19(Sun) 15:25 No.467
 小生は、同志社高校(昭和58年度)19590331卒業です。
 ホザナ在籍は 1955-1956(同期に、立石義雄・有賀誠一両君など)。
 当時の、ガリ版刷り楽譜(約50曲)を保管しています。
 これらを(できれば全曲)Web公開していただけるなら、ぜひとも
提供したいと存じます。容量など技術的課題についてご検討ください。
── http://www57.tok2.com/home/hosannafamily/yybbs/yybbs.cgi
 
 この発見にいたる経過は、小生のホームページにも記していますので、
あわせてご高覧ください。
── http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030119
 
 早々      与太郎 こと 阿波 雅敏(19390120生19590331卒)
 
────────────────────────────────
── http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 *(与太郎あての返信は、上記のWeb上で公開されることがあります)
 
 
■2003/01/20 (月) 楽譜目録
 
 藤田 隆  様
 
 さっそくご返信ありがとうございました。
 やはり自分で、デジタル画像化したほうがよさそうですね。
 スキャナーの作業をはじめると、他の予定がずれこむので、あんまり
気のりしないのですが、すべて外注するなら、いかほど用意すればよい
でしょうか? 
 とりあえず、曲名だけのリストを送信しますので、ご検証ください。
 
“楽譜目録”ここでは曲名のみ、複数の印刷者による重複あり。
 
《姉妹》
《樅の木》
《鐘が鳴る》
《ああ主よみみをかたむけ》
《歩け若人》
《草刈の歌》
《草刈の歌》
《紅いサラファン》
《海女の子供》
《海女の子供》
《おぢいさんのふるどけい》
《同志社中学生のうた》
《同志社中学生のうた》
《送別の歌〜卒業式の歌》
《送別の歌〜卒業式》
《送別の歌〜卒業式の歌》
《アロハオエ》
《静かなるアフトン河の流れ》
《静かなるアフトン河の流れ》
《HERRICH HABE MISSGEHANDELT》
《Stars of the summer night》
《Stars of the summer night》
《山の端に日はおちて》
《Carry Me Back To Old Virginny》
《スコットランドの花》
《スコットランドの花》
《山辺に向かひてわれ》
《主をほめたたえよ》
《Praise to The Lord》
《岩倉愛唱歌》
《〜つきはきよく》
《庭上の一寒梅》
《〜讃美歌392/409/175》
《〜詩篇33-1.2》
《Beautiful Suviour》
《いざやともに》
《サリマライズ》
《きらめく星》
《帰雁》
《おもちゃの音楽》
《ナザレのふせや》
《ふなうた》
《阿蘇》
《世界をあげて》
《川》
《蛍の光》
《いと高き所より》
《Ave Maria》
《Ave verm Corps》
《わがつみよりかおそむけて》
《主よ汝がしもべをば》
《主よ汝がしもべをば》
《祝日頌〜降誕節》
《OHoly Night》
《ノエル・ノエル》
《樅の木まなかに》
── 《虚々日々 20001231 阿波文庫》P37
 
 追記
 
 掲示板の“訂正”(昭和58年度→昭和33年度)
「小生は、同志社高校(昭和33年度)19590331卒業です。」
 
 あなたのホームページは“非公認”ということですが、ほかに“公式”
のホームページは見あたりませんね。参考にすべき例では、同志社大学
マンドリン・クラブと卒業生の団体SMD会の《詳年譜》があります。
── http://www.smd-kai.gr.jp/nenpu/n_main.html
 
 ではまた。  阿波 雅敏
 
>>
 
 大ヒット「大きな古時計」、印税の行方(夕刊フジ)
 2002年09月24日 Yomiuri On-Line
 今年、ミリオンシングル不発のCD業界で、ヒットチャート4週連続
1位の快進撃を続け、100万枚セールス目前の歌手、平井堅(30)
「大きな古時計」に期待がかかっている。126年前の歌で印税の行方
も注目されるなど、今年後半の話題をさらに集めそうだ。
 原題「My Grandfather’s Clock」の同曲は
1876年にヘンリー・クレイ・ワーク(米国)に書き下ろされ、日本
では1962年のNHK「みんなのうた」で知られるようになった。
 昨年8月、平井出演のNHKドキュメンタリー「平井堅 楽園の彼方
にアメリカ・大きな古時計を探して」をきっかけにファンからCD化の
要望が殺到。同局「みんなのうた」での起用を前提にシングル化、今年
8月28日に発売された。
 当初から大反響となったが、「みんなのうた」の効果も大きかった。
都内のレコード店販売担当者によると、「平井のファンというより、フ
ァミリー層が多い。高齢層も『懐かしい』と買っていく人が増えていま
す。ただ、幅広い層にアピールできたのは何といっても平井が歌ったか
ら。平井のボーカルが楽曲にマッチしていた」。
 一方、今回のヒットで波紋もあれこれ。業界では「ヒット作りの大穴」
と、NHK「みんなのうた」が改めてクローズ・アップ。放送関係者に
よると「企画が殺到、来年の春まで枠がまったくない状態」とか。
 また、「印税はどうなるのだろう」という声も浮上。関係者によると、
「この楽曲は、すでに著作権がない」という。すでに作者が亡くなり、
保護期間の50年も過ぎているためで、平井のCD音源を制作したNH
Kと所属事務所などが「原盤権」として保有することになるともいう。
 JASRACから著作権(印税)が発生する可能性のある訳詞者もす
でに他界。関係者は「訳詞者の家族に渡ることになるのか…。こういっ
た形のヒットはあまり例がなく、計算の仕方も複雑」と頭を悩ませてい
る。
 ちなみに同曲には“続編”もあり、平井は「機会があったら、歌って
みたい」と、第二弾にも意欲を見せているという。
 
