与太郎文庫
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1992年10月06日(火)  イッキ飲み 〜 集団心理の犯罪 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19921006
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Awa Library;嫌です。イッキ。(ポスター)
 
── 短時間の大量飲酒は脳全体をマヒさせます。イッキは命にかかわ
る飲ませ方です。── イッキ飲み防止連絡協議会
http://www.ask.or.jp/ikkialhara_kyogikai.html
 
http://www.ask.or.jp/ikkialhara_kaku.html
── 加来 仁《息子の死をむだにしないで 19911006 ASK》
(イッキ飲み防止連絡協議会 前代表)
 
 Let'1996‥‥ from Mr. Kaku, Hitoshi
── タバコは肺を真っ黒に、アルコールは脳を真っ白にする。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050130 学生諸君! 〜 与太郎の教材 〜
 
── イッキ飲み事件簿(19911003〜20010501)
http://q.hatena.ne.jp/1266168024#a993373
 酒本論雑稿 〜 わたしのノートから 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20091004
 ↑断酒考(初稿)↓断酒
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C3%C7%BC%F2
 
── 森口 邦彦・亀田 博之・阿波 雅敏《Thirty Visual Creators 197205‥ ASK》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19850729 失われた日々の顧展
 
(20100408)
 


1992年09月30日(水)  九月丗日の架空暦 〜 ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920930
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from Our Picture;Robinson Crusoe(初版本)
http://wyeth.artpassions.net/crusoe5-8.html
 Chapter VII Robinson's Mode of Reckoning Time
 
 架空の人物が、架空の日付で活躍するとき、作者の思いつきによる、
でたらめの日付であっても、年月日そのものは歴史上もしくは未来に実
在する。しかるに矛盾が生じるのは、どんなケースか。
 
 子供向けの絵本や抄訳で知られすぎて、大人の読者に忘れられた架空
の主人公に、《ガリヴァー旅行記1726》や《ロビンソン漂流記1719》が
ある。
 漂流記・続編の序文によれば、省略する者は「宗教的および倫理的思
索」すなわち「最も輝かしい飾りものを奪い去る」のである (平井正穂
訳19710916岩波文庫) 。
 当初ノンフィクションとして出版された《ロビンソン・クルーソーの
生涯と冒険》は、ついには著者自身の隠喩“not story,but History ”
と釈明せざるを得ないほど売れつづけた。
 清教徒革命 (1640〜1660) 以来の煩雑な勢力抗争のもとで、いかなる
虚構もみとめない非英国教会派への迎合から、わざわざ《ロビンソン・
クルーソーの反省録1720》に「嘘をつくことについて」の章をたてた実
作者こそ、御用論客ダニエル・デフォー(1660/1661〜17310424/0426J)
である。
 ことは十五年前、スコットランドの水夫セルカーク( Alexander,1676
〜1721 )が、船長と争ったのがもとで無人島に残された( 1704〜1709 )
ところを、大海賊ダンピア( William,1652〜171503 )に救出される。
 船主ロジャーズ( Woodes, ? 〜1732 )編《世界周航記1712/1718 》は、
その記録をふくむ膨大かつ詳細な航海誌である。
 これを読んだデフォーは、四十五年前の年代にもどし、一人称ロマン
に塗りかえてしまう(ときに五十九才)。
 二十七才の誕生日にあたる「一六五九年九月三十日に私はここに上陸
した」と誌す十字架を海岸に立て、毎日刻み目を付けて「七本目の刻み
目は倍の長さにし、月の第一日はその長い刻み目よりも更に倍に長くし
て」「一週間、一カ月、又一年の経過を知った」(吉田健一訳19510531
新潮文庫)
 つづく「日記」が絶妙の展開であるが、奇妙なことに日付と曜日が一
致しない。
 十一月「十一日は日曜だった」とあり、でたらめの日付にしても「九
月三十日」はおなじ日曜日でなければならない。
 ところが実在の「ユリウス暦」は金曜日であり、かりに「グレゴリオ
暦」でも火曜にあたる。これを不注意とみるか、意図的なトリックとみ
るべきか。
 英国教会と清教徒派は、旧暦を固守することでは呉越同舟で、カトリ
ックの改暦を容認しない。しかし、キリスト教徒として共通する点は、
日曜日が「聖なる安息日」あるいは「主の日」なのである。
 つまり異教徒であるユダヤ教の土曜日やイスラム教の金曜日に重複し
ないことは、たがいの対立と世俗をはなれて祈るための歴史的配慮によ
る。
 ユダヤ教では、やむを得ない事情のため安息日が不明になった場合、
任意の七日目ごとに定めてもよい。イスラム教の断食も他日に繰りのべ
てよいとされる。
 しばしば無節操を非難されたとはいえ、反カトリックの論客が、曜日
に無頓着ではあり得ない。のちに経済小説と目されようとも、主人公の
信仰がテーマなのである。
 無教養で信仰のうすい青年ロビンソンが「神の摂理」に目ざめ、絶望
にたちむかう経過は、われわれ異教徒も胸をうたれる。
 書いているデフォー自身も、深い感動とともに昇華しはじめ、ついに
カトリックや異教徒の共存国家を出現させる。君主臣民あわせて四人、
なかんずく金曜日に従者となった黒人フライディの名は、邪教からの改
宗を象徴するウィットである。
 さきの曜日の不一致をトリックとみて、推理的空想をめぐらせると
「ユリウス暦」の金曜から木・水・火・月と逆にもどり、「グレゴリオ
暦」火曜から水・木・金・土の順に、おのおの五日づつ歩みよるならば
両者は日曜日において合致する。妥協的な中間の「架空暦」が成立する
のである。
 つぎに、一年後「計算による島で過した日数が、実際よりも一日か二
日足りない」と自覚し、二年目のなかば(16610628)には「たしかに一日
たりない」と確信する。
 その理由として、病気で翌ー日まで眠りつづけたことや、赤道を何度
も通過すれば数日の誤差が生じるなど、あり得ない自問自答が、全編に
わたって繰りかえされる。
 この説明は容易で、救助船が世界一周の帰途であり、日付変更線の知
識がなければ航海誌の日付は一日ずれているのである。
 マゼラン(Ferdinao de Magalhaes,1480?〜15210426/0427J) 憤死後の
ヴィクトリア号帰還(15220906J) 以来、地球を一周すれば一日の時差が
生じることは立証された。
 ほぼ二百年のちの、ダンピアはともかくロジャーズまで知らなかった
のだろうか。
 むしろ、デフォーは読者を試したのではないか。些細な矛盾が読みと
ばされるのは魅力あふれる長編として不思議ではない。
 謎につつまれているのは、デフォー自身の生没年月日である。
 《西洋人名辞典1981岩波書店》によれば[ 1660〜17310424 ]、《学習
人名事典1978 三省堂》では[1660? 〜17310426 ]とする。さらに、生家
の看板は“1660〜1731”であるが、墓標には“1661〜1731”とある。
 生年月日の対象となる期間は、一般的に[16601222J/16610101G〜1661
0101J/0110G]の十日間(土曜〜火曜)に限定できる。
 当時イギリスの年初が「聖母マリア受胎告知の日0325」であったこと
を考慮すると[16601222J/16610101G〜16610324J/0403G]の九十三日(土
曜〜土曜)に拡大される。
 晩年の流行作家は、若き日の借金を返せないまま出奔している。その
隠れ家で遺体が発見されたのが四月二十六日、死亡推定四月二十四日
(土曜)、生涯日数七十一年一カ月以上、五カ月と二日未満であった。
(19920525)
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20090930 漂着記念日 〜 The 350th anniversary of landing 〜
 原題=九月三十日の架空暦。のち「三〇」→「丗」(Jis追加により)。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19871001 ルサコフ 〜 九月三十一日生れ 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20090311 如月の望月 〜 花のもとに生れて死なむ 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20090920 露越同舟 〜 此岸から彼岸過迄 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19671127 晩秋小雨の宵 〜 文化勲章 vs 人間国宝 〜
 
