与太郎文庫
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| 1955年08月26日(金) |
ロックン・ロール 〜 ハイファイ装置 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550826 この夏、オンキョーの12インチ、ダブルコーン(ツィター付)購入。 最初のレコード(78回転)は、なぜか父が買ってきたものだ。 ── 《暴力教室 19550826 America》 ── 1955年5月映画「暴力教室 Blackboad Jungle」が公開され ました。監督&脚本はリチャード・ブルックス。社会派の監督として、 後に「冷血」や「ミスター・グッド・バーを探して」などを撮る実力派 です。主役の教師役にはグレン・フォード。反抗的な生徒たちのリーダ ー役にシドニー・ポワチエは、他にヴィック・モローやポール・マザー スキー(映画監督)も出演していました。あえてリアリティーを出すた めに白黒で作られたこの作品は今見てもなかなか良くできた作品です。 この作品は教師と不良学生が対決する学園ドラマの原点であると同時に ロック・ナンバーをテーマに用いた最初の映画でもありました。 <ロック・アラウンド・ザ・クロック> 実は「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、シングルのB面とし て1954年すでに発表されていましたが、まったくヒットせづに終わ っていました。しかし、この映画のテーマ曲として使われ再発されたと たん、この曲は大ヒットを記録したのです。「ロック・アラウンド・ザ ・クロック」にとって、映画「暴力教室」は、長尺のミュージック・ビ デオの役割を果たし、それ自体が「ロックン・ロール」という音楽自体 のイメージ・ビデオとなって社会全体に強烈なインパクトを与えること になったのです。 この映画が公開されると、映画館では若者たちが通路で踊り出したり、 暴動が起きるなど、それまでになかった「若者たちの反抗」が噴出。全 米で問題視されるようになりました。 さらにこの年には、エリア・カザンの名作「エデンの東」と「理由な き反抗」が公開され、翌年、遺作となった「ジャイアンツ」を残してこ の世を去ることになる永遠の青春スター、ジェームス・ディーンが登場。 さらには真打ちとも言えるエルヴィス・プレスリーが登場、彼は歌だ けではなくダンス・パフォーマンスや生き方も含めて、すべての面で黒 人音楽を自分のものにしており、白人青年の新しい文化を見事に体現す る存在として活躍することになります。では、元祖ロックン・ロール・ ヒーローこと、ビルの活躍はどうだったのでしょうか?残念なことに、 彼がエルヴィスのライヴァルになることは、ちょっと無理でした。 http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/1955.htm ロックン・ロールの先駆けとなったおじさん ◆ 理容室ワダ・倉敷(岡山) ── 床屋さんと言うより、JBL館と言ったほうが早いお店。明日の仕 事を前にリフレッシュしたかったので久し振りに訪問する。 このお店を初めて訪れたのは約25年前、カミさんの実家を訪ねる前に 散髪をして行こうと立ち寄った。もちろん店の中にJBL Paragon(パラ ゴン)が置いてあることなどまったく知るはずもなく、店内で流れてい るJazzも有線放送だと思っていたが、顔を剃ってもらった後、奥の壁に 目をやると天井近くにパラゴンが填め込まれている。あまりの凄さに言 葉も出なかった。当時、スピーカーに凝りだしたときで自分でデザイン したフロントロード・エンクロージャーを秋葉原のスピーカー専門店に 作ってもらい、FOSTEXのフルレンジとスーパーツィーターを使った箱で 聴いていた。最高のシステムで音楽が聴ける自分の仕事場が夢だったが、 フラッと寄ったこの店でその夢が砕け散った(^_^;。 その後しばらく足を運ぶことがなかったが、駅前三越閉鎖と共に無く なるのではと思い久しぶりに訪れた。20年以上過ぎていたが天井近くに 置かれたパラゴンは健在で、その床には驚くことに名器Hartsfield(ハ ーツフィールド)が左右にドッカリと据えられている。元来モノラル再 生用に制作されたハーツフィールドをステレオ再生のために探し求めて ペアにしたということだが、開いた口がふさがらないm(_ _)m。値段は 聞かなかったが片方のスピーカーだけで、普段Power mac G5に繋げて鳴 らしているJBL Creatureがおそらく100個以上買えてしまうのは間違い ない(^_^;。 散髪が一段落した後でワダ氏とスピーカーとジャズ談義をしながらパ ラゴンとハーツフィールド でサウンドチェック。結論を言えばハーツ フィールドの勝ち。何とも形容しがたい甘く艶やかな音色で、音楽を聴 いて背筋が寒くなったのは本当に久しぶりだ。50年代ベストの音を50年 代ベストの機器で聴くことが出来る贅沢な環境。どうしてこれほどのス ピーカーを水を扱うような環境に置いているのか不思議だったが、彼と の会話の中で明らかになった。これを書くと長くなりそうなのでまたの 機会にします。 ちょっと気になったのは高齢となったワダ氏の知人が「もう音楽を聴 くパワーが無くなった」という理由で置いていったSANSUI SP-LE8Tの箱。 うーん、我が身もそれ程遠くない気がする...m(_ _)m。 散髪料¥3800。頭はスッキリとジダン風にしてもらった(^_^;。 http://homepage.mac.com/kohatchan/iblog/C1065646230/E20060722233216/index.html Kohatchan Liblog > Information >(20060719) http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040226 遠来の人々 〜 炭屋の客 〜 (20071130)
| 1955年08月24日(水) |