 
 平井 堅 今度は“センバツ出場”
 2003年01月16日 07時17分 更新 [スポーツニッポン]
 平井堅(30)が昨年歌って大ヒットした童謡「大きな古時計」が、第
75回選抜高校野球大会(3月22日から11日間)の開会式入場行進曲にな
ることが15日決まった。童謡が使われるのは初めて。NHK紅白歌合戦
に出場したことで再びセールスを伸ばしているだけに“センバツ出場”
とのダブル効果で、ミリオンヒットも射程圏内に入った。
 前年度の話題曲から選ぶのが恒例となっているセンバツ行進曲は、い
わば「国民的ヒット曲」の証明。数ある“強豪曲”の中から、世代を超
えて親しまれた「…古時計」がその称号を手にした。
 決定の理由は「子供からお年寄りまで幅広く親しまれ、平井堅さんの
歌唱により若者にも広く浸透した同曲は、世代を超えて親しまれている
高校野球のイメージと合致する」(毎日新聞社スポーツ事業部)という
点。
 問題となるのが、およそ行進曲には似つかわしくないゆっくりとした
テンポ。48年(昭23)大会の「鐘の鳴る丘」以来、センバツ行進曲の編
曲をたびたび手掛けている指揮者で作曲家の永野慶作氏(74)が今年も
担当し、アップテンポの明るいマーチ調にアレンジするとみられる。録
音は来月4日に行う予定。
 平井は14日に仕事で渡米したためコメントはないが“センバツ出場”
はうれしい勲章。97年に九州朝日放送の高校野球中継のイメージソング
「HEAT UP」を製作し、少年時代に父親とキャッチボールしてい
た時の自らの思い出を歌にした「キャッチボール」も発表していただけ
に、行進曲決定を知らされた時にはとても喜んでいたという。
 また「紅白出場」の効果で、年明けのヒットチャートで再び11位まで
急上昇し、売り上げも85万枚を突破した中での“センバツ出場”は強い
追い風になりそうだ。【歴代センバツ行進曲】
 
<<
 


2003年01月18日(土)  憂国

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030118
 
 読売新聞vs週刊新潮、広告でバトル! (夕刊フジ)
 2003 年 1月 16日
 16日発売の週刊誌「週刊新潮」の新聞広告をめぐり、同日付の読売新
聞朝刊は一部を削除して掲載している。本来の広告内容では、読売新聞
販売局を「伏魔殿」と表現しており、同新聞側が「容認できない」など
として、同誌を発行する新潮社に削除を申し入れたという。
 削除された広告の見出しは、「読売新聞の伏魔殿−裏金スキャンダル
『販売局』に国税のメスが入った」。(略)
 
 
 本社、週刊新潮を提訴「販売裏金報道は事実無根」
 2003 年 1月 17日
 16日に発売された「週刊新潮」の記事について、読売新聞東京本社
はきょう17日、発行元の新潮社を相手取り、名誉棄損を理由に謝罪広
告の掲載と1億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こす。
 「読売新聞の伏魔殿『販売局』に国税のメスが入った 裏金スキャン
ダル」と題するこの記事は、〈1〉東京国税局の税務調査で読売の販売
局に関し数十億円の使途不明金が出た〈2〉販売局は新聞販売店へ支出
する補助金の一部をキックバックさせたり支出を装って裏口座にプール
したりする方法で裏金を作っていた〈3〉販売局はもともと、わけの分
からない支出がたくさんあって裏金を作りやすく、伏魔殿のようなとこ
ろだ――などと報じた。
 これに対し、読売新聞社は「販売局のみならず他の部局に関しても税
務調査で使途不明金が発覚した事実はなく、販売局が裏金を作っている
事実も一切ない。本社から販売店への補助金などは制度としてきちんと
整備されており、キックバックや裏金プールなどの不正が行われる余地
はない」と反論。訴状で「記事は徹頭徹尾、虚偽と評するほかない」と
主張している。
 読売新聞社は、週刊新潮が取材していた段階で、事実無根であると説
明したうえ、記事を掲載すれば法的措置を取ると事前に書面で警告した。
それにもかかわらず週刊新潮が記事の掲載を強行したため、提訴を決め
た。
 読売新聞東京本社・滝鼻卓雄専務(広報担当)の話「週刊新潮の記事
はすべて事実無根です。事前にその旨を十分説明して注意したにもかか
わらず、掲載を強行したのはあまりにも悪質で、許しがたい虚報と言わ
ざるを得ません。言論機関としての当社の社会的評価に重大な影響があ
るので、提訴します」
 
 
 [フィリピン] アロヨ大統領の「不出馬宣言」で与野党混迷
 2003 年 1月 15日【マニラ井田純】[毎日新聞1月15日]
 昨年末に、アロヨ大統領が04年の次期大統領選に出馬しないと表明
して以来、フィリピン政界は与野党入り乱れた混迷が続いている。与党
側ではアロヨ政権の前閣僚が立候補に意欲を示す一方、大統領本人は次
期大統領選挑戦もうわさされていた最大野党の党首と急接近。さらには
「不出馬宣言」自体に懐疑的な声も残っており、選挙をにらんだ動きも
本格化し始めた。
 アロヨ大統領は昨年12月30日、「私が立候補すれば、国内の政治
的対立はさらに激しくなる」と述べて、突然の不出馬宣言を行った。そ
れまでは、折に触れて長期的な政権構想を示すなど、次期選挙でも与党
連合側の統一候補になると目されていただけに、国内の反応は大きかっ
た。
 01年1月、エストラダ前大統領の不正蓄財疑惑による失脚で成立し
たアロヨ政権は、前大統領派との対立を引きずってきた。政権基盤の弱
さから主要な政策課題でも大きな成果を上げられず、側近閣僚や夫をめ
ぐる金銭スキャンダルも次々に浮上、最近の支持率は4割台に落ち込ん
でいた。大統領は今年に入って、政争や国民の間の亀裂を解消する「挙
国一致」を掲げ、残り任期で経済改革などの課題に取り組む姿勢を強調
している。
 国立フィリピン大のランドルフ・ダビッド教授は、大統領の決断を
「これまでの政治家にはない勇気ある姿勢」と評価する。同教授は、不
出馬宣言前に、政権存続を図る大統領を批判するコラムを発表したこと
もあるが、「立候補しないと明らかにしたことで、本来の政治課題に集
中する環境を得た。これからの約1年半、経済の立て直し、反政府武装
勢力との和平などに取り組むよう期待する」と話す。
 「アロヨ後」をめぐり、与党連合の一部は先週、ロコ前教育相の擁立
を発表。ロコ氏は最近の世論調査で「大統領にしたい人物」1位にもな
るなど国民の人気も高く、本人も最近の会見で「汚職根絶に取り組みた
い」と意欲を見せている。しかし、アロヨ大統領を支えてきた最大与党
「ラカス」は、候補者の決定を先送りしている。
 一方、アロヨ大統領は、エストラダ政権の官房長官だった最大野党
「民主の戦い」党首、アンガラ上院議員と会談。その後、アンガラ議員
が「次期大統領選には出ない」と表明、政権に協力的な態度も見せ始め
ており、大統領による新たな連立枠組みの模索と受け止められている。
 こうした動きを踏まえて、アロヨ大統領が最終的には宣言を撤回し、
大統領選に出るのではないか、との見方も消えない。支持者の間では
「野党の協力を取り付けて経済改革などで成果を上げ、支持率の回復を
図ればいい」との声もある。今後、野党側候補の人選や、与党連合内の
駆け引きも活発化するとみられ、比政界の行方は不透明だ。
 
