母のタイムスリップ日記
DiaryINDEXpastwill


2003年12月31日(水) 世界でひとつだけの花

これが、今年の私の中でのヒット。
大ヒットする以前から耳にしてはいた。
でも、2月の脳出血の時 励ましとなった歌である。
母には 母だけしか咲かせられない花があった。
見事、母だけの花を咲かせてくれた。

その花は、我が家に見事に感動を与えてくれた。
今年の「母の花」は忘れる事が無いだろう。
「お母さん、有難う…」

夕方、大急ぎで施設に行き 母を家に連れてきた。
おそらく、家に帰るのは母だけである。
帰るとき、一人一人と握手して
「今年もお世話になりました。有難うございます。来年もどうぞ宜しくお願いいたします」と握手した。
ぽかんとした表情から、ニッコリ笑みがこぼれて「こちらこそ…」という返事が返ってきた。
昨年は、そこまでの余裕がなかった。
今年は、きちんと挨拶できた。
共に歩んできた人たち…。そんな気持ちが生まれている…。

今、母は、家で眠っている。
紅白を10時過ぎまで見ていた。
私が時折、台所に立っても 母は、落ち着いていた。
食事が終わった時 少し落ち着きがなくなったので心配した。
「明日はお正月のご馳走があるから 今日は泊まって行ってね」と言うと
「ほう、おいしいものは大好きだから…」といって笑った。

紅白に見入ったのは、何年ぶりだろう…。
母と夫、娘が同じ部屋でテレビを見る事が出来なくなっていた。
いや、テレビだって見ていられなかったし、家族と過ごす事も出来なっていた。でも、今日は、みんなで見ていたし不穏になる事もなかった。
「おかちゃん」という言葉も全く発せられなかった。
夫の顔を見て「面白い…」と笑う。夫も笑う。「何がってこと無いけれど面白い…」といって笑い続けていた。
こんなに楽な年は 初めてである。
「眠く無いの?」と幾度聞いても「眠くない…」と言い 其の儘 ホットカーペットの上に寝てしまった。
これから、起こして お布団に移動させる。

弟からの漬物とおそばが届いた。
夫は「初めてだね。こんな事…」と言った。
特に機嫌が悪くならなかったのでほっとした。

また 新しい年が始まる。どんな年になるのだろう…。
母と楽しく過ごせれば…それだけで幸せである。


2003年12月30日(火) 明日は12月31日明後日は?…

お掃除はエンドレス…。
昼食後の片付けを終えたのを機に 何とかなるさぁ〜と割り切って母の所に出向く。
施設ではAさんが頭髪をカットして貰っていた。若い職員で慣れないのだろう無残な虎刈り状態で悪戦苦闘していた。
お節介屋が性分な物で…ちょっとお手伝い。
うまいと言えるほどの腕では無いけれど、子供の頭髪は幼稚園まではずっとカットしていた。夫のもちょっと…。更には、床屋に行く気力すら無い父の頭髪を帰省の度にカットしていたので…多少は判る。
刈り方の要領を伝えながら くっきりと段が付いてしまった所に手を入れた。要領がわかれば、少しは楽に出来るだろう…。
他にも伸びきった方がいるのでどうしようと思ったけれど…職員の方が「やれる楽しみが見えてきました…」と言われたので その方にあった切り方を伝えてだけおいた。
何でもそうだけれど 初めは誰だってドキドキ物である。
でも、少し判れば、楽しめる…。職員の腕が上がれば入所者だってお金がかからなくて助かるだろう。

母を外に連れ出す。
母は「誰もいない所に…静かな所に…」とだけ言った。
どういう意味だったのか…推測だけれど「私だけに にかまって頂戴…」という事だったのかな?
歩きながら質問してみた。
「明日は、12月31日じゃね明後日は?」「32日…あれ おかしい。そんな日は無いねぇ」「…」
ここまで言っても「お正月」と言う言葉が出てこない事に愕然とした。
繰り返せば多少思い出す事もあるので
「明日は大晦日明後日はお正月」と繰り返し聞かせた。
「明日は大晦日」「へぇ〜大晦日かぁ〜」「明後日は?」「…」「お正月」
「明日は大晦日」「へぇ〜大晦日かぁ〜」「明後日は?」「…」「お正月」
こんな風に十数回繰り返して見たら…。
「あってはお正月」と言えるようになった。
おそらく理解したのではなく条件反射なのだろう…。
時間的な事をここまで忘れてしまったのだろうなぁ〜。
ほんとに当たり前の事で区切りなのだけれど…もうすでにこの辺りの事はわからないんだなぁ〜。反射的にいう事も出来ないんだなぁ〜。

それでも「お正月」と言う実態はわかるようで…。
「お正月に何食べたい?」と聞くと「お餅」と言った。
「納豆餅とあんころ餅とどっちがいい?」と聞くと「あんころ」と言った。
ついでに「お雑煮は?」と聞くと「お雑煮もおいしいねぇ〜」と返ってきた。食べ物に関しては まだ 言葉が返ってくるのだなぁ。

それでも「歩ける」「食べられる」「顔がわかる」「本が読める」「折り紙だって出来る」いいよ。それで充分である。

散歩から戻ったら鏡を見ながら「おかちゃんごめん」「おかちゃんごめんなさい」としきりに謝っている。
「どうしたの?」と聞くと「自分だけ 食べてきて…」と言っていたが、ほんとは判らない事を認識させすぎたかも知れないと反省する。
こちらの思いが強いとなぁ〜。
この辺りの兼ね合いが難しいなぁ〜。


2003年12月29日(月) 同じように過ごすのだなぁ〜


 昨年の今日、何をしていただろう…と日記を繰ってみるとやはり似たような追い込みである。
少し違うのは、ぽつぽつと部分的に掃除をしていたので 昨年より楽してるようである。
でも忙しいのに 変わりない。

ふるさとの友人から 荷物が届いたと言う連絡を入れたそうである。
一日中、家にいたけれど 出たり入ったり、電話の無い部屋にいたりで音が聞こえなかったようである。
夜になって再度電話を貰ってわかった。

夕食作りの思考回路も似てくるようである。
昨年の今日は、カレーだった。
今日も カレーにしようかな…と思った。でも、今年は たまたま 冷蔵庫に牡蠣があったので 早めに処理して置く必要があったので断念。
暮れの夕食って 簡単なのが一番なんだなぁ〜。
明日辺り、カレーかなぁ〜。

夜、印刷が足りなかったので 年賀状を印刷。遠くの方へは先に出しておいたのだが…。
ふと、思い立ち ドライフルーツケーキを作った。
先に作っておけば、日持ちもするだろうし…。
まだ、途中である。キッチンには ケーキの匂いが広がっている。

今日は、母のところには行かなかった。
昼を回った頃 気になって「散歩に連れ出そう…」と思ったけれどまだ、すべき事があり諦めた。
明日は、行こうと思っているけれど…どの時間帯にすればいいのだろうと悩む。

そう、夕方外出した娘が「買い物は?」と電話をくれたので頼んだ。
その中で変えなかった物がある。「せり」である。
店員さんに聞くと うんざりした顔で「今日はなくなりました」といったそうである。多くの人に聞かれたのだろうな。
そういえば、昨年もせり探したような気がする。
明日の朝早く せりを買いに行って置かなければ…。

「野菜が値上がりするんだね。ミツバが250円もしたよ」と言っていた。
普段、100円なのに…倍以上である。
お野菜によっては、早すぎても困る物があるので…買い物は計画的にしなければ…。

さあ、メモを取って 早めに寝よう…。あと少しで2個目のケーキが焼きあがる…。夫は もうzzzzだ。


2003年12月28日(日) 「未だ来てないか…」

 十時過ぎに弟から電話が来た。
「未だ来てないか…?そばとか漬物とか送ろうと思うけれど住所教えてくれ」
「はぁ〜?」と言いたくなったけど取り敢えず住所を知らせた。

先月に礼状を書いて送ったし、先日は気持だけの品を送ったし年賀状だって出しているよ。
そっちからの便りは 年賀状だけで 荷物受け取ったと言う知らせすら来ないけれど…。ちゃんと届いているんだよねぇ〜。
それに…とふつふつとした感情が湧いてくるけれど 感情的な言葉は発しなかった。責める言葉を吐き出すのは 簡単である。日ごろの感情を其の儘発すればいいのだから…。「言わぬがはな」と言う所かな。
全ては 自分との対峙である。(正確には家族を巻き添えにはしてるけど)

おそらく 弟は諸々の不義理を詫びるつもりなのだろう。

そっちは、仕事休みに入ってのんびりだろうけれど…こちらは まだ誰も仕事休みに入ってないのよ。
「行こうか」「おばあちゃん正月くらいこっちに連れて来ようか?」とか「諸々の事、黙って実力行使して悪いね…」とか言えないかなぁ〜。

母からの借金したのに返済が無い。こちらへの送金もストップされているのである。我が家の持ち出しは 増えるばかりである(ため息)
母の顔を見て過ごせる幸せを享受しているのだから、良しとしなくちゃね。