オカンとマンマ 〜 森永砒素ミルク事件 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550824 http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities http://twitter.com/awalibrary http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19550824
Ex libris Web Library;森永ドライミルク http://shibugaki.jp/showa/cat35/cat36/ 原告団長、中坊公平の講演より。 わたしは、ほとんどの被害者の家庭を訪問したが、おおくの母親は、 あたかも自分が、安物の粉ミルクを選んだことに後悔していたという。 おなじ森永でも、ゴールド・ミルクには混入されていなかったのだ。 ある母親は云う。「わたしは、この子が生きていくために必要な言葉、 一つは母を“オカン”もう一つは飯の“マンマ”を教えました。 この子は、家にいるときは決して泣かなくなりました。 ところが、ある日、この子が帰ってくるなりわたしにとりすがって、 涙をうかべているんです。どないしたん、いじめられたんか、と聞くと、 “アホウ”と云うたんです。一度も教えてない三つめの言葉を……。
森永砒素ミルク事件 19550824〜19740427(死者113人) 19550824 厚生省が森永乳業徳島工場製造の粉ミルクの使用禁止を通知。 19700615 森永側の弁護団が初めて原因が粉ミルクであったと認める 19731223 恒久救済策で合意 19740423 財団法人「ひかり協会」設立 1211 財団法人「いしずえ」設立(サリドマイド訴訟) ──────────────────────────────── 中坊 忠治 弁護士 189809‥ 京都 19‥‥‥ ? /〜追悼集《中坊 忠治と富》 中坊 公平 弁護士 19290802 京都 20130503 83 /日弁連会長/20031010 引責廃業 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C3%E6%CB%B7+%B8%F8%CA%BF
http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htm 事件史年表 20130505【知】中坊 公平「正面の理、側面の情、背後の恐怖」の出典は? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10106784695 テレビなら番組名と年月日、書籍なら題名と出版社、そのまた原典を。 (20050225-20091018-20140603) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
| 1955年08月03日(水) |
ぶァいおりん 〜 入道雲がうらやましい 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550803 Letters to Mr.Saitoh,Ryohtaroh from Awa,Masatoshi 20060219-0220 カラーコピーで(半世紀ぶりに)返送されてきた。 (この項、未完) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Let'19540101 to □□□□□□□□□□□ 斉藤 良太郎 君 謹賀新年 もろともに いや健やかに いや栄に くらしまほしく 祈る初春 正月元旦 京都市□□□■□□□七十二 阿波 雅敏 ──────────────────────────────── 四書体混在(父の楷書と行書、雅敏の隷書と草書)を孔版で配した。 「くらしまほしく」が芝山先生の歌であることを知ったのは半世紀後。 ── “いやさかに くらさまほしく” 母が訂正していました。 (正しいかどうかは知りません)── 五十二年後、良太郎君の添削? ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Let'19550101 to □□□□□□□□□□□ 斉藤 良太郎 殿 年賀状「正月である 阿波 雅敏」差出人住所は無記入。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Let'19550803 to □□□□□□□□□□□ 斉藤 良太郎 殿 暑いな/もりもりした/元気の/入道雲が/うらやましい カット・構成 MASATOSHI AWA ◆(航空便はがき) 今年の暑中見舞はこんな調子や。君のは「暑中御舞見申上げます」に なっていた。逆立ちして書いたのと違うか。山脈の代金はアレをあノま ゝ受取ったら僕はサギ師になる。ご近所の立命大生に六法全書を貸して もらってとくと御照覧アレ。ぶァいおりん昨日仕入れた。他ノ楽器はす ぐ慣れて面白うないのでぶァいおりんにしたらこんどは思い切り難かし い。先生についたら何とかなるやろけど、俺の趣味に合わんので一人で ギシギシやている。一年たって「ハトポッポ」ができなんだら二ツに折 る意気込みや 縦笛・横笛はかるく卒業、二年になったらクラリネット をやるつもりや。しかしベンキョウもするぞ。(但し、今日に至るまで 宿題は何一つやってへんのや)サヨナラ ■□□□ ヨコノヘタズキ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Let'19560101 to □□□□□□□□□□□宮垣町95 斉藤 良太郎 どの (↑表 →裏)19540101 にせ郵便(偽造?) □□□□□□□(どちらに消印が押されるで町)阿波 雅敏 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ↓=Non-display><↑=Non-display ──────────────────────────────── 作成日: 2006/02/22
