母のタイムスリップ日記
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2003年07月31日(木) やっぱり、イライラ。


 木曜の訪問日は、悩ましい。
難しい所なんだけど、それは充分承知しているのだけれど…。

ゴミ出し。
これも、前から引き続いている。
これは、管轄違いの方の訪問で徹底しない。
今日も、リサイクルゴミと不燃物がごちゃ混ぜで、分別と容器洗浄に追われた。

もうひとつは、利用者さん。
訪問中に洗濯するするのだけれど、3時間では乾かないので室内に取り込み干す事になる。その仕事は、苦ではない。
取り入れた洗濯物は、台所と居間の境にあるカーテンレールに引っ掛けてくる。多量なので台所に入るには大変だ。でも、訪問中には、トイレ以外移動しないので一人で台所に移動するなんて考えもしなかった。
食事だって、テーブルに置くし、後片付けだって訪問者である。
「氷ください」「水ください」「ヨーグルトください」ってすべて仕事を中断して運んでいる。
だから、一人でいる時に冷蔵庫に行くなんて考えなかった。
今日「台所の所にたくさん干してあると 俺 怖いんだよ」と言われて初めて一人の時は動いていることが判った。
それなら、危ないだろうと思い別の所に分けて干してきた。

でもねぇ。
「それなら、訪問中も自分でしてよ」と思ったのだ。
こちらは、たくさんの仕事がありオーバーしてしまうからと早めに訪問、オーバーしても料金に影響しないように配慮しているんだけどなあ…。
動けないなら、また 考えも違ってくるけれど…。
利用者さんにとっては、「いかに動くか」がとても大切な事なんだけど…。

言うに言えずに「お酒飲みすぎて転倒しないように気をつけてくださいね」と注意だけして活動を終えた。

ちょっと、イライラモードでした。


2003年07月30日(水) 我が家でのデイケア

 考えれば、久しぶりに我が家でゆっくり過ごせた母かなと思う。
いつも、バスを乗り継いで、買い物をしたりで我が家で過ごせる時間も慌しいものだった。
今日は、夫が 偶然施設の前を通過する時 私の姿を見つけて待っていてくれ車ですんなり移動できた。

家に着くと、まだ、出勤前の娘がウロウロしていたけれど…。

友人からのファクシミリが届いていた。
母は、それを声を出して読んでいた。

考えて見れば、在宅のころは、愚痴の限りを友人に送っていたのでその返事等母に見られたら大変だった。
それでも、友人は機転を利かせて、母のために お子様の絵を送信してくれていた。母は、その絵を見て顔を綻ばせていた。
そして、「返信しなきゃね」と大人らしい距離を置いた便りを書き上げていた。

友人からのファクシミリは、彼女の家の一齣を書いたものでとても面白いものだった。母は、同じところで何回も笑っていた。
一度読み終えても、再度読む。でも、母にとっては読むたびに初読み感覚なのである。ここは、ある意味でとても助かっている。

「はえ」にまつわる内容で…。
ハエを叩いたけれど「馬鹿ぁー」と逃げて行ったと書いてあるところで笑うのである。田舎育ちのおいらは、肥溜めの蛆虫だって見ているから…と昔の生活を偲ばせる部分でも笑っていた。
都会のハエは、賢くてハエトリリボンになんてかかりゃしないでも笑っていた。 

そうこうしている内に療法士さんが見えてリハが始まった。
はじめたばかりなのに「ありがとうございました」と立ち上がろうと幾度もした。嫌がって入る訳ではないのだが…。
それでも、だんだん気持ちよくなり、動かなくなっていった。
とても、気持ちよかったようで「ありがとうございました。とても気持ちがいいです」とお礼を言っていた。

リハを終えて、自分が横になっていた大判のウォルスとグルミットの絵柄に興味が出たようでしばらく「かわいい」と眺めていた。
それから、皺を伸ばしたりと一人で作業をはじめたので、母を其の侭にして昼食の支度をした。
「ご飯よ」と再び母の所に行くとニコニコしながら「こんなに早く?」と驚いていた。実際には12時を回っているのだけれどなぁ…。
母は いつを基準にして早いと思っているのだろうなぁ…。
テーブルについて、ふと 口元を見ると飴を舐めていた。
「そっかぁ。テーブルに飴一個置いてあったよね。だから、ニコニコだったんだね」

昼食は、残り物と作り足したものでいっぱいになった。
今日の母は、ご飯が早めではあっても比較的バランスよく短時間で食べていた。こういう所をみると「良くぞ此処まで回復できたものだ」と思う。

昼食後は、折り紙をして貰った。
両面折り紙で、花柄のきれいな折り紙である。
母は、興味を示して折り始めたが切り抜きをする折り方をしていた。
で、はさみを出して上げたが、それ以上は作業をすすめられなかった。
母、お得意の勲章(コースター)を途中まで折って渡した。
「ありがとう」と母は言った。
まるで出来る所まで折ってくれたとわかるような反応である。
それを順に母は仕上げて行った。

最後の仕上げだけでも3パターンできていた筈なのに、今の母は、1パターンのみである。それも、自信を持って、折るという勢いすら漂わせて母だったのに今の母には、そういう気迫が感じられない。
やはり、受身の生活が続いているせいだろうか?何もしないで「ボヤーン」としてばかりいるせいだろうか?それとも、痴呆の進行か?

4個のコースターを仕上げた所で入浴。

入浴後も少し折り紙をして貰った。その向えで私は「花の絵」を描いていた。
ひまわりを描いていると母が興味を示したので続きを母に描いて貰った。
ひとつのひまわりは完成した。母は、その後もなにやら描き足していた。

数枚の絵が出来上がった。
これを、施設で気の向いた時 塗って仕上げればいいなぁ。

それと、もうひとつは、フェルトにお星様を描いた。
これを、切り取ればアップリケの作業も出来るかも知れない。
試しに母に切り取って貰った。でも、少し周囲にゆとりのある切り方だった。
よーく思い起こしてみると、急変後 母は、はさみがかなり使えなくなっていたのだった。それを 思うと星型を良くぞ此処まで切れるようになったと思うべきだったと反省。

こんな風にして我が家でのデイケアは終了した。
オムツはもちろん外してみた。
失敗はなかったけれど、水分を500ミリリットル以上摂取しているので 帰路が気になり尿漏れパットを使った。
施設に着くまでは大丈夫で、トイレ誘導でセーフ。
まずまずの成績だろう。


2003年07月29日(火) そういう年齢?


 スーパーで、介護仲間と偶然出会った。
ある集まりに「参加したい」と言っていたが来られなかった方なので気になっていた。
きっと、事情が変化したのだろうと思っていた。
「ごめん。介護帰省する人が出てバトンタッチされちゃった」と言う。
「それに、夏休みに入って帰省介護一ヶ月取る人もいるのよ」と言う。
そうだよね。私も、子供の夏休みを待って介護帰省していたものなぁ…。
利用者さんも大切だけど、自分の親だってねぇ…。
これは、ヘルパーさんだけでなく介護職の人も同様と思う。

そして、その後ろに 利用者さんの戸惑いが見える。
訪問者が変わる事は、良い時もあれば、悪い時もある。
すべて、一から説明する手間は 確実に増えるのである。

介護の世界は、ある程度の年齢の方がなさっておられるのだ。
ご自身の身体的変化もあるだろうし…。
やはり、難しい年齢でもある。

介護職だけの問題ではないだろけれど、人と接する事に向いている人向いていない人があるような気がする。
ほんとは、スペシャリストなのだから、そんな事言えないと思うけれど…。
でも、現実にあるのだからなぁ…。
この落差をなくすためには、同じ所に数人が入れ替わり入っていれば 多少は緩和できるだろうか?いや、かえって面倒かな?

おそらく、これから先もっと増えてくるだろうそんな時代なのだろと思う。

動きたくない病にかかってしまっていた自分。
今朝も「えいっ」と気合を入れて外出。
動きたくない病の時は、とりあえず 小さくとも「はじめの一歩」を踏んで弾み付けないと駄目な私。今日は、洋服を着替える事が初めの一歩となった。
母の浴衣を探しに遠くまで出た。
何とか、見つけられたので、ほっとする。
「80を超えるけれど、この柄で大丈夫かな?」と聞くと「大丈夫ですよ。お母様のですか。私にもいるんですよ」と介護の話になった。
きっと、私より少しお若い。でも、介護する年齢に差し掛かっているのである。

買い物途中でも、ずいぶん 多くの介護者をみた。
車椅子の人も、ずいぶんいらした。小雨が降っているので椅子ごとカッパ着用していた。
この人は、家族か?ヘルパーさんか?とちょっと想像したりもする。

10年前には、こんなに付き添っての外出者は居なかった。
病院に付き添いで出かけても付き添い者は多くなかった。
やっぱり、確実に介護される人が増えているのだろう。

そんな事を考えていたら、動きたくない病がだんだん恥ずかしく思えてきた。
「まだ、若いでしょ」とそういう声が天から聴こえて来た。
「あんたより、もっともっと大変な人居るでしょ」とも聴こえて来た。
「あんただけが苦労している訳でもないでしょ」とも…。

そうなんだよね。
「いいとこ取り」の介護して居るのだから。

あの声は、一体誰だったのか?

家に戻ったら、郵便受けに 北海道の友人からの便りが入っていた。
「日記 毎日 読んでいます」とあった。
嬉しい様な、恥ずかしいような…。えっ、どっかで聞いたようなフレーズだな。 ひょっとして…。
でも、やっぱり「ありがとう」だね。
施設で仕事頑張ってるのね。
凸凹いっぱいあると思うけれど、頑張っているんだよね。
信念もって、ポリシーもって。
でも、あまり力まないでね。
お互い「若いぞー」って威張れるほどの年でもなくなって来たものね。






2003年07月28日(月) 気分も上々。


 利用者さんを訪問する。
チャイムを押しても返事がなかった。一瞬ヒヤッとしたが、2度目のチャイムで明るい声が返ってきたのでほっとした。
「今日は、鉢植えの整理をしてほしい」という事だった。
ベランダに新聞紙を敷いて仕事開始。
何分にも、素人仕事でちゃんとできたか気になるところではあるが…。
植物を眺め育てたいと思う利用者さんの気持ちを汲んでさせて貰った。
うまく、育ってくれればいいなあと思った。
「ご一緒にしませんか?」と声をかけてみると中腰の姿勢ができないからと言われたので、無理には誘わなかった。

洗濯機を回して作業を始めていたので植え替えが終わって洗濯物を干した。

冷蔵庫を見ると、ちゃんと2品ほど調理してあった。
ご自分で作られた思われる。
「食事の支度はどうなさいますか?」と伺うと「今日は大丈夫」との事。
その後 家の中を掃除した。
ゴミの分別がちゃんとできていないので、4箇所のゴミ箱の分別処理をした。
キッチンや、トイレ、洗面台を磨いた。
「散歩に出てみませんか?」と伺うと「今日は大丈夫」との事。
お聞きすると、スイミングに出かけられたり、息子さんと外出したりで適度に運動なさっておられるようだったので、無理に誘うこともしなかった。
割りに落ち着いていらっしゃったので、それもよいだろうと思った。

活動を終えて、家に戻った。
急ぎ遅めの昼食を摂り、母のところに向かった。
母は、職員さんの縫い物のお手伝いをしていた。
居室に入って整理して「トイレを覗くと大が流さないであった。
大きな大きな物だった。
職員に「母かわかりませんが…」と報告。
その後外出のためトイレに誘導してみた時、お尻の汚れから母のものと判断がついたので、それも報告。

時計と睨めっこして行く先を決めた。
バスに乗って大きな不動尊に出かけた。
バスを降りたときは「何処に来たのか?」と言う顔だったけれど、境内に入ると「来たことあるね」と言った。
けれど、漠然と思うだけで、細かい記憶はなかった。
池の前でおやつタイム。
お茶やらお菓子やら果物やらを腰を下ろして食べた。

境内には、お店も出ており母は、興味を示したのでゆっくり一回りした。
売っているものに対しての興味より「お店がある」と言う興味だったようである。

帰路もバスに乗って戻った。
雨もなく、ほどほどに陽も射して気分も上々の母だった。



2003年07月27日(日) どうしたものだろうか?


