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JIROの独断的日記
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2002年11月30日(土) オリンピック種目は、コロコロ変えるべきではないだろう

メキシコ市でオリンピック総会が開かれていて、野球、ソフトボール、近代5種、の3競技を2008年の北京オリンピックから、除外するかどうか、話し合い行われた。昼食も抜きの激論が交わされ、結局結論はアテネ五輪以降に持ち越すことになった、というのだが・・・。

そもそも、野球やソフトボールは、世界規模で見た場合、マイナーな競技であることなど、初めから分かっていた事である。こういう議論が起きる原因は、新しい競技を採用するときに、十分な議論が尽くされていなかった証拠である。あるいは自国に有利な種目をオリンピックに加えようとする、国家的意図が働いていたということだろう。スポーツというのは、要するにルールが定められた、ゲームの形式を取った「喧嘩」であり、人間の攻撃、闘争本能の現れであるから、国際的な競技会は、自ずと参加国の政治的思惑に利用されやすい運命にあるのだ。

まあ、オリンピック種目がどうなろうが、人類の存続に影響するわけではないが、競技種目が安易に変更されては、オリンピックを目標に練習している選手はたまらないだろう。場合によっては選手の一生に関わる問題なのだから、政治の道具にされないようにしたい。安易な変更は慎んでもらいたい。


2002年11月29日(金) 割り箸事故の医療訴訟。親も、医師も、病院も、悪い。

1999年7月、割りばしを加えたまま転倒した保育園児が、救急病院に搬送されたが、当直の耳鼻咽喉科の医師が、診察の際にCTスキャンなどの方法で割りばしが頭蓋内に残っているかどうか確認することを怠り、脳外科へ引き継がなかったため、死亡した、という趣旨で、親が医師を訴えた。医師は起訴され、今日、第一回公判が開かれた。

世間は、医師の不誠意のみを責める方に傾きつつあるようだが、私は、公平に考え、裁判の結論がどうなろうとも、子供を死なせた責任は、親と医師双方と、病院にあるという結論に至る。

親は、そもそも、幼い子供に綿菓子を食べながら歩く、という行為を放置した、という点で、ちょっと神経がずさんである。転んだり、人とぶつかったときにどれぐらい危ない事なのか、容易に想像がつく。それを考えるべきだった。私ならば、絶対にそのような事はさせない。そもそも、歩きながら物を食べるなど、行儀が悪い。

それから、転倒したときの状況を正確に医師に伝えたか、という点も、記録がない。
こういう大事なときは、親は、自分が医者に何を伝え、医師がどういう反応を示したか、せめて家に帰ってからでもメモに残さないと、言った、言わない、の水掛け論になる。

次に、医師に関して言えば、研修医を終えたばかりの耳鼻咽喉科の医者だったそうだが、やはり、少しでも疑わしいときは、特に、脳に損傷があるかもしれないなどという生命に関わるケースにおいては素人考えで見ても、やはり、脳外科医の判断を仰ぐべきであったと思う。そして、反省すべきは、患者に対する態度であろう。患者や患者の家族は、医者がどれぐらい真剣に、患者のことを考えてくれているか、その姿勢を実に敏感に感じ取る。自分や家族の命を誠心誠意、大切に考えてくれた医師を患者が訴える事は、あまり、ないだろう。訴えられたということは、なにか、たるんだ態度があったのであろう、と疑われても、仕方がない。

更に、当直を新米の医者だけに任せるという診療体制は、被告人が勤務していた杏林大学病院に限らず日本の殆どの大学病院で採用されている。この安直な病院の管理にも責任はあるだろう。もし被告人に十分な経験が不足していたことが、今回の悲劇につながっているとすれば、当然、病院の責任も問われるべきだ。

この事件は、誰かが100%悪い、というものではない。全員が反省すべきなのだ。


2002年11月28日(木) 正義という名の嫉妬

今週の月曜日に、大手銀行の中間決算が発表され、みずほグループは職員給与の削減を発表した。4大グループの他の各銀行もは大なり小なり、同じようなことをするだろう。

銀行の不良債権が諸悪の根源という論調が多いので、こういう報道を読んだり聴いたりして溜飲が下がる思いの人が多いのであろう。

しかし、私は不良債権という言葉を聞くたびに、何故「債務」者の責任は問題にされないのか、とおもってしまう。債権というからには債務がある。つまり、借りたおカネを返さない人がいるのである。にも、関わらず、貸した側の銀行の責任ばかりを追及して、週刊誌は銀行員は無給で働けなどと、無責任な事を書く。

借りた金を返さない会社の人間は給料を受け取って構わないのに、金を貸した銀行の職員はどうして、ただ働きをしなければならないのだろう?

バブルの頃は、自らの土地を担保に銀行から借金をし、そのカネで土地投機をしない奴はバカだといわんばかりの風潮だったのに、不況になったら、バブル当時は銀行から無理矢理カネを借りさせられたのだというのだろうか。

いまや、バブル当時の不良債権はほぼ処理されたのに、資産価格が下げ止まらず、新たな不良債権が生じている状態である。銀行ばかりが悪いとはどうしても考えられない。マスコミが銀行を叩くのは、早い話が、それによってテレビの視聴率が上がり、新聞の売上が伸びるからだ。なぜ、大衆がこの話題を好むのかといえば、いろいろ理屈をつけてはいるものの要するに「高い給料を貰っていた連中」に対する嫉妬心が根源にあるのだろう。

正義の名を借りた嫉妬は、醜い。


2002年11月27日(水) 心の病は身体の病である。

今日、地下鉄の駅の売店に並んでいる雑誌を何気なく見ていたら、「うつの科学」という文字が目に飛び込んできた。
Newsweek日本語版の最新号だった。自分は大分軽くなったものの、まだ回復途中のうつ病患者であるから、「うつ」の文字には敏感なのである。ためらうことなく買って、一通り読んだ。私は既にうつ病や精神医学の本をずいぶん読んだので、特に目新しいことはなかったが、うつ病とは何のことだかよく分からない人が、是非こういう記事を読んで欲しいと思った。