あ”〜また荷物で 夫のイライラ感が募らなければいいけれど…。
「冷たい家族だな」って言われそうだなぁ〜。
もっとも、夫は全く知らないのだけれど…。
余計な事は言わない方が大正解なのだけれど、良心は咎めている。。。。

「未だ来てないか?」は当然 母の事であろう…。




2003年12月27日(土) 今年もやっぱり…


娘が、たくさんのカレンダーを持ち帰った。
母に好きなカレンダーを選んでもらった。
竹久夢二のカレンダー、寿司のカレンダー、そばのカレンダー。
これが、今年の母のベストスリーである。
そこから、更に1点選び出すまでに 散々楽しんだ。
竹久夢二のカレンダーを繰ってみては、ため息をつき「好いねえ…」と。
そばのカレンダーを開いて「おいしそう。これ食べたいな」と天丼を指していた。寿司のカレンダーをみて「これで1人前か?」と言ってみたり…。

「どれが食べたいの?」と聞くと「お金が無いからね…」と言いながら天丼を指した。何回聞いてもやっぱり天丼だった。

「で、どれが一番いいの?」と聞くとそばとお寿司のどちらかを決めかねていた。やっぱり天丼が気になるようである。
迷った挙句、やっぱり今年も寿司のようである。

寿司のカレンダーを見ながら…
「○○(ふるさと)でこうやって目の前で食べたなぁ〜」と言った。
おそらく 母はカウンターで寿司を食べた事は無いはずである。
いや、カウンターで食べてもきっとすし曲げに入っているものしか食べていないと思う。
だから、その記憶はGHの入所の記憶だろうと思った。
今年も2回くらいは目の前で握って貰った筈である。
「こうやって握るんだぁ〜と見入ったよ」と言う。
「じゃ、おいしかったんだね」と聞くと「いやぁ〜。それがね、あまりおいしくなくてね…」と繰り返し言った。「魚がね、おいしくないよ」と言う。
「へぇ〜。お肉の方がいいの?」と聞くと「そうだねぇ」と言う。
寿司を目の前で握って貰うという演出効果は母にとってかなり刺激のあるものだったんだなぁ〜。

天丼に拘った母を見て 今度は天丼食べに連れ出してみようと思った。
でも、この辺りにおいしい天丼屋さん無いんだなぁ〜。

話は変わって…。
この日記を一番先にリンクして下った方が ホームページを閉じられる事になった。
昨日、お礼のメッセージを届けたら、今朝返信が届いた。
彼のお母様は お元気であり介護とは今の所無縁であるので「何故?」と思っていた。
返信には 何れお母様を介護する時がきたらヒントにしたいと思って…とあった。拙い日記から ヒントを得てもらえる事は嬉しい。
でも、素敵な介護をなさって居られる方は 大勢いらっしゃるので…他が良かったりするかも…。

彼は、とても忙しく家を長く離れる事もある。想像だが連絡が取れなくなる事だってあるのだろう…と思う。
留守宅の奥様のご苦労を考える事が何回かあったのだが…。
彼は、そこも配慮していきたい…と結んでいらした。

どうぞ、お母様、奥様、3人のお子様(一人は人じゃないけれど…)としっかり大切な時間を守ってあげてください。
家族と触れ合う時間いっぱい作ってください。お子様の小さいうちしか関れない事って山のようにあります。
夫婦喧嘩もしないほうがいいけれど、なかったら気持ち悪いかも…。
と言うわけで、今まで有難うございました。
再開なさる日を待っています。


2003年12月26日(金) おかちゃん 何処にも行かないでね


母を訪ねて見るとおやつを食べている所だった。
「ここに座りなさいよ」と言う。ついでにまだ、おやつを食べていない人の分を私に出して「食べなさいよ」と勧めた。
「ありがと」と言ってもらった振りをして基に戻した。

外に行こうと支度のため居室のトイレに誘導。
すると私の姿が見えなくなる度に「おかちゃん 何処にも行かないでね」と繰り返す。頭の隅に帰ってしまう私の姿が焼きついているのだろう…。
「ごめん」と心の中で謝って「何処にも行かないよ。いるよ。外に行こうね」と声をかけた。

午前中入浴したと職員から報告を受けた。
また、置いて行くお菓子の乾燥剤を口にする所だったので 乾燥剤のあるものは預かるようにしてますとも言われた。
乾燥剤のない物を置くしかないだろう…。

それにしても…。母のお腹が空くという事を何処で満たして上げればいいのだろう。夕食〜朝食までの時間…。この時間が長いから…。
究極の空腹を経験して来たのだろうから…できれば食べさせたい。
施設の生活にそれを望むのはやはり贅沢という事なのだろうな。

外に連れ出して「何が食べたい?」と聞くと「おいしいもの」と言う。
「甘い物?」と聞くと「甘くなくともいい」と言う。
「細長い物で…」と言うので「そうめん?」と聞くと「違う」と言う。
これは、想像が付かなくて困った。「長い物…何だったのだろう…?」

牛丼の値段で480円と言うのが「高い」と言った。先日の260円は、やっぱり安いそうである。ほんとに判ってるのかな???

お腹が空いているようであった。
時間がないのでファミレスのイチゴを食べてもらう事にした。
それくらいならお腹をちょっと満たしてくれるだろう…。
呑み物を飲んだら満足したようであった。お腹が空いたとはもう言わなくなった。

更に歩いて施設に戻った。
もう「おかちゃん」とは言わなかった。
着替えている時足を見たら…浮腫みが強くなかったのでホッとした。

先日 夜間トイレに立てないので椅子をそばに起きたいのだが…と申し出てみた。でも施設側は 夜間立ち上がることは危険だと言う。
巡回して見回っていますから…と言われた。
そうじゃなくて…と思ったけれど、職員に迷惑をかけるのだろうから…無理は言えないと言葉を飲み込んだ。
考えれば トイレに行きたければ這ってでも行くのだろうから…。

それと 夜間母を送っていった時トイレの電気が消えていた。
入所以来、トイレの電気はつけっぱなしとなっていた。この所テープがはがれている事があった。夜間、電気消しているのだろうか?
母は、もう起きないとみなして消しているのかな?
出来なくなると 出来ないとみなされてそういう対応になるのだろうか?
リハで機能を高める…と考えては貰えないのかな?

集団で暮らすという事は 集団に合わせなくてはいけないのだろう…。
でも、ここは、グループホームで在るんだよね。


2003年12月25日(木) どうしちゃったの?


利用者さん宅に滑り込んだ。
時間ギリギリ…。セーフだった。連絡ノートにさっと目を通して利用さんを様子を見て、直ぐに活動開始。

排便失敗の下着とパジャマがバケツに入っていたので下洗いした。
以前は、其の儘洗濯機にポイだったので困った物だが…。マナーも改善されてほっとした。ノートにもご配慮有難う…と記した。

で お湯を使おうと蛇口を捻る。
でも、何時まで経っても出てくるのは水だった。冬だからかな?と思い待ってもやっぱり出てこない。
利用者さんに「ガス栓止めましたか?」と尋ねると「いや」といわれる。
念のため栓をみても止めてなかった。再度蛇口を捻って燃焼をチェックすると点火してない。
キッチンに行ってガス栓を捻っても点火ししない。
再び利用者さんに「ガス工事とかの案内ありましたか?」と聞くと「ない」と言われた。「いや、今朝からストーブ付かないんだよね」…初めに言ってくれればこんなにチェックせず、直ぐ管理人さんに聞いたのに…。

管理人室に行き「ガス工事ありましたか?」「いや」
「ガスが止まっているのですが…」「見に行きます。きっと、ガスを長い時間付けっ放しだったのでしょう。感知して強制的にガスは止まったのでしょう。酔って 暖防器具を消し忘れでしょう。でも、困りますね。ガス漏れ警報機付けた方がいいでしょう…いや そうしてもらわないと…」
…私に言ったってしようがないでしょう。ご本人に言ってよ…
で、点検の結果 強制的に止まった事が判り 元に戻した。
利用者さんには、管理人さんの言葉を伝えておいた。
ご近所さんも訝しがって「何事?」と覗き込み…事情を知ると「怖いね」と言う。
何だか、私が悪いみたいだ。

ガスが止まるという事は、セイフティー操作が作動したのだから良い事なのに…周囲の反応は 悪い方へと働く。
マンションによって 管理人さんの動きが違う。
元気なうちは いいけれど…窮地に立った時 管理人さんや住人の協力を得られないのは…困るなぁ〜。

ガスの問題が解決して パタパタと活動した。
勿論時間オーバー…それなのに、帰ろうとすると「氷入れて…」と利用者さん。酔いが回って(いつもよりレロレロである)帰る頃にはベットに直行。
慌てて「ストーブ切りましょう…」と声をかけたけれど…。
きっと、ご近所さんもお酒をかなり飲まれる事知っているんだよねぇ〜。

辛い気持ちも理解できない訳じゃないけれど…。でもね…。

何だか判らないけれど…この方 マンションを追い出される事にならないだろうか…。この辺りを突破口にして 生活の改善できない物だろうか…。
「このままじゃ、生活の場が無くなってしまうよぉ〜」



