母のタイムスリップ日記
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2004年01月31日(土) まさか…


 今日の血圧120/68だった。
数日前から、トマトジュース、トマトを飲ませたり食べさせたり…昨日は酢玉葱を食べてもらったけれど…。
ま、まさか 即日効果があるなんて事は無いよねぇ〜。
けれど、久々にいい数値だった。
この所良くて140〜150で悪いと190越える。
180なんてざらの日々で内心はらはらのし通し。
一体何が起きたのだろう。
下がりすぎも良くないと言うけれど 7.8年前はこれくらいの数値が時折出ていたのだから…。職員に話したら食べ物でなんて…と言っていたけれど…。
少し興味が出た。
暫く試してみようと思った。これで下がるなら、余計な心配しなくて済むもの…。

夕方、母を施設に送ろうと玄関でコートを羽織っていたら…母の目から涙が…「駄目だなぁ〜」
「何が駄目なの?」「弱虫で…」
そういえば、家にいる時から「迷惑ばかりでごめんなさい」としきりにいっていた。今日の母は、何ひとつ迷惑なんかかけてないのに…と思って不思議だった。
「何でそんな事言うの?娘には甘えていいのよ。泣きたかったら泣いていいのよ」と声をかけて抱きしめた。堪えていたものが解かれたように…ウォンウォンと泣いた。
「どうしたんだろうねぇ。何が哀しいのかな?」と聞くと「何でも無い」と言う。更に聞くと「何をしてもつまらないの…。」
「じゃ、ここに居ればいいでしょう。泊まってよ」と言うと「有難う。弱虫でねぇ〜。頑張ってみる。もう泣かない」と言った。

此の儘帰っても きっと哀しさを引きずってしまう事は目に見えていた。
だから、二人で歩いて駅まで歩く事にした。
疲れないかと心配だったけれど、腰を下ろすことなくずっと歩き通した。
勿論、大きな声で歌いながら…。

母の記憶はぼんやりとしているから、昨日も我が家に来ている事等はっきりと覚えてはいない。でも、考えてみると続けて我が家に来た日は こんな風になる事が多い。という事は、家に来ているという事が何等かの形で頭に残っているのだろう。

親不孝な私だ。
いや、家でずっと過ごせば ここだってつまらなくなるのだけれど…。
少なくとも嫌に成ったら直ぐに気分転換に外に連れ出せる。

託すという事は、罪な事だなぁ〜。
でも、在宅で何処まで母をよりよく介護できるのか…。
家の事で我慢させることだってきっと増えるのである。

あ〜堂々巡りになってしまう。

施設に着いた母はしきりにおかちゃんを連発。口封じに飴を1個ほおばらせた。「おいしい」…なんて奴だ…聞きたくないことから逃れている。

塗り絵を渡すと今日はタンポポの葉や茎を緑色で綺麗に塗り始めた。
もう少し傍にいれば、今日はきっといい作品に仕上がるなあと思った。
でも間もなく夕食が始まる。テーブルクロスも準備された。
集団で過ごすって難しいなぁ〜。

やっぱり、悪いのは私だね。もっとしっかり向き合って考えなければ…。


2004年01月30日(金) ようやく揃った


 風もなく穏やかな日だったので母を家まで連れてきた。
買い物に立ち寄って来たので 遅めの昼食となった。
山盛りのご飯。ワンタンスープ。配膳すると直ぐに箸を持って食べ始めた。
好物のサツマイモの甘煮にニコニコ。小鯵の南蛮漬けも丸ごと食べていた。
特に南蛮漬けの玉葱と人参を満足そうに食べていた。
小鯵も今回のはほんとに小さい物なので食べ安いのだろう。普通7.8センチだけれど今回は4.5センチ弱である。
小さい方が食べやすい。そして値段も安い…。
玉葱の酢漬けは体にいいとコレステロール値を下げる効果があるって言って
いたから…母にはたくさん食べてもらいたい。

甘い加減の沢庵の小鉢を手に食べ始めたのには ちょっとびっくりした。
ふるさとから取り寄せた物で、お試しの物だった。
お茶菓子代わりになるような甘い物なのだが…。
それでも、漬物には変わりないので、小鉢は受け取って母の目に留まらないところに移動した。

食後お茶を飲みながら私は新聞、母は、地域情報のミニコミ広告紙を読んだ。母がニコニコしながらずっと見ているので何が面白いのだろう…と覘いたら…。赤ちゃんの写真が22名分ほどあった。そこに名前が書いてあり、ひとつひとつ読んでいたのだった。

入浴、洗髪を済ませて髪を乾かしていたら…銀行の人が ご挨拶にきた。
使っているいる銀行なので用があるんだろうと思って門まで出てしまった。
顔見世だったので…出る必要もなかったのに…。
おかげで、母が席を立ちウロウロ…頭も生乾きで寒かっただろう…。

誕生月検診の検便、ひとつは施設で取ってもらったけれどお次がなかなか…で今日ようやく家で揃った。
これで、検診に行けるのだけれど…昨日の娘の話では 風邪ひきさんで溢れかえっているらしい…。悩ましいなぁ〜。


2004年01月29日(木) 私が悪いのに…。

 
景気低迷の中で財政状況を鑑み、福祉サービスの適正化を進めています。
と言う前書きの後 オムツの支給が変更になるお知らせが役所から届いた。
軽度の人へのオムツ支給がなくなる。高齢者、障害者に対しての現金助成が少し削減されるようである。
母の場合は変わる事はなさそうであった。

オムツと言えば…。
昨日、達磨市に出かけた時、失敗した。
水分をしっかり取ってもらって外出したが…トイレ誘導の事を軽視してしまった。混雑するのだし、トイレ事情も良くないとわかっていながらフラットのオムツをプラスしてなかった。勿論替えパンツも持たなかった。
母が、寒そうにしていたのをみて八ッとした。
きっとオムツにたっぷり吸収されたのだと察知した。
でも、何も無い…。
お店で座って一休みした後でトイレに誘導のため立ち上がって貰ったらコートの裏地が少し濡れていた。トイレに入ったらパンツがずしんと重かった。
外そうかとも思ったけれど、帰路の道で若し…だったらと思うと外せなかった。可愛そうな事をしてしまった。

お店でもたっぷり水分を取ったのだが…施設に着くまでは何とか持ちこたえてトイレ直行だった。
下を全部着替えて貰ったら「有難う…」とか細い声が聞こえた。
私が悪いのに…。

冬場のトイレは、便座が冷たい。
家や施設では保温になっているけれど…外でのトイレでは滅多に保温になっていない。
だから、トイレに座らせる時は「冷たい」と反射的に立ち上がってバランスを崩すのが心配で母を抱えるようにして耳元で「冷たいよ。冷たいよ」と声をかける。それでも最初は「ツメタイ!」と言っていたが…この頃は「やっぱり冷たいね」とか座る前から「冷たいの?」と聞くようになったりする。
これも、学習かな?条件反射かな?
ほんとに不思議だ。嫌な体験だって具体的に思い出せないのに…ことトイレに関しては記憶が残るなんて…。

忘れるよりは覚えていてくれる方が嬉しいから…いいんだけれど…。

外出には、忘れ物をしない事…。忘れない内にバックに詰め込んで置こうっと。


2004年01月28日(水) はさみ将棋

母は、入浴中だった。
お風呂から上がってくるまで、持参した将棋で他の入所者の方と遊んで待った。男性の方は、コックリコックリだったので、女性の方とはさみ将棋をした。
将棋盤に興味を示したFさんに お相手をして貰おうと思い準備したけれど…
残念ながら 興味以上前には進まなかった。
そこへ「子供が小さかった頃 よくせがまれて遊んだよ」とSさんがやってきた。Fさんは、割り込まれても全く気にしないのでSさんにお相手をしてもらう事に…。
ゲームを進めるうちに「ほらここを動かせば取れるよ…」とアドバイスされる。こっちは加減していたのだが そんな加減は必要ないかの様だった。
でもでも 途中で「私ちょっと部屋に行って来るから…」と席を立って其の儘ゲームは終了。
勝ち負けに拘らないゲームと成った。
程なく 母もお風呂から上がってきた。はさみ将棋をしている間、浴室からは職員と母の歌う声が聞こえた。「荒城の月」とかの歌で歌詞もよく覚えているように聞こえたけれど…。
水分補給後、外に出た。
バスに乗って「達磨市」に出かけた。
参道は出店もありすごい混んでいた。
「迷子にならないでね」というとぎゅっと腕組みした母。
こんにゃく屋の出店の前で「食べる?」と聞くと「食べてもいいよ」という母。注文しようとすると母は、前の人をどかすように「ちょっと買痛いのだけれど…もう少し横に行って…」と前の人に紋切り型の声がけをした。
一瞬ヒヤッとしたけれど、周囲はもう高齢者ばかりで、誠に鷹揚でホッとした。一本のこんにゃくを母と分けて食べた。
更に境内に向かって人込みをよけながら進んだ。
たくさんのだるまがあった。大きいのも小さいのも…。小さめの達磨で袈裟の色に塗り分けた達磨が有った。綺麗なのでそれを買い求めて施設へのお土産にした。
母は、外出出来ても、他の方は施設内に留まっているのだから…季節の風を届けようと思った。

母は達磨市に背を向けて帰路の道を歩くと達磨のだの字も思い出せなかった。
風があって少し寒かったけれど…足取りは軽く元気だった。


2004年01月27日(火) 母にとっての子供とは?