(20090930-1123)
 


1992年08月15日(土)  八月十五日の熱月抄

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920815
 
 六十年輩の日本人に「どこで玉音放送を聞きましたか」と問えば、ふ
だん寡黙な人も口をひらく。われわれが国家存亡に直面した日付は、聖
母マリアの命日であるとともに、ナポレオンの誕生日でもある。
 
 ルネ・クレール監督《巴里の屋根の下》の主題歌につづいて《巴里祭》
を連想する世代は、八十年輩の映画ファンでなければならない。邦題の
傑作例であって、原題は《 Quatorze julliet ; le 14 julliet 》すな
わち「七月十四日」である。
 フランス革命を「一七八九・七・十四」と暗記した世代を戦中・戦後
派とすれば、近年の受験世代では「バスティーユ牢獄の政治犯を奪還解
放した日」と散文的に記憶する。革命の全貌は、火曜日の襲撃だけで語
りつくせないのである。
 革命前のフランスでは「八月十五日」が教会暦のさだめる第一級大祝
日「童貞聖母披昇天」すなわち、キリストの生母マリア( -19ca0908 〜
? 0815 )の命日にあたる。
 革命の目標は、カトリックの宗教的支配からの脱却にあり、その中央
集権性が新興階級プチ・ブルの障害だった。まずは列国にならって教会
の国有化に向うのである。
 あるいは、ローマ帝国が創始した十五年ごとの徴税周期「インディク
ティオ」が、百回( 312/537 〜 1797 ) におよぶことを阻止した経済動
乱ともいえる。
 後年のソビエト共産革命では、すべての宗教を禁じたが、このたびの
連邦崩壊からロシア正教会のユリウス暦と、イスラム教の礼拝が、非公
式ながら復活している。
 フランスの「八月十五日」は、かくして教会に封じられたあげく、あ
らたな独裁者ナポレオン( N.Bonaparte,17690815 〜 18210505 ) の誕
生日としても国家的祝日に返り咲くことはなかった。
 フランス史上、空前の人気をもつ英雄は「ヴァンデミエール (葡萄月)
の将軍」として《革命暦 40113F/17951005G 》の日付で登場する。革命
政権は、グレゴリオ暦の宗教的色彩を拒否、独自の暦法による共和紀元
( 10101F/17920922G 寛政 40707 ) を実施 ( 20304F/17931124G ) して
いた。
 実は、旧来の何ものにも依存しないはずの《革命暦》とは、史上最古
の暦をコピーした偽装新暦だったのである。一年を四季に分け、秋(葡
萄・霧・霜)冬(雪・雨・風)春(芽・花・草)から、夏(収穫月・熱
月・実月)にいたる各月は三十日で、年末に五日間(閏年は六日)を加
えて休日とする。七曜を廃し、一旬十日(旬末休日)と数えて年間休日
数を短縮、 3×12 +5 + 1/4 = 41.25 日となる。
 きっかり十三日先んじれば、古代の夏至年初《エジプト暦 -27810626G》
に閏年を置いた《アレクサンドリア暦 -250827G 》に一致する。現在で
も《エチオピア暦》として継承されている。
《エジプト暦》こそが太陽暦の母であり、春分年初の《ペルシア暦》や
《パーシ暦》は置閏法をアレンジした外孫である。
 皇帝アウグストゥスの誕生日、すなわち秋分年初の《小アジア暦》も、
ローマ紀元 7450923R/-80924J/0926G その後の変遷は不明ながら、千八
百年目の復活にあたる。
 
 フランスならではの叙情性として文学的に評価される名称も、三カ月
ごとに語尾の音韻をふむ趣向は、さほど非凡ではない。
 花鳥山水を配した花札《天正かるた》の「松・梅・桜・藤・菖蒲・牡
丹・萩・薄・菊・紅葉・柳・桐」と変るところがない。
 一年の季節区分も、ナイル河の水量から「洪水・芽生・収穫」の三期
に類似する。 洪水周期が四年ごとに一日おくれる現象は狼星「シリウ
ス」の観察で予測された。
 このシリウス周期を加えて分解すれば、
3{(6+6)(6×5)+5}+{(6+6)(6×5)+6}=1461 つまり一旬十日の原型は、
六日週と五日週とみられる。後年ソビエトでも、五日週( 1929〜31 )
六日週( 1932〜40 )を実施するが、結局《ユダヤ暦》に由来するという
七日週に復帰している。
 では誰が、古代暦法を思いついたのか。
 エジプト遠征のナポレオンは「四千年の歳月が我々を見ている」と叫
んだというが戦場の発想にしては周到すぎるのである。
 旧体制から外務大臣となったタレーラン( T-Perigord,17540213 〜
18380517 ) はメートル法による国際統一を提唱した結果ついに英米の
ヤード・ポンドを出しぬいている。この先見性と外交手腕が、フランス
の工業経済を今日まで支えるのである。
 地球の円周の四千万分の一を長さの単位とする「十進法」の度量衡規
格は、時刻にも適用された。つまり《革命暦》の一日は十時間であり、
一時間は百分、一分は百秒となる。さすがに、この時法は手にあまり、
皇帝となったナポレオンがローマ教皇との和解をかねて《革命暦》とも
に放棄する。
 その最後の日付はあいまいで、共和紀元14雪月0410F/18051231G 文化2
1111 または14実月12+5F/18060921G 文化30810 実情はなしくずしという
ところか。
 もと徴税請負人の前歴で、ラヴォアジェ( 17430826〜17940508G 共和2
花月0819F)は処刑されるまでの九カ月間、度量衡委員として、獄中から
実験室に通いつづけた。
「質量保存の法則」はじめ「生体熱は呼吸の緩慢な燃焼による」など、
いずれも霊魂の不在を立証する成果である。ギロチンで首と胴がはなれ
ても、その業績の質と量は不滅だが、革命裁判は「共和制に学者は無用」
と判決、民衆も血祭を楽しんだ。
 軍人が皇帝になるという俗物趣味の中で「人権宣言」や「法典」を編
みだすという矛盾の頂点に、英雄は君臨したのである。
 矛盾に目をふせた英雄は存在しない。
 阿南惟幾 ( 18870221 〜 19450815 ) は最後の御前会議でも戦争継続
をとなえた。陸軍大臣として、部下のクーデター計画を知りながら、割
腹の儀式を選んだ。遺書の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」とは、矛盾に屈
した無念の独白である。                (19920425)


