母のタイムスリップ日記
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2003年09月30日(火) セルフプランの事


 以前、マイケアプランについて書いたが…。
昨日、ケアマネさんを通さずにケアプランを立てている方に出会ったので疑問に思っている事を聞いてみた。
「この町で、サービス利用するのにケアマネさんを通さなくとも施設はOKしてくれるか?」と。
それは、全く支障がないという事だった。
おそらく、これからは ケアマネを通さなければ利用できないと言う施設はなくなって行くのではないだろうか。

ケアプランを作るのには、施設やサービス提供の業者さんの名簿が必須である。これは、役所に行けば必ずある。
私の手元には、今 介護保険の始まった時の名簿しかない。
この町では、それが当たり前になっていると思う。
改定版は送付されて来ない。
この辺の所も、もう少し役所に考えて貰わなければならない所だろう。

当たり前の事だけれど お医者さんは自分で選ぶ。
だから、施設だって自分で選ぶと言うのも当たり前と言えば当たり前である。きっと、その方が良いだろう。
いや、無理にセルフにした方が良いとは言わない。

でも「いいケアマネさんに会ったからいいわ」は運に頼っている。
セルフできるのならその方がいいだろう。
難しいサービス点数…と言われていたが、利用している方に言わせれば義務教育を受けた人なら簡単に出来ると言っていたし、それでも不安ならマイケアプランからダウンロードすれば計算はすべてPCが処理してくれる。

施設情報は、やはり実際施設を訪ねたほうが良いとは思うが、でも 利用している方からの声を聞くのが一番だろう。
そのためには、地域のネットワーク作りがポイントになるのだろうな。

自分の老後を考える時「あーなりたくないよ」と言ってみても始まらないのである。折角、介護を通して色々の事が学べているのである。そこに自分を置き換えてみて何が必要かを考えられるいい機会でも有るのである。

おそらく、介護保険の審議委員会の答申通りに進むなら 今後は地域を拠点としたサービスに移行して行くのだろう。
予算も少なくなっているのだから、箱物だって簡単には作れないだろうし、在宅の介護が中心となって行くように感じる。
厚生労働省の方もそう話しておられた。
自分の暮らしてきた地域に安心して暮らせる事がやはり一番だろうと思う。

***   ***   ***   ***   ***   ***

海外の介護情報に寄れば、施設の洗濯物は個人単位で洗っていると言う。
だから、他人の物が紛れ込む事はないと言う。
また、縮んだり、切れたりすると なぜこうなってしまったかを利用者さんに説明しなければならない。また、納得して貰えなければ「弁償」もあるという。
こういう施設って、日本ではどの位あるだろうか…。






2003年09月29日(月) 母が怒った

 利用者さんを訪問するとしきりに「「私一人でも出来るのに何だか申し訳ないのよねぇ〜」と利用者さんが言われた。
「おぅ。きたかぁ〜」と思った。戦争をはさんでしっかりご自分でなさって来られたのだろうから無理も無いと思う。「出来る事は、一人で…。」
と思われて当然である。
でも、一昨日焦がしたと言うお鍋はしっかり水に浸かっていた。

「そうですよね。何でもお出来になるのですからそう思われるでしょうね。でも、これから先、本当に助けの手が必要となった時『人が来るの嫌だなぁ』とならない為の練習と思っていただけませんか?必要になった時『嫌ぁ』と言う人多いのですよ」と話してみた。
「そうねぇ。そう方多いですよね」と言う言葉が返ってきた。
「じゃ甘える事にするわ。何だかお友達が来ているみたい…」と言われた。

そう、お友達感覚でいてもらえばいい。
何れ わが身にもそういう日が来るだろう。その時お友達感覚で来てもらえたら嬉しい。いや、混同して甘えすぎない事は注意しないと。
ヘルパーさん拒否は 案外この「先の練習」がいい言葉かも知れない。
本人は、「出来る」と信じているのだから…。あくまでも「練習」である。
そして、案外事実なのかも知れない。人が入る事で整理されていい部分も生まれるような気もする。

訪問を終えて、家に戻って娘と食事。その後直ぐに母の所に向かった。
娘は、ようやく夏休み行使中。

「入浴してれば散歩しよう」と思って出かけたが入浴の形跡は無かったので家に戻った。
足が少し浮腫んできているけれど、先日のような強い前屈み状態は無かった。施設を出る前に水分を250ccは摂取したので家に着くとまもなく勢いの良い尿が出たのでホッとした。
その後、おやつ。これも今日はしっかりしていた。
ゆっくりした後入浴。これも、今日は大丈夫だった。拒否も無く暑がる事寒がる事も無かった。ただ、洗髪や体を洗う事はすっかり受身となってしまっている。
入浴後、トイレに誘導した。お腹がパンパンに膨らんでいた。苦しいという訴えは無いけれど溜まっているのだろうと感じた。
入浴後なのでいきむのも面倒そうで「疲れたぁ」と言う。
「ごめんね。でもお腹に貯めていてもいいこと無いよぉ。面倒かけるけど、一緒にお付き合いするから…」と言うと「いやいや、有難う」と笑っていた。結局、便は出なかった。
帰路、腸を刺激するため歩きの時間を多めに作った。

家からちょっとした教材をコピーして持って行った。
「高村光太郎の道程」とそれを虫食いにしたものである。
他にも似たようなものも。
母にそれをやって貰いながら施設長にもコピーして使ってみませんか?と渡した。施設長は傍にいたFさんに「「やってみる?」と聞いた。
Fさんは「やぁだぁ。やりたくなぁ〜い」と返事していた。
私が「ね、面倒なお願いだけど ちょっと読んで貰えないかなぁ?」と聞いてみた。「いいよ」とゆっくり読み始めた。「上手ねぇ」と施設長と口を揃えて言った。「ひょっとして、Fさん優等生だったでしょ」と話していたら…突然母が「あんたは、うるさい」と私に怒ってきた。そして、やりかけのプリントをパタンと裏返して作業を止めてしまった。
施設長と顔を見合わせた。
「ごめん。煩かった?で、これ もう一回やってみようか?」と声をかけたら母は、また作業を始めた。

今日は「私だけの○○ちゃん」モードの日だったのだろうな。
この辺の感覚は、掴みにくい。一緒に楽しめる時もあるのだけれどな。


2003年09月28日(日) とげは苦手


柊南天や、山椒の木等の剪定は出来れば誰かにやって欲しい。
家に有る木なのだから、その「誰」は決まっている。
でも、仕事で家に居ないのだから…。
やっぱり私の仕事かぁ〜。
と思いつつ、今朝は、垣根の剪定を始めた。

やっぱり、とげのある木は、後回し…。
藪蚊は、一頃より減った。でも未だいる。
今日は、おまけが付いた。「毛虫」である。
枝に数匹の毛虫を見かけていたので、ここも後回しにしていたのだった。
この間だって、完全に武装していたのだけれど、手がちょっと出た隙に小さな毛虫に刺された。大したことは無かったけれど…。
だから、今日は更に用心深く枝を切ったし手袋もちゃんと処理する時まで外さなかった。

残るは、門横の柊南天。
今朝から、お隣には松くい虫にやられた松の処理で庭師さんが入っていた。
お隣の柊南天を綺麗に刈り込んでいたので「ここまで切ってもいいのですね」と庭師さんに声をかけた。
するとその庭師さん「いいよ。俺やってやるよ」と言ってくれた。
この方、家の木もやって戴いた事がある。
でも、料金が高い。1本1万円だった。
だから、やってもらったものの料金が気になった。
「えーと。おいくらでしょうか?」とおそるおそる尋ねた。
「要らないよ」と言われてしまった。
それでは あまりにも申し訳ないので先日の娘の海外出張時のお土産のタバコを2箱「有難う」とお礼を言って渡した。
庭師さん休息しながら一服入れていた。

この庭士さん、この間兼六園に行って仕事してきたと言っていた。
その前も、随分遠くに頼まれて出向いていた。
お年は80歳近い方とお見受けしている。
腕は、確かな方であるのである。
このついでにと、竜の髭の手入れの仕方等も聞いてみた。
家のは竜の髭で無く「玉の竜だろう。青い実が付くだろう」と言っていた。
でも、違うと思う。青い実は付いた事が無い。
もっと詳しく聞こうと思ったけれど…おじさんだって仕事外の事だろうし…
でも、深く刈り込んでも大丈夫と言っていたのでそうする事にした。
何せ、根元の枯れた葉が茶色で汚く見えるのである。
そこを抜くと根まで抜けてしまうのである。対処に困っていたのだった。
やってみようと刈り込みはじめたら…根元に毛虫の糞が見えた。
この群れた植物の中にいると思うとやる気が無くなり…今日は取りやめに。

それにしても、この手入れ ここ当分は続くなぁ…。

お隣の松の木の処理とミツバつつじの移動の料金は、5万7千円だったと言っていた。
これって、高いと見るか、妥当と見るか…。
お隣のご主人は、まだ、安いと思っていた。奥様は高いと感じられていた。
昨年別の業者さんに切ってもらった方は、3万円だった。
それを聞いていらっしゃる奥様は、高いと思われたのだ。

夜 帰宅した夫に聞いてみた。
「お隣5万だって」と言うと「それくらいはかかるだろう」と言っていた。
「じゃ、家でやって貰う」という事になったら きっと「高い」と言うだろうなぁ。実際と他人事ではこのくらいの差があると思う。
そして、剪定の仕事を私に任せっきりの夫には、この苦労を何処まで理解して貰っているだろうか…。
気にしても仕方ない事だけれど…好きでやっている事だから…。

「わかってるのぉ〜」と喉まででかかった。



2003年09月27日(土) 母の造語


 最近 母は、トイレに入り下着を下げると決まって口にする言葉がある。
「なぁ〜まぁ〜がぁ〜」である。
始めは、判らなかった。でも、それが「素肌」を指して言っていると判ってきた。
トイレは、個室であり人に入って来られるのは気分が悪いだろう。
以前なら「一人!で」と言えたものだが…最近はそれもおぼつかなくなっているのだろう。それが、「恥ずかしい」と言うか…そういう心持の時に発するのだろうと感じていた。
今までは、気が付かぬ振りをしていた。聞かなかった事にしていたのである。
今日は、それとはなしに確かめる事を試みた。
5分袖のセーターを着ていたので「ここは?」と聞くと「なぁ〜まぁ〜」と返ってきた。いたずら心で 鼻に触れて「ここは?」と聞くと「なぁ〜まぁ〜」と言いながら笑った。きっと、自分でも「あれっ」と思ったのだろうと思う。再度鼻に触れると今度は明らかに笑って「なぁ〜まぁ〜」と言った。
もう、冗談と判っていた。

排便のためにトイレ誘導したのに、トイレからは変な話が聞こえてきて…
娘は「全くなんという汚い事を話すのだろう…」と苦々しく聞いていたらしい。ほんとの事がわかって許してはくれたけれど…。
母と私は、こんな風に変なことを当たり前のようにしているので 近くにいたり、外出時のトイレ使用の時隣に入っている人は「何事?」と驚いているかもしれない。

今朝、本を読みながら涙していた。また、歌を歌って声を詰まらせていた。と職員が教えてくれた。
昨日、たまたま その話を職員に伝えたばかりで実際に目の前で起きたので驚かれていた。
「こういう日は、調子の良い日だと感じています」と伝えた。

