与太郎文庫
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1991年06月29日(土)  稀譜・千日考(打歩詰め)

 
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910629
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↑Index 19020102〜99991231 ↓Edita for text
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 【二枚落】△(上手)平岡 塑笛 四段
 from our pictures; 
 [f:id:adlib:20070512163841j:image]
 
(指了図) △ 8七王 
▲ 7八銀  △ 同桂成 
▲ 同 金  △ 9六王 
▲ 8五桂  △ 8六王 
▲ 9七角  △ 9五王 
▲ 9六歩  △ 同 王 
▲ 8八角  △ 8六王 
▲ ……… (まで上手の勝ち)
 
http://diary.hatena.ne.jp/adlib/19821101
 盤外長考
 
http://diary.hatena.ne.jp/adlib/20050918
 矛盾の研究 〜 アキレウスが迫る 〜
 
http://q.hatena.ne.jp/1178860054#a716324
 ルール疲労 〜 負けねば勝ち 〜
 
(20070804-20090811)
 


1991年06月22日(土)  Islam 14111209/Iran 13700401

 
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 from our pictures;Islam 14111209
 
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(20090810)
 


1991年06月21日(金)  Islam 14111006/Iran 13700201

 
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 from our pictures;Islam 14111006
 
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1991年06月14日(金)  Islam 14111201/Iran 13700324

 
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(20090810)
 


1991年06月03日(月)  島原の濫 〜 雲仙普賢岳火砕流 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910603
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
17920521(寛政 4.0401)「島原大変肥後迷惑」死者約15,000名
19910603 火砕流による死者43名(不明3名、氏名未詳4名を含む)
19930623 火砕流による死者 1名(氏名未詳)
 
>>
 
 被災カメラの映像、音声を復元 日本TV
 
 43人の犠牲者を出した長崎県雲仙・普賢岳大火砕流(91年6月3
日)で被災し、今年6月、同県島原市で14年ぶりに発見されたTV
カメラの映像と音声の復元に、カメラを所有していた日本TVとメー
カーのソニーが成功した。火砕流に襲われる直前の貴重な映像が約6分
間、記録されていた。日本TVは「災害と教訓を風化させず、防災に
も役立てば」と番組制作を進めており、10月17日に放映される予定
だ。
 映像は、雨の音とともに始まる。当時報道陣は山頂から約4キロの通
称「定点」(島原市北上木場町)で撮影していた。午後4時8分の大火
砕流の一つ前、同3時57分に起きたと思われる火砕流の黒煙が巨大に
成長する様子が映っている。
 「これはすごい」などの声が報道陣から上がる。「火山灰が周りを取
り囲んでいます。非常に焦げ臭いにおいがします」とリポートするテレ
ビ局のスタッフ。「ちゃんと撮れてる?」「撮れています」というカメ
ラマンのやり取りも記録されている。
 そして「大変危険です、避難してください」と3度呼びかける警察官。
レインコート姿で山に向かう毎日新聞写真部の故・石津勉記者(当時3
3歳)らを映し、午後4時8分の大火砕流後、不意に地面を向いて終わ
るという。
 カメラは災害で亡くなった小村幸司カメラマン(同26歳)と、ビデ
オエンジニアの狐崎(こざき)敦さん(同30歳)が使っていたもの。
火砕流の衝撃で壊れ、内部までぎっしり火山灰が詰まっていた。ビデオ
カセットも熱で変形し、映像が残っていると思える状態ではなかった。
 ソニーで縮んだテープをゆっくりはがし、40度の熱を1週間加えて
平面に近づけた。再生時に竹ぐしを使ってテープの流れを調整するなど
試行錯誤の末に7割の映像を回復、音声はほぼ完全に再現できた。
 日本TVは遺族や関係者に映像を見せて放送の承諾を取り、番組制
作を進めている。映像は10月17日午前0時25分から日本TV系
「ドキュメント’05」で放送される予定。【山崎太郎】
(毎日新聞)2005/09/25 03;08更新
── 《ドキュメント’05 20051017 00:25 日本TV》
 