 
 比が日本の高齢者受け入れ 大統領が意向
 2003 年 1月 17日【マニラ=源一秀】
 フィリピンのアロヨ大統領は17日、大統領府で読売新聞社など邦人
記者団と会見、「我が国内で、日本の高齢者に介護施設を提供する用意
がある」と述べ、今後、日本人の高齢者を大規模に受け入れられるよう
に、日比両国間で協議する意向を示した。
 比政府は、両国間で協議中の「経済連携協定」に絡み、日本側に、
フィリピン人介護要員の就労許可を求めているが、日本側から好ましい
反応が得られないことから、逆に日本の高齢者を受け入れる姿勢を示し
たものだ。
 アロヨ大統領は「我が国は日本と飛行機で3時間程度の距離。日本が
冬の間も我が国は暖かい」と、アピールした。日本の高齢化社会を標的
に外貨獲得を狙う、比政府側の意思がうかがえる。
 また、アロヨ大統領は、天皇陛下が18日に前立腺摘出手術を受けら
れることに触れ、「手術の成功をお祈りしています」と話した。
 
 
 旧正田邸取り壊し、「容認を」=塩川財務相
 2003 年 1月 17日(時事通信)
 塩川正十郎財務相は17日の閣議後の記者会見で、皇后美智子さまが
育った東京都品川区の旧正田邸の取り壊しに近隣住民らが反対している
ことについて、「反対している人の趣旨はわかるが、淡々と、法律と行
政の責任において取り壊しを容認してくれることが、国民の感情に合う
と思う」と述べた。 (了)
────────────────────────────────
 敗戦直後の日本は、与太郎の育った町にも、兄がポンビキとなって、
アメリカ兵を連れてくると、妹がパンパンになり、母はメイドになって、
父だけがブラブラしている家庭が数軒あった。
 正田邸保存運動は、テレビのワイドショーが騒ぎたがっているものの、
新聞は低調である。そもそも議論にならない騒動だが、軽井沢あたりに
移転して、観光用の「ミッチー・ハウス」にすればいいのではないか。
(解体前に買手があらわれなかったのは、採算が合わないからだろう)
 近隣住民にまぎれて、自由党の西村真吾議員がウロウロしているのは
何故か。さらに、誰が《君が代》を歌おうと提案したのか?
 


2003年01月16日(木)  Viva Doshisha !

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030116
 
Mail'20030116 (木) Re: Casablanca ! 10:00
 
 早速の御教示かたじけない。「ラインの守り」という歌なのですね。
わたしのホームページの同志社カレッジソングのところに何らかの形で
御教示の点を加えようと思っています。ありがとうございました。
早々
 
谷本岩夫
 
 
Mail'20030116 (木) Die Wacht am Rhein
 
 谷本 岩夫 様
 
── http://ingeb.org/Lieder/esbraust.html (原歌詞?)
Melodie - Melodie - Melodie - Melodie - 156KB MP 3 - Karl Wilhelm
 上の“156KB MP 3”をクリックすると、ドイツ語らしき合唱が聞こえ
ます。管弦楽の伴奏なので、「カサブランカ」のサントラ盤ではなく、
ニュース映画の音声ではないでしょうか?
 
 
 74歳のキャッシュ 〜 谷本先生のHPより 〜

 学問、教育、その他(注に同志社カレッジソングを載せているのです
が、この曲について新しく気づいたことを付記しました)2003.Jan.15;
── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/index.html
 
 不朽の名画“カサブランカ”の一場面にドイツの将校たちが歌詞こそ
違えこの曲を歌う場面がある。対するラザロはフランス国歌ラ、マルセ
イエズを歌い始め酒場にいるフランス人たちはみなこれに和しドイツの
将校たちの歌を圧倒する。この曲をなぜドイツの将校たちが歌うのかわ
たしには疑問で、それほどドイツではポピュラーなのだろうか、また本
来この曲の歌詞はどういう内容の歌だったのだろう。ドイツをあるいは
ナチスを讃える内容であったのだろうか。
 この疑問に応えてくれたのが同志社の卒業生、阿波雅敏君からのメー
ルでした。答えは既に同志社大学広報課が発行していたWILD ROVER誌
Vol.10(1996年8月1日発行)中の CAMPUS PRESSに出ていたのです。
わたしと同様の疑問をお持ちの方はぜひクリックしてご覧ください。
── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/tyuu2.html#doshishacs
 
