与太郎文庫
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1972年01月20日(木)  チェロとわたし(新旧版)もくじ

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19720120
http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities
http://twitter.com/awalibrary
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19720120
 
 Ex libris Web Library;ピアティゴルスキー 1972
http://www.geocities.jp/cellisch/biblio.html
 チェロやチェリストの本
 
…… わたしは日本人の音楽家と親しくなる機会は得られなかったが、
わたしがまったく残念にも名前を失念してしまった盲目の作曲家の琴の
すばらしい演奏には、感銘を受けた。わたしは、ジョセフ・ローゼンス
トックの指揮で、この人の小品をオーケストラの伴奏で演奏した(P318)。
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4560095000
── ピアティゴルスキー/村上 紀子・訳《チェロとわたし 19720120-19770630-20090130 白水社》
── CELLIST by Gregor Piatigorsky [C] Gregor Piatigorsky, 1965
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BD%D5%A4%CE%B3%A4
 ↑春の海 ↓ピアティゴルスキー
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%D4%A5%A2%A5%C6%A5%A3%A5%B4%A5%EB%A5%B9%A5%AD%A1%BC
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20080704
 Pax Americana 〜 有頂天のアメリカ 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%CD%AD%C4%BA%C5%B7%A4%CE%A5%A2%A5%E1%A5%EA%A5%AB
 


Page(新)
    1 
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    5 
(旧) 6 
 1  7 
 2  8 
 3  9 
 4  10 
 5  11 目次
 6  12 
 7  13 第 一 章 ふるさとの思い出
 8  14 
 9  15 
10  16 
11  17 
12  18 
13  19 
14  20 
15  21 第 二 章 最初のチェロ(19100417-0420)
16  22 
17  23 
18  24 
19  25 
20  26 
21  27 
22  28 
23  29 
24  30 第 三 章 『エヴゲーニー・オネーギン』のセンセーショナルな上演
25  31 
26  32 
27  33 
28  34 
29  35 
30  36 
31  37 第 四 章 ある婚約とその成り行き
32  38 
33  39 
34  40 
35  41 
36  42 第 五 章 グァルネリのチェロ
37  43 
38  44 
39  45 
40  46 
41  47 
42  48 
43  49 
44  50 
45  51 
46  52 第 六 章 シャリアピンとのコンサート
47  53 
48  54 
49  55 
50  56 
51  57 第 七 章 ボリショイ劇場のチェリスト
52  58 
53  59 
54  60 
55  61 
56  62 
57  63 
58  64 
59  65 
60  66 
61  67 第 八 章 レーニンとの会話
62  68 
63  69 
64  70 
65  71 
66  72 
67  73 
68  74 第 九 章 ワルシャワのインテルメッゾ
69  75 
70  76 
71  77 
72  78 
73  79 
74  80 
75  81 
76  82 
77  83 
78  84 第一〇章 ライプツィヒのクレンゲル先生
79  85 
80  86 
81  87 
82  88 
83  89 
84  90 
85  91 
86  92 
87  93 
88  94 
89  95 第一一章 チロル山頂での休暇
90  96 
91  97 
92  98 
93  99 
94 100 
95 101 第一二章 途方もないインフレ
96 102 
97 103 
98 104 
99 105 
100 106 
101 107 第一三草 カフェー・ルショー
102 108 
103 109 
104 110 
105 111 
106 112 
107 113 
108 114 
109 115 第一四章 バイエルンの城で過ごした夏休み
110 116 
111 117 
112 118 
113 119 
114 120 
115 121 
116 122 
117 123 
118 124 
119 125 
120 126 
121 127 
122 128 
123 129 
124 130 第一五章 『月にうかれたピエロ』とアルトゥール・シュナーベル宅の午後
125 131 
126 132 
127 133 
128 134 
129 135 
130 136 
131 137 
132 138 
133 139 
134 140 
135 141 
136 142 
137 143 
138 144 
139 145 
140 146 
141 147 
142 148 
143 149 
144 150 第一六章 「チェロの引っかぎ屋はどこにいる?」
145 151 
146 152 
147 153 
148 154 
149 155 
150 156 
151 157 
152 158 
153 159 
154 160 
155 161 
156 162 
157 163 
158 164 
159 165 第一七章 偉大な芸術家にして友人、パブロ・カザルス
160 166 
161 167 
162 168 
163 169 
164 170 
165 171 
166 172 
167 173 
168 174 
169 175 
170 176 
171 177 
172 178 
173 179 
174 180 
175 181 
176 182 第一八章 冒険のかずかず
177 183 
178 184 
 
……(要約)演奏会の前に、美しい娘に誘われたスケートで転倒したた
め、右手の親指が赤く脹れあがった。やっとの思いでドヴォルザーク協
奏曲の第一楽章を弾き終えると、涙が頬を流れ、聴衆も眼頭を抑えた。
 
 第二楽章では、もっと涙があふれ、聴衆も共に泣いてくれたのだった。
第三楽章が始まると、わたしはさらに泣き、聴衆は声をあげて泣いた。
聴衆の反応というのは、謎に満ちた現象である(冬のオランダ P184)。
 
179 185 
180 186 
181 187 
182 188 
183 189 
184 190 
185 191 
186 192 
187 193 
188 194 
189 195 第一九章 セルゲィ・ラフマニノフとのエピソード
190 196 
191 197 
192 198 
193 199 
194 200 
195 201 
196 202 
197 203 
198 204 
199 205 
200 206 
201 207 
202 208 
203 209 
204 210 
205 211 第二〇章 「三銃士」
206 212 
207 213 
208 214 
209 215 
210 216 
211 217 
212 218 
213 219 
214 220 
215 221 第二一章 「小品もまた価値がある」
216 222 
217 223 
218 224 
219 225 
220 226 
221 227 
222 228 
223 229 
224 230 
225 231 
226 232 
227 233 
228 234 
229 235 
230 236 第二二章 「ロシアのチェリスト、アメリカの印象を語らず」
231 237 
232 238 
233 239 
234 240 
235 241 
236 242 
237 243 
238 244 
239 245 
240 246 
241 247 
242 248 第二三章 「チェロで河を渡ったピアティゴルスキー」
243 249 
244 250 
245 251 
246 252 
247 253 
248 254 
249 255 
250 256 
251 257 
252 258 
253 259 
254 260 
255 261 
256 262 
257 263 
258 264 
259 265 第二四章 王室の人びととの体験
260 266 
261 267 
262 268 
263 269 
264 270 
265 271 
266 272 
267 273 
268 274 
269 275 
270 276 
271 277 第二五章 伴奏者さまざま
272 278 
273 279 
274 280 
275 281 
276 282 
277 283 
278 284 
279 285 
280 286 
281 287 第二六章 「チェロ・ピアティゴルスキー嬢」の航空券
282 288 
283 289 
284 290 
285 291 
286 292 
287 293 
288 294 
289 295 
290 296 
291 297 
292 298 
293 299 
294 300 
295 301 
296 302 
297 303 
298 304 
299 305 
300 306 
301 307 
302 308 
303 309 第二七章 小さな指揮棒の魔力
304 310 
305 311 
306 312 
307 313 
308 314 
309 315 
310 316 
311 317 第二八章 スラバヤから横浜、サンフランシスコヘ
312 318 
313 319 
314 320 
315 321 
316 322 
317 323 
318 324 
319 325 
320 326 第二九章 有名なチェロの運命から
321 327 
322 328 
323 329 
324 330 
325 331 
326 332 
327 333 
328 334 
329 335 
330 336 第三〇章 パーティーよもやま話
331 337 
332 338 
333 339 
334 340 
335 341 
336 342 
337 343 
338 344 
339 345 訳者あとがき
340 346 
341 347 
342 348 
343 349 奥付

