与太郎文庫
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1971年04月01日(木)  弓弦十話 (その1)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710401
 
 〜 組曲《動物の謝肉祭》によせて 〜   阿波 雅敏
 
 ■ 序奏と獅子王の行進曲
 
 サン=サーンス (1835〜1921) の発表した評論集《和声と旋律》が、
時のワーグナー派に、さんざんけなされて、苦りきっていた頃の作品が
《組曲・動物の謝肉祭》である。 
 ちょうど、その 101年前にはモーツアルトが、ディヴェルティメント
《音楽の冗談》を書いており、主として作曲技術上のルール違反やあや
まりを、わざと誇張して、世の愛好家や、知ったかぶりの素人どもを、
暗に皮肉っているのに対して、サン=サーンスのこの曲は、もう一歩踏
みこんだところに、その意図が感じられる。
 この種の、いわば聴衆の博識に依存、あるいは迎合する試みは、たと
えば山本直純氏の《交響曲・宿命》などのように、衆知の名曲を安易に
メドレーした例もあるが、率直にいって、二度と聴くに耐えるものでは
ない。
 それでは《組曲・動物の謝肉祭》が、再度聴くに価するか、というこ
とになるが、全14曲のうち、第13曲目の《白鳥》だけが、何のてらいも
ない、真面目な気品と格調を備えており、作曲者が生前に出版を許した、
唯一の作品であったことを、まず確認したい。
 この組曲、もし《白鳥》の用意がなかったら、たとえ小さな地方都市
でのコンサートにせよ、51才の大作曲家の、書きおろし新作として発表
するに至ったかどうか。
 おそらく《天国と地獄》のテーマによる、あの軽薄なフィナーレの前
に、満々たる自信のもとに、絶妙の佳品を配したのは、すでに後世に残
す効果を、図ってのことかもしれない。
 ヨーロッパの俗説に、白鳥は、死の直前にひとたび鳴く、と伝えられ、
たとえばモーツアルトの《クラリネット協奏曲》や、シューベルトの
《白鳥の歌》があることを、51才のサン=サーンスが意識しないはずは
なかった。
 おりしも謝肉祭、作曲家あるいは演奏家として、あぶらの乗りきった
年代にありながら一時的にもせよ、楽壇から閉めだされた彼がその傷心、
自尊と自重のうちに、結局は才気の向かうところ、諧謔でしかなかった
のであろう。加うるに、卓抜した社交的神経、友人であり音楽会の主催
者でもあったチェリストへの、《白鳥》は無類のプレゼントでもあった。
 わたくしごとで恐縮ながら、《白鳥》をこの手で弾きたいばかりに、
17才の時チェロを買いもとめ、以来3年間というもの、無法を百も承知
で《白鳥》ばかり弾いたものである。
 私が音楽について、何かを述べようとするには、どうしても《白鳥》
から始めなければならないし、チェロないしは弦楽器でなければならな
い。
《動物の謝肉祭》における各曲の題名を借りての十話、以下に閑話九題。
 
 ■ 雄鶏と雌鶏
 
 かりに、白鳥ファンという人たちが、他にもいるとすれば、往年のア
メリカ映画《カーネギー・ホール物語》に登場したチェリスト、ピアテ
ィゴルスキーの雄姿を、とるものもとりあえず記憶されているはずであ
る。
 その演奏もさることながら、舞台後方に、ずらり居ならぶ美女数人、
いずれも薄衣をまとってのハーピストたち、まさに百聞一見、この曲の
優雅な雰囲気を、いやが上にも高めていた。
 原曲は、独奏チェロと二台のピアノ、これだけでも豪華なのに、輪を
かけたぜいたく。ちなみに、この羨望さるべきチェリストは、希代のヴ
ィルティオーゾであるとともに、全米三美男のひとりとして、時のアイ
ゼンハワー大統領および俳優のアンソニー・クインと並び称された男で
ある。
 もっとも、ピアニストのカーメン・キャバレロを筆頭とする、もう一
組の三美男もいたわけで、いずれがいずれであったのか。
 
 ■ ロバ / カメ
 
 ……すぐれた作曲と指揮の才能を怪し気な 理論でそこなっている彼。
 ……うんざりさせる彼。
 
 米誌《タイム》によれば、その彼こそは、かの伊達男レナード・バー
ンスティンだそうである。うんざりさせる連中として列挙されているの
は、たとえば《プレイ・ボーイ》編集長、レノンとヨーコ、バートンと
テーラー、等々で、バイロンによれば、世にうんざりする種族と、させ
られる種族とがあるそうな。
 それはともかく、バーンスティンは、この《白鳥》を、こともあろう
に、コントラバスで弾かせることを思いついた。
 たぶん彼は、全14曲をことごとく戯画化し、その統一を図ろうとした
のであろう。その種のサーヴィス精神でもあるし、その意図は成功した
とみえて、レコードは売れているらしい。
 だがサン=サーンスが聴いたら、何というだろうか。
 ある作曲家が、ある楽器に関して、固有の反応あるいは指向性を脱す
ることができないと断定すれば、たとえば《チェロ協奏曲イ短調》《チ
ェロ奏鳴曲》、小品の《アレグロ・アパッショナータ》等を通じていえ
ることは、あくまで中音域を主とする、運弓の美しさ、耳ざわりのよさ、
旋律の明快さ、などにその特徴がある。いわゆる困難な部分は、見あた
らない。単に奏法上のランクからいえば初級どまりである。したがって
《白鳥》を3年間練習してみても、技術的には何の上達も得られない─
─再び、わたくしごとでいえば、だから私は、たった3年間で、チェロ
をあきらめてしまった。
 その《白鳥》を、コントラバスで弾くとどうなるか。教科書風の解釈
でいうと、この曲の描かんとする情景は、浄々とした湖面にうかぶ白鳥
一羽、ふとみるうちに、たおやかに飛びたちゆく瞬時の絵姿であろう。
 そもそもコントラバスの音色はくすんでいて、もし軽妙たらんとすれ
ば、おどけて聴えるし、イキがってみれば、ヤボに近づく。甘い旋律を
甘々しく奏でるには、どうにも不向きなのである。
 これをバーンスティンは、逆手にとったのであろう。しかも、彼ほど
の知性派である。議論好き、といってもいいだろう。これほど人気の定
着している佳品を、あえて曲げたからには、それなりの、こみいった理
由があるやも知れぬ。かといって本人に確かめる手だてもなく、他愛も
ない推測にすぎないのだが、《白鳥》の前の、第12曲《化石》への仲間
入り、ではなかったか。
 彼自身の語りによると“これはちょっと違うコントラバスです。歌う
コントラバスなんです。これはゲーリー・カー君の演奏です。カー君は、
20才にしてすでにこのめんどうな楽器の大家です”とことわっている。
 
 ■ 象 / カンガルー
 
 ……音の高さの差を音程といい、二つの音の振動数の比を表わす。振
動数の比が1のとき1度音程、2のときを8度音程またはオクターブと
いう。オクターブの音は基音と同じ感覚を与える。……某百科辞典から

 同じ感覚とは、おそらく他に表現しようがないのであろう。まったく
同じではないし、同じような感覚でもないのである。電気的な純粋音と
か、ピアノのような減衰音の場合でも判別できるのだから、ヴィヴラー
トにつつまれた弦楽器では、さらに顕著である。
 十数年も前の記憶であるが、ラジオの《こども音楽会》とかで、小学
の演奏による、《白鳥》を聴いたことがある。
 それは、まさしくノン・ヴィヴラートで、しかも1オクターブ下げて
いた。たぶん4分の3か、4分の2の小型チェロで、演奏者は習いはじ
めて1年か2年の、豆チェリストと思われた。
 この段階では、ファースト・ポジション、つまり左手の親指がいちば
ん低いところで、位置を変えることなく《白鳥》を弾こうとすれば、1
オクターブ下げるのは当然である。
 たしかに当然なのだが、先にあげたコントラバスよりもさらに、鈍重
な響きになることも避けがたい。浄々たる湖面が、泥々たる泥沼になっ
てしまう。
 かたいこと、をいえば、女声の低音域と、男声の高音域は、同じ音程
であっても、似て非なるはずである。そのあたりを巧みにごまかす面白
さが、物真似の淡谷のり子であったり、美空ひばりであったりする。余
談になるが、たとえばバーブ佐竹の唄う《女心の歌》とか、菅原洋一の
《知りたくないの》などの歌詞は、あきらかに女声語で書かれていて、
野太い男声で、女々しく歌いあげるところがミソであるらしい。
 先の例と逆で、1オクターブ上げた例は、かなりあった。
 交響曲から《枯葉》まで、アメリカ随一の器用な指揮者、コステラネ
ッツの演奏した組曲は、当時最盛期のマントヴァーニ・スタイルによる、
ヴァイオリン群の華麗なさざめきに代えていた。全曲、英語詩の朗読を
付してそれなりに雰囲気をもりあげていた。
 原曲以外の音域で演奏してはいけない、という法はないのである。
 
 ■ 水族館
 
 盲目の作曲家、宮城道雄 (1894〜1956) の回想に、こんなエピソード
があった。筝匠があるとき、楽屋で琴を奏でていると、誰かがじっと聴
きいっている気配がする。やがて、それがチェロのピアティゴルスキー
であると察しられたが、彼は何かを探しはじめて様子である。何を探し
ているのですか、とたずねれば、ここにチェロは置いていないか、とい
う。あなたのような大家に、弾いていただけるような楽器は、どのみち
ございません、と師が恐縮するうちに、彼はどこからか、古いコントラ
バスを代りに見つけだしてきた。
 そして、筝匠をうながすや、悠然と《春の海》を弾きはじめたという。
 《春の海》は、もともと昭和7年に来日した女流ヴァイオリニスト、
ルネ・シュメーによって、ヴァイオリン用に編曲された尺八と筝の二重
奏曲である。
 これをコントラバスで弾くには、かりに3オクターブ下げても、相当
なハイ・ポジションと、困難な運弓が要求される。いわば東西両巨匠に
よる、まことに珍らしい、かつ崇高な楽興の時が、その場に展開された
こと、と思われる。
 実はこの話、何かで読んだ記憶だけが頼りで、出典を明らかにできな
いのが残念だが、宮城師には《雨の念仏》その他の随筆集もあるとかで、
あるいはこれに収められているかもしれない。
 因みに、ピアティゴルスキーの来日は、昭和11年と31年の二度にわた
っており、おそらく、最初の来日の際のエピソードではないかと想像さ
れる。ともに若き日の巨匠、として躍如たる面目がうかがえる。
 そして、31年といえば、筝匠の没年、かの悲劇的な事故、列車からの
転落の年に当っている。
 
