与太郎文庫
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570414 中学生(実は高校生)だった与太郎は、女流ヴァイオリニストを描い た宮本 三郎の作品を覚えていて、三十歳のころ(19690712)巌本 真理 との対談にあたって思い出した。概してインタビュアーは、相手が気難 しいことを予告されるので、こんども例外ではなかった。 ── 《天才少年少女伝・草稿 19950506》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690712 日本の弦楽四重奏談 �ヾ猖椰人�弦楽四重奏団 〜 巌本 真理・黒沼 俊夫 両氏をたずねて 〜 インタビューに先だって、朝日新聞社本社に寄ってみる。 彼女が描かれた週刊誌の表紙を思いだしたので、見せてもらいたい、 と云うと「そんな古いものは残しておりません」と断わられた。 巌本さんに「それで、あの絵は貰ったんですか?」と聞いたところ、 女流ヴァイオリニストは「呉れるもんですか!」と答えた。 その後(テレビやネットで)いろいろなことが分ってきた。 そのときの表紙は、著名な女性と画家の組みあわせで競作し、読者が 人気投票するという、まことに通俗的な趣向だった。 どうやら表紙の原画は、投票した読者の一人に与えられたようである。 ── ばくぜんとテレビを見ていると、二つの記憶が突然むすびついた。 《週刊朝日》表紙コンクール第一位は、女優・富士 真奈美に決まった という。そこで彼女いわく「小磯 良平先生に、あげるっていわれたけ ど、欲がなくて、ことわったのよ」 ── 《ビジュツ館街道 19950417 10:25-10:55 西日本TV》 小磯画伯が富士 真奈美に「あげる」と云ったのは、思いちがいか? 巌本 真理を描いて「くれる」と云わなかった宮本画伯は、十年前も 《主婦の友》の表紙に、わずか五歳の山東 昭子を描いている。 ── 宮本 三郎《巌本真理 19570414 週刊朝日》表紙コンクール作品 ── 《週刊朝日 19570414 朝日新聞社》\800 ヤケ綴穴 http://homepage3.nifty.com/kano-/asahi3.htm 雑誌 週刊朝日3 ── 昭和28年5月30日。雑誌『週刊朝日』関東地区愛読者大会が東京 の歌舞伎座で開催されました。これは、吉川 英治の「新・平家物語」 連載3周年と徳川夢声の「問答有用」連載100回を記念したもので、さ らに、当時行われていた『週刊朝日』表紙コンクールの抽選会を兼ねて いました。 表紙コンクールというのは、期間中に『週刊朝日』の表紙を飾った画 家の絵を対象に読者投票を募り、投票者の中から抽選でその絵の原画を プレゼントするという企画。この時が第3回で、対象となる画家には 片岡球子や曽宮一念などの名があります。 寄贈者の方は、読者欄の投稿者の中から編集部が選んだ全国12地区の 読者代表のうち、東海地区代表としてこの愛読者大会に招待された方だ そうです。 ── 《草思堂から: 200602‥ 》 http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2006/02/index.html この表紙コンクールは、その年の秋“高校文芸誌の表紙コンクール” という思いつきに発展し、全国の高校文芸部に呼びかけている。 与太郎の担当する表紙を、ことさら自慢するだけに終わったが……。
小磯 良平 洋画 19030725 神戸 19881216 85 /異19881206/1983文化勲章 /《個展 〜 木炭裸婦 〜 1951ca‥ 画箋堂》を鑑賞(金谷先生と) /京都市下京区河原町五条上東側 075-341-3288 ──────────────────────────────── 宮本 三郎 洋画 19050523 石川 19741013 69 /《週刊朝日》 ──────────────────────────────── ♀巌本 真理 Violin 19260119 東京 19790511 53 /巌本真理弦楽四重奏団主宰 /《週刊朝日》表紙競作「G線上のポーズが辛かった」 ──────────────────────────────── ♀富士 真奈美 女優 19380115 静岡 /《週刊朝日》表紙競作一位 /富士市出身[A]籍=岩崎 真奈美 /父=光好は東洋音楽学校でバイオリンを学んだ。のち労働運動で投獄。 母=浪江200010中ごろ没。「木枯しや、焼かれて薄き喉仏‥真奈美」。 ──────────────────────────────── ♀山東 昭子 元女優 19420511 東京 /自民党参議院“タレント議員” /文化学院卒1974全国区初当選1996衆議院落選20010729比例区再選/科学技術庁長官 ──────────────────────────────── ♀吉永 小百合 女優 19450313 東京 /19730803岡田 太郎の後妻 /196704‥大阪毎日ホールでコンサート(京都十字屋でサイン会) ──────────────────────────────── ♀藤田 弓子 女優 19450912 東京 /城南高校卒/籍=河野 弓子[A] /《赤胴鈴之助 19590101 TBS》オーディションで吉永小百合と二人が 残った。あきらめて帰りかけると「ラジオですから」と云いながら関係 者が追ってきた。吉永小百合は、千葉周作の娘さゆり役にまわった。 ──────────────────────────────── 大幡 季生 JEUGIA 19430915 京都 /立命館大卒196604‥十字屋楽器店入社 /1970《音楽京阪神》編集長/198702‥総務部長198711‥取締役総務部長 /19‥調律部門社長。常務を経て200106‥専務20030627社長
なお、吉永小百合が京都十字屋に立寄って、急遽サイン会を開いた日、 与太郎が居あわせたことがある。誰かに招かれて会場に行ってみると、 いつのまにか彼女の真うしろに立つことになった。 背後に立って上から眺めると、彼女の首筋はとても疲れているようで、 肌に色艶もなかった。しかし、真摯な態度で一人一人に握手する姿は、 確実にファンを増やしていった。 わかい男たちが、階段の通路にひしめきあって順番を待っていた。 マネージャーらしき男の大声が聞こえる。 「色紙を買ってください、他の紙にはサインしません。並んで並んで」 ひとりの青年が、大型カメラを差しだし、必死の面持ちで頭をさげる。 すると彼女は、すばやく手を伸ばし、カメラの金属部分に書きつけた。 ひょっとすると、その青年は報道関係者だったかもしれない。 無事に終わって事務所に戻ると、十字屋の社員が話していた。 「うちの担当者は誰やったんや?」「なんでか大幡くんが座ってたで」 「ふーん、彼なら新入社員には見えんからな」(実は2年目だったが) >> おもいでのアルバム 〜 宮本 三郎&赤胴 鈴之助 〜 1943年 1歳の昭子 戦争中とはいえこんな写真をとる余裕があったん ですね。私はきょとんとしておりますが、 3歳上の兄は何故かにらんで います。 1947年 5歳 「主婦の友」の表紙のモデルになる。そのころは宮本三 郎画伯がこの写真を見て描いて下さった貴重なものです。 1953年11歳 ニツポン放送のドラマ「ポッポちゃん」に出演したとき の写真。 1957年15歳 マンガ「赤胴鈴之助」のラジオ版に一般からの募集で決 まったさゆり役の吉永小百合ちゃん、藤田弓子ちゃん、3歳年上の私は 芸能界は先輩でちょっとお姉さん風を吹かせていました。 1972年30歳 テニスをしているところです「スポーツ好きの山東昭子」 といったところでしょうか。 1979年37歳 議員生活がスタートしたばかりの頃です。 1985年43歳 国会での本会議(男女雇用機会均等法審議)の際に、演 壇で発言をしているところです。 1992年50歳 少し前の写真です、今もあまり変わってないと思います が、どうでしょう? http://www.santo-akiko.com/private.html ── 山東 昭子《ホームページ》 << (20060528)
| 1957年04月08日(月) |
落太郎 〜 テっちゃんのホームルーム 〜 |