 昨日、母と散歩しながら ふと聞いてみた。
「○○(長男)は元気かねぇ」  「ん〜何をしているかね〜」
「○○(長男)は大事?」    「ん〜。そんな事も無いよ」
更に次男の事も同様に聞いてみたが、やっぱり似たような答え方だった。
最後に私の事を同じように聞いてみた。
勿論 「××は大事?」と名前だけで聞いてみたのだ。
するとやっぱり 同じ答えが戻ってきた。
仕方ないよね。私を従妹と思っているんだし従妹から子供の事を聞かれたら「いい子だよ」とはやはり言えないだろう…。

よく考えてみれば、自分に子供がいると想定できたのだから…状態的にはいいという事だと受け止めることにした。

母にとっての子供は 遠くに住んでいるんだねぇ〜。
そりゃ、寂しいよね。
おかちゃんも子供もみんな遠くにいるんだから…心許無いだろう。

母が私を認識できない事に悲しさとか寂しさを覚える事はない。
どうあっても親子である事に違いは無いのだから…。

それでも、記憶が繋がらない事を承知で
「私のお母さんは○○ちゃん(母の名)」「○○ちゃんは、私のお母さん」と繰り返し言ってみた。
母は「有難う…勿体無いねぇ〜」と言った。
おかしな会話だけど…私に対して「有難う」と言ったのだけれど娘の私に言ったのではなく「従妹」に対してお礼を言ったのだ。
少しもどかしかったけれど…他に「子供だ」と認識して貰う手段が見つからなかった。

なぜ そんな事を聞いたのか…。
それは、おととい長男から電話がきたので…「電話が来たよ」と伝えて…どの位判っているかな…と探って見たくなったのだった。





2004年01月26日(月) 引っぱりうどん


 ちょっと重い気分なので、まずは食べ物の話で…。
昨日のお昼は、久々に引っぱりうどんを食べた。
「エッ 何それ?」と思われるだろう。
これは、実家で食べていたものである。同郷の人でも そう多くの人が知っているとも思えない。
でも 多分郷土の料理だろうと思う。
いや、料理と言うほどのもので無いのだが…。
そして、お金もそんなにかからないのである。
なんか作るの面倒…でも寒いし…お腹が空いたし…といった昼時に食べるものだろうと思う。

前置きが長くなると「なぁんだ」に成ってしまうので…。
乾麺(うどん)は太くない方がいい。
それを大鍋でゆでる。
準備は納豆と卵と薬味(葱、ミツバ、ゆず)
納豆をどんぶりに入れて糸がたっぷり出るまで混ぜる。そこに生卵を落として更にかき混ぜる。
後は しょうゆかめんつゆを入れる。
うどんが茹で上がったら鍋ごとテーブルに載せる。
準備した納豆を器(おわんでも可)に好きな分量の納豆を取り薬味を入れて鍋からうどんを自分の箸で取って食べるのである。
簡単に言えば 熱々のうどんを納豆だれで食べるのである。
これは、体が直ぐ温まる事請け合い。
ビタミン不足なら、野菜サラダを付け合せればいいだろう。
ヘルシーな昼食である。

小さい頃から 食べてきた。
多分 食事作り面倒な時の納豆ご飯のうどん版だろうなぁ〜。
引っぱりうどんは、好きだった。
でもあまりに貧乏くさくて…自慢できる事でもなかった。

それでも、今でも我が家に登場するのである。
家族の評判は…悪くない。と言うか上々。

母の所に出かけるとイロハがるたをしていた。
カルタ取りの場面を見ているといつも感じる事がある。
それは、読み手の声の後に取るカルタが本来の形だけど…。
結構、取るのが大変である。
母たちにとっては、頭の文字と絵で読みが判るので 絵のついたものだけでも充分楽しめる風なのだ。いや、その方がとても楽しそうに見える。
私の子供時代だってイロハがるたを楽しんだけれど…母たちほど覚えてないなぁ〜。


2004年01月25日(日) 息を吹き返すか…

腕時計を使い始めたのは、高校生になった時からである。
父に買ってもらった時計は手巻式だったと思う。
とても気に入って使っていたけれどある時手を上げた隙に腕から外れて車の下敷きと成ってしまった。それから 幾度も買ってもらった。どういう訳か時計を落としたりする事が多かった。
だから、高級な時計は買えなくなっていた。

ある時壊れかけた時計を直してもらいに時計屋さんに行った。
するとおじさんが 安物の時計にも関らずきちんと見てくださり御代は要らないと言われた。
直った時計を其の儘使っていると ふるさとの友人の知り合いの時計屋さんが「そろそろいい時計を使いなさいよ」と言った。
私も何となく感じていたのでそこで新しい時計を買った。
時計屋さんのショーケースの中からあれこれと長い時間をかけて選び出した。秒針がついて 文字盤が大きく シンプルで薄い形を探していた。
その時の時計が 今使っている時計である。
男物の時計なので、大きい。
後に洋服に合わせるように小さめの時計を買ったりして数種類の時計を持っているけれど、いつも使うのはこれで 最近はどんなときもこればかりになりつつある。

それを、数日前慌てて床に落としてしまった。
あまり気に留める事無く外出。
母の所で面会ノートに時間を記入しようとして時計を見たら止まっていた。
「がーーーーーーん」であった。
昨年かその前か…定かで無いが同じように止まってしまった事があった。
その時 祈るような気持ちで地元の時計屋さんを訪ねて直していただいた。
あの時おじさんは、「これは古いから部品が無いよ。ちょっと前にも同じ時計を持ってきた人がいて部品を取り寄せようと思ったら無いといわれたんだ」と申し訳なさそうに言っていたのだったが…ちゃんと3千円で直してくれた。
あー次はもう治らないなぁ〜と覚悟していたのに…。
夏のジャズフェスタでずっと手拍子をうち続けたら 時計が止まってしまったがそれでも動き出した…。

でも今回は駄目だろう…と諦めかけてバックにしまいこんで数日を経た。
諦めきれずにまた時計屋さんに足を運んだ。
年老いたご夫婦で錆びれた感じのする時計屋さんだけれど…。
おじさん時計を見るなりやっぱり古い時計だからなぁ〜とじっと時計を見つめていたが ニッコリ微笑んで「大丈夫10分で治るよ」と言った。
10分後戻ってみるとちゃんと直っていた。料金500円だった。
息を吹き返した時計を手にしたとき やったぁ〜と飛び上がりたい気分だった。

デパートにも大型店舗にも時計売り場はあるのだけれど…。
やっぱり町の時計屋さんが、私の駆け込みどころである。
あと、何年使えるのだろう…。25年は言うに過ぎている腕時計である。
愛着はお金で買えないものねぇ〜。


2004年01月24日(土) 知らんかったぁ〜

昨日 TBSラジオのゆうゆうワイドを聞いていたら、小林カツヨが白菜のクリーム煮の作り方を説明していた。
我が家でも冬に何回かは登場するメニューである。
でもミルクを入れからの仕上がりがイマイチだった。
いや、謎が解けた。白菜から出る成分がミルクを分離させてしまうそうなのだ。だから、白菜を炒めた後取り出して、ミルクを入れ片栗粉でとろみを付け白菜を戻せばいいと言っていた。
「やったぁ〜」と思い夕食に早速取り入れた。材料は全て揃っているので楽チンと思いきや…。
とろみの付いた所で白菜を入れたら…いつもと同じ仕上がりとなってしまった(涙)。白菜を上げた時もっと絞ればよかったのかなぁ〜。

今日の母は、やたら笑い顔だった。
笑う事が多いとふと不安になる時がある。
母がデイに通い始めた時 お仲間にアルツのご婦人がいて その方は何を話しかけてもただただ笑っておられるのだった。知り合った頃は徘徊が酷かった。ご近所だったので 時折お散歩に誘う事もあった。
どんな話を振っても(例えばふるさとの話等を聞いても)笑って居られた。
母もそうなってしまうのかな?と思ったりするのである。
怒ってばかりも大変だけれど、笑って「暖簾に腕押し」だとそれも辛い。
しょうがないとは判っていても…ふとそんな事を考えてしまう。

リハを受ける前からとても眠そうで…幾度か横になったりしていた。そのつど声がけして起こした。
でもリハが始まったら ぷーぷーと口を震わせながら息を吐いて心地良さそうに眠ってしまった。モチ、リハ中の殆どである。
終わったら「あら、お兄ちゃんだったのね。こんにちわ。お蔭様で疲れがなくなりました」とお礼を言っていた。
始める前にちゃんと挨拶を済ませていたのだけれど…やっぱ忘却の彼方である。

施設に母を送り届けると「こんなに早く来てしまったぁ〜」と言われた。
学校と言う認識をしていたので、感覚的には出かけて戻ったと言う事を理解できたのだろう…。
それにしても、私には 厳しい一言でした。
今日はちょっと聞こえぬ振りでごまかしてしまった。


2004年01月23日(金) 心臓が弱ってきてるなぁ〜


 先日の役所へのお願した事で 今日 途中経過報告が入った。
前向きに検討して貰えて居る事は嬉しい。結論はまだ出てないけれど、あちこち当たって貰えて居る事が判っただけで希望が湧いてくる。
でも、現実は厳しい…。

家でウロウロしていると友人から電話が入る。
「介護保険は、何処に申請するのぉ〜」と聞かれて役所か支援センターと教えた事での結果報告だった。
友人の近隣に住む一人暮らしの方のようだった。
報告によると子供さんから同居しよう…と言われて申請しない事になりそう…と言う事だった。
余計なお節介だけれど…と言いながら 「これまでお子さん家族とどの程度行き来してたか判る?」と聞いてみた。すると「盆暮れ2泊3日くらいと思うよ」と言う事だった。
「じゃね。ショートステイ。ミドルステイ。みたいに家族の家で過ごす時間を作って一緒に暮らすコツみたいな所を経験して同居に踏み切った方がいいと思うと伝えて」と言った。
自分の家を引き払ってから「失敗」と思ってももう戻る家が無いという事は良く耳にするからである。
同居か近くに住むか、今のままの生活をもう少し続けるか…そこは吟味するに越した事はない。何れ頼る時が来る時まで細くとも離れないような関係維持は大事だと思うから…。
元気なら、尚更である。