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550730 http://d.hatena.ne.jp/images/diary/a/adlib/1955-07-30.jpg Let'19550802 from Mr. Katoh, Nobuo 拝啓 酷暑の折ですが毎日を勉強やレクレーションに有意義にお送り のことゝ思います。扨て先日理化学館が不慮の火災で焼失しましたこと はご存知のことゝ思いますが、原因については新聞では科学部員の実験 の不始末と報道していますけれども実は取調当局に於ても未だに不明と 申しております。 尚新学期より理科の授業に必要な薬品機械器具を至急購入の上 生物 教室を中心として行なうよう万全の措置を考えております。更に恒久対 策として鉄筋耐火性の本格的な新理化学館の建設を計画し、近く着工の 運びに移そうと努力しておりますから安心してこの休暇を暮して下さい。 七月三十日 同志社高等学校校長 加藤 延雄 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20020301 ろくなやつなし 〜 理科教室の四悪人 〜 (19550802 消印 20071221)
| 1955年07月28日(木) |
静と動 〜 ソニーの両輪 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550728 http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities http://twitter.com/awalibrary http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19550728 Ex libris Web Library;Sony TR55 http://autofocus.sakura.ne.jp/data480/ad_html01/ad_0046.html 雑誌広告《トランジスタ ラジオ 1955‥‥ 東京通信工業》 …… 大卒初任給が約1万円だった時代に,価格は1万8900円でした。 ソニーに問い合わせたところ,マスコミ向け発表会は1955年7月28日に 開かれたようですが,発売日までは特定できませんでした。(枝 洋樹) http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL_LEAF/20050805/107391/
井深家の人々 井深 太 ソニー創業 19080411 栃木 東京 19971219 89 / /194510‥ 日本橋の旧白木屋店内に「東京通信研究所」設立/194605‥ 設立 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%B0%E6%BF%BC+%C2%C0 前田 多門 文部大臣 18840511 大阪 19620604 78 /194605‥ ソニー社長 1 ♀井深 勢喜子 太の元妻 191,‥‥ ‥‥ /旧姓=前田 多門の次女/陽一&神谷 美恵子の妹/実父の没後離婚 井深 亮 太の長男 193,‥‥ ‥‥ /── 井深 亮《父井深大 1998‥‥ ごま書房》 http://radiance4u.jp/tag/%e4%ba%95%e6%b7%b1%e4%ba%ae/ ♀井深 多恵子 太の次女 194,‥‥ ‥‥ /知的障害〜《ソニー太陽 19780114 大分》 http://www.sony-taiyo.co.jp/ 盛田家の人々 盛田 久左ヱ門 第14代 18‥‥‥ 愛知 19‥‥‥ ? /造り酒屋「子の日松」/昭夫の父 盛田 昭夫 第15代当主 19210126 愛知 19991003 78 /ソニー創業者のひとり。久左ヱ門の長男 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C0%B9%C5%C4+%BE%BC%C9%D7 ♀盛田 良子 昭夫の妻 19‥‥‥ ‥‥ /旧姓=亀井 豊治(三省堂書店創業者一族)の四女 /新収蔵−盛田 良子コレクション〜パウル・クレー《山への衝動 1939‥‥ 》 http://www.momat.go.jp/Honkan/permanent20101023.html 盛田 英夫 第16代当主 19520217 ‥‥ /昭夫の長男(英粮)/芦屋大学卒/CBS・ソニー入社。エピック・ソニーを経て、レイケイ社長、盛田株式会社社主、ジャパン・フード&リカー・アライアンス会長、財団法人鈴渓学術財団理事長、財団法人盛田国際教育振興財団専務理事、盛田トラスティ プレジデント。 ♀岡崎 友紀 女優・歌手 19530731 東京 /籍=友紀子/201007.. 第22回参議院議員通常選挙で落選 /1978‥‥-1981‥‥ 盛田 英夫の妻/1986‥‥-2005‥‥ 岩倉 健二(ミュージシャン)の妻 盛田 昌夫 昭夫の次男 19540904 ‥‥ /ジョージタウン大学卒、モルガン銀行を経て、1981 ソニー入社。ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)社長、ソニー業務執行役員常務を歴任。20050622 ソニーのブランド・クリエイティブセンター担当SVP(シニア・バイス・プレジデント)、2009年6月24日よりソニー・ミュージックエンタテインメント会長、同年0630 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント代表取締役。 盛田 宏 19570508 ‥‥ /198003‥ 慶應義塾大学経済学部卒、盛田株式会社入社。イズミック社長、盛田エンタプライズ社長、ココストア社長、盛田甲州ワイナリー社長、盛田金しゃちビール社長、敷島製パン副社長。 盛田 和昭 昭夫の実弟 19230305 ‥‥ /久左衛門の次男、兄に代わり盛田株式会社を継ぐ。イズミック会長、盛田エンタプライズ会長、盛田株式会社顧問、盛田金しゃちビール会長、敷島製パン相談役、盛田アセットマネジメント名誉会長、ソニー特別顧問。 盛田 正明 昭夫の実弟 19270529 ‥‥ /東京工業大学電気化学科卒、東京通信工業(現ソニー)入社。ソニー副社長、ソニー・アメリカ会長兼CEO、ソニー生命保険会長を歴任。日本テニス協会会長。 盛田 善平 太助の五男 18631207 愛知 19370224 73 /分家の家業(造り酒屋ヤマイヅミ・盛田)を廃し、1892 カブトビール(丸三麦酒)製造・販売の他、小麦粉の製粉業の後、1919 敷島製パン創業。1918 愛知県会議員。 中埜 又左衛門 第 4代 1854‥‥ ‥‥ 1895‥‥ 41 /ミツカン酢。盛田家(分家)から中埜家に養子。善平(おじ)とともにカブトビール(丸三麦酒)創始/4代目より中野姓から中埜姓に ──────────────────────────────── 盛田 □□ 昭夫の甥? 196,‥‥ ‥‥ /199902‥ 高嶋 知佐子の夫/ソニー創業家一族の会社員 ♀高嶋 ちさ子 Violin 19680824 東京 /籍=盛田 知佐子 盛田 □□ 200702‥ ‥‥ /知佐子の長男 盛田 □□ 200905‥ ‥‥ /知佐子の次男 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19640824 高嶋家の人々 〜 悲劇を乗りこえて 〜