新しいクラスの担任は“テっちゃん”こと高橋 哲郎先生である。 最初のホームルームは、いつもどおりに学級委員の選挙だった。 落第生が選ばれた瞬間、教壇のテっちゃんは大声で叫んだ。 「この選挙は、やり直しだ、みんなもっと真面目にやれ」 落第生も黙っているわけにはいかない、挙手して立ち上がった。 「ボクが、学級委員になると、なにか具合が悪いんですか?」 教室は、意外な展開にとまどって、静まり返った。 テっちゃんは予想しない反論に虚をつかれ、壇上で立ちつくした。 返答がないので質問者ともども両者は対峙した。 こうして沈黙の数十分が経過し、ベルが鳴り終わると、テっちゃんは 出席簿を抱えて職員室に戻ってしまった。 選挙は、したがって有効だったのである。 翌日、文芸部顧問“フクちゃん”こと下村 福先生に声をかけられた。 「キミ、なんでボクが役員になったらいかんのか、言うたそうやな」 「もう、耳にはいってますか?」 「そらもう、早いもんや」(*) これで、職員会議から再選挙を命じられるほどのことにはなるまい。 もともと、器楽部の評議員に選ばれることが判っていたので、生徒会の 規約(兼任不可)どおり自動的に、学級委員を辞したのである。 つぎの新議長・井上君が、遠足の日を何曜日にするかという議題では、 採択の結果、七曜日をそれぞれ九人づつが支持した。困った新議長は、 さきに委員を辞した落第生に助けをもとめたので、信任をうけた落第生 が壇上に上り、決戦投票にいたるルールを説明した。 めんどうな手続きを踏んだあげく、こんどは三十二人対三十一人に分 かれて、次のような結果となる。 63=7×9=32+31 すると、テっちゃんが突然またもや壇上の落第生を押しのけて叫んだ。 「やり直しだ、たった一人の意見で決めるなんてことがあるもんか」 落第生は、黙ってもとの席にもどり、以後の成り行きを観察した。 このあと(よく思い出せないが、みんなが協力して、あるいは延々と つづく投票にウンザリして)テっちゃんが納得する結果になるように、 按配しながら挙手したのであろう。 多数決では、しばしば最後の一票が決定する。これを避けるために、 過半数でなく三分の二以上としてみても、原理は変らない。 最後の一票は、あるいは最初の一票かもしれない。ここには時間的な 概念がない。つまり集団の思考過程は変化しないことになっている。 しかし、集団の意志は(ほとんどの場合)変化しながら移行するはず である。もし、このことを認めないなら、投票前の論議は無駄であり、 他人の主張に耳をかたむけることなく、当初の意志表示が繰り返されて 決選投票も成立しないのである。 …… タイム誌は「われわれは子供のころから民主主義について学んで きた。しかし(過半数がない)引き分けのとき、民主主義に何が起るか は教えられなかった」と書いた。 ── 《迷走ドラマ最終幕 米大統領選挙 20001127 山陽新聞》 adlib/19570408(Day'1995・・・・ 19970504 19990111 19990706)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570401 同志社高校生徒自治会では、担任のことを司級、学級委員を執行委員、 学級代表を代議員とよぶ。 クラスで二人の秀才を選ぶなら、執行委員は内政、代議員は外政向き がふさわしいはずだが、実態はあいまいである。 かたや課外活動の各部代表は評議員とよばれ、評議員会は利害の対立 集団である。執行委員会は原案委員会となり、予算会議の議長には生徒 会長があたる。 代議員会は、翌年度の生徒会長の選挙をつかさどるが、議長は三年生 だから卒業後の人事となる。そこで二年生の中から議長代理を選出する。 これが事実上の選挙管理委員長として、立候補者の認定から立会演説会 を経て投票日を迎え、最後に新・生徒会長の任命、就任演説会をもって つぎの代議員会に引き継ぐ。 最高機関としての代議員会では、むしろ二年生の議長代理がもっとも はなばなしい役割を担当するわけである。 つまり、生徒会長になるには、代議員会議長代理の支持を得ることが 有利である。逆に、課外活動の予算を確保するには、生徒会長を出すか、 もしくは協力的な生徒会長を擁立しなければならない。 かつて中学二年の終りに、公安委員長代理として、選挙管理委員長を つとめたとおなじ偶然的経由で、評議員会の議長代理として、ふたたび 選挙管理委員長を兼任することになった。 なにしろ、開校以来初の女子生徒会長を、高校でも初の二年生会長を 登場させた経過は、同級生はもとより、一年下の下級生たちの記憶にも 刻まれているはずである。弁論大会やキャンプでのボート・レース優勝 やら合唱コンクールでの優勝、学校新聞の編集長であり、図書委員会や 宗教部オブザーバー、ホザナ・コーラスのゲスト・メンバー、あげくに 文芸部では発禁事件まで引きおこしている。 衆目のみるところ、とくに成績抜群の秀才ではないにしても、まさか 劣等生であるはずがない。しかし、どこにも事情通は居るわけで、実は 成績不良で落第スレスレの情報は伝わっていたかもしれない。 しかし、それが事実であることをまざまざと確認したのは、新学期の 二年D組の生徒だった。とくに同志社中学の後輩なら誰知らぬ者はない “あの上級生”が、おなじ教室の一隅にムッツリ坐っていたのである。 ふつう学校側では、留級よりも転校をすすめる。いまにいう偏差値の 低い高校(たとえば、おなじ同志社でも夜間高校)に移れば、そのまま 進級できるので、すくなくとも世間体はゴマ化せるのである。 しかし当人は確信犯で、「なんならウラオモテ何年でも繰りかえすぞ」 などと虚勢をはった。もとアマチュアで、東京芸術大学に往復八年在籍 した指揮者・岩城宏之などの特例を思いうかべていたが、同志社高校の 規定では留級をくりかえす前に放校だ、とおどかされた。 おそらく、当人の経歴をまったく知らなかったのは、新米の司級ただ ひとり、なにしろ京都大学理学部を出たばかりだった。 ──────────────────────────────── (*)とくに説明する必要も問題もないと考えていたので、笑っていた。 評議員会では、予算会議の議長である生徒会長と対立することになる。 この経験から“一票の格差”に気づいて《予算会議の反省》につづく。 草稿:余太郎民主主義の原理 〜 予算会議の反省・補釈 〜
| 1957年03月18日(月) |
真白な論文 〜 恩師の条件 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570318 真白な論文 上田 堅一郎 大学にまだ私が学んでいた頃、心を割っていろんなことを話し合って いた友人が二人いた。H君、W君、今は三人とも散り散りになってH君 は学習院大学に、W君は広島大学にそれぞれ勤めているが時々近況を報 告し合っているのだが、当時は何かと言えばお互いの家に三人で語り明 かしたものだった。二人ともなかなかの秀才だったが特にH君は高校時 代から私と同級で常に私より上位に位して私の頭の上がらない人物だっ た。 大学卒業の折、お互の前途を祝してH君の家に集まったことがあった。 大学時代の思い出、各教授の批評、将来のことなど勝手な放言をして気 焔を挙げた。その時H君が突然「俺は真白な論文を書くつもりだ」と言 い出した。私にはこの言葉が今でも忘れられないでいる。 大学の図書室に入ると毎年各国の学者によって発表される論文が年毎 に製本してぎっしり詰められている。学生は教授の指導によってそれら の論文の中重要なものを選んで読み、また自分が研究発表する際には関 連した論文を探して読むのである。従って有名な論文、例えばアインシ ュタインの相対性原理とか、湯川教授の中間子理論とかは誰もが読むか らその頁が手垢で汚れて黒くなっている反面無名の学者の書いた余り重 要でない論文は真白なまゝで残っているのである。 彼がいった真白な論文というのは実はこの誰にも読まれない論文とい う意味なのである。然も彼がこの言葉を吐いたのは心の底に自分の学問 的な能力に対する十分な自信があっての上である。自分が真白な論文し か書けないというのではなく、所謂有名な論文にしてもそれが一朝一夕 に生れたものでなく、またその人の能力のみによって生れたものでなく、 実に数多くの真白な論文の積み重なりの上に生れるべくして生れたもの であるという事実を彼がはっきり認識して、自分が今後学問的活動に入 ってゆく際の決心を披瀝したものなのである。