別の友人からの電話で お母様の為に手すりを5本つけたという事も聞いた。
これは、とても難しい問題である。
手すりは 介護保険利用で6千円で取り付けられたと言っていた。
費用は、そんなものだろうけれど…痴呆の場合 歩けなくなる事も案外多くて付けたと思ったら直ぐ車椅子利用となり今度は手すりが邪魔になり外す…という事にもなる。
この話は 1度や2度で無いくらい耳にしていた。
介護仲間の間では 散々上る話題であった。
もう少し広く伝えておけば良かった…と思う。

本人の為にと早々と手すりを準備した結果 歩けなくなるのが早まるという事だってある。生活リハビリって案外重要なのである。

手すりなしで転倒もありえるので状態を良く見て判断だけれど…。

大寒が過ぎただけあって、朝の冷え込みは強かった。
それでも、午後になると少し暖かい。
母を連れて 散歩に出た。
少し離れたスーパーに向かって行った。足取りは軽いのに 歌を歌って歩いていると息切れしてきているのがわかる。母もわかるようで「駄目だなぁ〜息切れがする…」と言った。
歌をやめてお花に目をやったり空を見上げたり…に切り替えた。
寒い筈なのに 歩いているとホカホカとしてくる。
スーパーでお菓子と暖かい飲み物を買って休息所で食べた。

母の足取りの軽さから 時折休めば3キロ以上は歩けそうだなと感じた。
歩く距離を増やし始めたらやっぱり脚力は付いて来ている様である。
心配はおおもとの心臓だなぁ〜。
健康診断では、この辺りも医師と相談という事になりそうである。

それにしても よく頑張って楽しんでくれる母である。感謝 感謝。


2004年01月22日(木) そんなぁ〜言えないよぉ〜…


 今月退職予定の娘なので ポツリポツリと有給消化で家にいる。
昨日もそうだった。
娘と下らぬ話で笑っているとつられて母も笑った。
笑う意味は違うのだけれど、それでも笑わないよりいいんじゃないかと思ったりした。

母に「ねえ。早くお嫁に行きなさいって言ってやってよ」と言ってみた。

いえ、娘がお嫁に行こうが行くまいが拘りはない。
出たい時に出て行けばよいと思っている怠惰な親である。
でも、こんな会話なら母も乗りやすいかな…と思っての言葉だった。

すると母は「そんなぁ〜。出て行け見たいな事言えないよぉ〜ねぇ〜」とかわされてしまった。
これには、娘が飛び上がって喜んだ。
「ねぇ〜。言ってやってよぉ〜」と重ねて言っていると…。
窮した母は、「出て行きなさい」と言うニュアンスでない言葉を使ってやんわりと嫁に行く事を勧めた。
こんな表現にしか書けないのは その母の言葉を忘れてしまったのだ(哀)
狙い通りの会話に引き込む事は出来、してやられてしまったけれど…。
元気だった母の教育論は引き出せなかった。残念。

そんな話をしながら、ガスストーブに焼き網を置いた。
母は、興味深々である。
お正月には、キッチンで餅を焼いたので母は見ていなかった。
網の上に菓子餅を置いた。半つきの餅に青海苔やゆず、豆をいれ塩味の付いた餅である。これは、夫の義姉がついて送ってくれたのだった。
母の興味は更に深くなり「なに?」と聞いてきた。
「おもち」と言って触らせた「ほんとだ」と餅を網に載せた。
「ひっくり返してね」というと恐る恐る返しながら「まだ固いね」と言う。
粉が落ちて焦げた匂いが広がってきた。
焼きあがるまで じっと餅に見入っていた。
残念ながら、一口は食べたけれど 焼いた餅は母の歯にはよくないようだった。それでも「熱いね。おいしいよ」とは言っていたなぁ〜。

暖かだったので入浴洗髪もした。
けれど、浴槽に入って貰う時の動作の説明が大変だった。
バランスが取りにくいせいだろう…不安感が強くなるようである。
そろそろ取っ手をつけて滑り止めのマットを使うようかなぁ〜。


2004年01月21日(水) お母さん、ありがとね

母の所に向かってトコトコ歩いていたら…川面に白い鳥が…。
「あ〜今年も来たんだねぇ〜」とちょっと道から川辺りへと降りてみた。
数日前迄入れておいた双眼鏡だけど重いからと取り出してしまった事を後悔した。もっと近くで…と欲が出て数メートルの所まで寄って見たら…気配を感じられて離れたところに飛び立ってしまった。
川面の白い鳥は、ミコアイサという鴨である。

母はホールにいた。私を見つけて「おいでおいで」をした。「なぁ〜に?」と傍に行くと「ちり紙頂戴」と言った。テーブルを見るとジュースが少し零れていてちり紙でそれを拭いた。
濡れてるから拭くという事 覚えているんだねぇ〜。
いや、でもいつもは 汚れても居ないテーブルを手で撫でて拭いている母なんだけれど…。ちり紙を下さいって言えたんだよね。
でも考えれば…。
在宅の頃、ティッシュで拭くという事 嫌がっていたんだよね。
「台布巾を使いなさいよ」って行ってたなぁ〜。
もう、ちり紙で拭くという事 当たり前になってしまったか?
いや待てよ。これも 学習してるって事なのだろうか。

それでも、この動作が きょうのヒントになった。

外出する前に 軽く居室の掃除をした。タオルで床や畳を拭いたのである。
いつもなら家に持ち帰って洗濯するタオルを母に洗ってもらった。
洗面台に石鹸を付けたタオルを置いて水を溜め込み母に代わった。
「冷たくない?」「嫌じゃない?」幾度も母に聞きながら「なんとも無いよ」と言う返事を得ながらである。
母は、泡をいっぱい立てて洗っていた。
そこに職員が「○○さん、ネコちゃんお借りできますか?」とやって来て
暫くネコを挟んでおしゃべりしていた。
が、母は「すみません ちょっと…」と直ぐにタオル洗濯の仕事に戻った。
おそらく、タオルを洗う事を仕事として意識して張りを持って取り組んでいたのだろう…。
仕事を終えた母に「有難うございます。大変助かりました」と言うと「いいえ、これしきの事…」と。そう、これが聞きたかった。

そんな訳で、家に来てからも昼食後の食器洗いをしてもらった。
勿論、綺麗に洗うという事は今の母には出来ない。
だから、全て洗い終えた物をお湯に漬けておき、お湯を出して母にバトンタッチ。お湯で濯いで水切り籠に移してもらった。
水切りに移すのだって母には出来ない。
だから 隣で別の仕事をしながら濯ぎ終えるのを見計らって「あっちにね」と声をかけるのである。
これも、全て 完了。「有難う」と言うとどういう訳か「こちらこそ…」と返ってきた。

働いた…という場面 記憶には残らないだろうけれど…せめてもねぇ〜。

と言うのも、トイレで不思議な言葉を聴いたのだ。
「小さい頃ね。こうやって紙を上にやってね…いたずらした事がある…」と。どんな事をしたのか私には全く想像も付かないのだけれど…きっと母の中の記憶に留まっているのだろう。つまらない事だから子供の私に話す事もなかっただろう…。
こんな風に 母の心許ない記憶のどこかに「仕事をした」と言う満足感が埋め込まれるかも…と思ったのである。


2004年01月20日(火) ずるずる…クッシュン!


 花粉症か?風邪か?どうにもおかしい。
この所 危なげな状態なので、用心のため外出自己規制。

家で出来る作業を進めた。
 昼近くなると 母の事が気になり玄関まで行っては戻り…の繰り返しで…。日が暮れてようやく気持ちが落ち着いた。(諦めた)
これじゃ、徘徊の前段階みたいだ(笑)

一日家に篭ってゴソゴソ…。
買い物にも行かず 食事の支度。

暖かな一日で、何だか勿体無い事をしてしまったような…そんな気がする。


2004年01月19日(月) 良い 悪いは さて置いて…


 今日の会の話題から問題の無い所で…。
ヘルパーさん
・利用者さんが 寄せ植えを楽しみたいと希望なさり園芸店に連れて行って貰ったそうです。利用者さんは、片麻痺があるため 植える事も思うように行かず別のヘルパーさんにお手伝いして貰ったという事だった。
これは、本来 ヘルパーさんの仕事とは言えない。
若し ヘルパーさんの手を借りるならリハビリ作業と言う項目となるだろう。ヘルパーさんは、本来 活動項目が決まっているから急な依頼は受け入れない筈である。
・「トイレ掃除」が活動の項目にあったとして…。
ヘルパーさんの生活習慣により 掃除の仕方が異なる。この場合、ケアマネさんが 掃除の項目を細かく説明する必要がある。だから、ケアマネは利用者の要望に沿った掃除の仕方を聞いておく必要がある。

・ある地域に一人暮らしで家族も遠距離に住んでいる利用者さんの場合の金銭管理。
普通、ケアマネさんはお金を預からない。
でも、善意で預かってくれる所もあるそうである。
ある方が、預けたお金の使途の明細が出ない…と言われていた。
この場合、ケアマネさんに 簡易の領収書(レシート)の提出を申し出るべき…という事で一致した。
これは、ヘルパーさんも同じである。
お金を預けるよりも 連絡してお金の場所を利用者にはわからない所に保管して置くと言う方法もある。

介護保険が始まる以前に私の住む町には医師会の訪問看護があった。
現在は 無い。
医師に勧められて利用した時期があった。
この時の看護士さんは、拡大解釈で看護して下さった。
母の場合、散歩に同行は勿論、ナースステイションまで母を連れて行き折り紙や工作を母から引き出してくれた。また、一緒に編み物もしてくれたり…だった。このナースステイションの婦長さんの方針でそう出来ていた。
勿論、スタッフも充分理解していてくれていた。
みんなが、息を合わせて看護に取り組んでいるなぁ〜と感じた物である。
先日、その話となり あの時はとても良かったねという話になった。私は利用者の家族であり、同意してくれたのは ヘルパーとして活動していた人である。