…… 立石義雄の同級生・清浦圭明の曽祖父は、子爵・総理大臣の圭吾 である。義雄の父は、熊本中学五年のころ進学相談のため会見している。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910112 OMRON 〜 立石家の人々 〜 …… かつて立石電機の創業者は、弟の勤める大丸百貨店の軒先を借り て、新案のズボン・プレッサーなどを大道香具師のように売っていた。 それがのちに西のソニーと並び称される大企業に成長して、三男坊が 私立高校に進んだら、大丸の二男坊が古文を教えていたのだ。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070114 恩師の初任給 〜 学校商法入門 〜 …… 大丸の軒先を借りていたという創業者の御曹司(三男)は、その 母屋の御曹司(二男)に、声をひそめて、こんなことをささやいた。 「こんど、×××と合併するかもしれへん」 「へえー、ほんまか?」 一介の高校教師ではあるが、もとをただせば由緒ただしい商人の血が さわぐと見えて、フクちゃんは思わず身をのりだす。 「ほんなら、出資比率はどうなる?」 [ウチが、51パーセントらしい」 「えらいこっちゃ、社名はどうなるんや?」 「それは、たぶん……」(この話は、成立には至らなかったらしい) 母屋と庇の、こんなやりとりを(株に熱心な)母が聞いたら仰天する だろう、と与太郎は思った。 母の故郷で、株屋に勤めているという遠縁の者が、とつぜん電話をか けてきたという。「トーツー」という聞いたこともない会社の株を、今 すぐ買うようにすすめたが、当時のことで長距離電話は聞こえにくい。 「なんや、なんの会社やて?」母は笑ってとりあわなかった。 これがのちの「ソニー」であることは、よほど経ってから知ったらしい。 ── 阿波 雅敏・編《虚々日々 20001224 阿波文庫》母屋と庇 P62 (20130117)
| 1955年07月11日(月) |
読後の感想を語る会 〜 芥川 竜之介 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550711 〜 芥川 竜之介・作《杜子春/カッパ/くもの糸》 〜
語る人 司会 松浦 和郎 (発言順)先生 高島 春江 古荘 雅巳 小屋 浩子(図書室) 卒業生 内村 公義 河原 満夫 阿波 雅敏 3C 清水 隆史 3A 和田 和代史 3A 松田 忠興 3B 今村 昌義 3B 北村 富三郎 3C 竹内 康 3C 今井田 豊 3D 和沢 滋義 2A 井上 健次 2B 加藤 英男 2D 山本 邦彦 速記者 3D 北川 禎三 3E 宮武 恒夫 2C 山崎 辰己 2E 長尾 順之
◆ 仙人になりたい! 司会 ではさっそくですが「杜子春」についての感想をどしどし話し合 って下さい。 清水 僕は別にひどくうたれたということはない。杜子春と普通の人間 とは違うと思う。普通の人なら最後に、仙人になりたいと云わな いで、又金持にして欲しいと云うと思います。 高島 その事をとり上げて話し合っては……。 竹内 文にも出て来る様に、二度も金持になったのでぜいたくにあきた のだと思います。 内村 清水君がいわれました様に、二回も金持になってこんどは仙人に なりたくなるのは、人間はある一つの事に満足しないで、その上 の物を求める、自分を金持にした仙人になりたいと思ったのです。 これは杜子春の欲望であり、一般の人間の持っている欲望でもあ ると思います。 高島 もう一つ上の欲望を求めたのですね。 清水 彼の父母が生きていたら、仙人になりたいという気はおこさなか ったと思うのです。杜子春が仙人になりたくなったのは人間が薄 情であったからで、これは芥川の心の表われで、心から社会を批 判している。 和田 金持になってもすぐぜいたくをするのは杜子春がしっかりしてい ないからです。杜子春に不足していたものを、杜子春が最後に悟 っています。 ◆ 「お母さん」と云ったこと 高島 作者は幸福の要素をどこにおいているかが問題ですね。仙人にな るということも一つの要素ですね。 和田 人間はやはり人間らしい生活をすることが一番幸福ではないでし ょうか。仙人になることでもなく。 司会 では作品の中心になる所について、先ず中心はどこにあると思わ れますか。 加藤 それは「お母さん」と呼ぶ所と思う。 和田 僕は最後に杜子春が「何になっても人間らしい生活をする」とい う所であると思います。 北村 僕もそう思います。 和沢 僕は中心が二つあると思います。その一つは母の愛情、もう一つ は幸福の要素と人間の生活。 今井田 僕は地獄の所と最後のところ。 竹内 杜子春が幸福を求めて仙人になろうとしたがなれず、最後に人間 らしい正直な生活をするのが大切だと感じる所。 司会 他に何か中心問題について。 竹内 人間らしい生活ということは、正直な生活であるが、前の方を読 んでも何も杜子春が不正直であったとは書いてないが……。 阿波 人間らしさは、正直の他に愛情がある。愛情にはいろいろな意味 がある。 竹内 僕もそう思う。父母の言で仙人になろうと思う気持を改め人間ら しい生活をしようとするようになった。 高島 話を聞いていると母の愛情によって杜子春の心の目がさめた。杜 子春のエゴイズム(たとえば金持になっての支配、仙人による権 力を求める)が、「お母さん」と呼ぶクライマックスで、愛情に よって目醒めたのですね。 