この話はいつかチャペルで皆さんに披露したようにも思うのだが、私 自身いろんない実で励まし慰めを与えられている言葉でもあるので諸君 の卒業に敢てもう一度諸君にこの言葉をお贈りしたいと思った次第であ る。 ── 《卒業記念誌 �� 19570316 同志社高校三年F組》P06-07 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 書いたるぞ! 〜 君らの司級 〜 上野 務 君らは呼んで「カスミ」という。この名は小生は頗る好かぬ、おのれ を「ぬばたま」と呼ばれて、さして腹の立った覚えもないが、他人事な がら「カスミ」という名はいゝニック・ネームではない。「カスミ」は 文法的に申せば動詞「カスム」の連用形であるが、今「カスンでいる」 といえば、ろくな状態をいわない。わが敬愛する上田堅一郎君は、けし てさような存在ではない。従って「カスミ」なる名は、小生は頂きかね るのである。 × × × × 「あだな」といえば、ケンちゃんにかつて「大文字」という名がつい たことがあった。真疑の程は知らぬが、独身時代に、うら若き女性と大 文字に登った所を、生徒諸君に見つけられてその名が生れたという。残 念乍ら、この名は続かず。今は「カスミ」となって今日に及んでいる。 知らぬ人のため一言紹介す。 そのうら若き女性が、今の令夫人であったか否かは知らねども、昭和 廿七年節分の吉日を選んで、ケンちゃんは新しい人生のスタートを切っ た。その日のタコちゃん(石村先生)のスピーチに曰く、 「元来、私は囲碁において、残念乍ら新郎に数目おかざるを得ない程 度の実力でございます。然るに、昨夏の頃から、次第に私は、新郎に少 しづつながら勝つようになりました。私は、おのれの実力も大分ついて 来たぞと内心ほゝえんだのでございますが、豈はからんや、その頃から 新郎は新婦に対して……」このあとは適当な語句を補い給え。 × × × × ケンちゃんは、ほんとは学者にしたい人である。湯川門下の高弟であ る。ノーベル賞の取りそこないである。同志社中学・三高・京大の秀才 コースを取り乍ら、母校愛の故にノーベル賞を捨てたといってよい。か かる俊秀が、礼拝遅刻の生徒をひっつかまえるべく、岩倉の寒風に立っ ているのは、はたから見ていささか気の毒な気がせんではない。案外、 本人は平気どころか、それを光栄ある職務と思い込んでいるのかも知れ ないがね。あれ程の頭脳学力を備えながら、ちいと惜しいと思うのは、 僕だけだろうか。 × × × × ほめついでにほめ且つけなしておこう。ともかく、ケンちゃんは頭が よい。その証拠に国語の文法がよくできる。今国語の先生以外で、国文 法が分かるのは、ケンちゃんだけである。変格活用まで立派に言えるか ら大したもの。京大合格率90%はひいき目なしにさしあげよう。ところ が、ケンちゃんの、長所といゝましょうか、短所と言いましょうか、え ゝ要するに凝り性なんですね。野球はキャッチャー専門、水泳は平泳専 門、柔道も大したことはない乍らそこそこ。百人一首は名人級、囲碁は 岩倉棋院名誉九段、といった調子。これひとえに「頭脳+凝り性」の結 晶のかたまりである。「凝り性」の別名は「熱心」であり、またの名を 「阿呆」という。ケンちゃんの風邪ひきの原因は、これ悉く凝り性の故 と思ってよい。なんでも、クタクタになるまでやっている。どうたもの かしら。 × × × × 話題一変。ケンちゃんは臆病である。理科教室炎上後、宿直の折、こ の美点は遺憾なく発揮された。その頃真夜の岩倉の怪談がさまざま乱れ とんだのだが、およそケンちゃんに関係のないものはない。異様な声を 聞いたのも、怪しげな人影を見たのも、みなケンちゃんであった。もっ て知るべし。君らの修学旅行の時、夜は必ず、僕はケンちゃんのそばに ねてやった。夜のお便所に一々小生が起されたのにはいさゝか閉口した。 別府の最後の日、辰野君(旧二C)の急性盲腸炎のため入院し、その故 ケンちゃん一人別府に残らねばならなかった時、波止場のケンちゃんの 顔は見られたものではなかった。前の晩、「あゝ、もう明日は船の中」 と、帰洛の日が目前に迫ったのを手に手をとりあって喜んでねたのに。 華やかなバンドの中で、ショボンとした彼の顔、今に忘れることができ ない。 × × × × ケンちゃんはよい男である。僕は敬愛の二字を彼のために惜しまない。 ケンちゃんの名をカタ一郎と読んで、かなづちの如き人物と思い込んで いる人々よ。一度腹をわって話してごらん。W過剰は彼を尋ねてMを問 え、M過はWを聞け。ドライ、ウェット又然り。無論彼が完全無欠揺ぎ なき大至聖とは僕も思わぬが、君たちのよき司級でありし如く、将来も 又よき相談役であろうことをこゝに明白に証言しておく。 ── 《卒業記念誌 �� 19570316 同志社高校三年F組》P16-17 ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ 愛すべきかな稚気 杉井 六郎 それは蛇のよく出る季節であった。岩倉には、なじんでから日の浅い 私にもこの界隈には蛇がよく出ることはツトに耳にしていたが、ある午 後の日本史の時間に教卓に置かれていた一包の小箱を、私は強いて無視 して、教案を予定通りに進めて無事終了したわけであったが、後でそれ が蛇の小間切れであった事を聞いて、あわてて防空壕の中に飛込んでコ ブラの頭をふんづけた時と同じ様に、後で背筋に寒気を催したことがあ った。思えば野趣に富んだ稚気あふれる雰囲気である。 二学期になって、教室が変更になってから、やはりF組はヨウ怪変化 の巣窟と化すのであり、F組生の本来的な性格の一面が次第にメタモル フォーゼを起しつつ顕然化して来たものであったと考えられる。 今日、編集子にせがまれるまゝ、卒業の栞に“明治書生気質”という か、稚気あふれる一留学生のエピソードを紹介して皆さんへの餞としよ う。 何分備忘録のない走り書きであるので、どうも自信のない話で恐れ入 りますが、私達が今旧民法と呼んでいる明治二十九年公布の民法制定に あたって、非常な尽力をした人々には、仏人御雇顧問ボアーソナードの 他に、梅謙次郎や富井成章などがいる。梅も富井もフランスのリヨン大 学を最も優秀な成績で卒業し、なみいる各国法学生中の逸美であったこ とが伝えられている。その成績の表示の仕方が旧制高校のそれとよく似 ていて、私などその足もとにも及ばなかったことを伝記を読んだとき実 に恥じ入ったことがあった。当時日本から留学した後進も、その梅が( 富井であったか、その点不確で申訳ない)卒業式の直後、その日は七月 十四日、巴里祭でセイヌ河畔の広場も大変な人だかりで、日本人学生と 共に散策に出たらしい。ところが、とあるパリッ子がエッフェル塔に駆 け登っていったが途中で息切れがして、看護されて降りてくるのを見て、 よし俺がやってやると、やにわに袴の裾をたくしあげて意気まいた。友 人たちが昨日の優等生の折角の名誉をあたらこんなことでフイにしては と、しきりに止めたが聞入れず、遂に一気に塔の頂上まで駆上り、且悠 々として降りて来た。並居るパリッ子、その勇猛果敢、不屈の勇気にや んやの拍手を送ったという。 いやはや良き時代、よき書生気質、まことに愛すべきかなその稚気を、 では又逢う日まで。 ── 《卒業記念誌 �� 19570316 同志社高校三年F組》P34 http://d2.hatena.ne.jp/adlib/19570316 ── 《卒業記念誌 �� 19570316 同志社高校三年F組》P06 ── 《Day was Day 20001224 Awa Library》P066 ── 阿波 雅敏《予算会議の反省 1958 同志社高等学校新聞》 (20060607)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570316 卒業記念誌《�堯嫺瓜崋匚盥算闇�F組 卒業記念文集もくじ
序にかえて 01 卒業の門出を祝いて 茂 義太郎 02 真白な論文 上田 堅一郎 06 新居にて 並河 純 07 書いたるぞ! 君らの司級 上野 務 16 ウェット族よりドライ族へ 久永 省一 26 現代人の眼 牧 克忠 32 愛すべきかな稚気 杉井 六郎 34 青年は未来を信じ 志岐 常正 70 サラバ高校生活よ 内藤 晴茂 04 いわくら 伊藤 弘二 05 高校時代 民秋 史也 12 友達 橋本 孔夫 15 楽しみの一つ 薮内 豊造 28 八分間の差 大西 京子 32 長すぎる? 英語の常識 山田 英二 33 坊主心 三宅 由絋 35 初恋らしきもの 瓦谷 友之 36 京都 平輔 善哉 44 大いなる喜び 和田 万寿男 60 日記抄 広森 美知子 62 滝の誘い 佐藤 京子 64 二つの自分 茂 義樹 66 イモ・タコ・ナンキン 辻 直子 69 思いつくまゝ 笹谷 妙子 72 追憶 南 武美 74 岩倉逍遥歌 遠藤 敞干 18 詩三題 藤井 健作 27 3・F どんちのうた 56 アンケート �機ヾ篩卆験茲撚燭魍悗鵑世� 09 アンケート �供‐綸沈萓犬飽豸� 21 アンケート �掘 ̄壇鼎飽貮�啓上 29 アンケート �検―蚓�はどんな味でしたか 37 アンケート �后〕�想とする異性のタイプは 41 アンケート �此,錣�クラスの最優秀賞 45 アンケート �察,△覆燭量粥 �53 アンケート �次,△覆燭僚叔�後 57 スウィート ホームに関する統計 40 思い出ばなし・水泳バスのこと 20 思い出ばなし・二重身体検査事件 20 思い出ばなし・どんち 25 先生と生徒のプロフィル 47 Memorys of 3・F 81 若き日の想い ロング・フェロウ 0c 初恋 島崎 藤村 37 ふるさとの 三木 露風 39 夢みたものは 立原 道造 55 海の鐘 デェメル 59 山頂 バイロン 68 お別れのことば 和田 万寿男 80 お別れのことば 山田 英二 80 編集あとがき 85 住所録 86 よせがき 0b & 90 (表紙・カット 阿波 雅敏) 0a ──────────────────────────────── 卒業記念誌《�� 19570316 同志社高校三年F組》 88 発行 上田 堅一郎 編集 広森 美知子 笹谷 妙子 和田 万寿夫 山田 英二 印刷 阿波 雅敏