 うつ病など、精神科で扱う病に関して偏見が強い理由の一つは、難しい言葉を用いれば、「心身二元論」がギリシャ哲学の昔からはびこっているからである。つまり、身体と心は別のものであり、心は気分のもち方で変えられる。だから、うつ病などにかかるのは心が弱い証拠で、本人の責任なのだ、という考え方である。

 しかし、ここ数十年の研究でうつ病とは気分の問題などではなく脳の問題だということが明らかになった。いや、正しく言えば、気分、気持ち、というもの自体、脳が生み出しているのだ。いうまでも無く、脳は臓器のひとつであり、身体の一部なのであるから、脳の問題であるということは、すなわち身体の問題だという結論が導かれる。

 脳の中には無数の神経細胞がある。神経細胞の中では、情報は微弱な電流になって伝わるが、ある神経細胞と別の神経細胞の接続部分には隙間(シナプス)があり、この隙間では脳内神経伝達物質が電流の代わりに情報伝達を行っている。神経細胞から放出される神経伝達物質の量とそれがシナプスに滞留する量、情報伝達先の神経細胞が受け取る量の微妙なバランスが人間の感情に影響を与えている事がほぼ明らかになっている。

 脳内神経伝達物質は何十種類も有るが、中でも特にうつ病と関係するのがノルアドレナリン(ノルエピネフリンともいう)とセロトニン、ドーパミンである。シナプスに滞留するこれらの脳内神経伝達物質の量が少なくなると抑うつ状態になると考えられている。「気分」の正体はこのようにまことに化学的な要因に関わっていたのだ。

 膵臓から分泌されるインスリンというホルモンが少なくなると、糖尿病になる。同じような事がたまたま、脳の中で発生しているのである。その意味では、「科学者にとっては、病気という点では、うつ病も糖尿病も同じだ」(ノースウェスタン大学、エバ・レディ教授)。

 正確な情報をこのように順に追っていけば、うつ病が特殊なものでなく、本人が悪いからなった訳ではないということが科学的に説明できる事が誰にでもわかる。

 その手続きを踏まずに、うつ病患者を安易に怠け者呼ばわりする人間は、本当の怠け者である。


2002年11月26日(火) 「暴力酔客」は即告訴、JR東日本が方針。 大いに結構。

首都圏のJR駅構内やホームなどで、駅員が酔っぱらった乗客から、いきなり暴行を受ける事件が増えているため、JR東日本は忘年会シーズンの来月以降、「暴力を受けたら即、処罰を求める刑事告訴」という厳しい対応を取ることを決めた。という。

当然である。

今までJRは酔客の暴力に、酒の上での失敗という「温情主義」で対処してきたが、最近、酔った勢いで突然暴れだす中年男性が増えてきたのだという。デフレ不況でストレスが溜まっているのであろう、などという話は誰でも思いつく。

そんな事は言い訳にはならない。そもそも、日本社会は、酔っ払いに甘すぎるのである。大の男が酒に酔って醜態をさらしても、日本ではあたかも、「微笑ましい風景」のようにみなすが、私はああいう酔態を人前で晒すのを恥と思わない人間は大嫌いだ。その上、ゲロを吐いたり、立小便をしたり、あれを見た他国の人々は一様に眉をひそめる。完全に国辱である。

私はロンドンに数年間住んでいたことがある。英国人にも勿論酒飲みは多い。量の観点から言えば日本人よりもアルコールの摂取量は、多分、彼らの方が多いだろう。昼間からパブでビールを飲むのは普通の光景だ。しかし、日本人ほどひどい乱れ方をするイギリス人は見たことがなかった。連中が日本人のよい肩を見て驚くのも尤もだと思った。

まして、暴力をふるうに及んでは論外、言語道断である。人を殴る事は暴行罪であり、完全に犯罪なのである。大の男が、人を殴れば刑事犯になることを知らない訳がない。酒を飲んで、みさかいがつかなくなった、と言い訳をする者が大勢いるのだろうが、そもそも、そこまで酔うこと自体が本人の責任である。

アルコールは、れっきとしたドラッグである。しかも、誰でも簡単に手に入り、多くの人間の人格を一時的に豹変させてしまう危険なドラッグである。この薬物の所為で一生を棒に振った人間は人類の歴史に星の数ほどいる、という事実を、酒飲みは肝に銘じるべきだろう。


2002年11月25日(月) 毎日、食べ物がある、有難さ。東京-平壌1293km。

つい先日、病院で採血検査があり、朝食を抜いて来るように指示されたのでそのとおりにした。血糖値や中性脂肪値を測定するので当然である。

しかし、たかが1回、食事を抜いただけなのに、随分、腹が減った。検査終了後、早めの昼食を病院の食堂で摂った。ありふれた定食だったが、突然、すぐそばにある北朝鮮では餓死者が100万人も出ているという事実を思い出し、いつでも食べるものがあるということは、なんと有難いことか、としみじみ、思った。

東京から平壌までの直線距離は約1,300km。東京-那覇間が1,560km。沖縄よりもはるかに近いところで、食べ物が無くて苦しんでいる人々がいる。独裁者だけがまるまると太っている。人民はその男のことを将軍様と呼び、敬愛の念を示さなければ、地獄のような強制収容所に入れられてしまう。

日本では、大勢の人間が栄養を取りすぎて、コレステロールや中性脂肪が高すぎるといって、病院に行っている。なんという、皮肉な対照であろう。

しかし、人間はさほどバカではない。ソ連がなくなるときも、東西ドイツの壁が崩れた時も、私は、自分が生きている間にそれらを見ることができたのが、俄かには信じられなかった。