清水 人間はどたん場に来れば本当のことを云ってしまう。「お母さん」 と云いいたければ、どうおさえてもおさえ切れない。 阿波 結局純粋になる事だと思います。 ◆ 結末についての批判 阿波 私は杜子春が人間らしい性質にかえってからの文章(特に結末) に物足りないものを感じますが。 和田 「禁じられた遊び」ででも何か中途で終った様な感じでしたが、 この物語もこの後の杜子春の生活については、作者は読者に考え させようとしているのではないでしょうか。 今村 あともっと続けると、この物語の中心がぼけるので後は読者の考 えにまかせてあると思います。 高島 だから後はなくてもいいというわけね。しかも短編であるからそ れて目的を達したという所ね。 阿波 僕がもしこの本を書いたら最後の「桃の花のさく家を杜子春に与 えた」という所ははぶきます。この事が意味することは人間ばな れのした生活をする事だと思う。それよりも杜子春をもう一度人 間の世界にほりこんで人間の生活をさせる方がよい。それで最後 はいらない。 竹内 僕も今の阿波君の意見に賛成です。杜子春は最後には精神的に幸 福ではあるが、はたしてそれだけで安楽な生活ができるかどうか 疑問だと思います。「人間らしい正直な生活をする」という所で 切るほうが、最後をつけるよりも力強い感じがしますね。 高島 もう一度人間の世界にほりこむのね。 竹内 杜子春を再び人間の社会にもどすということは歴史の流れの中に もどすことだと思いますが、人間は生まれながらに歴史に属して いるのですから、もう一度社会にもどすことは必要なことと思う が、このままだと何だか空想的で現実性が乏しいと思います。 松田 人間らしさという事の一つに、愛情ということがありますが、杜 子春がもう一度人間社会にもどって愛を広めるという結論にもっ ていけばよかったと思いますが……。 内村 杜子春は精神的には安楽だが、だからと云って生活そのものが安 楽なものとは限らない。もし精神的に幸福な事が安楽な生活とい うことに通じるなら、この物語は物足りないと思う。再び社会に 出て苦労をしていくところに良い所があるのではないのですか… …。 ◆ 人間の姿は? 高島 愛情を持った人間の姿が人間本来の姿か、それとも薄情で利己的 なものが本来の姿でしょうか。 北村 愛によって生きていくのが人間本来の姿で、欲望が多い人間は普 通の人間と思う。 和沢 人間は何かの動機(きっかけ)がある迄は欲望の多いものである が、やはり本当の姿は「お母さん」といった心だと思います。 今村 僕も人間の本当の姿は生まれた時から持っている良心を生かした 人間、これが人間本来の姿だと思いますが。 高島 仙人が『「お母さん」といわなかったら杜子春を殺した』と云っ たのは何を覗わしていますか。 和田 作者の云いたいことは利己的な考えを持っていた杜子春が、母の 言葉で本当の人間の姿にかえるということを、強調したかったの ではないかと思いました。 加藤 杜子春が「お母さん」という場面は、杜子春が愛情と物質のどち らかをきめた場面だと思いました。 今井田 最後の方の文章は「お母さん」と呼ぶ場面を強調するために持 ってきてある。 ◆ 他の作品について 司会 では芥川の他の作品とか特長について。 竹内 「かっぱ」等代表作品の一つですが、杜子春とは全然違った味の ある作品です。 阿波 「芋がゆ」「くもの糸」等非常に興味深く読めます。 河原 杜子春も受けとり方がいくらもあって非常にむつかしい。 和田 芥川の作品一つ一つは、非常に深く社会を観察していると思う。 竹内 彼自身は自分が持っているのは神経だけだといっているが、そう いう所が芥川の特長となってあらわれている。 内村 芥川の初期−中期の作品にはエゴイズムをあつかったものが多い。 羅生門・鼻・杜子春がそうである。羅生門の、生きていくために は人をも殺すという考え方は、現代の人にも通じると思う。 北村 芥川は社会を文章で表現している。社会の良い点も悪い点も知り つくしている。 高島 芥川の多くの作品が出ましたが、読書会に、自分がまだ読まない 作品が出て、それらに興味を感じ、それを機会にその作品を読ま れるならば、読書会の目的は十分はたされることになります。 司会 ではこの辺でおわりたいと思います。どうもありがとうございま した。 ── 《図書室便り・第七号 19550711 同志社中学校図書委員会》 ──────────────────────────────── 仙人願望 〜 四十一年後の対話 〜 「僕も今の阿波君の意見に賛成です」この日はじめて口を利いた後輩の 中学生・竹内君が、東京栄転以来二十五年ぶりにNHK京都放送局長と なって故郷に舞いもどったことを知って、電話をかけた。 「お元気ですか? 今、どうされてますか」 「ボクはね、いまや仙人になってしまった」 「でも、カスミを食ってるわけではないでしょう?」 「みんな信用しないらしいが、食ってみるとこれが中々のものなんだ」 「相変わらずだなぁ」 ( Let'199606.. 参照 )
| 1955年06月06日(月) |
山脈 〜 やまなみ縁起 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550606 画像=やまなみ in Excel(表紙一覧) 《山脈・第01号 195106‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第02号 195110‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第03号 195206‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第04号 195210‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第05号 195306‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第06号 195310‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第07号 195406‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第08号 195410‥ 同志社高校文芸部》 ──────────────────────────────── 《山脈・第09号 195506‥ 同志社高校文芸部》 《山脈・第10号 195510‥ 同志社高校文芸部》岩倉 明(表紙)欠本 《山脈・第11号 195606‥ 同志社高校文芸部》欠本 《山脈・第12号 19561012 同志社高校文芸部》新橋色?