 ■ 耳の長い登場人物
 
 めったに見かけなくなったが、演奏会場で楽譜をひろげる人たちがい
る。
 バリトンの、ゲルハルト・ヒュッシュが来日した際には、すでにかな
りの老眼であったにもかかわらず、歌詞のノートを手にしていながら、
やっぱり歌の文句をまちがえたそうである。楽譜と首っぴきで聴いてい
た、ある音楽学校の学生が、あとで先生に、ミス・プリントがあります、
と訴えたそうである。
 オーケストラの場合には、この連中は当然フル・スコアを追うのだろ
うけれども、コンチェルトの場合には、どうしても欠落した部分に出く
わすこともある。
 カデンツァの部分がそれである。少数の例を除いて、本来は独奏者が、
即興風に奏するために、フェルマータが記されているだけである。
 だが今日では、その独奏者が、ほんとうに自身の感興にのって、即興
演奏をさしはさむ、ということはなくなってしまった。
 ベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》を例にとれば、ヨアヒムと
か、クライスラー、稀にはアウアーなど、往年の大ヴァイオリニストの
作曲(!)したものを、忠実に再現するのが常である。つまりクライス
ラー (1875〜1962) あたりまでのヴィルティオーゾ健在期を最後に、演
奏家の即興的かかわりは失われてしまった、のではないか。
 もうすこし昔、すなわちベートーヴェンの時代では、コンサートのプ
ログラムに、即興演奏そのものが、ひとつの曲目として売りものになっ
ていたし、たとえば《ピアノ協奏曲第3番》の初演のときなど、作曲家
みずからの独奏用楽譜は、ほとんど真白に近い、メモ程度のものであっ
た、と伝えられている。
 さらにその昔、フルートの名手を自任する、かのフリードリッヒ大王
が、延々と続くカデンツァを、得々と奏している図も思い出される。楽
員たちが、はたしていつ終るのだろうか、という表情で待ちかまえてい
るわけである。
 音楽の、とくに演奏の歴史で、数々の進歩を立証するならば、こうし
た即興性の退歩もあわせて究明しなければなるまい。
 たしかに、西洋音楽の古典的遺産としての意味は、音そのものの体系
化に成功した点であるといえなくもない。それに関しては、もうそろそ
ろ切りあげる時期じゃないか、という主張だけでも、百年来のものであ
る。現にいまどき、ベートーヴェンのカデンツァを、自分でこしらえて
みよう、などという演奏家がいるとしたら、たいへんな変りものにちが
いない。
 だからクラシックは過去のものだ、という人たちのいるのも当然なの
だ。
 では、近年とみに流行しているインドの、いつ果てるともわからない
音楽、これなどもやがては整備され、進歩して、同じコースをたどるこ
とになるだろうか。
 記録の練達が、体系化に向わせる、という論法でいけば、これまで口
づたえ耳づたえであった音楽が、録音技術の出現で、いったいどれだけ
変化していくか、想像もつかない。
 変化とは、変貌とは、はたしてそれ自身の究まる方向にだけ進んでい
くものだろうか。
 いまどきの流行歌手は、主としてテレビなどで人気を決定しているけ
れども、実際にテレビ局で歌うのと、アテレコの場合が、ほぼ同じわり
あいになっているらしい。
 冗談だろうけれども、月亭可朝という落語家のレコードがヒットして、
評判になったものの、ときどき自分のレコードを聴いて練習しないと、
人前でいつも同じように歌えないなどと伝えきく。
────────────────────────────────
 ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》のカデンツァを作曲した例で、
キドン・クレンメルの自作自演がNHK交響楽団で放映(VTR'20010826)
された。ティンパニはじめ、オーケストラの伴奏もあって、ユニークな
試みだが、どうしても物珍しさが先だってしまう。ある前衛的な作品で
(独奏者に動作を任せるとの指示があり)諏訪内晶子が楽団員のヒザに
腰かけたため、エロティックな趣向として、それなりに話題になった。
 


1971年03月06日(土)  ミケランジェロ 〜 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 〜


┌─────────┐

│ adlib/14750306

│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710306
│ http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
│ https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/?q=00000000

│ https://note.com/adlib20210301/all
│ https://booklog.jp/users/awalibrary/
│ https://q.hatena.ne.jp/adlib/

│ https://twilog.org/awalibrary
│ https://twitter.com/awalibrary
│ https://www.facebook.com/masatoshi.awa

└─────────┘

 
 ミケランジェロ 〜 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 〜
 
https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/blog-entry-1997.html
 ミケランジェロ《ダビデ像頭部》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19040908
 
〔Quora〕 19710306 as 14750306
 
…… ミケランジェロや美術、芸術に詳しい方に質問です。昔
ミケランジェロの彫刻は、神からの光を受けてそれをミケランジェロの
手を通して彫像が形作られると何かに書いて有ったのですが詳しく解る
方お教え願います。?
 
https://jp.quora.com/unanswered/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%82%84%E7%BE%8E%E8%A1%93-%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AB%E8%A9%B3%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%B9%E3%81%AB%E8%B3%AA%E5%95%8F%E3%81%A7%E3%81%99-%E6%98%94?__filter__=all&__nsrc__=notif_page&__sncid__=45892713219&__snid3__=61319537313
.
. わたしの書誌目録(7825冊)に、つぎの七冊がありますが、宗教的な
衝動に支配された言動は窺われません。もちろん Wikipedia にも……。
.
…… いざとなったら皿を洗ったり掃除したりして恥ずかしがらない女
を見つけるのだ。(P109)リオナルド(甥)への書簡(1547-1552)。
.
── ロラン/高田 博厚・訳《ミケランジェロの生涯 19630216-19891215 岩波文庫》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JAJ1AQ
.
── 三木原 浩史《ロマン・ロラン著 三つの「英雄の生涯」を読む 20180407 鳥影社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4862656528
.
. Michelangelo     14750306 Italy 15640218 88 /di Lodovico Buonarroti Simoni
. Rolland, Romain   18660129 France 19441230 78 /評伝
.
── ヴァザーリ/林 卓行・西川 知佐・訳
《ミケランジェロ・ブオナローティの生涯 20200706 Artist by Artist》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4487813263
.
── ヴァザーリ《芸術家列伝3 〜 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ 20110723 白水社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4560721246
.
. Vasari, Giorgio   15110730 Italy 15740627 62 /163人の評伝
. Condivi, Ascanio, b. 1520 ca. Italy 1520 ca. ? /伝記作家
.
── コンディヴィ/高田 博厚・訳《ミケランジェロ伝 19780201 岩崎美術社》美術名著選書(21)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4753410218
.
── 古山 浩一・古玉 かりほ《ミケランジェロとヴァザーリ
(イラストで読む「芸術家列伝」20141122 芸術新聞社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4875864175
.
. Furuyama, Kouichi  1955‥‥ Tokyo /画家、絵本作家、随筆
♀Kodama, Kariho    1977‥‥ Sado /
. Susowake, Kazuhiro  19241121 Okayama 20160217 91 /西洋美術史
.
── 裾分 一弘《ミケランジェロの素描 〜 双書版画と素描 4 19730210 岩崎美術社》P006-007
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000J93CPW
.
https://booklog.jp/users/awalibrary?keyword=%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD&display=front
 ミケランジェロ
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%DF%A5%B1%A5%E9%A5%F3%A5%B8%A5%A7%A5%ED
.
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710306
. ミケランジェロ 〜 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 〜
 
(20231113)


1971年02月28日(日)  細菌学史 〜 十三人の狩人たち 〜  

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710228
 


01 レーウェンフック 〜 微生物を追う狩人の最初の人 〜 ……………  5
 Leeuwenhoek, Antoni van 16321024 Olanda 17230826 91 /“微生物学の父”
 
02 スパランツァーニ 〜 微生物には親がなければならぬ! 〜 ……… 40
 Spallanzani, Lazzaro  17290110 Italy 17990212 70 /
 
03 パストゥール 〜 微生物は危険なものだ! 〜 ……………………… 90
 Pasteur, Louis     18221227 France 18950928 72 /《自然発生説の検討,1861》
 
04 ローベルト・コッホ 〜 死との闘士 〜 ……………………………… 166
 Koch, Heinrich Hermann Robert 18431211 Duitch19100527 57 /“近代細菌学の開祖”
 
05 パスツール 〜 彼と狂犬 〜 …………………………………………… 227
「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」“近代細菌学の開祖”
 
06 ルー&ベーリング 〜 モルモットを殺戮する 〜 ……………………  5
 Roux, Pierre-Paul-Emile 18531217 France 19331103 79 /
 Behring, Emil Adolf von 18540315 Duich 19170331 53 /実業
 
07 メチニコフ 〜 すばらしい食細胞 〜 ………………………………… 42
 Mechnikov, Ilya Ilyich 18450516 Russia Paris 19160716 71 /
(Илья Ильич Мечников)「5月15日=明治乳業ヨーグルトの日」
 
08 セオボールド・スミス 〜 ダニとテキサス熱 〜 …………………… 85
 Smith, Theobald      18590731 America 19341210 75 /(セオバルド)
 
09 ディヴィッド・ブルース 〜 ツェツェバエの追跡 〜 ……………… 112
 Bruce, David  18550529 Melbourne England 19311127 76 /睡眠病(Darvid)
http://micro.fhw.oka-pu.ac.jp/microbiology/history/rekisi.html#Bruce
 
10 ロス対グラッシ 〜 マラリア 〜 ……………………………………… 153
 Ross, Ronald       18570513 England 19320916 75 /
 Grassi, Giovanni Battista 1854‥‥ Italy  19250504 71 /(バッチスタ or バチスタ)
 
11 ウォルター・リード 〜 科学のために、そして人類愛のために 〜 204
 Reed, Walter M.D.,    18510913 America 19021123 51 /Major of U.S. Army physician
 
12 パウル・エールリヒ 〜 魔法の弾丸 〜 ……………………………… 242
 Ehrlich, Paul       18540314 Duich  19150820 59 /
 
13 解説………………………………………………………………………… 283
 秋元 寿恵夫(壽恵夫)血清医学 19080313 長野 1994‥‥ 86 /波留夫の弟/誤=74
 秋元 波留夫   精神神経科医 19060129 長野 20070425 101 /寿恵夫の兄/元東大病院長
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000305.html 731部隊と医学者たち
 
 Kruif, Paul de 18900302 Zeeland, Holland Michigan 19710228 80 /《Microbe hunters 1926》
── ポール・ド・クライフ/秋元 寿恵夫・訳《微生物の狩人(下)19801216-19890415 岩波文庫》

 
 ◆ 
 
http://q.hatena.ne.jp/1179414842#a718591
 脈絡 〜 連続しない論理は反復しない 〜
 
http://q.hatena.ne.jp/1179414842#a718725
 省略 〜 承認された論理は立証しない 〜
 
 親が死に、子が死に、孫が死ぬ。
http://q.hatena.ne.jp/1131199260
── Kruif, Paul de《微生物の狩人(上)19801117 岩波文庫》P40
 