 
 村上 陽一郎 科学史 19360909 東京 /東京大学名誉教授/余技=チェロ/紀子の弟
♀村上 紀子  ピアノ 193,‥‥ 東京 /ドイツ語学
 
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000J93JKA
── クロイツァー/村上 紀子・訳《芸術としてのピアノ演奏 〜 ピアノ奏法の新しい美学 1969‥‥ 音楽之友社》
 
(20130610)
 


1971年12月21日(火)  三崎事件 〜 娘の誕生日の殺人 〜

 
 ↓ last updated page
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711221
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↑Index 19020102〜99991231 ↓Edita for text
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from Our Picture;冤罪
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790803
 足利週末失踪事件 〜 発生から釈放まで19年余 〜
── 菅家 利和《冤罪 200908‥ 朝日新聞出版》
 


 K  □□ 食料品店主 1918‥‥ 神奈川 三浦 19711221 53 /刺殺
♀K  □□ 店主の妻  1922‥‥ 神奈川 三浦 19711221 49 /刺殺
♀K  □□ 店主の長女 1954‥‥ 神奈川 三浦 19711221 17 /刺殺
 K  □□ 店主の長男 195.‥‥ 神奈川 三浦       /目撃/中学生
────────────────────────────────
 □□ □□       192.‥‥ ‥‥           /真犯人?
────────────────────────────────
 荒井 政男 寿司店主  1927‥‥ 神奈川 東京 20090903 82 /獄中病死
/19711221(44)店主一家三人刺殺19760925横浜地裁横須賀支部
/19841218東京高裁19901016最高裁再審請求中/一審以来無実を主張
────────────────────────────────
♀荒井 □□ 店主の長女 19531221 神奈川 三浦       /家出/高校中退

 
── 事件当日21日は娘の18歳の誕生日であった。だが娘は高校2年生
になる少し前から、学園紛争にまきこまれ、学校をサボるようになった。
さらには家にも帰ってこなくなる。(略)
 この日も三崎まで娘を探しに来ていた。
 三崎という町は、よく知っていた土地だが、娘は見つからなかった。
そこでこのあたりで食事をしようと、Kさん方の向かいにある食堂で酒
を飲み、かなり酔っ払った。そしてKさんの店の前で寝こんだりしてい
た。
 やがて夜遅くになり、車内で休んでいたところ、近くで悲鳴が聞こえ、
Kさん方のシャッターから男(真犯人と見られる)が飛び出してきて逃
げていくのを見た。Kさんとは面識があったので、心配になり、店をの
ぞいた。するとKさんが殺されているのを発見、驚いて出てきたところ
を、駆けつけた人達から犯人呼ばわりされ、逃走した。
http://yabusaka.moo.jp/misaki.htm
 三崎事件
 
── 一家3人殺害の死刑囚、東京拘置所で病死
 
 1971年に神奈川県三浦市で親子3人を刺殺し、死刑が確定した
荒井政男死刑囚(82)が3日、東京拘置所で敗血症のため死亡した。
 これにより、執行されていない死刑確定者は102人になった。
 荒井死刑囚は71年12月、金策のため同市の知人男性方を訪れ、男
性と妻、長女を次々と刃物で刺して殺害。
 76年9月に横浜地裁横須賀支部で死刑判決を受け、90年10月に
最高裁で上告が棄却されたが、91年1月に再審請求していた。
 東京拘置所によると、荒井死刑囚は2003年頃から、高血圧や糖尿
病などの治療を続けていたという。(2009年9月3日19時57分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090903-OYT1T00906.htm
 
(20090903)
 


1971年11月26日(金)  あまちゅあ・かっぽれ

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711126
 
 あまちゅあ・かっぽれ       阿波 雅敏(K1)
 
 すでに十数年も前の、とりとめのない話ばかりである。
 高校生だった私は、さるアマチュアのオーケストラの演奏会にチェロ
奏者としてエキストラ出演した。この楽器にとりくんで、まだ一年ちょ
っと経った段階であったが、奏者の員数をそろえるために、アマチュア
の場合よくあることで、当人の技量など二の次である。そうはいっても、
はじめて譜面を見て、満足に弾けるわけもなく、出演というより出場の
ほうが正しい。「未完成」と、ショパン「ピアノ協奏曲」あたりまでは、
本番にのぞんでもだいたい格好をつけたつもりである。
 最後の、ベートーヴェン「第八交響曲」になると、さすがに手に負え
なくなった。とくに終楽章の湧きたつようなテンポにおよんでは、つい
に楽譜を見うしなってしまった。つまり、どのあたりを弾いているのか
判らなくなった。こういう場合、なんとなくそれらしい音型を、平然と
弾きつづける態度が肝要(?)である。もしも途方にくれて、ひと休み
している奏者がいては、指揮者だってやりにくかろう。員数のひとりと
して、せめてその責任だけは果さねばなるまい。
 やがて、そのうちに追いつくだろう、という私の楽観は、どんどん進
むにつれ、この分だと最後まで判らずじまいになる不安になりかわった。
私は第三プルトの外側、つまり第五奏者として坐っていたが、わずかの
小休止に、意を決して隣の第六奏者にたずねてみた。彼はページをめく
る仕事を課せられているわけで、おおむねちゃんと弾いているはずだっ
た。
「いま、どのへんでしょうか」
 一瞬のあいま、私がささやくと、彼は即座に答えていった。
「実は、ぼくも判らんのです」
 あろうことか、彼はそのまま、やっぱり弾きつづけているのである。
しかたなく私も、彼とおなじように弾きつづけ、いつの間にか全曲は果
てた。
 ひどい話なので、こうした経験のない人には信じられないかもしれな
い。オーケストラの弦楽器に関するかぎり、弓の方向をそろえることが
先決で、個々の出す音など、アマチュアの場合、概してでたらめである
ことが多い。いつもこんな具合でないにしても、当時、技術水準の底辺
はそんなところだった。
 アンコールは、歌劇の間奏曲らしかった。というのは、私に与えられ
た楽譜はボロボロになっていて、タイトルの部分は破れてしまっていた
のである。
 演奏会のあと、チェロの首席奏者が帰り仕度をしながら、わめいてい
た。「第八」の第二楽章で彼は、困難にしてはなばなしいアルペジオの
独奏部分を、延々やりとげたはずであった。
「途中でおかしくなってね、わけが判らんようになった。しょうがない
から、ずっとドミソドミソ、レファラレファラばっかり弾いてやった。
ははは」
 すでに時効でもあり、罪のないエピソードをもうひとつ。
 