こういう話になると、線引きの問題が出る。
確かに、ダラダラと仕事を頼んではいけない。
痴呆、麻痺、一人暮らし…等状況は異なるのだが…。
利用者が意欲を持って 生活に挑めるようになるなら…という配慮も一方では大切になる。
今は、サービス枠から外れる場合は出た時間を保健利用外で短時間に押さえながら補足活動に当たるのがわが町のやり方のようであった。

単純に私個人の思いは 拡大解釈活動の方を望んでいる。

別の会で、わが町のケアマネが訪看との兼務している所が目立つと言う話になった。今の所、苦情は出て無いけれど、「家でも訪看やってます」と利用者の取り込みをしないだろうか?と話題になった。
新規の介護保険利用者には 事業所の一覧表が渡される。でも一度貰うとその後の新規の事業所の案内は来ない。
これでは、介護者は新規の事業者の存在を知る事もなく 言われるままの利用になってしまいがちになる。
先日、別の用で出かけた折 介護保険更新のお知らせを送る時に新規加入の事業所の一覧を添付して欲しいとお願いしてきた。
これを、今日の会でお話した。ここには支援センターの職員の方が参加なされているから…。支援センターの人は「そこまで気が付かなかった。利用者の権利を有効に使うべきですね」と言ってくださった。
一人では 気が付かない事、いえない事が多いけれど…介護者が集うとこんな事も見えたり、言えたりする。






2004年01月18日(日) ブランコに乗ったよ


 いつも、いつも「不思議…」って思うのであるが…。
痴呆とは、忘れるだけの病と思いきや 新規に覚える力も残っている。
著しいのが、人の顔 続くのが風景である。
母の場合 だけだろうか?
 
昨日も作業療法士さんに「久しぶりですね」と挨拶していた。正確には 1週間づつ会っているのだけれど、顔を覚えているのである。
それも、顔を見るとちゃんと横になる。
名前とかは覚えて無いしどういう仕事の人か…なんて言葉ではいえないけれど…でもぼんやりとした記憶の中で理解できているのだろう…。

そういえば、自動車の名前なんて 興味も無かっただろうに…と思うのに、先日 母にしてやられた事があった。
トイレで排尿を誘導している時「しぼってぇ〜。しぼれぇ〜」と声をかけた。その時「車?」と笑い返されたのである。
もう、びっくり仰天だった(笑)
母の記憶の構造ってどうなってんだぁ〜。

食事等の時も感じる。
家で食事する時 並べられた物を「おいしそう」はいつもの事である。
例え残り物であっても…。先日は、海老天の残りだってそうだった。
家で揚げたものでそれも前の晩なので「しなっ」としていたのに…。
やっぱり 母は「おいしそう」と言った。
外食だって そう言う。
でも見ていると、施設の時は あまり言わない。
彩り等家よりずっと綺麗なのに…。
母の中で何が基準となっているのだろうか?
まさか、私にゴマをすっている訳でも無いだろうねぇ〜。そうなのかな?
もっとも、施設の食事時って話し声が無い…だから 黙って食べるもの…という条件反射なのだろうか?
施設外だとお茶を飲む時だって「おいしい」って言うし水を飲んでもおいしいって言うんだなぁ〜。ほんとに不思議だ。

今日も母の所に足を運んだ。
昨日、少し長めに歩いたので 足が浮腫まないか…と気になったからである。でも大丈夫だった。
ただ、大量の排便があり腹痛を訴えている…と言っていた。
私が後ろに立っていても 全く気が付かない。後ろから頭や首を撫でると笑っていた。近くに職員の方がいて…話をしていたのだが…。
今日は、ちっとも笑わなくて…という傍から 笑顔が出てきたのでホッとなさっているようだった。

昨日よりずっと暖かいのでまた外に出た。今日は、休息を入れながら3キロ以上を歩いた。足取りも軽い。急ぎ足でも付いてくる。でも かなり息切れをしている。「苦しくないの?」と聞いても「大丈夫」との返事だった。

途中 子供達がブランコに乗っていた。
近くまで行くと子供たちは 飽きてしまったのかブランコから離れた。
「ブランコだねぇ」と母が言うので前まで行って「乗ってみる?」と聞いた。座るのは危ういので座るまでは手伝った。
その後 どうするかな?と見ていると お腹で漕ぎ出した。
お腹でという状態理解して頂けるだろうか?
お腹を前に後ろに動かして体重移動させるのである。
少しずつ ブランコは揺れだした。後ろから押してみると嫌そうだったので母の好きなように…と見守った。
「あんたも乗りなさい」と私に譲ろうとしたので隣のブランコに乗って二人でブランコ遊びをした。
青空の下 年老いた母と中途半端に老いている私と二人で漕ぐブランコ。
なんか変だけれど…「いいかぁ〜」(笑)

こんな年になってから 母とブランコで遊ぶなんて考えもしなかった。
あ〜何年ぶりだろう…。記憶にあるのは…8年位前に近くの公園で乗ったかな?あの時は 少しでも気持ちが落ち着いてくれれば…と思っての事だっただろう。内心イライラとした思いで「こんなにしてあげているのに…」と言う気持ちでいっぱいだった筈である。
今、機能低下しないように…楽しめるように…という思いでいっぱいの自分。 
この違いは、きっと 病の進行の表れでもあるよね。


2004年01月17日(土) 返す言葉を失う…


 母はホールのテーブルにティッシュを広げタオルでそ〜っと拭いていた。
どうやら「鼻をかみなさい」と職員に渡されたティッシュだったようだ。
「何してるの?」と聞くと「ここに砂が落ちてね、拭いているんだよ」
「そう。大変だねぇ」どうやら、母は泣いているようで鼻をグズグズさせていた。
何かが起きたのだろうけれど…話せる母では無い。
でも、何か有って母が誰かに謝ったのだろう…という事が想像できた。
「鼻かもうよ」と言うと鼻をかみ始めたのでサッと居室に荷物を置きに走った。戻ると鼻をかみ終えたティッシュを何処に捨ててよいか分からずにワゴンテーブルを動かしてその隙間にはさみこもうとしていた。
「頂戴」と受け取った。

トイレに誘導して後始末をしている時「有難う」と母は言った。
が、続けて「いつも有難うとごめんなさいと言うばかりで…何もわからない…」と呟く声が耳に入った。
咄嗟に返す言葉を失ってしまった。
いつもちゃんとお礼を言えるから 好いなあ…と思っていたけれど「世話をされるばかりで何も出来ない…」そんな思いがずしりと伝わってきた。
一人でパンツをあげた母に「すごいなあ…出来るね。優等生だぁ〜」と返すのが精一杯だった。

「今日、私の家に行くけれど いい?」と聞くと。
「嫌な顔をする人居ない?迷惑ばっかりかけるけれど…」
「大丈夫。みんな○○ちゃんの事大好きだから…」「そうかい。じゃ、行くよ」

エレベーターに乗り込む時「開けゴマ」で空いたドアでようやく笑顔を取り戻した。
外は雪が降っているけれど、母の足取りは軽い。
家に付く頃には、涙目は 消えていた。

母と一緒に「夢ねこ」も連れて来た。
この2日でどんな風に慣れたかを知りたかったから…。
「可愛いねぇ〜」「これ食べる?」「何処を見ているの?」等と猫ロボの視線を追って「これかなぁ〜?」と話しかけたりしている。
怖がったり嫌がったりはなく 安心した。
これなら、一人きりの時でも気が休まるかも…と思った。
昼食時、パソコンの前に夢ネコを置いたら、暴走を始めた。
触れもしないのに…鳴く、動く…。まるで生きているかのようだった。
内蔵されている機械にはよく無いけれど…こっちの方が楽しい…。

リハを受け、入浴、洗髪をした。
寒いのでどうしようかと思ったけれど…これ以上放置は出来なかった。

帰路、久しぶりに駅まで歩いた。距離にして2キロ強の道のりだ。
幸い足の浮腫みも無いし…今日もしっかり水分摂取し尿量も多いので歩く方がいいだろうと判断した。
雪はチラチラ舞っているけれど、これくらい母はどうって事ない筈である。

半分ほど歩いた所で「足痛くない?」と聞いてきた。
これは母自身が痛いというサインでもある。「痛くないけど、○○ちゃんは?」と聞くと「痛くないよ〜…」相変わらず頑張りやさんの母だ。
気分を変えて二人で歌を歌った。
こんなお天気なので歩く人もなく思いっきり大きな声で…。

歌い終えると「頑張るぞ。頑張らなきゃ〜」と言う呟く声がした。
「すごいねぇ〜。とても88歳の人に見えないよ。気合も充分。偉いわ。私のお手本だねぇ〜」と言うと「いや、お手本なんてとてもとても…」と恥ずかしそうだった。

意識して「褒める事」「感謝する事」して行かなければ…と思った。

おまけ
今朝、トマトの味噌汁にチャレンジ。
家族は「好きだよ」の合格点だった。お昼には、タバスコを入れないで母にもチャレンジしてもらいました。
という事で、我が家では好評でした。ジャン ジャン!