1992年07月04日(土)  七月四日の米日列伝

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920704
 
 かつて出生日のわからないアメリカ移民は、独立記念日を誕生日と称
したという。この日付の生没人名録だけで、アメリカの歴史を追ってい
くと、コロンブスが五百年前に目ざした「ジパング」にたどりつく。
 
 もっとも健全で、もっともポピュラーなアメリカン・ソングの数々は、
アメリカの病根ともいうべきアルコール中毒のために不慮の死をとげた
ステファン・コリンズ・フォスター ( 18260704 〜 18640113 ) の作詞
作曲による。
 《おおスザンナ》《スワニー》、黒塗りの白人楽団のために書かれた
《オールド・ブラック・ジョー》など、百七十五曲から百八十八曲にお
よぶ。
 彼が生れたのは、独立五十周年の記念すべき火曜日、この日の午前
「独立宣言文」の起草者でもあった第三代大統領トマス・ジェファソン
( 17430402J 〜 18260704G )つづいて午後に、第二代ジョン・アダムズ
( 17351020J 〜 18260704G )が亡くなる。五年後には、第五代ジェーム
ス・モンロー( 17580428G 〜 18310704G 月)が没して四十一年のち第三
十代ジョン・クーリッジ( 18720704G 木 〜 19330105G )が生れる。
 この日付の生没人名録だけで、アメリカの歴史をたどることも不可能
ではない。
 清教徒の罪と罰を論じた、ナザニエル・ホーソーン ( 18040704 月〜
18640519 )の長編《緋文字》がある。
 オーストリアに生れウィーン大学で法哲学を講じていたフェリックス
・カウフマン ( 18950704 木〜 19491223 ) の亡命は、頭脳流出の先例
(1936) にあたる。
 サッチモ(がまぐち)の名で親しまれた「ジャズの王様」ルイ・アー
ムストロング ( 19000704 水〜 19710706 ) の出現は、すべてのアメリ
カ人にとっても、まさしく《聖者が街にやってきた》のである。
 独立当初のアメリカは十三州から成り、成人男子人口が五千人に達す
れば「準州」として自治が認められ、六万人に達した順で現在の五十州
にいたる。アメリカで生れた者が、ほとんど無条件でアメリカ国籍を得
ることができるのは、この伝統による。
 ユダヤ系ギャングのボス、暗黒街随一の紳士マイヤー・ランスキー
( 19010704 木 〜 198301.. ) も「自分の誕生日を知らなかったのでエ
リス島の役人はアメリカ独立記念日の七月四日生れとした」(常磐新平
《エスニック・パップ》198811岩波図書)
 かくのごとく好ましからざる連中も大手をふって登場してはいるが、
ライオネル・トリリング ( 19050704 火 〜 19751107 )の文芸批評《誠
実と本物》から想像されるような品格ある人々も存在する。
 不敗の大国アメリカは、むしろ戦勝後に矛盾を露呈しはじめる。
 アメリカ生れの日系娘が、日本の祖母を訪れた年に日米が開戦、帰国
できないまま対米放送のアナウンサーに起用された。
 戦後結婚してポルトガル国籍のアイバ・ダキノを名乗っていた「東京
ローズ」こと戸栗郁子 ( 19160704 火〜 )は、甘い声で米軍の士気を低
下させたという「反逆罪」によって投獄、米国市民権を剥奪された。
 
 自由と平等にかがやく「独立記念日」にアメリカの刑務所は、死刑囚
にいたるまでアイスクリームを配給する。大統領特赦が下ったとき、彼
女は六十才を過ぎていた。
 ブロンド女優エヴァ・マリー・セイント( 1922 火 1929 木 1924/1930
0704 金 〜 )の生年諸説は、アカデミー助演賞をとった《波止場 1954 》
がデビューであり、主役マーロン・ブランド( 19240403 〜 )から《北々
西に進路を取れ 1959 》ケーリー・グラント( 19040118 〜 19861129 )
との年令差に大学出であることを考慮すると、ますますミスティリアス
である。
 ブロードウェイの作家ニール・サイモン ( 19270704 月〜 )は、抱腹
絶倒のギャグ映画《おかしな二人》シリーズを通じて、騒々しいアメリ
カ市民を描きつづける。
 フランス映画《夜ごとの美女》などの、ナポリ生れの女優ジーナ・ロ
ロブリジーダ(19270704 月 〜 )は、アメリカに帰化してカメラマンに
なり写真集《私のイタリア》を出版、往年のファンをがっかりさせた。
 アメリカの正義を問う、ベトナム帰還兵ロン・コビック ( 19460704
木 〜 )の自伝《7月4日に生れて》の映画化では、主演のトム・クル
ーズ ( 19630703 水 〜 )も一年前から車椅子を実体験したという。
 アメリカの過失が日本に波及した例に、銀座ホステスから首相秘書
の後妻となって離婚後「ロッキード裁判」の法廷に立った榎本三恵子
( 19480704 日〜 )は、前夫の上司も予想しない証言を吐いてから、自
立をとなえてヌード写真を公開したものの、何某の男児 ( 19910312 〜)
を出産するなど、繁栄のニッポンを謳歌している。
 