 ハイドンの「軍隊交響曲」は、私の指揮する高校オーケストラのデビ
ュー曲だった。当日、リハーサルの舞台に上った私は、駆りあつめられ
たエキストラの参加で、ふだんの三倍にふくれあがったメンバーを前に
して、すっかり面くらっていた。第二楽章でオーボエの受けつぎが、な
かなかうまくいかない。それというのも、信じられないような安値でつ
い最近買ったばかりの廃物寸前の楽器だからでもある。奏者にしても、
みんな逃げ腰だったのを無理におしつけた事情があって、あまり文句も
いえない。
 わずか一小節のことだが、指揮者として万全を期するため、私はヴァ
イオリン奏者を呼んで、ひそかに懇願した。
「オーボエは、ひょっとすると本番では音が出なくなるかもしれない。
そのとき、いちはやく君が代りをつとめるわけだ。なるべく似たような
音色で弾く」
「?」
「いいか、たのんだぜ」
 それでも不安にかられていた私は、念のためフルートの第二奏者にも
声をかけておいた。
「オーボエもヴァイオリンも出ない場合は、君がやってくれ。この部分
でつまずくと、困ったことになる」
「しかし」と、フルート吹きは、かねてよりの疑問を私にただした。
「この曲は、もともとフルート一本しか書かれていないんでしょう。す
ると第二フルートのぼくが吹いてるのは、何ですか」
「ハイドンの時代は人手不足だったんだ。遠慮せずに、しっかり吹いて
くれ」
 さて、本番を迎えた。
 オーボエの、例の個処になると、私は目をつむってしまった。なむさ
ん、オーボエはもとより、ヴァイオリンも第二フルートも、ついに鳴ら
なかった。しかるに意外なことは、私自身に起っていた。たちまちにし
て私の唇から、とにかくメロディが流れ出たのである。
 演奏会のあと、みんなは狐につままれたような表情で話しあっていた。
「あそこで、たしか何か鳴っていたようだ。いったい誰がどうしたんだ
ろう」
 まさかのハプニングで、あのとき誰も気づかなかったものとみえる。
みんな、よほど緊張していたらしい。そこへ、最前列で聴いていたとい
う人があらわれて、叫んだものだ。
「おどろいたなぁ、ハイドンの交響曲で、くちぶえが入るなんて」
「誰だ、くちぶえなんか吹いた奴は」といって私は、いそいで姿をくら
ませた。
 
 私たちのオーケストラは、三年目の夏に、琵琶湖一周大演奏旅行をく
わだてた。みんな大胆になっていて、公民館とか、大工場の集会場で、
五回ほど演奏会を開くことになった。
 すでに私は高校を卒業していたが、この機会に最後の指揮をすること
になっていた。例によって楽器の組みかえに苦労は絶えず、たとえば、
「アルルの女」とか、「エグモント序曲」など、原曲にはほど遠い奇妙
なサウンドになるのはやむを得なかった。
 そのなかで、私が気に入っていたのは、なんとモーツァルトの「アレ
ルヤ」をクラリネットに吹かせる趣向のものである。当時のメンバーで
S君という随一の奏者を活躍させるために、私が探しあてたこの曲は、
ご存知ソプラノ独唱と管弦楽のためのモテットに他ならない。S君のた
めには、本来ならかの「協奏曲」を吹かせてやりたかったが、オーケス
トラにとって荷が重すぎた。そこで、なにしろトロンボーン、クラリネ
ット、フルートそれぞれ二本を無理に加えた大編成オーケストラをバッ
クに、ときどきとんでもないサウンドにおびえながら、浮かぬ顔のS君
が、これを独奏するわけである。主として、アンコールに用いて、私は
得意がっていた。
 メンソレータムで知られる近江兄弟社の、教育会館が、最初の会場だ
った。昼間のリハーサルから宿泊にいたるまで、同社の社員とおぼしき
青年が、何かと世話してくださったそうである。私はすべてマネージャ
ーに任せて、いわばお山の大将だったので、あいさつはしたはずの、そ
れ以上に話した記憶はない。
 本番が無事おわってから、くだんの青年はS君のクラリネットを賞し
て、いった。
「ウィーンのかおりがしました」
 ウィーンであったか、ミラノであったか定かではない。
 実はこのくだりは、十数年のち、ごく最近はじめて当時のメンバーの
ひとりから聞いたものである。
 さらに、おどろいたことに誰あらん、その青年とは若き日の小林道夫
氏だったのである。知らなかったとはいえ、私はたいへんな人の前で、
でたらめな編曲と指揮を披露したわけで、いまさらに身のちぢむ思いが
する。
(前々号に寄せた、拙稿「いそがしい指」では、てっきり初対面のつも
りで、すまして話しかけているのが、われながらおかしい。おそらく、
十数年前の珍妙なオーケストラのことなど、氏の記憶にはないであろう
けれども)。
 ちなみに、当時のメンバーは個々としてみれば、なかなか優秀で、S
君はじめ数人は大学の軽音楽部のスターとなり、弦楽器でも、のちに結
婚するまで京響の定期に参加していた女性ふたり、アマチュアの室内楽
を今日まで続けているグループなど、多士済々である。あのころ、第二
ヴァイオリンの末席で、ちっとも目だたなかったW君にいたっては、目
下さっそうとファゴットをたずさえてパリ音楽院に留学中だそうである。
 おそらく、指揮者だった私が、実はいちばん才能のない、下手くそで
はなかったか。                  (19711126) 
      ── 《関西モーツァルト協会々報・第三号 197112・・ 》
────────────────────────────────
── 二十二日に近江兄弟社へいった。なかなか親切で我々も少なから
ず希望を与えられた形である。其地には関心のある人が多く、ほゞ成功
のようだ。一切は会社と村田師にまかせきっている。つまり無料の奉仕
であるか、有料の演奏会とするかであるが、いづれにせよ工場内の寮に
宿めてくれ、体育館を会場に整備してくれるようだ。彦根には兄弟社か
ら其地のYMAC理事に紹介状をくれよう。近江八幡ではそこの同志社
人会も後援してくれるから心強い。順序逆になるが村田幸男氏は岩倉で
4年間教えて居られた人で、話のわかる同志社人である。この人と上野
出身の小林という学園の音楽教師(ピアニストでもある)が良く理解し
てくれている。/モーツアルトのアレルヤをも一度やったらどうか。 
                 ── 吉田 肇(Let'19590622)
 