── 彼は、令嬢が自分をどう思っているかは知らなかったが、ともか
く腰をおろし、かならず自分を愛するように仕向けねばおかぬという意
気ごみで一通の手紙を書いた。
 「わたしには若い娘の気まぐれをそそるようなところは何一つありま
せん。しかし、今までの記憶をたどってみますと、わたしと懇意になっ
た人々は皆わたしを非常にすいてくれました。」
 こうして、彼女は彼と結婚した。そして史上でもっとも有名な、長く
苦難の道を歩いた妻、それでいながら多くの点でもっとも幸福だった妻
の一人となった──
── ド・クライフ/秋元 寿恵夫・訳《微生物の狩人(上)19801117 岩波文庫》P97-98
 
 Pasteur, Louis 18221227 France 18950928 72 /《自然発生説の検討,1861》
 
 妻に口述させるパストゥール(画像)
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/tep024.html
―― 池田 光穂《パスツールの妻の肖像》
 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3040539.html
 
 ◆ 平時の平和論者
 
── 訳者の秋元寿恵夫さんは、ローザについてこう書いています。
「戦争がないとき、漠然と戦争に反対するのは誰にでもできる。また、
ある種の戦争を予想し、それについての反対として明確な見解をもつ事
は、必ずしも至難ではない。だが、すでに戦争が始まってしまってから
でもなお、自らの見解に誤りがないと信じ続けるものの数はだいぶ減っ
てくる。しかし、少しは、ある。
 けれども、この意見を公然と表明し、できることならその戦争をやめ
させようと働きかけるものに至っては、もはや希有の存在に属するので
ある。ローザルクセンブルクというひとこそは、正しくそのひとりなの
であった。」と。── ローザルクセンブルクの時代(20070727)
http://plaza.rakuten.co.jp/articlenine/5010
 
(20080811-1219)
 
…… このように、今回新装をこらして復刊されたこの《微生物の狩人》
については、時代の制約そのほか、あらかじめ知っておいていただきた
い数々の事柄があるのだが、それと同じく原著がはじめてわが国に紹介
されてから今日に至るまでには、半世紀以上にわたった幾変遷があるの
で、この解説を終えるに当って少しくそのことにもふれておかねばなる
まい。
 まずその最初は、昭和のはじめ頃、したがって原著がアメリカで大評判
になって間もなくの時期に当るのだが、《時事新報》という日刊紙に
《細菌の猟人》と題されて連載され、当時の読書界に大きな反響をもたらした
和田 日出吉氏の翻訳であって、これをわたくしが改訳して第一書房から
《微生物を追う人々》という題名で出版したのが昭和十七(一九四三)
年四月であった。この第一書房版は、幸いにして好評を博し版を重ねる
ことができたが、戦争も末期に近づいた頃出版元が廃業すると一緒に
絶版になってしまった。
 しかし戦後になって、出版界が次第に落ち着きをとり戻してきた機運
に乗って、昭和二十八(一九五三)年には創元文庫版、昭和三十五
(一九六〇)年にはその一部が筑摩書房版《世界ノンフィクション全集》
にとり入れられ、昭和三十八(一九六三)年になって、こんどは全章が
平凡社版《世界教養全集》に収められて出版された。
 そして、今回改めて新版を出すに際して、底本としたのは昭和四十九
(一九七四)年十月発行になる平凡社版《世界教養全集》第三十二巻の
第二版であったが、今回の新版は、それのたんなる引き写しではなくて、
文字通り改訂版といってよい。というのも、こんどは古くは第一書房版
にまで遡り、各章にわたって訳文の再検討が綿密に行なわれたからである。
 しかも、それらはすべて、昭和十七年以来すでにわたくしの手元から
は離れていた原本と、いちいち照合しての上のことであって、こういう
作業が今回可能になったのは、好運にも岩波書店編集部の鈴木 稔さん
がこの原本を持参してこられたからであった。そして鈴木さんは、用意
周到にも、平凡社版の全文を読んでから Microbe Hunters の原本に直接
当って、不審の個所を克明に探し出し、それらをすべて校正刷の中で
チェックしておき、それをもとにひとつひとつ原文と照合しながら、
二人で意見を出し合ったのであった。
 岩波文庫版《微生物の狩人》はともかくもこういういきさつで陽の目
をみるに至った。わたくしとしては、この書物が少しでも多くの読者に、
また永く読みつがれることを願っている。   一九八〇年九月
 
 ※要約 『』→《》
 
…… 和田 日出吉・訳《細菌の猟人 194105‥ 時事新報》日刊紙連載
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA30527170
── 秋元 寿恵夫・改訳《微生物を追う人々 194304‥ 第一書房》絶版
 
http://booklog.jp/item/1/B000JBA528(上)
── 秋元 寿恵夫・改訳《微生物を追う人々 1953‥‥ 創元文庫》一部再版
http://booklog.jp/item/1/B000JB86PG(下)
 
── 《世界ノンフィクション全集〈第2〉微生物の狩人 1960‥‥ 筑摩書房》
http://booklog.jp/item/1/B000JBC2ME
 
── 《世界教養全集 微生物を追う人々(32)技術のあけぼの 1963‥‥ 平凡社》全章
http://booklog.jp/item/1/B000JBC6XO
── 《世界教養全集(第32巻)197410‥ 平凡社》第二版(底本)
 
── クライフ/秋元 寿恵夫・訳《微生物の狩人(下)19801216-19890415 岩波文庫》P290-291
 
 秋元 寿恵夫(壽恵夫)血清医学 19080313 長野 19940204 85 /波留夫の弟, Sueo/筆名=室田 有/誤=74
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710228
 細菌学史 〜 十三人の狩人たち 〜
 
(20180104)
 
 


1971年02月17日(水)  いそがしい指 〜 小林道夫リサイタルのあとで 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710217
 
 いそがしい、という口実が、なぜ説得力に欠けるのか。
 おおくの現代人が、ほとんど多忙を強いられており、不急の<音楽>
に耳をかたむける時間は、そのかぎりにおいて、まったく惜しい。しか
るに、多忙な一流の演奏家は、当然ながら、それ自体をやってのけなけ
ればならない。
 前後のことは、わからぬまでも、ある期間の、ひとりの演奏家のいそ
がしさを、紹介してみよう。
 十字屋楽器店の出している小冊子<アルペジオ>は、かつて創刊から
一ヵ年、私が制作を担当したものである。五月第二号から翌年の三月ま
で、毎月の音楽番組を予告していたのを、御記憶の方があるかもしれな
い。予告といっても、当時できあがるのが慢性的におくれていたので、
まったく実用価値はなかったが、私自身のおもわくや反省はここでは、
さしおく。
 
 放送のための演奏、を中心にした、この企画で、たちまち私はひとり
の演奏家に注目せざるを得なかった。
 五月に五回、六月に九回というぐあいで、十一ヵ月間に二十八回以上
の出演者が、小林道夫氏であった。ピアノ、チェンバロ、オルガンの三
種にわたり、独奏、伴奏、指揮、さらに解説者として活躍され、さなか
の秋は鳥井音楽賞受賞におよんで、一般公演における成果もじゅうぶん
立証されたわけである。
 ことを放送にかぎれば、平均して月三回の録音、あるいは録画という
ものが、いかに周到かつ繁雑な手順でおこなわれていたか、想像以上の
ものであったろう。
 鳥井音楽賞受賞のしばらくのち、小林氏から、はがきをいただいた。
 十字屋楽器店から、毎号<アルペジオ>を送っていたらしく、このほ
ど転居につき下記宛によろしく、といった内容の、手ずからのペン字で
あった。偶然私のほうも、転居したばかりで、最初の、はじめての方か
らの大切な書簡となった。
 一月二十七日、私が受付のおてつだいなどするうちに開演となり、ア
ンコールだけ聴かせてもらった。
 閉演後、楽屋にいくと、浄守志郎氏が花束をもっておられたので、私
は旅行トランクをさげて出ることにした。田中義雄氏の運転する車を待
つあいだ、先のはがきの件をいうと、「いえ、あいかわらず、旧住所の
ほうへ、参っております」とのことだった。私が十字屋さんによく念を
おさなかったためらしく、すっかり恐縮してしまった。
 四人で、なべをつつきながら、私は、はじめてみる小林氏の手に、ふ
と率直な質問をしてしまった。
「先生の手は、ピアニストとしては、たいへん小さいですね。ハンディ
はありませんか」
「ありますね、やはり。芸大にすすむ時にずいぶん迷ったんです。結局、
とどかない曲が、かなりあるんです」
「すると、こまりますね」
「こまります。だから、いそがしいんです。すぐに離して、つぎの音に
いく」
「モーツァルトの手も小さかった」
「それは、わかりません。でも譜面の範囲は、それほどひろくありませ
んね」
「シューベルトの手は、わかりませんか」
「かれは、おそらく頭で譜面を書いていますね。自分の曲を、悪魔に弾
かせろ、といったくらいですから」
「伴奏譜も、そうですか」
「しばしばね。だから、わたしは悪魔にならなくてはいけない」
「ラフマニノフは、おやりにならない」
「名前だけで、ぞっとします」
 箸をもつ氏の手は、けっしていそがしくはない。四人のなかでいちば
んゆっくりとしていた。       阿波 雅敏(K1)(19710217)
      ── 《関西モーツァルト協会々報・第一号 19710415》
 
 ◆
 
 関西モーツァルト協会は、昭和四十六年十二月五日(モーツァルトの
命日に当る)に設立、翌年一月二十七日(誕生日)に第一回コンサート
を開催した。発起人会の世話人代表、浄守志郎氏は東京美術学校出身の
白生地商(音楽評論家を自称、娘婿は十字屋の社員)とかで、よくわか
らない人だった。田中義雄は、同志社中学から高校を通じての後輩また
は同期生で、十字屋楽器店の次期社長でもある。三者三様のおもわくが
あり、面倒ないきさつがあったものの、運営面では大成功のうちに設立
された。                    (Day'19881009)
 十一月下旬、河原町四条通りの路上で、山田忠男教授(当時、京都府
教育委員長)に出会う。その背後に、浄守志郎氏があらわれた。


1971年01月28日(木)  四を三でワリカン 〜 河豚れっ面の人々 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710128
 
 昨夜、多羅尾氏は(車が走りだしてから)客人に夕食の好みを尋ねた。
 客人は「どんなものでも結構ですが酒のツマミのようなのは苦手です」
と答えた。オイル焼きはともかく、フグは酒のツマミそのものだが……。
 
 多羅尾氏が予定して、予約していなかったオイル焼きの店は休みで、
通りすがりの河豚屋にあたることになった。
 おまけに与太郎に「キミ、尋ねてくれんか」という。
 
 案内を乞うと、あらわれた仲居が「ウチは高いですけど」という。
「いいよ、四人で上がりたい」はたして食いおわって勘定書きをみると、
二万二千なにがし!(当時の高卒初任給に相当)
 
