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■ 初日を迎えられなかった作品。当日パンフレット文章。
演出の戯言 あの戦争から75年の歳月が過ぎた。 世の中は、昨年の今頃思い描いたのとは、誰も想像もつかなかった地点に来てしまっている。このコロナ禍というものがなければきっと、オリンピックに沸き、その後特集のように組まれる「戦後75年」を記念した作品が多く残暑極まる世の中に出回り、それを目にする度、襟を正す思いになっていただろうし、見せかけの「平和」みたいなものを英霊のお陰をもって享受している気分になっていたかもしれない。しかし、どうにもこうにも「それどころではない」時代になってしまった。 なんでも起きうる時代。 そして人の想像など、はるかに先をいく現実がある。 だがしかし、このコロナすら、なかったことにしようとしている世界がある。 そして、そのことを決定していくのではない人たちが、その決定によって生き死にを決められている。形を維持することに奔走する中央に、地方は捨てられていく。 自粛警察の名のもとに、まるで五人組を地でいくような衆人監視が行われ、 何よりも「集まる」ことを禁じられ、自らも禁じてしまった。 芸事もまず「それどころではない」ところに追いやられ、ステイホームになって「やはりこころの栄養は必要」と再脚光を浴びたりしながら、でも中央としては「オンライン」でなんとかならないものか、と推奨されている。「『場』を共有する目的をもった媒体」である演劇がである。 そんな中で25年ぶりに『洞窟』に息吹を吹き込むことになった。 密が禁じられる時代に、あの密にしかなれなかった洞窟の中の人間模様を描く。 しかも「場」はこの「ひめゆりピースホール」だ。 脚本家・嶋津与志さんが足と耳で稼いだ沖縄戦の記憶の集積のような人物たちの生きざまとぶつかりを、まずは机上で、そして打ち合わせで、そして稽古を重ね物語を紡ぎながら、その人間の行動に驚異と脅威を感じ、善役も悪役もない「そうならざるを得なかった瞬間」に向き合い続けていると、この「洞窟」に存在する者同士が、もし戦時で出逢ったのでなかったとしたら…と妄想は逆に膨らんでいく。でも、戦争は始まってしまったのだ。そして始まったら人は「勝つことしか考えない」のは今だってそうだ。コロナで負ける、と思っていたら何も手につきはしない。見えている世界の構造は、便利に進歩と進化をしているようで、実は何も変わっていない、そのことに翻弄される人間も。 今回、ヤマトンチュの僕が2020年度版上演台本を創る際、慰霊の日の高校生の平和の詩二篇(高良朱香音さん・相良倫子さんー劇中歌にもなっています)にとても勇気づけられ教えられ、大いなる道標となった。それは沖縄という土地が育んだものだろう、「過去」に向き合って「今」があり、その「今」の積み重ねが「未来」を創るのだということを。
本日はご来場いただきありがとうございます。作品はみなさんに共有されることでやっと完成します。狭いところで恐縮ですが、最後までごゆっくりご覧ください。 この作品が、誰かの心に「生き」「育ち」ますように―
藤井ごう
2020年10月25日(日)
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