その言葉通り、前屈みは改善され、目つきもはっきりしていた。
「昨日の散歩で血の巡りが良くなり頭の方まで良い血液が回るようになったのでしょうかね」と作業療法士さんと話をした。

涼しくなって、足の浮腫みも大分改善されてきてほっとしている。

危ういと思うのは、固有名詞である。
おやつに「焼き芋とみかん」をお皿に載せて出した。
先にみかんを食べていたので「それは、なあに?」と聞くと「これはね、みかん」と言えた。「調子いいぞ」と思って焼き芋を指して「これは?」と聞くと母は、考え込んだ挙句「これと同じ」と言ってみかんを指した。
焼き芋を口に少し運んで「何だろうね?」と聞くと「サツマイモ」とようやく言えた。
みかんに戻ると今度はへたを指して「甘いのこれ」と言う。
確かにはずれではないけれど…。
あまり、求めすぎると また困惑してしまうので、別の話題に移した。

入浴も特に変わりなく出来た。

作業療法士さんから、正常な会話の割合の変化について聞かれた。
急変は無いけれど、やはり 多少は少なくなってきている。
でも、それが施設暮らしで会話が少なくなっているからなのか、病の進行によるのかは はっきり判らない。
聞こえが悪いのか、判断が出来なくなっているのかも今は良くわからないのが正直な所でもある。

書き留めてないので「これっ」と母の造語を書き出せないけれど、他にもこういう事は少しある。今度は気をつけて覚えておく事にしてみよう。


2003年09月26日(金) 前屈み

 今朝の地震で夫に起こされた。
昨夜、娘の帰宅を待ち2時には布団に入ったけれど、寝付けなかった。
3時ごろまでゴロゴロしていた。だから、地震の頃は深い眠りに入っていたのだった。
北海道の友人には、昨晩便りを書いて投函を済ませた後だった。
こんな事なら、一晩置けばよかったなぁ。
こちらに住む友人が、北海道の友人を案じて電話してきた。
みんな、心配なんだな。
そして、緊急優先のため電話は出来る限り使わないようにしているのだ。
友人は、災害の時に利用する伝言ダイヤルを使ったと言っていた。
ちょっとやさっとでは動じない友人だからきっと大丈夫と思う。
早番だとしたら丁度出勤の頃である。
仕事先の方達落ち着いていたかしら…。

***   ***   ***   ***  ***   ***   
季節のせいだろうか?母は、やっぱりおかしい。
入浴か散歩かと迷ったが、涼しくなり 浮腫みもだいぶ改善されてきたので散歩に出た。
折角だから、いつもと違うコースを選んでみた。
普通に歩けば10分強くらいかな?
そこを、川沿いに少し遠回りをして歩いた。
折り返し地点は、スーパーである。
そこには、休息室やトイレ(身障者用)もある。
帰路歩くのが無理なら、バスも使える。
途中には紅白の彼岸花の咲くところが在るのだが、もう既に咲き終えてしまっていた。残念だった。
母とリズムを口ずさむ。「タッタ タッタ タンタン。タッタタンタン」
不思議な事に一度口ずさむと母は、同じリズムを必ず踏む。
私たち二人は、繰り返しリズムを口ずさみながら歩いている。
何も知らずに通りがかった人は「ぎょっ」としはしないかと思い人の気配を感じると声を小さくしてしまう。
記憶できない事が多い中、リズムは覚えられる。これも不思議な感覚である。
母の歩行姿勢がだんだん前屈みになって行く。
「ほらぁ。こうなっているよぉ〜」と母のまねをしてみた。
話している事は理解できない様だったが「ハハハハッ。私みたい」と言う。
きゃ、解っているんだな!
それでも 休息なしで折り返しまで完歩した。

お店に入って買い物をするために立ち止まり、財布を出そうと手を放した。すると 母は 前にのめって行ってしまった。棚に手を付いてかろうじて転倒せずに済んだのだが…。
瞬間ひやっとした。脳出血以来初めてであった。
休息室でおやつを食べお茶を飲んだ。トイレで用を足してから帰路についた。前のめりがあったのでどうしようかと思ったけれど…。
母は、「歩く」と言うので休息を2回入れて、やはり完歩出来た。
一時間と少しの時間を要した。
施設に戻り、トイレで用を済ませてから横になってもらった。
足のマッサージである。
足の付け根、ひざ、すね、足首順番に痛み止めの薬を刷り込んだ。
母は、気持ちよさそうに寝入ってしまった。

散歩に出る前は、手足がとても冷たかった。でも、散歩を済ませた後の手足はぽかぽかしていた。やはり全身を使っての動きは血液の循環を良くしてくれるみたいだな。

そういえば「衣替え」の話を職員より受けた。
面会の少ない方は職員がやってくださるようであった。
中には「毛糸のもの」を出す方も居られたそうである。
私は、面会の度に、薄手のTシャツから順に片付け、薄手の長袖に切り替えていた。少し厚手の綿の上着も出して置いた。
夏物を全面的にしまうのは、少し早い気がした。
パジャマは、半そでは引き上げてある。
夏物と冬物が揃うと満タンになるので様子を見ながらこちらでやって行きますと伝えた。





2003年09月25日(木) ヘルパーさん

 木曜日の利用者さん訪問。
お元気だったので時間通りの活動が出来てほっとする。
帰りがけに罹り付け医とばったり出会った。
「利用者さんのお尻が荒れているので診察よろしくお願いします」と伝えた。本人からは、見えないのであまり気にしてないかも知れない。でも、昨年、それで失敗しているので(私だけの責任ではないけれど)同じ失敗は避けなければ…と思ったのだった。

この利用者さんのお宅には 私を含めて 3事業所の方が入られている。
日誌を読んでも所属が何処かまではわからない。

時々気になる事が出る。
以前は、卵をパックから出さないで下さいという連絡事項で「?」と思った。ごみ捨ても「リサイクルごみ、不燃物」がごちゃ混ぜに入っていてそのつど分別という事もあった。
利用者さんに直接関係無いけれど、でも、時間的な事では迷惑をかける。

今日、日誌を見ていて また「おやっ」と思う事があった。
「洗濯機の水取り込みの水道の蛇口を閉めないで下さい」というものだった。私は、横着だから蛇口を閉めたりはしない。でも、閉めた方が良いという事はわかる。利用者さんが手を触れないから誰かが閉めたのだろう。
なぜ蛇口を閉めないでというのか理由は書いてなかった。でも、きっと洗濯したつもりで水道が出なくて出来なかったか、時間を要してしまったのだろう事と想像した。
書かれた方は、どんな気がするだろう?
仕事上は対等の筈である。
利用者さんは、電気などもまめに消す方で、トイレに立つ時だってテレビを消される。それから押して考えても水道の蛇口を閉めるのは利に適っていると思う。
「蛇口閉めてますと一言と書いてください」で伝わるように思うのだけれど…。
そんな事もあって、急に曜日ごとの所属の事業所を利用者さんに聞いてみた。勿論、困りごと等は口に全く触れずに。
すると色々言うのは、1事業所のみだった。
初めから利用者さんに入っていた事業所である。

私が若し母を在宅で見るようになってヘルパー利用をするとしたら…。
ここの事業所は使いたくないなと思った。

ヘルパーさん同士がうまく気使いながら連携が取れることが利用者にとっては利用しやすい。
これって、嫁姑、小姑の関係に似ているかな…なんて思って一人苦笑してしまった。

娘は、今日も夏期休暇の筈だが朝からPCと携帯電話で仕事をしていた。活動を終えて戻ってもまだ、やっていた。3時近くに用があり出かけたけれどまた其の儘会社に出向いたようである。
そういえば、今月末、また海外出張の気配だと言っていたなぁ。
そこまで休暇は続いている筈だけれど…。



2003年09月24日(水) 大丈夫 だいじょうぶ ダイジョウブ!


 この所 娘が母の所に良く出向いている。
昨日は、娘の友人で母の写真を携帯の待ち受け画面にしている人も一緒だった。娘たちは、母に会う事を楽しみにはしているが、他の方とも遊ぶのである。昨日は 風船で遊んだらしい。
ちょっと、乗りすぎてI氏から「うるさい」と言われたらしい。
でも、一緒に遊んでいる人が「ちょっと我慢してよ」と言った風に言ってくれて I さんは我慢してくれたらしい。

「行かねばならない」「遊んでやる」と言った風の訪問は して欲しくない。一緒に楽しめる姿勢なら「嬉しい」
今は、きっと 楽しめるようになってきているのだと思う。
ちょっと、大人になってきたかな?と思ったりもする。

じゃ、家では良い娘でしょうか?「ぶぶーっ」なのでありまする。
私の望みが高すぎるのでしょうか?

今日から夏期休暇の筈の娘。
でも 昼過ぎに私を施設に送ってから 会社に出て行きました。

今日の母は「お帰りモード」だった。
先日、ジュンさんが掲示板に書き込まれたのと似ています。
「帰らなくちゃ」「帰りたいの?」「帰りたいわけじゃない」
こんな問答が、何回かあった。
下を向いてしまうのも先日と同じである。
「おかちゃん」も連呼。
「今日は泣きたい日?」と聞くと「うん。涙が出る日」と言う。
「どうしてだろうね?」と聞くと「…」
話は半分聞いて半分は自分の世界である。
ふるさとの教会にお礼状を書いて貰った。お手本は書いて渡した。
最初は、お手本の文字を旧かな使いにして書き出した。「やったね」と思っていたら…だんだん書けなくなってきた。
行を間違えてはいけないと声を出して読んで上げたら混乱してしまった。
きちんと聞き取れないのである。たとえば「教会」と言えば「朝会」に聞こえてしまうようであった。
そんなこんなで、書き間違いを幾度も直してようやく一枚のはがきを書き終えた。
気がそぞろだからなのだろうか?