2003年12月24日(水) 罪ほろぼしに…

GHには、母を含めて3人のクリスチャンがいる。
時に集会を…と思いつつ 1度くらいしかしてない。
教会行事にも誘うつもりでも 母の調子、ほかの方の調子、施設の了解を得るのになかなか実現できなかった。
普段できなかった罪滅ぼしで 今日こそは…とプログラムを作り聖句カレンダーをプレゼントに準備して出かけた。母を家に連れてきて食事させたかったから先にGHでミニクリスマスをしておこうと思ったのだった。

昨夜のうちにスポンジを焼き サラダやチキン等の下ごしらえ、午前中には全て仕上げて出るつもりだった。
が、早めの食事を済ませたところに夫が帰宅。近くに来たので昼食を家で摂るという事で…。食事の準備をしてから恐る恐る聞いた。
「おばあちゃん、クリスマス礼拝に連れて行くから、帰りの足お願いできる?」教会から駅までは少しある。夜間なので不穏になるような気がした。
夫は「了解」と言ってくれたので助かった。
後片付けを済ませて 施設に向かった。

が、施設では別のフロアのクリスマス会だった。
そのフロアに2人のクリスチャンがいるのだ。仕方ないので プレゼントとプログラムだけお渡しした。
一人の方は、私の知り合いでもあるので「有難う来てくれたのね」とよろこばれた。「でもね、今日一緒にお祝いは出来ない…ごめん…。」

母に着替えをさせて 家に向かった。母や夫へのプレゼントを買ってなかったので途中で買った。

家に付いてお風呂に入ってもらいしばし休息。
それから、3時のおやつに手作りケーキ。おいしいケーキ屋さんのようにきめ細かなスポンジではないけれど…これはこれでそれなりに…。
母は、おいしいと食べてくれた。ジュースで水分補給。

暫くしてから お料理をセット。「綺麗だね」と母。
でもクリスマスという事は 直ぐに忘れてしまう。
今日の母は、何処かぼんやり気味だった。
待っている時に「みんなといると話せないのよ…。言葉が出てこないの…」
「なんてしゃべっていいか…わからなくなるの…」
そういえば、今日の母は多弁ではない。
「私と一緒でも?」と聞くと「そうでもないけれど…」
「大丈夫よ。ちゃんと話せているから…話わかるよ。自信持ってね」と励ます。やはり、言葉が出ない…という事がわかって辛いのだなぁ〜。
話したいんだなぁ〜。この所行事続きで母と話す時間少なかったなぁ〜。
ブランクはそう長くないのだけれど…結構 言葉を失って行くんだなぁ〜。
筋力も維持、折り紙も維持、絵を描くことの維持、排泄の維持、反射神経の維持…。
あ〜こんなにいっぱいあるぅ〜。
さて、何に重点を置こうかなぁ。

夕食もたっぷり1時間かけて戴く。ちょっとおかしな食べ方もあったけど…今日は目を瞑って…。

家から教会までは 歩いた。
歩きながら賛美歌をいっぱい歌った。そのたびに「何処行くの?」と聞いていたらちゃんと「教会」と言うようになった。
日が暮れてから外に出るととても不穏になる母なので出来る限り楽しい方…興味のある方向に意識を持っていく必要があるのだ。

教会に付くと安心したようにじっと座っていた。
祈り、聖歌隊の賛美歌に聞き入り、牧師のお話を聞き、燭火礼拝…。
母の記憶はぼんやりだけれど…教会にいるという事だけはわかるようだった。それにしても…賛美歌の節が狂い始めた。昨年はちゃんと歌えたんだなぁ…。何時ごろから始まったかなぁ〜。もう少し歌えば勘が戻るかなぁ〜。
あ〜またしてもリハかぁ〜。

礼拝が済んで 「御茶を…」と勧められたけれど…今日はどう在っても施設に帰らなければならない。夫も外に迎えに来ているだろうし…。
そんな訳で 茶話会には行かずに教会を出た。
暖かいので助かった。

夫からも言われたが「何故今日泊めないのだ…」
そうなんだよね。明日は、お休みだった筈の利用者さん訪問日で…。断れなかったのだ。「親と他人とどっちを大切にしなければ行けないか…判らないのか…」とお叱りを受けました。
もっともな事で…。「むにゃむにゃ…」と言葉を濁すしかなかった。
そこまで母を思ってくれて有難う…。

で、母と私を施設に送ってくれた夫は、其の儘 未だ残業している方の居る会社へと走っていきました。
ご苦労様な事で…。わざわざ 有難う…だなぁ〜。
こういう事があると 腹が立っていても許しちゃう…。計算済みの行動かな?

で 罪滅ぼしのクリスマスをこうして終えた。
我が家のディナーは…何時かな?


2003年12月23日(火) お蔭様で…

気が付いたら、アクセス数が2万を越えました。
年が明ける頃に…だろうと思っていましたが…。
何だか 2万近くなってから急激に訪問者が増えてしまいました。
過ぎたら いつも通りに戻ってます。(笑)

この日記は、在宅と比較してどうなのだろう…と思って書き始めました。
母を施設に送り出す事は とても不安でした。
今でも 不安は残っています。
読んでくださる方は そんな揺れも感じて戴いていらっしゃる事でしょう。

今後、在宅に戻る事もあるかもしれません。今は様子見状態です。
その時に日記を書き続けられるか…自信はありません。

何の工夫もない文字だけの日記ですが お立ち寄り下さる方々に深く感謝申し上げます。
これからも 毎日更新出来るように できる限り努めます。
ステップアップはもう暫く…。(笑)
母の写真は 載せられませんが 今後は 母の作品は載せていこうと思っています。
それも ありのままに…。いい時代から今の状況まで…。
普通の方から見たらおかしな作品になるでしょう。
母にも不本意かも知れません。
それでも、何かが作れる…という事は介護者にはとても嬉しい事です。
なんだ、それくらいなら家のだって出来るぞ…と思える作品ばかりですが…。
そのうちに…実現できるように努力します。

介護の事に関しましては 私の独断ですので皆さんに当てはまるとは限りません。私と母の関係だからできる事 できない事があると思います。

介護なさっておられる方々…。どうぞ御身大切にお過ごしください。皆さんと一緒に介護のお話ができます事を深く感謝します。
掲示板で、メールで 励まして戴き本当に有難うございます。

グループホームに託している身ですので、在宅介護なさって居られる方々のご苦労とは比べようも無いのですが…。
皆様の介護のきらめきを受けさせて戴きながら 更に母との生活に磨きをかけて行けるよう努めます。
どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。

2万を踏んでくださったのは…常連さんでしょうか…?
何もプレゼントはないのですが…。ちょっと気になります。



2003年12月22日(月) ごめーんなさい。


グループホームのクリスマスだった。
9時半を目指して施設に向かった。
クリスマス会の昼食を職員と共に作るのが役目である。
献立は、クリームシチュー、コールスロー、から揚げ、ケーキ、オードブルであった。
じゃが芋、等材料を洗って皮を剥いたり…。

でも、今日も入所者のお手伝いは無かった。
入所者は、特に何をするでもなく過ごしていた。
家にいる時の母は、料理をしていると興味を示すのだけれど 施設では全く興味を示さなかった。
広い空間と仕切りのせいかな?受身になりきってしまったのか?

賑やかに会は始まった。
手品を見たり、職員のサンタさん姿でのコーラス。
クリスマスの会は 終了。

きょう、食事までの時間少しゆとりが出来た。
散歩にも連れ出せないのでホールのテーブルを使ってストレッチを試みる。
その内Fさんもやりだし、車椅子の方も一緒にやり始めた。
誘ったわけではない。自主参加である。
みんな ストレッチに興味があるのだなぁ〜。

会が終わって家族も家路に着いた頃 再度Fさんを居室に誘ってストレッチを始めた。
母が面白くなさそうな顔をしていたのである程度のところで止めた。
Fさんに「もう、帰る?」と聞いたら…。
母が「愛想なしだわね〜」と言う。Fさんも「そー。あいそないよね」と言う。
そうだよね、私の配慮不足だ。
「ごめん。そんなつもりではなくて…」なんて言い訳に終始している自分が情けない。
こんな時の感受性は侮れないなぁ〜。ほんとに痴呆なの?と思ってしまう。

今日は冬至。小豆を茹でて南瓜とにた。ゆず湯も…。
さて、明日 母を連れてくるか?