<< 
 


 岩崎 節   機動隊巡査   1966‥‥ 長崎 19910603 25 /
 樋口 隆洋  機動隊巡査   1965‥‥ 長崎 19910603 26 /
 鐘ヶ江 利雄 消防団員    1960‥‥ 島原 19910603 31 /
 鐘ヶ江 公和 消防団員    1959‥‥ 島原 19910603 32 /
 山下 日出雄 消防団員    1954‥‥ 島原 19910603 37 /
 大町 安男  消防団員    1954‥‥ 島原 19910603 37 /
 土谷 忠義 フリーカメラマン 1933‥‥ 門司 19910603 58 /
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 江口 博  KBCカメラマン 1968‥‥ 福岡 19910603 23 /0606遺体確認
 城詰 靖之  朝日放送記者  1964‥‥ 東京 19910603 27 /0606遺体確認
 笠井 敏明  毎日新聞技術部 1950‥‥ 九州 19910603 41 /0606遺体確認
 谷口 武   消防副団長   1950‥‥ 島原 19910603 41 /0606遺体確認
 谷口 金市  農業      1931‥‥ 島原 19910603 60 /0606遺体確認
♀坂上 ヨシ子 無職      1923‥‥ 島原 19910603 68 /0718遺体発見
────────────────────────────────
♀谷口 チエ子 農業      1935‥‥ 島原 19910603 56 /不明
 森本 長衛  農業      1936‥‥ 島原 19910603 55 /不明
 坂上 春則  農業      1937‥‥ 島原 19910603 54 /不明
 田井中 次一 読売カメラマン 1938‥‥ 京都 19910603 53 /不明
 土本 幸雄  農業      1938‥‥ 島原 19910603 53 /不明
 小林 操 丸善タクシー運転手 1943‥‥ 長崎 19910603 48 /不明
 クラフト,モーリス 火山学  1946‥ France 19910603 45 /不明
♀クラフト,カティア 火山学  1947‥ France 19910603 44 /不明/モーリスの妻
 坂本 憲昭 カメラマン    1947‥‥ 長崎 19910603 44 /不明/TV長崎
 中川 英喜 島鉄タクシー   1947‥‥ 島原 19910603 44 /不明/運転手
 田中 正信 ミクリヤタクシー 1948‥‥ 島原 19910603 43 /不明/運転手
 中園 耕司 カメラマン    1954‥‥ 長崎 19910603 37 /不明/TV長崎
 岩崎 丈平 消防団員     1955‥‥ 島原 19910603 36 /不明
 斉藤 欣行 毎日新聞車輌係  1956‥‥ 九州 19910603 35 /不明
 黒田 耕一 日経カメラマン  1957‥‥ 東京 19910603 34 /不明
 グリッケン,ハリー 研究員  1958 America 19910603 33 /不明/都立大
 石津 勉 毎日新聞カメラマン 1958‥‥ 九州 19910603 33 /不明
 宮崎 正則  KTN運転手  1960‥‥ 長崎 19910603 31 /不明
 狐崎 敦 ビデオエンジアニア 1961‥‥ 東京 19910603 30 /不明/カメラマン
 立光 重蔵  小嵐タクシー  1962‥‥ 島原 19910603 29 /不明/運転手
 坂上 靖   消防団員    1964‥‥ 島原 19910603 27 /不明
 小村 幸司  カメラマン   1965‥‥ 東京 19910603 26 /不明/日本TV
 西原 理   カメラマン助手 1971‥‥ 福岡 19910603 20 /不明/KBC
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 井上 康弘  消防団員    1953‥‥ 島原 19910610 38 /避難入院中
 矢内 万喜男 NHKカメラマン1960‥‥ 川崎 19910625 31 /0603重傷
 大田 好男  NHKライトマン1960‥‥ 東京 19910808 31 /0603重傷/39人目
?□□ □□  ・・・・・・  19‥‥‥ 島原 19910603 ? /?
?□□ □□  ・・・・・・  19‥‥‥ 島原 19910603 ? /?
?□□ □□  ・・・・・・  19‥‥‥ 島原 19910603 ? /?
?□□ □□  ・・・・・・  19‥‥‥ 島原 19910603 ? /?
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?□□ □□  ・・・・・・  19‥‥‥ 島原 19930623 ? /?
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 鐘ヶ江 管一“ヒゲの市長”  19310122 長崎 /元島原市長19910603災害本部長

 
作成日: 2005/09/25


1991年05月22日(水)  Islam 14111107/Iran 13700301

 
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1991年05月16日(木)  Islam 14111101/Iran 13700226

 
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(20090810)
 


1991年05月14日(火)  信楽鉄道事故

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910514
 Ex libris Web Library;19910514 信楽鉄道事故
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180504-00000048-mbsnewsv-soci
 
…… 14日午前10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町の紫香楽宮跡駅付近で、
信楽高原鉄道とJRが正面衝突乗客ら42人が死亡、約480人が負傷した
ほか、事故直後から多数の乗客が列車内に閉じ込められた。
 原因は、信号機の故障や、単線でのすれ違いがうまくいかず、衝突し
たとみられる。双方の列車には信楽町内で開かれている「世界陶芸祭」
へ向かう途中で人が多く乗車し、定員をかなり超えた乗客が乗車してい
た。── 《知ってる? 覚えてた? こんな事・あんな事があった日》
http://www.geocities.jp/tatitu1969/daysdays365.htm
 