 上の書簡は、ひとりで演奏旅行の事前交渉にあたっていた“ゴリ”の
面目躍如たるもの。上野(東京芸大)出身の、近江学園のピアニストに
出会って、たちどころに《アレルヤ》を思いつくなど、なみなみならぬ
外交的センスがうかがわれる(この中間報告では、独奏者やメンバーの
人間関係についても配慮している)。
 
 チェロの首席奏者は、同志社交響楽団OB・高田逸夫氏。田中さとる
(京都放送アナウンサー)氏の司会で、円山音楽堂における合同演奏会。
 マスカーニ《カヴァレリア・ルスチカーナ》間奏曲は、カトリックの
祈祷文《Ave Maria》を歌詞にして、ソプラノ独唱されることもある。
 フルートの第二奏者は(実は)前年から器楽部顧問となった森田昭典
(物理)教諭。このあと中国人の陳 正雄君が加わり、第四奏者となる。
 最前列で聴いていた人とは高橋勘(数学)校長、さすがに耳ざとい。
 
 S君は佐伯和男、W君は若林通夫(この夏はじめて出会った新入生)。
 若林君の先輩にあたる新開一朗君は、高校オーケストラでは唯一ピカ
ピカの新品ホルンを吹いていた。“S41年卒”は、大学卒業年度であり、
プルミエ・プル(プル)は一等賞、首席卒業と訳すこともある。
 馬場久雄君から送られた《同響七十年誌》のコピーには、セカンド・
マスターだった堀江公麿君の文章《卒業後31年を経て》もみえる。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19950301
 ワカバヤシ・ミチオ 〜 カンヌより同響の皆様へ 〜
 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
↓=Non-display><↑=Non-display
────────────────────────────────
 
(20001226-20090820)
 


1971年11月25日(木)  金くれ三題 〜 非婚・同姓・入籍・別居・離婚・再婚 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711125
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Web Library;お金をちょうだい
 
── 星野 哲郎・詞/中川 博之・曲/小杉 仁三・編曲/美川 憲一・唱
《お金をちょうだい 19711125-20100602 クラウン》
http://www.youtube.com/watch?v=xkOAGURsnKA
 


 星野 哲郎  作詞  19250930 山口 東京 20101115 85 /籍=有近 哲郎/誤=哲朗
♀有近 □□ 哲郎の妻 19‥‥‥ ‥‥ 東京 1994‥‥ ? /一男一女の母
 有近 真澄  歌手  19580921 東京 /シンガーソングライター/星野 哲郎の長男
 
http://www.hoshinotetsuro.com/work/index.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%A1%C0%B1%CC%EE+%C5%AF%CF%BA
 
 柴田 練三郎 作家  19170326 岡山 東京 19780630 61 /籍=斎藤 錬三郎“シバレン”
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19781104 書いた!稼いだ!倒れた!
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BC%C6%C5%C4+%CE%FD%BB%B0%CF%BA
 
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND11013/index.html
 美川 憲一 演歌歌手 19460515 長野 /籍=百瀬 由一/非婚 [A] 172.5cm
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%A1%C8%FE%C0%EE+%B7%FB%B0%EC
 
 当時のテレビ番組で、柴田練三郎が美川憲一にわざわざ「けしからん」
などと叱ってみせた。たぶん歌詞を読まずにカミついたのだろう。
 誰がこういう場面を思いついたのか、NHKでは歌唱禁止になった。
 
♀安達 祐実 タレント 19810914 東京 /籍=長谷川 祐実(安達は実父の姓)。
/20050914 井戸田 潤と結婚/200604‥ 長女出産/20090108 離婚。
── 《家なき子「同情するなら金をくれ」1994-1995‥‥ 日本テレビ》新語・流行語大賞
 
♀安達 有里 祐実の母 19570830 東京 /籍=長谷川/タレント・AV女優
 安達 哲朗 祐実の兄 19800309 東京 /籍=長谷川/旧称=和也/元俳優・タレント
 安達 大  タレント 19921023 東京 /籍=長谷川/祐実の異父弟 [AB]
 
♀長谷川 □ 祐実の娘 200604‥ 東京 /安達 祐実&井戸田 潤の長女
 井戸田 潤 タレント 19721213 愛知 /安達 祐実の元夫 [B]/19981211 コンビ「スピードワゴン」結成
 井戸田 富隆 潤の父 19‥‥‥ 愛知 /元小牧市議会副議長/後援会「他抜会(たぬきかい)」/離婚歴
 
♀東原 亜希 モデル 19821111 神奈川 /〜《お金よりも大切なもの 2005‥‥ アイクCM》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060216 絶望三業 〜 金より大切なものはない 〜
http://aic.jp/index.shtml [A] H165/B84/W58/H84「SRS」格闘ビジュアルクィーン
 
/20080114 井上 康生と入籍 1018 披露宴/籍=井上 亜希
/20090508 第1子となる女児をエジンバラで出産。
/20101126 第2子となる男児を出産。

 
(20101231-20110102)
 