2003年12月21日(日) やっつけ仕事


 気掛かりだった庭の木々の剪定の続きをした。
ごみ回収も残り少なくなり 慌てて剪定した。
それも やっつけ。楽しむなんて事はなくて パチンパチンと考えなしに感慨なしにである。
軒下より伸びてしまった山椒の木…いやいやながらパッチン。棘が刺さって痛い。でも、切って置かないと細かい葉が厄介だから…。
山椒は後処理も棘との闘いであった。

ここ1週間程、年賀状のデザインに悩んでいた。
ネットを覘いて見たりしたけれどイマイチで…。
今更、版画を彫る気にもなれなくて…。ステンシルか?とも思ったけれどやっぱり面倒が先に立った。
再度ネットで探っているうちに…@閃いた!@
庭に出て目的の物を…。
ちょっとお目に掛かった事のない物に仕上がった。
作品としてはイマイチなんだけれど…これでGO!
これも、ほんとにやっつけ仕事、悩んで10日、思い付き数分である。

明日の母の洋服を準備。
たまには 余所行きの服着ないと…。

あー、母の年賀状が有った。今年は母の元気な姿を写真にしたけれど…。
来年は どうしようかな?
母の賀状は 今年には出さず 戴いた年賀状にお返事を書くというものである。
ほんとに気に掛けて下さる方は 多少遅れても理解してくださるだろうと思っている。お正月に何もこないのはやっぱり寂しいし…。

堪えようと踏ん張っている事がある。
いわずと知れた弟たちの事。
「忘れよう」「気がつかなかった事にしよう」と思っているけれど…。
こういう事に父は ずっと耐えてきたのだ。
私も父を見習っていかなければ…と肝に銘じる日々である。
難儀だなぁ〜。






2003年12月20日(土) ゲートコントロール

こん言葉があるんだぁ。
言われて「なるほど」と思った。この所の学校への不審者だってこのゲートコントロールがしっかりしてれば良かったという訳である。

今日、TBSラジオの永六輔の土曜ワイドで耳にした。
精神科医の北山修氏と永六輔氏とのやり取りは面白いしなるほどと思う事がある。
今日は、坂庭省悟氏を偲んだ会話だった。

人は入院と聞けば お見舞いに出かけるけれど在宅に戻ると殆ど会いに行く事がない。そんな事でゲートコントロールの話になった。

確かに会いたくない思う人も在れば会いたいと思う人だっているだろう。
この辺りをうまくゲートコントロールすべきという事だった。

他にも心に響く話があったが これは また機会を見て…。

今日は急用ができて リハの時間をずらした。
向こうの都合で6時しか空いてなくて夕方6時からのリハと成った。
母を迎えに行き家で暫く過ごす。
食事も微妙な時間。入浴は日中施設で入ったという事だった。
洗髪もしてあった。でも、昨日パーマをかけたのだから今日は洗髪しないでも良かったのに…なんて我儘なことを考えた。

リハは、いつものコースで終了。
母は、今日も気持ち良さそうにすやすやだった。
リハ後、夕食。
やはり、たくさん食べた。
菜花のおひたしを「おいしい」と食べていたので「ほーっ」と眺めていたらやっぱり最後は繊維を手に取り出していた。
菜っ葉はやはりほうれん草が一番かな?

帰路タクシーを呼んだ。
トイレに誘導しない儘外に出てしまった。外で「トイレ」といわれたけれど…戻らなかったら…びっしょりズボンまで濡らしてしまった。
こちらが急いていると やぱっり駄目だなぁ〜。
時間にゆとりを持たなければ…と反省。


2003年12月19日(金) これ できる?


 母を美容院に連れて出た。
入浴の形跡が無く 家でお風呂に入れてあげたかったのけれど時間に余裕が無くて家より近い美容院に出かけた方が良さそうだった。

母に「『おふろ』と『髪結いさん』とどっちがいいかかな?」と聞くと「うーん。わかんないよ」と言った。
でもニュアンス的にはお風呂だったのだが…どっちみち明日はリハで家に来るので美容院にしたのだった。

「お金がかかるねぇ〜」と言うので「大丈夫だよ」と言うと「そうかい」と素直。このごろは「お金がないから…」という事に拘らなくなったので助かる。病の進行なのだろうから哀しいのだけれど、介護する方からすれば面倒がないので楽である。

パーマをかけて一番困るのが パーマ液を付ける時。
「冷たい」「ひんやりする」と言い出す。
タオルで頭を巻いてビニールを被る時額からタオルが落ちてきそうに鬱陶しくなるのを嫌う。
今日もそうだった。
「何だか冷たいよ」と言い出した。「パーマ液つけてるからだよ」と言うと
「ざいごしゅ(在郷衆)だから…変なことばかり言ってごめんね」と美容師さんに謝っていた。懐かしい響きの言葉だった。
言われた方の美容師さんは 若いので「?」言葉の意味が判らない。
「田舎者で…という意味でね」と補足した。

暫く待っている間に水分補給とおやつを摂った。
それでも間が持たなくなり 頭に手をやるので手遊びをした。
いつもなら歌いながらやるのだけれど他にもお客様がいるので少し遠慮した。「右手をグー。左手をパー」これを交互に変えていく。
慣れてきたところでこれにチョキを加える。
言葉で言っても直ぐに理解できないので母と向かい合って「出来るかな?」とやってみせる。
すると母は、真似をする。
これが「向かい合っているから…」とちゃんと左右逆にできる時もある。
今日も向かい合っている事を意識してやっていた。
こういうところが 不思議である。痴呆なのに…。
チョキを入れ始めるとチョキにならずに人差し指1本に成ったりする。
今日の母は、その間違いにも気が付いてケタケタと笑った。
「あれっ」と言いながらまた始める。
その様子を見ていたオーナーも笑い出した。
それでも、めげないで楽しそうに続ける母。
母は、こういう遊びが好きである。
この遊び 脳を刺激してくれるだろうと…勝手に思っている。
他にも指を折っていく遊びもする。先に片方の親指を折って置いて後は順番に折っていくだけ。右手と左手と一本ずれて折っていく…。
これは グーパーチョキより難易度が高い。
それでも 十分笑いを取って楽しめる。
入浴中でも、トイレでも、布団の中でも、バスの中でも…困った時の手遊びである。

母と笑い転げているうちに パーマ液は定着して終了。
綺麗に仕上がった頭をみて「どうも有難うございました」とお礼を言っていた。

帰宅が遅れて施設の食事は終わってしまっていた。
どうやら今日は職員の忘年会らしい。それで、チョイ早めだったらしい。
知らなかったので 迷惑をかけてしまった。



2003年12月18日(木) DNA


 今朝 新聞を読んでいて考え込んでしまった。
人工授精で生まれた子が 本当の事を知り 遺伝子上の親を知りたくて 訪ね歩いていると言うのだ。

そうだよね。知りたいよね。
でも 難しいよね。
提供者の気持ち、実際の親の気持ち、子供の気持ち…。
立場の違いで 思いは異なるだろうね。

命って 何だろう。

とても重たい気持ちになった。
子供をどうしても育てたかった気持ち。
研究のために 提供した人の気持ち。
判るけれど…。

生まれた子供の思いを想像すると何ともいえない寂しさが生じてしまう。

私の中に父のDNAも母のDNAもある。
遺伝子を調べようと言う気にならないのは、ルーツが判っているから…。
そのままを受け止めようと思っているから…。
それでも、父と母の遺伝子の割合はどの程度か…わかんないけれど。 祖父母の血も引き継いで居る訳で、その辺りになると私には判らなくなってくる。実際会った事のあるのは 父方の祖父だけだしな…。
そうなると 自分の事だって曖昧なんだけれど…。

でも、其の儘も何も判らなかったら 知りたくなるのが当然だろう。
提供者に引き合わせることは 難しいだろうな。
せめて DNAとその後の病歴を知らせてあげてもいいのじゃないかと思ったりする。
でも、それだけの情報でも 本人は納得できないのだろうなぁ〜。

命を作るって 大変な事だと改めて思う。
クローン人間が出現したら…どうなんだろう?

自分には 関係のない事だと思ってあまり関心を持っていなかったけれど…。そういう現実も有るのだと知った。

介護から 外れてしまったけれど…ちょっと切ない気持ちになったので…。





 


2003年12月17日(水) リハ体操


 22日施設のクリスマス会がある。
勿論教会のクリスマスも。こっちの方が母の第一にするクリスマスだけど。

施設に着くと聖夜と赤鼻のトナカイの楽譜が出ていて練習を始める所だった。でも参加者は2名。ちと寂しいので参加した。
賑やかとは行かないけれど…練習。
何だか 私の声が一番高い。
職員は忙しそうにあれこれ動いておられるので、結局 ちゃんと歌うのは私を含めて3名だけ。
こんなんで 大丈夫?歌う必要があるの?と思われた。
いや、みんなで歌うなんて不可能なのかもしれないけれど…。
もう少し盛り上げる努力って出来ないのかなぁ〜。
無理にクリスマスなんてせずに忘年会の方がわかり易いのではないかなんて思ってしまった。

外は気温が下がって寒い。歌唱練習もやったので散歩はお流れ。
仕方ないので居室でリハビリ体操。
まずは 洗面台に手を置いて膝の屈伸運動。いちにいさんしぃ〜と声を合わせて始めた。10回で1本の3セット。
次に窓辺の手すりをバレーのバーに見立てて足を後方に高く上げる。
♪もしもし亀よ亀さんよぉ〜♪
1曲終えて終了。
手すりを使って 次に背伸び。
♪てんてんてんまりてんてまりぃ〜♪
3番で終了。
次は体の捻り。右左右左これも5回を1本で2セット。
今度は膝を交互にあげる。
こんな順序で試みた。
「疲れたなぁ〜」の言葉に休息。
また、膝の屈伸を3セットやって終了。
ご褒美に足のマッサージ。
母を椅子に座らせ 片方の足を私の肩に上げてもらい。
もうひとつの足をマッサージ。足の甲に浮腫みがある。
靴下着用のまま足先から足首に向かってマッサージ。「痛いよ」という母に力を加減しながら擦った。
暫くすると浮腫みは取れる。不思議だけれどほんとに取れる。
元に戻るのも早いけれど…。しないよりいいだろう。
両足を擦り終えてから 足首を右回し左回しする。足首を交互に伸ばす。
座った儘 膝を交互に上げる。