 アメリカが誇る“Independence Day”もイギリスに対する独立宣言か
らフランスの仲介でパリ条約 ( 17830903 水 )に至るまで七年、英国史
における植民地アメリカの自立は「九月三日」である。
 新大陸発見から、ことし五百年を迎える「十月十二日 14921021G 金」
も、正しくは“Columbus Day”という。コロンブスは、黄金の島「ジパ
ング」を目ざしていたので背後の陸地は「旧大陸インド」でなければな
らなかったのである。よってスペインの歴史的記念日は、サンタマリア
号のパロス出帆「八月三日 14920812G金」となる。
 はるかなる「ジパング」には、ペリーの浦賀寄港 ( 18530708G 金 )
から、ハリスの下田着港 ( 18560821G 木 )を経て、やがて厚木空港
( 19450830 木 )に、対日連合軍最高司令官マッカーサーが舞いおりた。
 空前の占領者を迎えたのである。
 かつて日露条約 ( 19050905 ) を不満として政界に転じ、保守合同の
影武者となる三木武吉 ( 18840815 〜 19560704 水 )は日米安保新条約
( 19600619 ) 妥結目前に布石の生涯を閉じた。     (19920323)
────────────────────────────────
── 《歴史研究 199207.. 新人物往来社》P070-071


1992年06月13日(土)  六月十三日の死と愛

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920613
 
 三度目に六月の花嫁となったウィンザー公妃の誕生日には、ローゼン
バーグ夫妻が「愛は死をこえて」処刑され、山崎富栄の遺体も「愛は死
と共に」情死した太宰治の誕生日に浮上、六日前に入水したという。
 
 WHOが「心臓死より脳死を優先する」と提唱したのは、一九六八年
六月十三日であった。その脳死とは突然死によって他の臓器が生きてい
る状態である。
 人は、どの時点で死を見つめるのか。
 戸籍法を要約すると、事故・自殺などの変死体は行政解剖による「死
体検案書」にもとづいて発行された「火葬埋葬許可証」に執行者の捺印
を得て除籍にいたる。心中や情死などの複数死では、各々の死亡時刻が
判定しがたいとき同一時刻とみなされる。
 前後の状況から、殺人の可能性があれば「刑事訴訟法 19480710 」が
適用される。
「幼女誘拐殺害事件」のケースでは失踪の日付 19880822 と容疑者供述
の犯行日時は一致したが、物的証拠がなく(通常は遺体の司法解剖など)
遺族に送られてきた焼骨照合に数十日を要して「埋葬許可証」発行の
19890301 が戸籍上「命日」となった。
 
 太宰治 ( 19090619 〜 19480613 ) は、山内祥史 ( 19320619 〜) 編
《人物書誌大系�� 19830709 日外アソシエーツ》年譜によれば「六月十
三日、午後十一時半から十四日午前四時までの間に、普段着の軽装で山
崎富栄と家出、玉川上水に入水した。十四日遺書を発見」。通常の自殺
は長時間逡巡があり、入水は発見が早ければ蘇生の可能性もある。命日
が十三日と特定されるには、外出後三十分以内の絶命は、直前の服毒か
投身時の衝撃でなければならない。
 山岸外史 ( 19040716 〜 19770507 ) が《人間太宰治 19621020 筑摩
書房》で証言するくだりは引用するにしのびない。
 今官一 ( 19091208 〜 19830301 ) が、一周忌 19490612 に提案して、
遺体発見の六月十九日が、誕生日にあたるところから《桜桃忌》として
記念することになった。
 このため命日との混同は、暦注から人名辞典におよび、行年三十八才
から四十二才と乱立している。当時の慣習では、数えて四十才(満三十
八才十一カ月)が正しい。
 山崎富栄 ( 19190924 〜 19480613 ) の手記《愛は死と共に 194809..
石狩書房》は太宰の習作《愛と美について 19390520 竹村書房》に追従
したものか。
《雨の玉川心中 19770613 真善美研究所》の日記 19471120 には、太宰
は「十も年がお違いになって」「わたしも年が明ければ三十」とあるに
もかかわらず編集者の序文では「二十八才」に若返り、長篠康一郎のあ
とがき「その日から数えてちょうど三十年」は「三十年目満二十九年」
が正しい。
 
 奥名修一 ( 19161203 〜 19450117 ) との婚約は昭和十九年八月、同
年十二月九日挙式、同十三日に三井物産の辞令が下り、マニラ支店に単
身赴任する夫を羽田空港で見送ったのが十二月二十一日、翌年の一月二
十一日に入籍している。着任後、米軍上陸のため現地召集されて戦闘中
消息不明となり、二十二年七月七日付の戦死公報では「二十年一月十七
日戦死」。入籍の日すでに未亡人だったのである。
 二十二年九月二十日の埋骨式で、故人の姉の夫・土家由岐雄 ( 1904
0610 〜) にすすめられて十一月二十五日に復籍の手続をするが、このと
き太宰も同行している。
 太宰が、太田静子の女児を認知したのは十一月十五日、治子 ( 1947
1112 〜) と命名している。里子 ( 19470330 〜) は妻の美知子の次女と
して三月三十日に生れその三日前に太宰は富栄と出会っている。
 この年までは「出生日」と「誕生日」の日付が一致しなくても、六ヵ
月以内に届ければよかったので、あとの日付を遅らせて戸籍上の同腹に
見せかけることもできた。
 新戸籍法 19471222 公布 19480101 施行以後は、十四日以内に医師ま
たは助産婦の「出生証明書」を添付することになった。民法第一条ノ三
「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」の解釈が大きく変化している。
 女性を恣意的に若く伝える例は、処女説もあるという天才の夭折であ
る。
 樋口一葉( 18720502G 〜 18961123 ) は旧暦最後の明治五年三月二十
五日に生れたが、この年はグレゴリオ暦に移行するため十二月二日が年
末となった。このことから《大つごもり 1894 》を着想したものか、そ
れはさておくとして、生れた年の日数が二二七日しかないため「正月に
年をとる」風習は、年増になるほど面白くない。
 大晦日を二十三回しか過ぎていないから二十三才なのか、かりに満年
令としても、二十四才六ヵ月二十一日、正しくは数えて二十五才、二十
六才に三十八日たりない。
 ただし民法にも百四十三条の初日起算、百四十条に初日不算入とする
矛盾はある。「年令のとなえ方に関する法律 19500101 施行」の条文も
「数え年によって言い表わす従来のならわしを改め」「心がけなければ
ならない」が、政府の事務は「規定する期日よりも前から行なうことが
できる」と迫力に欠けるのも「旧民法 19021202 」をくりかえしたため
で、明治政府のもとでは「みんなが一斉に年をとる」ことで不平等にな
るほど、教育・保険・年金が普及した市民社会ではなかったのである。
「0才」の概念は、現代人にとっても困難なテーマである。
 数学ぎらいの読者のための古典的名著、吉田洋一《零の発見 19391127
岩波新書》によれば、九九九年に即位したローマ法王の数学上の著作に
は「いつもローマ数字が用いられていてインド数字は出て来ない」
「1から9までの数字を知っていたが零を知らなかった、あるいは知っ
ていたにしても零の価値をよく認識していなかった」という。数学こそ
「連続」への挑戦であり、「0時0分」や「紀元0年」も近世以降に登
場するのである。                   (19920223)
────────────────────────────────
── 《歴史研究 199206.. 新人物往来社》P052-053