1971年11月14日(日)  アキレスとメロス

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711114
 
 ただいま、新郎佐々木敏男君の同級生というふうにご紹介いただきま
したが、実は私、彼より一年早く生れており、さらに高校卒業に際して
は一年遅かったのであります。したがってわれわれが同級生であったの
は、同志社中学と高校にまたがる五年間というわけです。おわり頃の四
年めあたりで、われわれは全学年を通じて一二をあらそう、つまり最下
位の成績をせり合っておりました。
 その結果、私は落第いたしました。ところが彼は、どういうわけか進
級できたのであります。彼はスケートで日本一をとるくらい不勉強で、
私は音楽ばかり勉強していたのに、不公平ではないか、と先生に文句を
いいました。すると先生いわく「オマエは初めてやろが、ヤツは毎日、
滑っとった」       (於・京都グランドホテル 19711114 )
────────────────────────────────
 当時の担任は獅子堂静雄(生物)教諭。佐々木の進級に文句を言った、
など(もちろん)作り話である。
 宴の当日、会場にラジオ競馬中継を拡声した司会者・酒井博史君は、
佐々木夫人によれば、五十歳代で癌病死したという。彼もまた落第生の
ひとりで、留級をよしとせず平安高校に転校している。ここでは、彼の
学力は進学コースに相当したらしく、家庭教師もあてがわれて、みごと
同志社大学に返り咲いた。全盛期の大映映画重役(伝聞では撮影所々長)
のドラ息子で、あたかも別世界を生きぬいたように見える。
────────────────────────────────


 
 酒井 箴 映画制作/博史の父 19・・ 京都  生没未詳
 
 大映京都/製作作品82本
 
1954.12.29 怪猫逢魔ケ辻
1955.01.03 伊太郎獅子
1955.01.09 駕で行くのは
1955.01.22 地獄谷の花嫁
1955.01.29 次男坊鴉
1955.02.12 七つの顔の銀次
1955.02.26 花ざかり男一代
1955.03.04 舞妓三銃士
1955.03.11 麝香屋敷
1955.03.25 次男坊判官
1955.04.08 天下を狙う美少年
1955.04.19 鬼斬り若様
1955.05.15 つばくろ笠
1955.06.08 月を斬る影法師
1955.06.26 踊り子行状記
1955.07.12 銭形平次捕物控 どくろ駕籠
1955.08.09 花の二十八人衆
1955.08.31 かんかん虫は唄う
1955.09.06 お父さんはお人好し
1955.09.06 綱渡り見世物侍
1955.09.13 長崎の夜
1955.10.19 悪太郎売出す
1955.11.01 いろは囃子
1955.11.29 俺は藤吉郎
1955.12.07 怪盗と判官
1955.12.14 帰って来た幽霊
1955.12.21 虚無僧変化
1956.01.03 花の渡り鳥
1956.01.09 又四郎喧嘩旅
1956.01.22 虚無僧変化 鍔鳴り街道
1956.02.05 まらそん侍
1956.02.11 お父さんはお人好し かくし子騒動
1956.02.11 銭形平次捕物控 死美人風呂
1956.02.19 お父さんはお人好し 産児無制限
1956.02.26 柳生連也斎 秘伝月影抄
1956.03.04 お化け駕籠
1957.06.18 怪猫夜泣き沼
1957.06.18 赤胴鈴之助 月夜の怪人
1957.07.09 三日月秘文
1957.07.13 南蛮寺の佝楼男
1957.08.06 万五郎天狗
1957.08.13 赤胴鈴之助 鬼面党退治
1957.08.25 赤胴鈴之助 飛鳥流真空斬り
1957.09.03 森の石松
1957.09.21 赤胴鈴之助 新月搭の妖鬼
1957.10.29 忍術若衆 天馬小太郎
1957.11.10 鬼火駕籠
1957.11.17 不知火頭巾
1957.12.08 清水港喧嘩旅
1957.12.15 桃太郎侍
1957.12.28 赤胴鈴之助 一本足の魔人
1958.01.09 月姫系図
1958.01.22 おけさ鴉
1958.01.29 千両槍
1958.02.05 花太郎呪文
1958.03.11 赤胴鈴之助 三つ目の鳥人
1958.03.18 陽気な仲間
1958.03.25 ふり袖纏
1958.04.16 流れ星十字打ち
1958.04.16 旅は気まぐれ風まかせ
1958.05.19 風来坊一番勝負 (大映東京)
1958.06.10 七番目の密使
1958.06.15 怪猫呪いの壁
1958.06.15 白蛇小町
1958.06.29 口笛を吹く渡り鳥
1958.07.13 女狐風呂
1958.07.27 銭形平次捕物控 鬼火燈籠
1958.08.03 江戸は青空
1958.08.03 人肌孔雀
1958.08.19 消えた小判屋敷
1958.08.26 東海道の野郎ども
1958.08.31 花の遊侠伝
1958.08.31 月の影法師 消えゆく能面
1958.09.07 執念の蛇
1958.10.27 血文字船
1958.11.08 濡れ髪剣法
1958.11.15 伊賀の水月
1958.11.15 赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人
1958.11.29 弁天小僧
1958.12.21 赤胴鈴之助 どくろ団退治
1958.12.21 大映の水戸黄門漫遊記
1959.01.03 人肌牡丹

 
── http://www.jmdb.ne.jp/person/p0164360.htm
 


1971年11月04日(木)  職人芸 〜 掛ける、書ける、欠ける、描ける、懸ける、架ける 〜

 
 Ex libris Web Library;郊(楷書体)
http://kanji.jitenon.jp/kanjic/1401.html
 「郊」の部首・画数・読み方・筆順
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711104
 
【0】
 
 凸版印刷に勤務していた当時、次長に「きみ、宋朝体かけるか?」と
声をかけられた。新聞用のレイアウトで、見出しの《郊外の家》のうち
「郊」が文字盤から欠けているので、それらしく手がきで補うためだ。
 
 そこで「まぁ、書けると思います」と答え、それらしいものを描いた。
 むかし、高校入学時に、みずから「名人芸ですから」と言ったことが
あるので、こんどは「職人芸」に相当するはずだ。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041114 政商 〜 右向くカリスマ 〜
 ↑19711104(木)11:15 ↓《諫争 19550605 山脈 第九号》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550605 名人芸/発禁始末
 
 いちおう用は足せたが、念のため「先輩職人」の上司に確かめてみた。
「ちょっと甘いな」たしかに、毎日々々溝引きの筆を使っていないから、
素人目にデッサンが正しくても、玄人目にはエッジが甘いと見える。
 