 信楽高原鉄道列車衝突事故(調査官を含む43人死亡)生年順
 
♀藤目 幸子  1913‥‥ 大阪 19910514 78 /
 安藤 壮之助 1915‥‥ 京都 19910514 76 /無職
 今谷 益雄  1915‥‥ 大阪 19910514 76 /関西ブロック社長
 栗谷 源三郎 1915‥‥ 堺  19910514 76 /
 樽井 言致  1915‥‥ 高槻 19910514 76 /
 古川 吉次  1915‥‥ 大阪 19910514 76 /無職
 内田 真二  1916‥‥ 大阪 19910514 75 /無職
 大内 司郎  1917‥‥ 大阪 19910514 74 /
♀野田 花子  1920‥‥ 高槻 19910514 71 /
♀安藤 ふみ子 1921‥‥ 京都 19910514 70 /
♀樽井 美代子 1922‥‥ 高槻 19910514 69 /
 熊谷 与三郎 1923‥‥ 滋賀 19910514 68 /
 寺川 初栄  1923‥‥ 大阪 19910514 68 /
 平野 真正  1923‥‥ 滋賀 19910514 68 /
♀向谷 富子  1923‥‥ 大阪 19910514 68 /主婦
♀中尾 きみ子 1924‥‥ 京都 19910514 67 /
♀長尾 トシ子 1924‥‥ 高松 19910514 67 /
 伊原 一男  1926‥‥ 京都 19910514 65 /
 中島 治三郎 1928‥‥ 滋賀 19910514 63 /
♀村川 つや子 1928‥‥ 香川 19910514 63 /
♀久保 高子  1929‥‥ 滋賀 19910514 62 /
 奥村 清一  1930‥‥ 滋賀 19910514 61 /信楽鉄道常務
♀木村 てい子 1930‥‥ 京都 19910514 61 /主婦
 平野 秀一  1931‥‥ 茨木 19910514 60 /
 林  浩聡  1933‥‥ 神戸 19910514 58 /展示会社役員
 吉沢 彦一  1936‥‥ 滋賀 19910514 55 /鉄道運転士
 中島 春男  1937‥‥ 滋賀 19910514 54 /列車乗務員
 中村 裕昭  1937‥‥ 三重 19910514 54 /信楽鉄道課長
♀吉崎 佐代子 1938‥‥ 宝塚 19910514 53 /主婦/俊三の妻
♀栫  和子  1939‥‥ 尼崎 19910514 52 /
 後藤 正利  1939‥‥ 茨木 19910514 52 /喫茶店経営
♀中原 辰子  1939‥‥ 神戸 19910514 52 /
 渕本 繁   1940‥‥ 滋賀 19910514 51 /列車運転士
♀国江 恵美子 1943‥‥ 大津 19910514 48 /
♀都田 美代子 1943‥‥ 尼崎 19910514 48 /
 高橋 宗人  1944‥‥ 大津 19910514 47 /信楽鉄道社員
 松林 達雄  1948‥‥ 京都 19910514 43 /呉服店勤務
♀中田 晶子  1949‥‥ 大阪 19910514 42 /
♀黒川 和子  1954‥‥ 京都 19910514 37 /
 森上 修   1956‥‥ 亀岡 19910514 35 /呉服店勤務
♀臼井 信子  1965‥‥ 京都 19910514 26 /会社員/誤=白井 信子
 中島 未晴  1989‥‥ 滋賀 19910514  2 /
────────────────────────────────
 吉岡 秀治 1952 大阪 枚方 19910522 39 /自刺/近畿運輸局調整官=調査責任者/誤=縊首
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/db10.html
 吉崎 俊三  1934‥‥ 兵庫 宝塚 20180502 84 /元鉄道安全推進会議会長
♀溝口 恵美子 196.‥‥ 兵庫 /旧姓=吉崎 俊三の長女
https://twitter.com/awalibrary/status/992423620373696518


(↓) 20050425 09:20:00 尼崎脱線事故
http://blog.goo.ne.jp/adlibrary/e/9d271f2671ff90e340873c88381ce52f


http://twitter.com/awalibrary
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ検索)
http://booklog.jp/users/awalibrary(書籍目録)
 |
http://q.hatena.ne.jp/adlib/(はてなQ&A)
http://d.hatena.ne.jp/adlib+bilda/(準公開)
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=gswyn755
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19910514
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)

 
(20180505)
 
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1991年04月27日(土)  君が代訴訟(3)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910427
 
朴実    「なぜ、『君が代』をやるのかということに対しては、学
      習指導要領、それから文部省の強い指導、教育委員会から
      の指導があるので、校長としてやらざるを得ないという話
      でした」
原告ら代理人「何回ぐらい会われたんでしょうか」
朴実    「そうですね、三回か四回会いました」
原告ら代理人「校長として、自らの権限でやらないとかいうことはでき
      ないということですか」
朴実    「はい。それで京都市教育委員会は、教育委員会が決める
      んじゃなしに、現場の校長がやるやらないは決めるんです
      よと、こう言ってますと、校長に言った時に、校長は市教 
      委はそういうけれども、そんなもん、言葉だけで、実際向
      こうが指導してやらざるを得ないと、そんな校長一人でそ
      んなやらないとか、そんな勝手に決められるものじゃない
      と言いました」
原告ら代理人「という説明ですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「小学校のほうの光成先生はどうでしたか」
朴実    「光成先生は、卒業式前だから、最終的には皆さんの意見
      を聞いて決めるけれども、やらざるを得ないだろうなとい
      う表現でした。特に光成校長のほうが、先ほど言ったよう
      な京都市教育委員会の管轄のもとにある学校である以上、
      一校長が勝手に判断して、幾ら保護者の反対が強くても、
      そんなんできないと、やっぱりやらざるを得ないと、そん
      なふうに言いました」
原告ら代理人「そういう話に終始したわけですか」
朴実    「いや、それで、私は外国人教育というものを京都市教育
      委員会も進めていますし、八一年に、一応、試験として出
      てますので、それに基づいて外国人教育を進めていること
      と、『君が代』とは相容れないじゃないかという論理で聞
      いていきました」
原告ら代理人「それに対しては…」
朴実    「その話はその話として、朴さんの気持ちはよくわかるけ
      れども、一校長としてはどうすることもできないんやと、
      学習指導要領に書かれていて、他府県ではもっともっとや
      られてるのに、京都はできなかったほうがおかしいんやと
      いうものだけでした。それで私は在日朝鮮人が今本名を名
      乗る子供が非常に少ないんです。そんな問題とか、校内の
      差別問題、社会の差別問題、なんでこんな問題であるかと
      いう話と関連していいましたけれども、結局、校長先生ら
      は、自分たちの学校教育の中で在日朝鮮人に対する教育は
      取組みが不足してるということに結局はなっていた。それ
      で『君が代』が進められることと矛盾しているということ
      は薄々わかっていても、それをどうすることもできないと
      いう感じでした」
原告ら代理人「そうすると、それぞれの校長先生は、一校長がどうする
      こともできないという説明に終始されたということですか」
朴実    「はい。特にこの思いをはっきりしましたのは、私は子供
      の学校だけじゃなしに、地域のいろんな学校も回って、そ
      れぞれの校長と話ました。向島二の丸小学校の確か杉村と
      いう校長先生が当時おられたんですけど、その方は八六年
      の申出の時には、自分は個人的には『君が代』については
      反対していると、そして自分は『君が代』はやらないと言
      っておられたのに、次の年、八七年に二の丸小学校はやる
      と言われた時に、どうして先生は、去年、自分も反対して
      るからやらないと言ってお
      〜/〜