 
 生徒はみんな紳士淑女          谷本 岩夫
 
── 私の教師としての道は最初大津東高校(現、膳所高校)でスター
トしたことは先にも書きましたが、ほんとの新米の私を気遣って、教頭
先生は“なあに前に座っている生徒はジャガイモが並んでいるくらいに
思えば良いよ”と言われたものです。実際1週間ぐらいは授業に出る前
は胸がどきどきしたものです。
 1年後、都合で同志社高校に転じましたが、こちらでは教頭先生が
“こちらの生徒はみんな紳士淑女ですから、そのおつもりで”といわれ
ました。1年前を思い浮かべて、大変ショックでした。現 京大総長の
長尾君も当時大津東高校に在学中で、生徒たちは優秀な良い生徒ばかり
でしたが、同志社はさすが新島先生の学校だなと思いました。
 今もそうだと思いますが、先生の勤務時間も基本的には自由で、学校
のまわりに塀もなく、生徒も伸び伸びとしていました。ですから校門を
時間に閉めて生徒を殺すというようなことはあり得ないのです。君が代
を歌うとか丸刈りにするとかいうような形式的なことを整えることを教
育だと思っている愚かさに早く気づいて欲しいものです。同志社の生徒
諸君は先生の前だけかしこまると言う風潮はなく、あけすけで、先生に
友達のように語りかけてくるのです。始めは“失敬な”という感情を持
ったこともありましたが、やがてここの生徒は裏表がないのやなあと本
当に親しみを抱いて、11年間過ごしました。やはり教育には信頼感が
お互いの間になければどうしようもありません。高校生はいわば狂気の
一面も持っているのですが、二十歳を過ぎるとやがて一人一人それはそ
れなりに形になっていきます。そういう過渡期のケアをしているという
気持ちが、教師や親の側にも必要なようです。
── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/education.html
────────────────────────────────
 このときの教頭先生が“カンちゃん”こと高橋勘先生ならば、のちに
谷本先生が修学旅行を廃する提案に、おおいに賛同されたことと感性が
一致する。与太郎の父も、最後の担任だった杉井六郎先生に呼出され、
「彼を一人前の紳士として接してやっていただきたい」といわれ、愚息
の将来に暗澹としてしていた父は、すっかり感動してしまった。
 なにもかも同志社がよいとは思わないが、当時の同志社中学高校には
同志社以外の出身者が教師としてあつまった結果、おなじような理想を
かかげたのである(とくに待遇がよかったわけではなく、むしろ給料は
ほかに比べて安かったという)。


2003年01月15日(水)  幻の《弦楽技法》 〜 未投函書簡より 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030115
 
 出谷 啓 殿
 
 前略。このほど貴君のホームページを発見したが、メール・アドレス
の記載がないので、あてずっぽうの住所で郵便ポストに投函する。
 メールなどなくても一向にかまわない、と君はいうかもしれないが、
いつどんな情報が寄せられるかもしれないので、ぜひ開設したまえ。
 同封の手紙は、ほとんど無駄話にすぎないが(三年前に電話したあと)
《弦楽技法》という書物について書きはじめたところ、脱線して未完の
ままパソコンの中に眠っていたものだ。いまだに本は見つからない。
 さいきん私的なホームページを連載するうち、高校時代のエピソード
など思いだしたので、この手紙ごと公開することにした。
 とくに返事は要らないが、貴君の生年月日を教えてくれないか。私の
人名辞典では、一九四〇年六月、大阪生れというところまで判っている
が、著名なる音楽評論家にして、この日付だけが欠落しているのだ。
(占いや占星術にあらず。プライバシーとも関係がなく、公称でよい)
 草々。              (Let'19990630-20030115)
 
── http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 *(与太郎あての返信は、上記のWeb上で公開されることがあります)
────────────────────────────────
── 出谷 啓《演奏会評》http://homepage3.nifty.com/detani/index.htm
── 出谷 啓《クラシック この演奏家を聴け! 19960410 音楽之友社》
 
 幻の《弦楽技法》 〜 出谷 啓氏あての未投函書簡より 〜
 
 国語の授業中に眠りこけていた与太郎を、誰かがゆり起した。
 座席配置は左に佐々木敏男、右に遠藤瓔子、前方には中国人の林英子。
やや変則的だが、出席番号は男女別のアルファベット順による。
 岡谷清子先生は、中国語に堪能で、ときには林君に原語で発音させる
こともあったが、この日は楽器にくわしい与太郎が指名された。
 寺田寅彦の随筆に「ヴァイオリンの演奏は、右手の弓がもっとも重要
である」とあるのは本当か、と質問されたのである。
 後方の誰かに起こされた与太郎は、なにしろ教科書を持っていない。
左隣の佐々木君は教科書に頭をのせて眠っているので、右隣の遠藤君の
教科書を奪いとって(目を通すフリをしながら)出まかせに答える。
「まさしく、そのとおりであります!」
 大声で答えると、先生は満足し、与太郎はふたたび眠りについた。
 夢のなかで考えるに、漱石一門の高弟にして、高名なる物理学者の説
であるから正しいはずだ、と予見をもって、たしかめたにちがいない。
だが“寒月先生”のヴァイオリン演奏など、猫の“吾輩”も耳をふさぐ
ほどのもので、とても参考にすべき水準ではない。
 右手の運弓がモノをいうのは、左手の運指が完成されて以後である。
 → 落第生は二度眠る 〜 寒月の右手 〜 20021018-1020 改稿
 
 弦を張って音を出すには、撥く・打つ・擦る三法がある。それぞれ、
ギター、ピアノ、ヴァイオリンに代表されるが、ヴァイオリン属だけが
馬のしっぽを張った、もうひとつの弦を用いる。
 つまり、ふたつの弓をこすり合わせることになる。したがって、右手
の弓に松脂を塗るとき、キュッキュッと音がする。たぶん、この原理が
ヴァイオリン属に特有の使命を与えたにちがいない。
 チェリストでいうと、カザルスの運指には思わずウーンとうなるよう
なものがある。どうしたら、こんなにも深々とした音程をとらえられる
のだろうか、と考えこんでしまう。のちのち、ロストロポーヴィッチの
を聴いたときには、フーッと吐息がでるような運弓だった。
(カザルスいわく「右手のしなやかさは、年をとってからも上達する」)
 