 おそらく音楽なら「ピッチが甘い」という傾向の事例であろう。
 しかし、いくら正確な周波数でも、耳になじまなければ不自然である。
 歌謡曲のベース伴奏譜で、しばしば矛盾が感じられるような難問だ。
 
【1】
 
…… 1973年、ナイトクラブ「ベラミ」のピアニストがアルバイトに来
ていたスナック「キンコンカン」を見つけ、いくぶん本格的(?)に歌
いはじめた。http://d.hatena.ne.jp/adlib/20031017 カラオケ記念日
 
 かねてよりの疑問だったが、テレビで西城 秀樹と五木 ひろしだかが
《想い出のサンフランシスコ 19620202 Columbia》をハモろうとして、
ハモれないことがあった。三者三様のキーで収拾つかなくなったのだ。
 
 こういう場合、バックバンドがどちらかのキーに移調すれば、多数決
で解決するのではないか、と訊ねてみた。いつもママに“お住っさん”
と呼ばれているピアニストは、即座に否定した。業界の慣習らしい。
 
 もちろんクラシックのオーケストラでも、そんなことは不可能である。
 むかし、将棋の内藤 国雄九段が、キーを半音下げてくれと言ったと
かの伝説があるが、カラオケなら簡単でも、実演ではありえない。
 
…… 半音下げるには、伴奏オーケストラの全譜面を(移調して)書換
える必要がある。新曲の発表時と同じ写譜代(ざっと百万円)がかかる。
http://twilog.org/awalibrary/search?word=%E7%A7%BB%E8%AA%BF&ao=a
 
【2】
 
…… 石井宋朝体の制作にあたったのが、若き日の橋本和夫氏であった。
橋本和夫氏は1935年大阪生まれで、1955年にモトヤへ入社した。1959年
に写研へ入社し、石井宋朝体の制作にあたったそうだ。60年代から90年
代の約30年間にわたり、本蘭明朝Lとそのファミリー、紅蘭細楷書とそ
のファミリー、曽蘭隷書などの監修にあたるとともに、これらの書体の
和字書体の設計も担当した。1997年写研を退職後は、株式会社イワタの
依頼に応じて、書体設計の監修を行っている。
 石井宋朝体について、橋本氏は次のように述べている。
 
>>
「そのようにして、石井茂吉先生の指導・監修を受けながら、写研に
入って始めた書体が、石井宋朝体です。途中で石井先生が亡くなられ、
悲しい空白もありましたが、この書体の完成までには六、七年かかりま
したね。僕が写研で始めたのが二四歳でしたから、終わったときは三〇
歳になっていました。(中略)石井宋朝体は、宋朝体の概念をふまえな
がら、石井書体の思想が加味されて、それは優雅な宋朝体が生まれまし
た。写植文字のデザインを勉強するために上京し、五、六年で大阪へ帰
る予定でしたが、結局、僕は定年までの三五年余り、写研に勤めること
になりました」(字游工房『文字の巨人』インタビューより)
<<
 
 橋本 和夫 レタリング 1935‥‥ 大阪 /1955 モトヤ入社 1959 写研入社
http://imadakin1.seesaa.net/category/19017900-1.html
 今田 欣一《今宋 20130614 文字の厨房[航海誌]》
 
【3】
 
 この問題は「名人・達人・職人」を考察する前提となるが、実際に、
書いたり描いたり奏したりしない人たちが、好んで論じたがるようだ。
 ゴルフや麻雀について、グリーンやテーブルなしに語るようなものだ。
 
 つぎの番組で、むしろ(与太郎は)縁なき衆生だったかと自覚した。
── 《プロフェッショナル 仕事の流儀 20160613 22:25-23:15 NHK》
http://yo-mu-wa-inko.com/fujitasigenobu-syotaidezaina-2405
 
…… 書式とやいわむ、書体(文体)とやいわむ。
http://twilog.org/awalibrary/search?word=%E6%9B%B8%E4%BD%93&ao=a
── 《SWITCHインタビュー 達人達 NHK》
 
【4】
 
 素人が、玄人のいないのを見計らって、みずからの才能を誇示する例
は少なくない。たいがいは笑って済ませられるが、あまり思いあがると
ウンザリして気の利いたジョークも思いつかなくなる。
 
 いちばんは、音楽が“わかる”という手合いだ。譜面は読めなくても、
良しあしが分るそうだ。とくにヒットしそうな曲は、ピンと来るそうだ。
 最近、プロの音楽家までが偽ベートーヴェンを賞賛して大恥をかいた。
 
 せんだって、文章の巧拙が“わかる”という言語学者も出現した。
(これまで彼女がどんな本を読んできたか、すこしづつ分ってきた)
 |
…… 「あんたの文章は下手や」と、悪女 K子が電話で云ってきた。
「中高の先生には絶賛された」と云っても承服せず「小学校の作文では
市長賞を獲った」で黙りこんだ(父の代作だった、のオチも聞かずに)。
https://twitter.com/awalibrary/status/690559321621471232
 
【5】
 
 いちおう、楽譜が読めるのに、おかしなことを云う人もいる。
「ジャズのレコードを聴いていると、スィングする姿が目に浮かぶんや」
 それはまぁ、瞼の母みたいに、他人には見えないはずだが。
 
 いわゆるタレントが、名だたる展覧会に入選するのは、何といっても
話題性であり、集客力であり、ひいては悪徳画商の食いっぷちになる。
 こういう人たちは、さらに獲物を求めて、書画骨董に立ち向かう。
 
 あまり公表されないだけで、実態は惨憺たるものにちがいない。
 もっとも安全確実で、おすすめは食いものに行き着く。
 なんら才能がなくても、旨いか不味いかは、子供でも分るからだ。
 
 壁にかかった絵画などの“水平”がわかる人たちも、自信たっぷりだ。
 与太郎が最初に勤務した看板屋の社長は、常日頃これを自慢していた。
 きわめつけは、何が描いてあるのか、分らない、と主張する人々だ。
 
【6】
 
……(1959)ゴリの義兄が祇園で開業し、店内に飾る油絵を頼まれた。
 与太郎は、カンバスにペインティング・ナイフで暗黒色を塗りつけ、
H状の三本線を白いまま塗りのこした作品を仕上げた。(略)
 |
 数日後に、ゴリが困った表情で、この作品を返してきた。
「家族会議でな、どうもこの絵は何を描いたんか、分らん云いよるんや。
おふくろは“竹”やないか云うたが、ほかの者は見当がつかんそうや」
 