2004年01月16日(金) 抱えた宿題


 会の仲間と万障繰り合わせて役所の玄関のフロアで待ち合わせた。
介護者は 介護に追われる日々で事前の話し合い等 なかなか出来ない。
危機を察知すれば、万障繰り合わせて行動を共にできる。
フロアで基本の話を纏めて アポイントをとった役所の窓口に向かった。

訪ねると 係りの人が電話の応対をしていた。
その隙に仲間と窓口においてある介護に関するパンフを集めた。
わが町の事だけかも知れないけれど…。
介護に関する業者の一覧表は 介保の手続きした時は貰えるのだが、それ以降の追加業者の資料は役所に出向かなければ貰えない。
出掛けたとしても、そんな追加資料があるなんて事だって判らない。
介護仲間から得る情報から その存在を知った訳だけれど…。

一人でモクモクと介護していたら 気が付かないままという事だってある。

そんな訳で、窓口で 追加の業者の一覧くらい保健更新のお知らせと共に送付して貰えないだろうか…とお願いした。
「ご意見、確かに伺いました。参考意見として反映させて戴きます」と。
「でもこういう事は、役所のホームページでも見られるのですよ」
「ががーん」PC持っている人って どれくらいいるの?介護に追われてPCだって開けない人もいるんだけれど…と思ったけれど、嫌味で無い言い方だったので反論はしないで置いた。
可愛いお姉ちゃんだった事も影響したかな?
いや、娘のような年齢だとつい…。

でも、介護者にとって業者の一覧表や新設の施設情報等は必須…と訴えてはきた。

電話対応の済んだお目当ての人と別室で対談。
こちらの要望を現況報告しながら伝えた。

帰りに宿題を背負った。
家に戻り 宿題の構想を練って居たら 母の所に行く時間が足りなくなってしまった。(ため息)
明日は、リハで家に連れ来るから…勘弁ね。
宿題もたたき台までは 出来たけれど…。まだまだ…。
さ、焦らずに…でも、少し急いだ方がいいのだろうなぁ〜。


2004年01月15日(木) 明日陳情に・・・

 
 いろいろあって 明日役所に会の人と陳情に行く。
どうなるかは 判らない。
介護する人が 少しでも気持ちが楽になるなら…例え小さな事でも訴えていく事が先を開いていく事になる…そう考えるしかない。
無力かもしれない…でも動かないで居る事よりいい。

小さな思いよ 届いてください。

母といつも言っている言葉…「開け ゴマ!」

心もとない小さな細い活動でも、途絶えないように…。
その気持ちで繋がっている介護仲間…。

届いて欲しいなぁ〜。みんなの思い。


2004年01月14日(水) また来てね


 早めに母の所に向かう予定でいたけれど 家人の用で出遅れてしまった。入浴の予定を取りやめて、デパートに向かった。
母には 説明したけれど理解できなくて「何処にお出かけ?」と職員に聞かれても「「何処行くんだか わかんない」と言っていた。
質問の内容に沿った答えが出来たから「合格だ」

デパートに行く前に休息所で持参したおやつを食べてもらう。今日は 足の浮腫みが見られたので水分を余計に摂ってもらった。

デパートに入って玩具売り場にまっしぐら。
お目当ての物に…電池がなくて試せない…。店員さんに頼んで電池を入れて貰った。
1番先に試したのは、音に反応して傍に寄ってくる「わんちゃんロボット」
これは、本物の犬と思い込んだ母が のけぞってしまった。
これだと転倒の危険がありそうだと取りやめた。
2番目は、セガトイの「猫ロボット」これも怖がった。けれど、首と尾っぽを振るだけだし鳴き声も母の耳に届くようである。
3番目にバンダイのお人形
これは、やはり音量の調節が無いので母の耳にはお人形の話す声が届かなかった。ただ「かわいい」と無条件に受け入れていた。
でも、それだと普通の人形と変わらないので止めた。
4番目は、動かない犬型ロボット。
これも首や尾っぽを振るだけ。鳴く声もするのだが…壊れていた。
繰り返し 母の反応を見ていたら…。
近くの人がドンドン傍に来て 面白がる。近くに来る人は玩具が面白くて近寄ってくるのである。子供の反応は鈍かった。
それよりも 近くの売り場の方が離れた所で見入っている。
年寄りが玩具売り場にいるから見入っているのかと思ったけれど、そうではなくて、本物に近い猫に興味があるようだった。
母の様子を見ているのに周囲の反応まで目に入って…面白かった。

結局のところ 猫ロボットを購入した。
でも電池の寿命が10時間だと言う。
それと 試せるロボットは 壊れてしまっていて…。どの位の耐久性があるのかなと気になった。

施設に持ち帰り荷を広げ始めたら…
母が「気色悪くないよ」「気持ち悪くないよ」と幾度も言う。
やはり猫、犬が好きでないので…そういう言葉が出るのだろう。
本当の声は「気色悪い」「気持ち悪い」なのかも知れない。
でも 傍で繰り返し動かしていると猫ロボに「こんにちは」「なんかいって」と話しかける。
暫く使えば 慣れると感じた。
猫ロボが尾っぽを上げるたびに「おしっこするんじゃないの?」と心配していた。
纏い付いて来る訳で無いので、怖さも半減するようである。

職員が驚くといけないので、見てもらって使い方を説明した。
職員のほうが面白がってみていた。
後でみんなと使ってみてください。壊れたら壊れた時ですから…と伝えた。

母が猫ロボに見入って炒る間に「宜しくお願いします」去ろうとしたら…。
「また来てね」と母が言った。
「ぎょっ」である。
判ってるんだぁ〜。職員と目を合わせてしまった。
「うん、また来るからね」「また来てね」


2004年01月13日(火) いつの間にかこんな年に…。

今日は、久々に家にいた。やらねばならない事は山積みだけれど目を瞑った。
お正月に電話をくれた友人に「手が離せない…」と挨拶だけでいた事を思い出して電話した。相変わらず、団地内で孤軍奮闘の日々だった。新聞にこそ載ってないけれど…孤独死が多くなって来ていて 一人暮らしの65歳以上の入所者にキィーの預け先と親戚の連絡先を聞くというシステムが稼動し始めた…という事だった。
阪神の震災後の復興住宅での孤独死が多くなっている事が先日の新聞にも載っていた。
自分たちの老いて行く先は、老人がいっぱいになる筈で こういう事は深刻な問題になりそうなのに…。
福祉予算は 削減で…。
地域の問題として もっとアピールして行かねばならないなぁ〜とは思うけれど現状の介護で目いっぱいでこれ以上は…難しいなぁ〜。

友人の電話を切った後 直ぐにふるさとの職場の後輩だった人から電話が入った。
年賀状に「姑になりました」とあったなぁと思っていたら…。
その話だった。
以前から「男の3人なんてつまらないよぉ〜」となげいて居たのだけれど…。
いや、うまく行ってないと言う訳でなく全て順調だけれど、お嫁さん次第だし、男の子だから 味も素っ気も無い…という事だったのだけれど。
それが、昨年 急に「お嫁さん連れて行くから…」と電話がきたのだそうだ。それまでだって幾度か息子さんと顔をあわせていたけれど…電話もしてたけれど…何の気配も感じなかったという事だった。
訳の判らぬまま息子さんの電話を切ってから ご主人と話をして「聞き違いだろう」という事になり再度電話すると間違いなく「お嫁さんを連れて行く」だったと言う。
当人とお嫁さんの実家で日のいい時に…と式の日取り等決める前に入籍したらしい。2月に挙式という事になった。
いい日にこだわりを持つともう訳がわかんなくなってしまうし…。
招待も何処まで…と思うと面倒で…。
親の兄弟までとしたのよ。年寄りの楽しみもあるだろうけれど…子供たちの意思って事で収めてるのよぉ〜。
「いいじゃない。あれこれ思惑せずに済んで…そんな楽なこと無いよ」等と無責任な言葉を口走ってしまった。
でも、さすが男の子3人の親だ。「そうなのよ。訳わかんないけれど…決まったんだからいいかぁ〜って事で…」と言う返事だった。
友人にも「あんたは 婿取りさんで苦労無いんだから…余計な事言うんじゃないよ」と警告(笑)を受けたらしい。

受話器を置いてから、はてさて 若し私に同じような事が起きたら…こんな調子で済ませられるかな?と他人事に考えている自分に笑ってしまった。
年齢的に、友人の子供の結婚はこれから続くであろう…。

いつの間にか、ほんとにいつの間にか…そういう年齢になってしまったんだなぁ〜。何時までも若い等と思い込んではいないけれど…。
これから先も、いろんな事で「いつの間にかこんな年に…」と思ってしまいそうな自分を想像して笑ってしまった。


2004年01月12日(月) おやっ?


母を訪ねると入所者のお一人が「おかえんなさい」と出迎えてくれた。
以前は「いらっしゃい」だったのに…。
変わりないように見える方でも 少しづつ病は進行しているんだなぁ〜。
よく考えてみれば、最近はいつも「お帰りなさい」だなあ…。

母は職員と入所者と紙風船遊びを始めていた。
母と同じ年の入所者である。
そこにさっき「おかえんなさい」と出迎えてくれた方が「一緒に遊びましょう」と誘ってくれた。
用もあったけれど直ぐに仲間に入れて貰った。2個の紙風船で遊んだ。
近くに座ってウトウトしていた方も騒ぐ声にぱっと目を見開いて見ていた。
風船が母の頭を素通りして後ろの方へ数回落ちた。
こういう時、直ぐ席を立ち風船を拾いに行っていたのに…今日は 立とうともせず探そうともしない。紙風船は、楽しんでいるのだけれど…。
こういう能力も落ちてきているんだなあ…。

外に出た時、うさぎが大きく車体に書かれた車が通った。
「あれに乗りたいなあ」一瞬聞き違えたかと思った。でも、目はその車を追っている。見た目には幼児かえり…。
もう、自分の乗る車の区別も付かないんだなぁ〜。

大分前から こういう事はあったけれど、違うのはその頻度である。
以前は数パーセントの確立で出ていた事が、このごろは数パーセントの確立で普通の状態って事である。

「能力の落ちる時は、ガラガラと音を立てるかのように落ちていくのですよ」と随分前に施設の保健士から聞いた事がある。
今がその時なのだろうか?
それでも、現状維持に努めよう…と思う。
能力の落ち込みもきちんと受け止めながら…でも現状維持も…。
心の助けは、きっと届く筈。