 入所以来、行方不明になっているものがポツポツある。
一年以上を過ぎていくと、何が有ったかなんて記憶がなくなっている物もある。
同じフロアの人で、着用していれば 遠慮しながらも「これと同じものを母が持っていたのですけれど…」と職員に尋ねる事もできる。
でも、違うフロアだとわからない。

こんな事を書くのも「靴下や下着の買い足しをどうしようかな」と迷ってしまうのである。トータルすると馬鹿にならない金額である。
夏物の靴下は、5足は消えているだろう。下着特にこれから夏に向けてのタンクトップ型のものはひとつもないのである。
2個はあった筈で、ランニング型もおそらくひとつは消えている。
お出かけ用でお嫁さんから戴いたアンサンブルのカーディガンが行方不明となっている。

母に面会に行く時は 必ず衣類のチェックをして母の物でないものは直ぐにお返ししているのだが…。

施設では、こういう事が 多いとは聞いていたので ここだけの問題ではないと思っているけれど…。

「全てに名前を付けて下さい」と言われて縫い付けたもののそれがどれ程の効果があるのか…。

もう、持ち帰って、家から運んだ方が良いのではないかと思ってしまう。
行方不明になるからと言ってとんでもなく大きな文字を書いた物を着せるのもちょっと可哀想になってしまうしなぁ。

ま、消耗品と思ってしまうことだろう。
でも、買う時はこの服にはこの靴下。このシャツにはこの上着。とあれこれ考えて買ったのになあ…。

今は、夏だから、持ち帰ってもいいけれど冬にはそうも行かないし…。
記憶力と注意力が薄れてきた母には、管理せよとは言えないし…。

そういえば、本も行方不明になっているのだ。
言いそびれた儘だけれど…。
同じフロアで本を読む人なんて見た事もないけど一体何処に消えてしまったのだろう。持ち物に、ITチップでも付けて探し物探索機で探せるような発明
誰か作ってくれないかなぁ…。

今週は、訪問が2回。リハが週半ばに。週末は離れた場所での介護の会があり少しハードになりそう。
母の面会もちゃんとできるようにしなくては…。

あーそうだ。浴衣だ。
納涼大会に浴衣を着せるって言っていたなぁ。
チラチラ見てはいるけれど、どうも良いのがなくて…。
娘に戴いた浴衣があるので引っ張り出してみたけれど、やっぱり華やか過ぎて可哀想だ。また「早めに準備」と言われるのだろうな…。
頭が痛いなあ…。
故郷には、あるのだけれど…。「面倒だなぁ」
仕方ないか。また、明日訪問後に探してみよう。


2003年07月26日(土) 子の欲目?


 この所、母の夢をよく見る。
どんな夢だったかは覚えていないのだけれど、間違いなく夢の中に母がいる。
小さな事だが気になっている事が重なっているので夢を見るのだろう。
頭から離れないのである。
だから、体調もイマイチなのである。どんよりと重たい。身も心も。

母は、ホールで編み物をしていたので、安心してそのまま居室に入り整理をした。
再びホールに戻ってゆっくりと母の仕事振りを見たら…。
編んでいるとばかり思っていたのによーく見ると編み棒の先に糸をグルグル巻きにしていた。
それも半端な量ではない。ボンボンが作れる程である。
一体、どの位の時間こうやっていたのだろうか…。
「編めるの?」と聞くと「編めるよ」とグルグルまきの糸の間に編み棒を刺した。「…ダメダコリャ」

急ぎ、トイレ誘導して、家に向かった。
家では、歌集を母に渡した。
でも、母の選ぶ歌は 日本音階ばかりなのである。
母にしてみれば、あいうえお順にすぎないのだろうけれど…。
「仰げば尊し」「赤い靴」等である。
調子よく歌っているなあと思っていると寂のところで声を詰まらせて涙するのである。それも、よりによって歌い終えて次の歌でまた泣く。
「ちり紙頂戴」と幾度言われただろう。
しまいには「また泣くぞ」と合いの手を入れてしまった私。
母は「泣かない」と言いながらまた涙である。

向かい合わせに座って、母の歌を聞きながら編み物解いた。段違いで編み込んだりしているものだから簡単には行かず「トホホ」と言う感じだった。
それでも、一玉分を解き終えていつもより目を少なめにして、数段編んだ。
母が興味を示したので、バトンタッチ。
気持ちよさそうに また、編み始めた。
グルグル巻きにしてしまったのは、収集がつかなくなってやってしまったのかな?

一仕事して、入浴させようとトイレに誘導。「出ないよ」と言うのを「間」に受けて脱衣所で服を脱がせ始めると「モジモジ」「おしっこ?」「うん」
と言う訳で再びトイレへ。残念ながら間に合わず…。でも少しは用を足せた。どうも、タイミングが悪い。
入浴を済ませ、髪も乾かして水分補給をした。

帰路はバスターミナルまで歩く事にした。この所、足の付け根が痛むようで「痛い」「がんばる」の繰り返し。
気をそらしてあげようと歌ってみた。
♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶が 長い長刀振り上げて牛和歌めがけて切りかかる♪
大きな交差点で信号待ちとなった。すると母は また 「モジモジ」
「しまった」歩く早さを読み間違えた。
バスターミナルまでは持つと思ったのに…。
トレーニングパンツを使用しているから漏れの心配はないけれど…気持ち悪いだろうなぁ。母が 一瞬 情けない表情をした。
全く、何やっているのだろう…。

施設に着いて トイレでパンツを替えている所に職員が見えた。
今の母は、夜間一人で起きてトイレに行くことがなくてオムツがびっしょりで全部着替える事になるので尿漏れぱっとを使用してよいかと言うことだった。
情けない事に「はい」と言ってしまった。
夜間の職員が少ないので申し訳ないと思うからである。
託している身である。もちろん、今 自力の排泄は とても難しい局面を迎えている事も承知しているからもある。
「排泄の感覚が鈍ってきて来ているのがわかるので、私と一緒のときはオムツ外して見ようと思っています」と伝えた。
職員は「こちらでも日中しましょうか?」と言ってくれたけど「面倒をおかけするので取り合えず私の時だけやって見ます」と伝えた。
「その事も含めて職員と話し合ってみます」と言っていた。

「もう、駄目なのかな?」とも思うけれど「勘」を取り戻せるのではないかとも思ってしまうのである。「子の欲目」なのかも知れないが…。

今、目の前に こんがらかった儘の糸がある。
私の心の中と同じである。

この所、小さな事だけれど捉え方の違いが重なってきている。
例えば先日の「室内履き」
先日訪ねた時、母は、スリッパを履いていた。「やっぱり、きつかったでしょうかね」と聞くと「いや、後ろのバンドがはめられなくて…」と言われた。
でも、やってみるとちゃんと出来た。
今日は、二人の職員さんが「靴擦れを起こしているようで…」と一緒に見えた。「でも、これは内履きを替える前から出ていますよ」と言うと「「きついと言われました」という。
別に異議を申し立てるつもり等なく合わないならやめようと思っているのだけれど…。職員にも悪気はないのだけれど…。
履きなれるまでは、少し時間もかかるだろうにと思う訳で、まだ一週間経ってないのですよ。

仕方ないので新しい室内履きを買い求めて履かせた。

私の許容量が小さいのだろう。
そんなこんなで、身も心もほんの少し重たい。








2003年07月25日(金) 食事


 以前 母は「食べない」と言う事がたびたびあった。
食事の時間が近くなると「私 食べませんから」とわざわざ断りに来た。
そのころは、食べない=身体の衰弱=病=死という図式があって、ただでさえ細身の母だったので神経に触った。
私は剥きになって食べさせようとした。
「とりあえずテーブルについてよ。みんな心配するから」と席に着かせても、
母は、貝のように口を閉ざしていた。
時に「食べさせてあげないと駄目なの?」と口に押し込んだ。
すると、「ぺっ」と出してしまった。
それから説教を交えてこんこんと説得。
根負けした母は、涙をいっぱいためて「一人で食べられる」と食事をした。
あのころの母の食事って「砂をかむような食事だっただろう」

家族も食事の度に繰り広がれるドタバタにうんざりだった。
私もちっともおいしくなかった。

試行錯誤を繰り返して、食事の時には母が乗りやすい話題つくりをした。
お皿にもほんのちょっとのおかずとご飯を準備して母が余所見をした時に副菜やらご飯を足していった。
そうすると、ちゃんと 予定量を食べた。
ほんとに忙しい食事タイムだった。
それでも駄目なときは、私だけ食事をしてさっと片付けを済まし外に出て気分転換を図った。落ち着いたところでお店に入って食事して貰った事もある。

そんな時は、ステーキだってスイスイ入ってしまうのである。

今の母からは、想像もつかない。

きっと、押し付けられる恐怖みたいなものもあったのだろうと今になって思う。

今は、食べる事が好きで、ほとんど何でも食べる。
時に遅くなって口まで物を運んであげる介助もするけれど、母は嫌がる事もないのである。
こうなると、今度は食事の自立を図るために ひとりで食べるように仕向けなくてはならない。

少し介護も長くなりお互いの信頼関係が出来上がったから拒否もないのかな?と思う。

信頼関係といえば…。
先日、母を連れての外出のとき娘が運転してくれた。
車の中には、娘と母。
私は、シャッターを閉めて車に乗り込んだ。
すると娘はブツブツ言った。
母は、私を置いて車を動かしてはいけないと娘に怒ったようである。
すぐ乗るから大丈夫と伝えても「止めて」とうるさかったらしい。

これも、信頼関係があるからかな?


2003年07月24日(木) 首を竦める


 先週、母の頭を撫でようとしたら、首を竦めた。
そういえば、Fさんも同じ日 頭を撫でようとしたら、首を竦めたなぁ。
Fさんは、妹さんと同室の時は、よく首を竦めていた。
妹さんが居なくなってから首を竦める事は、無くなっていたのに…。
どうしたのだろうか?