歴史が動くときは、誰にも止められない大きな力が働く。北朝鮮で、自由世界の様子が次第に伝わり、ある日突然、金正日体制が転覆するという可能性は決してゼロではない。国家が個人の私有物のようになっている社会は、早くなくなった方がよい。


2002年11月22日(金) 高円宮様のご逝去を悼む。心停止時の応急処置の知識

昨日、高円宮殿下が逝去された。
ご冥福をお祈り申し上げる。

ご逝去の原因につき、新聞では「心室細動」と書かれている。

要するに心臓の筋肉があちこちでバラバラに収縮し、全体としては血液を送り出す事が出来なくなる状態。結果的に心停止と同様である。心筋梗塞の急性期に発生する。全身の血流が途絶えるため、当然意識はなくなり呼吸も停止する。

この場合、治療が1分遅れるごとに蘇生の可能性は10%ずつ低下し、10分以上遅れると助からない。救急車を呼ぶのは当然として、救急車が来るまでの間に、患者を上向に寝かせ、胸(左右の乳頭の真中)に両手を重ねて置き、1分100回の頻度で圧迫する。救急車が来るまでの間であれば、人工呼吸は必要がない。

一刻も早く救急車を呼ぶこと、とこの心臓マッサージで生死がわかれる。

殿下の早すぎる死を無にしないためにも、この程度の知識は、覚えておこう。


2002年11月21日(木) 米国のアホな訴訟また一件 「ハンバーガーで肥満に」

米国でまた、お笑いそのものとしか言いようがない訴訟がまた、一件。

ハンバーガーとフライドポテトの食べすぎで肥満になったのは企業側の説明不足だとしてマクドナルドを訴える集団訴訟が20日、ニューヨークの米連邦地裁に提訴された。

こういうの記事を読んで、一体訴えを起こしたアメリカ人たちの頭の中がどうなっているのか、見てみたいと感じるのは私だけではなかろう。

マクドナルド側の弁護士のコメントはまともな事を言っているのだが、笑える。
「ハンバーガーなどを長期間にわたって食べ過ぎたら太ることは「世界中で知られている」常識だとした上で、「ある日目覚めたら、突然、太っているわけではない」と消費者側の非常識を問題視し、審理前の却下を求めたという。

もはや、コントである。

こうなったら、今後、どういう訴訟が起こりうるか、想像すると面白い。

「パソコンで毎日何時間も作業をしていたら、近視になった、とIBMを提訴」

「酒を飲みすぎたら、肝硬変になった、とBudwiserを提訴」

「牛乳を飲みすぎた子供が、腹をこわした、と親が乳製品メーカーを提訴」

「チョコレートを食べて、虫歯になった、と製菓企業を提訴」

「ピアノを練習し過ぎて、腱鞘炎になった。とスタインウェイを提訴」

「車に乗ってばかりいたら、足が弱った、とGM、トヨタを提訴」

結構、暇つぶしになる。


2002年11月19日(火) 薬物犯罪のおおもとは何か?

先週、警視庁がおとり捜査で覚せい剤を売っていたイラン人を逮捕した。
マスコミの報道の焦点はおとり捜査の是非に当てられていた。

しかし、覚醒剤に関して言えば、問題の本質はもっと別のところにある。

覚醒剤を売ることは無論犯罪であるが、買う人間がいるからこそ、売人がはびこる。

何故、覚醒剤を買う人間が減らないのか、ということは殆ど議論されていない。覚醒剤は所持しているだけで犯罪であることは誰でも知っている。また、濫用により身体に悪影響を及ぼすことはさんざん言われている。それでも、何故、覚醒剤を買う人間が増えるのか?

麻薬類のなかでも、ヘロイン、コカイン、エクスタシーなどと、覚せい剤は薬理作用が逆である。麻薬類は主として酩酊感を得ることを目的として使用される。アルコールもドラッグでこれを飲むことは犯罪でないが、使用目的は麻薬と同じ方向を向いている。

これに対して、覚醒剤はその名の如く、目が醒める薬である。「酔っ払った」感覚にはならない。覚醒剤を使用する人間のかなりの部分はこの覚醒作用を欲している。つまり、シャキッとしたいわけである。このため、夜間ドライバー、漁師、眠る時間を削って研究を続けなければならない大学院生、などの堅気の人間が手を出してしまうことがある。

まことに皮肉な事に、日本人の国民性、「勤勉さ」が裏目に出ている場合が少なくないのである。欧米では、麻薬が社会問題になっているが、覚醒剤はあまり話題にならない。シャキッとする薬はさほど必要としていないのであろう。

米国では難治性うつ病の治療に、短期間では有るが、アンフェタミン、つまり覚醒剤そのものが使われる事があるほどである。

勿論、覚醒剤を使用する人間が良いといっているわけではないし、ダイエット(覚醒剤をしようすると、食欲がなくなるらしい)や性的快感を高めるのが目的で使用するプータローの若いのもいる。これは、論外だ。

しかし、もともと真面目だった人間が、前科者となる危険を冒してまで、「シャキッ」となる薬に手を出してしまうというのは、もしかすると、現代社会があまりにも過酷な要求を個人に求めすぎているのではないか、という考え方も可能である。

つまり、誰もが常に、高く「目標」を掲げて、それに向かって「向上」すべく「努力」しつづけならなければならない、という価値観は人間がまだ十分対応できないほど、強いストレスなのではないか。高度成長期においてはそれでも頑張ればそれなりに報われたが、今はいくら頑張っても給料が下がるような時代である。強いモチベーションを持ちつづける事は非常に困難だ。それにもかかわらず、とにかく、決められた期間内に、集中力を維持して仕事をしなければならない、という世の中が、一部の人を薬物に走らせているのではないだろうか?