 三人とも(二人は、かなり金持だったが)持合わせがない。
 結局、パーソナル・チェックを持っていた与太郎が、帳場に向かう。
「小切手でいいかな」「現金どしたら税金おまけしまっけど」
 
 つまり、現金なら税金をゴマかすが、小切手だと税金を上乗せる。
 マケてくれと言ったわけではないのに、どうも理屈に合わない。
 客をもてなした料金を(カゲで)値切るのも、無粋千万である。
 
 あとで考えると、要するに仲居らのチップが先決だったのだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040530
 女中の棒先 〜 年金の行方 〜
 
 後日、多羅尾氏から「この前の勘定、いくらやった?」と電話があり、
「三人で割ろうか」ということになった。これも理屈に合わない。
 最初からワリカンなら、各々店を選ぶ権利もあったはずだ。
 
 いまさら文句をいうのも野暮だから、総額はいわず「一人七千円です」
と伝える(多羅尾氏の斡旋で、数日前に届いた地方紙の原稿料と、きっ
かり同額だった)。領収書も見せない代わりに、端数も言わない。
 
 あとの二人が「領収書を見せろ」といったら、舌を出すつもりだった。
 これで「高いな、ほんとに払ったのか」とでも云えば、机をひっくり
返したかもしれない。さすがに二人とも黙って払ってくれた。
 
(199701・・-02・・-19970427 山陽新聞・参照 20080319-0321)
 
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↓=Non-display><↑=Non-display
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1971年01月27日(水)  関西モーツァルト協会 〜 例会年譜 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710127
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Awa Library;
 


 
19701205(土) 第000回例会 (発足)
19710127(水) 第001回例会 小林 道夫 リサイタル/シルク・ホール
19710415(木) 第002回例会 岩淵弦楽四重奏団/京都府立文化芸術会館
19710617(木) 第003回例会 大川 隆子 独唱会/京都府立文化芸術会館
19710923(木) 第004回例会 テレマン管弦楽団/京都府立文化芸術会館
19711027(水) 第005回例会 関西歌劇団/京都府立文化芸術会館
19711215(水) 第006回例会 田中 千香士&小林 道夫/シルク・ホール
────────────────────────────────
1972‥‥( ) 第007回例会 
197203‥( ) 第008回例会 《レクイエムKv. 626》
               朝比奈 隆・指揮/京都大学交響楽団
1972‥‥( ) 第009回例会 
1972‥‥( ) 第010回例会 
1972‥‥( ) 第011回例会 
197211‥( ) 第012回例会 京都府立文化芸術会館“室内楽”
               《セレナーデ・ディベルティメント》
               真下 惇至/バッカス室内合奏団
1973‥‥( ) 第013回例会 
1973‥‥( ) 第014回例会 
1973‥‥( ) 第015回例会 
1973‥‥( ) 第016回例会 
1973‥‥( ) 第017回例会 
1973‥‥( ) 第018回例会 
1974‥‥( ) 第019回例会 
1974‥‥( ) 第020回例会 
1974‥‥( ) 第021回例会 
1974‥‥( ) 第022回例会 
1974‥‥( ) 第023回例会 
1974‥‥( ) 第024回例会 
1975‥‥( ) 第025回例会 
1975‥‥( ) 第026回例会 
1975‥‥( ) 第027回例会 
1975‥‥( ) 第028回例会 
1975‥‥( ) 第029回例会 
1975‥‥( ) 第030回例会 
1976‥‥( ) 第031回例会 
1976‥‥( ) 第032回例会 
1976‥‥( ) 第033回例会 
1976‥‥( ) 第034回例会 
1976‥‥( ) 第035回例会 
1976‥‥( ) 第036回例会 
1977‥‥( ) 第037回例会 
1977‥‥( ) 第038回例会 
1977‥‥( ) 第039回例会 
1977‥‥( ) 第040回例会 
1977‥‥( ) 第041回例会 
1977‥‥( ) 第042回例会 
1978‥‥( ) 第043回例会 
197804‥( ) 第 回例会 京都会館第2ホール“協奏曲の夕べ”
               《ピアノ協奏曲第1番・2番》
               真下 惇至・独奏/名古屋フィルハーモニー交響楽団
1978‥‥( ) 第044回例会 
1978‥‥( ) 第045回例会 
1978‥‥( ) 第046回例会 
1978‥‥( ) 第047回例会 
1978‥‥( ) 第048回例会 
1979‥‥( ) 第049回例会 
1979‥‥( ) 第050回例会 
1979‥‥( ) 第051回例会 
1979‥‥( ) 第052回例会 
1979‥‥( ) 第053回例会 
1979‥‥( ) 第054回例会 
1980‥‥( ) 第055回例会 
1980‥‥( ) 第056回例会 
1980‥‥( ) 第057回例会 
1980‥‥( ) 第058回例会 
1980‥‥( ) 第059回例会 
1980‥‥( ) 第060回例会 
1981‥‥( ) 第061回例会 
1981‥‥( ) 第062回例会 
1981‥‥( ) 第063回例会 
1981‥‥( ) 第064回例会 
1981‥‥( ) 第065回例会 
1981‥‥( ) 第066回例会 
1982‥‥( ) 第067回例会 
1982‥‥( ) 第068回例会 
1982‥‥( ) 第069回例会 
1982‥‥( ) 第070回例会 
1982‥‥( ) 第071回例会 
1982‥‥( ) 第072回例会 
1983‥‥( ) 第073回例会 
1983‥‥( ) 第074回例会 
1983‥‥( ) 第075回例会 
1983‥‥( ) 第076回例会 
1983‥‥( ) 第077回例会 
1983‥‥( ) 第078回例会 
1984‥‥( ) 第079回例会 
1984‥‥( ) 第080回例会 
1984‥‥( ) 第081回例会 
1984‥‥( ) 第082回例会 
1984‥‥( ) 第083回例会 
1984‥‥( ) 第084回例会 
1985‥‥( ) 第085回例会 
1985‥‥( ) 第086回例会 
1985‥‥( ) 第087回例会 
1985‥‥( ) 第088回例会 
1985‥‥( ) 第089回例会 
        第090回例会 
        第091回例会 
        第092回例会 
        第093回例会 
        第094回例会 
        第095回例会 
        第096回例会 
        第097回例会 
        第098回例会 
        第099回例会 
        第100回例会 
        第101回例会 
        第102回例会 
        第103回例会 
        第104回例会 
        第105回例会 
        第106回例会 
        第107回例会 
        第108回例会 
        第109回例会 
        第110回例会 
        第111回例会 
        第112回例会 
        第113回例会 
        第114回例会 
        第115回例会 
1985‥‥( ) 第116回例会 京都こども文化会館
               守山 俊吾・指揮/千里ファイルハーモニア
               《喜劇と音楽「劇場支配人」序曲》
               《協奏曲 第12番 イ長調/第21番 ハ長調》辛島 輝治
               《交響曲 第35番 ニ長調「ハフナー」》
        第117回例会 
1986‥‥( ) 第118回例会 
1986‥‥( ) 第119回例会 
1986‥‥( ) 第120回例会 
19860522(木) 第121回例会 京都府立文化芸術会館
               田原 富子&宗 倫匡“ピアノとヴァイオリンのためのソナタ集”ライブ録音
               《ト長調 K.301,変ロ長調 K.378,ホ短調 K.304,変ロ長調 K.454》
               《アンダンテ・ソステヌート ヘ長調》
               (19940623 急逝した田原富子のメモリアルCD GACD-103)
1986‥‥( ) 第122回例会 
1986‥‥( ) 第123回例会 
1987‥‥( ) 第124回例会 
1987‥‥( ) 第125回例会 
1987‥‥( ) 第126回例会 
1987‥‥( ) 第127回例会 
1987‥‥( ) 第128回例会 
1987‥‥( ) 第129回例会 
1988‥‥( ) 第130回例会 
1988‥‥( ) 第131回例会 
1988‥‥( ) 第132回例会 
1988‥‥( ) 第133回例会 
1988‥‥( ) 第134回例会 
1988‥‥( ) 第135回例会 
1989‥‥( ) 第136回例会 
1989‥‥( ) 第137回例会 
1989‥‥( ) 第138回例会 
1989‥‥( ) 第139回例会 
        第140回例会 
        第141回例会 
        第142回例会 
        第143回例会 
        第144回例会 
        第145回例会 
        第146回例会 
        第147回例会 
        第148回例会 
        第149回例会 
1989‥‥( ) 第 回例会 大阪モーツァルト・アンサンブル
19891019(木) 第150回“記念例会”京都府立府民ホール/アルティ
               《ディベルティメント変ロ長調 KV 137》
               《ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 KV 219》香西 理子
               《ピアノ協奏曲第25番ハ長調 KV 503》馬場 和世
        第151回例会 
        第152回例会 
        第153回例会 
        第154回例会 
        第155回例会 
1990‥‥( ) 第156回例会 
1990‥‥( ) 第157回例会 
1990‥‥( ) 第158回例会 
19900722(日) 第159回例会 洛陽教会
               《アヴェ・ヴェルム・コルプス》
               《ラウダテ・ドミヌム》《讃美歌集》
               林 達次・指揮/京都(大阪)ゲヴァントハウス合唱団
1990‥‥( ) 第160回例会 大阪モーツァルト・アンサンブル
1990‥‥( ) 第161回例会 
19901017(水) 第162回例会 京都府立府民ホールアルティ
               《ピアノ協奏曲ニ長調 ロンド KV 382》
               《ピアノ協奏曲第13番ハ長調 KV 415》
               《ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 KV 595》
               スベトラ・プロティッチ・独奏
19910120(日) 第163回例会 洛陽教会《キリエ・ハ短調》京都バッハ合唱団
1991‥‥( ) 第164回例会 
1991‥‥( ) 第165回例会 
1991‥‥( ) 第166回例会 
1991‥‥( ) 第167回例会 
1991‥‥( ) 第168回例会 
1991‥‥( ) 第169回例会 
1991‥‥( ) 第170回例会 
1991‥‥( ) 第171回例会 
1991‥‥( ) 第172回例会 
19911205(木) 第173回例会 洛陽教会“没後250年”《レクイエム》
京都バッハ合唱団&京都シティーフィル合唱団
19920128(火) 第174回例会 京都府立府民ホールアルティ
               《ディベルティメント第17番ニ長調 KV 334》
               《ピアノ協奏曲第14番変ホ長調 KV 449》早田 彩子
               《ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 KV 595》田口 はるみ
19920308(日) 第175回例会 洛陽教会
               《フリーメーソンのカンタータ》
               《ミサ・ブレヴィスハ長調》《讃美歌集》
               林 達次・指揮/京都(大阪)ゲヴァントハウス合唱団
1992‥‥( ) 第176回例会 
1992‥‥( ) 第177回例会 
1992‥‥( ) 第178回例会 
1992‥‥( ) 第179回例会 大阪モーツァルト・アンサンブル
1993‥‥( ) 第180回例会 大阪モーツァルト・アンサンブル
1993‥‥( ) 第181回例会 “シューベルト《冬の旅》全曲演奏会”
               三井 ツヤ子(メゾ・ソプラノ)
1993‥‥( ) 第182回例会 
1993‥‥( ) 第183回例会 
19930119(火) 第184回例会 京都府立府民ホールアルティ
               《カッサシオン第2番変ロ長調 KV 63a》
               《フルート協奏曲第1番ト長調 KV 313》橋本 量至
               《ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 KV 219》橋本 寿子
        第185回例会 
        第186回例会 
        第187回例会 
        第188回例会 
        第189回例会 
19930801(日) 第190回例会 協奏曲の午後 京都府民ホール・アルティ
               清水 史広&指宿 姿・指揮/千里ファイルハーモニア
               ベートーヴェン《ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調》松井 和代
               《フルート協奏曲 第1番 ト長調》宇高 彩子
               《2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調》松井 和代&古新 薫
        第191回例会 
        第192回例会 
        第193回例会 
        第194回例会 
        第195回例会 
1994‥‥( ) 第196回例会 
1994‥‥( ) 第197回例会 
1994‥‥( ) 第198回例会 大阪モーツァルト・アンサンブル
19940630(木) 第199回例会 京都府立府民ホールアルティ
               菊地 俊一・指揮
               《ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調 KV 218》山下 千夏
               《フルート協奏曲第2番ト長調 KV 314》西川 一也
               《ピアノ協奏曲第21番変ロ長調 KV 467》斉藤 マヤ
1994‥‥( ) 第200回例会 
1994‥‥( ) 第201回例会 
1995‥‥( ) 第202回例会 
1995‥‥( ) 第203回例会 
1995‥‥( ) 第204回例会 
1995‥‥( ) 第205回例会 
1995‥‥( ) 第206回例会 
1995‥‥( ) 第207回例会 
1996‥‥( ) 第208回例会 
1996‥‥( ) 第209回例会 
1996‥‥( ) 第210回例会 
1996‥‥( ) 第211回例会 
1996‥‥( ) 第212回例会 
1996‥‥( ) 第213回例会 
1997‥‥( ) 第214回例会 
1997‥‥( ) 第215回例会 
1997‥‥( ) 第216回例会 
1997‥‥( ) 
1997‥‥( ) 
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1998‥‥( ) 
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2000‥‥( ) 豊住 征子“歌曲の夕:バッハからブラームスまで”
2001‥‥( ) 
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20060127(金) モーツァルト生誕250年
2006‥‥( ) 
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 ◇ 関西モーツァルト協会役員
 
