母のタイムスリップ日記
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2002年12月31日(火) 今年の日記今年のうちに。

 おせち作りに朝から台所詰め。
あれも、献立表を置いて、確認しながら。
おそらく、10品は作ったかな?

かつお節でだしを取り、昆布でだしを取り、みりんとしょうゆを煮立て、
年越しそばの準備をして、母のところに向かった。
今日は、夫の車でお迎え。
夫は、初めてのGH訪問だ。

母は、ホールにいた。
夫は、母に「家に行こうね。大晦日だよ」と話しかけていた。
早口なので、母は理解できないようだったが、それでも夫の顔を見て喜んでいた。
居室で、衣類を纏めて、支度した。
外出届けも済ませた。
トイレだけは綺麗にお掃除した。

ちょっと、多めに荷物を纏めた。
皆さんに、「良いお年を」と挨拶をして施設を後にした。

買い忘れがあったので、母と買い物。
お店の門松をみて、「間違っているのじゃないか」という母。
大晦日を記憶できない。

足が痛いというので、椅子に座ってもらい目の届く所で急いで買い物を済ませた。
夫は、床屋さん。
帰路はタクシーを使用。

家に着くと直ぐ
縫い物を出して、母に縫ってもらう。
その間に大急ぎで夕食の仕上げ。
久々に夫と母と3人での夕食。(娘は、カウントダウンライブ)

「おいしい」とゆっくり食べたが、やはりポロポロ零す。
以前より食べ零しを気に留めなくなったようだ。
いいような、悪いような・・・。複雑な気持ち。
ま、神経質に気にし過ぎる依りいいのじゃないかと思う事にした。
なんでも、前向きに考えた方がストレスも軽いだろう。

夕食後も縫い物。
でも、「嫌になったな」と言う声と共に溜息が聞こえたので、塗り絵にチェンジ。10時近くになると「家に帰る」が始った。
それは、もうひっきりなし。
久しぶりに母に手紙を書く。
  「今日は大晦日。汽車が混んでいて乗れません。
   娘のうちに泊まっていってください。
   お正月は、いっぱい楽しい遊びをしましょう」
母は、それに時々目をやりながら塗り絵を続けた。
あくびも出てきたので、布団を敷いた。
母の部屋に入ると「あー久しぶりだな。いいなあ。」と言った。

その後入浴。これも、「気持ちいいなあ」と満足。

そして、入眠。パタンキューだった。

久々に母の居る我が家だ。

今年4月から始めた日記ですが、読んでくださって本当に有難うございました。拙い日記ですが これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
来年も、宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎え下さい。

最後に、介護を続けていらっしゃる皆様。
本当にご苦労様です。
暮れも、お正月も。紅白も。それ処ではない毎日と思います。
くじけないで下さい。あなたの介護があるから安らいでいる人が居るのです。
負け無いで下さい。あなたが命を繋いでいるのです。
頑張ってとは言いません。
ご自身の身体を大切に為さってください。
命あってのものです。
私は、応援しか出来ません。
今年、本当にお疲れ様でした。
来年が良い年でありますようにと心よりお祈り致しております。


2002年12月30日(月) ガラス磨き


 ずっと以前 なにかで「ガラスを磨く時は、一箇所に拘るな」と見た記憶があるのだが。
それでも、磨きだすと何となく曇っているような気がしてしまい、幾度も拭いてしまう。
これは、労力の無駄とわかっていてもついつい力んでしまう。
一階二階のガラスを磨いた。トイレ等の小さなガラスは身体をよじるので結構きつかった。
そして、玄関。終ったら、腰に痛みが走った。なった事は無いのだがぎっくり腰の注意信号みたい。やはり、重ねた年は・・・・。

もう、夕方だった。途中、おせちの仕込み等もしていた。
黒豆も程よく黒く煮上がりホット一息。

鍋物で夕食を済ませて、買い物へ。
混雑は、程よく解消されていた。
でも、京にんじん等無くなっている物もあった。
にんじんが無い訳でないから「まっ、いいか」
後 年始の品も買い整えた。

ようやく、作業は終了となった。

それから、恥ずかしいのだが 年賀状を書き上げた。
ここまできたら、元日に書こうとも思ったが 其れはそれで慌ただしくなりそうだった。こんなに遅くなったのは初めてだ。
全て書き終えて、午前二時。

さあ、休もう。明朝、早く賀状を出す事にした。
明日は、朝から、おせちの仕上げ。
そして、夕方には母を迎えに行く。
さて、母はどうして過ごしたのだろう。
「帰る」と騒いだのかなあ。


2002年12月29日(日) お掃除ラストスパート


 朝から掃除突入。
食事もそこそこに家中 走りまくる。
いつも狭いと感じる家なのに、こんな時はどうして広く感じるのだろう?
ブラシセット、雑巾、乾いた布、を持って磨く磨く。
風呂場の床もデッキブラシを使い磨く。すのこも磨く。今年最後。
洗濯機も磨いた。全自動の洗濯機になって、掃除が面倒。
洗濯槽の裏側が自己流に磨けないのがどうにも気分が悪い。
だから、2槽式に拘ったのに押し切られてしまって。
洗濯するのは私なのだし、掃除も私。だから、好きな物にしたかったのに。
ま、今更 悔いてみても始らないか。
トイレも磨いて、今度は廊下。階段。
ここらで、遅めの昼食。
それから、洗面台。棚の中も。それぞれの蛇口も。
今度は、豆類の煮物を始めながら、食器棚のガラス磨き。
もう、右腕、肩甲骨の辺りが痛くなってきた。
そろそろ、夕食の支度。今日は、カレーにした。
ちゃちゃっと作り、とろ火で煮込む。火の傍を離れられないので、ドア等を
磨いた。みると、隅の方がホコリが詰まっている。
爪楊枝を出して穿った。
スイッチ板の汚れも、爪楊枝で穿ってみた。案外綺麗になった。
やはり、一年の累積は・・・。

母が居ない大掃除は、寸断される事もなく出来るが、オーバーワークにもなる。
母が居たからブレーキがかかって丁度良かったのかも知れない。

暗くなる前に、外回りを掃除。取り敢えず、明日の可燃ごみ回収に出さなければ。
夫の帰宅で夕食が始る。
久々のそろっての夕食である。でも、カレーとほうれん草のお浸しとラッキョウ漬けときゅうり漬けでは、ちょっとさびしい。
だから、シナモンホットミルクを足した。
それでも、手抜き感はぬぐえない。フルーツも無しで、次の作業。