1992年05月05日(火)  五月五日の再発見

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920505
 
 桂離宮を絶賛したブルーノ・タウトは、小堀遠州の命日を五月五日と
信じて墓に詣でた。誰が誤って伝えたか、訳者も編者も読者も気づかな
いまま、半世紀にわたって《日本美の再発見》は読みつがれている。
 
 一九三三年(昭和八年)、ナチスの台頭に危機をよみとったブルーノ
・タウトは、「日本インターナショナル建築会」の招待に乗じて亡命の
旅をくわだてた。
 到着の翌日、五十三才の誕生日を迎えた彼は、桂離宮に案内されて衝
撃を受けた。
 篠田英雄・訳《日本美の再発見》では、「永遠なるもの」と絶賛して
「桂離宮は、小堀遠州政一の造営にかかると称せられてゐる。然し私は
彼に関する史実的文献をほとんど手に入れることが出来なかった」と誌
している。
 彼は(あたかも、徳川家康にヒトラーの面影を重ねるがごとく)将軍
の権力を象徴した日光東照宮を非難するあまり「皇族の御為に造営せら
れたものであるとは言へ」「徳川方に対して政治犯人を庇護した」と
小堀遠州に傾倒していく。
 当時の、ドイツ建築界では、グロピウス( Adolf Gropius,18830518〜
19690705 )を筆頭に「バウハウス運動」の波がはじまっていた。その命
題は「すぐれた機能をもつものは美しい」ゆえに「簡素で合理的な素材」
がもとめられた。東照宮が華美な装飾のため「無数の芸術家を日光に召
集したのと時を同じくして」「このやうな装飾を一つも用ひなかった」
桂離宮は、三百年前すでに、彼らの理想を実現していた。かつて「色彩
建築」を試みたタウトが模索していた、無装飾の再発見でもあった。
 彼らの提唱する「合理性」が、かつては画家をこころざしたと伝えら
れるヒトラー( Adolf Hitler,18890420 〜 19450430? )に迎合しないの
は当然である。
 しかし、亡命中の一流建築家の賛辞は、事情の如何によらず、のちの
ちまで日本人の自尊心を満足させることになった。
 つぎに彼は、五十四才の誕生日の、翌日のエピソードをくりかえし述
べている。
「五月五日に、上野氏と自動車でこの庵を訪れ、門に入ろうとしてそこ
に定紋を染め抜いた紫の幔幕が張ってあるのに気づいた。上野氏がそこ
に居合した運転手にこの装飾のいはれを訊ねると、今日は小堀遠州の忌
日であるといふことであった。そこで私は直ぐに町に引き返し、遠州の
墓に手向ける生花を購めた。私達は再び庵に戻り真紅の花をつけた石楠
を玄関に置いて案内を請ふと、やがて庵主に請じられた、庵主はやはり
小堀氏を名乗る人である。私達は遠州の居室(忘筌)で抹茶の饗応にあ
づかった。この居室こそ彼が一六四七年に六十九歳で世を去るまで、幾
多の傑れた仕事を遺した場所である」
 前章の没年「一六四五年」は単に誤植とみられるが、問題は「五月五
日」である。 ときには、高名な著書に引用された誤植が「コンピュー
ター・ウィルス」のように伝染する可能性もあるのではないか。
 
 遠州の没年月日は、半世紀を要して昭和十九年に完成された《大日本
人名辞書》に正保四年二月六日( 16470312G=0302J ) とあって、その複
刻版(講談社学術文庫)に準拠する他の人名辞典はもとより、異説の
「五月五日」も見あたらない。
 この「謎」にいたる経過を要約すると、


19330503 タウト来日
  0504 五十三才誕生日・桂離宮見学
19340504 五十四才誕生日
  0505 遠州忌?墓参(旧暦 0322 )
  0506 遠州の「月命日」(土曜日)

 毎年二月六日を「祥月命日」とすれば、「各月六日」にも法要を営む
のは、仏教の(陰暦にもとづく)習俗である。 タウトが「五月六日」
と誤解したのなら納得できるが、その「前日の墓参」は予定にもない、
すばやい決断だった。
 門に入ろうとして「紫の幔幕」に気づいたのが発端である。上野氏が
訊ねたのは、「そこに居合した運転手」である。タウトと上野氏を「乗
せてきた運転手」とは別人らしい。身分いやしからぬ先客があって、あ
きらかに厳粛な儀式を想像したとしても「居合した運転手」が「今日は
遠州忌」と明快に答えたとは信じられない。
 むしろ上野氏が、早合点して通訳したと解釈すれば、このとき、ブル
ーノ・タウト( Bruno Taut,18800504 〜 19381224 ) が「誕生日と命日
の連続」に感動して、真紅の花を献じたのではないか。
 上野伊三郎( ?〜 19720523 行年七十九才)は、当時四十二才の群馬県
工芸所長であり顧問教授のタウトと寝食をともに同行して「夜の大音楽
家」と呼ばれた“いびき”の達人である。この場におよんで墓誌の日付
「二月六日」を読みとったとしても、訂正を告げることはむずかしい。
 さらに、当時三十一才の第十六代庵主、小堀明堂( 〜 19861103 行年
八十三才)がドイツ人と通訳の勘ちがいに気づいたとしても、初対面の
茶席とあって、つつましく話題を転じたのではないか。
 書斎の発見も、微笑にとどめるのが作法のようだが、京都・紫野の孤
蓬庵に電話でたずねてみると、紫の幔幕は「茶会の印」であって、法要
には用いないそうである。「追善の茶会」は、東京では三月六日に、京
都では五月六日を恒例とする。その前日に「茶会」が営まれることはあ
るらしい。
「利休忌」同様、京の冬が寒すぎるために遠来の客人への配慮である。
 初版の奥付 ( 19390628 岩波新書)も、翻訳者の篠田英雄 (18970627
〜19891226 )四十二才の誕生日の翌日にあたるが、その半年前に亡命先
のトルコで客死した著者はもとより、初訳者( 服部幾三郎? 〜 )も編集
者も出版社も、さらに読者も「遠州忌の矛盾」を発見しないまま五十年
を越えて読みつがれているのである。          (19911217)
────────────────────────────────