昨日のニューヨークタイムズは故・J.F.ケネディ大統領が在任中、大変健康状態がわるく、鎮痛剤、ホルモン剤、中枢神経刺激剤(覚醒剤と似ているメチルフェニデートという薬。商品名はリタリン)、潰瘍性大腸炎の薬、尿路感染を直すための抗生物質、睡眠薬、抗不安薬、抗うつ薬など、驚くほど多くの薬を飲んでおり「殆ど、薬漬けの状態だった」と報じている。もともと身体頑健ではなかったのかもしれないが、合衆国大統領の地位にあるというというとてつもなく強いストレスが身体を蝕み、職務を全うするために薬剤に頼らざるを得なくさせたのであろうことは容易に想像できる。

人間だってあるところで成長はとまる。経済も無限に拡大することは有り得ない。 最早、最盛期を過ぎた日本は、もう少し、皆が静かに、心穏やかに人生を送れるような世の中、成熟した段階に到達する事はできないだろうか。


2002年11月16日(土) 小沢征爾氏がウィーン国立歌劇場音楽監督に就任した意義

指揮者、小沢征爾氏がウィーン国立歌劇場の音楽監督として、いよいよ活動を開始した。この地位に小澤氏が就任することが発表されたのは1999年6月24日のことである。同歌劇場支配人は「小澤氏は現存する最も偉大な指揮者の1人である」とまで、称賛した。

一般にはピンとこないかもしれないが、ウィーンのオペラハウスの音楽監督になるというのは目もくらむほど名誉な事なのである。

ウィーンこそは、音楽の都である。モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、マーラー等、人類の歴史に永遠に名を残すであろう作曲家は、みなここで修行した。西洋音楽の粋がこの街に凝縮されている。

ウィーン国立歌劇場はその象徴的存在である。パリ、ミラノ、メトロポリタンの歌劇場で指揮をすることも、超一流の指揮者にしか認められない。しかし、ウィーンは更にその上に君臨する存在である。

ここの指揮者になるということは、西洋音楽2000年の伝統がDNAに組み込まれている、本場の音楽家、聴衆たちに、西洋音楽に接して100数十年の歴史しか持たない日本人であるにもかかわらず、小沢征爾氏の才能が認められたということだ。殆ど奇跡である。

小澤氏だけではない。ヨーロッパでは他にも多くの日本人音楽家が活躍している。例えば、カラヤンが30年間音楽監督をつとめていた、超一流のオーケストラ、ベルリン・フィルのコンサートマスターの1人は安永徹氏である。 コンサートマスターとは指揮者の意図を汲み取り、全オーケストラの演奏をリードする立場にある。自分のバイオリンパートが弾ければよいというものではない。指揮者と同じぐらい、全曲の構成を把握していなければならない。

無論、バイオリン演奏の技術はソリストとして十分通用するぐらいの技量があって当然とみなされる。第一バイオリンには数十人の奏者がいるが、そこで何年弾いていようとも、コンサートマスターになるためには、改めてオーディションを受け、団員の投票と音楽監督の承認がなければならない。とにかく、並の人間に務まるポジションではないのである。安永氏はそのポジションを20年近くもつとめており、今尚、ベルリン・フィルのメンバーの信認が厚いという。

以前、当時の西ドイツ首相だった、シュミットという人がいる。政治家だが、音楽を愛し、自らもピアノがプロ級の腕だった。彼が、ニューズウィークのインタビューで述べていた言葉は大変、印象的だ。

「ドイツや他のヨーロッパのオーケストラで演奏している、優秀な日本人奏者が大勢いる。彼らは、日本のどんな政治家、外交官、財界人よりも、日本人に対するヨーロッパ人の評価の向上に貢献している。」

真の芸術家は、誠に偉大である。


2002年11月15日(金) 絶望。日本経済はもはや手遅れ。

デフレ対策、不良債権処理、などの文字が新聞に載らない日は無い。首相は断固として構造改革を遂行するという。竹中金融・財政担当相は金融再生プログラムを実行するという。銀行経営者は公的資金など要らない。自分たちで何とか不良債権を処理するという。マスコミは、現状は深刻だ、何とかしないと大変な事になるとさわぐ。

だが、いずれの主張も、どうもこちらの心に響かない。

所詮、騒いでいる人々は「自分は安全」だからである。

小泉氏も、竹中氏も、銀行経営者も、「自分が」失業して、あるいは財産が消滅して食うに困るという事態には絶対にならない。マスコミだって、大変だといっているが、書くネタがつきないし、新聞の売上げは減らない。テレビのキャスターやコメンテーターは高額のギャラを得ている。老後は安心だ。

つまり、他人事なのである。本当に困るのは社会を実際に支えている中小企業経営者、その家族、すなわち庶民である。庶民は表に出てこない。

日本経済は更に悪化するだろう。失業者が増え、自殺者が増えるだろう。
最早、手遅れである。


2002年11月14日(木) 高齢者は免許更新時に実技試験をしたほうが良いかもしれない。だが・・・

昨日、東京のど真ん中、銀座で、ベンツが紳士服店に突っ込んだ。幸い死者は出なかったが、歩行者1人が足の骨を折る重傷を負った。運転していたのは62歳の男性で、アクセルとブレーキを踏み間違えて、パニックになり、対向車線に飛び出したらしい。

ここ数ヶ月の間に、私が記憶しているだけでも、高齢者が「運転を誤って」起きた事故が何件もある。通学中の子供の列に突っ込んで、少なくとも1人を死なせた事故。幼稚園の2階建ての駐車場に車を停めようとして、間違ってアクセルを踏んだため、車が2階から地面に墜落。下で遊んでいた子供が、やはり命を落とした。