>> 新居にて 並河 純 わたくしごとで恐縮である。 昭和二十九年の二月といえばちょうど今度の卒業生諸君が入学する直 前だが、このとき妻の病気が発見されて──結婚後一年を経たところで ある──その後三ヶ年わたくしは比叡山の麓の下宿で独り暮しを余儀な くされた。学生時代から住みなれた北白川の住いをすてて、辺鄙なとこ ろに移ったのは、世の刺戟をさけて淋しさをたえようとするつもりから であった。しかし事実は志と反して、妻の病気の一進一退と、一時はか なり憂慮すべき状態にまでなったことなどから、却ってわたしは、刺戟 を求めて生活と感情に混乱をきたすようになった。 不幸にして諸君はわたしのこんな時期に三ヶ年間の岩倉生活を始めら れ、終えられることになったのである。いかにも諸君にとって、御迷惑 な話であった。わたしは、私生活の感情の起伏をできるだけ学級にもち こまないように努めはしたが、以前のように生徒諸君の成長のリズムに 到底歩調をそろえることは不可能であった。加えて、それまでのわたし の教壇生活数年間の経験は、教材の下調べや生徒諸君の指導方式にわた しなりの一種の型をつくりあげていた。特別の手数を要せずして日常の ことは果たし得た。愚かにして芭蕉の格言「初心忘るべからず」の意を わすれてマンネリズムを来たしていた。 「初心忘るべからず」これは、本校のある先生が去られるときに言わ れた言葉だが、再び、わたし自身の自戒のためと、諸君の卒業にはなむ けしたい。わたしは嵯峨の新しい住いで、藁で灰をつくったり、ガス風 呂を爆発させたりしながら、ようやく病からのがれ得た妻を迎える準備 をしながら、四月からもう一度、初心にかえって教壇に立ちたいと念願 している。 ともあれ、卒業とは、何となく悲しく、何となく嬉しいものだ。わた しの高校同窓の森川辰郎が、卒業にあたって詠んだ句が、最近、句集に 収めて出版された。 一歩一歩校庭の雪かたからず 雪の校庭わが曳く影を拒まざる 雪の夜の寮歌となりて宴果てぬ 雪の夜の寮歌の喉の嗄るるまで 自分たちの高校卒業時の感懐をふりかえって諸君の前途多幸を祈るこ のごろである。 ── 卒業記念誌《�� 19570316 同志社高校三年F組》P07-08 << ◆ 地方名士(なびか&なみかわ) ── 並河 純(なびか・じゅん)山陰酸素工業社長、安来市商工会議 所会頭。没昭和62年5月19日 60歳[腹部動脈瘤]生大正15年7月1日 (島根県安来市) 学京都大文学部卒、京大大学院修了 歴昭和37年、 山陰酸素工業常務。その後専務を経て50年、代表取締役社長。56年から 安来商工会議所会頭を努めた。 ── 《ジャパン WHO was WHO 19880325 日外アソシエーツ》P459 …… 2002年1月3日(木) 今日も雪。なんだか降り積もる気配。寒いのが嫌いな旬公は「ワタシ は雪国にヨメに来たんじゃない」とブツブツ。ぼくの方も、そろそろ庭 に建っている書庫を整理しはじめなければならないのだが、吹雪がヒド イので外に出られない。森川辰郎『句文集 松江』(臼井書房、1954) は、戦中を旧制松江高校で過ごした著者の俳句と俳句論。正直云って、 俳句としてはまったく見るところがないように思える(俳句のことはよ くワカランのだけど)。この本を買ったのは、装幀が花森安治だったか ら。花森は戦前に松江高校を卒業しているので、その縁で装幀を頼んだ らしい。松江の地名を描き文字で並べたデザインがいい。(略) ── 南陀楼綾繁《正月読書日記 20020112 mailmagazine of book reviews vol.58》 [書評]のメルマガ http://www.aguni.com/hon/review/back/58.html
花森 安治《暮しの手帖》創刊 19111025 兵庫 19780114 66 / 並河 純 (なみかわ・じゅん)19260701 島根 19870519 60 / 森川 辰郎 1926‥‥ ── 《句文集・松江 1954 臼井書房》 下村 福 “フクちゃん”1923‥‥ 京都 19990205 76 / ── 下村 福《松籟・をさむ遺句集 2001 皓星社》
おなじ国語教諭で、大丸の次男だった“フクちゃん”こと下村福先生 にはかなわないが、並河先生も故郷では財界御曹司として、わがままに 育てられた“ボンボン”である。 ふだん苦虫を噛みつぶしたような表情だが、若の花が勝った翌日だけ は機嫌がよくなる相撲ファンでもあった。 1955年春(最初の授業で)与太郎の姓=阿波を「アバ」と呼んだのは、 岡山県の阿波村(あばそん)に準じた記憶によるものか。ふつうは徳島 や三重県の「アワ」と読むのが一般的である。 先生自身の姓は、同志社では「なみかわ」と呼ばれていたが、地元の 読みは「なびか」らしい。訃報によれば1962年、常務就任とあるので、 高木宏二の書簡(19600620)から二年後に退職されたのであろう。 ◆ 疑惑 与太郎の同級生で、《�堯佞茲螳貲�後輩の女流作家が、自伝の中で、 同志社中学から高校までの諸先生に関するエピソードを、ほとんど実名 のまま活写している。当の本人が読んだら、ギャフンというような大胆 なギャクも織りこまれていて、痛快きわまりない。 並河先生については、進学に関するきわどい会話が再現されていて、 読みとばすことができない。しかるに、当時の先生の家庭環境や実家の 背景から推するに(与太郎のみるところ)必然性にとぼしく、なにより 客観的な状況証拠がない。 故人には釈明のチャンスがないのだから、せめて彼女は(文学的良識 にもとづいて)論理的な推論を述べるべきだろう。 全文を引用することはできないが、彼女はつぎのように結んでいる。 …… 何がどうしてどうなったのか、聞くとパンドラの箱の蓋が開きそ うで聞けなかった。 (P161-172) ── 遠藤 瓔子《タンゴ、口には出せず(3)20010401 gui 62号》 (前半の一部は、彼女自身のHPで公開されている。↓) http://www.geocities.jp/endohkun_22/profile/gui.html ──────────────────────────────── 画像番号[z0a-90] ◆ 若き日の想い 昔なじみの街路に影落す木々は うえしたにゆっくり枝をゆりながら 美しい歌を唱っている いまなおため息と共にさゝやいている 少年のこゝろは風のこゝろ 若き日の想いは遥か遥けし H.W.Longfello ──────────────────────────────── 画像番号[z0c-]P0c http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570316 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570316 1957年03月16日(土) 卒業記念誌《�堯嫺瓜崋匚盥算闇�F組 (20051208)
| 1957年02月24日(日) |