 与太郎は「やっぱり素人衆には向かなんだか」と笑って引きとった。
── Fontana, Lucio《Concetto spaziale Attesa & Attese 1959 Milano》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19600318 グリル・キタの客
 
【7】
 
 与太郎の「竹」に対して、フォンタナは「川」である。
 いやむしろ、二年前にヴァイオリンの「H」が出現していたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19571009 《山脈・第十四号》
 
 さらにその前年、偶然のごとく、二つの「||」が登場していた。
── 《山脈11 19560600 同志社高校文芸部》(パステル)表紙デザイン
── 《ホザナコーラス発表会11 19560600 同志社栄光館》(パステル
 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20150729 WANTED!
 それに気づかないまま「川」や「シ=海−毎」から「空」につづく。
 さらに、チェンバロを経て、幻のサパー・クラブに至る(全20年間)。
 
…… 未完の三部作《わたしたちのうつくしい川・海・空 1961 》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19641008 Cemballo Recital
 左;Elle Patio 19771206 /右;CHEMBALLO 19641008
 

https://www.mozilla.org/ja/firefox/new/(Ctrl+F)
http://awalibrary.blog.so-net.ne.jp/
 |
http://twitter.com/awalibrary(ツイッター)
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ)
http://booklog.jp/users/awalibrary(ブクログ)
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19711104

 
(20160713)
 
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1971年10月23日(土)  トリルがハモる 〜 時を盗む人々 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711023
 
 京響でロストロポーヴィッチがドヴォルザークを弾いたとき、トリル
部分でクラリネットがハモらないことに失望した。後日この不満を語る
と、でーやん(出谷啓)は「へぇ、そこまで云うか?」と驚いていた。
 
 このときの奏者が村瀬二郎氏(われわれのOBで、佐伯くんの師匠)
だったかどうか、よく思いだせない。彼に会えたら、たしかめたいこと
がたくさんある(回想の演奏会・尚永氏への書簡に重複)。
 
 すこし前のインタビューで、巌本真理さんいわく「弦楽四重奏では、
ヴィブラートもそろえるのよ」ということだったので、たぶんトリルも
ハモるはずだ。問題は、テンポ・ルバート(tempo rubato)にある。
 
 イタリア語で「時間を盗む」という意味だそうだが、「時間かせぎ」
ともちがう。ここぞという部分で、思いいれたっぷりに遅らせて歌う。
 閉まりかけたカーテンを持ちあげて歌いつづけたテノール伝説もある。
 
 演歌の世界では“遅れうたい”といって、オーケストラに嫌われる。
 売れっ子ほど長くて、本人が気どるほど陰口をたたかれる。
 売れなくなると、さっさと伴奏が終わってしまう(?)そうだ。
 
 むかし久米宏が《夜のベストテン》だかで、沢田研二をからかって、
「思いなしかイントロも短めで」と云ったのがおかしかった。二曲目が
ベストテンに入ったので、さきの順位が下がったためである。
 
 練習時に比べて、本番では70%の出来ばえを予想しておく。
 メロディに思い入れると、ついつい遅れがちになりやすい。
 しかし伴奏者には、思い入れがないことを覚悟すべきである。
 
 馬場君への書簡草稿(19950725)にも書きとめた、すこし後の記憶だ
が、江藤俊哉氏のTVレッスンで、天才ならではの面白い発想を知った。
 速いパッセージの練習を、速度・音程に分離独立させるのだそうだ。
 
 早い部分は、音程を犠牲にして、速さだけを練習する。
 同じ部分を、こんどは速度を犠牲にして、音程だけ(ロングトーンで)
練習する。しかるのち両方を合流するという理屈である。
 
 これを交互にくりかえせば、なるほど飽きずに取組めるはずだ。
── 「あがる」というのは、人間のすばらしい習性だ。恐怖をのりこ
えて人前に出ることができる。── Anthony Quinn 20011225 NHK
 
 このようなエピソードを、あれこれ思いだすのは、縞状健忘症か? 
 
Let'20061006 for Mr. Tamura, Tadahiko
 
 ◆
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20021212
 19711023(土)京響第138定期演奏会/渡辺 暁雄・指揮
── 《音楽京阪神 19710926 十字屋楽器店》
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070426
 マエストロ“スラヴァ”〜 ロストロの訃報 〜
 
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
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(20061006-20070613)
 


1971年10月07日(木)  同姓同名の人々 〜 希薄な知人たち 〜

 
 ↓ last updated page
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711007
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↑Index 19020102〜99991231 ↓Edita for text
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from Our Picture;
 
── 「うちの会社で、お世話になっていた教授が急死されてね。今日
のお葬式に馳せ参じた、というわけです」(その日 19711018 草稿)
 
 先斗町に現われた編集長の云う「急死した教授」は誰だったか。
 ふと思いだして調べてみると、該当者とおぼしき人は、同姓同名三人
の一人である。稿了の日付から十一日前だが、その当日が特定できない。
 
 葬儀のあと、ふと空しくなって、気をまぎらわせたくなることもある。
── 【精進落(と)し】 精進明けに、普段の生活に戻る際に肉食・
飲酒などをすること。── [ 大辞林 提供:三省堂 ]
 
── もともと四十九日の忌明けに精進料理から通常の食事に戻すこと。
精進明け、精進上げとも言う。しかし現代においては、火葬場から戻っ
た後に行う初七日法要の際に、僧侶や世話役などの労をねぎらう宴席に
おいて精進落としが行われることも多い。──(Wikipedia)
 


 辻  修  音楽評論 1928‥‥ 奉天 東京 20040927 76 /音楽之友社編集長
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 佐藤 幸治 心理学  19050318 山形 京都 19711007 67 /京都大学教授
── 《昭和物故録 19830720 日外アソシエーツ》P232,697
────────────────────────────────
 佐藤 幸治 憲法学  19370609 新潟   /京都大学名誉教授/近畿大学教授
── 《分野別人名録 20020301 読売年鑑別冊》P214/──(Wikipedia)
────────────────────────────────
 佐藤 幸治 ボクサー 19801211 福島 千葉 /第40代OPBF東洋太平洋ミドル級王者
http://images.google.co.jp/images?q=%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B9%B8%E6%B2%BB&sourceid=navclient-ff&rlz=1B2GGFB_jaJP222JP222&um=1&ie=UTF-8&sa=N&hl=ja&tab=wi
────────────────────────────────
 佐藤 幸治 サンコー 19‥‥‥ ‥‥   /営業開発部課長
http://www.adobe.com/jp/products/features/acrobat/sancoh/