朴実    「校長室の前の廊下での立話で、時間もあまりなくて、そ
      れで校長先生も、一切もう、自分の気持ちは出せないよう
      に立場上なってるので言えないと、そのことだけ言われま
      した」
原告ら代理人「それは、自分はやりたくないけれども、学校行政として
      はやらざるを得ないという意味ですか」
朴実    「学校行政が混乱すると言われました」
原告ら代理人「向島中学では卒業式、あなたは出席されたんですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「当日はどんなふうでした」
朴実    「当日は朝から『君が代』をめぐって異様な雰囲気でした。
      と言いますのは、私たちだけじゃなしに、近所の人たちも
      たくさん反対のビラを配ったり、マイクで呼びかけたりし
      ていました」
原告ら代理人「それは校門の風景ですね」
朴実    「はい。そして校舎の中に私も入って行った時も、子供た
      ちが、おっちゃん、ぼく、『君が代』反対やでと言う子が
      たくさんいました。で、『君が代』が鳴ったらぼくらは
      出て行くでと、子供たちが言ってました。それを聞いて、
      私は校長にもう一度言ったんですけど。騒然とした、そう
      いう感じでした」
原告ら代理人「あなたの陳述書を読みますと、当日、校門附近に警察官
      も来ていたということで、そのとおりですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「制服の警官でしょうか」
朴実    「はい。私服と思われる人もいましたけれども、それは確
      認できていません。けれども、毎年普通の乗用車で私服の
      刑事らしき者が来ていて、一回私が確認したことがありま
      す。伏見署の者だと言いました」
原告ら代理人「で、式場で実際テープは流されたんでしょうか」
朴実    「式が朝の一〇時に始まったんですけれども、その一〇時
      ぎりぎりまで、私は会場で校長先生にやらないでほしいと
      いうことを、それで朝鮮人がどれだけ『君が代』によって
      苦しめられたのかということを大きな声で叫んでいました。
      その時に、もう、時間が来たのでということで、なんかそ
      のまま式に入っていったような感じになってしまいました」
原告ら代理人「テープが流れたのは、気がつきましたか」
朴実    「いや、気が付きませんでした。最初、今何されてるのか
      なと思って、前のほうに走って行ったら、かすかに『君が
      代』のメロデイーが流れていました」
原告ら代理人「それは何で流しましたか。マイクを通じてでしょうか」
朴実    「いや、マイクじゃない、ちょっとわからないです。小さ
      い音でした。後ろの保護者席からはなかなか聞きとれませ
      んでした」
原告ら代理人「ポータブルのカセットテープレコーダーがありますね、
      それを使ったんでしょうか」
朴実    「そんな感じでした」
原告ら代理人「ほとんど聞取れないような音でしたか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「誰が機械を操作したのかわかりますか」
朴実    「ちょっとわからないです」
原告ら代理人「で、出席者ですが、どのようにしてましたか」
朴実    「まず、先生方はほとんど、校長、教頭を除いて皆座って
      いました。保護者席でも多くの人が座っていました」
原告ら代理人「生徒さんは」
朴実    「生徒は最初から起立させれた状態でした」
原告ら代理人「あなたはテープが鳴ってるということに気が付いて、ど
      うしたんでしょうか」
朴実    「大きな声で会場全体に『君が代』の強制に反対しますと
      言って退席しました」
原告ら代理人「同じように、退席した人はいましたか」
朴実    「うちの子供が一緒に後ろから付いて退席しました」
原告ら代理人「他には」
朴実    「他には退席した者はいませんでした」
原告ら代理人「向島南小学校のほうですが、この時は予めのプログラム
      に『君が代』のことは触れてなかったんですね」
朴実    「はい。前の日に、即ち三月二三日が小学校の卒業式なん
      ですが、二二日の夜に、日曜日だったか、祭日だったか、
      学校が休みの日でしたけど、夜八時ぐらいに校長先生が来
      てほしいと言われて行って、プログラム見たら、その時に
      は書いてなかったです」
原告ら代理人「式の当日、配られたプログラムには、突如として、国歌
      斉唱…」
朴実    「国歌演奏ということが二番目に」
原告ら代理人「ということが現れたわけですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「ということは、予め生徒の皆さんにも、教師の皆さんに
      も、それから保護者の皆さんにも知らせてなかったという
      ことですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「今さっき、小学校の先生が前の日に電話してきたと言い
      ましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「その趣旨はどういうことだったんですか」
朴実    「『君が代』をどうしてもやらないといけないけれどもだ
      めですか、という言い方で言ってこられました」
裁判長   「あなたが『君が代』のことで、特に最後に裁判所に訴え
      たいというか、話したいことがありましたら言ってほしい
      んですが」
朴実    「…まあ、先ほども言いましたように、私たち朝鮮民族に
      とって、私たち民族の不幸は、天皇の名によって行なわれ
      た民族抹殺政策、皇民化政策、それによるものと思います。
      そして、戦後、私たちの民族が解放されて以降の、戦前の
      その状況を引きずって、差別が今もなお根強く残っていま
      す。その清算も未だにきちっとされていません。そして私
      たち在日朝鮮人の子供の八割以上が日本の学校に在籍して
      います。このような歴史と現実の中で、私たちにとって
      『君が代』というのはとても受け入れられないものです。?
      『君が代』が好きでそれを受け入れる人もいるでしょうけ
      れども、それをやられると、私、あるいは私の子供たちの
      ように、非常に傷つく者がいるということ、そういう中で、
      そういうものを一律に押し付けたり、強制はしてほしくな
      い、特にそれは非常に子供たちに深い傷として残っている
      ので、そのことは教育委員会の人たちも知ってほしいと思
      います」
原告ら代理人「あなたのお子さんの卒業式、何回かあったんですが、結
      果として学校行事で『君が代』が強制されたわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「それがあなたやお子さんに、どんような問題を残しまし
      たか」
朴実    「陳述書にも書きましたように、八七年に『君が代』が流
      された時に、子供たちと私は、泣いてそこから退席しまし
      た。それから戻ってきた時も、子供たちは肩を震わせて泣
      いていました。そして、それはずっと子供の心に深い傷と
      して残っています。次の年、娘は作文にもそのことを書き
      ました。あんな惨めな思いをするのはもう嫌であると。そ
      して友達と一緒に地域の中学に行くはずだったのが、突然、
      韓国中学にいきたいと娘は言いました。私はできることな
      ら、地域の学校で、日本の子供たちと一緒に、朴さん、朴
      さんと呼ばれて、一緒に行ってほしかったんですけれども、
      子供は、もう、あんな惨めな思いをするのは嫌だと言いま
      した」
原告ら代理人「あなたの目から見られて、教育現場にどのような問題を
      残したとお考えですか」
朴実    「あの問題が起こってから、まず、学校の先生、学校の職
      員室に入った時の雰囲気ががらりと変わりました。私はよ
      く外国人教育の問題で、各学校で先生の研修会で話をする
      時があります。そうすると、絶対『日の丸・君が代』のこ
      とに触れないでほしいと言われます。先生方で時々質問さ
      れる方がありますけれども、その時、周りの雰囲気が水を
      打ったように静かになります。なんか触れてはならないも
      のに触れたような、先生が自由に発言できないそんな雰囲
      気でした。それから地域の保護者の中でも反対する人が多
      い。そうすると、反対する人と賛成する人たちの間に非常
      に溝ができて、町内会にしても、保護者会にしても、PT
      Aにしても、そういうところで非常に溝ができました。子
      供たちが何よりも一緒に卒業式に行きたい、出たいという
      願いが、クラスの子供たちの間でも、引き離される結果と
      なりました」