ハハシス 〜 升田王将の二・二四事件 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570224 ── 四月二十八日に連盟に電話を入れたが、連休前の土曜日で、理事 はだれもいないという。三十日の夜、理事で副会長である高柳敏夫君に 電話して、 「あす午前十一時、用事があって連盟に行くから、あなたも出てきても らいたい」と伝えた。 用件についてはなにもいわなかったので、まさか引退とは高柳君は思 ってもみなかったらしい。ところが翌五月一日の朝刊で、朝日新聞が 「升田、きょう引退を表明」とスッパ抜いたもんだから、朝からたいへ んな騒ぎとなった。約束の十一時に行ってみると、各紙の記者やカメラ マンがつめかけ、連盟はハチの巣を突っついたようでした(略)。 お祝いごとでもあるまいし、記者会見なんて大ゲサなことは考えても いなかったんですが、なりゆきで仕方がなかった。高柳君から発表した あと、記者の人たちに質問を浴びせられた。その中で、はっきり印象に 残ったやりとりが二つあります。 「長い棋士生活の中で、なにが一番思い出に残るか」という質問。これ はもう一も二もありはしません。私は即座に答えました。 「名人に香車を引いて勝ったこと。少年時代の夢を実現させたんですか ら」 途方もない夢なんです。名人といえば一世に隔絶した実力者で、対等 に戦って勝つのすら、容易なわざではない。それを香車を一枚落として、 ハンディをつけて勝とうという。常識のある大人がこんなこといったら、 大声で笑ってバカにされるか、気の早いやつは救急車を呼びますよ。病 院に入って頭を冷やせ、いうてね。だが私はこの途方もない夢を抱いて 家出をし、ついに夢を現実にした。いままでだれにもやれなかった、そ して今後も、まず絶対にだれにもやれないだろうことを、この手でやっ てのけた。 (略) 「升田、王将位を獲得/名人を香落ちに指し込む」 昭和二十七年二月十三日、毎日新聞の朝刊は、四段抜きでこう報じた。 第六局は、これから一週間後。その対局場となったのが、神奈川県鶴 巻温泉の旅館・陣屋なんです(略)。 対局通知がきて、第六局は昭和二十七年二月十八、九日、神奈川県鶴 巻温泉の陣屋と決まった。手合いは「香落ち」とはっきり書かれておる。 木村さんを指し込みはしたものの、本当に香落ち番を指すのかどうか、 私は半信半疑でおったんだが。 感無量でした。 「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」 母の物差しの裏にこう書き残し、無断で広島の山奥をとび出して二十 年。大阪に出て将棋指しとなり、将棋界の仕組みがわかってからは、 「名人に香車を引く」なんてことは、あり得ない、成し得ないことだと 知った。その、子供心に描いた無鉄砲な夢が、いま現実のものとして目 の前にある。 大いに得意だったけれど、素直に喜べない気持ちもあった。名人の権 威を傷つけることが、どうしても私にはひっかかった。 この第六局、指さずにすませられるなら、それにこしたことはない。 (略) これだけ叩きのめされながら、すぐ立ち直ってくるんだから、やはり 大山君はタダ者じゃありません(略)。 ── 三十二年の将棋界は、名人が大山君、王将が私、九段が塚田さん と、三つのタイトルを三人が分け合う形でスタートした。塚田さんは四 期続けて九段位を保持しており、三強鼎立の時代といっていい。そして まず九段戦で、塚田さんと私が決勝に進出、七番勝負を争うことになっ た。 第一局は、二月二十四日に東京で行われたんですが、もの覚えの悪い 私が、はっきり対局日を覚えとるのは、この日、母が死んだからなんで す。「ハハシス」の電報は、将棋が終ってから渡された。 対局中、中盤のむずかしい場面で妙に気分がふらつき、おかしな手を 指して負けてしまった。あとで聞くと、ちょうどその時刻に電報が届い たという。この日が遠くないと覚悟しとったものの、いざ現実に知らさ れると、ショックは大きかった。 みんな、口々になぐさめてくれた。その中で塚田さんは、 「ねえ升田君、人が死ぬってのは、仕方ないよ」といった。 無愛想で、口下手な塚田さんとすれば精いっぱいのなぐさめの言葉だ ったんでしょう。塚田さんにとって、私は一番の親友だったから、悪意 のあろうはずもない。だが最愛の母の死に打ちひしがれとる私は、一瞬、 キッとなった。「仕方がない」とはなにごとか、と思った。個人的に親 しいため、これまで塚田さんとの対局では、いくぶん闘志に欠けるうら みがあったんだが、この一言を聞いて、絶対に負かしてやると決心した。 ── 升田 幸三《名人に香車を引いた男 19850420 朝日文庫》P000
関根 金次郎 将棋名人13 18680423 千葉 19460312 77 /慶応 4.0401“近代将棋の父”実力名人 阪田 三吉 将棋名人* 18700701 大阪 19460723 76 /明治 3.0603/急死/籍=坂田 /19130406〜0407 香落戦 vs 関根 金二郎「銀が泣いている」 /1955‥‥ 日本将棋連盟から名人・王将を追贈 http://www.city.sakai.osaka.jp/fureai/henomatsu/nenpu.html ♀阪田 コユウ 三吉の妻 1881‥‥ 大阪 19271119 47 /三男三女の母/1913鉄道自殺未遂 /“小春”は劇中名。臨終で「お父ちゃんは将棋が命や。ど んなことがあってもアホな将棋は指しなはんなや」と云った。 升田 栄一 幸三の父 18‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 カツノ 幸三の母 18‥‥‥ 広島 19570224 ? /栄一の妻 升田 静夫 幸三の長兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 守夫 幸三の次兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 定 幸三の末兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 塚田 正夫 将棋名人 19140802 東京 19771230 63 /日本将棋連盟会長/名誉十段 升田 幸三 将棋名人** 19180321 広島 19910405 73 /193202‥家出/初の三冠=名人王将九段 大山 康晴 将棋名人15 19230313 岡山 19920726 69 /日本将棋連盟会長
── 北条 誠・原作《王将 19‥‥‥ 》坂田 三吉の妻の臨終。 ── 伊藤 大輔・監督《王将 19481018 大映京都》坂東 妻三郎&滝沢 修 ── 伊藤 大輔・監督《王将一代 19551002 新東宝》 ── 伊藤 大輔・監督《王将 19621123 東映東京》三国 連太郎 ── 佐藤 純弥・監督《続・王将 19631201 東映東京》 ── 古沢 憲吾・監督《西の王将 東の王将 19640828 東宝》 ── 杉江 敏男・監督《続・西の王将 東の王将 19650620 東宝》 ── 堀川 弘通・監督《王将 19730519 東宝映画》 奇士列伝 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070215 九段の妻 〜 働かない男 〜 盤寿を迎えた棋士一覧 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050320 三寿 〜 満で傘寿・数えて盤寿・書けば半寿 〜 (20080225)
| 1957年02月04日(月) |
石破家の人々 〜 母方の教え給いし歌 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570204 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570204 Ex libris Web Library;石破 茂 http://plaza.rakuten.co.jp/kihachin/diary/200711030000/ ── 衆院テロ防止特別委員会の質疑中、祈るようなポーズをする石破 茂防衛相(20071031)時事通信社。
金森 繁蔵 肥後郷士 18‥‥‥ 熊本 18‥‥‥ ? /石破 茂の母方高祖父/通倫の父 金森 通倫 “今仙人” 18571002 肥後 19450304 88 /安政 4.0815/同志社長代理/鳥取教会牧師/繁蔵の次男 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html 金森 太郎 通倫の長男 18880616 熊本 19580612 69 /石破 茂の外祖父/徳島県&山形県知事 石破 市造 茂の祖父 1874‥‥ 鳥取 19410119 68 /大御門村長/1942‥‥没 石破 二朗 茂の父 19080729 鳥取 19810916 73 /建設事務次官/鳥取県知事/自治相兼国家公安委員長 石破 茂 衆議院議員 19570204 鳥取 /自民党8期/政務調査会長52/防衛庁長官68-69/防衛相4/農水相49 http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/about.html http://kingendaikeizu.net/seizi/isiba.htm ♀石破 和子 茂の母 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=金森 佳子/太郎の長女(通倫の孫) ♀石破 佳子 茂の妻 196.‥‥ ‥‥ /旧姓=中村 明(昭和電工取締役)の二女/鳥取県防衛協会梨花会会長 ♀石破 奈央子 茂の長女 1988‥‥ ‥‥ /20110401 東京電力入社/早稲田大学政治経済学部卒 http://azuki100.blog65.fc2.com/blog-entry-5328.html ♀石破 佳永子 茂の次女 199,‥‥ ‥‥ /