 そもそも右手か左手か、などという問題は、彼らの演奏水準において
論じるべきもので、なみの演奏家には無用の議論なのである。まして、
アマチュアには、縁なき領域である。
 そうはいっても、練習をつづけていれば、左右どちらかが瞬間的に、
うまく弾けたりすることがあり、ドキリとしながらもう一度やってみる
と、単なる偶然だったことがわかる。ヘボ将棋とおなじで、そんなこと
のくりかえしがアマチュアの特権らしい。
 一年前だったか、NHKの秘蔵録画でオイストラフを聴いたときには、
かつてのLPレコード全盛期を思い出し、あらためて感動した。とくに
チャイコフスキーの協奏曲は、彼だけが屹立して格調たかい。実演でも
おなじように演奏していたことが驚異であった。
 こうした名演奏は、録画したりCDを買ってはいけない。毎日きいて
もあきないから、ほかのことが考えられなくなる。
 
 それにしても、レコード評論家という商売は、ボクのみるところ謎に
みちている。食味評論家とおなじで、まいにち朝昼晩うまいものばかり
食って、なにが面白いのだろう。空腹と粗食こそが、鋭敏な味覚を育て
るように、あるいは恋する人に逢わないことが崇高な感情にいたるので
はないか。
 一軒目の酒場で、さんざん嫌われ、「河岸を替えよう」と叫びながら
二軒目の酒場にたどりつくや、さきの店のママやホステスの悪口をいい
ふらすような助平どもと、ちっとも変らんではないか(酒とバラの日々
の記憶は、ボクにも無いわけではないが)。
 
 高校時代のボクは、通学途上の名曲喫茶にあるレコードは、針が落ち
ると同時に、演奏者を当てることができた。はじめて聴いたものでも、
数分のうちに曲名と演奏家を推定できた。さらに、十字屋の本棚にある
楽譜や書籍は、ほとんど目を通していた。
 読み物として面白かったのは、近衛秀麿《フィルハーモニー雑記》で、
たとえば、若き日の著者がベルリン・フィルの練習のあいまに日本から
きた手紙を読んでいると、楽員があつまってきて指さして笑っている。
何が可笑しいかというと、文字がタテにならんでいるからだという。
 のちに、もうすこしで著者に会うところだったが、その時には尋ねて
みようと思ったのは、当時アラビア人の楽員がいたら、みんな笑ったか
どうか(アラビア語は右から左に書かれているらしい)。
 
 まじめな音楽書には、まるで面白いものがなかった。
 《指揮法》《管弦楽法》《作曲法》には関心があったが、いまひとつ
大仰で大上段にふりかぶったものばかりだった。十数年後、芥川也寸志
《音楽の基礎/岩波新書》はよくできていて、あのころに読んでいたら、
ずいぶん参考になったのではないか。
 結局、自分で勉強法を工夫することにして、ドヴォルザーク《新世界
交響曲・第二楽章》序奏部を、ピアノ・スコアに直すことを思いついた。
 
 これをどうするというわけではないが、木管・金管の移調楽器が錯綜
しているので、なるほどかくしてあのような和声がわきあがってくるの
か、というイメージが理解できた。
 おなじ趣向のものに、ベートーヴェン《コリオラン序曲》があって、
チェロの分散和音が意味ありげにみえる。しかるに、レコードで聴くと
ガサゴソ鳴ってるだけで、譜面の印象にはほど遠いのが不思議である。
全体にまとまりがなくて、駄作らしい。
 これを三十数年後に、ウィーン・フィルの就任披露演奏会だったか、
リッカルド・ムーティとかいう指揮者で聴いて「これだ!」と思った。
ほとんど最近の音楽家は知らないが、この指揮者は、なにしろ目付きが
ちがうのである。おまけに、にくらしいばかりの斬新なプログラムで、
まずは《未完成交響楽》ではじまったのである。二番目の曲は思い出せ
ないが、たぶんコンチェルト風の小品で、最後に《コリオラン序曲》を
もってきたものだ。このあと、アンコールなどやらず、プッツリ終れば、
さらに感動したはずだが、さすがに経営者が許さなかったとみえる。
 その夜、なにげなくチャンネルを回したところ、なかなかの《未完成》
であって、どことなく凄みが感じられる。
 そこで新聞をみると、最後に《コリオラン》とある。一種の誤植だな、
と解釈して聴いているうちに、だんだん引きこまれていく。なにしろ、
目付きがするどいのである。待てよ、ひょっとすると彼は意図してこの
ような順序にしたのではないか、と考えはじめた。
 そうか、わかったぞ。この男のねらいはやはりそこにあったのだ。
 存分に期待させられて、ついに《コリオラン》が始まった。
 息つくひまもなく、チェロの重々しいアルペジオが、譜面そのままの
イメージで地鳴りのように聞えてくるではないか。そうだ、これだ!
 