あまりに「おかちゃん」を連呼するので古いアルバムを出してみた。
今まであまり興味を示さなかったけれど今日の反応は上々であった。
子供の頃の家族写真2枚をみてまず「家のお父さん」「自分」「息子2人」そして私。きちんと判りとても嬉しそうだった。
その後祖母と母の写真(奈良で撮ったもの)
祖母の写真を軽く数回 指で撫でていた。やはり、いとおしいのだろう。
そして、仕事をしていた頃の母の写真。同僚との写真に興味を示しかなりじっくり眺めていた。
顔の表情も違ってきていてほっとした。
でも、それも一時的だった。

また、雲行きが怪しくなったので入浴。
気温が低くなってきたので浴室は先に温めておいた。
そして、お湯の温度もちゃんと見ておいた。
それでも、冷え切った体には熱かったらしい。
「熱い」と言われる前に「ごめんね。少し熱いかもしれないよ」と何回も言って置いた。すると母は「少しだけ熱いけれど大丈夫」とまあまあの反応だった。「熱い」と怒られずに済みほっとした。

風呂から上がってもやっぱり「家に帰る」とそわそわ。
仕方が無いので水分補給して「家に帰ろうね」と帰路に着く。

今日の母、施設の玄関では「学校」と言った。
先日のように「私の家」とは言わなかった。
居室に戻ってもやっぱり「かえるぅ」なのであった。
「判った。明日帰ろうね」と言っては見るも直ぐに忘れてしまう。
少し落ち着くまで傍にいて、横になったを機に帰り支度をして家に向かった。

やはり、気圧の関係だろうか?
状態がいまいちの母だった。
「そのうち、きっと 戻る日が必ず来る」そう信じるしかない。
「大丈夫」と幾度も自分に言い聞かせた一日であった。



2003年09月23日(火) 多弁な母


 今日は、庭木の剪定に按配のいい日だった。
気温が低いので やぶ蚊の出現も少ないと予想できた。
娘は、帰宅してないし 夫は仕事で手も空いていた。
で、脚立を取り出し剪定を始めた。
屋敷内からだと2メートル程、塀の外からだと3メートルはあるだろう。
脚立で塀に登って更に木に登る。
まるで猿みたい。
鋏を使って、切り始めた。
風が少しあって切り落とした枝が通りに飛ばされるので 時々下りてゴミ袋に纏める。
途中昼食をはさんだ。家に入れば 昨晩仕込んだ小豆を煮たり…もち米を蒸したりしておはぎの仕込み。
ふと気が付くと時間も経っていて、ゴマは擦った物を買おうとコンビニに行ってみるが…無かった。
仕方なく、ゴマを炒って擦るという作業も増えてしまった。
そこから、また 剪定作業。

娘も帰宅するし友人が来たりで作業中断。
でも、日のあるうちに何とか2本の木は 剪定を終えた。

予想通り、藪蚊は少なくて助かった。

昨日、母は おかしかった。
どうおかしいかと言うと…。
母と顔を合わせて直ぐ「シャボン玉をする所なの…あんたも入りなさい」と言ったのだった。 「楽しみにしているのなら連れて出られない」と思って職員に尋ねるとそんな話は全く無いという事だった。
居室に連れて行けば、窓辺に立って「あの人 こっちに来ないのよ」と言う。視線の先に目をやると中学校の教室に人影があった。
話しかけても自分の世界に入り込んでいて話を聞く風ではない。
「私の家迄でかけるよ」と言って玄関まで行くと「私は一体何処に行くのでしょう」と言う。
普段 ここまで多弁ではない。
今日の母は、多弁な上にトンチンカン」
いや、突っかかるような多弁ではないのだから まだいいのだけれど…。

バスを乗り継ぎ家の近くの停留所で降りた。
降りた人が数人いて 辻でばったり行き会った。
軽く会釈すると母は、大きく手を振った。「?」相手も察して手を振り返して下さった。きっと、散歩の折に見かけて状況を理解してくださっている方だろうな。住んで居られる所だって知らない方である。
母は、知らない人に手を振る事等 無かった。

家で栗ご飯を食べて貰う。
けれど、食べ方もいつもと全く違う。脳出血を起こした時のように「口に運んでは、食べかけをお皿においてまた、新しいものに箸をつけるの繰り返しで汚い。黙って見守り食べかけをお茶碗に入れ直すと何とか食べた。
デザートにとプリンをテーブルに載せていた。
この分じゃ、無理かなと思っていたけれど其の儘にして洗濯物を取り込みに2階に上がった。その2分位の隙にプリンを空けて中身を食べていた。
スプーンすら準備してなかったのだ。どうやって食べたのだろう?
容器を傾けて吸ったとしか思えない。
スプーンを渡したらまた食べ始めた。でも、全部食べ終える前にふたをして「おいしかった」と言うのだ。
こういう事も母はしなかった。

片付けようとして台所に移動したら「うるさいな」と小声で言った。
物音ひとつしないのに…と思い「何がうるさいのかな?」と聞いてみると
「○○(弟)××(私)がうるさいの」と言うのだ。
「××は何処にいるの?」と聞くと「△△」(ふるさとの名)を言った。
「そう?うるさいの?」と聞きなおすと「いや、それ程でもないのだけれど」と言う。そこで、再度「××は何処にいるの?」と聞いたら「ここにいるでしょ」と私を指差したのだった。

トイレの方はさえていて すっと立ち上がり「トイレ」と言い「大?小?」と聞くと「大」と言ってトイレに入ったらちゃんと「大」が出た。

こんな調子で、夕方を迎えて急ぎGHに戻った。
GHでは、職員さんも今日の母がおかしかったと報告があった。
話し込み家に戻ると7時近くになっていた。

こういう現象って 暫く続くのかな?
普段できている事ができなくて、出来ないでいたことが出来るという妙な現象である。
そう思うと、脳関連の繋がりが違う回路で始まったような…そんな感じがするのである。


2003年09月22日(月) 飛び石でも連休は嫌だ


ほんとは、今日 書くことが決まっていた。
母がかなり変だったから。
どんなに変だったかは明日に廻す事にした。

と言うのも…。

夫がさっき帰宅したので母のおかしかった事を話したら、夫が切れてしまった。
「お前の弟たちは、そういう状態の親を見ようともしない。俺は、ぐっと抑えて自分の親なのだからちゃんと会いに来てやれと言ったのに…来ない。前の連休も。今回の連休も…。お前は何とも思わないのか?」とこっちにとばっちりが飛んできた。
私は「困った」とか一言も言ってない。「進んだのかしら…」と言ったのだ。

連休だと「来ない」事が見えてくるんだな。
確かに以前の私もそう思った事有ったから、夫の気持ちわからなくないのだけれど…。
「だって、言ってみたって何も変わらないのよ。だったら気にするだけ損だもの…」と言ったら「そいうものじゃ無いだろう」だって。

何でこんな事でこっちがけんかになってしまうの?

「俺は何もしてないけれど…。お前がただただ頑張っているのに…。片方ではへらへらしてる」と怒りが治まりそうに無い。
「はい。悪かったです。全く持ってごめんなさい」とひたすら謝る。

そのうちに夫が忘れ物をしている事を発見。
「駄目ジャン。気ぃつけないと…。このとこ、多いよ。前に 大切な事は忘れるなって、言ってたでしょ」と言うと「俺 年かぁ」と言う。
ここで逆転の一言。
「いやいや、私だって年よ。でも ほら。困った弟達だから…私がしっかりしないと困るぞぉ〜って思って頑張ってるのよ。これ、あの弟たちに感謝しなくちゃいけないことだよぉ〜」
「…!!」

という事で何とか治まった。やれやれ。
ほんとに 連休は、気にならない事を思い出させるんだから…(ため息)

これじゃ、家の名義換えや、何か送ると言って其の儘になっている事、月の仕送り無い事 とてもじゃないけれど言えない。
あー、なんと秘密の多い事。


2003年09月21日(日) 揃ってオフ日


 今日は、珍しく家族揃ってオフの日だった。
そして、これまた珍しくドライブ。
娘が、予約していたジャンバーを取りがてらお出かけ。
夫は、しぶしぶついて来たのであるが…。
こんな風に家族が揃う事 ここ最近はなくなっているので「行こう」と誘ったのである。電車なら「嫌」と言う所であるが車なので…。

すごい雨の中…。
高速を飛ばしていった。朝なので比較的空いていた。
ところが、娘の車なので娘のお気に入りの音楽CDしか聴けない。
夫が「この車にはラジオは無いのか」と不機嫌になる。
おそらく「タバコ」を据えない事もイライラのひとつだろう。
娘の車は、禁煙車で灰皿には、プラスチックのビーズが詰められているのだ。
「私の車だから…私の趣味に合わせて貰う」と強気の娘。
夫は、娘には弱い。だから仕方なさそうに居眠りを始めた。

現地に着いて、みたい所も有ったがここは夫のお守りである。
それでもそぞろ一緒にみて歩くものの 趣味が違うと言うか…で夫は椅子に座って待っていた。
暫くして、娘が戻ってきた。
どうも調子が悪いらしい。昨晩から調子が悪いと言っていたのだが…。
「行くのを止めれば」と言うと「今日限りで取置きが利かないから…」と強行したのだ。
「そんなもの、無くとも死なないから…」と思うのだが、娘にしたら大切な事のようであった。
と言うわけで外食もせずに帰路に着く。
帰路は、夫が運転。
今度も「ラジオが無い」「時計が無い」とうるさい。
仕方が無いので、時計を読んで上げた。
でも、特に時間に拘っている訳ではなさそうだった。
人の車で自由にできないから嫌なのだろうな。

じゃ、自分の車を使えば良いのに…。

家に戻ったら、夫の兄から「ぶどう」が届いていた。
義姉の実家は、ぶどう園である。
パーキンソン病のお母様と弟さんを兄家族が支えて収穫の時を迎えたのである。
「今年は、お日様が足らなくて甘みの着くのを待っていたら遅くなってしまった」と言っていた。
「お盆もお彼岸も帰らなくてごめんなさいね」とお詫びした。
義姉は「忙しい時もあるよ。無理をしないで、暇を見てゆっくりきなさいよ」と言ってくれた。
「こちらにも遊びに来てください。待ってますから」と伝えた。

兄嫁たちには、世話になりっ放しである。
教えてもらう事も多い。
いつも私達を包み込んでくださる。
角を立てない生き方を、いっぱい学ばせて戴いた。
私たち家族は、いつもいつも そこから力を得させてもらって来たのである。
夫のふるさとからの風は、また元気を取り戻させてくれるようである。


2003年09月20日(土) 気が付かなかったぁ〜


 施設に着くと職員から「今の地震すごかったですね。ここもかなり揺れて大変でした」と言われた。
「?」と訝っている私に「震度4だそうです」と。
「知らなかったぁ」と言うと怪訝な顔をされて「10分くらい前です」と言われた。
丁度、バスに乗っている時で不覚にも気が付かなかったのだった。

昔から地震と言うと「震度1」でも俊敏に感じる方だったのだが、筋腫を抱え貧血状態が常となってからと言うもの地震か眩暈か区別がつかない程鈍感になってしまった。
母に「自身怖かった?」と聞くと全く記憶になかった。

リハのため我が家に向かっている間バスを乗り継ぐのだが、その間中「寒い寒い」と連発。
半そでの下着に7分のTシャツ。その上に麻のジャケットを着用。下は5分パンツの上に総裏付きのパンツなのだけれど…。
私はと言えば、半そでのTシャツに7分の綿パンで寒いとは感じない。
母の手足や、ほっぺは確かに冷たかった。血の巡りが悪いのだろう。
痴呆が進むとこういう現象が良く起きる。

家に着いても下を向いている事が多かった。
「どうしたの?」と聞いても「何でもない」と言うし「げ・ん・き?』と聞いても「げんきだよ」と言うのである。
外で療法士さんが来た気配がしたので、トイレ誘導して居間へと移動して貰った。その間にドアを開けた。
居間に行くと母は、長座布団にパンダの枕に横になっていた。
リハが始まるなんて 母は理解してる訳でなくて、たまたま 布団があったので横になっただけである。
以前の母なら自分のための布団と判れば横になっても敷いてある布団に横になる事なかった。
拘りが薄れているのだなぁ。
もっとも、介護する時にはこの方が楽ではある。

今日は、新しい療法士さんになった。
お若い。おそらく娘と同世代であろうと思う。
母の話等しているとご自身が4年前にくも膜下出血を起こして失語状態となったことが有ると話して下さった。
見かけ上は、何も変わらないので不思議な顔をしていると「頭には手術の跡が残っているのですよ」と言われた。
話したいのに声が出ない、言葉が不明瞭、声がかすれる等があったそうである。病院でリハしている頃はまだ良かったけれど、退院してみて話す相手が顔をしかめるので愕然としてやる気が起きなかったそうである。
「これからが長いのだ。なにくそ」と言う思いがここ迄立ち直らせたのだろうと思うとも言われた。