1992年04月23日(木)  四月二十三日の忌譚

 

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 Ex libris Web Library;WILLIAM SHAKESPEARE 1564-1964
 
>>
 ハムレットとドン・キホーテの作者は、「奇しくも同じ日に没した」
と伝えられて久しいが、旧暦と新暦の日付が同じために生じた誤解で、
実は十日間前後する。誰がまちがって、誰がただしたのか。
 
 男の典型を対比したツルゲーネフの講演《ハムレットとドン・キホー
テ》によってそれぞれの作者は対等に評価された。狂気とエゴイズムを
凝視した近代的手法とともに、同世代の作家であることが後世の研究者
をあつめた。
 さらにシェークスピアとセルバンテスが「奇しくも同じ日に没した」
ことは、二大文豪を語る「殺し文句」となった。
 命日が、西暦一六一六年四月二十三日であれば、当時の英国教会はロ
ーマ教会との対立から旧来の《ユリウス暦》を保守していたが、スペイ
ンでは《グレゴリオ暦》を先に採用したために、同じ日付であっても
シェークスピアが長く生きたことになる。
 これを、邦暦順にならべると、元和二年の三月八日(土曜日)にセル
バンテスが、三月十八日(火曜日)にシェークスピア、さらに「奇しき
因縁」を拡大解釈するなら四月十七日(水曜日)徳川家康におよぶ。
 最後の《ユリウス暦》すなわち帝政期の《ロシア暦》に生涯を了えた
ツルゲーネフ( 18181028J=1109G 〜 18830822J=0903G )は、当然《グレ
ゴリオ暦》を熟知していた。
 ローマ教皇グレゴリウス十三世が、諸国から追求されて断行した《グ
レゴリオ暦》(布告 15820224 実施 15821005J=1015G ) は、一挙に普及
したものではなく、英米では百七十年後( 17520903J=0914G ) 、さらに
五十六年たって、ソビエト革命政府が採用( 19180201J=0214G ) してい
る。この間にフランス革命政府が秋分年初の《共和暦 17920911J=0922G
〜 18051219J=1231G 》を独自に開発したが、定着せず復帰した。
 日本も、外交的迎合から「徳川の正月」を廃し、明治五年十二月三日
( 18730101G )よくわからないまま太陽暦を導入した。《日本暦日原典》
の編著者・内田正男氏は二十数年後に書かれた《金色夜叉》を例に、つ
ぎのように証言している。
『来年の今月今夜のこの月を、再来年の今月今夜の……』と、お宮への
うらみをこめた貫一の有名なセリフは、旧暦でなければ通用しない。旧
暦であればこそ正月十七日の夜の月は、毎年ほぼ同じ形で地上を照らす
ことになるが、太陽暦ではいくら待っても、来年の今月今夜には月は出
てこない。(暦の会編《暦の百科事典》新人物往来社)
 この台詞は、読売新聞の連載になかったものを、市村座の初演から加
えられたとも伝えられる。観客や批評家に気づかれなかったとはいえ、
ひんぱんに自作を観劇した尾崎紅葉が「月令の矛盾」に苦慮していた気
配は小説からもうかがえる。
 
 暦に無頓着なのは日本人にかぎらない。
 ロシア生れのユダヤ系アメリカ人、博識の化学者にしてSF作家の、
アイザック・アシモフ( 19200102G 〜 )もセルバンテスとシェークスピ
アを「生前、名前すら知らない二人」「死亡した日が同じ」と安易に引
用している(星新一・編訳《アシモフの雑学コレクション》新潮文庫)。
 一六一一年に引退したシェークスピアはその翌年に英訳された《ドン
・キホーテ》の評判を聞かなかったのだろうか。
「内容的にまちがっていることはない」とショートショートの大家
( 19260906〜 )が追記するように、二千頁をこえる岩波の増補版《西洋
人名辞典》その他でも二人の命日は同じ日付で載っている。
 ただし「凡例」をみれば、さきの疑問にもどるわけである。生没年月
日を疑ぐってかかるのは、無意味な詮索だろうか。
 誰も気づかない発見は、結局つまらないものだが“セルバンテスの方
法を求めて”を副題とする(弘文堂 19890720 初版)、牛島信明《反=
ドン・キホーテ論》では、「セルバンテスがこの世を去ったのは一六一
六年四月二十二日(暦の上ではシェィクスピアの死の前日)である」と
断定する。いわば新説による通説の反証であるが、従来にない補注が、
ようやく登場する。
「イギリスでは一七五二年までユリウス暦が用いられていた。そしてユ
リウス暦に十日を加えるとグレゴリオ暦に相当する。従って実際には、
セルバンテスとシェィクスピアの没年月日には十一日の間隔がある」
 つまり通説の命日を埋葬日とみなしているわけで、当否は別として可
能性はある。 墓碑はなく「死亡診断書」もない。この時代には「出生
証明書」もないが、教会の「洗礼名簿」によって出生日を推定する。
 ミゲル・デ・セルバンテスの、受洗記録 15471009J(日曜日)から逆
算して、十日前の 0929J(木曜日)が「聖ミゲルの日」にあたるため、
これを誕生日とする異説はおおむね疑問視されている。
 牛島信明 ( 19400814 〜 )説は、洗礼の前日もしくは当日の十月九日
(天文十六年八月二十六日)を有力とみている。
「新生児の死亡率が極度に高かったため、重刑に処せられる危険をおか
してまで、十日以上も洗礼を施さずにいたはずはなく」という理由は、
いささか過激であるが。
 古来ユダヤ教の割礼は「生後八日目」が厳守されているが、キリスト
教では時代とともに短縮され、シェークスピアも受洗日 15640426J(水
曜日)から推定して、三日前の 0423J(日曜日=永禄七年三月十三日)
すなわち「生没同日」を記念している。
 誕生日と命日の日付が一致することを、イギリスの作家、アンソニー
・バージェス ( 1917 〜) は「無害な魔術」と表現しているが、この現
象は生没月日を収集して[ 365.25² = 133407.5625 人]に達すれば、
どの日付にも出現する。
 三六五人に一人の確率を「奇しき因縁」ととらえる世代的センスも、
やがて膨大な情報量によって色あせるのではないか。   (19911212)
────────────────────────────────
── 《歴史研究 19920400 新人物往来社》P073-075
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040801
 生没同日の人々 〜 最新版 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040801
<<
 


 da Vinci, Leonardo  14520414 Italy France 15190502 67 /14520423 Gregorio
 Shakespeare, William 15640423-0426 England 16160503 52 /16160423 Julius
 Cervantes Saavedra, 15470929 Spain    16160423 68 /16160423 Gregorio