 なぜ今まで、この曲はこのように演奏されなかったのか。このように
演奏されたとしても、録音再生の技術が、すくなくともこの曲に限って、
いまの安物のテレビにも及ばなかったのだろうか。いや、そうではない
はずだ。前述のオイストラフのフィルム(ビデオではない)のように、
録音状況にかかわらず名演奏は伝わるのだから、いままでの指揮者は、
この曲を甘くみていたのではないか。さらに推測すれば、チェロ奏者が
この曲の演奏効果を甘くみていたのではないか。まるで練習曲の一部の
ように、漫然と奏していたのではないか。
 高校時代のボクは、いいかげんな指揮者だったが、いわゆるリズム感
というものには疑問をもっていた(要するにリズム音痴だったのだ)。
 しかし、わがオーケストラの、とくに金管楽器奏者に対して、いつも
「腰をおろすな、ドッコイショはいかん!」といっていた。休止符は、
「ヤレヤレ」と腰をおろす時間ではない、つぎのパッセージを予告する
瞬間なのだ、という意味である。
 ここにいたって、きみの本が伝える近衛秀麿氏の話につながる。
 氏の独創したという《運命》冒頭のフェルマータ問題である。
 氏は、いつも長さが同じであるべきだ、という理由で、フェルマータ
に時間を定めたという。こうすれば、コンサート・マスターをはじめ、
皆が指揮者のその日の気分に惑わされることなく、自信をもってつぎの
パッセージに入ることができる、という。
 ボクは、どうも理屈がわからない。これが凡百の凡曲ならいいとして、
西欧古典音楽を代表する傑作であり、無難に済めばよい、という曲では
ないのである。チィチィパッパではないのである。安全第一ではないの
である。危険を承知で、不条理に立ちむかうのが、基本姿勢である。
 フェルマータの長さが一定でないからこそ、緊迫感が生じるのである。
 高校時代のボクが、とくに先輩連中から陰口をたたかれていたのは、
棒が見にくい(リズムが不明確)ということであり、後輩たちの不満は
いつ始まるか(その瞬間まで)わからない、というものだった。
 さすがに、デビュー直前に聞かされたときには、心底まいったものの、
けっして曲げることはしなかった。棒にあわせて拍子をとるのではない、
音楽それ自身のおもむくままに、全員が(聴衆とともに)一体となって
進むべきであり、いつ始まるか聴衆にバレてはいけない、というような
ことが信念だった。
 ついでにいうと、音楽を聴くときに、いっしょに身体を動かすような
聴衆はまやかしの連中である。ダンス・ミュージックをやってるわけで
はない、西欧古典音楽は聴衆を楽しませるためにあるのではない。
 曲が終わったら、なにがなんでも一番に「ブラボー!」と叫ぶ輩め!
 しかるに最近は、どこのオーケストラも、まるで銀行員とか市役所の
小役人みたいな顔つきの楽員ばかりで、どいつもこいつも楽譜どおりに
演奏していればクビにならないつもりでいるのではないか。
 わかい指揮者もそうだ、みんなが小澤征爾をお手本にして、やたらに
身をくねらせやがる。いいかげんしろ! 演奏中にニタニタ笑うヤツも
いるから困ったものだ。なんのつもりか。(未完)
 
 幻の《弦楽技法》 〜 新井 正夫氏あての未投函書簡より 〜
 
 そもそもの動機は、《弦楽技法》という題名の、大切にするあまり、
後輩たちに「ぜひ読みたまえ」と貸しつづけたため、行方不明になって
しまい、いまでは著者も出版社も思いだせない一冊にあります。
 アマチュア音楽愛好家とみられる著者が、当代のヴァイオリニストは
もとより、たとえばヴィオラのプリムローズや、コントラバス、はては
ヴィオラ・ダモーレのような古弦楽器奏者まで歴訪した労作です。
 たとえば、弦楽四重奏の第二ヴァイオリン奏者に対して「すでに第一
ヴァイオリンが歌いおわった旋律を、つねに繰りかえすのは退屈ではあ
りませんか」などと質問しています。「そんなことはありません、同じ
旋律を奏することは、反復ではないのです」と答えているのは、若き日
のシュナイダーハンというわけです。
 岩波西洋人名辞典によれば、カール・フレッシュに同名の技法書があ
り、岩渕竜太郎氏も(対談では)同意されたが、内容からみて、著者は
別人のアマチュア演奏家でなければなりません。
 故人の奏法についても、興味ある伝説が紹介されています。ヨアヒム
は、ベートーヴェンが《ヴァイオリン協奏曲》第一楽章、カデンツァの
直後“第二主題”に指定したドルチェ(甘く)を、まるで無視するかの
ごとく、ヴィブラートなしで奏した、というのです。
 本来、カデンツァは演奏者の即興によるものですが、現代の楽譜では
(ほとんど)ヨアヒムのものを印刷しています。すなわち、ヨアヒムの
カデンツァは決定版であり、かつまた究極の名演奏であったとされるの
に、何故ノン・ヴィブラートなのか?
 私の旧稿《弓弦十話19701029》では、本文の記憶をもとに“力つきた
英雄が虚しく回想に心をゆだねるシーン”の象徴的表現と要約していま
すが、どのレコードを聴いてもノン・ヴィブラートの実例に遭遇しない
ことから、いわば幻の演奏伝説が実在していたのでしょう。(未完)
(Let'19950506ca 双竜外伝について)
 
■Mail'20030115 (水) Casablanca ?
 
 何かご存じなら教えてほしい
 
 風邪を引いて元気がないのですが、前に買っていたDVD“カサブラ
ンカ”を今日は見ました。昔見たので懐かしくて買っておいたのですが、
内容はすっかり忘れていたので、新鮮な感動を受けました。やはり名画
ですね。その中でドイツの将校たちがリックの酒場で歌う歌が歌詞は分
からないのですが曲は同志社カレッジソングの曲ですね。地下組織の指
導者ラザロがこれに対してフランス国歌を歌い、酒場の人達がこれに和
してドイツの将校の歌うのを圧倒してしまいます。カレッジソングでは
Carl Wilhelm作曲ということになっています。さて、この曲は本来どう
いう由来を持っているのでしょう。
 何か知っておられることがあれば教えてください。早々。
from:谷本岩夫
 
■Mail'20030115 (水) 電話のあとで 22:00 > 20:07
 
 まずは《皇帝賛歌》のこと
 
── この曲は、たぶんハイドンの作になるオーストリア国歌の変奏曲
のために、彼の弦楽四重奏曲の代表作のように知られ親しまれているが、
ガイリンガーは、「驚くほど霊感にとぼしい四重奏曲で、彼の後期作品
の系列に位置づけることがほとんどできない」と極言している。
── 大宮 真琴《名曲解説全集 8 19591110 音楽之友社》P086
 
 古楽器による現代的演奏(NHK芸術劇場)を聴くと、初演時のサウ
ンドは、当時としては前衛的ではなかったか。
 
── 《皇帝賛歌》の歌詞、一番は「外国を刺激する」、二番は「意味
がない」ので、三番だけが“ドイツ国歌”として歌われている。
── 《朝まで生テレビ 19990327 テレビ朝日》
 
■Mail'20030115 (水) Casablanca !
 
 映画「カサブランカ」で「One purpose」が歌われている?!
 