私の訪問先の方、最近知り合った方の話母の話等を交えていろいろお話をした。そして、あらためて「心」がとても大切な鍵であると感じた。

リハの途中から母は、軽いいびきをかいて眠った。体位を変えると目を覚ますのだけれどまた直ぐ眠ってしまう。
下を向いていたのは、眠かったのかも知れない。

リハを終えた母は、元気になった。
塗り絵もストライプ模様や、水玉模様を入れながら洋服を仕上げていた。
一日の流れの中でこうもアップダウンするものかと驚いた。


2003年09月19日(金) 実りの秋


 先日、北海道の友人から荷物が届いた。
箱を空けたら色々の種類のじゃが芋、玉葱、南瓜が入っていた。
こんなにたくさんの種類のじゃが芋は、スーパーでも見た事はない。
中には、レンジでチンがおいしいじゃが芋というのもあった。
世の中が変わってきているのだなと思った。
お礼の電話を入れると ちょっとドライブした折にあちらこちらで買って見たという事だった。
じゃ、買う度に こちらの事を考えてもらったのだなぁ…。
嬉しさも倍増である。

そして、昨日 今度は義姉から4箱のじゃが芋が届いた。
こちらは、義姉が育てたじゃが芋である。
4箱の内半分はご近所さんの分である。
昨年 お裾分けをしたら「生協のよりおいしい」と喜んで貰ったので義姉に報告すると「嬉しい」と今年は余計に作ってくれたのだった。
8月に収穫できたと聞いていたけれど、こちらに遊びがてら届けようと思っていたらしかった。でも、時間が作れないので送ったとの事だった。
早速、ご近所さんに半分渡した。
ご近所さんもその多さにびっくり為さっておられた。

この所、夫のふるさとにもなかなか移動できないで居る。
「おいでよぉ〜」とお誘いは受けているのだけれど「貧乏暇なし」状態で仕事に追われる日々なのである。
私一人でも行くし、母と二人連れだって行くのだけれど…どうも今は家を空けられそうにない状態である。
涼しくなったら母と二人だけでも訪ねてみようかな?

母の所に出向くと母は、Fさんと紙風船で遊んでいた。
母もFさんもいい笑顔で遊んでいた。
職員が「今朝は、台所をぴかぴかに磨いてくれたのですよ」と報告してくれた。やはり、生きがいが出ると表情も変わるのだろうな。

母の状態は、はっきりとはしていなくて風船遊びの後トイレに誘導すると壁を指して「あれは、ここに在るのだ…」と訳の判らぬ話をした。
「えっ。何が?」と聞くと「風船が…」と言うので「それは片付けたよ」と言うと「そうか。それでいいんだね」と言う。
判っているのかな?

おやつまで居室で足のリハビリ。立ったり座ったりもやった。
この所、立ち上がりが安定しないのである。
足首を動かしたり、ひざを立てて左右に倒したり、腹筋をしたり…。
冷房が効いてはいるけれど、一緒に動くとこちらも汗でびっしょり。
また、グーパーを左右交互に出すリハをやる。考えながら注意深くしているのが判った。
少し休憩のため椅子に座ってもらったら座った儘、一人で足を動かしていた。ちょっとのリハでもこんな効果も出るのである。
足のむくみは 多少改善されていた。

おやつ後、散歩に出た。
疲れているかと思ったが、リハ効果だろうか。
足取りがとても軽かった。小さな段差でも直ぐにつまずいてしまう事が多かったのだが…。今日は、きちんと足が上がる。
むくみが改善されているから良くなっているようにも感じる。

散歩の途中で、無人野菜スタンドに立ち寄り、コスモスと栗を買った。
コスモスはホールに飾ってもらおう。
栗は近いうちに栗ご飯を作ろうと思う。

一回りして横になってもらった。
母は、直ぐ横になって気持ちよさそうにしていたけれど私の顔を見て「何処も悪い所はないからね」と幾度も説明した。
横になっている事が申し訳ないような気持ちだったのだろうな。

編み物を始めたので そっと施設を後にした。
明日は、ほんとのリハビリの日である。


2003年09月18日(木) 母から言われちゃった


 我が家の食器棚、大きめなのでカップも一緒に収納している。
要するにカップボードがないのである。
普段使いの食器は、キッチンの方の棚に収めているものの食器棚は、隙間が無い位の状態である。
それでも、隙間棚を使って上にある空間までつぶす事はしていないけれど…
季節の器は、屋根裏に収納。必要な時に取り出している。

 ほんとは、もう少しゆったりとした収納がしたい。

気にはなっているけれど、欲しいなと思うカップボードにも出会ってなくて…。

で、昨日 母が来ていつものごとく部屋や外の景色をきょときょと見ていた。 と 「あそこ、整理しないとね」とのたまった。
母の視線は…食器棚である。
どひゃーっ そこまでみてたか…。
「はぁ〜い」と返事した。
「ほら、あれは瓶でしょ」「…」
娘が集めたリプトンの大きなコップだった。
確かに瓶にも見えるかも…。

こりゃ、本腰入れてカップボード探さなくては…。

以前の私なら こんな事言われたら「カチン」と来ていたと思う。
母がまだ病の初期の頃 「棚が乱雑」「物が出すぎている」と片付けを始める事があった。
「ほって置いてぇ〜」と言っても しゃかしゃか 動き出すのだった。
「後でまた整理し直す様になるから…」「お母さんが居るからできないんでしょ」と言う言葉を何回飲み込んだだろうか?
「にこっ」として「ありがとう、汚くしてるから気持ち悪いんだね」と言うもののその顔はきっと引きつっていただろう。
母もその気配を察している時もあったから。
直接的な言い方をすると余計に混乱してしまうから正面からぶつかる事はできる限り避けていた。
でも、声のトーンは どんどん あがって行くのだった。

今の母は、自ら片付ける事等ない。
おかしなもので、そうなってみると「後で片付けるのなんて気にならないから動ければ良いのに…」と思ってしまうのである。

寝たきりとか歩けないとか大きな困難に到っていないもののゆっくりと確実に病は進行している。
もし、在宅でいつもの家事を手伝える環境が保たれていたら、片付ける能力は維持できていたのではないだろうか…。
日常の生活の細々とした事の繰り返しって リハ作業だったのではないだろうか?だとしたら、それを奪ってしまうような施設を選んでしまった私の責任は重いなぁ〜。

「できなくなってしまったのか?」「忘れてしまったのか?」
脳出血の後、次々と能力を取り戻せたように、リハで思い出せるようになるのか?

そんな思いが、グルグルと頭の中を巡ってしまう一日だった。




2003年09月17日(水) 娘からの電話


 出先でヘルパー利用できた方をお訪ねした。
行く先の情報は、妹さんから調べて貰ったと話されていた。
そういう人が、いない時は、役所に問い合わせれば良いだろうとの事だった。私も、ふるさとの役所に電話して情報を得た事もあるので大丈夫と思う。
「面倒ではなかったですか?」とお尋ねすると「判らない事が多いので教えてください」と大変好意的だったという事だった。
これも、介保開始当時と比べるとずいぶん変わってきていると思った。
彼女の場合、生活援助だったので比較的容易に利用できたのかも知れない。
でも、身体介護だって本来は同じだと思う。
そのあたりの具体性は 当たってみないと判らないかもしれない。

用があって役所に電話。
疑問にぶつかり、更に調べなければならない状況になった。
この事は、はっきり わかってから ご報告という事で…。

母のところに出向く。
今日も母の意識レベルは低かった。
靴を履き替えてから「ちょっと待って」と部屋に物を取りに行ってる間にテーブル定位置に靴を履いたまま戻ってしまったりした。
「出かけるよ」とも「ここで、待っててね」ともきちんと指示していたのに記憶から消えてしまっているのだろう。

でも、今の今の会話は可能である。家に連れて帰る途中 デパートに寄って見て回る。母は、お店が好きだから色々のものを手にとって見ていた。
ワンフロアのみで帰ろうとしたが「もう少し見たい」と言ったので更にうろちょろした。

家に着いて、休息。
ふるさとの教会から敬老のお祝いのメッセージとクッキーが届いていたので
母に渡した。母は「へーっ」と言う風にメッセージを読んでいた。
幾度も幾度も読んでいた。
お返事を書いて貰おうと思ったけれど 今日の様子では無理と判断。
後日ゆっくり書いてもらう事にした。
おやつを摂り、水分もたっぷり補給して入浴。

髪、体を洗って浴槽に浸かって貰った時「体を洗うタオルとかがあれば…」と言い出した。「今 洗ったよ」と言うと「そうか。なんだか忘れているね」と言うのだった。

少し生活に変化を与えたほうが良いのかもしれないなぁ。
ゆっくり、何処かに連れ出すのも良いかなと思った。
予定が組み込まれてなかなかできないけれど、何とかしないと…。

夕方、「連絡あったか?」と夫からの電話。
娘の事が気になる様子。「こちらから、後で電話してみるよ」と答えて電話を切った。
その後直ぐに 娘から電話が入った。
多少疲れの見える声だった。
「治安は、やはり良くない。けれど不便は無く五つ星のホテルに宿泊してるので安全。異業種の現地企業の日本人の人々との交流会もあり仕事を終えても忙しい…これから夕食会」と言っていた。
明日は、まっすぐ帰路に着く予定だったけれど、仕事してから帰路に着くように予定変更となったようである。
ひとまず、安心した。


2003年09月16日(火) 旅行先で利用できる介護サービス


 先日の地元のパネラーさんが、ふるさとに帰られ、地元でヘルパーさんを利用するって言っていた。
今日、お帰りになっていらした筈。

脳梗塞以来、初めての帰省だと言っていらした。
ふるさとには、ご両親がいらっしゃるけれど、お布団を敷いたりを頼むのは心苦しいという事でヘルパーさん利用となったようである。

その話を聞いた時、「へ〜。変わったなあ」と思った。

介保が始まった時、全国何処でも利用できると言う触れ込みだった。
あの頃、母もまだ、ふるさととこちらを往復する筈だった。
だから、こちらのケアマネさんからふるさとの施設に利用申し込みして貰える様手続きをお願いしていた。
「何処を利用するか教えてください」と言われたのでお嫁さんたちに聞いた。
でも、お嫁さん二人が口を揃えて「お母さんの顔を見てから決めましょうと言われた」と報告してきた。
ケアマネさんもわざわざ、ふるさとの施設情報をきちんと調べてくれていたのだが、そこでストップしてしまった。
真実の程は判らないけれど 無理押しをしたくないので其の儘にした。

でも、今回の事で地元だけでなく出先でも利用可能できる事がわかった。
これが、痴呆であっても利用できるだろうか?
もしできるなら、旅行には一緒に出て、ショート利用、ヘルパー利用して出先でもフリーの時間を確保できるではないか?