 
…… レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に
「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録
されている(Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, and
Reynal & Co., Leonardo da Vinci (William Morrow and Company, 1956))。
 この日記に記されている日付はユリウス暦で、現在のグレゴリオ暦に
直すとこの時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は
午後9時40分ごろということになる。
 当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記さ
れている4月15日という日付は、現代でいえば4月14日ということになる。
この日付を現代の暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である。
(Wikipedia)
 

 Gregorius XIII,  15020107 Rome  15850410 83 /226[15720514-15850410]
── 《グレゴリオ暦 15820224 布告 15821005J=1015G 実施》
 
 Turgenev, Ivan S. 18181028 Russia 18830822 64 /18181109〜18830903 Gregorio
 
 尾崎 紅葉  作家 18680110 東京  19031030 35 /慶応 3.1216
 Burgess, Anthony 19170215 England 19931122 76 /
 Asimov, Isaac   19200102 Russia 19920406 72 /America
 
 内田 正男  暦学 192111‥ 小田原 /1944 東京天文台/1967 東京大学講師
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C6%E2%C5%C4+%C0%B5%C3%CB
 
 星 新一   作家 19260906 東京  19971230 71 /
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4102186042
── 星 新一・編訳《アシモフの雑学コレクション 19860729 新潮文庫》
 
 牛島 信明 西文学 19400814 大阪  20021213 82 /
…… セルバンテスがこの世を去ったのは一六一六年四月二十二日
(暦の上ではシェィクスピアの死の前日)。

── 牛島 信明《反=ドン・キホーテ論 〜 セルバンテスの方法を
求めて 〜 19890720 弘文堂》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4335950233
 
(20141215)
 


1992年03月21日(土)  Islam 14120916/Iran 13710101

 
 ↓ last updated page
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920321
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↑Index 19020102〜99991231 ↓Edita for text
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from our pictures;Islam 14120916
 
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↓=Non-display><↑=Non-display
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(20090810)
 


1992年03月15日(日)  三月十五日の余波月

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920315
http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities
http://twitter.com/awalibrary
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19920315
 
…… なごり【名残・余波】〔名〕(「波残(なみのこり)」の変化し
たものといわれる)(ふつう「余波」と書く)浜、磯などに打ち寄せた
波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また、あとに残さ
れた小魚や海藻類もいう。── 《日本国語大辞典》
 
 Ex libris Web Library;Around the Moon(Wikipedia)
 
 もうひとつの木曜「三・一五事件」とはローマのクーデターで、改暦
から一年半のカエサルが「突然の予期せざる死」を迎える。その《ユリ
ウス暦》を修正し完成するアウグストゥスは、奇妙な調整を施した。
 