問題なのはいずれの場合も、車の操作ミスが事故の原因であって、しかも特別な状況ではなかったということだ。脇から飛び出した人をよけようとしたとか、予期せぬ事態があって、それが操作ミスの原因となったのであれば、情状酌量の余地があるかもしれない。しかし、全く外的要因がないのに、ハンドル操作や加速、減速の操作を間違えるということは、老化が原因となっている可能性が高い。

人間は年をとるにつれ、視力は落ちる、反射神経は鈍くなる。筋力も落ちる。敏捷性がなくなる。若いときに一回実技の試験を通ったからといって、そのときの肉体的条件のままでいられる人はいない。一定の年齢になったら、免許更新時に実技試験をしたほうが良いと思う。

ただ、理屈はそうなのだが、免許制度をそのように改正すると、当然、急に車の運転ができなくなってしまう人がでてくるだろう。遊びのために車に乗るのなら、まあ我慢してもらうとしても、車の運転を職業としている人、或いは仕事に車がどうしても必要な人、車が運転できなければ生活に著しく支障をきたす人は大勢いる。そういう人はどうしたらいいだろう?

書きながら考えたが、名案が浮かばない。


2002年11月13日(水) 本日の、テレビドラマ「サイコ・ドクター」における情報は概ね正しい。

自分が、回復途中のうつ病患者であるから、「サイコドクター」という日本テレビ系列で放送されているドラマが少し気になっていた。しかし、大抵この手のドラマは乖離性同一性障害(多重人格)とか、滅多にない症例を大袈裟に演出することが多いので、あまり見たくなかった。
 
 ところが、本日放送分は「うつ病」を取り上げていたので、試しに見てみた。概ね正しい情報が含まれていたので、安心した。

・うつ病は病気であって、怠けではない。

・うつ病は治る病気である。

・うつ病は「気分障害」であり、人格や知能に異常を生じる病ではない。

・うつ病患者を励ましてはいけない。

・うつ病の症状が重いときは、動く事すらままならぬので、自殺の心配は少ない  が、治りかけの時、つまり、自殺するだけのエネルギーが回復したときは要注意 である。

・うつ病は直線的に治るものではなく、症状の軽快・悪化の波を繰り返しながら長期的に寛解する、という経過をたどるものである。

・うつ病の最中は、思考が全て否定的に傾き、現実を客観的に把握できていない。 従って退職・離婚、転居など、人生の重大な決定をしては(させては)いけない。

というようなものである。無論、他にもいろいろと治療上の課題はあるが、要点は押えていた。しかも、患者役の演出も「うつ病患者は異常者」という誤解を与えないように配慮されていた。

一般の方々は、自分には無関係な話と思っているかもしれないが、日本人の7人に一人は生涯に一度はうつ病エピソードを経験するといわれている。交通事故に遭う確率が1万数千分の一であることと比較すれば、うつ病になる可能性がどれほど高いものかが分かる。最早、うつ病に関する基本的な知識は、誰でも知っておく必要がある。


2002年11月12日(火)  1989年11月13日。 島根医科大学第二外科の英断 日本初の生体肝移植

13年前、1989年の明日、11月13日、島根医科大学で日本で初めての生体肝移植手術が行われた。日本では1960年代に札幌医大で行われた心臓移植の是非をめぐって大論争が起き、執刀医は殺人の容疑までかけられた。それいらい、欧米での内臓移植技術の発展を横目に見ながら、日本では「移植」の話題は長い間、タブー視されていた。
 
 肝臓移植を受けたのは、当時、まだ一歳にも満たない杉本裕弥ちゃんだった。先天性胆道閉鎖症という病気で肝硬変になっており、そのままでは、間もなく死を迎えざるを得ない事はあきらかだった。脳死臓器移植が認められていなかった当時、裕弥ちゃんを救う手段は生体肝移植しかなかった。しかし、日本では、まだ、だれもこの手術を行った経験のある医師はいなかった。
 
 手術を引き受けたのは島根医科大学第二外科の永末直文助教授(当時)だった。永末医師らは、永年、ブタを使った肝臓移植の研究を続けていた。しかし、人間の肝移植手術を日本で初めて手がけるのには大変な勇気が必要だった。失敗すれば、永末医師らの責任が問われ、医師生命を奪われる可能性が高かった。永末助教授の上司、中村教授は、手術を行う事が決まってから、永末医師に「永末君、私はもう13年もここの教授をしていて思い残す事は無い。しかし、君はこの手術で全てを失うかもしれない。ぼくはそれが一番心配だ。本当に君はそうなっても構わないのか」と何度も尋ねた。その度に永末医師は、「先生、大丈夫です。誰かがやらなければならないことを私たちが今度やるだけです。これで弾劾されたら田舎に帰って開業します。」と答えた。
 永末助教授の意思は堅かった。初めてこの手術のことを外科のチームに話したところ、皆、あまりの事の重大さに沈黙してしまったという。そのとき、永末助教授は、言った。「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果を問わないからやってほしいという。我々は肝移植を標榜している。これでわれわれのチームがこの移植を拒否するなら、この研究室での肝移植の研究はすべて明日からやめよう。」・・・・。
 
 私はこの話を読んだときに、「何という立派な先生であろうか。自分はどうなっても良いから患者を救いたいという・・・。こんな立派なお医者様がまだいたのだ・・・」あまりの感動で胸が震えた。
 
 手術は成功したが、その後、拒絶反応や様々な合併症を併発し、翌年の8月、裕弥ちゃんは亡くなった。しかし、家族はそれでも永末助教授らのチームに心から感謝していた。チームの医師たちは手術後の約9ヶ月、休みはおろか、自宅に帰ることすら殆ど無かったという。それぐらい、ぎりぎりの、最大限の努力を尽くしたことが、裕也ちゃんの家族たちには十分すぎるほど分かっていたからだ。裕弥ちゃんのお母さんは、その後生れた男の子に永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」を取って、「直弥」という名前をつけた。
 