利用先の様子がわからないと多少の不安は付いてくるけれど…。
でも、幅が生まれるではないか。
もし、地元で徘徊者拒否でも、出先でOKが出たら介護者は休息を取る事もできるだろう。
いや、色々 問題はあるだろうけれど…。
サービスは、どんどん多様化してくればいいと思う。

明日、その方をお訪ねする予定である。
申し込む手順や利用結果など詳しくお聞きしてみようと思う。


2003年09月15日(月) GH初めての家族会


 「うーーん」と言うのが感想かな?
参加家族 半数弱。
今朝、脳出血を起こした方がいらして救急車で搬送なされた方がおり会は少し遅れて始まった。
普段、良い事も苦情もチラホラと耳にするが 今日は、音無し。
いや、感謝の言葉が目立った。

察するに、何処にも行き様がなくてやっとここにお世話になっているという個々の事情が伺えた。初老の方が多い。似た様な年齢の方もいらしたが、おそらく家庭の事情がありそう。
お金も多少あり、あまり困らない方が多いかな?

いろいろあるけれど、まずは、レジメの配布が会の始まる直前に配布。
それも、全体の総支出と総徴収。用途別の項目に分けてあったけれど8項目のみだった。
これで、皆さん納得なされた。
私としては、利用明細が欲しいと訴えて見たけれど、追随者なし。
GHとしては、申し出た人には 個人的に公開すると言う返答だったと思う。

でも、見る限り個人としての部分の引き出しは 面倒そうと言う雰囲気だけは判った。帳簿が全体で記帳されている風で個人のデータを引き出すのは大変だろう事が想像できる。
だから、申し出る事は職員に負担をお掛けする…という感じかな?

家族会は、厚生労働省の指導に基付いてやります。
収支など特に報告も必要ないと思うけれど…これも指導がありますのでやります。この会の意見は、すべて報告する義務があります。
厚生労働省は、GHを利益団体とみなしています。と色々苦情も述べられた。勿論、先日、直接厚生労働省の方とお話した折にその事は感じた。
でも、家族会でそういう話をすれば、「あーやお役人さんは実態がわかってない。職員は大変だ」と言う構図が出来上がってしまう。
そういう話は、会の終わりにいや「色々あるんですよ」で十分伝わると思うのであるが…。

一方的に話が進められて居る。おそらく、理事の話が半分以上の時間割かれた。3.40分の会である。
そこで話せない事は、個人的に職員に…。という事だった。

その中で、気になる言葉。
「このGHは、自治体の窓口を利用しないと入所できなくなりました」
「GHは、多様化してきています。ここは、ミニ特養といったところですね」
ミニ特養…言われなくともそう感じていたが、やはりねと言った所である。
でも、その説明で、参加家族の何人がその意味を理解できるだろうか?
利用料明細…と言っても無反応だったのである。
「ところで、ご家族の中で特養の申し込みをしている方は?できれば皆さん特養の申し込みをなさったほうが良いと思います。いや、こちらでも見ますけれど…」
いや、この町の特養だって病気になれば病院にいき、その後は施設には戻れません。うちはそんな事はしませんが…。
この言葉に家族はざわざわ反応した。
ここに居られなくなるのですか?
「いや、そういう事ではもにゃもにゃ…」
「特養の方が費用がお安いですし…でもGHに入所していると申し込まれても順が回ってきません。だから、GHは合わないと…もにゃもにゃ…」
また、ざわざわ…。
私「大変かもしれないけれど、1.2か月在宅に戻して入所という事もできますよ」理事長「あっそういう事もできます」
こんな具合である。

まるでGHの悲哀。家族の入所困難。を煽るだけといった風に私は感じた。

地域の家族会では、徐々に医療機関や特養の上手な利用の仕方等の情報が集まってきている。まだまだ お寒い事情だけれど。
そういう話は伝えずいる。
理事長の地域の特養のお勧めが 評価の分かれる特養だった事も気になる。
情報公開度が高い所が一番であり、介護者支援のための会が地元ではここにありますよと地域に溶け込める情報を出してあげるのが施設の役目だろうに…。

そういう訳で「???」でした。

職員の方は、本当によくやってくださいました。
理事長さんって、何歳だと思います?お若いのですよ…。

実は、今日は娘も家族会に同席した。
その後、知り合いの方のフロアに 娘は 出向きました。
そこに、理事長さんが怪訝な顔で「どういう関係か理解できているのかな?」と言ったそうです。この所、忘れかけているのでそれを繋ぎ止める為に行きました。素人の娘にだってわかります。

その後 口紅をつけているので「誰がつけてくれたの?」と聞いたそうです。「自分で付けたのよ。おかしな事言わないで」と言い返していたそうです。「へぇ。ちゃんと覚えているのかと思ってさ」だって。
私は、信じられませんでした。
「一人で綺麗に付けられて…いつも綺麗にできるといいね」くらいに励ますべきだと思うのですが…。
母もこんな風に言われる時があるのだろうか…思わずドキッとしてしまったのです。






2003年09月14日(日) 機転


 昨日、娘も母のところに出向いた。
この所、娘は、訪ねる度にFさんとお話しするのを楽しみにしている。
Fさんは、娘の服装をあれこれとコメントくれたりもする。
「あんたのそれ、おかしいね。シャツ縮んじゃったの?」「うん。そうなんだ」「うふふふぅ。おかしいねぇ」「うん。おかしいよね」とこんな具合だと言う。
この他愛もない会話が楽しいらしい。
でも、Fさんと娘の会話をチラチラと見ているAさんの事にも娘は気が付いていたようだった。Aさんは、90を越えていらっしゃる。
80過ぎまで現役でお仕事をなさった事が自慢である。

Aさんが朝、手編みの帽子を被られていた。
時折、そうやってご自分で編まれた物を身に着けていらっしゃる。
入所なさった頃、私も母の編み物の道具をAさんにお貸しして編んで頂こうと思った事がある。
でも、その時は、まだ 心落ち着かない状況で「できない」と言われたのでその儘となってしまっていた。
娘は今朝の帽子を目ざとく見てたようで「今朝の帽子素敵だった。私も欲しいなあ。編んで貰えるかな?」と聞いていた。
Aさんは「あんたは、家の孫より小さいね。いいよ。」と快諾してくださったようである。
「すみませんね。面倒なお願いをしてしまって…」と詫びると「いや、お姉さん良いんですよ」と笑顔で返事。
「お姉さんだって!」と娘が苦笑する。
どうやら、親子と見てはいらっしゃらなかった様子であったのでみなで大爆笑だった。
Aさんは「だって、家の息子たちより若いもの…」と補足。
高齢の方からみれば、確かに「お姉さん」 うふふふふ。

身内でもない方とこうやってお話させて貰えて…さり気無い会話を楽しめるようになり、ぽつんとしていらっしゃる方にも声をかけられるようになった事は、母のおかげかも知れない。
見知らぬ高齢者に声をかける機会なんて 日常の中には少ないだろうから。

明日はGHの初の家族会である。その後、敬老の日のお祝いのお祭りが予定されている。
さて、どんな会になるかなぁ〜。

娘は、明日から海外出張である。
厳密にはあさって朝の便で発つのであるが、成田に住む友人宅にお泊りして行くそうである。
出かける前に母のところに寄ってから…と言う。へぇ〜。そんな事できるようになったんだね。





2003年09月13日(土) 頭の中がおかしい


 今日は、リハの日。
15分ほど遅れて療法士さんが見えた。
今日から新しい方にバトンタッチらしい。若い方だった。
リハを施しながら母の足の力等見ていらした。
母は、私の声には よく反応してくれる。
けれど、GHの職員や療法士さんの声に対しては反応が鈍い。
それは、いつも言われる。
自分では、声が大きいからと思っているのだが、そうでもないのじゃないかと言われた。「聞き慣れた声」と認識できているのでないかと言うのであった。そうかな?

今日は、足の浮腫みに対してマッサージして頂いた。
マッサージ後、少し改善された。
昨日のようにマッサージする事も良いらしい。昨日は、見かねてやってしまったけれど…。これからも、時に試みてみようと思った。

リハが済んでから、歌いながら右手グー左手パー次は右手パー左手グーの手遊びをしてみた。以前は母がかなり意識してやったものだが…。
今は、向かい合う私の動作を見ながら自分の動作を見るという様子見しながらの状態である。でも、何とかできた。

なぜ、それをやったかと言うと…。
意識がぼんやりとしているように感じたからである。
「どうかした?」と聞くと「頭が痛いわけではないけれど、どうにも頭の中がおかしい」と言うのである。
「目は見える?」と聞くとかっと目を開いて「ちゃんと見えるよ」と言う。
きっと、「頭に霧がかかったようだ」とか「頭が真っ白で…」と言っていたころと同じ感覚が起きているのだろうと感じた。
私には、その感覚がわからない。母からは幾度も訴えられた事だけれど…。
おそらく思考力が停止していて今しかわからないという事なのだろうと想像するしかできない。
だから、いつもと違う神経の使い方でもすれば、どっかで別の神経が繋がってくれはしないかといろいろ試みてしまうのである。
「頭が真っ白で…」と言う時は どうしても下を向いてしまう事が多い。
母なりに何かを思い出そうとしているのだろう。

今日も、排便、排尿共に失敗なし。誘導ごとに用を足せた。
ゆとりがあるとうまくできる様に思う。
昨日に続き入浴。今日は、娘が入浴介助をしてくれた。

母を施設に送り、久しぶりに美容院に出かけた。
半年以上ぶりである。
美容士さんが「いつもいらしているような気がしているけれど…。お母様のためでしたね」と言われた。
イメチェンをした。
娘は髪型をどう替えても「見苦しいおばちゃんスタイルになってしまうね」と散々な言い様だった。私もそう感じている。
ボディーパーマも興味はあるけれど、一歩間違えば寝起きの母ちゃんになってしまうのは目に見えてしまう。
美容師さんにお任せして…。7年ぶりに前髪を作って貰った。
いや、私の感覚では「前髪を切る」なのだけれど、今時は「作る」と表現するようである。やはり、時代は変わってきているね。

短くカットしてしまおうと思ったけれど、美容師さんは、普段に髪をまとめたくなるだろうから肩まで位の方が良いとの事だった。
髪を垂らしても、首筋が見えるくらいの微妙な長さにしてくれた。
さ、ちゃんと持続できるかな?