 会 長  長広 敏雄 
 顧 問  朝比奈 隆 張 源祥  中川 牧三
      属 啓成  高山 義三 渡辺 暁雄
      吉村 一夫 
 常議員長 浄守 志郎 
 
 ◇
 
♀豊住 征子 194304‥ 大谷大学短期大学部幼児教育科教授(TOYOSUMI Masako)
/モーツアルトの夕べ(1992、1994、芸術活動・建築作品等)
/リートの夕べ(大谷大学主催)
 
 真下 惇至 ピアノ 19351109 京都 舞鶴       /
♀田原 富子 ピアノ 1944‥‥ 神戸 西宮 19940623 50 /京都市立芸術大学音楽学部助教授

 
 Key Word of Web Library:“関西モーツァルト協会”関西モーツアルト協会
 
http://www.google.co.jp/search?hl=&q=%E2%80%9C%E9%96%A2%E8%A5%BF%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E5%8D%94%E4%BC%9A%E2%80%9D&sourceid=navclient-ff&rlz=1B3GGLL_jaJP377JP378&ie=UTF-8
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http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%B4%D8%C0%BE%A5%E2%A1%BC%A5%C4%A5%A1%A5%EB%A5%C8%B6%A8%B2%F1
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710703
 GATO 〜 また逢う日まで 〜
 
(20070212-20100827)
 


1971年01月15日(金)  同窓会始末

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710115
 
 同窓会始末 〜 閉会あいさつに代えて 〜     阿波 雅敏
 
 来賓十四方、先輩後輩あわせて百名ちかくのご参集を得た、このたび
の同窓会は、終始さまざまの遺漏があったにもかかわらず、なかなかの
盛会となりました。
 次なるあたらしい展開に期して、その発端ならびに経過を述べたいと
存じます。
 同期生のひとりとして、あるいは世話役のひとりとして、きわめて私
的な語りくち、になることを、あらかじめお許しねがいます。
 規模の大小にかかわらず、概して同窓会と称するものの、実は原則的
に、二通りのパターンがあるようです。
 《彰栄会》とか《白鷺会》のように、卒業と同時に、自動的に入会金
を納めて、専従の事務局を設けた上で、定期的な運営によるものを、か
りに公設同窓会とすれば、クラス単位のものや、グループ・クラブ活動
のOB会などは、私設同窓会と呼ぶべきでしょう。
 このたびの同窓会が、後者に属することはいうまでもありません。し
かも、めずらしい形態であった、といえます。
 考えてみれば、中学・高校時代の各種OB会はあっても、当時あれほ
ど重要とされた、《生徒会》そのもののOB会などは、あまり例をみま
せん。もし、あるとすれば、めずらしい例にちがいありません。
 われわれが、《同窓会》について、いかにばくぜんとした概念を抱い
ていたか、以下の経過が如実に示すとおりです。
 
 ■ おりから三十世代
 
 たとえば、街で、ぐうぜんに出会った相手が、かつての同期生であれ
ば、いずれ同窓会でもやろうじゃないか、という話が出るのは三度に一
度でしょう。はたして、それが実現するのは、何十に一のわりあいです。
 今回の場合は、当初三人の出会いで、大筋がまとまりました。
 佐々木敏男君の経営する《ホリディ・バーガー》に、土井勇君が立ち
よって、おそらくは無駄話をしていたところへ、腹を空かせた私があら
われた、のが幕あきで、昨年十一月中旬のことです。
 その夜、ウィスキーの水割りと、奇想天外なジョークの合間に、具体
的な要点があきらかになるにつれ、三人三様の役割りも、はっきり定ま
ったようです。
 このことは、たんに土井君が《土井公認会計士事務所》に勤務してい
るから、すなわち会計担当幹事に、という連想だけでは説明できかねる
面もあります。かといって、彼が、当初志望したという、職業カメラマ
ンであったなら、おなじ役柄に落着していたかどうか、まさに「おりか
ら三十世代」という惹句は、その夜の私の実感でありました。
 
 ■ ある私設同窓会
 
 さて、世話役はきまったものの、だれいうとなく、どうもこの三人で
は、呼びかけるにしても、パッとしないんじゃないか、それもそうだ、
というわけで、とりあえず古い名簿を持ちよったのが翌日の午後でした。
 酔いざめの頭で考えてみると、なぜパッとしないのか、よくわからな
い点もありましたが、いわゆる発起人会を設けるのがよかろうというわ
けで、ほぼ無作為に同期生三十数名を選び、「御名拝受いたしたく、ご
快諾のほど、お願い申し上げ」る旨、急遽ゼロックスのコピーを発送す
ることになりました。 これから以後の、渉外担当幹事こと佐々木君の
活躍は、まことに俊敏で目をみはるものがありました。なにしろ郵便が
着くかつかぬうちに、電話で口答の「快諾」をとりつけ、長距離電話も
ものかわ、コピーを増刷して手ずから届け、はては自費で宴席を設ける
におよび、同窓会の趣旨について一席ぶつこともしばしばあったようで
す。
 いわば、最小の規模で、彼自身の主催による私設同窓会を、夜ごと展
開したわけです。
 余談ながら、ある夜、彼と夕食を共にした折のやりとりを紹介しまし
ょう。
 「いそがしいとクルマが要るな」
 「街なかの用たしは、自転車にかぎるぜ」
 「自転車を買おうか」
 「フジイ・ダイマルで特価品があったな」
 「それ買っといてくれ」
 という次第で、私はもちあわせの小切手を彼にあずけたわけです。食
事のあとは、結局飲むことになりました。私設同窓会も宴たけなわのこ
ろ、突如彼が叫びました。
 「自転車はやっぱりアブナイぜ」
 「アブナイかな」
 「アブナイ、だからこの小切手は飲もう」
 現在、私が自転車を持っていないのは、こういう事情によるものです。
目下、五年ぶりにクルマを買うべきか、を検討中です。
 
 ■ 近眼の射手
 
 事務担当幹事などといっても、私ごときは十二月から、新規にレコー
ド屋を開業することに右往左往しており、他にもあたらしい仕事を手伝
ったりしておりましたので、返信はがきの宛先の地に、表札を出したの
が、前月二十五日でしたから、せっかく「快諾」の便も、あやうく逆返
送されそうになった例もあります。
 せっかくといえば、それぞれ口答・書面の「快諾」をいただいた中に、
タイプ印刷にかける段階で、二三の御名をおとしてしまったことです。
とくに書面でいただいた方には、おりかえし、失礼を詫びることもでき
ましたが、口答しかも人づての方には、時機を逸してしまい、同じ人づ
てでご容赦ねがったようなことです。
 どうも、このあたりから、私の事務ペースがおかしくなったようです。
幹事三人のやりとりが、いかにも象徴的でした。
 「オレが機関銃でダダダダッと打つから、オマエは、ライフルで残り
を狙撃しろ」
 「オレは、近眼だから、どうかな」
 「するとオレは、あとでタマひろいか」
 なにしろ、延五百数十名が対象です。
 十数年も前の、古い名簿による郵送でしたから、予期せぬでもなかっ
たのですが、発起人だけでも約三分の一が転居先不明その他の理由で返
ってまいりました。この分でいけば延五百数十名のうち、実際に連絡で
きるのはどれほどか、と内心案じてはおりました。
 
 ■ 銃後の花
 
 女性のほとんどは、姓が変っているはずで、さてどうするか妙案もな
かったところ田村睦さんからの返信で、高校同期の女性ばかり、やはり
私設同窓会を何度か続けているので、その名簿もありますよ、とのこと、
それならば、とすっかり安心してしまいました。
 大前いく子さんが、同志社同窓会本部に、おつとめである、と知った
のは年末から正月にかけてでした。公設同窓会のプロフェショナルにち
がいなく、田村さんと共に、宛名の追跡をお願いできたのは、闇夜の光
明というべきでした。
 もっとも、安心する材料が増えると、一向に事務ペースがはかどりま
せん。
 最初から会場に予定していた《ベラミ》の森川支配人には、おそくと
も年内には出席者の概数がわかりましょうから、多いようならホステス
もお願いできますよ、などと吹いたものの、結局は最初にして最後の、
私的な発起人会召集が、たったひとつの、はかどり具合となりました。
 