ゴミを集める。今年のカレンダーもあまり必要でない処は外して金具を切り離して分別。
気が付くともう零時を廻っていた。
ちょっとお茶して初めての休息。

さあ、今日はこの辺で切り上げよう。
帰宅した夫はどうして居たかって。
そりゃ、疲れて居間でぐーぐーでしたよ。

やっぱり、掃除はここまでかかってしまうなぁ。

母を31日に連れて来るので、其れまでに仕事を終えないとなぁ。


2002年12月28日(土) 年末の内に通院。

 玄関を入ると偶然母がやってきた。
「来てくれたの?」と嬉しそう。
でも、どっかがおかしい。表情かな?
部屋に行こうとしたら、職員に声を掛けられた。
「午前中、掃除しました。雑巾がお部屋にあると思います。」
さーっと見ても無かった。
クリスマスツリーが其の儘となっていたので、片付けた。
洋服も整理して納めた。

着替えを出して、母に着替えてもらう。
通院である。
トイレタイム。みると、トイレの摑まり棒に雑巾が掛けてあった。
干す所が無いのでここにしたようだった。

お茶を飲んで、外出した。
お医者さんは混んでいるだろうと思っていたら空いていた。一人待って直ぐ診察して頂いた。血圧が高かった。200まではないが・・・。
歩いて無いので、ストレスが溜まっているのだろうか?
ついで、足が痛いと言うので鍼治療をして頂く。
母の診察が終った頃よりポツポツと混み始めた。
来月は、誕生月検診を受けようと思うので便検査の容器を戴く。
母は、3月が誕生月だが、年度末の月は2ヶ月前から受けられるようになった。

母を施設に送り 戴いた薬を職員に渡した。
居室に戻って、母の手作業の塗り絵を出した。でも、鉛筆が無い。
職員の方も探してくれたがみつからなかった。
仕方が無いので折り紙を出して折ってもらった。

家の仕事も残っているので施設を後にした。
今日は、風がとても冷たく感じる日だった。

そうだ。
Hさんがいなかった。どうしたのかと職員に聞くと夜間不穏で皆に迷惑を掛けるので、精神病院に入院したのだそうだ。
お正月間近かなのにと思ったら、胸がツーンとしてしまった。
仕方がないとわかっても、やっぱり・・・。
何とかならなかったのかな?


2002年12月27日(金) PCも御用納め?


 今朝、PCを立ち上げようとした。
すると 画面真っ暗。「すわっ。PCが早くも御用納め?何の予告も無く?」
悪い夢を見たような気がして、スイッチを切った。
再度、電源を入れても同じ。(溜息)
「PCに関わっている暇無し」と思い家事を片付けた。
それでも、また 気になりスイッチを入れてみるが変わらず。
「こりゃ、年末も駄目かな?」と思った。
気を取り直して、取り敢えずPCの24時間サポートセンターに電話してみた。
いくら電話しても話中だった。
以前もそうだったなと思い出したが今回は我慢をして何回も電話した。
其のうち ようやく繋がったが、今度は「暫く、このままでお待ち下さい」とテープが繰り返された。切れば、また最初から受付し直しされると言う。
受話器を上げたまま、放置。
ようやく、繋がった。

それから、サポートを受けながらPC操作をした。
結局、OSの再インストールをしてそれでも駄目ならハードの故障という事だった。
CDROMが直ぐ手元に無かったので、電話を切り、ファクシミリで操作手順を送ってもらった。

時間がかかりそうなので、「どうしようと」と迷い施設に母の状態を問い合わせた。
比較的落ち着いており足の痛みも無いようだったので、PCの復旧に取りかかる事にした。そうして、気持ちを落ちつかせて手順に沿って作業を進めた。
初期化させるので、データは消えてしまう。
「仕方ないな」と諦めた。
そして、COROMの読み込みをさせた数秒後、予定された画面は突然に通常の画面に戻った。「???」「何故だ?」
「こんなに早く再インストールされるのか?」と不思議だった。
おそるおそる、スタートアップしてみるとちゃんと動く。
データも消えてない。ホッとしたと同時に「これで本当に大丈夫なのか?」と思った。
再度、サポートセンターに電話して聞いてみたがそちらも「?」だった。
でも、取り敢えず其の儘使ってみてください。おかしくなったら、また連絡下さいという事だったので解決したのだろうと信じるしかない。
御用納めは、短期で済み一安心。
全く、何が起こるか判らないなあ。

夫から、「夕方、お葬式があるので喪服を」と連絡が入った。
暮れも押し迫って大変だなと思いつつ準備して待った。
会社の人が送ってくれたのでお茶を出した。
其の方の母上も施設入所しているので「どうですか?」と尋ねてみると家より状態が悪く刻み食ですっかり痩せて在宅でのお正月は無理という事だった。
不思議な事に此方からの話は理解できても自分の方から話す事は出来なくなっているようだ。と話されていた。
そういう悪化の道もあるのだなとまた学ばされた。
そして、今の母の状態は良い方なのだと再度認識をした。
確か、母より後に痴呆症になった筈だった。
それぞれ、ちがうなぁと感じた。

そんな訳で今日も慌ただしく一日が過ぎてしまった。
明日は何事もなく母の所に行けますように。
通院もして置かなくては・・・。







 


2002年12月26日(木) またまた、ごめんなさーーーーーい。


 目を覚ますと7時20分。
「目覚ましセット」忘れたかと思った。とにかく、スワッと起きてパジャマのまま、階下に降りた。
夫が不機嫌そうにお弁当を詰めていた。
「何回呼んでも無視して・・・。」と怒りモード。
心の声 「あーあの拡声器を使ったような声で何回呼んだのだろう?」
「そんなに疲れているのかい?」
心の声 「むーっ。あなたも休み無しで大変だろうけど、其の分此方も、一人     で日々奮闘しているのだけど・・・」
夫は、朝食も摂らずにご出勤。

後を追うように娘も起きて来て、朝食を摂ってご出勤。
娘は、昨日 有給休暇を取り、ライブへ。帰宅は終電だった。
休日ぐらい早めの帰宅して「手伝い」という行動が取れないものかと私は内心不満タラタラの状態なのだ。
この娘 橋の下で拾ったとしても、育てたのは、私。責任の一端は私にもあるからなぁ。

私の体は相も変わらず「眠い」モードだ。

気を取り直して、洗濯、掃除、後片付けを済ませて訪問先へ向かった。
ボランティア終了後 其の儘、母の所に向かう気持ちにならなかった。
今年 最後の「市」に出向き野菜をたっぷり買い込む。
両手にずっしり白菜、大根、里芋、ごぼう等々を抱え込み家に戻った。
昼食を摂り、時計を見ると2時半。
そこに、税理士さんから電話。「年末調整の書類が 夫の分出てないので準備して欲しい。」 (溜息)
やはり、今日は母の所に行けない。
年末態勢という事で我慢して貰うより無いなぁ。  ごめんなさーい。

と心のうちを吐露してしまった。
昨年までは、母も在宅でもっと大変だったのに、なんとかやれた。
気の緩みか?はたまた 年のせいか?