2003年09月12日(金) すわっ!異食?要注意だね。

 むんむんとした一日だった。
母の所に出かけるのが、予定より遅れた。
家人の用でこういう事も起きる。
できる限り 面会をサボらないようにしないといけないなぁ。

生協の配達の時間と睨めっこしながら母の所に向かった。
母は、昼食を終えて居室で塗り絵を眺めていた。
ホールでは、食事中の人もいた。
おそらく食べ終えたばかりなのだろう。

「私の家に行く?」と聞くと「うん」と言う。
「じゃ、でかけましょう」と着替えをして外に出た。
お日様は、隠れていたけれどむしむしとしている。
雲行きも怪しく思えた。一降りすれば涼しくもなるだろうに…。
「でも、雲さん 家につくまでは降らないでね。洗濯物干したままなの」祈るように家に戻った。
祈りが届いたのか、また お日様が照りだした。
バスを降りて歩き出したら汗でびっしょりとなった。
母をテーブルに着かせてアイスを食べてもらった。

「クーリッシュ」である。
昨日、アイス売り場のケースを覘いたら棚にたくさんあった。
再開したのだな。暑いし丁度良い。
これは、母に丁度良いアイスである。溶けて手が汚れる事もない。食べたい量だけ口の中に入れられる。
体に良いかは、さておいて 水分摂取の楽しみの一つになる。
甘いものが 大好きな母だから…。

アイスを食べている間に洗濯物を取り入れた。
そこで、生協の配達。
荷物を家の中に運ぶと母は興味深々。「なあに?それ」
「これは、何でしょう?」と小松菜を持つと「こまつな」
「じゃ、これは?」と冷凍のサトイモを出すと「卵」だって。
「ちゃうよ。つるつる芋」「そかぁ。つるつる芋か?」
注;小さいころサトイモの事をつるつる芋と家では言っていた。
「これは?」と卵を出すと今度は母が困った顔をした。
「何だっけ?」「うーっ。これが、卵だね」「あたーり」
こんな調子で、配達されたものを次々当てっこした。
まあ、万点に近かった。でも、直ぐにいえた訳でなくて時間はかかった。

そうだ。
施設に入ってから本物の野菜に出会う事は少なくなっているのだ。
散歩の時 野菜スタンドに寄ったり 畑を見たりはしているけれど…。
台所で野菜に会うなんて、ほとんど無くなっている。
もう少し、生活のにおいを感じられるようにしてあげないと記憶が薄れて行きそうである。

おやつを食べてお茶を飲み、少し休憩。
日が傾きかけたので、やっと散歩する気力も出てきた。
ゆっくりと一時間かけてご近所を散歩した。
古い家が取り壊されて3軒の新しい家が建っていた。
そこに差し掛かった時「ここは、ぱーっと明かるいね」と母は言った。
そうだ。最近の新築の家は、レンガ風に組み込まれ壁は黄色ぽくて確かに明るい。それを感じ取れてるのだ。
やはり、感覚は わかるのだなぁ。
お花にも興味を示す。手入れの行き届いた花もそうだけれど、土手に咲く萩やススキ等も「きれい」と喜んでいた。
足のむくみもまだ強く、疲れやすいのだろうけれど、気分のほうが勝っているようである。
それだけが、ほんとに救いである。

たっぷりの汗をかいて戻り、水分補給して入浴した。
今日は、ためらわずに浴室に向かった。

その後、夕食を摂り、施設に向かったのは7時を回るころとなった。
居室に布団を敷き。パジャマに着替える。
足がむくんでいるので、また インドメタシン配合の薬をたっぷりと刷り込み足をマッサージした。
母も自分の足を見て「太くなっているねぇ」と気が付くほどだった。
布団を敷き終えると母は「横になってもいいかぁ」と言うので「いいよぉ」と返事して寝転んでもらう。
足を薄いクッションで少し高くして…。
母は、天井を見ながら「ここは、きれいなとこだったんだねえ」と言う。
その内に一人何回も頷きながら目を瞑った。

そっと、居室を離れて家に向かった。
今日は、排尿の誘導 すべて成功。やった!

いや、書き忘れる所だった。
夕食のおかずの食べ方がおかしかった。少しだけだけど…。
スープに入れないものをスープに入れていた。
今日は、特に注意せずに見守った。
それと、洗濯物を取り入れに離れた ほんの数分に テーブルに載っていたビーズのビンを開けてビーズを取り出して口に運ぼうとしていた。
「きれいでしょ。これ、ビーズなのよ。後でなんか作ろうね」と声をかけて取り戻し代わりに飴を口に運んだのだった。
注意しなくちゃ…。


2003年09月11日(木) 自虐的…。


予報は、気温は「昨日より低い」って言ってたのに…。
あつ〜いっ!!

木曜の利用者さん訪問。
マンションの外装工事のため足場が組まれ幕が張られている。
一日中家の中ですごす利用者さんにとって、外の景色も見えず、絶えず足場を使い人が行き来するので鬱陶しい事だろう。

マンション暮らしの時 外装工事があったから気持ち よくわかる。
大きいから、時間もかかるし…お気の毒。

昨日、事業所のバスハイクに参加なされた利用者さんで「楽しかった」と言われていた。
デイをお休みしての参加だった。
一人での移動は無理なので、良い気分転換ができただろうと思った。

今日も、何とか時間内に活動終了。

あまりに暑くて一目散に家に戻った。
昼食を摂ったら、今度は怠け心。
「暑くて散歩どころではないだろう…」と自分に言い訳をしている始末。
涼しくなったら…と夕食の下準備にかかった。

それも暑いさなかにキャベツの丸煮…。
暑い夏に、こんな気分になる事が毎年数回ある。
今日がそういう日だった。
野菜が値が上がっており、キャベツが目玉になっていたので買ったのだった。それをコトコト煮たのだ。

ところが、普段チキンコンソメを使うのに…。
今日は、海老の固形スープのもとを使ってしまった。
暑い思いをしておいしくなくて…。家族はきっと、嫌がるだろう。
とすると、これをお腹に収めるのは私のみか…。
ぎゃーっ。

スープは、ちょっと困ったけれど。キャベツはおいしかったのでほっとした。


2003年09月10日(水) 母が居たら・・・きっと。


今日は、のんびり家にいた。
ご近所さんに書類を届けて、お嫁に出した金魚に会って来た。
大きくて立派な瓶に住まわせて貰っていた。
家に居るよりいい暮らしかも知れない。何度も言うが、家のは糠みそで使い古した瓶なのだから…。

この所、朝夕に水撒きをしている。
暑さで鉢植えの花たちがグッタリとしてしまうから。
水撒きは、そう大変なことでない。
でも蚊が寄ってくる。
水をまく度に刺されてしまうのである。暑いから半そでやノースリーブ着用である。もう、たまらなく痒い。

母の居たころ、母と共に水撒きをしていた。
あのころは、私は全く刺されずに母だけがまるで身代わりみたいにたくさん刺されていたのだ。
今、身代わりが居ないから私を刺すのかな?

もうひとつ。
昨日 思ったのだが…。
この所 母の居室に行くと冷房が入っているのに窓を開け放っているのでとても暑い。
「あーあ。しょうがないな」と窓を閉めるのだけれど…。
考えれば、今に始まった事ではなかったのである。
家に居る時も、そうだった。
「暑いな」と思うと決まって母が窓を明け払っていたのだった。
「冷房入れてるからね」と言うと「あ、そうか」と言ってはくれるけれど直ぐまた、開けていた。
これは、一日中繰り返されていた。
母だって「暑い」とは感じているのである。
汗もかくのである。
でも、どうしても昔の感覚で窓を開けて外の風を入れようとしてしまうのだった。

そういう事が、繰り返されて居た筈なのに、すっかり忘れてしまっていた。
共に暮らすという事は、そういう面倒な事もあったのだ。

今、母が家に寄っても窓を開け放つ事は ない。
なぜだか判らないけれど、ないのである。
しばらくの時を過ごしても窓は開けないのである。
不思議である。
母にとって、他人の家だからだろうか?そうとばかりも言えないし…。







2003年09月09日(火) 胸のつかえ


 娘は胸の痛みを訴えていた。
春先から時折。「乳腺症かな?」と聞き流していた。
けれど痛みは確実に強くなりそれも中から痛むようになったといい始めていた。触診で見たけれど、判らなかった。
従妹が 20代で出産して直後に乳がんで無くなってもいるので気になった。
がんと決め付けた訳ではないけれど ちょっと頭を掠めていた。

だから通院を勧めた。
受診の際には 従妹の事を話す事。そして、外科にまっすぐ行きなさいと。

でも、昨日病院の受付で「胸の痛み=乳がんではない」とはねられて内科受診となったのだった。レントゲン検診は受けたものの内科では判断できない。内科では受付の不手際を詫びられたようである。
けれど、外科に回るには時間が遅すぎた。
そして、日を改めて今日、外科受診となった。

負けん気の勝っている娘は、昨日の受付に「一言物申す」と息巻いていた。
でも、その人は不在だったようである。
(親としてはほっとしたのであるが…)
娘の姿をみて近寄ってくる人がいたそうである。
同じく受付を担当しておられる方だった。
「昨日は、ごめんなさい。わかっていて何とかしようと思ったのだけれど他の方の事があってできなかった」と謝罪を受けたとの事だった。

前置きはさて置き、結果は心配なしであった。
親としては 胸のつかえが降りた。
痛みの原因もわかりほっとしている。
でも、当人は「今後も痛みは続く」という診断でショックを受けている。

娘は仕事に出かけ、私は母の所に向かった。
母の足のむくみが強く出ていた。
入浴は午前中にしたということだった。

日差しの強い日だったけれど、水分を摂ってサポーターを装着して外に出た。いつものコースより余分に歩いた。
途中、水分を補給をしておやつを摂りお店で涼みながら…。

施設に戻り、汗をふき取った。
最初は濡れたタオルと清浄綿で。更に乾いたタオルで拭いた。
それから、横になってもらいインドメタシン配合の薬で足をマッサージ。
足を気持ち高めにして、首筋にヒヤロンを当てた。
「気持ちいい」と母は目を瞑った。眠った訳ではないけれどおとなしくしていた。
その間に タオルを数枚洗って干した。
気が付くと5時をとうに回っていた。
そっと、居室を出て「足のむくみが強いので横にならせています」と伝えて施設を後にした。

日記をつけ始めたころ、娘からのメール。
パスポートの番号を聞いてきた。
やっぱり 治安の悪い海外出張は避けられないようである。
そして、今夜も遅いらしい。


2003年09月08日(月) 老いて暮らす心持


 今日は、月曜訪問日。
娘は、体調不良で通院。娘の事も気になりながら訪問に出かけた。

利用者さんは、お元気で先週の湿疹が良くなった事を報告してくださり「妹も心配して電話をしてきて…」としっかり話してくださった。
これを見る限り、「痴呆」とは思えない。

「今日はね。お散歩したいの」と言われた。
大急ぎで家事を済ませ、そろそろ出かけるかなと思い始めた頃 利用者さんに電話が入った。親しい友人からのようで、ご主人の介護をなさっておられる方のようだった。

聞かないようにしていたけれど、かなり長くお話なさって居られるので否が応でも耳に入ってしまった。散歩に出たら時間オーバーすると思われたので先に活動報告書の記入をした。

電話が済み、お出かけである。
いつもは使わないようにしている杖だが 今日は 周到に準備なさっておられた。歩く事をきちんとシュミュレーションしておられる様である。
河原に行きたいという希望だったのでそちらに向かった。
河原の土手に彼岸花でも咲いているかな?と思ったけれど未だった。
それでも、夾竹桃が咲き、長ささぎ等を見た。
今日のお散歩は、お話が中心となった。
ご家族の事、息子さんやお嫁さんとの関係、娘さんの事。お母様の事、ご兄弟との事、老いて行く過程で必然的に選択した事等いろいろである。
相槌を打ちながら ひたすらお話を伺った。

一人暮らしは ご自分で選択なされたようだと知った。

決して、気難しい方ではない。
いろいろの方を訪問しているのでその辺の事は大体言葉の端ばしから想像できる。強く自分の主張をなさる方でない方である。
一度だけご家族とお会いしたがご家族も難しい方では無いと感じた。

普通のありふれた家族関係である。
でも、同居とは お互いの都合を押さえ込むのだろう。

母との同居だって「してやる」とは思わなかったけれど 暮らしている内に「してやっている」と言う思い上がりが生じてきて来たのだから…若い世代の考えがどうしても優先されてしまう。
この辺りが、同居の難しい処だなと感じている。