原告ら代理人(甲第八三号証を示す)
      「この陳述書はご覧になりましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「それを読まれて感想と併せて何かおっしゃりたいことが
      あれば、おしゃってください」
朴実    「これを書いてる伊昌烈(ユン・チャンヨル)氏は、私よ
      り少し年下ですけれども、彼は韓国籍、私は日本国籍とい
      う違いはありますけれども、彼が小さい時から受けてきた
      民族差別、そういう思いは非常に共通したものがあります。
      そして、今なお、彼が指紋不押捺で逮捕され、そして裁判
      までなったことに対して、私が帰化をして、そういうこと
      がなくなったということに対して、非常に胸の痛みを感じ
      ます。そして、この最後に、『真の国際化に向けて』と書
      かれていますけれども、これは今年の一九九一年の一月一
      〇日、海部首相が韓日の法的協定再協議を終えて、日本に
      帰って来た時のメッセージで私もよく覚えています。この
      中に海部首相はメッセージで、私たち在日朝鮮人を『共に
      生きる者として今後大切にしていきたい』ということを言
      っています。そして具体的には教育の問題で世界的な視野
      に立って、今後の日本社会の建設を進めて行くにあたって
      は、『国内におられるこれらの方々と同じ社会に生活する
      人間として共に考え、共に生きることができるようにしな
      ければならない』と言い、そして『民族教育とか、民族文
      化、そういうもの、あるいは韓日、日韓の歴史の教育の大
      切さを進めていかなければならない』という、そういうこ
      とをうたわれてることに、非常に感銘を受けました」
原告ら代理人「それと『君が代』の問題はどう関係しますか」
朴実    「『君が代』を強制していく、進めていくことと、日韓の
      覚書、海部首相の声明、それから日韓の両外相の声明とは、
      絶対に相容れないと。共に生きていくならば、私たちに嫌
      なもの、歴史的な屈辱をどうしてこんなにして押し付けて
      行くのか、私は腹が立って腹が立ってたまりません」

*被告側 反対尋問     (被告代理人は香山仙太郎弁護士)  

被告ら代理人「あなたにお子さんが三人おられるということですね」
朴実    「はい」
被告ら代理人「子供さんとは、よく『君が代』の話をなさいますか」
朴実    「この学校で『君が代』が強制されてから、話をしました」
被告ら代理人「そうしますと、あなたの『君が代』に対するお考えを、
      子供さんにもお話なさるわけですね」
朴実    「はい」

      られたのにやるんですかと聞いたら、もう、やらないと学
      校行政ができないと言われました」
原告ら代理人「それはどういう意味ですか」

────────────────────────────────
「君が代」訴訟 朴実さん 法廷証言記録(京都地裁1991.4.25)
──『資料「君が代」訴訟』には収録できなかった記録です──
 