何と言っても、「寝坊」は私がいけない。

またまた、 ごめんなさーーーーーーーい。



2002年12月25日(水) アー 本当にごめんなさい。


昨日は施設側への疑問が先行してしまった。
それで、補足から。
クリスマス会を準備していただいた事は感謝している。
こういう時がないと、他の家族の方とお会いできる事も無い訳で。
また、入居者の方々が一同に会して解らないながらも楽しい時を過ごせる事
は、瞬間の事ではあっても、程よい心地よさを味わえる訳で。
現に、会が解散した後に皆さんの不穏さは、微塵も無かった。
職員の方が 通常勤務を為さりながら、会の準備を進められた事、
また、入居者と共に準備の買い物を成された事、一人一人に配られたプレゼントも顧慮の後が見られた事等 頭が下がる思いがした。
入居者が開会、閉会の挨拶を為さった事も配慮されたものであった。
また、口紅をつけて戴いた方もいた。
寝たきりの方もいらっしゃるが、其の方も参加できた。
入居者の会場への移動も30分もかかったと言う。
そんな目に見えない準備などに対しても深く感謝しているのである。
と補足をさせて頂く。

さて、続きの話。

我が家での食事の済んだ後、母の腹痛が始った。
トイレ誘導で、ガスが抜け腹痛も治まりかけたがまだ、少し痛むようだった。
と同時に足の痛みも出てきて、俯き加減の母だった。
「どうしようかな?」とひとり心配したが、酷く痛い訳でもなさそうなので
教会へと向かった。
教会までは、タクシーに乗るには近すぎ歩くには少し距離がある微妙な距離。
家族も帰宅していないので、ゆっくりと歩いた。
「教会に行くよ」と言ったので母も了解していたのだが、腹痛と足の痛みで
母の頭は「通院モード」に切り替わってしまった。
「こんな朝早くから開いている病院があるんだねえ」と言った具合だ。
教会の門をくぐっても、其のモードは変わらなかった。
「良くいらっしゃいましたね」と声を掛けてくださっても、
「足の痛いのが治るかしら?」「??」の連続。
それでも、教会の方、牧師夫人は、丁寧に対応してくださった。
聖歌隊のお揃いの服が気になり、「この病院は、なぜ あんな服を着ているのか?」とも聞いてきた。
それでも、礼拝が始ると母の頭もゆっくりと礼拝モードに切り替わっていった。
聖歌隊の方の歌声に自分の声を重ねていた。
小さな声だったので注意もしないで置いた。
説教などは、聴こえなかったようであるが、プログラムなどの印刷物で補っていたようだった。
心配したが、キャンドルサービスまで漕ぎ着け礼拝終了まで無事席を離れることなくすごせた。
礼拝後茶話会があるのだが、そこは遠慮して教会を後にした。

でも、帰路の足に困った。
タクシーは頻繁に通過するのだが一向に止まってくれない。
母の足の痛みは増すばかりだ。
「負んぶしようか?」と言ってみたが「大丈夫」と言う。大分たって、やっと一台のタクシーが止まってくれた。
運転手さんの「大変ですね」の声に癒された。
こんな夜更けに年寄りを連れて歩く自分も良くないし、此方の事情なんて他人には関係ないのだから、仕方が無い。

施設に着いて、居室へ。
トイレ誘導後、着替えた。その後、自然に布団に入った。
施設では、翌日の着替えを枕元に置き灯りを消して居室を出た。

職員に挨拶をして、施設を後にした。

家に戻ると夫が帰宅していた。
冷めたチキンを食べていた。
サラダ等他にもあったが出さないでいた。
こんな風に母に力を向けるとおのずと家族は後回しとなる。
こうならないように、準備を進めてきたのにやっぱりこうなってしまった。
ひたすら、反省のみ。

気を取り直して「ケーキ」でお茶した。

あの、具合の悪い娘が珍しく終電で帰宅。
でも、私は、眠くて眠くて・・・。
とうとう、起きてやれなかった。
またもや、反省。

あー本当に・・・。     ごめんなさい。






 





2002年12月24日(火) イブです。ちょっと!です。

 
 昨日 作りかけたケーキを仕上げ、チキンを焼き、サラダの準備を済ませたが、スープまでは手が廻らなかった。

今日は、施設のクリスマス会。
家族も参加するので是非とも行きたかった。
「家族の了解を得て貰わないと」と言われていた事があったので。

行く先になって娘から「調子が悪い」と電話があった。
風邪かもしれないので医者に行くように言った。「保険証が無くとも会社の診療所なら何とかなると思うよ」とだけ伝えた。
娘の事も気になるがそうもしては要られない。

ちょっと出遅れて着いたら、玄関に鍵がかかっていた。
違うフロアには、コーラスのボランティア。もう一つの部屋は、車椅子の人が移動中だった。「お母様、もう下に集ってますよ」と言われたので行って見たが母はいなかった。職員は、いるつもりになっていた。
するとIさんの娘さんが「今日はお母様にお会いしてないから、まだ部屋かも知れない」という。
其れが、一番正確な情報かもと思い職員に申し出た。
職員と共に母のフロアに行った。鍵を開けて入ると居室で一人塗り絵をしていた。「泣いているかな?」と心配したが大丈夫だった。
でも、これが火災だったらと思ったら「ぞっ」とした。

連絡を取りたいご家族とも2名ほどと連絡が取れOKがとれた。

手作りの料理もでた。
入居者やご家族に聞くと出来る人は入居者もお手伝いしたようだった。
それでも、職員は「私達が作りました」と言った。
いいけど、それに入居者が単独で出来る訳も無いのも解っているけど、せめて
「入居者と力を合わせて作りました。」とか、「お手伝いして貰いました」とかフォローがあってもいいんじゃないかと感じた。
サンタさんからのプレゼントもあった。

それにしても、ま、母や他の入居の食べる事食べる事。
昼食後だったけど、ほんとに良く食べた。

会は一時間半ほどで、済んだ。

でも、施設長は挨拶すらしなかった。後方でじっと様子を見ていただけ。
やはり、おかしい。こういう時は、きちんと挨拶をするべきと思った。
以前のデイ利用の時は、市の職員さんも参加してくれたし、施設理事だって
「ご利用いただき、有難うございます。私達も注意深く介護させていただきます」と言い皆の所を廻った。一人一人に挨拶をしていた。
なんだか、「看てやってる」という感じがした。
確かに、大変な苦労をおかけしているには違いないけど日ごろ感じている疑問がぶり返した。

その後、母を連れて我が家へ来た。
教会のクリスマス礼拝に出かける為。
7時30分からなので、少し時間があった。
家で、食事をした。
と言うのも、家族分の物は少量なので足りなかった。

で、母の様子を見た。
ちょっと食べたそうにして少し食べたが やはり 「お腹いっぱいで もう食べられない」と言った。
この所、家で食事する時食事後であってももりもり食べる事が続いたので、気になっていたのだが、痴呆の加速ではなく空腹だったのだ。
Iさんのご家族も私と同じように感じていた。
Iさんも良く外出なさるが、昼食後であってもよく召し上がるそうだ。
全体的に量が少ないのだな?
確かに、もう年だしそんなに食べる必要などないけれど、昼食を2回食べられると言うのはどう考えても足りないのだ。

長くなってしまった。もっと書きたいことはある。この続きはまた明日。


2002年12月23日(月) イブの準備?