今日は、寒いし インフルエンザも流行っているので人ごみは避けようと思っていたけれど、玩具見たさに デパートに行ってみた。
ネットで検索して売っている場所を特定し電話して在庫も確認したのだけれど、少し遠すぎる。娘は急がしそうだし…。
念のため近くのデパートに問い合わせて見たら有った。

何の玩具かと言うと…。
セガトイズの夢ペットシリーズや、癒しのシリーズ。
もうひとつは、バンダイのプリモプエルである。
セガの方は、文字通りペットである。バンダイの方は 人形である。
バンダイの方は 
数年前に実物を見ているが 声の加減が母の耳に届きそうも無いと思ったので購入しようと思わなかった。
最近の歯どうかと見たかった。
セガの方は、どの程度の動きで母の興味が何処まで湧くか…を知りたかった。

でも おもちゃ売り場は 連休の為混雑しており年寄りが入り込む隙間が無かった。
平日の空いている時間に出直すことにした。

こういう玩具は、子供用だけれど…。
介護用品の売り場にもう少し内容を変えて、置いてくれれば 助かるなぁ。
例えば、言葉も年寄り向きに、耳も遠くなるのだから、音量調整としゃべる速さをゆっくりはっきりに…。ついでに動きが出れば…いいなぁ〜。
盛り込む事が多いと値段も相応して高くなるかぁ〜・


2004年01月11日(日) 健康診断の留意点


 母の誕生月検診の案内が届いている。

この所、母の顔がふっくらとして来た。
計測して無いので断定は出来ないけれど、40キロの壁を越えているような気がする。足の浮腫み、手のごわつき等が見られるので 単純に体重が増えたと思っている訳では無い。
それでも、入所時くらいまで体重が戻ってくれた方が何かが起きた時体力維持できるのでは無いかと思っている。
浮腫みでは 無いように…と祈るのみである。
母の体重は、過去の最大は60キロである。身長162なので それでも太っているとはいえないのだけれど。

もうひとつの事
それは、便検査。先日 職員から「排便時 出血が見られました。肛門が切れただけかも知れませんが…」という事だった。
きっと、心配は無いだろうと思っているけれど…念のため。
だからといって、若し何かが起きても原則的には、手術は避けたいと思っている。手術しないから、放置というわけにも行かない。きちんと把握して細かな対応に努めなければならないと思う。
正しく把握する事は大切だろう。言葉だって出せなくなりつつあるのだろうから…。

血圧のチェックも留意点のひとつだろう。かといって あまり強い対応もしたくない。命も大切だけれど…痛い事が何より嫌いな母だから 出来る限り普通の生活を続けて貰う事の方に重点を起きたいと思っている。

心配すればきりの無い状態である。
別れの時まで 楽しく暮らして貰えれば…それだけで満足である。
私の役目は、この辺りにあるだろう。

そうだ。
数日前、父の呼んでいる声が聞こえた。勿論空耳である。
「××」とだけ私の名前を呼んだ。
勿論 昼。
特に 父の事を考えていた訳でなくて…。
最近「お父さん、何とかしてよ!」のお願いも殆どしてないのだし…。
娘に話したら、「そりゃ、呼んでくれないから 思い出せよ」って言ってるのじゃないの」と言われた。
「そうかなぁ…」
心配しないで済むから、安心してると思うのだけどなぁ…。


2004年01月10日(土) 母の言葉

「冬になって 外にあると 洋服みたいな物 着るの」
これは、正月に生けた花の松を「この名前は?」と聞いた時の言葉である。
おそらく 雪を被った松を思い浮かべたのだろうと思う。
「松」と言う言葉は出てこなかった。
「松よ」と言うと「そうだったねぇ」と言った。

まだ、おかしな事がある。
「あんたの髪はふわふわしてカールしていて暖かそうだね。いいねぇ。私の髪は、このごろ赤くなってしまった」
「えっ。白くなったんじゃないの?」と聞き返すと「いや、赤いんだよ」
同じ部屋で娘が転寝をしている。娘の髪は茶髪である。
きっと、娘を見ていて自分の事ととっ違えたのだろうと思う。

リハを受けている時の事
気持ち良さそうに口で息を吐き出して寝入っていたのに急に胸の所を指して
「ここが冷たい。濡れてしまったみたい」と言い出した。
一瞬驚いたけれど、特に具合悪そうでなくて…。
考えてみれば ちょっと遠くまで出かけてリハの時間に滑り込むように帰宅してトイレにいけなかったのだった。
きっと、漏れてしまったのだろうと思った。
リハ終了後 トイレに誘導するとやっぱりだった。
出るという事、出たという事は 時にしっかり判るけれど…今日のようにぼんやりとしか判らない時もある。しっかり誘導するようにしなければ…と反省した。オムツを替える時 やっぱり「しまったぁ〜」と言う表情になるからである。

こんな感じで「当たらずとも遠からじ…」と言った所の会話が富に増えてきている。

入浴する時 シャツに頭がひっかかり抜けなくなった「おーっ。脳みそぎっしり詰まってるから大きい頭だ…」と笑って言ったら やっぱり真顔で「そんな事ないよぉ〜」と笑い返された。
「おかちゃん」という言葉が続いた時「はい」と返事を返していたのだが…
「おかちゃんに用があるの?」と聞くと「いや、ちょっと呼んでみただけよ」と笑っていた。

転寝の娘を見て「あんたの妹 風邪ひくと悪いよ…」と言った。
「あー、私の娘よ」と言って見た続けて「私は ○○ちゃんの娘よ。判る?」と聞いてみた。母は、深く頷いて目をこすっていた。
「覚えていてね。忘れないでね。」と言うと更に目を擦っていた。

負担にならない程度に事実を告げる事も記憶の維持に役に立ってくれるだろうと信じている。


2004年01月09日(金) 笑ってしまいました。3題


今朝一番の笑い。
これが、TBSラジオの森本毅朗のスタンバイだ。
世論調査で「今年はこれをやろう」「これはやらない」の2題目標というのを調査したようだ。
番組最後の調査結果の毅朗のコメントがおかしかった。
「昨年息子が結婚しました。若い頃 姑で苦労したので仲良くしていきたいと思います」と言うのに対して「無理無理」とばっさり。
「夫と良く喧嘩するので 今年は喧嘩しないように気をつけていきたい」と言うのに対しても「無理無理」とばっさり。
「ごもっとも…なこって…」と一人大笑いしてしまった。
 
母の事はさておいて。
帰宅した夫との大笑い。
娘が友人の結婚式に行くのだが…。
その会場が三○クラブだと教えたら、「ほーっ。すごいなぁ〜」という事になった。そして、「俺は仕事でそこに入った事あるけれど…すごい所だぞ。いい所だから良く見てくればいいな。ホテルの庭園とは規模が違うぞ。歴史も見えるんだ」と言う。
「おい、行った事無いだろ。きっと こういう機会は 生きてる間には無いと思うから、娘が忘れ物をしまして…と荷物届ける振りしてみてくればいいよ」と笑った。「ほーっ。じゃ、スーパーのビニール袋になんか入れて…これ〜届けに来ました…ってかな?」と応じて二人で大笑いした。

最後は、母の話。
今日も寒い日だけれど、昨日よりましだった。
母を外に連れ出した。その時にふとあるフレーズが浮かんで歌ってみた。
「○○ちゃん(母の名)の為ならエ〜ンヤコラァ〜」
すると母が真顔で「嬉しい」と言うのだ。
繰り返して歌うと今度は…。「有難う」と応えるのであった。
言葉が届いている日のようである。
そして、私に負けじとエールを送ろうとしていた。
けれど最初の言葉(私の名前)を言い出せない。
「ん〜と。ん〜と」と困っているのだ。
「どうしたかな?」と聞くと「忘れてしまったぁ〜」「何を?」と聞くと
「んとね。んとね」「私の名前?」「そう」「ほら××よ」と言うと
「「ほだったね」と歌いだした。

「すっかり馬鹿になってしまってね」と言うので「へぇ〜。昔は頭良かったという事だねぇ〜すごいんだね」と言って見た。
「いや、元も良く無いけれど…」と笑っていた。
そこで「私 その子供だから…血を引いているから…同じくだねぇ〜」と二人で大笑いをした。
こんな風に 母を時折からかってしまういけない娘である。

こんな風に散歩しても施設に戻れば、外出した事すら覚えてない。
今日も施設に戻り皆のいる席に付いた時「外は寒かったでしょう…」と聞かれると「外には出てないよ」と答える母である。


2004年01月08日(木) 違いふたつ

利用者さん訪問日だった。
依頼されて買い物に出た。
外は強い北風がビュービュー吹き荒れたいた。
それなのに…杖を使って汗かきながら歩行リハをしているご老人に出会った。
昨年初めて出会った時は 黙って声援を送っていた。何回か出会ってようやく「頑張ってますね」と声をかけた。ニッコリ笑顔が返って来た。
今日は、離れているのにニコニコ笑顔…近くなると「おーっ」と声をかけてくれた。「頑張ってますね。気をつけて…」
利用者さんと同じ程度の麻痺で、年は出会った方のほうが10歳は上だろう。
この違い…。
単純に比較してはいけないけれど…でも自分がそうだったら、この老人のようにありたいと思う。
何処の誰かは知らないけれど…私の励み、学びになります。有難うと感謝。