こんな感じでリハ体操終了。
ほんとは、散歩の方が気分転換とリハの両方できるから良いのだけれどたまにはいいかな…。

何やら臭う。
トイレでいきんで貰った。少し失敗もあったけど仕方ないね。
ちゃんと出て 良かったよ。


2003年12月16日(火) 久々に家に居たら…


 年賀状の準備に重い腰を上げた。
でも 未だ未だだだだだだだだだだ…。
デザインが決まらない〜。
まだ、ちょっと時間がかかりそう。いつもの事だけれど…。

そんな所に友人から電話が2件あった。久々にゆっくり話せた。
今日の結論「自分の常識は 他の人の非常識って事もある」という事かな?
年を重ねても 達観できない。一生続くね…って事でして…。

もうひとつの電話。
ミドルステイに入られた利用者さん 早くもリタイヤ。来週からまた訪問開始。集団生活は 合わないんだね。転倒の危機より自由を選んだみたい。
これは、痛い。何が辛いって夏の間は窓を開けて逃げ切っていたタバコの煙…。冬は内ドアすら寒いから閉めて…って言われる。
3時間活動してるとねぇ〜。我儘かぁ〜。チェーンスモカーで 休む事がないんだあああああ〜っ。

で家に居たのでゆっくり煮物。
切干大根や、お豆を煮た。主菜は肉団子。ミンチに生姜、しいたけ、葱のみじん切りをたっぷり入れて団子にして 仕上げは餡かけにした。
なめこと豆腐の味噌汁にせりをたっぷり入れた。
久々に「ご飯」という感じがした。
一人の夕食だけど…。

夜 ワードを使っていたら、迷路に迷い込む。何をやっても戻らない。
ため息の連続だった。何とか解決して…ほっとした。
何時まで経っても慣れないなぁ〜。


2003年12月15日(月) 嚥下障害


 嚥下の予防のため うがいを始めた人の事紹介した事があっただろうか?
嚥下は のどの筋肉の低下から起きるという事。
そのために 上を向いてうがいをして予防に努めている…という事。

嚥下障害は、痴呆に限った話ではない。
私の行く末にもきっと待っているのだろう。
だから 他人事ではない。
その話を聞いて以来私もうがいを意識的に実行している。

何故こんな事を書いているか?
それは、ある方から「ゼリー食の方 そばにいらっしゃいますか?」とメールを戴いてはたと考えた。
残念ながら身近でゼリー食をしていらっしゃる方は居なかった。

でも再び嚥下障害について考えてみた。
母は、危ういながらもまだ酷い嚥下障害は起きていない。
だから、とろみとも無縁である。

嚥下が酷くなると食事の量も減ってきて体重も減少する。
体力も落ちてくる。
以前 訪問していた方も嚥下障害が起きた。
その時に家族のなさった対応になるほど…と思った事は、高カロリー摂取を狙いチーズケーキ、コーヒーゼリー、茶碗蒸し、チョコレート、葛湯等を準備していらした。
困ったのは、利用者さんが「甘いものが多くて嫌になる」と言われてなかなか召し上がろうとなさらなかった。励まし励まし食べていただいた記憶がある。時に野菜などを細かく刻んでお好み焼きを作ってお口直しもしていただいた事もあった。
確かに甘い物はカロリーが高いから…体重減少は緩やかだったと記憶している。

じゃ、ゼリー食になったら 元に戻すのは無理か?
そこが気になり 今日 保健婦さんにお聞きしてみた。
歯科医(口腔外科)の指導を受けながらリハビリを重ねればゼリー食でなくとも良くなる可能性は有るそうである。
何処までというのは ケースバイケースになるだろうけれど…。

友人が嚥下障害が起き始めてとろみを取り入れた。
でも、友人はその内なれて元に戻してゆっくりか噛んで食するようになっている。水だって気をつければ大丈夫になった。
これは、未だ 若いという事もあるだろうな。

歯科医の指導は 氷を口の中で転がす事から始まるとも聞いた。
やはり 専門家ならでは知恵が有りそうだなと思う。

噛む事は脳を刺激すると言う。先日も新聞に載っていたけれどよく噛む人は呆けにくい…という事だった。早食いは 呆けやすい…。
よく噛んで 脳に刺激を伝える事も大切なんだなぁ〜。
そう言えば、母は嫌になるほどよくかんでいた。
痴呆が始まってもその習慣は変わらず早食いの夫が感心していた。
早食いは 肥満にも繋がるから…夫は感心していたのだった。

あれ、話が反れてしまった。
口から食べ物を摂取続けられるように…と更に母も私も気をつけよう。
そして嚥下が始まったら歯科医に相談しながら 食べるための努力をしよう。
ある方のメールから再度学ばせて戴いた。

家族の会終了後 母の所に向かった。
母は石垣りんの詩集を声を出して読んでいた。勉強している風であった。
数ヶ月 この本が無くなっていた。家に持ち帰ったかと探したりしていた。
施設には届けでてなかった。
きっとどっからか出て来たのだろう。
母は「表札」が好きでそれ以外はあまり読まなかったのだが…今日は他のを読んでいた。良かった。

気温が下がり寒い日だったけれど母を外に連れ出した。
母は、看板を読んだり通りすがりの人の服をみたり…で言葉をよく発した。
「298円」と読んだ看板は 吉野やの物。
「牛丼の値段だよ。これって高いか安いか?」と母に聞くと「これくらいが丁度良いんではないか…」という事だった。
期待した答えは「高いなぁ」だったのだけれど。
判ってんだか?判ってないんだか?
でも、目に留まったものを使っての会話の方が弾みが出てくるように感じる。


2003年12月14日(日) 笑いに変える悪い知恵

 人が理不尽に腹を立てていると笑い出したくなってしまう不謹慎さが込み上げて来てしまう。
「何故にそんなに怒る?」
自分が種をまいてしまった時は猛反省するけれど…。そうでない場合であるのだけれど…。

夫は、短気だから直ぐ怒る。
大声で怒鳴る家に育たなかったので怒鳴り声には 抵抗力がなくて戸惑いも多かった。でも、結婚してうん十年も経てくると「それも個性」と受け止められるようになった。
実家のお嫁さん達も怒りっぽくて、弟たちが私の目の前で「ポカッ」とやられて 唖然とした事がある。
育った家が平穏すぎるといい事ばかりでないなと思ったものである。

この所、怒った夫の姿をぼんやりと眺めてる事がある。(おいおいって感じかな?)
「この人疲れているんだな」「息子が居ないから疎外感を感じてるかな?」等の思いが湧いて来るのだ。ほんとに嫌な妻だと思う。

今朝 何気なく夫の居ない所で夫の怒っている姿を真似した。
娘は 腹を抱えて笑った。
娘は昨夜八つ当たりをされて嫌な思いをしたばかりだった。
それから、私が娘に発する一言、娘が私に対して発する一言を受けながら怒る様を軽く真似して 一日笑い転げてしまった。

良くない事と承知してはいるけれど 理不尽な怒りに対しては こんな風に対処しないと身が持たない時もある。
聡明な妻、賢い妻でないから この辺りは勘弁してもらおう…。(笑)
勿論 本人の前ではやらない。まして他人が見ても「何の事?」と理解できないポーズではある。家族だからこそ知りえる姿を家族だけで…。

でも やっぱり 良くない事だから 止めた方がいかな?
それでも受けたストレスを解消するには 心地良いのです。

父と母が見たら「止めなさい」と言うだろうな。
まして夫の両親が見たら哀しがるだろう。

今日は、朝、昼、夜の3食を家族3人が揃って同じテーブルを囲めた。
当たり前だった風景が 特別の日の風景になってしまっているなぁ〜。


2003年12月13日(土) 夕暮れ症候群


 リハビリを受けて一休みして 夕暮れに目が移った途端「おかちゃん」と涙を零し始めた。
もう、数秒置きに発する「おかちゃん」火傷後以来の頻繁さだった。

ふるさとの教会、地元の教会からのクリスマス祝会の案内を見せても「最近行ってない…」と涙する。
昨日の事すら何をしたかなんて覚えていないのに…どうして最近行ってないなんて事わかってしまうのだろう。
こっちも後ろめたさも手伝い「オロオロ」としてしまう。
心の中で「ごめん、私が悪いんだ。ちゃんと連れて行くべきだね」と謝る。

もう、「おかちゃん」と言う度に「はい。どうした?」と返事するしかない。
そうすると今度は 「わたしばかり勝手にしゃべって、申し訳ないね」と言ってくるのだ。
ほんとに どうした事だ。何でそんな事まで判るのだか…。