 
 午前中から、台所の棚の掃除をしていた。恥ずかしい話だが、賞味期限のきれた漉し餡とか団子粉とかが出てきた。使い切れずに残ってしまった物だ。
「其の内もう一度」と思いながらとうとう使わないで無駄にしてしまった事を反省した。この反省、毎年しているような気がする。来年こそは言わずに済むように・・・。

夕方前、干し大根を頼んでいた事を思い出し、急ぎ取りに行った。
今年は、2本立て。先に生協に頼んだ「干し大根」で漬けた。今度は、地元の物で漬けてみて食べ比べてみようと思った。
たくさん漬ける訳でなくほんの数本なのだが、やはり 自宅で漬けた方がおいしいように思う。隔年で、購入先を替えても、味を忘れてしまって比較にならないので今年は2本立てにし手見たのだった。

夕食の支度を済ませ、家人を待つ間に、明日のケーキを焼いた。
取り敢えずスポンジさえ作っておけば後はどうにかなるので。
薄力粉にヘーゼルナッツの粉末を加えて焼いてみた。
後半慌てて、手を滑らしてラム酒のビンをお皿の上に落としてしまいラム酒は少量となり皿は割れた。(溜息)
高価な物ではないが、普段使いの気に入った皿だったのだ。
5枚組がとうとう3枚となってしまった。
「慌てる○○○は、貰いが少ない」かぁ。

チキンも下処理を済ませた。

何故 準備を急いだか?
其れは、明日報告。


2002年12月22日(日) さんしち にじゅういち。


 今日は冬至。
これから、少しずつ日が長くなると思うと嬉しい。

日本全国 冬至で 小豆かぼちゃを食べゆず湯につかるんかなあ?

我が家もご多分に漏れず小豆かぼちゃとゆず湯。
早朝から仕込み、母の所にも運んだ。
でも、施設で準備があるなら食べさせなくともよいかな?と思った。

けれど、施設では少なくとも昼食までに小豆かぼちゃは無かった。
それで、母に食べてもらった。
昼食が済んだばかりで食べないかもしれないと思ったが「おいしい」だった。

さらに、入浴はどうかな?と見ていても一向に其の気配なし。
寒いのでどうしようと思ったが「恒例行事だし・・・。」と家に向かった。

今日も、私は昼食前に家を出たので家で昼食。
やっぱり、母も食べた。少しだけと思ったが私と同じ量を食べた。
母は、昼食を食べ、かぼちゃを食べ、更に2度目の昼食。
満腹神経がどうかなってしまったのか?それとも、施設の量が少ないのか?
やはり、食事の時間に訪ねるべきだと思った。

それから、入浴。
湯船に浮かぶゆずを「おみかん いっぱい」と喜んだ。
「幾つあると思う?」と尋ねると暫く眺めて「三七 二十一」と言った。
どうも、7つ数えて、目標をたて3倍にしたようだった。
数えたら、22だったがそれでも、見立てが出来る事に驚いた。
「あったま いい。流石だね」と言うと「そんなこと有りません。私はわからなくなりました」との事。
実は、施設で小豆かぼちゃを食べている時「今日は、12月。日が一番長いのだけど何の日?」と聞いたが判らなかったのだ。
昨年は 判っていたのに。
痴呆がすすんだのか?それとも、刺激のなさからか?

おそらく、在宅の時は 家でも、2箇所のデイでも「冬至」とか「冬」とかの
キーワードは頻繁に出ていたと思う。
帰りのバスの中の会話だって馬鹿にならない。
今は、きっとないと思う。そういう、刺激って磨かないとどんどん磨り減ってしまうような気がする。
其の証拠に、何回も「冬至」の話題を会話に取り入れたら、「冬至」と言っただけで「小豆かぼちゃ」といえるようになったのだ。

やはり、足りない所は、自衛で保護する事は必要だなと思った。





2002年12月21日(土) 屋根裏の品々

朝から、屋根裏に上り整理を始めた。
母の編みかけのセーターやマフラーがあちこちの袋に入っていた。
勿論、私が上げたのだがそれにしてもよく貯まったものだ。
編みかけの物は全て母の目に届かぬようにしなければならず こうなった。
これから、順にほどいて毛糸玉を作って、軍手モップに替えて行くしかないかな?それとも、私が編むかな?

それと母の書いた手紙。
今はもういない母の母にあてた手紙だ。
「おかちゃん。どうか、私を迎えに来てください。私は、お腹が痛くて皆に
迷惑かけています。早く迎えに来て下さい」
母は、辛くなると「家に帰る」と言うので
「忙しくて 送っていけないけどどうする?」と聞くと
「おかちゃんに手紙書く」となるのだった。
そんな手紙が纏まって出てきた。

また、母の作業になればと和服をほどいた物。
後で、パッチワークにでもしようと思っていたが其の儘となった。
1つ2つは、袋物に仕上げてはあるが、・・・。

他にも、手作業用にと手芸材料が出てきた。
母が好まなかったので諦めた物。

まるで、私がタイムスリップしているような感覚になった。
まだ、1年も経ってないのに・・・。

いる物といらない物を選別したが、まだ 終らない。
さあ、今年中に終るかな?
冷え込んでも暖房も取れない屋根裏での一日は寒かった。


2002年12月20日(金) 迷いを振り切って。

友人達からのそれぞれの贈り物に、お返しを送る作業をしていたら、
生協の配送時間が来て、受け取りなどをしていたら遅くなった。
まだ、親戚の分は半分もやってない。そろそろ、腰を上げなくては。

荷物をコンビ二に運んだら「今日は、衣類が多くてね」と言われた。
瞬間「?」となったが、帰省のための衣類と気が付いた。(反応鈍すぎ)
自分に関係なくなるとこうも感じ取れなくものだなと思った。

母を訪ねるには、ちょっと 遅め。
眠いし、休もうかなと思ったが ちょっと気になる事もあり迷いを振り切り
でかけた。

母は、居室内を半べそ状態でウロウロしていた。
職員の人も気は付いていたがお手上げ(?)だったのかな?
私の顔を見て、「お布団敷く」と言った。
「どうしたの?」と聞くと「お腹が痛いの」と涙ポロリ。
「トイレは?」「行きたくない」
「そうお?」「行った方がいいかな?」
「うん。それでも治らなかったら、お医者さんに行こうね」「じゃ、」と
母はトイレに入った。「出ないよ」と言う声が聴こえた。
トイレに入りお腹をマッサージ。子供に排便を促すのと変わらないいつもの
行動だ。
コロンとひとつ。また一つ。暫くかかったが、ようやく全量でたようだった。