 実は私の親戚がこの手術チームにいた。だから、医師たちの壮絶なまでの努力はじかにつたわってきた。
 
 初めて、何かを行う人はかならず、世間の批判に遭う。このときもそうだった。生きている人間の肝臓の一部を切り取ることに、倫理的な問題はなかったのか。インフォームド・コンセントは十分になされたのか。つまり、島根医大のチームが名誉欲にかられてこの難しい手術を引き受けたのではないか。というわけだ。人間とは卑怯なものである。自分はリスクを取らないくせに、大変なリスクを取ってまで人の命を助けようとした医師達を批判しようとしたのだ。
 
 しかし、その後、生体肝移植は術は国内各地の大学病院で行われるようになり、大勢の胆道閉鎖症の子供や大人の命を救った。島根医大が「初めての」生体肝移植を手がけてくれたおかげなのだ。その勇気と使命感を、心から尊敬する。


2002年11月11日(月) 共和党が勝ってブッシュは大得意だが、アメリカでは、911が「やらせ」ではないか、という話が・・・・


 アメリカ人が、イラク攻撃をしたくて仕方がないブッシュに中間選挙で大勝利を与えたのを見て、やはりあいつらは馬鹿かと言いたいところだったが、流石に知的な人々もいて、平静なものの考え方を回復しつつあるという。
 
 つい最近、米国内で有名な作家(恥ずかしながら私は知らないが)のゴア・バイダルという人は昨年の911テロに関して、米政府は事前に知っていたのに、わざと放置した可能性があり、この件に関して調査を行うべきだ。というレポートを出したという。
 
 本当ならば、とんでもない事なのだが、アメリカ人にはそういうところがある。相手に先に喧嘩を仕掛けさせておいて、「自分たちは、それに対抗したに過ぎない。」という理屈をつけるわけだ。真珠湾攻撃に関しても、ルーズベルトは事前に全て知っていた、というのはよく言われていることだ。
 
 確かにいろいろなネット上のニュースを拾っても、昨年の6月ごろから、エジプトや他の穏健派アラブ諸国は、アルカイダが航空機を用いたテロを、近い将来、仕掛ける可能性が高いと忠告していた事がわかった。とか、テロ前日、アメリカの諜報機関のひとつは、「いよいよ、明日が決行の日だ」という不穏分子の会話を盗聴していたのに、上(ホワイトハウス)まで情報が伝わらなかった、などという話は山ほどあるのだ。
 
 これが、本格的に調査されたら大変な事になりそうだ。ブッシュは、実は、ノーテンキにはしゃいでいる場合ではないのである。


2002年11月10日(日) 「ボレロ」のトロンボーン 芸術の厳しさ

フランスの作曲家、ラベルの代表作の一つに「ボレロ」がある。
この曲は極めてユニークだ。小太鼓が二つの小節から成るリズムを全曲を通して刻み続け、全ての木管楽器と金管楽器が2つのメロディーを交互に何度も繰り返す。曲の始めはピアニッシモだが、次第に盛り上がり、最後は全オーケストラのフォルティッシモでおわる。 数あるクラシック音楽の名曲の中でも、特異な存在だ。

 管楽器のソリストは皆、大変緊張するが、中でも難しいので有名なのはトロンボーン・ソロである。

 曲が始まって10分近くも全く音を出さずにいて、いきなり最高音域のBフラットを、メゾ・ピアノで、満場の注目を浴びながら正確に発しなければならない。これぐらい難しい条件では、如何なる名人も100%成功するとは限らない。世界で一番上手いオーケストラの一つ、ベルリンフィルでさえ、以前、日本公演でボレロを演奏したとき、トロンボーンの最初の音が見事にひっくり返った。
 
 こういう曲を聴く時は、聴く側も大変緊張する。私はいつも、ボレロのトロンボーン・ソロが近づく度に、心臓がドキドキする。皆、同じである。それだけに、「ボレロ」の名演は聴衆と、演奏者をも熱狂させる。

 極限状態で、なおも完璧を目指さねばならないのが、演奏芸術というものである。その道は、誠に厳しい。

 日本のテレビで、よく、「NG集」という番組が組まれる。ドラマの収録最中に台詞をトチっても、VTRだから、撮り直せば良い。失敗した俳優は多くの場合、ヘラヘラ笑っている。まあ、テレビドラマには、初めから高い芸術性を期待してはいない。NG集も座興としては面白かろう。しかし、時折、ああいうのを見ると、「ボレロ」のトロンボーン奏者の研鑚と集中力、本番に挑む覚悟、を教えてやりたくなる。


2002年11月09日(土) 失われた、消防隊員の命。

水曜日の夜、大阪市淀川区のJR線内で、人身事故の処置のために線路内に入った大阪市消防局の消防隊員と救急隊員が、特急列車にはねられて、死傷した。悲惨というほかに言葉を知らない。

私を含めて多くの人は、困った人を見ても、自分の事で精一杯だと心の中で言い訳をして、見てみぬふりをする。しかし、人間には、困った人を見たら助けたいという気持ちが、実は誰の心の中にも、ある。この気持ちを専門化し、職業として選んだのが、救急隊員、消防隊員、警察官、といった人々である(警察官の不祥事はしばしば報道されるが、多くは真面目に任務を遂行している)。

私の父は、脳梗塞で既に他界したが、晩年、既に血管が弱っていたのであろう、大量の鼻血が止まらなくなり、トイレで倒れ、救急車を呼んだことがある。私は救急車に同乗したが、救急隊員の実に親切な、細やかな気遣いに感動した。見ず知らずの他人を、病院に着くまで一生懸命に看護し、励まして下さった。その姿は、家族が倒れて困憊している家族の眼に、とても頼もしく映り、混乱する心を落ち着かせてくれた。
 