=エメラルド・グリーン 《山脈・第13号 19570620 同志社高校文芸部》 《山脈・第14号 19571009 同志社高校文芸部》文化祭のクイズ 幸あらむ 《山脈・第15号 19580625 同志社高校文芸部》無情について 《山脈・第16号 19581010 同志社高校文芸部》はばたき(19580921) ──────────────────────────────── 《山脈・第17号 19590629 同志社高校文芸部》中西 宏(表紙)Let'1959‥‥ 《山脈・第18号 195910‥ 同志社高校文芸部》中西 宏(表紙)Let'1959‥‥ ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ ── 表紙コンクールは、その年の秋“高校文芸誌の表紙コンクール” という思いつきに発展し、全国の高校文芸部に呼びかけている。 与太郎の担当する表紙を、ことさら自慢するだけに終わったが……。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570414 表紙画の女たち (20090429-0506)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550605 >> 名人芸 高校では、新聞部やホザナ・コーラス、さらに文芸部から勧誘された が、どれも気がすすまなかった。新聞部については、すでに中学時代に 興味が尽きていたこともあり、上級生の勧誘も熱意が感じられなかった。 ホザナ・コーラスの指揮者、中堀愛作(美術)教諭に「合唱コンクール のキミはすばらしかった、ぜひ聖歌隊で活躍してもらいたい」とおだて られ、きれいな女の子も少なくないから心が動く。しかし、どうせなら 男声合唱団(枯木コーラスは失敗したが)を結成して、ふたたび指揮台 に立つ野望もある。その場合、ホザナ・コーラスの現役数人をひっぱり こむことになるので、態度を保留しておく。 文芸部は、中学の内藤季雄(国語)教頭の強い推薦があったらしく、 数人の上級生が入れかわり説得にあらわれた。それぞれ秀才らしいが、 いまひとつ地味で活力がない。しかし、彼らはあきらめなかった。 鎌尾武男(美術)教諭の推挙によって、掲載号の表紙も描かせると いう条件に加えて、岡谷清子(現代文)教諭を通じて原稿を依頼する という両面作戦をひねり出したのである。 与太郎は、職員室に呼びつけられた。 「アンタなら、入学の感想文くらい、すぐ書けるでしょ」 「すぐには書けません、なにしろ名人芸ですから」 「フン、名人芸ネ。読むのが楽しみやネ」 与太郎の思いあがりは、たやすく岡谷先生の手玉にとられていた。今 まで誰も書かなかったテーマとスタイルを開発しなければならない。 通学電車を待っていると、向い側のプラットホームから、中堀先生が なにごとか叫んでいる。両手をメガホンにしているが、聞きとれない。 「なんですか?」与太郎の方から近づくにも、電車の時間が迫っている。 とつぜん先生は、プラットホームから線路に向って身を投げる。だが 何といっても御老体であるから、もんどりうって転んでしまった。 まわりの生徒たちが助けおこしているところへ、与太郎も馳せつける。 「ダイジョーブ、大丈夫」先生は、元気に起きあがって与太郎に伝えた。 「キミの、《山脈》の表紙はすばらしかった」(なんだ、そんなことか) 「あれは、写生したのかね、それとも想像で描いたものかね」 「夜中に、描いたんですけど」 「そうか、たいへんよく描けていたので、ひとこと誉めようと思ってね」 先生の意図は他にあるにちがいないが、ともかく絶賛された。 しかるにこの掲載号は、表紙の題字が無断で差しかえられ、編集後記 も勝手に改竄されている。三年生・狩野光市君の独断らしいが、本文は 無傷だったので黙殺することにした。もともと招待作家の気分である。 与太郎は、抵抗のポーズとして、ひそかに断筆し、卒業までの七号分、 表紙と後記だけを担当した。そして最後の論文《予算会議の反省》は、 学校新聞に寄稿している。 (Day'19870506-19981209-20000714) << 数日後、金谷先生から封書が届き、全作品のくわしい論評が書かれて いたが、問題の二作品については、エッセイ・随筆の分野であるとして、 除外された。文芸作品にあらず、とみなされたものか。(Day'19990104) その後、岡谷先生には芥川龍之介《鼻》の出題で模範答案を、さらに 夏休み課題《自叙伝〜教え子の消息》でも最高点を獲得する。 “フクちゃん”こと下村先生の語録は、同僚教諭に関するものも多い。 …… 一九六〇年に北京人民大会堂で郭さんにあったとき、わたくしは 「漢字は将来どうなりますか」とたずねた。郭さんは即坐に「永遠に保 存される」とこたえられた。わたくしはかさねて「どこで保存されます か」とたずねると、郭さんは「博物館で」とこたえられた。 ── 倉石 武四郎《漢字の運命 19520410-19730710 岩波新書》P189 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070101 フクちゃんいわく、岡谷先生こそは紫式部と魯迅を原文で素読できる 達人であって、北京語の会話もできるという。 「名人芸ですから」などと吹いた手前、いまさら題名の語義を問えば、 こんどこそ鼻で笑われそうなので、いまださしおく。かわりに、小学生 以来の疑問である「貧者士之常」(のちに長岡藩々訓の一節と判明)に 関する質問をした。先生は即答して、漢文には「者」に「誰某」の意味 がないケースがあるという(英語の関係代名詞のような機能か)。 それなら「貧しきは武士の常」と読みくだせば、意が通るのである。 