── ニュース速報+ 20110424 08:48 1001res 194res/h ▽【政治】 自民党・石破氏、長女が東京電力に入社 政治記者「昨年、周囲に 『娘が東電に受かった』と嬉しそうに漏らしていました」★9 http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1303602499/ http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4104737011 ── 石破 茂《国防 20050126 新潮社》 http://booklog.jp/entry?keyword=%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E8%8C%82&index=Books http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070401 日中熱中 〜 いそがしい男 〜 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%A1%C0%D0%C7%CB+%CC%D0 ── 堀内 敬三・訳《我が母の教えたまいし歌 Op.55-4 ジプシー歌曲集》 ── Dvo�・�・k, Anton�・n Leopold《Songs My Mother Taught Me 1880‥‥》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20080822 Triplingual ? 〜 母語・父語・兄語・弟語・姉語・妹語 〜 (20110425)
| 1957年01月25日(金) |
小林家の人々 〜 阪急・東宝グループの閨脈 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570125 https://www.mozilla.org/ja/firefox/new/(Ctrl+F) http://awalibrary.blog.so-net.ne.jp/ | http://twitter.com/awalibrary(ツイッター) http://twilog.org/awalibrary(ツイログ) http://booklog.jp/users/awalibrary(ブクログ) | http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫) http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570125
Ex libris Web Library;小林一族の系図 http://episode.kingendaikeizu.net/4.htm 系図で見る近現代 第4回 松岡修造 家系図 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BE%AE%CE%D3+%B0%EC%BB%B0 ── 《経世済民の男(4)「小林一三」(後編)20150912 21:00-22:00 NHK》 https://twitter.com/awalibrary/status/642672752953049088 …… 阪急電鉄や宝塚歌劇団をユニークな手法で創設し、現在にも通じ るビジネスモデルを作り上げた小林一三。ローカル線を開業させた矢先、 恩師が疑獄事件に巻き込まれ…。放送90年ドラマ …… 阪急電鉄、阪急百貨店や宝塚歌劇団をユニークな手法で創設し、 現在にも通じるビジネスモデルを作り上げた小林一三の生涯をドラマ化。 小さなローカル線を開業させたものの、乗客数は伸び悩み、一三はさま ざまなアイデアを繰り出す。そんな時恩師が疑獄事件に巻き込まれ…。 彼の成功を支えたのは、「こういう暮らしをしたい」という庶民の夢を 的確にとらえる力。最後まで夢見ることを大切にした男の波乱万丈の生 涯を描く後編。 出演;阿部 サダヲ,瀧本 美織,井上 芳雄,矢島 健一,大東 駿介, 星田 英利,神山 繁,奥田 瑛二/原作・脚本;森下 佳子
小林 □□ 一三の父 18‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /生別れ? ♀小林 □□ 一三の母 18‥‥‥ ‥‥ 1873‥‥ ? /旧姓=? ──────────────────────────────── 小林 一三 宝塚歌劇団 18730113 山梨 大阪 19570125 84 /旧暦=明治 6.0103 /阪急グループ創業“今大閣”松岡 修造の曾祖父 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570125 ♀小林 こう 一三の妻 18‥‥‥ 大阪 19‥‥‥ ? /旧姓=丹波 市蔵の養女/芸妓見習? ──────────────────────────────── 小林 冨佐雄 東宝社長 190101‥ 山梨 19571001 56 /一三の長男/池田文庫「小林家文庫」 ♀小林 富士子 冨佐雄妻 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /旧姓=平賀 敏の六女 ──────────────────────────────── 松岡 辰郎 東宝社長 1904‥‥ ‥‥ 19740812 69 /養子入/旧姓=小林 一三の次男/修造の祖父 ♀松岡 節子 辰郎の妻 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /潤吉の長女/1930 結婚 ──────────────────────────────── 松岡 功 東宝社長 19341218 兵庫 /辰郎の子/特技=テニス&ゴルフ/修造の父 ♀松岡 静(葆子)功の妻 19380815 東京 [1957-1962] /芸名=千波 静“しずか” 宝塚星組男役44期 ──────────────────────────────── ♀千波 淳 静の姉 19‥0502 東京 [1955-1969] /旧姓=山本 喜之輔の長女/“千波三姉妹” ♀千波 薫 静の妹 19‥‥‥ 東京 [1962-1965] /旧姓=山本 喜之輔の三女/籍=田中 正子/花組トップスター ♀蘭寿 とむ 1976‥‥ ‥‥ /千波 薫の息子の妻。 ──────────────────────────────── ♀山本 房子 喜之輔の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=?“千波三姉妹”の母 山本 喜之輔 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /東京理化工業社長/松岡 修造の母方祖父 ♀千波 ゆう 薫の娘 19711223 東京 [1991-1996] /芸名=ちなみ/籍=田中 里枝・里衣? ──────────────────────────────── 吉原 政雄 政智の父 19‥‥‥ 佐賀 /パレスホテル会長 吉原 政智 政雄の三男 19‥‥‥ 佐賀 /パレスホテル会長 ♀吉原 とめ子 政智の妻 1903‥‥ ‥‥ /旧姓=小林 一三の長女/政雄の母 ♀小林 智子 節の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=吉原 政雄の長女 小林 節 19450824 福岡 /パレスホテル会長/吉原 政雄の女婿 ──────────────────────────────── 辻 静雄 芳樹の父 19330213 東京 19930302 60 /辻調理師専門学校創設 辻 芳樹 静雄の長男 1964‥‥ 大阪 /辻調理師専門学校校長/松岡 敏子の夫 ♀辻 敏子 芳樹の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=松岡 功の長女 ──────────────────────────────── 松岡 潤吉 修造の養父 1889‥‥ ‥‥ 19510907 62 /松岡汽船社長/北海道松岡農場社長 ♀松岡 千恵 潤吉の妻 19‥‥‥ ‥‥ /修造の養女/旧姓=馬場 松岡 修造 潤吉の養子 19‥‥‥ ‥‥ /同姓同名の高祖父 ──────────────────────────────── 松岡 修造 テニス 19671106 東京 /小林 一三の曾孫/功の次男/辰郎の曾孫 /1988 ソウル 1992 バルセロナ 1996 アトランタ 2002 ソルトレーク五輪 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BE%BE%B2%AC+%BD%A4%C2%A4 ♀田口 恵美子 元キャスター 19660202 東京 /籍=松岡 修造の妻 /ハーバード大学院でジャーナリズムを学んだ。