 「映画『カサブランカ』の中で、カフェで独軍が歌う『ラインの守り』
のメロディーが、なぜ同志社のカレッジソングと同じなのでしょうか」
というご質問を、渡辺峻さん('72年商・院修了)からいただきました。
実は第3号で同様のお問い合わせにお答えしているのですが、改めて簡
単にご説明します。
 同志社カレッジソングの作詞者は近江兄弟社の創設者W.M.Voriesで、
旋律は Carl Wilhelm 作曲「Die Wacht am Rhein(ラインの守り)」を
借用しています。この元歌の歌詞がドイツで書かれたのはライン川を挟
んでフランスの脅威が増してきた1840年で、1854年に曲が作ら
れ、1870年の普仏戦争の際にドイツで国歌のように歌われるように
なりました。
 映画 「カサブランカ」 の舞台は第二次大戦下の仏領モロッコ。同志
社カレッジソングが歌われ始めたのは1909年ですから、映画制作時
には既に「One purpose…」は存在していました。ちなみにアメリカの
イェール大学校歌も同じメロディーを使っており、本年6月20日に栄光
館で行われた本学グリークラブとイェール大学グリークラブのジョイン
トコンサートでは、双方のグリーが校歌の交換を行いました。イェール
大学の方がメロディーを本学よりゆっくりと歌ったのが印象的でした。
── http://www.doshisha.ac.jp/daigaku/wr/vol10/wr10-21_23.html
 
── 昭和27年 4月・京都市京都御苑北相国寺南元花の御所東鴨川西に
ある中学校に入学。校歌は映画「カサブランカ」に出てくる酒場でドイ
ツ将校たちが歌う国歌と同じメロディだった。
── 遠藤 瓔子《タンゴ、口には出せず 20001201 gui 61号》P167-176
── http://www.geocities.jp/endohkun_22/profile/gui.html
 


2003年01月14日(火)  Happy Birth-Day !

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030114
 
 谷本 岩夫 様

 お誕生日おめでとうございます。
 一月十四日生れの233人(旧暦・異説は8人)の抜刷を同封します。
 同志社校祖・新島襄は、天保十四年一月十四日(18430212-18900123)
ですが、この日付では記念礼拝などの行事は記憶がありません。
 しかし新暦の二月十二日に、茂 義太郎牧師(のちに同志社高校々長)
が中学のチャペルで説教された記憶があります(19530212)。キリスト
教(教派によるちがいはあるでしょうが)では、誕生日より昇天記念日
を尊重するらしく、命日の一月二十三日には、早朝から若王子山頂での
墓前礼拝などの行事がありました。
 最近わかったことですが、新島襄の一周忌(一年後の命日)に生れた
のが同志社中学教頭・ホザナコーラスの中堀愛作(18910123-19810106)
先生だったので、ご両親はひそかに転生(生まれ変わり)であれかしと
期待されたかもしれません。この“転生”については、ベンジャミン・
フランクリン(17060117-17900417,90/Julius 17060106-17900406)が
伯父・トマス(1598-17020106,103)の五周忌(四年後の命日)に生れ
たことを記しています。
── 「もしも伯父さんが四年後の同じ日に亡くなったのなら、人はそ
れこそ生まれ変わりだと思うでしょう。」
── 松本 慎一&西川 正身・訳《フランクリン自伝 19570107 岩波文庫》

 わたしの回想になりますが、高校オーケストラの草創期のメンバーで、
つぎの三人は誕生日がほぼ同じです。
 阿波 雅敏(19390120)、吉田 肇(19400123)、馬場 久雄(19410120)
 この三人は、いくぶん家が近いこともあって、卒業後も緊密な友情が
つづいたのですが、二十二年の空白(19720101-19940917)を経て再会
しています(不滅の友情を確認した一夜でした)。
 吉田君の誕生日は、新島襄の四十九周忌(五十年後の命日)にあたる
ので、同志社に在籍するかぎり、あんまり祝ってもらえない(?)ので
同志社大学への推薦を拒否、トロンボーンで身をたてるべく京都芸大を
受験、すぐに断念して、大阪市立大学を卒業したというわけです。彼の
一日も早い引退(西山ドライブウェイ社長)を待っているのですが……。
(なんだか、まとまらない話ばかりですが、ご健康を祝して)
(Let20030112)


■Mail'20030114 (火) 17:07 お礼

 阿波雅敏君

 わたしと同日生まれの面々の詳細なリストを頂きありがとう。誕生日
の今日、わたしは風邪であまり調子は良くありません。家内が年末から
微熱が続き、検査も必要ということで1月9日に入院し、わたしの生活
リズムも変わって疲れも出ているような気がします。
 わたしの職名は次が正しいです。
京都女子大学名誉教授/同志社高校理科教諭〜「74歳のキャッシュ」
── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/index.html

 ではまた。化学部のポン会は17人寺町三条の三嶋亭に集まりました。
早々
 谷本岩夫
 
 
■Mail'2003/01/15 (水) はるかなる読者より
 
to:yokoo@rb3.so-net.ne.jp(遠藤瓔子)18:44 < 20:11
 
 落第生は二度眠る 〜 寒月の右手 〜
 
 国語の授業中に眠りこけていた与太郎を、誰かがゆり起した。
 座席配置は左に佐々木敏男、右に遠藤瓔子、前方には中国人の林英子。
やや変則的だが、出席番号は男女別のアルファベット順による。
 岡谷清子先生は、中国語に堪能で、ときには林君に原語で発音させる
こともあったが、この日は楽器にくわしい与太郎が指名された。
 寺田寅彦の随筆に「ヴァイオリンの演奏は、右手の弓がもっとも重要
である」とあるのは本当か、と質問されたのである。
 後方の誰かに起こされた与太郎は、なにしろ教科書を持っていない。
左隣の佐々木君は教科書に頭をのせて眠っているので、右隣の遠藤君の
教科書を奪いとって(目を通すフリをしながら)出まかせに答える。
「まさしく、そのとおりであります!」
 大声で答えると、先生は満足し、与太郎はふたたび眠りについた。
 夢のなかで考えるに、漱石一門の高弟にして、高名なる物理学者の説
であるから正しいはずだ、と予見をもって、たしかめたにちがいない。
だが“寒月先生”のヴァイオリン演奏など、猫の“吾輩”も耳をふさぐ
ほどのもので、とても参考にすべき水準ではない。
 右手の運弓がモノをいうのは、左手の運指が完成されて以後である。
 (19990630-20021020 改稿)
 