岡谷先生が、女性にしては手が大きい、と見えたのは実は弓道の達人 であり、中学の高島先生がナギナタであったことから、いずれおとらぬ 文学烈女として対比すれば、かたや有情の人であり、かたや無常に立つ。 岡谷先生は、戦後の漢字教育を憂慮した京都支那学派・倉石武四郎を 尊敬し、いまや漢字の運命はパソコンの未来に委ねられている。 >> 発禁始末 〜 背後の群像 〜 発刊直後の文芸部合評会では、だれも発禁など予想していなかった。 三年生の鳥井雅子嬢に「するどい文章ね、題名はどうして決めたの?」 と尋ねられ「字引の“感想”のとなりに載ってたから」と答えると、 「こわいみたい!」といわれた。 文芸部長の下村先生は、三つのポイントを挙げて「この作者は、まず 一種のポーズをとっている。これを完成された文章力でカバーしている。 したがって、この作者は将来マンネリに陥るであろう」と講評された。 なぜマンネリに陥るのか、ふしぎな三段論法だが、反論はしない。 このとき先生は、諫争の語意を「争いを諌める」と説明されたように 記憶する。しかしそれでは、二者の争いを第三者が仲裁するようにとれ るので、本文にそぐわない。 左伝によれば、単に「死を覚悟して諌める」とあり、広辞苑でも「面 と向って諌めること。あくまでも強く諌めること」というふうに、争い の語意はふくまれない。おそらく「諌めるために争う、諌めかつ争う」 と解釈され、論争=論じて争う≠争いを論じる、の用法であろう。 そしてこの号は、体育教師を非難した河原満夫の文章が、後輩となる 中学生への影響を配慮するという理由で、発禁処分となった。正しくは 発売自粛を要請され、文芸部一同これを了承したのである。発行責任者 は文芸部長“フクちゃん”こと下村福(古文)教諭。 “獲物をさがすけだもののような蛮声の体育教師”と描写されたのは、 毎号短歌を寄稿する文学青年・星野光司(筆名=美津次)教諭である。 前年の高校新聞に長女誕生の記事があり、このあと不倫スキャンダルが ささやかれ、翌年退職して故郷の大分県に去った。 いま、河原の《感じること》を読みかえしてみても、名門高校の体面 にかかわるような内容とは思われない。後輩の中学生に与える影響は、 その父兄に対する配慮であろう。集団カンニング事件を伝えた《諌争》 こそが発禁の対象ではなかったか。この筆者は、とがめられて黙りこむ ような生徒ではない。温厚篤実で“オッちゃん”と呼ばれる河原なら、 文芸部とは関係がないので、発禁となっても反発の拠りどころがない。 このように、一転して対象をすりかえるのは、巧妙な処置であって、 かくも高度な政治的判断が、職員会議で生まれるわけがない。 与太郎に“何も知らぬ間抜け”と評されたのは、新聞部長・宗教部 ・ESS顧問などを兼任する、猿橋庄太郎(時事問題)教諭である。 一説に東大卒をハナにかけた官僚主義者であるという。あるいはまた、 翌々年に校長となる“カンちゃん”こと高橋勘(数学)教頭との共謀で はなかったか。与太郎が四年後、就任直後の校長に大枚九万円の借金を 申しこみ、即座に承認されたのも、大人社会の取引感覚ではなかったか。 << カンちゃんの決断(その2)参照/P074&別稿 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20010308 シンフォニエッタ序章 〜 器楽部中興史 〜 …… 【諫争】面と向って諌めること。あくまでも強く諌めること。 ── 新村 出・編《広辞苑・第二版 19711118 岩波書店》P0498 …… かんそう(‥サウ)【諫争・諫諍】良くない点を忠告し改めさせよ うと争うこと。臣下が直接主人に向かっていさめごとをすること。 ── Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ (20090506)
| 1955年06月04日(土) |
感じること/吾/花辛夷 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550604 ──「『ヴェルテル』が出ると、」とゲーテはいった、「早速イタリア 語の翻訳がミラノで出たよ。ところが、じきに初版全部が一冊残らず売 り切れてしまった。司教が手を廻して、教区にいる聖職者たちに全数を 買占めさせたというわけさ。私は腹も立たなかったね。それどころか、 『ヴェルテル』がカトリックにとって悪書であるといち早く見抜くよう な具眼の士のいることを知って/感服せざるをえなかったよ。 ── エッカーマン《ゲーテとの対話(中)19681216 岩波文庫》P092 >>
感じること 河原 満夫 吾 星野 美津次 花辛夷 下村 福
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ ── 《山脈・第09号 195506‥ 同志社高校文芸部》 “校風刷新”を行おう 〜 入学直後の匿名・檄文ビラ 〜 同志社マークにある智育・徳育・体育は、今の我々の学校では何一つ 完全に行はれていない。あの礼拝と呼ぶことのできない●●騒音の中で の礼拝、教場での態度、叡電を乗るときの態度、食堂での、と挙げてゆ けばきりがない。それほど今の我々の生活態度はだらけきっているのだ、 はたして諸君はこれでよいと思っておられるのだろうか、いや、決して 諸君はよいとは思っておられないでしょう。我々は新島先生が望んでお られた道に立帰らなければならない。どうか諸君は、諸君が新島先生の たてられた同志社で学んでいることを思い出し、せめて、同志社の命で ある礼拝だけでも、騒音から守ろうではないか。それには、各人の自覚 と努力を必要とするであろう。 << 上の檄文ビラは、発禁事件を予兆する伏線ともみえる。匿名の筆者は、 中学宗教部出身・楠原太八(翌年初の二年生生徒会長に選出)であろう。 河原満夫の「礼拝と呼ぶことのできない礼拝」という云いまわしが共通 しているが、両人の交流はなく、前後関係も不明。朝の礼拝が騒がしい ことについては、遅刻ばかりしている与太郎にはまったく関心がない。 説教がつまらないのは聴衆の責任ではないし、おもしろい説教が毎日の ようにつづくとも思えない。騒がしいのは当然だと考えていた。 最後の表紙(第十六号)、机と椅子のモティーフは、誰かが模写して 投稿したらしく、毎日新聞のカットに採用され、学校宛に賞品が届いた (Let'19580930)。