 京都弁護士会会長に田畑氏
Kyoto Shimbun 2002.01.23 News ホーム > ニュース目次
 京都弁護士会(会員338人)は23日、2002年度の会長に田畑
佑晃弁護士(61)を決めた。副会長には脇田喜智夫(50)、高山宏之(47)、
藤田正樹(45)、白浜徹朗(41)の各弁護士が決まった。任期はいずれも4
月1日から1年間。
 京都市中京区の京都弁護士会館で会見した田畑弁護士は「自由で風通
しがよく、市民に開かれた弁護士会として運営していきたい」と語った。
また、今年秋に、弁護士がいない宮津市に近畿で初めて公設法律事務所
を設置することなどを話した。
 田畑佑晃氏(たばた・ゆうこう)1975年に弁護士登録。京都弁護
士会副会長、同会法律相談センター運営委員会委員長などを歴任し、現
在は常議員会議長。同志社大卒。京都市出身。

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 同志社マンドリンクラブ詳年譜
[1937. 1.16] 依田君送別会
 卒業者(依田 茂)送別会
 京都「千也」1937.1.16 [提供:山崎喜三郎 S6卒]
 後列左より:中努吉雄、五島道信、畑中重雄、不明、植木英治、
       銭谷順次、山崎喜三郎、山口信雄、店員、浜田薫
 中列左より:中村千悦、店員、大井茂、加藤重徳、飯田
 前列左より:西田直道、熊谷忠四郎、依田茂、田畑忍先生(一人
       おいて)金崎種三
── http://www.smd-kai.gr.jp/nenpu/n1936-37.html
 


1991年04月26日(金)  君が代訴訟(2)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910426
 