数年前、母がまだ、故郷と我が家を行ったり来たりしていた頃の事。
故郷から、我が家に来ると暫くは、頭を撫でようとするとよく首を竦めていた。暫く我が家で過ごしている内に、そんな事も無くなるのだった。
あの頃は、いろいろの話が出来たので、故郷での状況もよくわかって、首を竦める訳も判った。

でも、今は、経験を思い出して話す事は出来ない。
何かあったのだろうかと ちょっと気になっている。

今日の母は、首を竦める事は 無かった。

居室から外を眺めていた母は、窓の外に向かって「がんばれー」と声援を送っていた。「何だろう?」と思って外を見ると川沿いを中学生がトレーニングウェアで走っていた。もう、夏休みの筈だから部活でもしているのだろう。
「がんばっているねぇ」と言うと「暑いのにねぇ」と母は言った。

散歩に出た。
私は、利用者さんを訪問した足で、母の所に来たので昼食はまだで公園でお弁当を食べた。母も、少しお相伴をした。
昼食を済ませた母は「もう、何も入らない」と言っていた。
その言葉通り、あまりたくさんは食べなかった。

畑を眺めていると「不景気な葱だね」と言った。
見ると弱っている風の葱が在った。
「あれは何?」とトマトを指して聞いてみるが固有名詞が出てこなくて困った顔をしていた。ちょっとした拍子に忘れてしまうようである。
暫く歩いて居たら「プラタナスだ」と言った。
目の前には、ちゃんとプラタナスの木があった。

小一時間ほど散歩して施設に戻った。
面会ノートに記入して返しに行こうと思い「ちょっと入って来るね」と言うと
「すぐ来てね」と母は言う。「うん、すぐ戻るよ」というと安心していた。

ホールでは職員が花火の貼り絵をしようとみんなに声をかけていた。
でも、誰も手伝う人は居なかった。
母に「何か手伝ってほしいってよ」と伝えると「出来るかなぁ」とその場所に移動した。
最初は、紙をちぎり糊を付けて母に渡し張り場所を教えるとそこに上手に貼っていた。ちょっと、繰り返し職員さんにバトンタッチして、その場を離れて居室の整理をした。
その後、様子見に行ってみたら「ちゃんと形に合うようにちぎって貼っていますよ」と教えてくれた。
デイでも、貼り絵をやっていた。
「すごい集中力でやるんですよ」と言われた。
やっぱり、少し作業始めると勘を取り戻すんだなぁ。
「手先を動かすのが好きで良かったね。楽しめる窓口がいっぱいあって良かったね。」と思った。

作業に熱中しているので、そっと 施設を後にした。


2003年07月23日(水) 母との会話


 母とまともに話しせたのは、何時頃までだっただろう…。
7年前位は、デイでの様子をトータルで話せなくとも一場面を思い出して話してくれた。
電話番号、住所等も忘れないようにと必死で反芻していた。
「忘れるから、書いていてほしい」と言っていた。
それは6年前くらいまでだろう。
お腹が空けば「お腹空いたなあ」と言えた。
食事の支度をする時「手伝うことはないか」と聞いてきていた。
それは、入所前まであったなぁ。
「下手だけど手伝うよ」と言っていたなあ。

でも、今は、そういう会話がない。

今の母に思考力がないのかと言えばそうではない。
見て感じる事はたくさんあるようである。
でも、話し始めて単語が思い出せなくてそれを考えている内に話していた事を忘れてしまっているようである。
話しかけていた事は、覚えていて「忘れてしまった」と哀しそうな顔をする。
そこに居合わせるのは、ちょっと つらい。
ここまで記憶が消え去ってしまうかと思う。
だから、時折 記憶が途切れる前に単語を言ってあげて会話が続くようにする事もある。

それでも「まだ良い方なんだ」と自分を励ましている。

昨日、バスに乗って居たときの事。
空いた座席が離れていた。通路を挟んで座った。
乗客は少なかった。
母が何か話していた。一人言と思っていたが耳を澄ますと
「○○ちゃん(いとこの名)あそこの階段 長くて危ないね」と私に話しかけていたのだった。
見ると、ビルの間に踊り場もなく7階まで続く非常階段だった。
「うん」と頷くと安心したようだった。
また、バスを乗り継いで、今度は前後ろに座った。
車窓からガソリンスタンドが見えた。
「あそこには、男の人と女の人がいるか?」と聞いてきた。
みると、そこに数人の人の姿が在った。
確かに赤い服、髪の毛も少し長目で判断が難しそうだった。
「みんな、男の人みたいだね」と言うと「あーそうか」と返事していた。

今は、こんな風に母の思い、考えた事に反応してあげるのが多い。
「まだ、話せる」と思っている。

不思議なことがある。
「おかちゃん」と繰り返して言うので、「おかちゃんの所に行く?」と聞くと
顔を曇らせる。
「おかちゃんが来てほしい」と言うのだ。
「一人で帰る」と頑固に言い張った母の姿はもう無い。

判らなくなって来ている事もあるだろうけれど、それだけでなく 何かがぼんやりとわかっていて、あれこれ言わないようにしている様にも見える。
これは、子としての欲目だろうか?


2003年07月22日(火) 失礼しちゃうわね


 家族は、予定通り早い出勤。
ふと、気になり 金魚やめだかの水の入れ替えをした。
春先に戴いた金魚の卵は現在7匹の稚魚となっている。
赤ちゃん時代を過ぎて黒っぽくなり1.5センチ位に成長している。
大きくなった金魚とめだかは、また 別の鉢に住んでいる。
先週、めだかの赤ちゃんを 鉢毎戴いた。
これで、器は3つである。

だんだん、水の取替えも面倒になって行きそうである。
早く、大きくなって全部一緒のお家に住めればいいなあ。

布袋や、水草は、日に日に成長している。
鉢の水面を覆ってしまっている。

一匹ずつ掬い出して、一晩置いた水に移動させた。

作業を終えて、母のところに向かい 外に連れ出した。

母の編み物は、今度は意識して模様が入っていた。
数段置いて、目を変えて行くやり方である。
やはり、繰り返せば勘を取り戻すみたいだな…。

遠くのデパートまで出向く元気はないけれど、地元のデパートならと出かけた。
丁度、上履きが取替え時である。
介護用品で、買ったものなので今回もと覗いてみたけれど、これという物がなかった。だから、靴売り場に移動した。
安くて母に良い物をとウロチョロしていると、いつも声をかけてくれる店員さんが声をかけてきた。
「上履きにできるものを 探しています」というと探してしてくれた。
ほんとは、そのコーナーは ちょっとお高いので避けていたのだった。
でも、履いてみるとぴったり。
サンダルだけれど、ずれてこないタイプ。
「まったく憎いね」もう少し他の安いのを探すという気力が萎えてしまった。
母が一人で履けるかを試してみて大丈夫だったので購入した。
バーゲン価格にはなっていたのだけれど…。予算オーバー。
「お母様、この間よりだいぶ良くなられてますね」と店員さんに言われた。
しっかり、覚えているものだな…と感心してしまった。

時計を見ると、お昼を過ぎていた。
今日は、外食にしようとレストランに入った。
昼時で普通の席は満席で、個室に案内された。
そこには、3組入れるようになっていた。
私たちが一番乗りで、席についてメニューが来るのを待っていた。
ちょっと、放り出されたと思えるほどの時間が経過したころ次のお客さんが案内されてきた。IDカードを下げたこのデパートの系列の本社の役員さんの様な、4人組み。うち、一人はアメリカ人。
そういえば、この間、会社広報に載っていた人だなぁ…。
その人達が席に着くか着かないうちにメニューを持って店員さんが来た。
こっちに来ると思いきや向こうだった。
また、別の店員さんが、お茶を運んできた。こっちにはまだ。
4人組みさんは、矢継ぎ早に注文していた。こっちは、置いてきぼり。
今度は、前菜が運ばれてきた。こちらは、また 置いてけぼり。
次には、注文の品が運ばれてきた。
「失礼しまーす」と言っていたので、母に向かって「ほんと失礼しちゃうわね」と小声で言った。
すると、その店員さん慌てて後ろを向き「すみません。すぐ、メニューお持ちします」だって。聞こえてしまっていたのだった。

普通、こういう事は、言わない様にしている。
でも、今回は 店員さんにというよりもその4人組みに対して「ムッ」ときていたのだった。
だって、今、お宅の系列のデパートでお買い物したのよ。
それに、先にこっちが入っているのよ。
「あちらからお先に…」って言えないの?私なら、言うわよ。
「向こうが先です」って。

間をおかずに、メニューが運ばれた。見るまでもなく決まっていたので即注文すると。「急いでお持ちします。すみません」と平身低頭である。
ちょっとして、母のが先に配膳された。それに、注文以外の品があり「お詫びに」と言っていた。まもなく私の分も来たけれど、なんだか嫌な気分になった。なんか、ごねた人になった気分なのだ。

食べるのも嫌で、でも残せず…複雑な気分だった。

幸い 母は おなかに入ればよいと言った風でよかったのだが…。
とんだ、外食になってしまった。(ため息)

私、「こわーーーーい顔」をしていたのかしら…。

それから、家に向かってゆっくり歩いた。






 


2003年07月21日(月) ちょっと贅沢。

 昨日、デパートでゆっくり見られなかったので今日、再度出かけました。
夫のスーツは、先送り。
娘が私の服を、「みすぼらしくなった」と言うのでちょっと気張りました。
でも、赤札なんだけれど。
試着している時、娘はお店の方とあれこれと私の洋服事情を話していた。
厚顔の私でも、恥ずかしい。
でも事実だから、仕方ないのだけれど…。

「今年初めて定番から下ろしました」と説明を受けた。
このブランドは国産で、おばさん向きなのだけれど流行りもうまくチョイスしてありでも、飽きも来ない。おばさんの体形も、うまく包み込んでくれて助かる。でも、ちょっと、値段が高い。いや、私から見ると…ですよ。

目にとまったものを、試着して試着室から出た時「わー。きれい」と言われて目をぱちくり。こんな事言われたことなかった。
戸惑っていると「お母さん、服の事よ。勘違いしないでよ」だって。
そりゃ、わかっているけど…。
ちょっと、欲が出て他のも試着。こっちは、どうも見た目に違うらしい。

すると「定番の方も試着なさったら…」と言われてまた試着。
こっちは、グッドなのだけれど赤札でない。

もう、迷うことなく「赤札」を選んだ。

でも、贅沢だなあ。
ま、しばらく 夏の私の外出着の定番になるのだろうから 許してもらおう。

この2日。母を放り出している。胸がチクチク痛む。
明日は、家族は超早出らしいから、早めに母の所に行こう。


2003年07月20日(日) 少しの我慢

 昨日、TBSの永六輔の土曜ワイドを聴いていたら、植物学者が言っていた。「森の世界」は、少しの我慢の在ったほうが、良く育つのだそうである。
我慢のない完全状態だと、滅びてしまうのだそうだ。

人間にも言えそうですねと、六輔氏が言うと…。
今我慢のない人は、その先滅びが待つだけ…と笑って居られた。
「いえ、植物の世界の話ですよ」と言ってはいたけれど、含み深かった。