 ■ 赤と黒
 
 師走二十六日の夜八時、誰がどう考えてもあわただしい頃に《ホテル
・フジタ》ロビーに、とにかく十人ばかりあつまってくれました。佐々
木幹事の機関銃乱射で、とりあえずという格好ではありましたが、総数
五百数十名宛の、案内状草稿を回覧、おおむねは幹事三人に一任の上、
協力を約していただきました。
 このときの主な議題、というより関心事はまず、ホステスが一次会で
呼べるかどうか、それには予算面で可能かどうか、すなわち出席者数は
どれほどか、という順に移行しました。
 十年前、いや五年前であったなら、ホステスよりも、同期の女性諸姉
の出席予想に、終始したのではあるまいか、と思われます。その種の議
論も、皆無ではなかったものの、まさしく「おりから三十世代」の観、
ひとしおでした。
 念のため申しそえますが、三十世代の女性が、一般的な意味で、女性
的魅力に欠ける、という結論ではないのです。《ベラミ》にも三十世代
のホステスは、かなりいるわけで、すると、どうなのか、うまく分析は
できませんが。
 その後の発起人会は、減ったり増えたりしながら、というのも、タイ
プ印刷に載っている顔ぶれにかぎらず、その夜あつまってくれたメンバ
ーで、要するに数件のはしごに流れました。
 飲むほどに、論ずるほどに、だんだんわけのわからぬ意見も出るなど、
気がかりな点は予算面にちがいなく、さりとて妙案も決論もない始末で
した。
 そもそも私設同窓会なるもの、赤字が出ても、黒字が出ても、その処
理に困難をきわめる点では、おなじです。あえていうならば、その処理
における手さばきが、成否を象徴するのではないでしょうか。
 当夜のあとさき、三人の幹事は、さまざまな表現で、たえずこの点を
確認しあっておりました。
 「これは事業だ、企業ペースでやろう」
 「………」
 「赤字よりは黒字のほうが健全である」
 だいたい、ことの次第が決定してしまっている以上、手順としては楽
観論にしたがうのが必然です。悲観論や否定的材料が百出しようとも、
引きかえすわけにはまいりません。
 
 ■ 学校用語
 
 さて、いよいよ五百数十名宛の発送です。
 正月四日、午前十時に最後の投函を了えて、遅ればせもいいところで、
心境としては、人事を尽して天命を待つ、ほかはなかったのであります。
 
…… 新年おめでとうございます。
  このたび、同志社中学校昭和二十七年度 入学、あるいは昭和二十
 九年度卒業生と、 同志社高等学校昭和三十年度入学、あるいは昭和
 三十二年度卒業生、五百余名の同窓 会・旧交歓談の席を、下記のと
 おり設けました。
  おりから三十世代、それぞれの分野でのご活躍ぶりは、しばしば伝
 えきくところで すが、数年ぶり、あるいは十数年ぶりの再会を、あ
 たらしい年の記念としたいものです……。
 
 年度をこまやかに列記したのは、たとえば私のように、最後だけ昭和
三十三年度卒業であるとか、諸種の例が少数たりともあるからです。当
時一学年の定数が、約三百六十名であり、かつ今回の趣旨によれば五百
数十名におよぶことは、少数者が、意外に少数ではなかった、という発
見につながります。
 来賓すなわち、かつての恩師には、中学高校の両校長はじめ、担任教
諭を中心に招待状を用意し、このほうは、かなりまぎわになってから、
お届けした始末です。
 前半のニュアンス、後半のアピールに注目していただきたいものです。
 
…… すでに三十世代の緒についた私たちが、かつての共通環境を重ん
 じ、たんなる回想にとどめることなく、各人各様に再生産への意図を
 秘めていることは、申すまでもありません。
  学校用語でいわれたところの、問題児はもとより、編入生・転校生
 ともども、数年ぶり、あるいは十数年ぶりの再会に期するゆえんです。
 
 ■ その日
 
 ご招待申しあげただけで、何のもてなしらしいこともできず、いたず
らに頭をさげるばかりでしたが、半数ちかいご出席を得たことは、盛会
にいたる大きなささえでした。
 あとで聞いた話ですが、某先生がビールを注いでくれた女性に向って、
 「きみは何という名前だったかね。たいへん美しくなって、見ちがえ
てしまった」 と感嘆すれば、くだんの女性、実は芸妓。
 「いやセンセ、うちは小学校しか出とらしまへんえ」
 あれこれ迷ったあげく、ベラミのホステスを何人も呼ぶには予算が心
配で、ひそかに花街から呼びよせておいた美妓ふたり、幹事に耳うちし
て、「ハプニングいいまっしゃろ、ふたりで祇園小唄やったげるわ、バ
ンドの人にそう伝えとおくれやす」
 いや、その実は、本日ベラミのバンドを雇えなかった、というのも義
理を欠く。するとどういうわけか一年後輩で《十字屋楽器店》常務の田
中義雄君の顔が見えたのをさいわい
 「電話をかけてもらいたい。祇園小唄の歌なしレコードが一枚要るこ
とになった」
 レコードの一枚や二枚、私の店でも売ってるものの、地の利、漁夫の
利とあって、だれかが走ってくれました。
 「バンドが来たよ、さあやっておくれ」
 宴次第、プログラムそのものは、あらかじめ十五分単位の厳格な用意
があったのですが、あまたの例にならっての京都時間、きっかり三十分
くりさげて、二三のハプニングおりまぜての二時間、まずは左記のごと
く進行いたしました。
 個々における臨機応変、くわしくは録音テープに収められているとお
りです。
 
 ■ 第三の女性
 
 あまり上品でない芸能界用語で“不見転”というのがあります。
 司会の大橋高子嬢の起用に関するかぎり、日ましに人気上昇という成
功をみました。
 そもそも彼女は、同志社とは縁もゆかりもないフリーのアナウンサー
で、当日までだれひとり、世話役といえども面識がなかったのです(も
っとも、テレビなどでご存知の方はあったはずですが)。幸運なことに、
私だけが某広告代理店の紹介で、いくたびか彼女に電話の打ちあわせを
していたため、後日におよんでからも、彼女を個人的に紹介せよ、とか
彼女とメシを食わせろ、などという熱心な申し出が続き、幹事たるもの
アフター・サーヴィスに、電話番号を教えるくらいは任務かと思われま
す。
 
 ■ 高校三年生
 
 BGMというものが、心理的にどのような影響力を秘めているのか、
くわしいことは判りかねますが、当初いくつかのプランの中で“ナツメ
ロ・メドレー”というのがありました。われわれの中学・高校時代に流
行した曲をつづるわけです。
 たしか《高校三年生》という流行歌があったはず、と調べてみれば、
五年ばかり後の年で、そんならつまらない、と引っこめた次第です。
 そこで、むしろ当時にはなかった音楽、ということから、一連の和製
フォーク・ソングに焦点を定めマイナー・レーベルのPEP盤《ヴァイ
キング・シリーズVol.1&2》を、そのまま流すことにしました。
 出演バンドも、このレコードに吹きこんでいる、兄弟のグループ《羊
の唄》を起用しました。その打ちあわせで、兄の池内勝司君が同志社大
学出身と知ったものの、それよりも私は、もっぱら前夜あみだした脚色
プランに熱心で、
 「ギターのアルペジオが、どこからともなく聴えてくる……やがてフ
ルートのソロが、ハスキーに旋律をかなではじめ、よくよく聴けば《同
志社カレッジ・ソング》だったとしよう……口笛が飛びかい、拍手が鳴
るだろう……客席には、かつての生徒会長であり応援団々長の岸田貞義
君がいるはずだ……みんなが彼をステージへ引っぱりあげる……そして
大合唱に至るや、場内は興奮のルツボと化す……」
 私のラッパに対して、池内君はあまり気のりしない表情で、
 「せいぜい、キバッてみます」といって帰りました。なにごとにつけ
演出過剰となればシラけるか、ヤボになりましょう。いくつかの事情が
転じて、結果は例によって例のごとし。めでたし、めでたし……。
 
 ■ 誰何の宴
 
 「さあ、おわったぞ」
 「まだ、おわってないと思うが」
 「タマひろいが、残ってる」
 二次会の席では、某発起人に、
 「赤字が出たか」と心配され、
 「カタテ、ぐらいかな」とあてずっぽうを答えれば、「どうする」
「どうしようか」これといった妙案も浮ばず、むやみに腹の空いている
のに気づいたころ、某々発起人が、
 「ごくろう、ボクの席でいっぱいどうか」
 「ありがとう、おごってくれるなら、メシのほうが、ありがたいが」
 「ボクも、腹ペコでな」
 「わかった、ごちそうになろう」ビールの立ちのみだったのが、腰を
すえてのウィスキーにかわり、ふたたび、
 「赤字が出たか」
 「カタテとちょっと、ぐらいかな」
 「どうする」
 「一軒泣かせるか」
 「そのときは、応援しよう」
 一・二次会では顔のみえなかった今村捷次君が、三次会にあらわれて、
私の隣に腰をおろすなり、
 「今夜がおわったら、何をはじめるか」
 「オレか、商売のほうもやらんとね」
 「こんどの同窓会には、中沢博司を一枚加えたかったな」
 「ヤツは、先刻ベトナムから祝電を打ってきてたぜ」すると、だれかが、
 「あの祝電は、ありゃウソだ。ベトナムのヤツが、同窓会のことなん
ぞ知るもんか」
 「だれだ、そんな電報打ったヤツは」
 土井会計担当幹事が、さきほどから一向に酔ったふうもなく、腕ぐみ
などしているので、
 「三次会だけでも赤字にしてはいかんな、会費を徴収してしまおう」
 「それが、困ったことに、この店では今夜この場で勘定できんらしい」
 「じゃ、これづつ集めるか」と指を立て、
 「やむを得ん」土井君、やおら起ちあがり、上座あたりから、ひとり
ひとり巡回しはじめました。みずからタマひろい、とはよくもいったも
のです。
 
 ■ 収支報告書
 
 不運にも三次会に列席の諸君には、おわびと感謝をこめて告白しなけ
ればなりません。見こみで頂戴した分から、数日後あきらかになった勘
定を差引くと、おつりが出てしまい幹事の判断で、以下に別途金として
充当いたしました。


 会場・飲食費……1950 | 会費………2190
 謝礼・出演料……0550 | 祝金………0020
 事務・連絡費……0696 | 別途金……0286
 雑費・諸経費……0228 | 立替金……0928
──────────────────────
         3424 |      3424