 
 その後、こんどは与太郎が東上し、再度再会(別稿に詳述)している。
 編集長の訃報に接して、出谷啓にメールを送ったが、返事はなかった。
 疎遠になると、よそよそしくなるのは当然ながら、いかにも希薄だ。
 
── 入洛中の評論家・志鳥 栄八郎氏と 月刊誌《レコード芸術》の辻
編集長との歓談は遅すぎた、と残念でならない。年表なんて、とんでも
ない事業だ、本来は国際的な規模でやるべきものだ。となかばお叱りを
うけた。(19680630)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19680707 あとがきにかえて
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040927 訃報 〜 音友・レコ芸とその時代 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050923 点鬼簿 〜 与太郎の過去帳 〜
 
 同姓同名の例は、さて探そうとすると一筋縄ではいかない。
 そこで「はてなキーワード」に登録してみたが「削除予定」だという。
 よく分らないが、あらためて出典を追記しておく。
 
 Key Word in Awa Library:
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C6%B1%EF%BF%BD%C6%B1%CC%BE
 
>>
 
── このキーワードは削除予定キーワードです。7日間処理が行われ
ない場合は、自動的に削除されます。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%ba%b4%c6%a3%20%b9%ac%bc%a3?kid=276991
 
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 本稿の初稿は、いくつかの偶然により、編集長の六回忌にあたった。
 
(20090927)
 


1971年10月01日(金)  ネクタイの日 〜 18841001-19711001 〜


┌─────────┐

│ adlib/19711001

│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=18841001
│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
│ https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/?q=00000000

│ https://note.com/adlib20210301/all
│ https://booklog.jp/users/awalibrary/
│ https://q.hatena.ne.jp/adlib/

│ https://twilog.org/awalibrary
│ https://twitter.com/awalibrary
│ https://www.facebook.com/masatoshi.awa

└─────────┘

 
 ネクタイの日 〜 18841001-19711001 〜 日本ネクタイ組合連合会が制定
…… 小山 梅吉がに初めてネクタイを生産したことを記念して、1971
年に、ネクタイ業界の業界団体であるが、1001
を「ネクタイの日」と定めた[8]。
 
 [nectie] 0520 [tie] 襟締 erijime

 ネクタイの結び方

https://www.temu.com/ul/kuiper/un2.html?_p_rfs=1&subj=un-search-web&_p_jump_id=960&_x_vst_scene=adg&search_key=%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%20%E3%81%AE%20%E7%B5%90%E3%81%B3%E6%96%B9&_x_ads_channel=bing&_x_ads_sub_channel=search&_x_ads_account=176518514&_x_ads_set=520835966&_x_ads_id=1319416327673622&_x_ads_creative_id=82463748698277&_x_ns_source=a&_x_ns_msclkid=3ad401b745df1ba1a18a67ce269ec35b&_x_ns_match_type=e&_x_ns_bid_match_type=bb&_x_ns_query=%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%20%E3%81%AE%20%E7%B5%90%E3%81%B3%E6%96%B9&_x_ns_keyword=%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%A4%20%E3%81%AE%20%E7%B5%90%E3%81%B3%E6%96%B9&_x_ns_device=c&_x_ns_targetid=kwd-82464591892722%3Aloc-96&_x_ns_extensionid=&msclkid=3ad401b745df1ba1a18a67ce269ec35b&adg_ctx=f-1b5b22dd
 
〔book〕 0622
 
── バルザック/鹿島 茂・訳《役人の生理学 20131111 講談社学術文庫》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B00HCB835E

《役人の生理学(=正/誤=)お洒落の生理学》(Wikipedia)

…… 多くのネクタイ論の本が出版された。当時の人々はネクタイをす
ることは紳士の最低限の務めと考え、ネクタイを見ればその人の社会的
地位、育ち、政治的意見までひと目で分かると考えていた[3]。
 ダンディズム論の論客ロジェ・ケンプによれば、1830年代にはすでに
72種類のタイの結び方が考案されていたという。ユニークで複雑過ぎる
ネクタイは、それを結ぶことのできる時間的な余裕や忍耐力を表す、上
流階級同士の相互確認の暗号として機能していた[Wikipedia]。

 Balzac, Honore' de    17990520 France     18500818 51 /
 Maugham, William Somerset 18740125 France England 19651216 81 /
 
 モームは、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」
と述べている。バルザックは90篇の長短編からなる小説群《人間喜劇》
を執筆した。── 《世界の十大小説》(Wikipedia)
 
 YMDay(20240426)(20240625)unfinished.


1971年09月20日(月)  霧の器 〜 Who done it, How done it, Why done it ?


┌─────────┐

│ adlib/19710920

│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710920
│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
│ https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/?q=00000000

│ https://note.com/adlib20210301/all
│ https://booklog.jp/users/awalibrary/
│ https://q.hatena.ne.jp/adlib/

│ https://twilog.org/awalibrary
│ https://twitter.com/awalibrary
│ https://www.facebook.com/masatoshi.awa

└─────────┘

 
 霧の器 〜 Who done it, How done it, Why done it ? 〜
 
── 松本 清張・原作+橋本 忍・脚本+野村 芳太郎・監督
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5%E5%8E%9F%E4%BD%9C%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7
 
 修訂 19710920(=正/誤=)19710月20
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4165090506
── 松本 清張《砂の器 19710920 文藝春秋》松本清張全集 (5)
 
── 野村 芳太郎・監督《砂の器 19741019 松竹=橋本プロ》
 
 松本 清張  作家 19091221 福岡 東京 19920804 82 /
 橋本 忍   脚本 19180418 兵庫 東京 20180719 100 /
 野村 芳太郎 監督 19190423 京都 東京 20050408 85 /
 
 霧プロダクション 197811‥ 設立 1983 確執 1984 解散。
── 《迷走地図 19820208-19830505 朝日新聞 198308‥ 新潮社》
https://www.weblio.jp/content/%E3%80%8C%E9%9C%A7%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%80%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%80%8D%E8%A8%AD%E7%AB%8B
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20131009
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%D4%BA%BD%A4%CE%B4%EF
https://www.youtube.com/watch?v=yUZ_TC9hrX0(20231217)
 
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
↓=Non-display><↑=Non-display
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 YMDay20231217)last up dated.


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