「今日は、おかちゃんの所に行くには 遅い時間だからね。明日、行こう。きっと行こうね」と精一杯の言葉をかけた。
少しずつ、落ち着いてきてほっとする。

夕焼けの明るさから 急につるべ落としのごとくに日が落ちて暗くなるのでそうなるのかなぁ〜。
夕暮れ症候群…母も私もちょっぴり辛い日暮れ時だった。


2003年12月12日(金) 何時 訪れるか…


 今朝、事業所から電話が入った。
月曜利用者さんの転倒は…「脳梗塞だった」と言う。
幸い 軽い物らしい。でも万全を期して入院なさるという事だった。

昨日、転倒と聞いた時フラットな床、広々とした空間があり「何につまずくだろう?」と考えていた。
活動を終えて帰るときも「転ばないように…」と注意を促していた。
「ひょっとして …」と思ったのだが…。
やはり そうだったのだ。
月曜の変わった事と言えば 心の内を長く吐露なされた事だ。
かなり辛そうだった。話した後 温和な表情に戻られたので大丈夫と思ったのだけれど…まだ、欝が続いていたのかなぁ〜。

母の脳出血も突然だった。前日まで一緒に散歩できていつも通りだった。
脳血管系は当たり前としてもアルツでも後半は脳出血や脳梗塞が起きると聞いた事がある。
高齢で血管ももろくなっているのだから仕方ないのだろうけれど…。
予測が立たないだけに 油断は禁物だろう。
母は、今 血圧が高くなってきている…。何かが起きても不思議ではない状況である。
そういえば、あの頃 母は入所者の間で嫌な思いをしていた。
昨日珍しく「あそこは 何だか嫌でね…」と言っていた。
何に対してそう言ったのだろう…?少し引っかかっている。
そして、二人とも足の浮腫みがここに来てまた出てきていたなぁ〜。
でも、足の浮腫みは…どうなんだろう?関係ないかなぁ〜。

利用者さん、落ち込んでいないといいんだけれど…。
私の試みていいのは、お便りを出す事までだろうなぁ。

母も利用者さんも気持ちを立て直して 冬を乗り切れるように…と祈る。





2003年12月11日(木) 楽しめるかな?


利用者さんが、暫く老健に入る事になり木曜の訪問は暫くお休みとなった。
冬の間は 転倒が怖いのだそうだ。
先週入所の支度を手伝って気が付いたのだが…ちゃんとギブスをお持ちだった。1年余訪問していてギブス着装している所は1度も見た事がなかった。
病への向かい方は 様々だと思った。

そういえば、今朝事業所から電話があった。月曜の利用者さん転倒して通院しているという事だった。詳しくは判らないけれど…室内での転倒だと言っていた。少し心配。

寒い季節は 転倒が多くなるという。万国共通だと言う。今朝の朝日新聞に
関連記事が載っていた。
高齢者は、オムツを替える時にだって骨折する事が多いと言う事例が出ているそうである。骨がもろくなっているから股を広げるだけでも骨折するのだそうだ。

それを踏まえて母の所に出かけた。
12時少し前に着いたら食事中だった。
食べ終えるのを待って外に連れ出す。
あいにく雨が降ってきた。
それでも「出たい」母である。
バスを乗り継いで我が家に向かった。幸いノンステップバスだったので助かった。雨の日のバスの乗り降りは神経を使う。歩く時はしっかり腕を組み、小さな凸凹を通過する時は必ず声をかける。また、少しつまずくような時は「膝をしっかり上げてね」と声をかける。
「転ぶと怖いよ」と言うと「うん」と注意深く歩くようになるので助かる。

家の中も寒かった。急いで暖房を入れた。
部屋が暖まってからコートを脱いでもらった。

テーブルに 先日スーパーで買った「シールブック おかいもの」を出した。本来は、子供の使う物でお店の棚にシールの品物を貼り付けていく物である。シールは繰り返し使えるタイプである。
母は、シールを貼る事は無理だと思った。
でも棚にシールを貼り付けて注意を引き 固有名詞を引き出せるだろうと思ったのだ。
母は 狙い通りに動いた。
出来ないと思った比較が出来た。品物を隣のページと照らし合わせるという作業である。
これだけ楽しめれば上出来である。
一人では 入り込めないけれど 興味を持てば 暫くは本を読む感覚で一人楽しめた。
これが固有名詞の現状維持に繋がればと欲も出てきてしまうけれど 楽しめればいいと思う。

寒いけれど 入浴した。浴室を先に暖め シャツ着用で洗髪 その後体を洗い浴槽に入った。入る時は「面倒。寒い」と言っていたけれど 入ってしまったら気持ちよさそうだった。

バスを乗り継ぎ 施設の周りを少し歩いて戻った。
今、転倒のほかに励行している事。それは、手洗いとうがい。
移動の度に手洗いうがいの励行である。風邪予防もしておかないと…。


2003年12月10日(水) 火傷通院終了


 7日の通院で「これで治療終了で良さそうだな」と言われた。
あと暫くは、軟膏を擦り込むだろうけれど、通院はしないでよいそうである。ようやく肩の荷が下りた。
それにしても…。
「母が火傷をして…」と言うと殆どの方が「「家で?」と聞く。
次が「痴呆なのに どうして火傷なんて…」「何をしてたのか?」「どのくらいの時間が経ったの?」等みんな異口同音に聞いてくる。

基本的に知りたい事なんだね。
施設の説明は、全て納得できる物ではなかった。
いや、事故に関しては 最初に書いた通り 仕方ないと思っている。
でもその時の様子、処置等はきちんと説明が欲しい。
責任追及するつもり等全くない。
でも、同じような事故が繰り返されないための点検のためにもきちんとしておいて欲しい。

施設内の風邪菌も収束の方向に向かっているように感じた。
集団での生活は、こういう時心配だ。
これは、デイだって同じなのだけれど…。


2003年12月09日(火) 風にも負けず…

介護仲間から高野悦子の「母 老いに負けなかった人生」をお借りして時間の隙間を使って読んでいる。
高野女史がお母様の介護に本格的に向き合った場面の一つ一つが自分が母に対処した時と似ていて驚いた。
介護って こんなにも似たような行動をとるものなのだと思った。

例えば食事。
食べない原因は違っているのだが…。
お母様が食事を摂ろうとなさらないので…。
「まずいかもしれませんが食べて下さい」と頼み しまいには土下座して頼むのである。
根本的に違う所は、彼女は本心からそう思って言われたのに対して 私は何回もの配膳が煩わしいので 母に土下座して「食べて下さい」と頼んだのである。だから、家の場合その言葉を受けた母は「勿体無い。私のような者に頭をそんなに下げて…ごめんなさい。食べます。私が悪かった」と同じく土下座をして謝っていやいや食事をするのだった。
私の言葉は 母を追い込んでしまうのであった。
でも、食べ始めれば「おいしい」と言うようになり極度の緊張も解けて行くのだけれど…。

本を読みながらそんな場面を思い起こしてしまった。

そういえば、こんな会話もあった。
母に「あのね、お腹が痛いと言うけれど さっき通院して お医者さんは何処も悪くないって言ってたでしょ。痛い事は本当だと思うけれど…少しの我慢できないかなぁ〜。運動するとかで工夫してみようよ。こんな事何回も言いたくないよ」と言うと…。
「私にそうやって意見してくれる人はおかちゃん以外にないと思ったけれど…。こうやって言ってくれる事 ありがたいよ。これからも、間違っている時はちゃんと言ってくださいね。ほんと私は我儘だから…」と返って来るのだった。
今振り返れば、私の言葉で母を萎縮させていたのでは…と思ったりもする。

長い介護の時を経て 時に私を「おかちゃん」と呼ぶ時もある。
考えれば、母の言葉を 行きつ戻りつ受け容れている内に「おかちゃん」として仕立て上げられてしまったのではないか…なんて感じたりもする。

おかちゃん程の優しさと強さを持ち合わせてはいないから まだまだ役不足だろうけれど…。

今日は、晴れてよいお天気だったけれど外は冷たい風が吹いていた。
それでも、母は外に出たいと言った。
散歩の足取りも軽かった。1時間ほど川べりを歩いてファミレスでお茶にした。一息入れて更に歩いた。
元気いっぱいの母である。


2003年12月08日(月) 様々な形で…


 何かが有ったのだろう。
訪問先の方が お話を始めた。何処か寂しげで 今日はゆっくり話を伺った方がいいんだろうなと思った。おかしな話だけれど ほこりで死ぬ事はないのだから…。
それでも2.30分の事と思っていた。
けれどお話は1時間続いた。話は途中だったけれどあらかた話し終えた感じがしたので時計が時報を告げたのを機に席を立った。

誰でも「心」にひっかかって離れなくなってしまう事はある。
人との関係だと特にそうだろう。

お話を伺う事は そんなに苦痛ではない。
誰でもそうかというというとそうでもなくて…。「言い切りの文句ばかり」を並べ立てる方の話は結構きついような気がするが…。
迷い、悩み、揺れている方のお話は、苦境の自分に癒しすら与えてくれる。
「あー悩んで居られるのだなぁ。自分も同じだ。でも抜け出そうとしていらっしゃる…」とこちらが励まされてしまうのである。
だから、訪問している筈なのに逆に学ぶ事が多いのである。

人には様々考え方があると思う。
だから、人の有り様を批判等できない。疑問を抱く時はあるけれど…生き方まで否定する事は出来ない性分である。
利用者さんもそうだった。
非難しては いらっしゃるけれど そうする事で自分の心が硬くなって行く事の方が辛そうだった。
「判らなくなっているのよ」と言われる一方で「「しっかりしていらっしゃるから」と言われた事の腹立たしさがお有りだった。
年を取って来ると向けられやすい言葉である。
相手の方が いろいろ辛い思いをお持ちである事も十分承知していらした。

話して安堵なされたようで柔和なお顔が戻った。

利用者さんは、母の年齢に重なる。そして利用者さんにとっての私は 亡くなられた娘さんの年齢に重なるのである。
利用者さんが 私に娘さんを重ねていらっしゃるのを感じてもいる。

出来る限り、同調しないで耳を傾ける事も時に大切になってくる。


2003年12月07日(日) 介護放棄か?