いや、利用者さんとお散歩しながら、電話の相手の話も「同居の悩み」だったらしく、それを含めてお話なされたので「同居」という事を考えて見たのだった。

気なった言葉が、たくさんあった。
「命を絶つもね…」「流れに託していくしかね…」「80を超えて生きるっておまけなのよね」さらりと話されるけれど 手を借りる側の心が見え隠れした。自分の先にもこういう事に直面する時があるだろう。人は、介護する事は免れても介護してもらう事は避けられないのである。

活動を20分近くオーバーしてしまったけれど、自発的に外に出たいと言われたのでそれを嬉しく思い同伴させて戴いた。

娘の事を気にしながら戻るとまだ病院だった。
受付の不手際で、今日一日で検査等が終わらず、半休の筈が全休になり 更に明日あらためて通院という事になってしまった。
忙しく仕事していて、来週辺り 治安の悪い海外に出張も予定されて居るのだから きちんと検査をして不安は無くして置いたほうが良いだろう。
何事も無いように…と親としては思う。
という事で母の所に面会に行かなかった。
明日は、ちゃんと出かけよう。



2003年09月07日(日) シンポジュームに参加して


 今日は、シンポジュームに足を運んだ。
教えて頂いた地元の方とお会いでき、ゆっくりお話も出来た。
この方とのお付き合いの中でお知恵を戴くときが、近いうちにあるだろう。
集まりにご参加戴けるかと伺うと「OK]の返事だった。
但し、ご自身脳梗塞で少し不自由なお体なので「足の確保」があればという条件付だった。それ位なら出来るだろう。

また、同じ町内からもう一人参加なされていた。
懇親会には、参加せずに帰られたようだった。
この方との連絡方法を主催者が知らせてくださるとの事でほっとしている。

勿論、同じ街に住む今回の会を教えてくれた知人も参加していた。
だから、4名が街から参加した事になる。
遠く離れた場所で出会い、繋がって行く…。
摑めている様で、現状を把握できていない事を改めて感じた。

シンポジュームの内容は、なかなかだった。
全国から集ってきていた。
介護の中のケアプランを自分で立てるという全国ネットの集まりである。
興味のある方は、下記へ。

http://tokyo.cool.ne.jp/myplan

ここにアクセスすれば、ケアプラン作成のソフトを無料でダウンロード出来る。初心者でもOK.
このソフトを使用すると面倒な計算も全てソフトがやってくれる。
(計算が面倒と思っていたら、やっている方は中学卒業程度の計算力があれば出来る簡単なもので、税金の申告より簡単と言われていた)
但し、サービス機関や、利用の点数は市町村によって違うためそこは調べて打ち込まなければならないと言う。

パネリストには、厚生労働省の方も居られた。
公開の場では 聞けなかったので 親睦会の時に少しお話をした。
「施設からのデイ利用は出来ないですよね」と。
当然 当たりまえという返事だった。
「でも、施設での生活は リハが少ないですよね。義務付けって出来ないですかね」と言ってみた。
したい人 したくない人がいるのでそんな事はできないという事だった。

いや、ちゃんと考えて話せばもう少しきちんと話せたと思うが、急にその場でぶつけたのでこんな聞き方しか出来なかった。
でも、この方の基本は、痴呆は悪くなるだけの病だから…と言われた。
いや、揚げ足を取るつもりはない。この人だって もっと語りたい事があっただろうから。
けれど、痴呆の進行を停滞させるには、普段の生活がいかに大事かを知って欲しいと思った。
パネラーの中の一人は、施設入所時のおばあ様の写真と在宅に戻されてからの最近の写真とを持っていらした方がいて、まるで別人だった。
そういう処にもう少し目を向けて欲しいと思った。

今、頭が回らない状態である。
でも、刺激の多いシンポジュームだった。
サービス利用が不便で、自分でデイや支援センターを立ち上げた方も居られた。私より年齢が上である。もう、高齢の域に入られて居られる方もいた。
やはり、地元に根を張って「自分のこれからのため」に動かなければならない時に来ているのだとひしひしと感じた。


2003年09月06日(土) 母の機嫌


 今日の母は、スケジュールがぎっしり。
薬が無いとの事だったので急遽通院を加えた。

リハは、いつも通りに始まったが、最後に筋力維持の体操を加えられた。
プログラム自体は、在宅時から試みている事だった。
在宅の時でさえ、指示の言葉を理解しにくかったし命令調では、母の機嫌を損ねるので注意していた。
私が体操する振りをして運動を始めて、面白がった母が動作の真似をするというものだった。
でも、そういう事は、理学療法士さんはわからず、言葉に軽く補助の手を加える程度だった。
体操を終えた母は、少しむっとしていた。
でも、その表情は、療法士さんには、見えなかったようであった。
ちょっと、困った。

昼食を摂り、入浴をして歯科通院。
ここでも、怖がった。
それは、慣れてるので恐怖心を取り除くために いろいろの話かけをして気分を和らげた。

施設に戻ったのは、夕食の配膳が始まった頃だった。
やれやれである。

夜、娘から誘われて映画を見に行った。
戻ったら、12時を回ってしまった。
そこに夫が帰宅。
いや、映画は夫も誘ったのであるが、他に用がある様子で今回は参加しなかった。
帰った夫は、明日、持ち寄りの飲み会に出かけると言った。
それから、慌ててちょっとお料理をする。
そして、こんな時間に日記を更新する事になってしまった。(ため息)

今晩あたり、母の機嫌はどうだろう?
少しハードな一日。ストレスの多い一日だったから…。





2003年09月05日(金) 凄い おばあちゃま!


今朝、同じ町に住む友人から「今日は、在宅?」と電話があった。
生協の受け取りもあるし、明日は母のリハや歯科通院があるので面会が短くなっても良いかなと思い「在宅]と返事をした。

友人は、お義母様と同居なさって居られる。難しい方なのでずっと苦労を重ねていらした。それも、ご主人は 長い間 単身赴任をしておられ帰宅なされる事も少なくて子育ては彼女にかかっていた。
おそらく口を利く事さえ嫌な時があったと思う。
遠く離れたふるさとには彼女のお母様がご存命で痴呆も始まっている。
そこに帰る事さえ、いちいち了解を得なければいけないのである。
神経的に参ってしまいMRI検査等も受けるほどの重症だった。
それでも、お義母様が手術となると突き放せずに看病に回ると言う心根の優しい方でもある。他にも実子さんが複数いらっしゃるのに…。

そんな彼女が来ると言うのである。
用を済ませた彼女は、汗でびっしょりだった。
我が家でブレンドしたハーブティーで一息。
それから暫く話し込んだ。
「お母さんの所へは?」と言われ「後で行く」と言うと「行こうよ。一緒に行くから」という事で母の所に二人で出かけた。
彼女も母と一対の私でも 全く気にせずあちこち 一緒に出かけてくれた人である。入所時もそうだったし、今年の脳出血の時だってそうだった。

今日の母をみた彼女は、ただただ びっくりしていた。
この夏に帰省し会って来た時の彼女のお母様よりずっと歩ける母だと言う。
3月の頃の母に会って以来だからなぁ…。
それにもまして、表情が明るいとも言っていた。

ただし、この明るさは、痴呆の進行によってこだわりが消えて行った結果なのだけれど…。そこまで、判ってもらえたかな?

母と3人で、いつもの散歩コースを歌ったり、話したりしながら歩き回った。
母は、おやつが済んで間もなかったけれど、お茶を上げるとがぶがぶと飲んだ。おそらく400cc近い量を一気に飲んだ。
喉が渇いていたのだろう。足のむくみも出ていた。
例のサポートも行く度に装着している。気持ちがいいといつも言っている。

夕方から夫に頼まれている用が有ったので、程なくGHを後にした。

友人と別れ、用を済ませて、帰路のバスに乗るため歩いていると…。

年の頃なら72.3才くらいのおばあちゃまが粉石けんを5キロ背負い、更に手にも2キロはある粉石けんを持っていた。
昔のかつぎやのおばちゃんスタイルでアクリルの紐で襷がけをしていた。
肩には食い込まないようにタオルがあった。
「ほーぉ」と眺めてしまった。「痴呆が始まっておられるかな?」とも感じた。だって、今時 こんなに粉石けんを買うなんて信じられない。

そのおばあちゃまが、なんと同じバスに乗り込んだ。
私は 多少の興味もあり その方の後ろの座席に座った。
おばあちゃまは、お隣の人に話しかけられていた。
聞き耳を立ててしまった。

電車に乗って遠くまで洗剤を買いに行かれたようである。車を出してと孫に言ったけど無視されたので 意地で一人で買いに行ってきたらしい。
痴呆ではないのだと判った。

驚いたのは、来年90歳になるというのだ。
「うそっ!」と思った。
骨格もしっかりとしており、頭髪だってほんの少し白髪があるけれどほぼ真っ黒である。それもぽやぽやとした毛ではないのである。
しわだって深くない。「70です」と言っても納得できる風なのである。

これには、周囲に座っている方もびっくりなさって視線を向けておられた。
ふと見ると背中の洗剤の箱の隅が隣の人の肩に食い込んでいた。
おばあちゃまは 全く気がつかないし荷物も重かろうと思われて、お節介をした。後ろから荷物をいすの手置きのところに移動して、軽く荷物を支えてあげた。すると、私の隣に座っていたご婦人も手を添えてくださった。

おばあちゃまは、私たちよりひとつ手前の停留所でバスを降りられた。
料金箱を通過する時、荷物が引っかかって動けなくなった。
すると近くの人が また 荷物を上に持ち上げてくれて無事通過。

それから、坂道をグングンと登っていかれた。
隣合わせた方々と大きくため息をつき「負けちゃいられないね…」と言い合った。

良く考えて見ると、おばあちゃまのご家族って大変だろうなと思う。
もう直ぐ90になられようとしているのに、これだけの意地を張られる方と生活しておられるのだから…。
でも、生きていくのに あれだけのパワーは持っていたいと思ったり…。

こんな風にして一日が終える筈だった。
が、夕食の支度を終えた頃、ご近所さんがいらした。
とても珍しい事である。
誰も帰って来ない時間だったので上がって戴き ちょっとのつもりでお茶を飲んだ。

ところが…話に花が咲きすぎてしまい、気が付くと10時半を回っていた。
介護の話、老後の話、世の中の流れ…等 話はエンドレス状態となった。
遅くなるので…と話を打ち切った。

ご近所さんが帰られた後、ようやく食事。
それにしても…介護の話になるとほんとに長くなってしまう。
過去の介護。今の介護。そして未来の介護。
「うーーーーーん」
今日 出会ったあのおばあちゃまに肖りたいものである。


2003年09月04日(木) 地元の…。


 先週に続き比較的スムースに活動を終えた。
珍しく、ご飯が炊いてあった。「何時のですか?」と聞いてみた。
ノートには何も書いてなかったので…。
来客が炊いてくれた物とわかった。
昼食は、秋刀魚の塩焼き。でも、焼き網がぼろぼろで焼いたら秋刀魚が崩れてしまいそうだったので、フライパンで焼いてあげた。
焼き網買いましょうか?とは言いにくい。フライパンでも焼けるから。
大根をすりおろして添える。干からびる寸前だったので良かった。