/テレビ東京→フリー 199610月「ワールド・ビジネス・サテライト」19980202 入籍 199905.. 男児出産 ♀松岡 恵 修造の長女 2000.... 東京 /20170330 宝塚合格“華麗なる一族”のサラブレッド ──────────────────────────────── 松岡 宏泰 功の長男 19660418 ‥‥ /東宝東和社長 小林 米三 阪急社長 19090818 山梨 19690210 59 /一三の三男/京都帝国大学卒 ♀小林 敦子 米三の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=伊東 二郎丸(子爵)の娘 ──────────────────────────────── 小林 公一 公平の長男 19591213 大阪 /宝塚歌劇団理事長 ♀小林 喜美 米三の養女 193,‥‥ ‥‥ /辰郎の長女/公平の妻/公一の母/一三の孫 小林 公平 阪急会長 19280224 山梨 20100501 82 /宝塚音楽学校長/喜美の婿/旧姓=三村 称平五男 ── 公文 健・詞/河合 奈保子・曲《Harbour Light Memories 19880721 》 ──────────────────────────────── 三村 称平 君平の子 18‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /小林 公平の父 ♀三村 秋江 称平の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=緒方 収二郎の三女/洪庵の孫 http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11920849663.html 緒方 洪庵 医師、蘭学 18100813 岡山 18630725 52 /文化 7.0714-文久 3.0610 http://keibatugaku.seesaa.net/article/425928205.html ──────────────────────────────── ♀鳥井 春子 サントリー 1911‥‥ ‥‥ 20101001 99 /旧姓=小林 一三の次女/1934 吉太郎の妻 /信一郎の母/佐治 信忠の伯母/20110128 訃報 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19990201 鳥井家の人々 〜 サントリー≠鳥井三兄弟 〜
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ (20150913)(20170406)
| 1956年11月11日(日) |
文化祭のクイズ 〜 やらせとカンニング 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19561111 校庭で、三年生のM君に呼びとめられた。 「きみ、こんどの文化祭で、クイズやるさかい出てくれへんか」 「ぼくは器楽部のステージで忙しいし、それどこやないよ」 「ええから、ちょっと出て、適当に答えてくれたら済むんや」 「他を当たってくれんかなぁ」 「ええからええから、たのむで」とM君は去って行った。 いよいよ当日になって、ステージに引っぱりだされた。 M君のそばに、同級生のR子くんも坐っている。 彼女は「それでは、質問用紙を選んでください」と箱を示した。 分けてくるまれた数本の用紙に「右から三本目!」とささやく。 (なぁーんだ、こういうことなのか) そのとおり選んで手渡すと、M君が読みあげた。 「パパ、こんどの旅は、とても勉強になりました……」 どうやら、モーツァルトの手紙らしい。そこで質問された。 「さて、この手紙は、誰から誰に書かれたものでしょうか?」 (なぁーんだ、そういうことか、パパ・ハイドン宛ての手紙らしい) 「モーツァルトが“ハイドンに”宛てた手紙です」と答えた。 「正解です、モーツァルトが“父親に”宛てた手紙ですね」(あれれ?) 「おめでとうございます」と云って、R子くんが賞品をくれた。 「つぎの方、どうぞ」とM君は、つぎのプログラムに向った。 (なぁーんだ、こういうことだったのか) もちろん、会場の聴衆も無反応で、拍手も野次も聞こえてこない。 M君とR子くんのカップルが属していたのは、英語部だったらしいが、 何のために妙なクイズを思いついたのか、いまもって分らない。 ◇ パパ・ハイドン モーツァルト《弦楽四重奏曲“ハイドン・セット”全6曲》 17821231〜17850114 作曲、ヨーゼフ・ハイドンに献呈(1785出版) 17850115&0212 ハイドンを自宅に招き、全曲または数曲を初演。 モーツァルトはヴィオラを弾いたと伝えられる。 ── 《Wikipedia》 ── モーツァルトは「ハイドン・セット」の出版時に、イタリア語で 書かれた、ハイドンへの深い敬愛の念を込めた献辞の中で、24歳年上の ハイドンに、「わが最愛の友」と呼びかけ、この曲集を「長く困難な苦 労の果実」と述べ、また、この曲を自らの息子にたとえて、ハイドンの 「庇護と指導のもとにあらんことを」との言葉を贈っている。これらの 言葉は大袈裟ではなく、残された自筆譜を見ると、夥しい書き直しの跡 が見られ、また、2曲ずつ同時に作曲を進めつつも、先に書き上げた曲 に手を入れていることから、モーツァルトが試行錯誤しながら、苦労に 苦労を重ねて作曲したことがわかる。 17850114 作曲 モーツァルト《弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465「不協和音」》 ── モーツァルトは1785年1月15日と2月12日に、ハイドンをウィーン の自宅に招き、これらの新曲を披露した。ハイドンはそこで大きな感銘 を受け、同席したモーツァルトの父レオポルト・モーツァルトに「神と 私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは 評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れ た趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と最 大級の賛辞を述べ、モーツァルトの才能を激賞したのである。 ── 《Wikipedia》
(20070721) ◇ カンニング論 この不可解なエピソードは、そのあとの期末試験における、R子くん のカンニング事件につづく。もともと優等生だった彼女が、イタズラの 目的でカンニングして、その行為を咎められたのである。 そのため、その試験問題は採点対象から外され、席次が入れ替わった。 彼女は、カンニングしなくても合格点を取れたのに、当該問題に正解 した何人かが、不合格になる可能性がある。 誰もが首をかしげたが、これという理由は思いつかなかった。 文芸部の例会で、このニュースを知った与太郎は、こう述べた。 「カンニングは、もう一息で合否が決まる、という場合の非常手段や」 さらに「わずかな点差で合否が決まる者のカンニングは、同情の余地 もあるが、わずかな点差に影響されない者のカンニングは、許しがたい」 と発言した。 すでに、もういちど二年生を繰りかえすことが確定していた与太郎は、 優秀な生徒が、いたずらでカンニングするのは、きわどい成績にあえぐ 劣等生の、かすかな希望を邪魔するだろう、と考えたのである。 これを聞いた顧問の“フクちゃん”こと下村先生が、補足してくれた。 「この男(与太郎)も、いささか厳しい立場にあるが、カンニングには 縁がないことは、どの教師も知っている」と与太郎をかばった。 たとえ成績に問題があっても、断じて不正に手を汚していないことは、 職員室でも知れわたっていて、カンニング容認論ではないことを、公に 確認したのである。 ── B=合格点を取って合格したが、本人は(ワイロを)知っていた。 http://q.hatena.ne.jp/1216198728 いちばん悪い受験者は誰か? (20080724-20090219-0816) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display | └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ ◇ 表紙コンクール この合評会は、与太郎のデザインした表紙を自慢するのが主眼だった。 X子の着ていたセーターの色を再現していたのである。 みんな黙っていたが、“フクちゃん”に「瀟洒やなぁ」と評された。 画像=《山脈・第12号 19561012 同志社高校文芸部》 この表紙は(1980年代に)猫が爪を研いだために、破れてしまった。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19831011 母猫物語 〜 ミミの身辺 〜 (20070715) [f:id:adlib:20080724011413j:image] ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ (20070715-20080724-20090219-0818)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19561012