単純な私は「そか、母にも、私にも、家族にも少しの我慢があるからこのままがいいんだな」なんて勝手に思ってしまった。

それにしても、「少しの我慢」って…。
ある人には、少しであっても、別の人には、とても重たくて…。
受容度の違いは、かなりなのだろうな…。

似たようなことで「不幸」がある。
「不幸な人には近かずかない」と言う言葉。
これまで、2度ほど耳にした事がある。
「不幸」が伝染するからと言うのである。
でも、不幸って、実態のないものじゃないか?
捉え方が違うから…。
どん底で苦しんでいる人がこの言葉を聞いたら嫌だろうなと思った。
一体、最初に言った人って どんな場合を想定してこんな事を言ったのだろうな。

今日、夫のスーツを見に家族で出かけた。
嫌がる夫を引っ張り出したのは娘である。
やはり、娘には弱い。
結婚して以来、服の購入は私の役目。
採寸して適当に見繕うのである。
もう、一緒の買い物なんてした事がない。

それでも、今日はしぶしぶ出かけた。
サイズも見つかり、それでいいんじゃないと思ったけれど「買わない」と一言。そして、一人去っていった。
娘と私は気を取り直し、あちこち見て気分転換。
娘は、途中で夫の携帯に電話したらしい。
事もあろうか「いい加減にしなさいよ。誰のためにここまで来たのよ」と言ったらしい。夫は、ぷつっと携帯を切ったらしい。
そろそろ、帰ろうと思ったら、夫がエスカレーターで上がってきた。
仕方なし、私たちも上に上がった。
やっぱり、夫は気にはなったのだろう。
でも、結局のところは買わなかった。

「不機嫌」の重たい空気が車いっぱいに広がっていた。
帰宅までの車内の数十分は、気まずい空気…。
私は 夫がこうなる事はわかっているので、あまり気にしない。
いい気持ちでは ないけれど、仕方ないと言った所である。
娘もさすがにもう何も言わなかった。
言い過ぎは、充分承知しているだろう。
帰宅して娘は美容院に出かけた。
夫は…。何だかとてもさびそうに小さく見えた。
やはり、娘のきつーい言葉は、ショックだったのだろう。

夕食も二人で食べ。
仕方ないのでテレビを一緒にみた。
夫の好きな鉄腕ダッシュ村。その後、ネットで、そのページを引き出して欲しいというので引き出してコピーしてあげた。
ここらあたりまで来ると、夫も落ち着き、ほっと安心。
全く難しいなあ…。

別に悪い人ではないのだけれど、きっと、面倒なのだろう。
やっぱり、別の日に買って来るしかないみたい。

これも、やっぱり「少しの我慢」で、いい家族に育っていくと言う事にしておこう。





2003年07月19日(土) 辛かった。


 今日は、リハビリの日。
朝、GHに迎えに行き、買い物をして戻った。
そこに、リハが30分遅れると電話があった。
そこで、編み物をしてもらった。
これが、見ると はちゃめちゃだった。下の段を一緒に編み込んだりしていて
母自身、どうして良いのかわからなくなり「おかちゃん、やめるぅ。」と繰り返し言っていた。

そうこうしている内に、作業療法士さんが見えたので リハを始めて貰った。
母の意識は、はっきりしていて居眠りする事もなく、体位変換も指示通りできていた。「今日は、わかりますね」と療法士さんにも判ったようである。

リハを終えて、遅めの昼食を摂った。
今日は、冷やし坦々麺。これが、辛かった。食べている時はあまり感じなかったのだが口の中が少しひりひりした。デザートでお口直しして忘れていた。

それが、入浴の時異変が…。
母が興奮したのだ。刺激の強いものは、時に興奮を与えてしまうので避けていたのだが…。すっかり油断してしまった。
ぬるいお湯なのに 体にかけ湯をしたら「熱い。熱い。」と大騒ぎ。
どう見ても、38度くらいのぬるいお湯なのに…。
そういえば、入浴も今日はいまいち乗らなかった。
あれほど好きなお風呂なのに…。
たくさんかけ湯をして湯になじみ、さらに水を足すパフォーマンスをしてようやく湯船に入って貰った。
歌を歌ったりして、ようやく落ち着いたが…。
それでも「熱いな。早くあがるよ」と言っていた。

少し風を送り、洗髪した髪を乾かし始めたら、少し落ちいてきてほっとした。

風呂上りに、伸びた爪を切った。
「ありがとう」と言われた。これくらいに落ち着けばもう大丈夫。

風呂上りにフルーツを食べ、編み物を途中まで解いた。
解いた糸を巻いて貰っている間に、解いた編み物の目を拾った。
拾い上げて母に渡すと、何事もなかったかのようにまた編み始めた。
今度は「おかちゃん」と言う言葉も出なかった。

棒編みは、ほんとに出来なくなっていたけれど、編み直し後は順調である。
いや、だいぶ手馴れてきており、勘を戻したな…と思える。
技術力等なく、ただ 編むだけなのだが、それでも編み始めたころと比べると良くなってきている。
手で感覚を覚えていて、その感覚が戻りつつあると言うことなのだろう。
こういう、積み重ねで 何かがつながっていけばいいのになといつも思う。
そこまで望むと失望してしまうので、期待はしないが…。

久々に辛いものの刺激を見てしまった。やれやれ。




2003年07月18日(金) メル友だよ

ただ今10時。
家人は、夕食を済ませそれぞれ好きな事をしている。
こんな夜のすごし方は久々である。
娘は、くたびれ果ててベットの中だろう。
夫は、畳に寝転んで洋画を楽しんでいるだろう。
私は、後片付けもすみPCに向かっている。

先日、よくお邪魔するホームページでメル友の事に触れていた。
その方は、ご近所さんとのメル友だった。

数日前、昔からの友人よりファクシミリが入った。
メールアドレスの通知とこちらのアドレスを知らせて欲しいと言う事だった。
ここで、メル友になるとは…。

家のファクシミリは、受信はきれいなのだけれど、送信が汚い。
ガラス面を掃除すればきれいになるのだけれど、以前修理してもらってからガラス面が開けられなくなっているのだ。
しょっちゅう磨く訳ではないので、それに気がつくのが遅くなってしまった。
今更、「おかしいよ」というのも変な時期となってしまい放置しているのである。
ファクシミリとPCを繋げば きれいに送れるのだろうけれど、ソフトが必要みたいである。それが、このPCに組み込まれているのかどうか、わからない。「そのうちに」がずいぶん長くなってしまった。

横道に逸れてしまった。
友人とは、メールという手段で繋がって良かった。
メカ嫌いの友人で、PC導入をきっかけに職場を去った人である。
家にPCがあっても、操作を覚えようともしない友人である。
まさか、携帯を持つとは…。
これで、ホットライン復活である。ちょっと、ほっとしている。
お子様からの命令で持つようになったと言っていた。

一日置きにメールが入る。まだ、打ち込みに時間が掛かるという事らしく急ぎは、ファクシミリで、返事はメールでとなっている。

今日のメールは、子供たちが明日から夏休みに入るというメールだった。
よかったら、こちらに遊びに出してと返事を打った。

さ、来るかな?
もう少し強く 誘いのメールを入れようかな?

いいな、長い夏休みだよ。






2003年07月17日(木) 木曜の訪問再開


 言い訳
実は、昨夜 日記を更新しようとしたら言語バーが消えていた。
capsの表示も出てなく 焦って思考力ゼロ状態。
その前にネットサーフをしていてフリーズしてしまいあちこち触りまくった。
訳もわからない状態なのに…。一度切って再起動させて方がよいのに…。
お馬鹿な私。

それで、今朝 気を取り直して チャレンジ。ようやく再開。
笑ってください。ドジでした。

木曜の利用者さんは、リハ入院していた。
ちょっと、頭の痛い利用者さんである。
周囲は、もう少し 入院リハを続けてほしい所なのだが、「もう退院したい」と希望して在宅に戻った。
一人暮らしで、生活はすき放題なので、在宅ではまた「もとの木阿弥」
いや、今回の入院だって著しい回復はなかった。
生活改善をしなければいけないのだけれど、本人にその意思が不足しているから…。
こちらから見ると、勿体無いのである。
60を超えたばかりなので、これから楽しめる事はいっぱいあると思う。
その方が「いや、入院中 高齢者の人をいっぱい見てきて 自分の行く先がそこかと思うと辛いよ」と言われた。
「だからぁ。前から言っているでしょ。勿体無いって」と思わず言ってしまったけれど…。利用者さんは、そういう言葉は、スルーされるのである。
自分の思いは、積極的に話されるけれど、改善に向けては、今の生活を変える気持ちにならないのだ。
訪問していて、無力感にとらわれてしまうのである。
これは、個人の生き方の問題だから「お手上げ」である。
結局の所、言われたままのサービスをして行くしかないのである。

ま、私も だてに年を取っていないから、着替え等 できる部分では一人でするように仕向けてしまうのだけれど…。
もっと、もっと動かしてあげたい。
例えば 外出。
今は、車椅子を押しての外出である。
室内歩行ができるのだから、痛くてももう少し歩かせたいのである。
こちらは、車椅子を押したほうが短時間ですむし面倒でない。
でも、それは、利用者さんのこれからを考えると良くないのである。
この辺が、とっても難しい。

再開の委託が来た時、もう断ろうかと思った。
でも、確か トラブルばかりで訪問者が嫌がって直ぐ辞めてしまわれたのだった。きっと、私が降りてしまったら代わりはなく次々新しい人が訪問になってしまうだろう。
それを思うと、断り切れなかった。
あー。また、気の重い木曜日が始まってしまった。

活動を終えて、その足で母の所に向かった。
母は、ホールでぼんやりしていた。
居室に入ると、Fさんが母の引き出しやらをごそごそしていた。
まるで、自分のお部屋のように…。
母が折り紙などを紙に包んでしまってあるものも広げてみたり…。
テーブルの上のものに触れたりとしているのである。
当の母は、所在無げにホールである。
少し複雑な気分となった。

いや、仕方のないことだけれど…。
Fさんが楽しめているならそれもいいんだけれど…。

外に出ようとしたら、母のサンダルが下駄箱になかった。
数日前 気がついていたが、そのうち戻るだろうと思っていたが…。
職員に言うと「あっ。わかります。誰が持って言ったか…」と言っていた。
その言葉で、誰かは直ぐ想像がついたけれど…。
これが、散歩から戻っても元には戻っていなかった。
衣類の行方不明もずいぶんある。
母の女物のポロシャツをそれも記名されている物であっても、なぜか男性が着用している事もある。
集団での生活は、こういう事が多い。
少人数であってもこうなのだから大きな施設だともっと、多くなるだろうな。
介護の質が高い施設であっても、全員が安全かつ満足できないと言う所はこの辺から見ても想像できるのである。

母は、多量の水分を欲した。
散歩で お茶や、アイスなどで補充したけれど、戻ってからも「ただの水」を
コップで2杯もがぶがぶ飲んだ。
昼食後どの程度の水分補給が成されたのかな?とふと気になってしまった。