職員がおやつを運んで来てくれた気配がした。
トイレを出た母は、おやつを喜んだ。スナック菓子5個程と冷たいお茶。
今日は 寒いのになあ・・・。温かなお茶のほうがベストだけど我儘は言えない。
あっと言う間におやつは消えた。持っていったおやつを足してあげた。
「皆、食べてしまってもいいの?」というので「どうぞ」と声を掛けた。
それも、直ぐになくなった。お腹の痛みは消えたようだ。

今朝、老健勤務の友人と施設の食事とおやつについて話したばかり。
施設では、やはり 慢性的に空腹の傾向がある。
量も少ない。おやつも然り。甘い物も少ない。
これは、母の施設に限った事ではない。相対的には其の量で充分なのだろうが
何となくさびしい。
友人の勤務する所では、手作りのおやつも作り対応しているという。
それでも、足りないのよね。のどに詰らない寒天等多いかな?と言っていた。

他の人には悪いが、私はお菓子を引き出しに忍ばせてくる。
ちょっとしたお菓子。 心寂しい時、お腹が空いた時にと思って。
在宅でも、夜などは枕元に少し置いてあげた。昼は適度におやつタイムした。
それだけで、気持ちが紛れるから。

腐ってはいけないので、それだけは、ゴミ箱、箪笥、引き出し全てチェック。

おやつが済んで、外に出た。
着替えも。どうしても、着用している服が寒そうなのだ。
一人一人の服装までは 手が廻らないのだろう。寒くはないが、けして温かいとは言えない居室で、「長袖の下着。綿セーター。下は、5分パンツに一枚物のスラックス。」其れを、「下着、薄手のコーディロイのシャツ。綿セーター
薄手のカーディガン、下は長下ズボン」を足した。
母も「あったかい。ほっとする。」と言った。ヤレヤレ。

帰り際、鉢植えの観葉植物を動かしていたFさん。
「どうしたの?」と聞くと、「葉が片方だけ向いているからどっちも大丈夫になるように向きを変えている」と言った。

そこは、窓から離れて、光はさほど影響しないし壁の際なのだが・・・。
仕事と発見を求めていたのだなぁー。




2002年12月19日(木) 余暇の興味


昨日の続きから。
母が食事する時、珍しく「私はどれを使うの?」と聞かないで まっしぐらに
自分の箸を選び取った。(拍手ものである)
在宅の時でさえ、わからない時が有ったのに。

認識度が高くなった訳ではないだろう。
施設では、○○さんの箸等となってはいない。

たまたま、出来た事なのだろうとは思うけど、子としては大いに感動してしまう。
瞬間思い出しなのだろうけど、大分あれこれ解らなくなっている事を思うと
やはり、嬉しい事なのだ。

やはり、本人にここで暮らした事の記憶が無いにしても、体のどこかで覚えているのだろう。

この所 施設の人と遊んだりするが、皆に共通するのは遊びである。
「風船やボール遊び」これは、女性 男性問わず遊べる。
それと、やはり昔の話。昔の生活に触れると、にこやかに反応してくれる。

母は、何故、塗り絵や折り紙などをやれるのだろうか?
仕事柄と思っていたが、同じ職業の人も居られるがさして興味をしめさないようだ。
逆に、母はテレビに興味を示さない。
でも、テレビを見る人も居る。
おかしかったのは、水戸黄門を見ていたら、「急に画面が変わった。なぜさっきの画面が出ないのか?」と聞きまくっていた人がいた。
聞かれた人は何を聞かれた解らず「えっ」と言う感じ。
どうやら、CMだったみたいで、また時代劇に戻ったら「良かった。良かった」と喜んでいた。
すると、聞かれた人はようやく気が付き「これだから年寄りは嫌だ」と言っていた。

母も、テレビでも見ていられると良いのだが・・・。
でも、現実とテレビの世界が一緒になってしまうのも困りものだしなぁ。
私が、テレビから遠避けてしまったのかなあ?

それにしても、個々に興味が分散するという事は何が原因するのだろう?
そして、風船等はどうして共通の遊びに成り得るのだろうか?

そのあたり、興味深い。
これが、脳の活性化と繋がらないかなぁ。

冬至が近くなり、日の落ちるのが早くて。
日光が足りないせいだろうか、毎日 眠い。
身体は起きているけど、頭が眠っている。




2002年12月18日(水) 母の選んだカレンダー

 
 今日は、母を家に連れてきた。入浴が目的。
母は、昼食を済ませていた。でも、私は未だだったので 家に着くと昼食の支度をした。
「ちょっと、ご飯食べるね」と言うと 母は「私も食べる」といった。
「?・?・?」でも、母の分も軽く準備して二人で食べた。
二人で残り物の寄せ集めの昼食。
「ご飯がおいしい」と母は言う。次が小さめの金目の焼き魚。白菜鍋。
お肉もおいしいらしい。にんじんとにんじんの葉の味噌炒めは、母には少し
硬いようであまり食べなかった。ブロッコリーとカリフラワーの素揚げはおいしいらしかった。
すべて、少量ずつだが、おいしく食べたようだった。「!!」

こんな残り物で「おいしい」と言ってくれるのは母しかいない。
何と、子孝行な親でしょう。

その後、久しぶりに針仕事をした。
在宅の時に放り投げていた刺し子の続き。これは、楽しいらしくせっせと縫っていた。あまりに楽しそうなので入浴の声をかけにくくなる程だった。

それでも、主目的が入浴なので恐る恐る誘った・
「入るよ」と言ったので即入浴。今日は上機嫌だった。
洗髪を済ませ、頭を乾かして、「おやつ」母は、また食べた。昨日の晩作ったチョコレートケーキ。これも、たくさんは危険なので少し。
やはり、おいしいらしい。「お茶のみたいな」という事でお茶も出した。

そこで、おとといの晩 娘が抱えて帰ったカレンダーの山をみせて、「どれがいい?」と聞いてみた。
母が選んだカレンダーは・・・・・。    寿司のカレンダーだった。
綺麗に盛り付けられたお寿司が月ごとに変わり、最後に握りの数々が別枠である物だ。
「おいしそう」とニコニコ笑顔の母を見ていたら、「私が欲しい」とはいえなくなった。実は私も狙っていたのだった。
きっと、来年は、毎日毎日 「お寿司食べたつもり」の日々を過ごす事になるのではないかと想像した。(笑)毎日お腹いっぱいだったりして・・・。

それにしても、「快」を「快」と言葉でも表情でも現すことの出来る母は、何と幸せか。施設には そういう人ばかりいる訳ではではないのだ。




2002年12月17日(火) 私のラッキーと介護のヒントの得方


 いろいろの方の介護の日記を見ていたりしていると「どうして、こんなに
不平等な保険なのだろう」とつくずく感じてしまう。

そして、私はラッキーが重なってここまで来れたのだと思ってしまう。
在宅で介護をしていた時、とても そう 思えなかったのだが 今 振り返ってみると、やはり ラッキーだったのだ。

母の病が痴呆と軽い病だった事も幸いしている。
また、集中力も足りないけれどそれなりに 持ち合わせている事も。
また、多少の暴言が私や職員に向けられても軽かった事。