もうひとつ。
これが、厄介である。
保健所の看護士さんから電話を戴く。
来年度から 保健所での会の運営難しい状況ですという事だった。
昨年のうちからチラホラ出てはいたのだが…。
こちらも場所の確保が難しい…と伝えてきた。
じつはこの現象は わが町だけの問題では無い。近隣の地域ではすでに踏み切っている所もある。
情報集めのため 別の地域の会に尋ねてみた。
「実はね、今日もそれでもめたのよ。でも 何とかお願いしてきたの」
何れ 同じ状況になるのだろうけれど…でもまだ、先に延ばせたようだった。同じ保健所なのに、どうしてこういう違いが出るのだろう…。
間に入る現場の保健士さんは、板ばさみで苦しい立場となる。
業務の関係なのだものね。

今日、初めて気が付いたけれど…大きな町と小さな町の保健所の違い。
大きな町の保健所の所轄は その町の所轄だけれど…。
小さな町の場合は複数の町にひとつとなるので、都道府県の所轄になるのだそうだ。
こんな基本的なこと知らなかったの?と笑われそうだけれど…。
自分の町の事なら住民パワーが届くだろうけれど…。
都道府県レベルになると…住民パワーは届かないなあ…。
国になったら 更に届かないものねぇ〜。

嘆いていても始まらない。
情報集めてアンテナ張って 行動に移すしかないなぁ〜。
悩み多き家族、痴呆の人のために…ひいては自分の老後のために踏ん張るしか無いんだねぇ〜。


2004年01月07日(水) 七草粥

今日は 七草の節句
昨年の内に注文してフリーズドライの七草を買い求めていた。
今朝 それでお粥をたいた。
初めて使ったけれど…作る時 少し味気なかった。
食べてみては…青臭さが少し抜けていて、おいしかった。

外に出るとあちこちでコンコンと咳をしている人をみかける。
「危ない」と思う。
忙しい暮れを抜けてほっとしているので 用心が足りなくなっている。
うがい、手洗いを忘れたりがある。
気をつけなければ…。何せワクチン接種して無いのだから…。

地域によっては 警報が出ているようである。
今日は、早めに眠ろうっと。

母は、元気だった。
着いた時入浴中だった。
その後 着替えて 外に出た。
今日は、デパートめぐり。
靴を買い足しておきたかった。でも、母に合う靴は安くなってなかった。
他のをと思って履いてみたけれど…やっぱりきつい。
今日は諦めた。
夕方、月を見た。ほぼ まんまるだったけれど…満月かな?


2004年01月06日(火) 往診料?

家族の会で話題になった事だが…
医師の往診料って まちまちであるらしい。
医師だけではない リハビリの際の交通費も。
事業所によって違うようである。
家で利用している所は 交通費は取られない。
でも同じ町でも しっかり取るところもある。
医師も理学療法士さんも基本は、しっかり診ていただけるかという事ではあるけれど…。
でも…。

また、医療保険に消費税は基本的にはかからない。
でも、医師によっては 消費税がかかるらしい。
家の場合どうか…確かめた事はないから判らないけれど…。
今度聞いてみようかな?でも、何となく怖いな。

今度、自分の利用しているところがどうであるか…調べてみようか…という事になった。



2004年01月05日(月) みんなの所に行って…


 夫が帰宅したので 車を出して貰い通院そして我が家へ…。
夫はふるさとに昨夜発ち 今朝帰宅したのである。
施設では 母がとても浮かない顔をしていた。「頭が痛い」と言う。
着替えて外に連れ出すと顔つきが変わった。
車からの景色を眺めている。とても穏やかである。

診察もそこそこ待って順番が来た。今日は少し血圧高め。足もかなり浮腫んでた。医師が「○○ちゃん いくつだっけ?」と聞いた。
母は、笑いながら…「21から数えないと判らない…22,23…」と数え始めた。
「でいくつかな?」と私が聞くと自信なさ気に「26かな?いやもっと行ってるなぁ〜」と言う。
他愛も無い話である。
でも違う人が同じ質問をしたら…どうだろう?
おそらく 母の中での信頼関係が成立しているから緊張せずに話せるのだろう…と想像する。

我が家について ひとまずお茶。いや、正確には車の中でお茶を300cc摂取させた。浮腫みが気になったからである。母は、一気に飲んでしまった。
家でおやつとお茶。夫が私たちを待っている間においしいパン屋さんで買っていてくれたもの。それにプリンとそば茶と干し柿。
お腹は施設を出るときから空かしていたのだった。「食べたい…」と言っていたのだった。

その後入浴。
背中をごしごしと擦ると「気持ちいいい」と言う。
家で入浴したのが2日でその後入浴した形跡はなかった。
洗髪もした。やはり頭が痛いらしく強く擦るのは止めておいた。
時折こんな風に頭の痛みを訴える。迎えに行った時もそうだったのだからきっとほんとに痛いのだろうなぁ〜。

お風呂から上がってまた水分摂取。
それから、施設に戻った。
帰路の車中で…。
「みんなの所に行って…みんなの所に行って…」「ん?何?」
「みんなと一緒にやっていけない…ような気がする…」
「嫌な事有った?」と聞くと「ううん。みんなと同じようにやっていけないい…」
「じゃ、△△(私の名)の家にいたいという事?」と聞くと深く頷いた。
暫くやり取りした後「今日は無理だから、良く考えるね」と言うとまた頷いた。
母の言葉は、この事に関してははっきりしていた。
この所、帰宅の道での母の様子が気になっていた。
判らないなりに判る事ってあるような気がする。
少なくとも話した言葉にきちんと対応するという事は、何かしらの事があるのだろう。

施設に着いてから 職員に一番先に聞いてみた。「最近変わった事ありませんでしたか?」
すると「申し送り事項では 特に無いです。」という事だった。
でもその直後「あの、貝のおもちゃを食べていたので預かっています」と言う。「私はそこにいた訳で無いので状況はわかりません」と言う。
そして貝を探し出して私に渡してくれた。

「有るんじゃん。変わった事。それって変わった事で無いの?」と言う言葉を飲み込んだ。
でもねぇ〜。
「私がその場に居合わせて無いからわかりません…」って何?
たいそうな事が起きたと思うから現物を見せている訳ですよね。
たいそうな事が何故起きたか…って検証は痴呆だから当たり前という事でおしまい?
事ある度に思うけれど…その時の状況って教えてもらえないの?
見て無いならせめて起きた時の時間とかその対処をどうしたか?同じ事が起きないためにどう配慮するか…とかケース会議ってそういう事を指すと思うのだけれど…。
職員から受けた言葉は先に上げた通り。
受けた私にどうしろと言うのだろう…。
感じるのは「もう、何も置いてくれるな」と言う意味にしか取れなくてとても気になる。

やっぱり 限界かな?
母の感じている事は 間違いないみたいな気がしてくる。
しかし、何とかならないのかなぁ〜。

不思議はそれだけでない。
火傷の時には、私の気配を感じて直ぐに出てきて「同行します」と唐突に言った看護士さんだが…。
今日はいたのに出て来ない。今日でお薬切れるって事 わかっているのですよね。薬の管理なさっておられるのだから…。
あの時は聞きもしないのに「血圧測定の記録」を持参したのに…今日はそれも無い。
私には 判らない。
火傷の手当てに行くのに血圧の記録を出して 肝心の通院の時には何も無いなんて…。
向こうの都合に振り回されている感じがする。

意地悪かなぁ〜。こんな味方するのって。
こちらから申し出ればいいのだろうけれど…。篭ってでて来ない所にこちらから言って行くって…勇気がいるんですよぉ〜。




2004年01月04日(日) 明日から通常ダイヤ?

母から年賀状が届いた。
施設で書かせて戴いたのだろう。自分の文字がやっぱり違っていた。
旧姓で書くことはあっても、間違える事はなかったのだが…。やはり病の進行による物なのだろう。
けれど、私への宛名も母が書いていた。
その辺りから、母が何故 戴いた年賀状をみて嫌がったか…が判るような気がした。

家で書いてもらった年賀状だって 相当苦労した。
母に失敗したと言う思いをさせないためにかなり配慮が必要だったからである。

母の性格は、出来る人の中で過ごしていると劣等感が出てきて不穏になる。
在宅時、デイに通い始めた時 職員の方がしっかりと母の性格を捉えて下さり痴呆の組に入らせてくれた。
その時 出来ない人を助ける喜びを母は得た。

痴呆の方でも「生きがいデイ」の方に入る方も居られる。
おそらく 出来なくてもちゃんとした方と一緒でいられることに喜びを感じる方も居られるのである。
痴呆の初期の選択は、みんな同じ動きでは無いという事である。
勿論、本人の意思よりも家族の意思と言うのも有るそうである。
痴呆で無いほうを望む家族も居られるのである。

難しい選択である。
でも、できれば本人の性格を良く理解した上での利用が望ましいのだろう。
一口に「痴呆」とくくったりせずに 対応してくださる施設が好いなあ…。

結局のところ、痴呆でなくとも豆に手の動く人もいるし…そういう人は生きがいデイでも大丈夫なのだろうと思う。

話は飛んでしまったけれど…。
母の賀状は、私の手元にしっかり残っている。
さて、こちらから母に返事を書くべきか…それで悩んでいる。
今日は、母の所には行かなかったけれど、明日には 通院である。
年越しも我が家だったし…明日も会う。
さ、どうしようか?
年賀状が届いて また オロオロと返事を書かなければ…となるのも可哀想である。

はてさて、こうやって今年がスタートした。
娘は明日が仕事初めである。
そして、今月限りで退社する。
後 少し 頑張れとしか言えない。
次の職場は、決まっている。
今より ちょっとは楽になるそうだけれど 忙しい事に変わりはなさそうである。娘の忙しさをみて「ウチにおいで」とお誘いしてくれるくらいだから…大丈夫だろう…。労働対価に見合った仕事らしいから…。
ま、行って見なければ判らない事も有るだろうけれど…。

とにかくあと少し 頑張って!