気になりながらも、活動後の疲れた体の自分をカバーするためにスタスタと家路についてしまった。


2003年07月16日(水) 母にして貰ったリハビリ


 先日、友人を迎えに出た時 書店の前で目に止まった物。
それは、「声に出して読みたい日本語」の作者の作った「日本語のプリント」
斎藤氏は、これを痴呆の人に使って貰うなんて考えてもいないだろう。
でも、声に出して読みたい日本語だって 母には活用できた。
本をコピーして母に届けて、時折読んで貰っていた。
日本語のプリントとは、虫食いのことわざを埋めていくものである。
母の時代の人は 慣用句やことわざを暗誦している。
今の会話が成立しなくても、昔に覚えたことだから引き出せればしめたものと思った。

2ページほどコピーして、母にして貰った。
でも、一人では 出来なかった。
そこで、虫食いを完成するまでは 多大なヒント(漢字を書くことを含めて)を与えた。
その後、作り上げたプリントを繰り返し読んでいた。
「出来るかな?」という思いはあったけれど「書き写せるかなぁ?」と白い紙を渡すと考え込みながらも書き写し始めた。
数種類あったので、順番は違っていたけれど なんとか書き写せた。

虫食いを埋めるときには、ひらがなだった所も書き写しをしている間に思い出したようで漢字に書き換えて見たりもしていた。

調子に乗って、少し長い時間をかけすぎた様で母の頭はすっかり疲れたようで「落ち着かない状態」になってしまった。
クリアな状態に戻すために散歩に出た。
小さな飴をひとつ口に運んで。
散歩した事で頭を休めたようで落ち着きを取り戻した。

母の場合 この手の作業は、学校の宿題と思い込んでしまうのが難点である。

痴呆の軽かったころ、娘を相手にことわざや漢字を教えてもらうように仕向けていた。役に立つ喜びが母には出来た。

今の母には少し高度な作業ではある。
「洗濯物を畳んでね」と頼んで見たら自分の座っているクッションとタオルを重ねて畳むような状況の母である。
それでも、まだ、残っている能力は引き出して 出来る限り現状維持を保つ様にしてあげたい。
ひょっとすると、この引き出す作業が 別の能力の回線につながるかも知れない等と希望を持ってみたりもする。

施設からはがきが届いた。
納涼大会があるという。
参加をどうするかただいま考慮中である。



2003年07月15日(火)


 家族を送り出しても、まだ ぼーっとしていた。
友人たちに会って気が緩んだのかもしれない。
緊張の連続から、少し解き放れたように感じた。

洗濯等を済ませてまた、ごろんとしている内に眠ってしまったようである。
その時母の夢をみた。
そういえば、夫は夫で弟の夢を見たと今朝 言っていた。

夢の中の母は、どこかで何かを無銭飲食をしており「私の母です。すみません。代金お支払いします」といっている夢でびっくりして目が覚めた。
こりゃ、寝ている場合じゃないよと飛び起きて母のところに向かった。
母は、やっぱり小さな声で「おかちゃん」と言いながら編み物をしていた。
私を見ると「もう、勉強すんだから帰る」と言った。
それで、面会をお休みしたお詫びも含めて家に連れてきた。
今日は、洗濯物を畳んで貰ったりした。
でも、やっぱり、畳むという動作もかなり難しくなってきた。
タオルを何枚も広げて「寒い?」「暑い?」「どうする?」等と言うのだ。
ハンカチはきれいに畳めた。
パンツもきれいに畳めた。
それでも、母の好きなように畳んでもらい「ありがとう」と言ったら「いいえ」と返ってきた。
「○○ちゃん、かわいいね(母の事)」と言うと「はい。ありがとう」と返ってきた。その後すぐに「『はい』と言う言葉はいい響きですね」と言った。
そうだな。母は、「はい」と言う返事がいつもきれいだ。
これは、私も学ばなければいけないだろう。

入浴後、夕食。
母は、フルーツやらおやつを食べおなかはいっぱいかな?と思った。
でも、ご近所をかなり歩いたのでおなかも空いたのだろう、テーブルに出すとすぐに食べ始めた。今日は、一点食いなどない。
ちゃんと順番にきれいに食べている。
食べ終えて、さらにトマトを勧めると「さっきちゃんと食べましたよ」ときちんと覚えていた。
やはり、しっかりしている時は何を食べたか覚えているのだなと感じた。

「7時までには戻ります」と伝えてあったので間に合うように送っていった。

母に良かれとして貰った事がある。
これは、結果も含めて明日に回そうと思う。


2003年07月14日(月) 友人と歩く


 「朝、夫が出かけてからの起床でいいよ」と言っておいたのにご丁寧に出かける前に起きてきて「ご挨拶」びっくり。
でも、挨拶を済ませてまた、すぐ部屋に戻られた。
それでも、朝食が仕上がる頃にはメイクもばっちりであった。
そこは、見上げた精神である。
最近の私など「生活に追われてまーす」でノーメイクが主流。
髪の毛だって ただ束ねるだけなのである。

娘が起きて来て「母さん やっぱり一番老けてる」だって。
友人は「そんなことないよぉー」とフォローを入れてくれるが実は昨日夫にも
言われたのだった。
こりゃ、心を入れ替え、まずは身を整えることから始めなければいけないかな?

化粧品だってある。今はやりのグロスだって持っている。
でも、役に立てなきゃしょうがないんだよね。
やっぱ「分かっちゃいる」けど 出来ないんだよねぇ。

今日は娘の愛車「はぴすけ」を借りることにした。
すると、友人が娘を駅まで送って行ってくれた。
なんと言うことでしょう。客人をこき使っている家って…。

人ごみの嫌いな友人のために郊外のアウトレットへ連れて行く。
いや、正確には案内する。
運転は友人。
そこで、うろちょろしている内に時間がかなりたってしまった。
家に戻り昼食を摂り電車に乗って移動。
今度は大きな手芸屋さん。
連れて行きたい所はいっぱいあるけれど「あまり歩きたくない」という二
人に満足して貰うにはいく場所も限られてしまう。
手芸屋さんを一回りして飲茶の有名処に出向いた。
そこは、娘のお勧めの場所だった。
普段なら行列になってしまうのだ。
でも、平日の夕方なのでまだ、空きがあった。
友人達は、あまり期待もなく私も期待がなかった。
でも食べてびっくりだった。
汁もたっぷりのこの飲茶。3人で目をぱちくり。
それで、すぐ「追加」を頼んだ。
友人は、ここで初めてお土産を買った。
これ位しか満足してもらえなかったかな?

でも、友人は言った。
「あなたに会いに来たのだからそれだけで大満足」と。
ありがたいお言葉だった。

友人を見送り家に戻った。
おなかは満腹だし…ちょっとつもりで床に寝転んだら其の儘寝てしまった。
夫が帰ってきてちょっと起きたけどまた、寝てしまった。
そして、2時過ぎに娘が帰ってきて、ようやくお布団に入った。

友人たちとの話は、いろいろ あった。
私たちの世代は、親のこと、兄弟間のこと、子供のこと、孫のことサンドされているのでいろいろの立場がある。
そんな話や健康やお花の話など盛りだくさんであった。


2003年07月13日(日) 来客

 昨日は、娘の友人がお泊り。
久しぶりの来訪である。
彼女は、よく母のために塗り絵をファクシミリで送信してくれたりしていた。
娘より年下なのだけれど、妹さんと3人でこちらで暮らしておられる。
3姉妹は、自費でこちらの生活を賄っておられる。
学費だって稼いでいらっしゃる。
彼女は、もう 卒業した身だけれど、妹さんの事を母親のように見守っていらっしゃるのだ。
若い彼女と「見守りは、何処までか…」等と話した事も有るほどである。
でも、ちゃんと、若い人の感覚も持ち合わせており「我が家に寄ったら」とお誘いすると「なんか、いい事有りますか?」と聞いてくる。
「子汚いおばちゃんが一匹いるけれどそれでよかったら」というと おいしいケーキを持参で訪問してきた。

彼女にPCの整理をして貰った。
ウイルス対策もとってもらった。でも、もうひとつのワードが動かないという課題はいくらがんばっても駄目で、インストールしなおしという事になった。

深夜、彼女の携帯に「おばあちゃん危篤」の知らせが入った。
けれど、すでに電車もなく一夜ここで泊まって明日帰る事になった。
彼女のおばあさんは、90歳を超える方で介護保険も使わず元気に過ごされていたというので突然のことでほんとにびっくりなさっていた。

「危篤」の知らせは、伝言になっており実際どうなのかが なかなか 掴めなくてまんじりともせず帰られた。

そして、夕方、ふるさとから高校時代の友人が2人やってきた。
この度は、私に会うだけのためにきてくれるのだ。
新幹線の駅まで迎えに出た。
「夕食は何も作らない事」という取り決めがあった。
顔を見て「どこかで食事する?」と聞くと此の儘家に直行したいというのでデパートでお惣菜を買って家に向かった。
家に着くと帰宅の遅いはずの夫が帰っていた。
慌ててみても始まらず3人分の物を4人で分けて皆で祝杯を挙げた。

一人の友人は、美容院を経営しており母の事もいつも気にかけてふるさとの家に寄って美容院に連れ出してくれたりしていた。
もう一人の友人も娘をつれて帰るたびに、いつもいつも玩具等を買ってくれたりさくらんぼやりんご等の季節の果物を送ってくれていた。
美容士の友人とは、夫も面識があるけれど…。
それだって、何時の事かと思うほど昔のことである。

友人だって初めて会う感覚であった。
それでも和気藹々とすごした。

夫の一言。
「夫婦喧嘩して行き場所がなかったらまっすぐにここに来てください。いつでもいいですよ」だって。
???


2003年07月12日(土) 暑い日の散歩


最近、天気予報で不快指数という単語を聞かないが、私自身の注意力のなさで聞き落としているだけなのだろうか?
昨日も今日も不快指数はかなり高いように思える。
デパートは、涼める所だったが、この所電力危機のための省エネのせいだろうかあまり涼しくない。
今、涼しいのは、コンビ二かドラックストアかな?
でも、母の散歩に使うには少し狭い。
仕方ないので、暑い中エッチラオッチラ歩いて コンビ二やドラックストアに
逃げ込んだ。
気温の変化が大きすぎると体によくないと思うけれど汗を少し引かせたいしなぁ。仕方ないよね。
散歩しながら「しりとり」を試みるが、できない。
聞こえてないせなのか、それとも理解できなくなっているのか…ちょっと掴めない状態である。もしかすると、理解できなくなっているかも知れないな。
少し悲しいけれど そんな気がする。

この8月に2件の同窓会がある。
いずれも、ふるさとでの同窓会である。
ひとつは、小学校のものである。
昨年は、肺炎の後だったので用心のため欠席した。
今年は、担任の先生も出て下さるという事だった。
返事を出さないままいた。
そこに今日、教え子達からの同窓会の案内状が届いた。
教え子達の会は、泊りがけである。
案内状には 目標「出席率90パーセント」と書いてあった。
「うーん」がんばるなあ。
両方とも同じ日だった。
案内状をテーブルの上に置いていたら、夫と娘が「行っておいで。二つ掛け持ってくればいいよ」と言ってくれた。
でもなぁ。
お盆の混雑する時期の移動にいまいち乗らないのである。
気力が足りないかな?
あの混雑に母を連れては無理だろうしなぁ。
夫と娘は皮肉交じりに…。
「ほら、二人の息子さんがいるでしょ。新車でお迎えに来て貰って一緒に帰れば…」と口をそろえて言った。
「ムムムムム」
さて、どうしようかな?