痴呆の初期の入り口で出会った介護職の方々も親身に向き合ってくださり、
今でも母の事を心に掛けて下さる。
職員の方も私のやり方を否定せずに向き合ってくださった事も。
また、これから先に向かって、いろいろ 準備も必要であることもヒントを
くださった。
介保導入の時もヒントを下さった。不足を補わなければならない事態も想定しておく必要のあることもヒントがあった。

介護しながら、先の見通しを計ることは 容易ではない。
でも、先の為の心の準備とサービス利用は 感情のみにのめりこむことなく決めていかなくてはならない事なのだと思う。

見極めていく為のヒントはボランティア活動で身についてきたと思う。
何を好き好んでと思われる人も居られるが、お金を出しても人は けして見せてはくれない世界だ。 人様の貴重な体験を活かさなくては申し訳ない。
そして何より、ボランティア活動だって私が積極的に関わった訳でなく人様から言われてから、腰を上げたのだ。

介護のヒントはおそらくあちこちにあるのだ。
人様の話を聞く事だってそうだ。

母は、まだ、施設だけどこの先在宅に戻る為にもアンテナをあげ、ヒントを
かき集めることは止められない。
また、自分の老い先の為にもきっと役に立つ筈だ。
ラッキーが、そこまで続いていくとも思えないからなぁ。

だから、介護保険の不平等も声を上げて 拾い挙げてもらうようにしなくてはならないなぁ。



2002年12月16日(月) 人の話を聞いて。


 今日は家族の会の日だった。
集った方のお話を伺いながら、「あーそんな事あったな」と思う時がある。

きっと、実際の所は違う事が原因なのかも知れないし、起こっている事も違う次元の話かもしれない。

例えば、自分がした事なのに「してない」と否定する事。

母は、大抵自分の作品を人の作品と思ってしまう。
其の出来に関係するかと見ていると、そうばかりでもない。
編み掛けで、自分で嫌になり投げ出したいたものをテーブルに載せて置くと
「私が編んでいたのに誰かが編んでメチャメチャにした」と怒る。
かとおもうと、同じように編み掛けの作品でも、「まあ、上手に編んでいるね
やっぱり××ちゃんは違う。何でもよく出来るね」と言ったりする。

編み物ばかりではない、絵だって、縫い物だって、同じような事だ。
悪意はないと判るが、時として介護者の忍耐を強いられる場面だ。

でも、間違わない事もある。
それは、自分の書いた文字。記名が無くとも自分の文字と認識できるのだ。
これは、母だけの事だろうか?

「痴呆の予防は出来ないか?」という話にもなった。
痴呆になった自分を想像するのは怖い。だから、なんとかならないか?と思うのも無理の無い話だ。
痴呆は、遺伝である場合もあるのだから そうなると もっと 現実味を帯びてくる。
今の痴呆は、進行をスローにはできても治ることはない。
あまり恐れるとストレスとなって其れはそれで、別の病を引き起こす事になってしまう。
医師は「これから、確実に直る」と励ましていた。
是非とも そうなって欲しいと思う。

夜、故郷の友人に電話した。お礼の電話であったのだが。
友人の兄弟がガンに侵されている。夏に「後、数か月」と言われていたので気になっていた。
また、別の知り合いの母上も人工肛門で悩まれていた。
袋を付ければ皮膚炎を起こし、洗浄すると気分が悪くなって、状態も悪くなるらしい。
双方とも、医師と看護士と細かく相談の上、薬を替えたり、肛門の袋で皮膚炎を起こさない物に替えたりと対応した所、状態が改善されたと言う。
驚きは、ガンが小さくなったという事だった。
確かに、現在のがん治療はかなり良くなってきていると聞いている。

痴呆も、こんな風に直る日が早く来て欲しいと思う。





2002年12月15日(日) お腹と足の痛み。


母の姿がホールになかった。
居室を覗くと布団が敷いてあった。
「お腹が痛いのだな。」と察した。職員の人は「足が痛いといってます」と。
暫く様子を見ていたら「おかあちゃん。」と大粒の涙をポロポロ零していた。
声を掛けても心までは届かない状態だった。

トイレに誘ってみた。いきみながらも「痛いよう。お母ちゃん」だったが、
ポロリと硬い物が落ちた。便秘だった。お腹をマッサージして更に少し出た。
でも、それ以上は無理をさせるのを止めた。
「便秘だね。ほら。」と見てもらったが、其の時は納得しても直ぐに忘れ 又
「痛いよう」と泣いた。

何回か便秘だね、痛いねと同意しながら過ごし「水を飲んでみよう」と言葉を
かえた。「うん」と言ったので急いで水を準備した。ついでに、「大学芋が有けど食べる?」と聞いた。
母は直ぐに「うん」と頷き水を飲み、芋を食べ始めた。「おいしい」と次々に食べていった。
昼食の量を職員に聞くと「全量摂取」との事だった。
便は少しずつ、断続的に出ているようで、下着も汚れていた。
私の分を残そうと気付かいながらも全量食べた。お水もしっかり飲んだ。
其の頃には、もう腹痛は消えた。
感じた通り排便の為の痛みだったようだ。

それから、散歩に出た。
足が痛むようだったが、「大丈夫。歩けるよ」と母は言った。
でも、だんだん痛みは強くなる様子なので何回か座りながら歩いた。
近くの薬局に入った。店の中を歩くのは大変そうだったので、壁際に待たせたのだが、目を離した数分の間に 母は床に両手を付いて四つんばいになっていた。周囲の人は「どうしたのか?」と訝った。
仕方が無いので、レジの方に包み台に腰を掛けさせた。
その間に大急ぎで買い物をして、ゆっくり休みながらホームに戻った。

出かける時には「行ってきます」と挨拶したが帰りはやっぱり「ただいま」とは言わなかった。

今日は、足もお腹も痛くて 母にとっては散々な日だったかもしれない。

痛みのある時は、「なぜ痛いか」を説明すると状況を把握しようとしていた母なのだが、今日は其の説明すら忘れてしまうと言う追い込まれた状態だった。

私にとっては母のこういう状態は見慣れていて日常の一齣に過ぎないのであるが、職員の方は少しハラハラ為さる様子だった。


2002年12月14日(土) 夫婦。親子。



 今日、TBS ラジオの土曜ワイドに三波春夫さんの娘さんと永六輔さんの会話に興味を覚えた。
永氏は、ガンになった奥様を見送られたばかり。三波さんの娘さんは、お父様を見送られた。
ガンの告知の時、永氏は、お嬢さんと相談なさったらしい。三波さんの娘さんは、マネジャーとして直接お話されたと言う。
皆がそうだとは言えないが、夫婦と親子では情が違うと思った。
三波さんの娘さんは、結婚なさっておられるが自分の夫だったらきっと言えないと思うとも言われた。

介護にも同じような事が言えるような気がする。
夫婦間での介護と親子間での介護では、情の上で複雑な思いが絡むのは夫婦間
の方ではないかと思う。きっと、そこには、深い愛があるからだと思う。


 入所して以来、母の出来る事、出来ない事の把握が難しくなりつつある。
本当に出来ないのか?経験しなくなったから出来ないのか?毎日の生活がどのようなものであるのか?
最終的には、痴呆が何処まで進んだのか?という事までの把握が難しい。

例えば、デイなら連絡帳の行き来でデイで出来る事、出来た事。其の反応まで
私が傍に居なくとも把握できた。
家でで出来なくともデイで出来ていれば未だ大丈夫となる。其の逆もある。
そうして、総合的に判断が出来た。

けれど、今は断片的な情報しか入らないし、生活の一部分から推し測るしかないのだ。
施設に預けたのだから施設にお任せするのが筋なのだろうか?