── 《一件落着》http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20021018
── 《ポンちゃん》http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030114
── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/care.html

 *(与太郎あての返信は、下記のWeb上で公開されることがあります)
── http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 
■Mail'2003/01/15 (水) Re: はるかなる読者より
 
 阿波様
 
 本名は何とおっしゃる?
 高校で同窓でしたか?
 ぼんくらボン故某佐々木と同級だったかどうかは覚えてません。林さ
んとは今でも時々会います。みどり会という女子だけの同窓会で。
 
>(全文引用、略)<
 
 遠藤瓔子
 yokoo@rb3.so-net.ne.jp
 「きものであそぼ」
 http://www.geocities.jp/endohkun_22/menu.html
 
 
■Mail'2003/01/16 (木) 10:45
 
 追伸:遠藤瓔子さんの「タンゴ、口には出せず」も面白く読んだ。
 
谷本岩夫
 
 
■2003/01/17 (金) 女手(1)
 
 遠藤くんにメールを出したら、「覚えてません」と返事が来た。
(そそっかしいのも、コケットリーの条件ではあるが)
 獅子堂静雄(生物)先生の担任で、同志社高校二年D組の同級生とし
て一年間にわたって彼女の左隣に(一時的にせよ)座っていたのである。
 思いだしてくれない相手に、あれこれ説明するのはバカバカしいが、
そんなに存在感がなかったか、と思うとシャクであり、それならそれで、
与太郎の回想は(とりとめもなく)つづく。
 
 そもそも“寒月の右手”は、知人の音楽評論家あての書簡として書き
はじめたもので、高校時代の回想が目的ではなかった。しかるに左手に
佐々木敏男、右手に遠藤瓔子と書いたあたりから脱線してしまった。
 当初の構想では、岡谷先生が(女だてらに)弓道の達人だったから、
「右手と左手は、どちらが重要か」と確認された、という推測である。
 ここで与太郎が、ヴァイオリンの弓について、気のきいたひとことを
答えていたら、先生も弓道に対比して持論を述べ、余談ながらも授業が
もりあがったにちがいない。
 与太郎が寝ぼけて「まったくそのとおり」と素気なく答えたために、
先生も興をそがれてしまったのであろう、という反省でもある。
 
 岡谷先生が、いつも顔をしかめて不機嫌にみえたのは、悪ガキどもの
愚かさに我慢できなかったらしい。誰かが教科書の一節を朗読すると、
「アンタは漫画ばっかり読んでるさかい、テニオハがええかげんやネ」
とバッサリ。ズバリ的を射る厳しさは、男の先生たちもかなわない。
 さいわいにして与太郎は、入学当初から岡谷先生に一目おかれていて、
模範答案はもとより、文芸部の発禁事件の当事者であること、課題作文
《愚作自叙伝》を通じて(与太郎が)なぜ音楽に魅せられたか、という
告白を、ただひとり知るうる立場にあった。
 二年生の秋は、文化祭の運営について(顧問対役員として)具申する
機会もあった。先生が許せなかったのは“不調和”である。そのころに
書かれた文章(出典不明)で、夢の中で出会った人々が下品に笑いあっ
ているのを見て「なんと不調和な人たちだ」というくだりがある。
 
 
■2003/01/17 (金) 女手(2)
 
 三十二年前、ベラミでの同窓会(19710115)に前後して、同級生だった
岡林睦くんに電話すると、
「女子ばかりの私設同窓会があって、いつも岡谷先生を招いています」
とのことだった。与太郎は出席できないが、もういちど先生に会いたい
というと、電話番号を教えてくれた。当時の与太郎は、俗物そのままに
“酒とバラの日々”だったが、岡谷先生と文学談義をすれば、失われた
少年時代にもどれるかもしれないと考えた。この対話が実現していれば、
もちろん“寒月の右手”の話題からはじめるつもりだった。
 遠藤くんの自伝によると、晩年の先生は痴呆症だったそうである。
 
 同志社中学三年C組の担任は、児玉操(英語)先生だった。九州大学
英文科卒業の才媛で(くわしい事情はわからないが、女手ひとつで一人
娘を育てながら)英語教育への情熱は、コロコロと太った全身にあふれ
ていた。
 たとえば、都々逸「♪思いだすよじゃ惚れよが浅い」の一句を英語で
翻訳するむずかしさを説明された。とくに「惚れる」に相当する英語が
見あたらないという。中学生としては、なんと反応すべきか?
 正しくは「♪夢に見るよじゃ惚れよが薄い、真に惚れたら眠られぬ」。
 
 中学三年のとき隣のクラスだった遠藤くんは、座談会に出席している。
ひとことしか発言していないが、事実上の編集者が与太郎だった。
 → 《図書室便り・第五号 19550316 同志社中学校図書委員会》
 これを再録した《虚々日々 20001231 阿波文庫》では“瓔”がなくて、
“●=王+嬰”を当てている。
 インターネットを検索していて、どこかで見おぼえのある漢字に目が
とまった。ようやく“瓔”の漢字コードが追加登録されていたのである。
「呉音=よう、漢音=えい。一種の玉、髪飾り」
 検索を拡大して“遠藤瓔子”のフルネームを発見した。
 与太郎は“Eiko”と読んでいたが、命名は“Yo^ko”らしい。さらに
本人のメール・アドレスでは“yokoo”と表記している。
 
 もし彼女が、洋子とか陽子のように平凡な名前であったら、あるいは
結婚して離婚せず、つまり“安部瓔子”のままで小説を書いていたら、
ついに気づかなかったであろう。
 


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