2003年07月11日(金) トラブル勃発か?


 昨日、散歩から戻るとテーブルではAさんが針仕事をしていた。
これは、入所以来 はじめてみる光景である。
「へえー。針仕事もするんだな」鋏も出ていたし…。
Aさんに「雑巾ですか?お上手ですね」と声をかけると「へへへ。こう見えて好きなのよ」とニコニコ顔。
母にも編み物を出してあげて、ソファーで作業してもらった。
と、
「あんたなんか、できないくせに何すんのよ。やれるものならやってみなさい」と大きな声でAさんの怒鳴り声が聞こえた。
見てみるとFさんが「何してるのだろう」と興味深げに雑巾を手にしていたのだった。そこにAさんは、自分の縫っていた物も投げ出してしまっていた。

きっと、自分の仕事の邪魔をされたと思ったのだろう。
自分だけができる人と満足していたのだろう。

言われたFさんは、気がつかない風でマイペース。
だから、大きなトラブルにはならなかった。
これが、気の強い人なら取っ組み合いになる所だろうな…。

職員も直ぐ気が付き、Fさんにできるかな?といった風だった。
「きっと、初めの一針だけ縫って渡せば縫えると思いますよ。母がそうだったから…」というと早速そうなさっていた。
Fさんは 手早く縫い始めた。
Aさんより ずっと早いペースで。
痴呆度は、Fさんのほうが重い。初めの一歩が出ない。
Aさんの方は、言われただけで作業に入れる。
こんな風に、できないように見えても案外できる事ってあると思う。

きっと、Fさんは、入所一年ちょっとで、初めての針仕事になったと思う。

職員の方は、仕事を終えて、しっかり針の点検をしていた。

母はといえば「ソファーで一人の作業は嫌」といい 私の隣に移動してきた。
この辺が「誰にも邪魔されたくない。私の大切な人」という事を裏付ける行動なのだろうか…。 


2003年07月10日(木) 「すごい」と思ったら・・・。


 母は、ホールのソファーで編み物をしていた。
手際もよくもうすぐ一巻きが終わりそうな気配だった。
おとといの夕方からでここまでか…。
一番馬力のあったときは半徹夜でセーター一枚。
そのころと比べれば亀さんの歩みだけれど、この一年からみれば上々だろう。
すかしの入った模様編みをしているようだった。

かなりの集中状態なので、先に居室の整理と掃除をした。
特に物が移動した様子はないが見たこともないハンカチが入っていたので職員にお返しした。母は、自分で持ち込む事はないだろう。
自分の物でも、人の物をお借りしていると思うくらいだから。
職員のまちがいだろう。

一仕事を終えて、母の傍に行き編んでいるものをみた。やはり模様編みだ。
「すごいなあ」と一人感心していていたら…。
な・なんと模様編みではなくて、単に間違って編んでいたのだった。
波模様のように見えていたのは、糸をきつく編んだりゆるく編んだりと編み方一定でないため歪んでいたのだ。
すかし模様に見えたのは、編み落としに過ぎなかった。

私の頭の中では、いつもきれいな模様編みをしている母の姿が焼きついているので模様編みと思い込んでしまったのだろう。
そうだよね、目数だって覚えていられないのだから、できる訳はないな。
でも、作品にならなくてもそうやって集中できるだけでもいいよ。偉い!

そういえば、以前お世話になっていたデイでアルツの方が遠々と鎖編みをしておられた。徘徊のある方だったけれど、編んでいる時は、満足そうにしていらしたなあ。
母は、その時「あの人は、いつも同じにしか編まないんだよ」と不思議そうに言っていたけれど…。「病気だからね」と母には言って置いたけれど…。
今の母は、あの時の方と似たような状況であるのだろう。
6年くらい前のことだから…。やっぱり ゆっくりゆっくり進行しているのだろうな。

編み物を一休みして貰って、霧雨の中 相合傘で散歩に出た。
今日の認知力は高い。めがねのマークをみて「めがねかな?」ドラックストアの看板を見て「あそこは薬?」と言った。
いつものことながら、信号待ちで停車中の車の列を「今日は、なんだかいっぱいの車がいるね」と。
単に停止しているだけなのだけれど、母にはそれが理解できないのだ。
でも、良いとしよう。
車を認知出来、そして、いっぱい並んでいると言えるのだから。

言葉使いすら忘れてしまう病なのだから…。
それを考えれば やっぱりまだ 残っている能力があると言うことだろう。

今日も、田んぼのカルガモ親子を探した。
行った時は、姿が見えなかったが 帰路には姿を見せた。
子供のほうは未だ飛べないのだから、草むらの中に巣がありそこに隠れているのだろう。
そのうち、都心のように道路を横切って川へと戻っていくのかな?
通りすがりの人の話では「除草のために農家の人が放しているのでは…」といっていたけれど…。
どうなのかな?
今度、農家の人に出会ったら聞いて見よう。

適度の疲労感が出たようなので、施設に戻った。

施設内では、珍しくお裁縫をやっていた。
入所以来、初めて見る光景であった。
そこで、トラブル勃発。
長くなるので これは、明日にまわす事に…。


2003年07月09日(水) がんばったゾウさん


 日曜日、造園屋さんにお任せしようと諦めてしまった庭木。

今日、仕切り直しで取り組んだ。
「できない」と諦めてしまう事が、少し情けなかったのだ。
あの、卵びっしり孵化した虫が「もぞもぞ」糸をたれて下がる虫を相手にする事がいやなのだけれど…。
こんな チャレンジ精神が自分にあったなんて驚きである。
(この表現は少しオーバーか?)

朝から脚立を出して、はさみを入れた。
一本の木に3時間はかかったかなぁ。
美しい樹形には、程遠い仕上がりだが…。ま、いいか。
そのうち、葉っぱも出てくるわーーーねっ。

娘だったころ、こんな事をするなんて考えた事もなかった。
いや、木に登るのは 好きだったけれど。
折れやすい杉や檜にだって、登ったし。枝にぶら下がって、川を渡ったりしていた。好き好んでやってはいたけど…。
それだって それは虫のいなくなった季節に限られていた。

剪定している間、虫が背中に入り込むのではないかとひやひやした。
完全武装では あったけれど それでもひやひやとした。

他の木の剪定、落ちた枝や葉や草を片付け終え 時計を見たら7時だった。

比較的涼しい曇り空が がんばる気力を支えてくれたような気がする。
全て終えた訳ではないけれど、ちょっとだけ庭の隅がきれいになった。

話は変わるが…。
母を兄弟が交代で看ていた頃から「看ている人に対して送金する」と兄弟家族間で取り決めをしていた。
一方的に母をこちらに置き去りにされてからも、送金は続いているのだ。
納得できるようなできないような…そんな気分ではあるが…。

その送金が、一人の弟の方からの送金がちょっと止まっていた。
先日の弟の来訪の時に言う事もできたのだが「もし弟が知らない事だとしたら面倒」と思い黙っていた。
月曜日に久しぶりに記帳してみたら、まとめて送金されていた。
「何も言わないでいてよかった」

夕刊続きになるが、今日もちょっと。
作家の吉岡 忍が書いていた。
「自分以外はバカ」の時代と書いてあった。
私もそういう人が、増えているなと感じる。
私たちは、横にいる他者を内側から理解したり、つながって契機を持たないまま日々を送りはじめた。と。

自分の何処かに、そんな気持ちがゼロとは言えない。(バカとは思わないけれど、それに近い感情が湧き上がる時がある)
そうならないように、戒めとしてこの事を頭の隅っこに記憶しておこう。

昨日、施設でFさんが、寝ていた。同室のAさんが「この人、いつも昼は寝ないのに…。聞いても判らなくて、ただ、ニコニコするだけなのよ。どうしてしまったのだろう」と心配していた。
いつもは「ここの人、みんなおかしな人ばかりで嫌になる」とこぼすだけの人なのだけれど…。やっぱり、気になるんだんなあ。







2003年07月08日(火) …無力であれ徒労であれ…


 面会に行こうと思うのだ…。
でも、腰が重い。怠け病の兆候か?

今日は、小雨が降っていた。バスで行こうと思った。
目の前にバスが来ていた。
階段を数段と5.6メートル走れば、バスに乗れた。
運転手さんにも見えていたと思う。
でも、無常にもバスは発車してしまった。
今日は、母のトレーニングパンツを18枚と洗濯した衣類を持っていた。

ちょっと、がっかりしてしまったけど、気を取り直して歩いた。
バスは、遠回りだ。街道を早足で直進すれば、次の信号で出会う。
そう思って、少し早足で歩いた。
いや、バスに乗ろうと思った訳でなく「負けないぞ」と思っただけ。
でも、今日は道が空いていたのだろう。ちょっと早めにバスは信号を左折していってしまった。

でも いいんだ。私の健康のためにも、腰の重い私にやる気を起こすためにも歩いたほうがいいんだから。

母は、珍しくテレビを見ていた。聞こえは悪いはずなのに画面から視線を外さずにいた。こんな日もあるんだな。
だから、手作業が進んでいないのかな?

オムツや衣類を納めて、トイレや床等を拭いた。

今日は、枝豆がお土産。
母を居室に呼んで枝豆を出すと「大好物」と目を細めた。

外を見ると雨が止んでいたので外に連れ出した。
近くの田んぼにカルガモの親子が散歩していた。
以前、親だけを見たけど子供が生まれていたんだ…。こんな所で…。
いや、都会でカルガモのお引越しというニュースを耳にしたけど…。
川だってあるし…。なぜ、こんな所に?という感じがした。
母と二人で、子供の数を数えて楽しんだ。

母の歯磨きが使い終えていたのでドラックストアによった。
ここには、少しの食料品も置いてある。
母は、おなかが空いていたのだろうか?菓子パンを手に取り「おいしそう」
「おいしいかな?」と言った。
こんな事は、滅多にない。
「どれがいい?」と聞いても「いらない」「任せる」と言うばかりなのだ。
だから、買うと言う体験をしてもらおうとパンを母に持ってもらった。
購買意欲をかって、チョコも選んでもらった。
母は、値段を気にしていた。
けれど、残念ながら値段をあらわす数字がどれかは判断できていなかった。
でも、その気力が大切だから「そうそう」と数字を読む母に応答した。

施設に戻り、パンを食べ、施設のおやつのスイカを食べた後、編み物にチャレンジして貰った。

編みかけの物は、また 鈎針を棒針に見立てて目を作っていた。
糸の太さにあった棒針ではないけれど、それでもいいかと思い奥から引っ張り出して母に渡した。

すると、今度は棒針を鈎針に見立てて目を作ろうとしてしまう。
仕方がないので、目を作る動きをして見せた。
これで大丈夫かと思ったが手つきはいいのだけれど運びがわからない様子だった。だから、更に初めの目は作って母に渡したがそれでも思い出せなかった。
こんなに忘れているのかと愕然としたが、気を取り直して目だけは作って上げて母に渡した。今度は編み始めるだろうと思ったら、私とは違うやり方で更に目を作り始めた。
今度はしっかり目を作っている。
もう大丈夫だろうと、傍を離れた。

やはり、傍にいて記憶を引き出してあげないと作業は始められない事が多くなっているのだろう。
暫くは、記憶の引き出しに付き合っていこうと思った。

家に戻って、朝日新聞の夕刊に目を通しているとちょっとした言葉に目が止まった。心の風景というコラムである。
別に介護の事が書いてあったわけではないのだけれど…。
私に 訴えてくるものがあった。
「…無力であれ徒労であれ、『がんばる』しかないか…」
そうなんだ。…しかないんだよねぇーーーー。




2003年07月07日(月) 私の役目は?