 だから、私は、救急隊員などの方々を今でも尊敬している。こういう方々の命が何故奪われなければならぬのか。
 
 列車が運転を再開していたことを、救急隊員に告げていなかったJRの責任は、重い。


2002年11月08日(金) しし座流星群19日未明ピーク。天文学の話題は壮大で、なかなか良い

日々の暮らしに追われていると、身の回りの細かい事にしか、関心が向かなくなり、ストレスも多い。そんなときは星空を見上げると、というとちょっとキザだが、宇宙の話題に触れると、人間同士のゴタゴタなど、実に取るに足らないことである、という事実に気づき、おおらかな気分になる。

 なにしろ、太陽系が属する銀河系は、直径が十万光年の大きさで、2000億個もの星がある、というだけで驚く。しかし、そんな銀河系も宇宙全体にとってはちりのような存在であって、宇宙全体には似たような銀河が500億個以上もあるといわれる。銀河系に一番近い銀河はアンドロメダ銀河だが、一番近いといっても、220万光年のかなたにある!!!

 地球上に最初の単細胞生物が出現したのが40億年前で、それが、次の進化の段階、つまり2個の細胞から成る生物に達するまでに30億年という訳の分からないような、途方も無く長い時間が必要だった・・・などと言う話を聞くと、気が遠くなりそうだ。人類などはついさっき、生れたも同然である。

 こんな事を考えたのは、今年のしし座流星群は今月19日未明がピークだという天文ニュースを読んだからだ。

 昨年のしし座流星群は実に感動的だった。都会で生まれ育ったせいもあり、流れ星などお目にかかったことの無い私にとっては、一晩であれほど多くの流れ星を見たことは、実に衝撃的な体験であった。今でもあの美しい夜空は脳裏に焼きついている。

 今年は、満月の前日だし、諸条件が昨年ほど良くないようだが、それでも、星空を見てみる価値がある。1999年から続いてきたしし座流星群の大出現も、日本で観測できるのは今年で一段落。次の大出現は33年後だというのだから。


2002年11月07日(木) メル友連続殺人事件被告人に無期懲役・・・被害者も、はっきり言って、悪い。

 昨年4月から5月にかけて、携帯電話の出会い系サイトで知り合った女性2人を殺害した26歳の男に京都地裁は、今日、無期懲役との判決を下した。私としては極刑に相当する犯罪であると思うのだが、求刑が無期懲役だったのでむしろ、検察の意図を問いたい。

 しかし、本件に関して言えば、殺された2人の女性には酷であるが、被害者にも非があったといわざるを得ない。
 
 世の中が全体に、こういうことに対して鈍感になっているが、そもそも、若い女性が、出会い系サイトなんぞで知り合った、どこの馬の骨か分からない男と簡単に会い、しかも、男の車に乗ってしまうなどというのは、軽率のそしりを免れない。殺された女性は19歳と29歳で、幼児ではないのだ。あの男に会った段階で、怪しいと思わなかったのであろうか。多少のスリルを味わってみたいと思ったのであろうか。最早、知る由も無い。


2002年11月06日(水) マスコミのいい加減さ

今に始まった事ではないが、マスコミはいつも、「正義の味方」のような顔をしているが、実際は非常にいい加減なものである。

 北朝鮮拉致被害者の問題は昔から、半ば公然と世間で取り沙汰されていたのであって、ここ数ヶ月の問題ではない。しかし、マスコミが真正面からこの問題を取り扱うようになったのは、首相の訪朝が決まった8月下旬からである。にも関わらず、どのテレビも、拉致被害者家族と共に24年間、拉致被害者の安否を気遣っていたかのような風を装っている。偽善的である。事件を知っていながら、世論を形成するような行動を起こさなかった自分たちの怠慢に関しては一切お互いに批判しあう事がない。

 デフレ不況の根源は銀行の不良債権にあり、諸悪の根源は銀行にあり、というようなことをどの新聞もテレビも書いたり放送したりしているが、バブルの最中に、土地を担保として借り入れを行い、更にその金を土地投機に使った殆どの企業の行動に関しては、批判的なことを書いたマスコミは非常に限られていた。バブルが隆盛する以前からこのような経済行動にはっきりと警鐘を鳴らしていたのは、故・司馬遼太郎氏ぐらいのものであった。
 
 それどころか、バブルの頃のマスコミは一緒になってバブルにはしゃぎ、個人向けの「財テク」記事や「銀行の収益力の素晴らしさ」を礼賛していた経済誌ばかりであったといってよい。いま、同じ新聞・雑誌がこぞって、正反対の事を書いているが、かつて、自らの見通しが誤っていた事に関しては誰も触れない。

 各論になるときりが無いが、TBSテレビなどは、坂本弁護士の活動を記録したビデオをオウム真理教の幹部に見せ、これが、きっかけで、坂本弁護士一家は幼い赤ん坊まで殺されたという、取り返しのつかない失敗を犯した。にもかかわらず、いまだにこの会社が存続しているという事自体、おかしい。ましてや他人を批判する資格はない。あの事件の全容が明らかになった後も、TBSに入社を希望する若者の頭の中がどうなっているのか、知りたい。


2002年11月04日(月) 安倍官房副長官の方が首相よりも毅然としている

安倍官房副長官は、昨日、拉致被害者で一時帰国中の地村さんの家を訪ねて、日朝交渉のいきさつを説明した。

席上、地村さん夫妻が「子供と会いたい、一日も早く帰国を実現して欲しい。」と希望を述べたのに対して、安倍氏は、「政府が責任を持って子供たちが帰国できるよう努力する。」とはっきり答えたという。