今朝、教えて頂いたシンポジュームに申し込みをした。
10月には いろいろ 判ってくる事なのだけれど 誘って下さった方がいたので7日に出かけてみる事にした。
(誘われないと動かないという実に消極的な自分で情けないけれど…)
メールでの申し込みが出来たのでそうやった。

活動を終えて戻るとお返事が…。
どうやら、知り合いの他にもこの町内に参加者がいらっしゃるようである。
出向いた時に紹介くださるとあった。

ふーむ。地元の事は判っているようでも まだまだ みたい。
それもご町内に住んでいらっしゃる…。近くに住みながら、遠い場所で会うと言う摩訶不思議な事もあるのだな…。

ひょっとすると顔見知りなのかも知れない。
少しドキドキ。

夕方、友人に電話。
メールでは、判らない事もあったりで…。
「直ぐ」が基本になってしまって便利だけれど…。
結局、ローテクにして速達で 夜 ポストイン。

暗い夜道を、ポストに向かって 元気に歩いていたら ご近所さんと出会った。
ご主人と二人連れ立って居られた。
介護に追われている時は、いつもどちらかお一人だった。
介護が終えたから できる事なのだろうな。

介護を卒業しても 尚 介護に関わり持つ人もいる。
その方とお話した時 みんなから「なぜ?」と聞かれると言われていた。
「自分のため…」と返事をするのだそうである。
介護が 現在進行形の私も そう感じる。
「自分の事になるのは、そう 遠き事ではない」
「自分のため」それが母の介護を通じて学べるなら将に一石二鳥だと思う。
勿論 未だ 大変な事もあるけれど…。

介護繋がりが地元に広がれば、いいな。








 


2003年09月03日(水) 前向き?


僅かな休日で気分と体を休めた娘は 今日から仕事再開。
労働時間が減っていると政府の発表があったけれど、ほんとかいな?と思う。実際の所、サービス残業で労働とみなしてないだけじゃないかと思ってしまう。娘の所は、少し異常すぎる労働だけれど れっきとしたサービス残業である。同じ年に就職した方々だって、そういうのが多い。ちゃんと定時で上がれ、手当てが支給されるのは、公務員と金融機関位かな?なんて。
関係者の人見てたらごめんなさい。

旅行中でもファクシミリやり取りしたり、家にいてもメール転送かけてチェック入れたり完全休暇とは行かない。
ま、夫だって似たようなものだけれど…。
少し娘に同情しながら「でも仕事は厳しいもの。甘えない事」と伝え無ければならないのです。
仕事を任せて戴ける事は、幸せと言うものだけれど、やっぱり働きすぎは気になります。
大学出て3年目。きつい事でしょう。
さて、今日は、何時に帰ってくるのかな?

母はと言えば…。
今日は床に塗り絵を広げて色塗りをしていた。
「おかちゃん」と繰り返し言っており多少不穏。
でも、淡いピンクを使って白い水玉模様を浮かび上がらせていた。
「綺麗だね」というと「そうかい。じゃ、この子(塗り絵の女の子)達もさぞや嬉しく思っているでしょう…」だって。
居室に掃除機をかけ終えて 塗り絵を見たら…。
折角の水玉が同系色のピンクで塗られてしまい、見分けが付かなくなっていた。残念に思ったけれど、仕上がりより 過程を楽しむのが目標だから「ま
良いかぁ」

身支度を整えて、家に向かった。
入浴である。母の頭がぷんと臭った。暑い日が続いているから…。
水分補給、おやつ。
その後、ヨーヨーで遊ぶ。
先日、文具店のレジ横で目に止まったもの。定価200円。
ゴムに似た感触で、表面はいがぐりのよう。中にボールが入っていて打つと中のボールが光り出す。
先日、母の目の前でやって見せた時はあまり興味を示さなかった。
今日、一人で遊んでもらったら光りだすのが面白いらしくしばらく首をかしげながら繰り返し遊んでいた。
200円なら、充分楽しめるだろう。

入浴後から腹痛を訴えだした。
少し横になって貰ったら軽い寝息を立てて眠った。直ぐに目覚めたけれど。

施設を出る時、排便の確認をしたけれど…昨日、今日排便は無いらしい。
あれだけ出た後だし…。
こういう辺りの判断が実に難しい。

「歩いてみる?」と聞くと「うん」という。
施設へ向かって移動である。
バスで隣り合わせた人が先に降りたら「あの人ね。お腹が痛いんだって」と言う。こういうすり替えが母には多いので「そうだったの?」と一人クスリとしてしまった。

でも、歩きながら歌ったりと何処までも前向きな今日の母であった。


2003年09月02日(火) らららららん。


オムツの配達があった。
今回から、限度いっぱいのオムツの利用となった。
フラット型のオムツとの併用が出来ないからである。
「フラットとのオムツ併用が出来なくて困っているのですよ」と零した。
するとおじさん首をかしげてお知恵を下さった。
「いや、今月トレパン。来月フラット」としている方いますよ」だって。
そうか、そこまで気が回らなかった。「ありがとう」とおじさんにお礼を言った。
頭は使うためにあるのに、全く機能してない自分の頭だと再確認。
でもね。役所の人「こういうやり方もありますよ」って一言言えないかな?

きっと、ケアマネさんなら、アドバイスしてくれるかもしれない。でも、施設のケアマネさんは、そんな事知る由も無いだろう。

PCにかじりついていたら、電話が入った。
今日の集まりに隣町の支援センターの方が見学をさせてくださいと言うものだった。ほんとは、みなの了解を得なければならない所だけれど、同じ痴呆の家族を介護する人達のためなら了解を得ないでも許してもらえるだろうとOKした。

一息入れた所で、先日 施設まで同行してくれたご近所さんが訪問してきた。手には、トレーニングパンツがあった。
残っている物を使ってくださいと言っていたのだった。ありがたく頂戴した。
門前で立ち話となった。
そこで金魚やめだかの話となる。
ホテイアオイを探したけれど何処にも売ってなくてどこで買ったのか?という事だった。詳しく説明した。
それから、めだか論議。
家は3つのめだかの家がある。それも玄関先にである。
その内の2個は、ぬかずけ漬ける瓶。それも、使い古したものを戴いた。
ひとつは、金魚を卵から、もうひとつは、めだかを卵から育てている。
今年孵化しているので、ほんとに小さい。
もうひとつは、成魚。金魚とめだかの同居している家である。
この住処は、鉢カバーである。それも焼き物風のプラスチック。
これが、軽いので水替えや掃除の時大変助かっている。
ご近所さんは、それが気に入ったらしかった。
探しても見つからなかったら 今度そのお店に行ったら買ってきてあげると約束した。
途中から、家の金魚、めだかの本家本元の方も加わって賑やかな談笑となった。
普段、とても静かな家の周りだけれど、今日はおしゃべりの声が響いてしまった。他の家にご迷惑かなと思ったりしたけれど 他愛の無いおしゃべりだから勘弁して貰おう。

昼食後、集まりに出かけた。
会のお便りを出した後なので、お休みなさっておられた方も出てきてくださった。そこでまた、情報交換。
いやはや、驚き。今日は知人でヘルパーさんもして介護もなさっておられる方が来て(この方は、自分でケアプランを作られて居られる)この地域に純粋に地元民が立ち上げた土日利用可のデイサービスができた。という情報を持ってきてくれた。近日中に利用してみるので、その情報は後日。という事になった。
他にも、排泄の対処などいろいろ経験談を聞かせていただいた。
皆さんそれぞれ工夫なされているものだと脱帽である。

この会の終わった後少し時間が出来、これからの会のあり方を数人で考える機会が出来た。
介護しながらだと、みなの意見、気持ちを聞く事がなかなか出来ないので出来る人がこうやって案や方向性を考える時間を持てて嬉しかった。


2003年09月01日(月) あ〜やぁ〜っちゃったか?


 昨夜、帰宅した娘から九州の話たっぷり。
と言っても福岡だけだけだけれど。
花柄のノースリーブのブラウスと明太子がお土産。
ブラウスは、夫には内緒だそうである。夫の分は買わなかったらしいから。
胸にたっぷりのタックが入っていた。
今年流行のタンクトップを下に付けての重ね着にちょうど良いみたい。

明太子は、思った所の物だった。
料亭で作ったものである。
10年以上前、転勤で越された方から数回戴いていて、「ぷつぷつ」とした感触のある明太子である。

午前中、訪問を終えて一度家に戻り昼食を摂った。
その後 娘と共に母の所に出向いた。

母は、居室で一人編み物をしていた。
でも、とても不穏な空気が漂っていた。
娘がトイレのドアを開けた途端「ぎゃっ」と叫んだ。
排泄物を流さないでいるのだろうと思って行って見ると、予想を超えた汚れ方だった。流してないのは勿論だが 便座、床に物が落ちていた。
幸いだったのは、床の物を踏んでない事。
急ぎトイレの掃除。
母は、編み物を続けていて「誰かトイレにいるのか?」と人事である。
全て、きれいにしてから 母をトイレに誘導。
もう、今 トレーニングパンツの中がどうなっているかは容易に想像がついているので七つ道具をセットして…。
トイレットペーパーを数カット。清浄綿。尻荒れ用の薬。替えパンツ。下着(上下)替えズボン。替えTシャツ。
母に気が付かれ無いようにパンツを下ろし直ぐ物が見えないように隠した。
そと、脱がせて…。
乞ういう事は、過去に繰り返し経験しているのでささっとやれる。
ほんと、驚くほどの早さである。
それから、母に立ってもらいペーパーで拭く。3回位。
それから、清浄綿で再度拭く。更にペーパーで拭いて、綺麗になった。
勿論、汚れはシャツに付いてもいて、それで背中まで汚れていた。
あれだけの量の大だったのに、更にパンツの中にもたっぷりとあった。
お尻は荒れていて 拭くと「痛いよ」と言った。
綺麗になったお尻に薬を塗布。
ようやくトレパンを着用。順次衣類を着用である。
次に上着。汚れを更に点検して拭き上衣を替えた。
しっかりと手を洗って貰った。

今日は、決定的ミスをしてしまった。
それは、大量の大の処理に追われて、母に更に排便を促す事を忘れてしまったのだった。
散歩に出て戻り、排尿に誘ったらまた 少し汚れていた。
お尻が荒れているのに、かわいそうな事をしてしまった。
今度は忘れずいきんで貰った。

大の処理に追われる面会となってしまった。
でも、思う。
失敗は有ったけれど、トイレで用を足せたのだ。
散歩から戻ってトイレに入った時「トイレの使い方忘れてしまったぁ」と言っていたけれど…。
大丈夫。未だ、出来るね。
今日は、少し大が緩めだったのだから仕方ないだろう。

勿論職員には、この出来事を伝え「便が緩め」という事も伝えた。

母は、今日の失敗は全く気が付いてない。
いや、失敗した時は判っていただろう。でも、ほかの事は何も覚えてないだろう。失敗した事を叱っても、今の母にはマイナス作用ばかりだろうと思う。

持って行った塗り絵(きいち)を目ざとく見付けた母は、直ぐに塗り始めた。それも、最近多いくすんだ緑、青などではなく、華やかなピンクで染めていた。良かった。
使う色が綺麗だとほっとするのである。




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