 利用者さんを訪問すると「待ってましたよ」という声でお迎えを受けた。
玄関に入った途端、矢継ぎ早に昨日の様子をお話なさった。
どうやら、昨日の日曜、息子さん家族2組と亡くなった娘さんさんのご家族全員が利用者さん宅に集まって「元気になってよかった会」を開かれたらしい。

ひょっとするとご家族は 他の用で集われた可能性もある。
でも、利用者さんは そう信じているのだから 私もそう思うことにした。
ひ孫さんまで集われ、利用者さんは「おでん」を作り後は皆さん持ち寄りだったと言っていた。
利用者さんは、とてもうれしかったご様子で 少し興奮気味だった。

きっと、その事が影響しているのだろうと思うのだが…。
「今日は、食器の入れ替えをしてほしいの」と言われた。
ご家族があちこちに入れたから…という事だったが、きちんと片付いていた。
そんなに多くの食器がある訳でないので直ぐに終わるだろうと思っていた。
それでも、先に洗濯機を回しておいた。

お聞きしながら 順番に 移動させて行ったのだが…。
どうにも腑に落ちない行動が起きた。
先に食器棚を整理して「ありがとう。とっても綺麗になってよかった」と言われたので、カップボードに移った。すると、利用者さんは整理の終えた筈の食器棚をごそごそとまた整理し直す。
カップボードから、日用品棚に移ると今度は食器棚とカップボードを行ったりきたりして食器を移動する。

そういえば、母にもこんな時が有ったなあ。
母の場合は、衣類のたんすだった。
使いやすいように、衣類を種類別に収納してあげると「ありがとう」と言いながらふと見るとまた、ゴチャゴチャに移動させていた。
仕方がないので、毎日使う必要な衣類は、篭を準備して見える所に置いて上げた事があった。
母の行動に「心配性ね」と笑い出しながら後始末をしたものだが…。

利用者さんを笑う事はできない。
成されるままに様子を見守った。

きっと、昨日大勢の方がいらして「あれは何処に行ったかしら?これは、何処かしら?」と探すことが多かったのだろうなあ。
そういう、不自由さを解消したいので整理しかったのだろうな。

整理しているとゴミ等も出てきたのでそれらを分別しながら片付けた。
洗濯物を干すころには、もう 納得成されたようで落ち着いて「帰る時間大丈夫?」と尋ねていらした。
「昼食は、何かお作りしましょうか?」と尋ねると「今日は、おなかいっぱいだから大丈夫」と言う。
確かに、訪問した時はテーブルにご飯があって残りを召し上がっていたから今はお腹が空いていないだろう。
でも、買い物を思い出したらしく「トイレットペーパーを買いたい」と言われた。そこから、「昼食はサンドイッチでも買うわ」と連想できたようだった。

買い物を済ませて、戻った。
でも、よく考えてみるとトイレットペーパーは 2週前に買い足したような気がした。トイレの棚に収めた気がしたので見に行くともう無くなり掛けていた。一人暮らしで、こんなに使うのか…。ちょっと、量が多いかな?
トイレ以外で、使うこともあるのかな?

気になりながらも しばらく様子を見る事にした。

活動報告書を書いていると…。
「誰にも 迷惑をかけないで一人でやって行きたいのです。娘が亡くなってから喪失感はありましたが何とか乗り超えました」
「でもね、この間のような事(軽い脳出血が起きた)があるとね。
あの時「手も足もちゃんとしているのに動けないんだな。言葉も話そうとしても話せない。どうしたんだろう?なぜ、こんなに出来なくなったのだろう?」
と思って悲しくなっていたんですよ」と話された。
それを聞いて、母の急変時の事を思い出した。
母も、やっぱり 同じ思いだったのだろうな。
この方の痴呆は、まだまだ軽いけれど…。母は、もっと痴呆が進んでいるけれど…。
やはり、感じる力はあるのだな…。

今日の訪問は、利用者さんから見れば、棚の整理をしてもらったと思うだろうけれど、活動はやっぱり「見守り」の一語に尽きるような気がする。
私の役目は、やっぱり「見守り」だろうなぁ。






2003年07月06日(日) 虫。虫。虫。なんです。

 暫く前から気になっていたが、葡萄の葉にたくさん穴が開いていた。
虫が食べているだろうとわかっていたけど、お天気と空き時間が合わなくて放り出していた。

メール仲間から「少しの消毒は…。」と言われて その時は少し散布した。
でも、以来其の儘にしていた。

今日なら 日差しもないしいいかなと思って葡萄の木の下に脚立を置いた。
脚立にのぼり 葉をよく見ると毛虫だった。
あまり、得意ではない。
取敢えず「シュシュッ」と消毒したけど卵の付いている葉もあった。
完全防備の服装にして、はさみを持ちパチン、パチンと切った。
めげそうになるけど、誰も替わってくれるわけでもないし…。
「とにかく一つ。また一つ」と自分に心に励ましを入れながら作業した。
あまりに切ると房になった葡萄が傷んでしまうので程よいところで止めた。

隣の木に目をやると、枯れた葉がくっ付いていたので、気になってそれにもはさみを入れた。「ぎゃー」と声を出したくなるほどだった。
枯れた葉の間には、小さな卵がびっしり付いて尚且つ小さな虫がまたまたびっしりだった、一寸離れて木を見上げてみて考え込んでしまった。
「ほらほら、考えていたって何にも変わらないんだよ。ぼんやりしてないの」という母の声が聞こえてくるようだった。
仕方なく、また 作業を始めたけど…。
こればかりは、諦めた。

ベランダの明日葉が枯れているように見えたので行ってみるとここにも虫。
パチンとはさみを入れて切り下ろした。切り口から黄色の汁が出てきて、痛々しかった。モチノキや椿等は、茶毒蛾が付きやすいので見てみるとこっちにも虫。

ため息の連続だった。

途中で諦めて、今年は造園屋さんにお願いしようと思った。
もう少し早めに 手入れすれば ここまでにはならなかっただろう。
庭を回っていると、コガネムシや、蟷螂、オンブバッタ等もいた。

朝に洗った赤紫蘇を放置していた。
なんだか、やる気が起きない。でも、作業しないと土用干しに間に合わなくなる。手袋をつけて一枚一枚葉をもぎ取った。
さらに洗って水を切り、塩で揉んで絞って…。梅酢で揉んで…。

夕方までには何とか終えた。やれやれ。
それにしても、なんと腰が重くなったことだろう。
動き出せばすぐ終えるのに、そこに行くまでの腰の重さ…。やっぱ年のせい?

夫の兄から故郷のお菓子が届いた。
お礼に電話して 暫く お姉さんと話した。
腰の重さを言ったら「私もだよ。これは、怠けと言うより年のせいにしておいたほうが…。ねっ」と笑った。
「そ、もう、年だもん。若くないもん」

あー。夏は虫。蒸し。だなあ…。恐ろしいなあ…。


2003年07月05日(土) 蹴っ飛ばす?


 今日、母を送りののバスの中で奇妙な事が…。
始発のバスで、乗ってすぐ百円を両替機に入れた。
機械が動く音はするけれど、十円玉が出て来ない。
運転手さんが気がついてゴソゴソやってみるけれど一向に動く気配がない。
「すみません。どこまでですか?」と聞かれて行き先を告げると
「席に座って待っていてください」と言われた。
運転手さん あちこちボタンを押してみるけどウンもスンもなかった。
発車時間となりバスは動き出した。
信号待ちのとき運転手さんは無線を使って「故障」をどっかに告げていた。
無線のやり取りは全部客席に聞こえている。
乗客は皆 そ知らぬ顔をしてるけれど 耳はダンボ。
「系統ランプの501.2.3」がついてます。
と、相手から
「あのぉー。ちょっとショックを与えてください」
運転手さんも乗客も「ぎょっ!」
でも、職務上仕方ないのだろう運転手さんは、運転席から立ち上がって出口のステップ側から 思いっきり3回 両替機を蹴飛ばした。
とても、まじめに蹴飛ばした。
乗客は、クスクス笑っていた。
確かに昔のテレビが付かない時ショックを与えれば…というのがあったけれど
今でもそうなのかー。
両替機はそれでもピクリともしなかった。

無線が入ったままの状態で「駄目でーす。代車お願いします。手動で料金受けますが…」
「はい。了解。手動で願います。代車出します」だって。

その後運転手さんは、
「お客様に申し上げます。お分かりと思いますが両替機故障のため 現金利用の方は 両替機の上の雑巾に料金を置いてください」だって。

この所、バスの中での面白い体験が続くなあ。

この所の母はトイレに座っていても失敗する。
今日もパンツを替えたので、処理しようと離れた隙に失敗した。
「もう少し頑張っていてね。直ぐ戻るからね」と断ったのに…。
戻ったら便器とパンツが濡れていた。
出ないと思って立ち上がった時に出たのか?出そうな気がしてトイレじゃないと思って立ち上がったのか?その場にいないのでわからないが…。
失敗は自覚できるようで涙を浮かべていた。
「ニコニコ○○チャン」と声をかけると「べそかき○○」と自分の事を言った。「にこっ」と微笑み返しても手で目を拭いていた。
こういう時は、チャチャッと片付けるに限る。
しばらくすれば、もう すっかり忘れるのだから。

家に行きリハを受け、昼食を摂り、入浴して施設に戻った。

施設に着くころには、安定した笑顔に戻り 編み物を始めた。




2003年07月04日(金) 胃痙攣

 昨夜、娘に軽い夜食を作って寝たのが2時だった。
寝付いて間もないころ 娘の泣き声が聞こえた。
「痛いよう」
「すわっ」と飛び起きた。3時を廻っていた。
どうやら、おなかが痛くて寝付けないようで一人七転八倒していたようだ。

どの辺の痛みかと探っていたらどうやら「胃」のようであった。
私は、医師ではないのではっきりわからないが わが身の経験を重ね合わせて「胃痙攣」だろうと推測した。
胃を背中からととおなかからはさむようにシップしてあげて、温かい飲み物を作った。戻ってみると娘は寝ていた。
でも、気配でまた目覚めた。飲み物を飲み込みたくないと言うしで様子を見ていたがそのうち眠った。
ゴロゴロしながらもなんとか眠ったようだ。
 
夫を送り出してから、娘を起こした。
「休めない状況」のようであった。
これが、母なら「あなたの存在なんて小さなもの。休みなさい」と言っていただろう。その辺が、母と私とは違う。良い悪いの話ではないが。