 母との一晩は、忙しいものだった。
でも、在宅で介護なされて居られる方なら当たり前の事だろうから…。

前回の排泄の失敗を踏まえて対処。だから、夜間の排泄の失敗は避けられた。
一緒に過ごして見ると排泄のサイクルに微妙な変化があるように感じる。
最終トイレ誘導が午前零時から1時に済ませれば翌朝5時くらいまでは持っていたものだが…。1時過ぎで1回。2時半で1回。が前回同様だ。
これじゃ、母だっておちおち寝てられないだろう。
また、畳で寝ている状態からの立ち上がりがかなり困難に成ってきている。どうも、左足が痛むようである。
施設でも畳だから 排泄したくとも立ち上がれないだろうし 失敗は目に見えている。

実は、最近の母は血圧がかなり上昇しており利尿剤を服用している。
これが、排泄のサイクルに変化を与えているのだろう。

排泄の失敗を 母は瞬間理解できている。
失敗を繰り返しているので、何等かの形で記憶されているようである。
しきりに「分からなくなったぁ〜」と言う。
朝、排便させる時もトイレに入って「さ、頑張ろうね」と声をかけると…
「最初にどうするか…分からなくてね。困ってしまうのよね…」と言い出す。「何のことだろう?」と理解不能に陥るがきっと硬い便を出す事を忘れているのかな?と想像した。(勝手な想像なのだけれど)
お腹をマッサージして「いちにのさんっ」と声をかけていきむで貰う。
トイレで30分近く格闘した。
途中「もう降参する?」「嫌に成らない?」と聞いてみるのだが、今日は
「もう少し…」と出ようとしなかった。
感覚は失われていないのだろう。

薬の事 考えてしまう。
でも、もう少し様子を見てからにしようと思った。

火傷の処置の通院。
これだけ、頻繁に通院していると母にも記憶が残っている。
先生の顔を見るとニコニコして寄って行った。
場所の覚えも有るようである。
通院の度に「ここに来た事ある?」と昔から聞いていたのだが、最近の母の記憶では「始めてくる場所かずっと以前に来た所」という感覚しかなかった。でも、このところ直ぐ「来た事あるね」と反応する。

こういう場面を見ているとやはり施設の限界が見えてくる。
特に残存能力が残っている事を考えるとその維持をするためには、在宅がいいのだろう…と思う。
私自身の体との睨めっこは 当分続きそうである。

施設でももう少し「個」の能力維持に対して配慮して貰えたら…と思ってしまうのは私の介護放棄になるだろうか?


2003年12月06日(土) お泊り


 母が家に泊まっている。
施設で風邪ひきが多く、今日も点滴を受けている人がいた。
母は鼻水を出していた。酷い鼻水でないので少し運動していい空気を吸って気分を変えたほうが良さそうと思った。

一応 お泊りという事でお薬を戴いてきた。

リハを受けながら「今日はこっちに泊めようと思ってます」と事情を話すと
「体力維持が一番でしょう」と言われた。
母の場合、外に出るのが日課なので割りに強い見たいである。
食べる事に関しても施設内の人よりは多く食べていると思う。
軽く散歩して、ご飯をしっかり食べて、ビタミンを取って…お風呂であったまって寝て貰った。

10時過ぎにお布団に入って、zzzzz。

今日、母はおかしな事ばかり言った。
胸に平たい石鹸が入っている…と胸の辺りに触れていた。
「何だろう?」と見たけれど何もなかった。シャツをあげて見ていると「冷たい飴の様なもの…」と変わった。
少しげっぷも出ていたので…「胸のつまり見たみたいなものだったのだろうか?」と療法士さんと話した。

キッチンに立っている時 偶然母の死角に入った。
それまで百人一首を読んでいたのだが…何やら独り言が聞こえたので「なーに?」と声をかけたら「いないと思ったから言ったのに…」と言う。
独り言は、人がいる、いないに関らず出るのだろうと思っていたが、母の場合、いないと認識して話している事になるのかな?

「今日は泊まって行ってね」と言うと「おかちゃんに断らないと…」
「こっちに泊まって貰うって…伝えてあるよ。宜しくお願いしますって言われたよ」「有難う…でも、もう何も出来ないんだよぉ〜。ごめんね」
「哀しい?」「うん」

食後食器を洗ってもらった。
全て先に洗っておき、お湯に付けて置いた。
「お願い、手伝って…」「何も出来ないよぉ」
「なーに言ってんのぉ〜。出来るって知ってるんだから…」
流し台に立ちお湯で濯いで水切りに置いて行けた。
鍋までやって貰った。

折り紙
「つるを折ってくれる?」「うん」
でも、三角に折っただけで手が止まった。もうひとつ 三角。開いて…。裏も同じ。と言った具合である。途中一回だけ折る所をお手伝いしたけれど…おりあげた。
折り方 忘れているのだなぁ〜。昨年の今頃は、せっせと折れたのに…楽しそうに折っていたのに…。
2羽のつるを折った。

お絵かき
今日は、バナナを描いて貰った。
形はほぼ正確だった。色を塗る時少し拘りが出た。おそらく母にとって満足ではない仕上がりなのだろう。色鉛筆からクレパスに変えたら「これならいい」と言った。
娘が母にとお土産に買ってくれたお絵かきセットをやっと使えた。


2003年12月05日(金) 表現する力

メールがおかしくなってました。
調整しているうちに時間が経ってしまった。

娘友人のインストラクターに相談しながらようやく解決した。

介護仲間と話をしていて元気だった頃には考えられないような乱暴な行為、言葉について話題になった。
全ての奇行には訳があるだのだろうという事で一致した。

母には、困り果てるほどの荒っぽい行為は、殆どない。
それでも「分からなく成ってしまった」と言う言葉を耳にする。
この辺りに、ヒントがありそうだと思う。

これから先は、漠然とした考えであり私自身の偏った考えであるけれど…
人は、自分の思いを全部さらけ出してないように思う。
だから、心の内は何時だって汲み取るしかないと思う。
外側で乱暴そうに見えても実は優しい考え方だったり…という事である。
いや、人は両方の思いを潜在的に持っているのだろうけれど…。
おそらく、無意識のうちにどちらかを選択しているのだろうけれど…

病になると、その選択が出来なくなるのだろう。
無意識の選択だから、言葉にする事もなく過ごしている事になる。

脳内の変化によりそういう事が出来なくて その変化に本人は気が付いていていらだつのではないかと思うのである。
「頭が真っ白になる」「霧がかかったようだ」と言う表現は そういう事ではないかと思う。
単に過去を思い出せないからの苛立ちではないような気がしてきた。

そういう事に気が付く時「何処にも持っていけない怒り」として表現されるのではないか…と思ったりする。
内側で起きている事だから、介護者にはどうにも対処しようがない場面なのだろうと思う。
そして 介護者は、良かれと思う事を試して行くしかないような状況になるのだろう。

勿論、介護環境、対処が悪かった時も同じような事が起きるのだろうけれど
そればかりでは ないのだろうなぁ〜。

それにしても、表現できないって哀しいだろうな。
母は、かろうじて 感じた事を表現できる。
この能力 命果てるまで続いてくれるように…と祈る。


2003年12月04日(木) 何故夫に…


昨日の続き
夫は、口が悪い。思った事をポンポン口にする。
病の彼の事をおかしいと感じたのが1年ちょっと前。
その時に彼に言った言葉が…
「おまえなぁ〜。おまえが来ると会社の中が暗くなるよぉ〜」だったらしい。こちらがお客さんとはいえ酷いなあと思う。

それなのに その彼が 一番最初に 病の事をコクッたのが夫だった。
それも「パーキンソン」を「アルツハイマー」と聞き違いするような病とは程遠い夫に…。
夫は「家の奴が何か こちゃこちゃしている様だから聞いてみるよ」と言ったらしい。
夫の認識する私の事なんてその程度である。(それで助かっている部分が大きいのだけれど…)

仕事面では、ちゃんとしている事は夫の名誉のために言って置かなければ成らない。
口は悪いけれど「憎めない人」「ほんとの事を言う人」「きちんと処理してくれる人」と認めて頂いてはいるようである。(家族としては大変だけれど)夫の話は、ここまでとして…。