施設からのお知らせなんかがあったらいいな。
デイは、月のお知らせで行事なども確認できたのに。

今朝、本気で「ホーム便り」でも作ってみようかな?と思った。
どうだろう?嫌な顔されるかな?他の家族は迷惑かな?内部だけならよさそうな気もするのだが・・・。


2002年12月13日(金) 盛りだくさんの一日。


 今日は、歯科予約の日。
母を迎えに行き、通院。先日の入れ歯の事。
下の歯の歯が抜けて、とうとう 「はなしか」となった。
先日は、抜けた所を埋めて貰った。

歯科医によると、そう入れ歯になると、入れ歯の状態が合わないので作り変える必要があるそうだ。
「様子を見てきめよう」となっていたが、特に不便もなさそうだった。
だから、シリコンを入れて調整することにした。

歯科も終えて、家に戻った。
昼ごはんは、家で食べた。「おいしい。おいしい。」と食べた。
母は、確かに「おいしい」と言うがこんなに連発はしなかった。
施設ではどうなのだろう?

食事を済ませて、入浴。「あー気持ちよい」と満足げ。
洗髪時には、気がもめるようで「もう、いい」を繰り返した。
でも、濯いでも濯いでも髪が抜けて、大分かかってしまった。

それから、クリスマスカードの宛名を書き、ついで年賀状を書いてもらった。
一枚書いて貰い、後はコピーを取り印刷予定。
母の直筆を思わせるのが一番だから。
全部、手書きだと大変なので・・・。

母は「疲れた疲れた」と言った。
それで、戻る事にした。

帰り道、「転ばないでね」と声がけしていたら、私のほうがつまずいてしまった。母は、すかさず「ひとに注意するより、自分の事を」と言った。
「そうだねえ。人に言ってる場合じゃないね」

もう、二人で大笑いをしてしまった。

施設の玄関まで着いたら、「ここは、どこ?」だった。
朝、施設を出てから5.6時間のものなのに。

「みたことない?」と訪ねたら、「あるある」だって。




2002年12月12日(木) お正月 気になります。


 一昨日、母の頭が少し臭った。
寒いのでにゅうよくしてないかな?と思った。
だから、今日は家に連れてきてお風呂に入れようと思っていた。
風呂掃除を済ませ、お湯を沸かした。

母の所に行くと入浴中だった。ま、いいか。予定変更。

風呂上りまで居室の整理。持って行った洗濯物を収納した。
ゴミを集め(ティッシュ等)洗面具(タオル、歯ブラシ等)定位置に戻す。
トイレや洗面台の掃除。ハンカチ洗い。等をして待つ。

風呂から上がってきた母にクリスマスカードを記入して貰った。
カードと文章は此方で準備した。
母は、カードに書き込んでいくだけ。文章の組み立てが出来なくなっている。

書き出した文字を見て驚いた。
かなり、バランスを欠く。病の進行なら仕方ないが、でも、施設にいて字を書く回数が激減しているからな。
これは、対策を考えなくてはならない。

在宅では、デイの時習字をしていた。
それと、戴いた手紙には返事を書いた。
ここの施設で、習字や文字を書いているところを見たことが無い。

でも、何とか3つのカードを書き上げた。
いつもなら、住所も書いてもらうのだが今日は止めた。
カードだけで充分時間がかかってしまった。

「お正月は、食事は2回で間食を多くする」と職員は言っていた。
エーと思ったが仕方ない事かな?
でも、納得できずに夫に言った。夫も「えーっ」だった。
他所様の事は知らないが、皆さんそうなのだろうか?

元日は 朝お雑煮。昼焼き餅。夜ご飯。と言うのが我が家の定番。
勿論、おせちも食べるし・・・。
間には、甘いお菓子も。

祝日の勤務体系かと思ったがそういうわけでもないらしい。
施設のお正月ってこんなものかな?
母は、家に連れてくるからいいけど、他の人はどうなるのだろうか?

ちょっと、気になった。
 


2002年12月11日(水) 集中力。

 昨日、職員の人との話で母の一齣を見たような気がした。
先日持っていた「塗り絵」の事。
あれから、ずっと塗り絵を続けたらしい。
夕食の時間になっても「食べません」と言って続けたらしい。
「ご飯が済んでからまたしましょう」とお盆に道具を載せて見えるところに
置いてくれたらしい。
夕食を取り、その後また続きをしたという事だった。

在宅の時もそういう事が度々あった。
私は、見えるところに置かなかった。でも、止める時には「ご飯だからまた後でね」と声を掛けた。

母は、作業に集中する時は2パターンある。
一つは、面白くて止められない。もう一つは、宿題と思い込んでしまう時。
宿題と思い込んだ時が大変になる。
「これ、終らせないと叱られる」ともうパニックに陥ってしまう。
そういう時はデイで細かな作業が続いている時が多かった。
だから、「宿題はないって、電話が来たよ」と対応した。
すると、少し落ち着き手を休めた。

楽しんで作業できるのは善いのだが、有りもしない宿題で追い詰められるなんて・・・。といつも思った。
宿題って、過酷だなあ。痴呆になっても悩むなんて。

母は、やはり仕事のないことを嫌うようだ。
「何かすること在りませんか?」と施設でも尋ねるようだ。
家でもそうだった。
「ぼんやり」とすることが嫌いなのである。
私は、ぼんやりも好きだが、母からよく注意された。
でも、母は自分の好きなことに集中して家事を私によく依頼した。

親子でもやっぱり違うなあ。
私は、家事優先。母は、仕事や好きな事優先。

相変わらず、集中力を持っているのだと何処かで安心した。
でも、色の組み合わせや塗り方が一頃より落ちてきているようだ。
落ち着いて作業できれば元に戻るかな?
その辺様子を見ないとわからないな。


2002年12月10日(火) あー買ってしまった。

 昨日の雪かきで腕が痛む。
日を置いて痛みが増すのが年を取った証拠らしいが、今日痛むという事は
若いかな?と一人でニヤリとする。
今朝の冷え込みは大したことも無く 雪も降らなかったので凍結は無かった。
それより、除雪しない所の雪が消えていた。 昨日の苦労は・・・。