原告ら代理人「京都のそういう就学児童の数というのは、どのぐらいあ
      るんでしょうか」
朴実    「京都市教育委員会は外国人生徒として言い続けてますけ
      れども、それは在日朝鮮人生徒のことを指していますけれ
      ども、これは日本籍者は含まれていません。韓国籍、朝鮮
      籍だけでも八九年でしたかの調査では、中学では全生徒数
      の二・六パーセント、昨年小学校の調査では全児童数の約
      二・九パーセントが韓国籍、朝鮮籍です。けれども、私と
      この子供たちのように、日本籍者を含めると、その数はも
      っと多くなります」
原告ら代理人「学校によって、多い少ないも出てくるわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたのお住いになっている学区ですね、小学校で言い
      ますと、向島南小学校の学区ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「中学で言いますと」
朴実    「向島中学です」
原告ら代理人「その学区は他の地域よりも多いんでしょうか」
朴実    「小学校のほうは、調査がなかったので、数字がちょっと
      わかりませんけれども、向島中学の場合は、うちの子供が
      通っていた時期は約三パーセントが韓国籍、朝鮮籍でした」
原告ら代理人「他の地域よりも多いということですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「その向島南小学校と、それから向島中学校にお子さんが
      それぞれ就学されてる時に、『君が代』のテープの強制問
      題が起こりましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「最初はいつでしたか」
朴実    「…今から五年前の3月、一九八六年の三月の卒業式前に
      なって知りました」
原告ら代理人「その時、お子さんは何年生だったんでしょうか」
朴実    「一番上の子が向島中学二年、次の子が向島南小学校の五
      年、三番目が四年生でした」
原告ら代理人「卒業式に関係あるというのは、長男の光(クワン)君が
      向島中学二年生、次男の哲(チョル)君が向島南小学校五
      年生として、卒業式に関係あったわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「卒業式で『君が代』が強行されるというようなことは、
      最初、誰から、いつ聞きましたか」
朴実    「新聞とか、マスコミの報道でやられるかもしれないとい
      うことで、三月になってから知りました」
原告ら代理人「三月の初旬でしょうか」
朴実    「そうですね。一〇日より少し前だと思います。一〇日ぐ
      らい…」
原告ら代理人「それであなたとしては、どうしたんでしょうか」
朴実    「それで他の保護者とかにも聞きますと、反対してる人が
      多かったので、他の地域の人たちと一緒に学校へ行きまし
      た」
原告ら代理人「それは中学にも、小学校にも行ったということですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「当時の中学校の校長先生は誰でしたか」
朴実    「小林…、下の名前はちょっと分かりませんが、小林校長
      先生」
原告ら代理人「小学校のほうは…」
朴実    「早川校長でした。名前のほうは分かりません」
原告ら代理人「それぞれ会われたんでしょうか」
朴実    「はい、会いました」
原告ら代理人「何回ぐらい会われました」
朴実    「…ちょっと覚えてないんですけれども、一回か二回ぐら
      い会いました」
原告ら代理人「地域の人々とおっしゃいましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「どういう方たちがあなたと同じ考えを持ったんでしょう
      か」
朴実    「はい」
原告ら代理人「教会で知り合われたという関係だったんですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたの表現を使うと、日本籍朝鮮人ということですが、
      帰化したら帰化したで、それなりの苦労がまたあるんじゃ
      ないですか」
朴実    「確かに、帰化をすれば、日本国民として法的には保証さ
      れていますけれども、日本社会は、民族差別は単なる法的
      なものじゃなしに、日常生活にわたっていろんな民族差別
      があります。例えば、アパートに入居するとき、日本名で
      はかまわないけれども、民族名、本来の本名では入れても
      らえませんでした。それから、子供たちも名前のことでい
      じめられたりもしましたし、けんかをすれば、朝鮮帰れ、
      とも言われたりもしました」
原告ら代理人「それは固有の日本人からの差別ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「在日朝鮮人からの問題は何かありましたか」
朴実    「在日朝鮮人も韓国籍、朝鮮籍の中で、いろんな法的な差
      別のある中で生きてきておられる方にとっては、私たち帰
      化した者は民族の裏切者として、できるだけ民族のそうい
      う同朋の社会に入っていこうとした時に、来なくてもいい
      とか、裏切者とか、そういうふうな表現で排斥されました」
原告ら代理人「そういうことで、かなり悩まれて、帰化したことを悔ま
      れたこともありますね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「また、国籍を取り戻したいと思われたこともあるんです
      か」
朴実    「はい。それで最初、帰化後一年ほど経って、もう一度韓
      国籍に戻りたいと思って、韓国の国籍法を調べました。す
      ると、韓国に五年以上居住して、そして引き続いて居住す
      る用件とか、韓国で生活をしていく生計の道がないと、再
      帰化ですか、戻れないということで、断念せざるを得ませ
      んでした」
原告ら代理人「それで、陳述書によると、『日本籍朝鮮人としての生き
      方を追求し』という表現がありますね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「それはどういうことですか」
朴実    「私は最初はそれは私個人の特異な、私が帰化をし、そし
      てまた再び朝鮮社会に入っていこうとして受け入れられな
      かった時に、私が帰化したことが悪かったんだと、私個人
      に置き換えていたんですけれども、客観的に見ると私一人
      じゃなしに、日本の社会のあらゆる民族差別の中で、帰化
      していく人が毎年約五〇〇〇名います。そしてその子孫の
      数も非常に多いです。また、私が日本の学校教育でそうで
      あったように、民族的素養を一切受けられずに、むしろ民
      族を否定していくことばかり考えていました。そういう子
      供たちが今もなお、小学生、中学生として育って行った時
      に、私と同じように民族を否定し、帰化していく者が出て
      くるんじゃないかと。それは私一人の問題だけじゃなしに、
      たとえ、帰化をして、日本国籍になっても、もう一度民族
      を取り戻したい、あるいは朝鮮人として生きたいという願
      いがかなえられるような、そういう社会になってほしいと
      思ってそういう生き方を追求しました」
原告ら代理人「それで本名使用も考えられたということですが、帰化の
      時に日本名を押しつけられましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたの表現によると、どうもそうらしいです」
朴実    「はい」
原告ら代理人「本名を使い出したのは、いつごろからですか」
原告ら代理人「帰化をしたその年の秋に長男が生れまして、その子供の
      教育を思った時に、この子は幾ら国籍が日本でも、親が朝
      鮮人であれば、この日本社会ではきっといろんな差別を受
      けると思いました。それならば、むしろ親とか、そういう
      自分の出生を隠さず、自分の親は朝鮮人であるということ
      を表現して生きてほしいと願いました。自分が朝鮮人とし
      て生きる、それだったら、国籍が日本だったら一体何があ
      るのかと思った時に、名前しかなかったということです」
原告ら代理人「そうすると、長男が生れた直後あたりからということで
      すか」
朴実    「はい、そうです」
原告ら代理人「そしたら、お子さんと、それを議論するということはな
      かったですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「奥さんと議論されたでしょう」