 小林多喜二が「濫らな題名をつけてはならぬ」と考え「恥ずかしくな
い立派な題名だ」と自負した《一九二八・三・一五》は、翌年の連載で
は《一九二八年三月十五日》と変更された。のちに友人の立野信之は、
「たぶん私がそうしたのだろうと思う。しかし、今では何のためにそう
変えたのか、その時の気持ちは思い出せない」と回想している。
 この日付(昭和三年* 木曜)にはじまる共産党弾圧は、多喜二の拷問
虐殺19330222(水曜)を頂点として、敗戦後の解放まで十二年間におよ
んだ。
 小樽監房の壁に刻まれた「三月十五日を忘れるな」の血書は、シベリ
アの日本捕虜虐殺「尼港事件19200524」を想起したもので、上海・呉淞
の対日抗戦19320128」ともに木曜日である。日曜日の奇襲「真珠湾を思
い出せ Remember Pearl Harbour 1941・1207」が日本では 1208(月曜)
となるのは、日付変更線のためである。
 シェイクスピア《ジュリアス・シーザー》第一幕で、占師がくりかえ
す「三月十五日を警戒せよ Beware the ides of March 」のイードゥス
は、もとは満月に由来する。
 《ローマ暦》では、大の月(三・五・七・十月)の十五日、小の月は
十三日を指す。大小いずれの月も、翌月一日を「カレンダエ1」として
逆に数えていくと「カレンダエ18」がイードゥスに当るのである。
 ところが、すでに当時カエサルが実施していた《ユリウス暦 》では、
奇数月はすべて大の月であって、いかにも合理的であるが、保守派や反
対派にとっては気にくわない。
 プルタルコス《英雄伝》によれば「キケロは、ある人が明日は琴座が
昇るといったのに『全くだ。政令によってね』と、さも改革自体を人々
が強制的に受けいれさせられているかのような意味で答えた」という。
(村川堅太郎編・風間喜代三訳・筑摩書房)
 三月十五日は当然《ユリウス暦�機佞世�「十四日のまちがいとする人
もある」の注記(大山康子訳《ジュリアス・シーザー》旺文社文庫)は
まちがいではなく《グレゴリオ暦》の日付であり、《ユリウス暦�検佞�
照合すると十六日(木曜日)である。念のため旧暦の《ローマ暦》とす
れば五月十四日にあたる。
 改暦年初からユリウス通日を通算すると JD1705427-1704541=886 日、
実施の日から五六一日目、四年目の閏年を待たずに没したため、誤まっ
て早められ、三年目ごとに閏年が置かれたという。カレンダエのような
ローマ式の数え方にも原因があるという。 この「誤置閏説」は後世の
推測であって、内政混乱の理由もあったのではないか。
 カエサルを討った者は、「三年以上生き延びなかったし」「何人かは
カエサルを害したその剣で自害し果て」カエサルが遺言したとおり、
養子(妹の孫)のアウグストゥスが最後に勝利して、煉瓦のローマから
大理石のローマへと空前の繁栄をきずいた。
 スエトニウス《ローマ皇帝伝》によれば、「誕生日のころになると、
いつも体の具合がわるくなった」アウグストゥスは、カエサルの暦法に
手を加える時機を待っていたいちはやく矛盾に着目していたにちがいな
い。
 実は占領下の《エジプト暦》に -250828G から四年ごとの「置閏令」
を命じて、十八年の実績をローマに適用したのである。
 まず、三年目ごとの「誤置閏」を、本来の四年ごとに戻すために、紀
元前六年から紀元後七年にかけて「省閏令」を敷いた。 この十二年間
を《ユリウス暦�供佞箸靴董△弔鼎�《ユリウス暦�掘佞任蓮�二月をのぞ
く小の月はすべて三十日に、八月をAugustと改称して大の月に昇格させ
た。さらに、九月以降の奇数月を小の月にいれかえた。
 通説では、彼が「鳥占いの迷信家」であり「自分の誕生日を不吉だと
信じていたため」というが、当時の鳥占いや占星術は帝王学であって、
現代人の考える迷信にはあたらない。
 ローマ史上もっとも聡明なアウグストゥスが、明快なルールであった
「奇数月は大」や「カレンダエ」も「イードゥス」までも追放したのは
何故か。彼のほんとうのねらいは謎のままに継承され、日本人だけに通
じる語呂あわせ「二四六九士・小の月」も、この素朴な疑問を封じてし
まっている。
 《皇帝伝》(国原吉之助訳・岩波文庫)では『私の生れた九月よりも、
むしろ八月をとったのは、最初の執政官に就いたのがたまたまこの月で、
そして特別輝かしい勝利を収めたのもこの月であるから』と弁明する一
方で、「誕生日の星位を広く世間に告げ、生れたときの磨羯宮を刻印し
た銀貨を鋳造した」のも口実めいて疑わしい。
 磨羯宮 capricornus, は九月下旬の夕刻に南中する黄道第十宮の山羊
座である。ただし現代の占星術で「誕生日は九月二十三日」といえば
「乙女座」か「天秤座」となる。太陽暦では、秋分にあたる。
 紀元前六十三年の彼の誕生日、ローマ紀元6910923 については、カエ
サル 651/653 0712/0713 とともに、当時のローマ暦が復元不能のため
特定できない(曜日不詳)。おそらく《ユリウス暦》の日付で祝ってい
たらしい。
 その命日、140819J についてスエトニウスは「七十六才に三十五日不
足した」と指おり数えているが、この分ではその失われた著作《ローマ
暦法》にも正確な計算は期待できないようである。誕生当時のローマは
数ヶ月前の季節(ユリウス暦の六月か七月ごろ)と推定されるため、秋
分には当らない。
 ストロベルの説(佐藤研訳《聖書大事典》教文館)によれば、彼の誕
生日を新年とする《小アジア暦》では、-80924G (木曜日)を紀元元年
として、毎月二十三日が翌月一日の九日前に来るように計られたという。
 いわば「カレンダエ」の残影であるが、一八〇〇年のちに、秋分年初
の《フランス共和暦》として再登場するのである。(19911112)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920315 三月十五日の余波月
── 《歴史研究 19920301 新人物往来社》P64-66(2000 Web.)
 
…… ブルータス「もう一寝入りするがいい、まだ夜は明けぬ。明日は
たしか三月十五日だな?」
 ルーシアス「さあ、それは」
 ブルータス「暦を見てきてくれ」
 ルーシアス「畏りました」(入る 〜略〜 もどって来る)
 ルーシアス「はい、確かに三月はもう十五日になっております」
── シェイクスピア/福田 恆存・訳《ジュリアス・シーザー 19680325 新潮文庫》
 
 一六〇〇年に書かれた戯曲で、紀元前四十四年三月十四日(逆算によ
れば水曜日?)の状況が推定される。シーザーが改暦を断行した翌年、
暗殺前夜である。暗殺者の部下が見た暦は、現代のようなカレンダーで
なく、別室に畏って飾られていたらしい。それはまた暗殺すべき宿敵が
強い意志で改め、実施したものである。
 平年の日数が三百六十五日、閏年には二月を一日加える(厳密には二
十三日を二度くりかえす)ことなど、現行の暦と同じ構想がほとんど完
成していた。
 二月だけが二十九日で、他の月は三十日と三十一日が交互に連続して
「偶数月は小の月」であり、現行の「四六九・十一」より平易である。
 
 シェイクスピア学者夫妻
 


 大山 俊一 英文学 19171008 東京 19830910 65 /成城大学教授、成城短期大学学長
♀大山 敏子 英文学 19140228 東京 19780413 64 /津田塾大学教授

 
…… かつて旺文社文庫のシェイクスピア作品は、大山夫妻の訳で占め
られていた。大山訳は上演用ではなく、地口などを訳さず注をつける
勉強用の翻訳だった。── (Wikipedia)
 
── 《英米の文学と言語 〜 大山俊一先生・大山敏子先生還暦記念論集 1981‥‥ 篠崎書林》
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E6%95%8F%E5%AD%90
(20091208)
 
 アマゾレス(簿外資料)〜 Unlisted of Amazon 〜
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003108817
── 小林 多喜二《蟹工船 一九二八・三・一五 19510107-19671216-19891025 岩波文庫》
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/ (アマゾレス/ローマ文庫)
── シェイクスピア/大山 敏子・訳《ジュリアス・シーザー 19730501 旺文社文庫》19730920/誤=康子
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4102020063
── シェイクスピア/福田 恒存・訳《ジュリアス・シーザー 19680325-19850605 新潮文庫》恆存
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480021132
── 村川 堅太郎・編《プルタルコス英雄伝(下)19870324 ちくま文庫》風間 喜代三・訳
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003344014
── スエトニウス/国原 吉之助・訳《ローマ皇帝伝(上)19860818-0905 岩波文庫》
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4764240068
── 《旧約新約聖書大事典 198906‥ 教文館》佐藤 研・訳
 
 ◇
 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6890987.html (No.1 20110722)
 ややこしや 〜 オクタヴィアヌス=カエサル=アウグストゥス 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20080613 英雄伝 〜 邦訳比較表 〜
 
20130316【Q】今日3月15日は何の日でしょう☆
http://q.hatena.ne.jp/1363351692#a1193998 (No.6 20130316)
 Beware the ides of March.
 
(20130316)
 


1992年03月06日(金)  Islam 14120901/Iran 13701216

 
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 ↑Index 19020102〜99991231 ↓Edita for text
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
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(20090810)
 


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