のち東京時代に、ミニチュア細工で立体化したものを キャバレー・ミス東京のウィンドウ・ディスプレィに転用している。 卒業後送られてきた、第十七号以後の表紙は、中西 宏君が担当して、 彼らしく率直に、ちゃっかりと基本スタイルを継承している。 (20090506)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550603 諫争(かんそう) 阿波 雅敏 「感想」とは、受身の立場にある者が、つつましく述べるものである。 俺はこの言葉が嫌いだ。俺にはこの学校に対して『入れてもらった』と いう気持は毛頭ない。正直なところ、この学校が俺という薬にもならん 人間に選ばれたまでの話である。だから俺は少くともこの学校に関する 限り受身ではない。 こういうわけで俺は云いたいことを書くことにしよう。俺のこの気持 には必ず幾人かの理解があることを信じる。 × × × × 入学式に下駄をはいてきたのは俺だ。実はあのとき、足に「ミズムシ」 ができていて、バカ陽気の折に靴なんかはいて行って、ひどくなるのを 恐れて下駄バキを敢行した。これが誤解されて、上級生の猛者連がいき り立ったのはおかしかった。 彼らにすれば「あいつ生意気だ」というところだったと思うが、そう 云う前に『お前なんで下駄はいてきた』と聞いてもらいたかった。そう したら根はやさしい兄貴たちのことだ、うららかな日ざしをあびて、仲 よく俺の「ミズムシ」の皮をむしるのを手伝ってくれたかもしれんのだ。 幸か不幸か上級生には忠告されなかったけれども「入学式に下駄をはい てきた」ことはことのほか宣伝されて、はなはだ心外であった。ともあ れ無意味に騒がせた事については反省している。 × × × × ある日の二時間の休みに、某先生が試験をするという情報が伝わった。 さすがに皆あわてた。そこで最も要領のよい数人がすでに試験のあった クラスへ出張して、答の記号と順番を実に正確に調査してきた。おそら く彼らは英雄みたいに思われたことだろう。彼らは新興宗教の神々であ った。皆は直ちに信者となってその呪文を授けられた。そして一生懸命 暗称した。神々は呪文だけしか授けなかったが、それを不満とした信者 はなかった。信者はノートや教科書を見る必要がなかった。 「ハチルロ……」俺はその呪文の合唱のなかにあってノートをひろげて みる気にもならなかった。信者たちの眼は曇っていなかった。無邪気に というより全く人形の眼をしていた。俺はこのあわれな信者たちに何か いってやりたい気がした。 「乞食」つぶやきにしては大きな声であったが、信者たちにその言葉を 理解するゆとりはなかった。 某先生の時間になった。紙が回されてきてからも呪文はあちこちでと なえられた。 実際試験は難かしかった。俺は自信のある解答を記入することができ なかった。一瞬、なぜあのとき俺も信者にならなかったかという問が俺 のはらわたを通り過ぎた。その次に俺は何も知らぬ先生を間抜けだと思 った。多くの手は呪文の威力でなめらかに動いていた。答案が集められ るとき俺は泣きだしたくなった。「ちくしょう。」俺の五体は、悔と、 それをわずかにしりぞける誇りと、そして憤怒で音もなくふるえた。 信者たちは無邪気なあの人形の笑い方をしていた。今俺の彼らに対す るあわれみは消え去った。すでに彼らは、デクノボウに過ぎなかった。 乞食であった。しかも彼らの多くはそれを知らない。知ろうとしない野 良犬であった。手をふりあげれば逃げ、横を向いていれば上目づかいを しながら足もとの骨をしゃぶりにくる野良犬であった。野良犬はすでに 犬としての誇りを失っていた。乞食であった。乞食どもは、数多く、さ らに数多く、同志社にいた。 × × × × ほんとうにどうにもならない事の前でも、腹をすえてグゥグゥねむり こけるような人間は魅力がある。どうにもならぬ事にも、努力を惜しま ぬ人間は人を感動させる。しかし、どうにもならぬといっておびえたり、 恥を忘れた人間は、人の同情さえ得ることはできない。ちかごろ路傍の 乞食や白衣はめっぽう不景気だとか。彼らはそれが当然なわけを知らぬ からであろう。 ── 《山脈・第九号 195506‥ 同志社高校文芸部》 編集後記 ── 原稿を先生のように注意して調べてみましたら、多くのマチガイ を発見しました。マチガイを見つけるだけでも大いに勉強になりました。 今後の「山脈」に期待下さい。(泡沫)《山脈・第九号 195506‥ 》 (※この稿は改竄のため原文不祥) 追加予算会議で五百部印刷して売れたのが三百部、という過去の事情 を話したら、二百部は余計だから三百部だけ印刷しろという人があった。 しかし前の様に七百部出して売り切れた事もあるのだ。なぜコンナコト をいうかというと、こんなにおもしろい本が、なぜこんなに売れないか 一向わからんからな (ヤツアタリ・阿波)《山脈・第十二号 19561012 》 本年度の各部予算では、新聞部が二万円ほど増えたのが目立った。い ままで一枚五円で売っていたが、皆が買ってくれないので、全生徒無料 にするということだった。売れぬようなものを出すなというあわて者も いたが、近頃、学園文化に対する皆の冷淡さを思えば無理はないのだ。 わが山脈にしたって同じだ。内容が貧弱だから売れないのでなくて、良 くても悪くても売れないのだ。最も、だからと言って我々は良くても悪 くてもというのではない。才能ある友人たちがペコペコ頭を下げて広告 集めにまわったり、一部三十円の看板に明け暮れするのは、いかにも不 合理だというのだ。 (水泡)《山脈・第十四号 19571009 》 ──────────────────────────────── (※)“上級生の猛者連”とは、おそらく水泳部の上級生であろう。 《これから・第六号》に、吉田 肇《白衣》の名が見える。実際の経験 では、中学の修学旅行で傷痍軍人を撮影して、フィルムを脅し取られた ことがあり、そのときの憤懣が残っていたものか。しかし、白衣と乞食 を同列にあつかっている点など、当時の公立学校では発禁の対象だろう。 乞食は、いま以上に差別的であり、傷痍軍人もまた屈辱的だった。 また“新興宗教の信者の、人形のような眼”は、われながら秀逸。 (20001224-20090506)
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