朴実    「はい」
原告ら代理人「奥さんの御意見は」
朴実    「妻は私が帰化をしたことが自分の親とか兄弟に直接原因
      があったということで、私に対して非常にすまない気持ち
      を持っていましたから、私がむしろ本名を名乗る、民族名
      を使うということには、積極的に賛成してくれました」
原告ら代理人「日常生活では、奥さんはどう名乗られたんですか」
朴実    「私が元の朴という名前を名乗った時、妻は旧姓の日本の
      名前、作花清子という旧姓を使い出しました」
原告ら代理人「一時、夫婦別姓であったと、そういうことですか」
朴実    「そうです」
原告ら代理人「しかし、表札とかは朴と書いてあったわけですか」
朴実    「公文書類は新井という日本名で来るので、朴(新井)と
      書きまして、横に妻の旧姓も書きました」
原告ら代理人「三つの名前が並んでたということですか」
朴実    「はい」
朴実    「まず、PTAとか保護者とかの人たちと、もう一つは地
      域でそういう障害者問題とか、在日朝鮮人問題とかに取り
      組んでる地域の住民の人たちです」
原告ら代理人「あなた一人でも、会われたことはあるんでしょうか」
朴実    「この八六年の時は、私一人では会っていないです」
原告ら代理人「まず、中学のほうの小林校長先生と実際に会われました
      か」
朴実    「中学に行った時、たまたま不在でして、教頭先生が代わ
      りに出てこられました」
原告ら代理人「お名前は何というんでしょうか」
朴実    「高谷という名字しかわかりません」
原告ら代理人「最初に会われたのは、いつごろですか」
朴実    「三月一二〜一三日ごろだったと、もう卒業式の直前だっ
      たと思います」
原告ら代理人「その卒業式は、その年は何月何日だったか、覚えてらっ
      しゃいますか」
朴実    「三月一五日が中学の卒業式だったと思います」
原告ら代理人「その高谷教頭先生と会われて、どういうやりとりがあっ
      たんでしょうか。あなたたちのほうからは」
朴実    「私たちは『君が代』に対して反対してる人たちも多いし、
      子供たちも多い。それからまあ、歴史的にみても、在日朝
      鮮人の立場から見ても、反対する人が多いし、私たちも反
      対してるので、やめてほしいと言いました」
原告ら代理人「それに対して、教頭先生はどうおっしゃいましたか」
朴実    「校長が不在なので、自分の権限じゃないので、はっきり
      したことは言えないけれども、まあ、教頭先生の個人意見
      として、『君が代』の『君』は天皇じゃなしに、私、あな
      たの『君』とも解釈できると、そんなふうに言われました」
原告ら代理人「あくまでも、(『君が代』を)するんだというお立場で
      しょうか」
朴実    「校長先生がいないので、教頭先生では最終的にわかりま
      せんということでした」
原告ら代理人「最初はそうでしたが、また会ったんですか」
朴実    「いえ、それで次の日でしたか、校長先生から私のうちに
      電話があった時に、確かめると、『君が代』をやるという
      ことなので、それで、『君が代』を卒業式に取り入れると
      いうのは、その時、はっきりわかりました」
原告ら代理人「そうせざるを得ないというようなことについてですね、
      何か説明はされましたか」
朴実    「…これと言った説明はなかったです。私は反対意見を言
      いましたところ、まあ、いろんな意見があるけれども、こ
      れは文部省の指導要領で書かれているから、やらざるを得
      ないと言われました」
原告ら代理人「例えば、やらなければ自分はどうなるとか、そういうよ
      うな説明はありませんか」
朴実    「その時はなかったみたいです」
原告ら代理人「そういう説明が電話であって、あなたたちはどうしたん
      でしょうか」
朴実    「もう、それは卒業式直前だったので、子供たちが『君が
      代』については小学校から中学校、一回も習ったこともな
      いものを、どうして急にやるのか、そんなことやったって、
      できないじゃないかと言いましたところ、前の日の予行演
      習で教頭に説明させると言いました。私はそれを聞きたい
      と言ったんですが、それは断られました」
原告ら代理人「そのまま式になったと、こういうことですか」
朴実    「はい。子供はクラス委員をしていたので、出なければな
      らなかったんですが、『君が代』がやられるならば、自分
      は出ないと言って、それでクラスでそのことを言わせてほ
      しいと言ったところ、担任の先生は認められて、クラスの
      ホームルームの時間に、その話をする予定をしていたんで
      すが、校長先生から朝、いきなり電話があって、それはや
      めてほしいと言って、できませんでした」
原告ら代理人「今、校長先生、教頭先生以外の先生の話が出たんですが、
      他の先生たちの対応というか、あるいは態度いうか、それ
      はどうだったか覚えてますか」
朴実    「先生方もほとんど反対されておられました」
原告ら代理人「そういう説明は直に聞いたんですか」
朴実    「はい。それから地域で反対の集りを持った時に、先生方
      も来られていました」
原告ら代理人「そういう先生方の反対があったにもかかわらず、結果と
      して式の当日はどうだったんでしょうか」
朴実    「『君が代』のテープが流されました。私、子供は出席し
      ていませんでしたけれども、地域の人たちから聞きました」
原告ら代理人「小学校のほうですが、(「君が代」は)流れましたか」
朴実    「小学校の時は、早川校長に会いに言った時に、やらない
      と言いまして、その年はありませんでした」
原告ら代理人「一九八六年の三月の卒業式は、そういうことで過ぎたわ
      けですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「その後、『君が代』の強制反対と言いますか、そういう
      地域の取組みはあったんでしょうか」
朴実    「それで私たちの向島の地域には、『差別と人権を考える
      会』という住民運動があったんですけれども、それが中心
      になって、『「日の丸・君が代」の強制に反対する会』と
      いうのを作りまして、それで各学校に申入れをし、校長先
      生と交渉してきました」
原告ら代理人「それは一九八六年の卒業式が終ってからですか」
朴実    「八六年の時も、『差別と人権を考える会』という名前で
      各学校に申入れをしました」
原告ら代理人「それはどういう人たちが組織されてるんですか」
朴実    「組織という組織じゃないんですけれども、向島地域に住
      んでいる私のような普通の保護者、父親、母親、それから
      子供を持っていない住民、障害者、そういう人たちです」
原告ら代理人「キリスト教の関係でそういう団体があったと聞いてるん
      ですが、それとは別ですか」
朴実    「はい。代表者がたまたま世光教会という日本キリスト教
      団の牧師でした」
原告ら代理人「何という人ですか」
朴実    「後宮俊夫(うしろぐとしお)牧師です」
原告ら代理人「他にそういう動きがあったんでしょうか」
朴実    「他にも、地域の他の保護者、牧師たちも別個に反対運動
      をしてました」
原告ら代理人「次の年の一九八七年の三月を迎えるわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「この時は、予め、その前の年と同じようなことが行なわ
      れるということは、既にわかってたんですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「で、証人のお子さんの長男光君、次男哲君、それぞれ向
      島中学校と向島南小学校で卒業式を迎えることになったん
      ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「もちろん、反対されましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「先ほどおっしゃった段階よりも、動いてたわけですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「校長先生方にもお会いになりましたか」
朴実    「はい。中学校は前の教頭先生だった高谷先生が校長先生
      になられて、小学校のほうも教頭先生だった光成先生が校
      長になられて」
原告ら代理人「それぞれ会われたわけですか」
朴実    「はい。保護者としても何回も会いました」
原告ら代理人「この時の高谷校長さんとのやりとりで覚えてることがあ
      りますか」


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