夫の出掛けに「今日は活動日なので家に戻っての時間で電話くださるように伝えてください」とお願いした。本人と直接の方がよさそうだと思ったからである。

家に戻ると直ぐに電話があった。
相当悩まれていらっしゃるのだろうと思った。
病院できちんと診察を受け、病名を告げられている。病気の症状、投薬の説明も受けている。
通院形態も指導されていた。
でも、通院をしないで 過ごされて居られる様だった。

「一番知りたい事は、なんですか」とお尋ねすると
「病がどのように進行していくか?」と「薬の事」と言われた。
私自身が、医療関係者でないので軽々しい事は口にしてはいけない。
でも、薬に関して知っている情報を話すと「そういえば、同じような事医師からも言われました」と言う。
おそらく病の説明を受けた時、まともに話が聞けなかっただろうと思う。
それくらいドキドキとするのだという事位は、私にも判る。

「自分で何とか出来るだろうと思って…」と言われたので、強く通院を勧める事はやめた。
なんといっても 自分は素人なのだから…。
人には様々な生き方があるのだし…。

でも最低の事として「知りたい。通院したい」と思った時直ぐ行動に移せるように思ってできる限りの情報を集めて送らせていただきます」と伝えた。
「ご迷惑をお掛けしては悪いから…」と言われたけれど、お節介屋の耳に入ってしまったのだから諦めて貰うしかない…と言ったら笑って居られた。
「ストレス、疲労をためないようにしてください」と伝えて電話を切った。

パーキンソン友の会の全国組織がある事は頭の隅に有ったので保健所に問い合わせて聞いた。ついでに、保健所にも相談窓口があることを教えていただく。住んでいる地域が違うのでその場所も確認した。
その後友の会の本部に電話して一番近い友の会の場所を教えて頂いた。

それだけは、先に電話をして伝えた。
少しだけ声が明るくなったような気がした。
これから、ネットから情報を引き出し送付する。

彼はパソコンは持っているが繋いでないとの事だった。

若年アルツではなかったけれど、若年パーキンソンだって難病に指定されている。原因不明の脳の病である。高齢者の場合とはまた異なる大変な病である。

私に出来る事は、ここまでだろうと思う。
早く相談 診察出来ればいいなあと思うのみである。


2003年12月03日(水) 唐突な電話…


 母の所から戻ったのが5時過ぎていた。
夕食の支度をしようと台所に立った時電話が鳴った。
夫からだった。帰宅が遅いと言う連絡にしては早すぎ時間である。
「あのな、アルハイマーって 何処行きゃいいんだ?」
知り合いの親がそう診断されたのだろうと思いながらいると…
「いや、俺とあまり変わらない奴なんだけれど、本人が今日言ったんだよ」
「そんなの、ネットで調べられるだろう」と夫が言うと「そういうのなかなかないんだよ」って言われたらしい。
そこで家に電話をして来たようだった。

矢継ぎ早に
「何処の病院に通院してるか?」「薬の服用は?」「症状は」「家族は?」と聞いてみたが、分かったのは薬は出ているけれど服用してないという事のみだった。
本人の言う症状は手が震えるという事と病の診断は昨年下されたとしか分からなかった。
でも若年性アルツは、徘徊、迷子などから家族が気が付く事が多いのに…。
通院のきっかけは、何だったのだろう?

とりあえず、
分かっている事を整理して、自分の持つ情報先に問い合わせた。
一番は、若年痴呆の家族を抱える知人。2番目に若年性アルツを抱える家族の会である。
若年性アルツの場合、仕事の事などもあるし、深刻である。

知人は「アルツと違うような気がする」と言う。でも、唯一の専門外来を教えて頂いた。
次に「会」に電話した。先日のネットワークで知った所である。
そちらでも、「どうなのだろうか?」という判断である。
本人の情報が少ないので仕方ないのである。
でも家族の会に本人が加わる事が出来る事だけは確認できた。

夫が帰宅してから詳しく聞いてみた。
おかしいと感じたのは2年前からで「どっかおかしいんじゃないか?」と夫は言っていたらしい。
現在も仕事をしている。でも、会社には病を届け出てないと言う。
という事は、今でも通用しているという事である。
歩行がおかしいのと手が震える事が目に見える事。
夫の会社まで来るくらいだから、仕事はこなせているのだろう。事務的な処理をする会社である。
既婚者なのかも分からないような間柄なのに、夫に病の話をしてくるなんて…。

でも、こんな事って滅多にない。
本人が告白なんて…。あとは、動いて見なければ分からない。
私なりの判断だが…話を聞く限り「パーキンソン」と感じるのだけれど…。

夫には「アルツじゃないかも」と言ったのだが…。
「医師の診断が出ているんだ」の一点張り。
「でもね、脳の診断って難しいのよぉ〜。だから、まっ先に『何処に通院?』って聞いたでしょ。」
こんな事で言い合いをしても始まらないので明日まで待とう。


2003年12月02日(火) 介護保険への不安


 福祉予算が削られて行く。
どうなって行くんだろうかといささか不安になる。

施設の運営だって 大変と言う話は耳にしている。
職員が減り、賃金の保障も少なくなると大変な仕事に付く人だっていなくなるんじゃないかと思ってしまう。

デイやショートの有り方も徐々に変化して行くのだろうけれど…。
ゼロには成らないだろうけれど…。

地域で介護と言われている…。とても難しい事だ。
介護そのものが人にとって捉え方が違うから…線引きが難しそうだ。
何より、介護しないと分からない事があるから、関係のない人にはなかなか理解を得られない。

保健所だって規模縮小に動いている。
役所だって…。
これまで、助けて貰っていた事が 助けてもらえなくなると…大変な事になりそう。
在宅介護に比重を置くのはいいけれど…子供の数も減っているのに、在宅での介護のサービスも減っていったら…今より更に大変になって行きそうである。

考え出すとくら〜い気持ちなって行く。
何とかしなきゃ成らないのだろうけれど…。
もし、若し 特養が消えて行ったら…。
絶対大丈夫と言い切る事が出来なくなってきている今だからなぁ〜。

今の介護だって大変なのに…それ以上の大変さを強いる事になるなんて…
「生きていてごめんなさい」みたいな世の中になってしまうのかなぁ〜。

具体的な根拠のある話ではないのだけれど…。
何とはなしにヒタヒタと感じるのだ。
今すぐ どうこうはないと思うけれど、先を見据えて置かないと…。
「考えすぎだったよ」と笑えれば いいんだけれど…。


2003年12月01日(月) 針仕事だよ。


朝、利用者さんを訪問した時、チャイムに反応が無かった。
2度3度と押してみるけれど音なし。
管理さんに言おうかな…と思いながら、ちょっとお出かけかもしれないし…と気を取り直して5度目のチャイムを押した。
「は〜〜い」と何事も無かったかのような明るい声が聞こえてほっとした。
チャイム数回押した事には、触れないで置いた。
台所では、煮物の匂いがぷーんとしたので、夢中でお仕事なさっていらしたのだろうと思った。

「これから、訪問の中にお散歩入れてくださいますか?足の浮腫みが少し出てきたのです。今日は、雨が降っているから無理ですね」と言われたので、
雨の日は絶好のお散歩場所があるので…とデパートに誘った。
丁度、内履きを購入したかったと言うので介護用品売り場に誘った。
はじめ「私は、元気だから…」と消極的だったので普通のズック売り場に行く。利用者さんが 気にいる物が無かったので「見るだけでも見てみません?母もそこで買っているのです。いろいろありますよ」とお誘いした。
行ってみて納得なされた。
履きやすいのである。特に脱ぐ履くは 手を掛けなくとも何とかはける。
「これは、いい」とお気に入りが見つかったようである。

何事にも前向きな利用者さんである。

活動を終えて家に戻って昼食を摂ってから母の所に向かうつもりだったが…
どうにも気力が萎えてしまいそうだったので、まっすぐ母の所に向かって家に連れて来た。昼食をとり始めると、母もおかずをつついた。
母の昼食は、済んでいた。
排便の確認を受けた後だったので、焼き芋を食べてもらった。
でも、何だか様子がおかしい…トイレに誘導するとやっぱりだった。
送っていた後、トイレを見ると排便の後があった。
なんだ、今日も出ていて、しかも少しやわらかだったんじゃない…。
焼き芋もよくなかったかなぁ〜。
自分が介護していないと こういう事もある。

ふと、足元を見ると、パンツのすそが全部糸が解けていた。
仕方がないので、脱いでもらい縫い始めた。
でも、母にも出来る仕事だと思い直して母に渡した。
始めは「もう、卒業したぁ〜」と言ったけれど…「そう言わないでよう〜」と励ますとちゃんと縫い終えた。
施設で、着用させる時、気が付かなかったのだろうな…。

その後、通院。
火傷の傷も回復は順調である。
診察を終えたら母が医師に向かって 唐突に「昔からずっと知っているから安心だぁ」と言った。医師も「そうだなぁ〜」と手をとって相手してくださった。

そこから、施設に戻った。

そう、そう。
今日、我が家に入る時「ただいまぁ〜」と言った。
このところ、我が家に来る事が多いので、感覚が「家」となっているのだろう。施設は「学校」と成っている。
施設の事を学校とは、一度も言った事がないのだけれど…母の中では 今そうなっているのだろう。


はな |MAILHomePage

My追加