やまなみ 12号 もくじ ノートから………………………辻橋 寛 ……29 未完の自画像……………………高田 幹也…… 7 子等のため………………………下村 福 ……28 古典を読もう……………………富井 康夫…… 2 この頃思うこと、すなおさ……佐倉 昭行……17 行く道……………………………園田 千影……20 ……………………………………………………… 精神病者に関する狂言白書……渡辺 慶子……21 ……………………………………………………… ピエロと雀………………………山本 悦郎……17 ちぎれ雲…………………………中島 勘一……14 詩に終る…………………………石本 義康…… 8 白き人……………………………山本 悦郎……16 二つの姿…………………………内村 公義……23 ……………………………………………………… 高校生の理由××反抗…………達富 吉弘……25 ……………………………………………………… 名月………………………………石本 武久……16 富士登山記………………………和田 和代史…11 秋風………………………………金井 隆市……31 著者紹介………………………………………… 27 編集後記………………………………………… 32 表紙 阿波 雅敏 編集人:笹谷 妙子/金井 隆市/印刷所:和光印刷株式会社 ── 《山脈・第12号 19561012 同志社高校文芸部》新橋色?=エメラルド・グリーン
つぎの作品は、身体障害者に対する差別表現のため「すわ発禁か」と 緊迫したが、事なきを得た。本当の理由は、カンニングに関する記述で あったかもしれない。 ── ノイローゼ人口は一般的に試験ノイローゼが圧倒的な比率を示す が、本校に於ては生徒課ノイローゼがぐっと激増する。我々はカゴの鳥 だと嘆く人も居れば、刑事部屋の如き生徒課と例える人もいる。カンニ ング生をあげるとボーナス出るとかいう風評も流れている。 ── 渡辺 慶子《精神病者に関する狂言白書 19561012 山脈・第12号》P21-23 《山脈・第14号 19571009 同志社高校文芸部》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19571012 文化祭のクイズ 〜 やらせとカンニング 〜 ──────────────────────────────── …… キリスト教を中心として明治の真剣な急進思想が形成されたとい っても間違いではない。時代の良心というべきものは、キリスト教系統 に育てられたものである。 …… 伊藤 整《学生の三代 19530406 日本読書新聞》 「御一新」の期待が空しく敗れた明治の市民階級にとって、キリスト 教こそ、そのレジスタンスの有力なバックボーンであったことを、正し く言い当てたものです。(略) 透谷も独歩も、後には教会から遠ざかりましたし、その信仰の内容も 多くの問題をはらんでいますが、それらのことは、次の機会に譲りまし ょう。 ── 辻橋 寛《ノートから 19561012 山脈・第12号》P29-30 辻橋先生は、もとは床の間が寝台であったこと、藤村の《夜明け前》 で「云ってみせて笑った」という言いまわしが、気取っていることなど、 とても印象に残ったが、漢詩に及んでは、与太郎が息切れしてしまった。 (上京区平野宮北町32)職員名簿(1954-1955)国学院出身 ── 辻橋 三郎(つじはし・さぶろう)1916-1981。元同志社高校教諭。 専攻日本近代文学。主著『近代日本キリスト者文学論』。 http://www.msz.co.jp/book/detail/04910.html 熊本バンド研究【新装版】:みすず書房
辻橋 寛 日本近代文学 1916‥‥ 京都 19810323 64 /籍=三郎/元同志社高校教諭/神戸女学院大学教授(故) http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050923 点鬼簿 〜 与太郎の過去帳 〜 ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ この号の合評会は、与太郎のデザインした表紙を自慢するのが主眼で、 X子の着ていたセーターの色を再現していたのである。 みんな黙っていたが、“フクちゃん”に「瀟洒やなぁ」と評された。 《山脈・第14号 19571009 同志社高校文芸部》 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570414 表紙画の女たち この表紙は(1980年代に)猫が爪を研いだために、破れてしまった。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19831011 母猫物語 〜 ミミの身辺 〜 >> 新橋色≠エメラルド・グリーン ── ケータイが色を教えます、色覚障害の富士通社員ら開発 赤と緑などの色を区別することが難しい色覚障害の人に、ケータイが 色を教える――。カメラ付き携帯電話を使って、200種以上の色の名 前を簡単に判別できるソフトを富士通が無料公開している。自らも色覚 障害のある社員が開発にかかわった。 このソフトは「カラーアテンダント」。ソフトを取り込んだ携帯電話 の内蔵カメラで、色を知りたい対象を撮影すれば、「明るい緑」などの 文字や数値、グラフが表示される。 一部機種には色の名前を音声で読み上げ、色の違いを携帯電話の振動 で表現する機能もある。「新橋色」「マルーン」といった色彩の専門家 が使うような色を判別したり、絵の具の配合率を解析したりする使い方 もあり、美術の授業などにも活用できそうだ。 開発リーダーを務めた富士通デザインの吉本さん(33)は盲学校 (現・視覚特別支援学校)を卒業後、大学で物理を学び、03年に入社 した。重度の弱視で色覚障害もある。「情報技術(IT)を利用して障 害者の支援ができないか」と考えてきた。 色を判別できる専用装置は市販されているが、持ち運び負担などを課 題に感じたため、使い慣れた携帯電話で手軽に色を見分けることができ ないかと考えた。 現在、ソフトはNTTドコモの富士通製の一部機種で「@Fケータイ 応援団」から無料でダウンロードできる。 去年9月に公開後、約1万4千件ダウンロードされた。吉本さんは 「多くの方に使ってもらい、意見を聞いて改良していきたい」と話す。 ▼asahi.com http://www.asahi.com/national/update/0218/TKY200902180148.html ▼水色と緑色の間のような「新橋色」を表示した携帯電話の画面(画像) http://www.asahi.com/national/update/0218/images/TKY200902180161.jpg ▼「障害は自分の強みです」と話す吉本さん(画像) http://www.asahi.com/national/update/0218/images/TKY200902180162.jpg ▽関連スレッド 【携帯電話】えっ、ホント!? “鼻づまりが解消される”着信音が登場 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1234935487/ << (20070715-20080724-0727-20090219-0507) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 [f:id:adlib:20080724011413j:image]
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