 以上は、土井会計担当幹事による、きわめて詳細な《精算書》をもと
に、便宜的な大項目に分類したものです。立替金については、一部を某
々発起人の応援を得ており、今まで一軒も泣かせることなく健在です。
しかし、なりゆきからして、立替金は寄付金ではありませんので、次の
方法を鳩首案じました。
 
 ■ 実況録音売ります
 
 たんなる記念として保管すべく収録しておいたものですが、モノラル
ながら秒速十九センチで採ったものを、入念に編集し、四十五分にまと
めあげてみると、なかなかまとまったテープになりました。
 欠席者のなかから、当日の写真その他を実費で送ってもらいたいとの
申し出があったのをヒントに、写真はこのとおり印刷して総員五百数十
名にお届けすることとし、テープにかぎり、二分の一から三分の二の利
益を見こんで、お買いもとめいただくことにします。いうまでもなく、
その利益を立替金に補充するのですが、成果やいかに。あんがいおつり
が出たりすると、またもや困惑の事態を生じますが、それもこれも私設
なるがゆえ、お叱り・お問合せ・お申しこみは、京都市南区唐橋西平垣
町:アワ・ライブラリーで受けつけます。頒価は、秒速十九センチ七号
リールで金三千円也、九・五センチ五号リールを金壱千五百円(各送料
共)で、現金書留をご利用の上、ダビング完了まで約一ヶ月お待ちくだ
さい。
 
 ■ 九十日
 
 七十五日はおろか、百日を過ぎたころに、ようやくこの《始末》記が、
諸兄諸姉五百数十名の机下にたどりつくわけです。お約束した範囲では、
記念写真一葉をご出席の方だけに発送すればよかったのですが、私設な
るゆえに私の独断で、わが《ライブラリー・レポート第三号内号》に独
立させての長口舌になりました。念のため申しそえますと、当号内
号にかぎり約六百部に限定し、関係各位を超えて用いることはありませ
ん。
 末筆ながら、さまざまな励ましとご協力をいただいた諸兄諸姉は他に
もおおく、つつしんで感謝いたします。再会まで、日々のご健斗を祈り
おります。                      (19710415)
 

https://www.mozilla.org/ja/firefox/new/(Ctrl+F)
http://awalibrary.blog.so-net.ne.jp/
 |
http://twitter.com/awalibrary(ツイッター)
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ)
http://booklog.jp/users/awalibrary(ブクログ)
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710115

 
(20060109)(20160323)


1971年01月11日(月)  喜多流シテ方 〜 能楽師の系譜 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710111
 
 Ex libris Web Library;喜多 六平太14
http://seadog.gifu.shotoku.ac.jp/users/jit/06jinbutu/18_100nin1.html
 現代日本の百人 034
 


 喜多 六平太 14  能楽師 18740707 東京   19710111 96 /1884 宗家 1894 襲名
/1953 文化勲章/1955 人間国宝
 
♀喜多 文子 六平太 14の妻 18751116 東京   19500510 74 /旧姓=林/囲碁棋士
/1911 女流棋士として初の実力四段/日本棋院名誉八段“囲碁界の母”
 
 喜多 六平太 15  能楽師 19000223 滋賀 東京 19861002 86 /旧姓=後藤 実(養子)
/1971 宗家 1987 襲名/日本芸術院会員
 
 喜多 六平太 16  能楽師 19241206 東京   20160221 91 /1986 宗家 1987 襲名
/前名=長世/能楽協会理事長/日本能楽会常務理事/実の長男/節世の兄/1991 紫綬褒章
 
 喜多 節世     能楽師 19260831 東京   20030409 76 /実の二男/喪主は甥で養子の真王(まお)
────────────────────────────────
 塩津 哲生(あきお)能楽師 19450122 熊本          /清人の長男
 友枝 昭世     能楽師 19400324 東京          /喜久夫の長男
 粟谷 菊生     能楽師 19221031 東京 港区 20061011 83 /1996 人間国宝 2000 芸術院賞 2003 会員
 粟谷 新太郎    能楽師 19190406 東京   19990521 80 /ペギー 葉山の従兄
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/awaya_shi.html
 大島 久見     能楽師 19150123 広島 福山 20040203 89 /1932 14世の内弟子/協会理事
 友枝 喜久夫    能楽師 19080925 熊本 東京 19960103 87 /昭世の父〜《猩 猩乱/羽衣》
 内田 信義     能楽師 1901‥‥ 岡山 東京 19920405 91 /能楽協会理事/20151206 第16回柊会23回忌
 後藤 得三     能楽師 18970117 大阪   19910722 94 /真平の次男/夜半の弟/喜多 実の兄
http://www.kyogenyamamoto.com/calendar/

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19900915
 風貌の人々 〜 土門 拳とその時代 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C7%BD%B3%DA%BB%D5
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070608
 観世流の人々 〜 能楽師の系譜 〜
 

https://www.mozilla.org/ja/firefox/new/(Ctrl+F)
http://awalibrary.blog.so-net.ne.jp/
 |
http://twitter.com/awalibrary(ツイッター)
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ)
http://booklog.jp/users/awalibrary(ブクログ)
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19710111

 
(20160226)
 
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1970年12月20日(日)  看板教授

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701220
 Ex libris Web Library;山口 長男《平面》
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2002/2003/exhibition2003h1/img/wk_YamaguchiTakeo.jpg
 
── 阿波 雅敏《私との対話;看板教授 19701220 中日新聞》
 
 かつて私は、東京にある三つの美術学校を受験して、そのうちの一つ
に合格した。第三志望というわけである。
 当時の私は、職業としてのデザイナーをこころざしていたが、その美
術学校に対しては、特定の目標が、別にあった。入学案内というカタロ
グによれば、他の多くの私立の例で、著名な教授陣、画家、工芸家、デ
ザイナーの顔ぶれが並んでいて、その学生たるもの日々に親しく教えを
受けられる、と思いこんでいたせいである。
 私がひそかに、ねらっていたのはY画伯である。いわゆるタレントふ
うの知名度はないが、その世界では空前絶後ともいうべき独自の作風に、
不動の信念がまざまざと感じられる点に、かねて私はあこがれていた。
 ところが、私の期待は半年もしないうちに裏切られた。すなわち入学
案内に載っていた著名なる教授陣のなかで、ただひとりが、入学式であ
いさつした他は、上級生の話によれば、年に一度か二度、顔を見られる
のがせいぜいで、とても手をとって教えていただく、など望むべくもな
いらしい。かりに機会があったとしても、何百人も一緒にマイクを通じ
ての講義では何にもなるまい、まして美術学校なのだ──私はがっかり
してしまった。
 私が怠惰な下宿生活に堕ちていったのは、それだけが原因ではないが、
大きなアテがはずれたのも事実である。私の作品は、当時だんだん孤独
な色彩と偏狭なパターンに向っていき、担当教官に指摘されるまでなっ
た。
 その年頃にありがちな、特有の思いあがりもあって、私は授業にも出
なくなり、課題だけをメモして帰り、ひとり下宿で作品と取り組むよう
になった。やがて「君のような男は、学校で学ぶ必要はないようだ、ひ
とりで勉強した方がいいじゃないか」といわれるようになった。
 学校を退める他はない、と自分でも考えはじめた。しかし、それでど
うするのか、というアテはまったくない。いつの間にか、酒に親しむこ
とを覚えた。
 冬にはいって、暮に帰省する汽車賃まで飲んでしまい、ある夜オーバ
ーを質に入れて得たなにがしかの金をポケットに、私は安酒場に向って
歩いていた。人通りのない夜道を、向こうからひとりの中年紳士がやっ
てくるのに会い、私は、はっとするものがあって立ちどまった。
 Y画伯にちがいなかった。
 たった一度、入学案内の顔写真で見ただけなのに、決して特異でない、
ごくふつうの風貌であったのに、なぜか夜目にも明らかに、瞬時にして
思い出したのである。
 立ちつくしたまま、私はY画伯の通りすぎるのを見送っていた。声を
かけて名乗りでることはおろか、後日に直接その門を叩くなど思いも及
ばぬ、近づきがたい気迫が、その姿に感じられた。
 そのあと私は、安酒に酔いながら、ばくぜんと考えをめぐらせた。画
伯は、いかにも、あくまでも孤独の人だった。あの厳しい、一途なモチ
ーフの探究は、要するに孤独なひとり歩きの修験者にしかできる業では
なかったのだ。──画伯の若い頃は厳格な具象絵画の新鋭だったときく。
ある時期に翻然と今日の領域に転じた経緯は余人の想像を超えるものが
あったに違いない。
 それから半年後、私は学校を断念し、新聞広告をみて、ある看板屋で
働くことにした。絵筆を使う、いちばん末端のところで具体的に何かを
学ぶことに賭けたのである。
 その後、私は職業としてのデザイナーにはなれなかったけれども、自
分の歩みは、自分の拓く道においてしかあり得ない、との考えを今も変
えていない。
 Y画伯には、ふたたびお目にかかる機会もなく、時おり主として印刷
物で拝見する作品に、例の不屈の信念を認めるだけで、おそらく私にと
って今後も、看板教授であるはずである。 (アワ・ライブラリー主宰)
 
 ◇
 
 Report 空間の次元 〜 阿波 雅敏・模写《ピカソ・葡萄とギター》〜
 
 空間を構成する、ということを、空間に<何か>を与える、あるいは
埋めることだと考えないで、空間そのものを示す、という風に考えるの
は案外難かしい。構成するという<仕事の意識>が、空間としてのひろ
がりを忘れさせることもあろう。しかも、空間を感じることは相対的な
意識の作用だから、ことはよけいに厄介である。
 これらのことを通じて、実際に形象化される場合、まず強調されるも
のはリズムである。有限のリズムは無限のリズムを暗示する。そして、
リズムの知覚は当然相対的に空間の知覚を導く。
 ピカソのこの作品は、専ら不安定な色彩が対をなしてリズムを生み、
それ自身の発展性を明示する。またリズムの発展性ばかりでなく、時間
的なそれも含んでいる。だが、後者の場合は前者以上に暗示に止まる。
 われわれの知覚ないし意識は、常にある次元を通じて行われるが次元
そのものを意識することはできない。示されるか、あるいは容認するだ
けである。ピカソは示そうとしたのである。
     〜 武蔵野美術学校・工芸デザイン科一年 〜(19591017)
 