2004年01月03日(土) きゃ〜っ!なんてこったぁ〜。

昨夜 母を入浴させた後に施設へと送った。
歯も磨き、パジャマに着替えてその上に服とコートを着込ませて…。
帰宅近くなった時、母は沈み込んだ。
何処まで母が理解しているかわからないけれど…。配車したタクシーに乗り込んでもはしゃぐことなく黙り込む。
もしかすると 入浴、配車の電話…そんな気配を漠然とではあってもわかっているのだろう…。
施設に着くと「眠い」と言うので急ぎ布団を敷いてトイレに誘導後寝かせた。直ぐに寝入ってしまったので…きっとほんとに眠かったのかもしれない。でも、家にいるときは、10時過ぎまで起きていられたのだから…何処から何処までが判っているのか…。
切ない気持ちになった。今は、割り切るしか無いのだけれど…。

今日は ゆっくりできる筈だった。
朝食の支度を済ませて、一人河原に出かけた。
気分転換と軽い運動のつもりだった。
バードウォッチングができた。久々にカワセミのダイブを見た。
川面の数メートル上で 同じ所にはばいた儘いる そこから見事に急降下して小魚をついばむのである。こういう技を見せるのは、カワセミの他にいるのかな?
河原ヒワやムクドリ、スズメ等が 朝の光を浴びて群れていた。
大きな木のてっぺんで、百舌が騒がしく鳴いていた。
今シーズン初で背黒かもめが大きく羽ばたいていく姿も見た。
大サギが、かわ鵜と浅瀬で小魚を追ってパシャパシャしていた。
体を大きく伸ばして ストレッチ…。
気分良く家に戻ると…夫がいなかった。

しかし 数分もしないうちにカシャカシャとスーパーの袋を持って帰宅した。  嫌な予感がした。これが、悪夢の始まりだったのだ。
「今日、お客さんが来るから…。そう約束していると思うんだぁ〜」

おせちも、残っては嫌だなと思ってせっせと食べた。
ここに客がくるんだぁ〜。
昨日まで家族がゴロゴロしていて、母もいて…大掃除の後とはいえ散らかり始めている。
折角のいい気分もすっ飛んでしまった。
いや、毎年 お客様はお見えになるけれど…今年は何も言ってなかった。

大急ぎで 掃除機をかける。だって、まだお正月だものね。
トイレにある母の汚物を入れたスーパーの袋を撤去した。
それから おせちを補足した。裏ごししたサツマイモを冷凍室から出して作り直したり…。お鍋がいいと言うので 残っていただし汁を土鍋に注いで…
野菜を洗って切って下ごしらえ。
ほうとうを作って…と言われてその準備。
勿論 ワイングラス、杯、コップ…等食器の準備。
けれど、時間になっても誰も来なくて…。
3時間遅れで お客様はやってきた。

ここまでは いいとして…。
お客の帰った後の後始末…。
夫はzzzz。娘は気にしながらもアルバイトの仲間(学生時代の)との新年会に出かけた。
暫くは呆然としていた。
それでも…と重い腰を上げた。
完了したのは、11時過ぎである。

もう、キャ〜ッと言う状態である。食事も1食だけ。
もう♪なんてこったぁ〜っ♪状態の一日であった。

どうにも納得できないけれど…でも 仕方ないかぁ〜。
早々とzzzzzした夫は、ただ今目が覚めて「何してるの?」だって。
「今 片付け済んだ所よ」というと「そりゃ、お疲れ様でした」だって。
「私のお客じゃなあ〜いよ」プンプン。



2004年01月02日(金)


 母に戴いた年賀状15枚に 返信を書き上げて貰った。
今までも書いているが、母の場合戴いた年賀状のみにお返事を差し上げると言う形をとらせて貰っている。
今年の母を写し加工して賀状にする。
離れて居られる方に「元気ですよ」と言うお知らせでもある。
皆さん 案じて居られるので…それが良いだろうと思った。
 
自分の住所と名前をセットしたつもりだったが、仕上がりを見ると名前が抜けていた。母の作業はそこから始まった。
自分の名前を書くのだから…と特に心配しなかったのだが…これが間違いだった。苗字の文字を忘れていた。
1回目は仕方ないだろう…くらいに思ったけれど 言っても言っても最初の一字から違う。思い込んでしまったので 違う文字に変えられないようだった。私の声のトーンが大きくなり始めた。準備した賀状は5枚くらいしか余分に印刷して無いから…。
「いや、再度印刷すればいいのだ…」と思いなおした。怒ってしまったら折角のお正月に傷が付いてしまう…。
大きな紙に名前を書いて貰った。これで、仕切り直しである。
記憶の修正が出来たようで その後は順調に書けた。

宛名も七転八倒だった。
いつもの事ながら先に一人分のみを大きく住所を書き出しておく。
それをはがきに書き写して貰う。
その時、声も出して呼んであげたのだが…これが逆効果で混乱させてしまった。聞いた音から文字を書いてしまうのであった。
声を出さずに指でさしてあげたら…うまく書ける様だった。
幾分 斜めになっていくのは 仕方無いだろう…。
こんな調子なので コメントは無理かと思ったが…気分が乗り始めたようなのでコメントも付けた。
それも「みんな 同じ言葉でばかり書いている…」と不満げになった。
「受け取る人は違うからわかんないよ」と言っても駄目で母の好きなようにやって貰った。ちゃんとできた。要領を思い起こすまでの時間…かなぁ〜。
2時間をかけてようやく仕上がった。
今年も書き上げました。頑張りました。偉いですよ、お母さん。

母の食事の様子を見ていて浮かんだ謎。
どうも、母は硬い物を好んで食べるのである。
昨日もそうだったけれど田作りや蛸…を食べていた。お正月だし…と思っていたのだが…。今日もその傾向は変わらない。青豆もおいしそうに食べる。
いや、むしろ やわらかい筑前煮等は もう嫌そうに…おなかいっぱい…といった風である。

器にラップをかけて、流し場で荒い物を始めたら「カシャカシャ…」と音がした。振り向くと金平ゴボウのラップを外していた。
おなかいっぱいなのだから、食べないだろう…と思ってみていると箸が動く。それも止まらない…。残っている半分までぺろりと食べていた。
それも嫌そうでなくおいしそうに食べるのである。
施設などでは やわらかい物にしたり、食べやすいように小さめに刻んだりが多いので それが優しさ…と思っていた。
でも これだけ歯ごたえを楽しんでいるところを見ると…小さな親切大きなお世話…てことかぁ〜?
でも 歯の無い人もいるからなぁ〜。そちらにもあわせなくてはいけないのだろう…。
年よりは 魚好き、やわらかい物が好き…とよく聞くけれど、これって何処までが真実なのだろう。かめばかむほど脳を刺激するのだから…歯ごたえのあるものを食べた方がいいんだよね…。


2004年01月01日(木) 年賀状

 穏やかで静かなお正月である。
母は、穏やかに目覚め 静かに本を読んでいた。
泣く事も無いし騒ぐ事もない。

変わっていると感じたのは、お布団を畳まなくなった事。
「畳もうね」と声をかけて「そうだね」と言うけれど 畳む事はなかった。

それとトイレに自分から行くという事も無い。誘えば、行くけれど…。

暫く 意識して誘導すればきっと少しできるようになるのだろう…と思う。

散歩にも出かけた。
暖かな日で軽いコートで大丈夫で家の周りを1時間ほど歩いた。
疲れも見せず足取りも軽くほっとした。

家の中では 塗り絵をしてもらった。
1色塗りでは有ったけれど、綺麗に塗れていた。集中度も高い。
折り紙を渡すと「つの小箱」を折り出した。でも 途中折り方を思い出せなくなってキッチンまでやってきて「ここは…」と聞いてきた。
同じ物を3個折ったけれど…聞きにくるところは、違っていた。
それでも、聞いても折ろうとする姿勢があり驚いた。
相変わらず 何かをしていたい…そんな気持ちが強いのだなぁ〜と改めて感じた。

ただ、母に届いた年賀状を渡した時少し不穏になった。
戴いた年賀状は、とても嬉しく読んでいるのだけれど、「返事を書かなければならない…」と意識するのだろう。
「これをこのまま書いたら いいよね。あれ、くれた人に同じじゃ困るね」と一人笑っていた。でも、この言葉を 数回繰り返していた。
「大丈夫。あとで写真を撮って 印刷するからそれを出そうよ」というと
「なんだか 人に頼ってしまって情けない。悪いよ」と言う。
今まで、こんな風にいう事はなかった。
「印刷するからね」と言うと「有難う」と言っていたのに…。
もう、父のいる時から 年賀状の準備は私の仕事になっていたのに…。その辺のことが抜け落ちてしまったのだろう…。
暫く、「書かなくちゃ…」「書けないなぁ…」を繰り返していたので年賀状を母の目に届かないようにしたら落ち着いてきた。

食欲もすごい。
おやつも含め 食べる食べる。
でも食べ物以外のものを口にすることは なかった。
夕食が すごかった。
食べ続けた後なので お腹も空いてないのだろう。
それでも、食事となると箸を持つ。
初めこそおいしそうに食べるのだけれど…だんだんペースダウン。
「やめておく?」と聞くと「もう少し…」と言う。それでもさすがに「明日食べるから…」といったん箸を置いた。
御茶を飲んでいる間に また残っている物を食べだす。
片付けようとすると途端に不機嫌そうな顔をした。
好きな所まで食べればいいやぁ〜と思って様子を見ていると…あらかた食べた。食事に要した時間は 2時間に及んだ。
みんな、ゆっくりペースだったのだけれど、最後は母一人だけがモクモクと食べていた。

こんな感じで 元日が暮れた。
昨日と同じで ホットカーペットの上に寝転んで寝入った。
まだ、寝ている。
昨夜と同じように これから起こして入浴させて お布団に寝てもらう。


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