この「はっきり答える」というのは大変重要な事である。日本政府が努力すべきなのは当然なのだが、肝心の小泉首相は責任を取りたくないのか、確固たる意志を表明しない。いまや完全に拉致問題に関しては安倍官房副長官に任せた形となっているが、これは、一つには拉致被害者の家族たちからの信頼も篤いからだという。

 家族たちの日本と、北朝鮮二つの国家に対する毅然たる態度も立派なものだが、その家族の一人は安倍氏を評して「この人は本気で考えてくれているな。と感じた」と述べている。首相や福田官房長官とはもう、会いたくないのだとも言う。それはともかく、毅然とした国家の意思を代表できる安倍氏を、今回の拉致問題を見ていて、見直した。


2002年11月03日(日) 「自分の肉体的・精神的生存のほぼ全ては、他人の労働の上に成り立っている。」

本屋でベストサイズ・アインシュタインという本を見つけた。相対性理論のアインシュタインの名言集である。そこに載っていた一文である。

同じような言葉は、色々な本で見かけるが、これが、20世紀を代表する天才、論理的思考の極致にある人の言葉なので、感銘した。本当はもっと長くて、「私は、自分の肉体的・精神的存在のほぼ全ては他者の労働の上に成り立っている事を、1日100回は自分に言い聞かせている」というものだった。

 確かに、食べるものがあるのも、着る物があるのも、住む家が建っているのも、水道からいつでも水が出るのも、電気が使えて、夜でも部屋を明るくしておけるのも、会社まで電車で通勤できるのも、電話をかけることができるのも、全て、他者の労働の上に成り立っているのである。
 
 逆にいうと、自分が当たり前の仕事を当たり前にこなすだけでも、誰かの役にはたっているのであって、そう考えると、自分も捨てたものではない。今病気で休んでいる人だって、それまでは、ずっと働いていたのだから、引け目を感ずる必要はない。

 世の中は無名の大衆によって、支えられてきたし、今も支えられており、将来も支えられていく。


2002年11月02日(土) タバコには厳しいが、酒には寛容な社会

 千代田区の一部で歩きながらの喫煙や吸殻のポイ捨てに対して罰金が科せられるようになった。世の中はタバコを吸う人には非常に厳しくなっているが、いつも疑問に思うのは、それでは、酒が世間に迷惑をかけていることもしばしばあるのに、何故、これについては議論が起きないのだろうか、ということである。

 タバコの煙はタバコを吸わない人にとって、煙たくて迷惑なだけではなく、健康をも傷つけるからだ。というのであろう。が酒飲みも十分に迷惑である。

 酒癖が悪い人にからまれるのは実に不愉快だし、女性ならば、酒の席だというのでセクシュアル・ハラスメントに属する行為の被害を受けた人は、相当な数に上る筈だ。タバコの害は肉体に直接影響するから禁煙を推奨するという人が、酒飲みが他人に与える精神的な害について考えたことはあるのであろうか?

 日本は酒飲みには異常に寛容な国だ。精神障害者の刑法犯に占める割合は0.1%で、一般に想像されているよりもはるかに低い。一方酔っ払いが喧嘩で人を殴ったりするのは、毎日、日本のどこかの路上で繰り広げられている光景であろう。

 アルコールはれっきとしたドラッグであり、これほどかんたんに、人格を変えてしまう強力なドラッグが、自動販売機で簡単に変えるのである。(タバコを吸って、人柄が変わり、喧嘩を売るようなことは周知のとおり、無い。)

 タバコのポイ捨てが町を汚すから罰金を取るのであれば、酔っ払って路上にゲロを吐いたものからも罰金を取るべきではなかろうか?

 嫌煙権を主張する人は、何故酒に関しては言及しないのであろうか?酒は自分も好きだから・・・という理由であるならば、身勝手すぎる。


2002年11月01日(金) Everything is relative.(全ては相対的である。)

 学生の頃、NHKのラジオ英会話のテキストに、Everything is relative という言葉を見つけた。英語の決まり文句の一つである。「全ては相対的である」というこの言葉は、真理を言い当てているように思える。

 たとえば、「人を殺してはいけない。」という考え方には普通の人に訊けば、ほぼ100%が同意するだろう。しかし、同時に、私を含めた多くの人は死刑の存続に賛成しているはずだ。8人の小学生を殺した宅間という男は死刑になって当然だ、と考える。言うまでも無く、死刑は国家が法の手続きの下、刑罰として実行する殺人である。もし、厳密に「いつ、如何なる場合も、如何なる理由によっても人を殺してはいけない」と考えているならば、死刑制度には反対を唱えなければ、矛盾している。

 、歌舞伎やテレビドラマで何回やっても人気がある「忠臣蔵」。これも、ありていに言えば、主君の仇を討つという大義名分の下に、赤穂浪士が吉良上野介という年寄りを殺した歴史的事実を演劇化したものであるが、人を殺した四十七士はけしからん、という人は、よほど変わった人であって、多くはクライマックスの場面で「よくやった!」と胸の中で快哉を叫ぶ。

 この二つの例は、世の中の多くの人が場合によっては殺人を容認している事を端的に表している。つまり、絶対、ではない。「すべては相対的である。」

 北朝鮮は、国家的事業として外貨獲得のために、覚醒剤を日本に大量に密輸していることが知られている。この行為は非人道的なものであるが、北朝鮮だけが「絶対的に」悪いとはいえない。なぜなら、密輸が続いている事は、日本人に覚醒剤を買う人がいてこそ、初めて可能になるからである。買う人間がいるから、売る人間がいるのである。「全ては相対的である」。

 何事に対しても一面的なものの見方は、良くない。存在するものには理由がある。自分が絶対正しいという考えになりかけたときには、Everything is relative. と頭の中で呟くようにしている。 


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