 川端 弥之助  洋画 18931205 京都   19811209 88 /京都市立美大教授〜《エッフェル塔》
 川端 康成   小説 18990611 大阪   19720416 72 /ガス自殺/18990614〜朝
 三雲 祥之助  洋画 19020719 京都 東京 19820819 80 /武蔵野美術学園長/木炭《裸婦》指導
 山口 長男  抽象画 19021123 京城 東京 19830427 80 /武蔵野美校教授〜《構成,1955》
────────────────────────────────
 原  弘  デザイン 19030622 長野   19860326 82 /武蔵野美大教授
/〜《世界大百科事典 1978 平凡社》《原 弘グラフィックデザインの枠組,1985》
────────────────────────────────
 亀倉 雄策 デザイン 19150406 新潟 東京 19970511 82 /武蔵野美大教授“構成主義の旗手”
/1960-1964東京五輪ポスター連作/1978日本グラフィックデザイナー協会設立/199703‥スキー転倒
────────────────────────────────
 江川 和彦 美術評論 18960706 東京   19810114 84 /武蔵野美大教授/籍=銀蔵
── 阿波 雅敏《○□△ 〜 同時性をテーマとする作品 〜 19600225 〆切》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19600225 孤太郎 〜 丸と四角と三角 〜

 
…… われわれが知った場所は単に空間の世界に属するだけではないの
だ。われわれは便宜上それらの場所を空間の世界に配置するまでなのだ。
それらの場所は、その当時のわれわれの生活を形成していた印象の連続
のなかの、わずかにうすい一片にすぎないのであった。ある一つの映像
の回想とは、ある一つの瞬間への哀惜でしかない。そして、家々も、道
路も、大通も、逃げさっていくのだ。ああ、年月とおなじように。
── プルースト/井上 究一郎・訳
《失われた時を求めて(1)19980920 ちくま文庫》P720-721
 

http://twitter.com/awalibrary
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ検索)
http://booklog.jp/users/awalibrary(書籍目録)
 |
http://q.hatena.ne.jp/adlib/(はてなQ&A)
http://d.hatena.ne.jp/adlib+bilda/(準公開)
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=gswyn755
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19701220
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)

 
19600202(火)渡辺 慶子嬢に会う『妙な処で会ったなぁ』
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19591224 自由への道
19600206(土)14:30 喫茶・呉峰で渡辺嬢と話す。
 
……(慶子は、一族が慶応出なのに)早稲田と慶応の両方受かったので、
倍率の高い早稲田を選んだ。── 《ヒモ願望 20110326 一緋分庫》
http://d.hatena.ne.jp/aedlib/20110326(準公開)
 破天荒の女 〜 51年ぶりの電話 〜
 
…… 「オレはね、ほんとうはデザイナーなんか、どっちでもいいんだ。
高校時代にも言ったように、できたら金持の令嬢と結婚して、生涯ブラ
ブラしたいんだ」「まぁ、わたしそんな男の人、すっかり軽蔑するワ」
「そうかい、まぁいいや。キミと結婚したいワケじゃないからね」
── 《惑太郎 20001224 虚々日々》
 photo by Tadahiko Tamura 1966
── 《Awa Library Report 19710501》再録
 
http://q.hatena.ne.jp/1543507878#a1269657(No.2 20181130 05:19:44)
 その後わたしは、誰にも相談できないまま中退しましたが、あなたの
ケースでは、両親を説得して休学届を出し、留級することを奨めます。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701220 看板教授
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19541006 精神の危機
https://twitter.com/awalibrary/status/1068454250886221824
 
 ◇
 
…… 京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまで
を京城ですごした。本郷洋画研究所で岡田 三郎助に学び、20歳になった
1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業
と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、
それに当時渡仏中だった佐伯 祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家の
オシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に
努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで
二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、
1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。同年、
武蔵野美術大学教授となる[2]。1955年に第3回サンパウロ・ビエンナーレ、
1956年に第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として出品、そ
の後、グッゲンハイム賞美術展、チューリッヒ市立美術館の「現代日本
の絵画展」など、国外での出品も広がる。1961年、芸術選奨文部大臣賞
を受賞。1982年、三雲 祥之助の後任として、3代目の武蔵野美術学園学
園長に就任。典型的な作品は、黒系の地に黄土色または赤茶色系の大き
な色面を配したもので、いわゆる「ハード・エッジ」の抽象絵画とは違
い、温かみを感じさせる(Wikipedia)。
 代表作《劃-赤 1968 島根県立美術館》《脈 1968 静岡県立美術館》
 
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ださい。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2002/2003/exhibition2003h1/img/wk_YamaguchiTakeo.jpg
 

 山口 長男  抽象画 19021123 京城 東京 19830427 80 /Yamaguchi, Takeo
 三雲 祥之助  洋画 19020719 京都 東京 19820819 80 /武蔵野美術学園長/木炭《裸婦》指導
♀小川 マリ   洋画 19011013 札幌 東京 20060508 104 /194508‥籍=三雲 祥之助の妻

…… 日本の女性画家の草分けで、洋画家として最高齢の春陽会会員、
全道展創立会員の小川マリ(おがわ・まり=本名;三雲マリ)が2006年
5月8日11:50Pm、虚血性心疾患で入院先の東京都青梅市の病院で没。
 札幌市出身。自宅は、東京都武蔵野市吉祥寺東町二の四四の一○。
 1901年(明治34年)生れ。札幌駅前、札幌西武の前身「五番舘興農園」
を創設した実業家、故小川二郎が父。庁立札幌高女(現・札幌北高)か
ら東京女子大に進み、卒業後は大学職員として勤務。独学で絵を描き始
め、1932年(昭和7年)、独立美術協会展に初入選。1938年ごろから画
業に専念。
 第二次大戦中に札幌に疎開。1945年8月に洋画家の三雲 祥之助(1982
年没)と結婚、夫婦で全道美術協会(全道展)創立に参加した。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3973/art-ogawa-mari.htm
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050923
 点鬼簿 〜 与太郎の過去帳 〜
http://q.hatena.ne.jp/1543507878#a1269657(No.2 20181130 05:19:44)
 
(20081009)(20181209)
 
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1970年11月25日(水)  三島事件の人々

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701125
 


 益田 兼利  自衛隊総監 19130917 熊本    19730724 59 /陸将/陸軍大学校54期首席
 三島 由紀夫  作家   19250114 東京 市ヶ谷 19701125 45 /籍=平岡公威
 森田 必勝  楯の会幹部 19450725 三重 市ヶ谷 19701125 25 /切腹/早稲田大学教育学部
 古賀 浩靖 元楯の会幹部 1947‥‥ 北海道 /谷口 清超の娘婿、荒地 浩靖と改姓/神奈川大学
 小賀 正義 元楯の会幹部 1948‥‥ 横浜  /神奈川大学工学部
 小川 正洋 元楯の会幹部 1948‥‥ 千葉  /明治学院大学法学部/(正義)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 阿部 勉  楯の会幹部  1946‥‥ 秋田 東京 19991011 53 /古書店閑人舎/一水会結成参加
 森田 治  必勝の兄   19290202 四日市         /教諭/三重県議会議員
 斎藤 直一 弁護士    1896‥‥ ‥‥   19770627 81 /大阪高等裁長官(故)
────────────────────────────────
 山本 舜勝 自衛隊陸将補 1919‥‥ 愛知 東京 20010709 82 /陸上自衛隊調査学校副校長
── 手記《自衛隊『影の部隊』〜 三島由紀夫を殺した真実の告白 〜 200106‥ 講談社》
“三島事件”計画を知らされ「楯の会」メンバーらに訓練を受けさせたことを明らかにした。
────────────────────────────────
 谷口 清超 生長の家総裁 19191023 広島 /東京大学文学部心理学科卒
/19461113恵美子と結婚=雅春の娘婿/旧姓=荒地 清介(裁判官)&多加代の子

 
 ◇ 憂国抄
 
── 三島 由紀夫《憂国 19660410 新潮社》
http://q.hatena.ne.jp/1159460265#a614110
 自己愛性人格障害の人物が登場する映画や小説
 
── 三島 由起夫・原作・監督・主演・製作《憂国 19660412 Japan》
http://q.hatena.ne.jp/1180931854#a724962
 自殺の本棚 〜 死を見つめた人々 〜
 
19670619 三島 由紀夫が森田 必勝らと銀座「ビクトリア」で会見。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19620306
 東京日記 〜 最後の五百円札 〜
 
19670702(一週間)陸上自衛隊北恵庭駐屯地へ体験入隊。
 三島 由紀夫と森田 必勝(朝=日勝:まさかつ)が参加。
 
19700711 小賀 正義が `66年型白塗りのコロナを購入。
(三島から渡された20万円で、武器搬入用として)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19661108
 コロナの女 〜 滋賀銀行9億円横領事件 〜
 
19701125 三島由紀夫《命令書 〜 小賀正義君》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19900220
 辞世のことば 〜 生と死とことば 〜
 
 ◇ 
 
── 命令書
 小賀正義君。君は予の慫慂により、死を決して今回の行動に参加し、
参加に際しては、予の命令に絶対服従を誓った。依ってここに命令する
。君の任務は同志古賀浩靖君と共に人質を護送してこれを安全に引渡し
たるのちいさぎよく縛につき、楯の会の精神を堂々と、法廷に於て陳述
することである。
 今回の事件は、楯の会隊長たる三島が、計画立案、命令し学生長森田
必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上、当然
のことなるも、森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員及び現下日
本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて、青年の心意
気を示さんとする。鬼神を哭かしむ凛冽の行為である。三島はともあれ、
森田の精神を後世に向って恢弘せよ。
 しかしひとたび同志たる上は、たとひ生死相隔たるとも、その志に於
て変りはない。むしろ死は易く、生は難い。敢て命じて君を艱苦の生に
残すは予としても忍び難いが、今や楯の会の精神が正しく伝わるか否か
は君らの双肩にある。あらゆる困難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫
けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進せよ。
  楯の会隊長
  三島 由紀夫
    昭和四十五年十一月
     小賀 正義君
 ニ伸 弁護士 については元大阪高等裁判所長、弁護士斎藤 直一先生
に相談せよ。
http://guns-road.hp.infoseek.co.jp/mishima/mishimameireisyo.shtml
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kyuhzaemon/50641478.html
 草莽之臣(画像)
 
 ◇ 
 
── 斎藤直一弁護士宅を訪れ、法律上の遺言状の作成法について問う。
4月10日頃 この頃、新潮社の新田敞に、定家の生涯に基づく小説やポル
ノを ... 斎藤直一弁護士と会い、法律に従っての財産分与、および
「仮面の告白」「愛の渇き」の著作権を自分の死後、 ...
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1188537146/1-96
 三島由紀夫Part20
 
 もちろん直後の青人会でも、三島事件は話題になった。
 前後の脈絡なく「暴力は絶対にいけない」と二度も力説する者もいた。
(別項に詳述)
 
 ある文学青年は、事件以後、どうやら髪を切っていないようだった。
「線香の一つもあげずに、軽々に論じるべきでない」と瞑目して語った。
 いっぱしのことを云いたがるだけで、誰も核心をついていなかった。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701205
 素豆腐 〜 カマキ先生あらわれず 〜 (未公開)
 
(20080701)
 


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