娘は、返事はすれど起きられない状況だった。
ゴロゴロして何とか起き出して大根おろしとヨーグルトとお茶を口に運ばせた。大根おろしだけは その時食べられなかった。
お風呂に入り、その後会社に連絡して資料を自宅にFAXして貰っていた。
「やっぱ、出て行くようである」
時間を経て、会社にFAXを送り、軽い食事をした。
それから、通院して会社に行った。
医師は、薬を処方してくれた。
「これで、直ると思うけれど…。もう3年目だよね。一度胃カメラを…。忙しいだろうから、そちらの都合の良い日で 調子の良い日且つ休める日を選んで
いいからカメラで検査しておこう」と言われたらしい。
「胃の痛み」は初めてあることは、医師もカルテを見て分かっていたようだった。私も、通院前に、なんとも言えないけれど「カメラ」受けた方がいいよとは言っていた。
「過労」は何処に行ってもも宣告される。
社名を言っただけで「あー」と言われて「休まなければ治らない」と言う医師もいる。でも、それなら素人でも言えるのだ。

薬もらいが面倒と言うので「薬なら何処でも出してもらえるよ」と余計な事を言ったため後で手痛い目にあったようだ。軽率な発言をしてしまった。
「よかれ」と思った事が災いとなってしまった。
こういうのをおせっかいとか余計なお世話と言うのだろう。失敗 失敗。

娘を送り出した後、ようやく梅を漬けて埋めジュースも作った。
遅くなったのは、消毒用の焼酎が近くになくて取り寄せとなったから。
赤紫蘇は、農家の人にとって置いてもらっているので明日取りに行く予定。
赤紫蘇では、紫蘇ジュースも作ろう。

そうそう、仕事が一段落したころにおなかぺこぺこの夫が帰ってきた。
大急ぎで夕食の支度をした。

それにしても、今日は眠い。
明日は、母のリハだ。

中途半端に忙しい日が続くなぁ。
「単発の胃痙攣でよかった」
その娘、まだ 帰宅連絡入らず。日曜は 早々と出勤が決まっているようである。危ういなあ…。



2003年07月03日(木) どうしてなのだろうな?不思議だな?


家族の生活サイクルが違ってきていて、微妙に大変だ。
今日も午前中には母の所に行こうと予定していたが、娘が起きられなくて…。
前日が泊り込みだったので、疲れてもいるだろうと思い放り出せなかった。
結局、早昼ごはんを食べて娘を送ってから出向いた。

母は、ホールで昼食を済ませて嫌気が差したようにテーブルに突っ伏していた。
急ぎ外出届けと面会票に記入してトイレを済ませて施設を出た。
「おかちゃん」という声がやけに多い。
おかちゃんへの便りもなく、編み物もおとといの編みかけのままだった。
昨日一日何をして過ごしていたのだろう…。
家に向かい昨日焼いたスコーン2個とメロンとヨーグルトを食べてもらった。
その後休息して入浴。
今日は、特に大変なこともなく入浴できた。湯に使っている間、ちょっとでも離れると「おかちゃん」と声を出す。あまりに頻繁なので歌ってみた。
歌いだすとちょっと、安定する。

頭を乾かして今度は通院である。
待つ人も少なくすぐに順番がきた。
医師の顔を覚えていて何処となく安心しているのがわかった。
診察を終えて出ようとすると出口がわからず右往左往していた。

今日の母は、こんな風に記憶が不確かであった。
家の前に来ても、どの家に入ればよいのか、判らなくなっていた。
母の記憶が戻るまで、外でしばらく待ったほどである。
嫌がるわけでなく、何処の門をくぐればよいのか迷っているのであった。

「何処か行きたいところある?」と聞くと「おもちゃ等のある所」というので
デパートに寄ってみた。一階のお菓子屋さんのところで「わーっぁ」と声を上げた。「ケーキ食べる?」と聞くと「うん」という。
食べすぎだなと思いながらもそれしか興味がないなら仕方ない。
ちょっと、食べるほうのお手伝いをして調整しながら食べてもらった。

「おかちゃん」と呼ばれる度に「はーい。なーに?」と答えていたらいつの間にか今日は、私が「おかちゃん」になってしまった。
「誰にも邪魔されたくない」と母は言った。
そか、やっぱ寂しいんだなぁーーー。
いつもは、そんな事言わないものね。
埋め合わせできるならそれもよしである。
おかちゃんになったり、いとこになったり、娘だったり あー忙しい事。

デパートを出てバスに乗ったが、離れて座ったせいかちょっとおかしい。
降りるときも出口に止まってしまって「降りるのよ」と声をかけても動かないのだった。
知り合いの方のご主人がそうなって来て…と言われた事を思い出して、混濁がひどくなり始めているかと感じた。
だんだんにそうなって行くのだろう。でも、やっぱり散歩は連れ出したい。
車の運転もそろそろ本格的に始めなければならないかも。

こんな状態の母なのに、よく「おかちゃん」には手紙が書けるなぁと不思議でたまらない。在宅のころから、手紙は組み立てられた文章を写す母だった。
今だって、手紙の文は書かないし、相手の事をきちんと想像できないでいるのがわかる。
それなのに、「おかちゃん」に向けてだけは大丈夫だなんて…。

そういえば、娘が小一の時文の書き方の最初は「かあさんあのね」だった。
やっぱ、人って母親に向けると文が組み立てやすくなるのかも知れない。

少し気分が変わったせいか「おかちゃん」という回数がぐっと減った。
良かった。


2003年07月02日(水) 独り言の羅列

 今日は、一日家ですごした。
梅ジュース、梅干しの下処理をしたり、礼状を初めて絵手紙にしたり、スコーンを焼いたり、ネットサーフをしたり…そんな風で一日が過ぎてしまった。

「人それぞれだな」とこのごろ痛切に感じる。
自分の中で正しいと思える事でも、相手にとってどうなのか…。
相手には相手の考えがあって、それがその人の中で絶対であるなら どうにもならない。こういう事がたくさんある。

母の介護も私の中では最善でも母にとってはどうなのだろうと思う。
いろいろある弟達だけれど、それも向こうには向こうの論理があるだろう。
いずれ、ゆっくり向き合う時があるだろうけれど、今はその時ではないな。
少なくとも、私の中に冷静さが足りない。
距離を置いてゆっくりと。
もしも、解決の道が無かったら、それも仕方が無いだろうと思ってしまう。
あー難しいなぁ。やっぱ、意識の外に置いた方が精神衛生上いいなあ。

特になんという事も無いのだろうけれど、気持ちが沈みこむ。
梅雨のせいにしているけれど、ほんとは違うのだろう。

昨日、嬉しかった事が、たくさんあった。

昼食の見守りだけでも…と母の所に行った。
でも、顔を見て考え直して、近くのおすし屋さんへ行った。
初めて入るお店だった。
回転寿司と同じくらいの値段で、サラダと味噌汁(手作り)が付いていた。
ネタがいい。マグロなんてトロだった。トロもいい物だった。
久々に得した気分。店主に「寿司おいしい」と言ったら「ありがとうございます」と丁寧な言葉が返ってきた。また、機会があれば行ってみたいな。

母に会った後 地域の会に直行。
遅刻はしないけれど到着が10分前となった。
新しい参加者がいらしていた。
T氏がお話をしてくださっていて、準備もして下さっていた。
「ありがとうございまーす」T氏に感謝である。
参加者は10名となった。立ち上げたときは、どうなるかと心配だったけれど
良かった。それに、予告も無く 遠方から、わざわざ応援に寄って下さった方がいらした。これも、嬉しかった。会の事を案じてくれているのだ。
何の報酬も無く身銭を切るボランテアである。ありがとう。

帰路に乗ったバスは、新設のコースを走るバスだった。
ちょっと、遠回りだけど母との散歩に使えるかもと乗車してみた。
バスは貸切。
大きなタクシーに乗った気分。
どうしようと思いながら一番前の席に座った。しばらくは 運転手さんとおしゃべりしながら…。「遠いのにどうも…。高いのにどうも…」だって。
降りるとき運転手さんが囁いた。「普通のコースの料金でいいよ」「えー。だって、悪いよ」というと「好いんだよ」だって。
バス代40円まけてもらった。(イェーイ)

家に戻ったら「生梅」が届いていた。
友人の弟さんが「先祖の供養だから」といつも送ってくれる。
箱を開けると梅の香りがぷんと広がった。
今年もおいしい梅干しを漬けるぞーーーーさん。

と自分の気持ちを高めて、明日はいい日でありますように。





2003年07月01日(火) はなまるだよ お母さん。


 在宅の時からそうだったが、早朝目覚めたり途中で目覚める母は 自室にあるぬいぐるみを会議でもさせるかのように布団の周りに並べていた。
GHに入所してからは、ロッカーの中にぬいぐるみを並べていた。
おそらく 寂しさから逃れるための母なりの気分転換法だろうと思っていた。
面会に出かける時「どうなっているかな」とひそかな楽しみになっていた。
そこから、母様子を探る事もできた。

でも、急変以来 ほとんどぬいぐるみに触れる気配はなくなった。
でも、それに変わるものが 塗り絵であった。

塗り絵を続けていたら「宿題ばっかりでいや」というようになって来ていたので歌詞を書いて置いてきていた。
それを、写せばいいかなと思った。
ところが、これが歌詞を写すよりそこから連想が始まり「おかちゃんへの手紙」を書くようになっていた。

絵も手紙もほんとはここにアップしたいのだけれど PC操作の勉強不足でなかなかできないでいる。

ここの所、その手紙にもなかなか会えなくて「母はどうやって過ごしているのかな?」と気になっていた。
それが今日、テーブルの上に載っていた。
ちょっと意味不明な所もあるけれどニュアンスは伝わってくる。

 おかちゃん
とても なつかしくなってひとりでかわいい
なつかしい皆さまの様子をうかべてみて
関係ある皆様のなつかしい歌声を思い
出して歌をうたって居ります。
自分達でつくった歌に好い加減に節
付けをしてうたって居ます。自分流に
節付けをして歌ってます。

母のテーブルの上には「息子と孫の写真」「教会の友人の写真」が立てかけてある。そこで母は作業をするのだ。
先日、短い歌詞を3つ書いて置いていた。
きっと、その歌を歌っているのだろう。
母は、時折 節を忘れてしまうので自分流という表現なのだろうと思う。
おかちゃんへの便りで心を起こしているんだな、と感じた。
これが、セラピーでもあるだろうと思う。
「上手に気持ちの切り替えができたね。はなまるだねーーー」

今日は、思い出せればいいなと思ってまずは一緒に歌ってきた。
ちょうど雨が降り出したので…。

♪雨が雨が降っている。聞いてごらんよ音がする
 ピチピチ パチャパチャ 音がする
 ほーら お池に降っている金魚はどうしているかしら♪

という歌である。
母は、ちゃんと歌えた。梅雨時の歌だけど暗くないので選んでみた。
だから、歌詞を書いてテーブルの上に置いて来た。
私の書いた歌詞が間違っていたら母は、直しを入れるかも知れない。

元気な頃の母の文字は自信に満ちて大きいものだったけれど、今の母の文字は小さい。
今日は しっかりとした文字のように感じられた。

この作業ができて、ちゃんと残っているのは個室ゆえの事だと思う。
集団だったら、きっと できない様な気がする。








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