母を訪ねた。昼下がり みんな ぼんやりしていた。
Hさんは、眠いのかソファーでコクリコクリ。I氏は、テーブルに突っ伏して
寝ていた。

母に着替えてもらい外出。
少し足が痛いようだったが、先日ほどではなかった。
久し振りにデパートにでかけた。
ウィンドーショッピング。
食器を見ていたら、以前お世話になった老健の職員さんが母に声掛けされた。
私はよく知らなくて、母もあまり覚えていないようだった。
それでも、その方は、「お元気で何よりです」と言ってくれた。

3時近くなり、デパート内の混んでない店に入りケーキセットを頼む。
「団子でもいいよ」と言っていたがケーキが出るとニコニコして食べた。
お茶に砂糖をたっぷり入れた。
全て食べ終えても、未だお腹が空いていたのか砂糖つぼとミルクを取ろうとした。「これもご馳走?」「違うよ」と言って私のほうにそれらを寄せた。
長居は無用とばかりに早々に店を出た。
客は私達ばかりだったが。

それから、催事場の前を通った。お歳暮ばかりと思っていたら和服のコーナー
があった。母は、「いいねぇ」と赤っぽい紡ぎの着物を手に取った。
「そうだ、お正月に着物を着せる」と言っていたな。
母の物は、故郷に置いてあるし、私は和服など縁が無いからなぁ。
今更、「送って」というのもなぁ。
あれっきり、向こうから音沙汰もないし。
暫く考え込んでいると、お向かいの奥さんが通りかかった。
「あら、素敵ね。お母様もお元気そうで」と声を掛けてくれた。
これで決まった。「えいっ」とばかりに決めた。
ついでに、帯と帯締めを。
でも、帯と帯締めは家にあったのだった。ちょっと失敗。でも愛嬌だね。
「いいよ、お正月だものね。」「それに色も合わないし。」
肌襦袢やおこしは、後日か知り合いに当たってみよう。

しばらくあちこち眺めていたら母の顔が険しくなった。どうやら足がまた
痛み始めたようだ。急いでホームに戻った。

ホームで責任者の人と話す。
其れによると、あの通院後(鍼治療)足の痛みはピタッと治まったと言う。
いつも、そうである。やはり、鍼治療は母に効くのだ。
でも、今日は、少し痛がった。
暫く様子を見て通院させようかな?


2002年12月09日(月) ぶるっ。


 窓を開けるとそこは雪国だった。
思わず、「さぶーい」
母も見ているだろうか?この景色。

母は、雪景色の時まず「わーっ」と驚く。「外は寒いね」と言う。
「これだと、今日は帰れないね」
「きれいだなー」の順に話していく。

きっと、今日もそうかなあ。

皆を送り出した後、浴室の掃除をはじめた。
カビ取りが目的。天井に付いたカビが少し目立ち始めた。
踏み台に乗り思い切り腕を挙げて拭き始めた。
上から順に掃除した。
タイルの目地、サッシのゴム?の所等次々に目に付いてくる。
普段 掃除しているつもりでも やはり 抜けているのだろう。
私は、丸く掃除するのが大得意なのだからこうなるのも頷ける。

終える頃には、昼過ぎとなり ラジオを聴きながら遅い昼食。
雪情報が頻繁に流れる。
「今夜も雪」と聞いて、門前だけしか雪かきしてない事が気になった。
凍結しては困るので、慌てて雪かき。
音でご近所さんも出てきて力をあわせて除雪。
家の中に戻ったら もう3時半を過ぎていた。
「これから、バスを乗り継いで出かけると4時を過ぎてしまう。」
と思い今日は母のところはお休みにした。

母は、寒くないかなと気になった。
雪が降るとバスは遅れたり、間引かれたり、渋滞したりで何かと不便。
やはり、歩きが一番かなあ?




2002年12月08日(日) 此の頃思うこと


 母の所に行く事、入居者と遊びに興じる事、そういった一つ一つの行為が
私の自己満足の為だなあと 最近 富に感じる。

でも、きっと、面会の回数を減らしたり、入居者の方との遊びを止めて自分だけの為時間を過してしまったら虚しくなってしまいそうな気がする。

人のために何かの形で役に立つ事で今の自分が存在しているように思う。
勿論、長い目で見て 自分の老いて行く先を知り、そこを整備して行きたいとも思っているのだが・・・。

それでも、役に立つ行為というのは、人に依っては大いに迷惑という事もあるので、その辺の判断が微妙である。

その辺の事をしっかり自覚しながら過ごさなければと思う。

12月に入り、少しずつお掃除を始めた。
昨日は、居間。
天井のすす払いから始めた。上から順にだ。
電気のかさが一仕事だった。大きいので、かさを外す事に苦労する。
ちょっとした弾みでグローランプが外れて割れてしまった。
怪我もせず、かさも壊れずなので良かったが・・・。

我が家では、大掃除も私一人の作業である。

私の育った家では、皆で分担した。
手伝うのが当たり前だったし、陣頭指揮は父がとった。

でも、仕事で忙しい夫にそれも出来ず、ついつい 善意で動き始めた結果、
私一人でする事が当たり前のことになってしまった。

さあ、これから 一部屋ずつ掃除して行かなければ・・・。
窓ガラスを磨くタイミングを計りながら。






2002年12月07日(土) 汗をかく。


 昨日の軍手の掃除モップと紙風船ときいちの塗り絵のコピーと朝はどこからの歌詞カードのコピーを手土産にでかけた。

施設では、職員さんがモールの飾り付けをしていた。
入居者は、何が始るのかとみていた。見てない人も居たけど。

母の部屋をさっと見て簡単に整理。

後は、職員の人の飾り付けを見たりちょっと手伝ったりした。
おちゃをのんでいるいる人も居た。嚥下の心配のある人も居たので、カバーに廻った。
F氏は、甘い物が好きらしい。お茶もちょっと砂糖入り。
スプーンで介助していたが、どんどん飲むのでなくなった。職員の方に尋ねてからとろみで無いお茶をあげた。
F氏は、切り替わった時は気が付かなかった。
暫くして、不機嫌になった。どうやら甘くない事に気が付いたようだった。「ごめんね」と誤りながら、追加分のお茶も飲み終えた。

F氏は、話が文にならない。聞く側が推測する必要がある。
どういう事かというと、「ご飯があったのですよってね。」といったら、大体
の所、何か食べたいというメッセージのようだ。
そんな風に「お腹が空いた」と直接的でないのだ。

話をしている所にF氏のご家族が面会に見えたので身を引く。

それから、塗り絵を出した。
懐かしがってはくれたが、母以外の人は塗る作業にはなかなか手が出なかった。
だから、紙風船を出して遊んだ。
O氏、I氏、Iさん、Fさんと。
これは、みんな乗ってくれた。退屈そうにしているので嫌がるかなと思った。
でも、嫌がる風も無く遊んだ。
驚きは、O氏。
O氏は、左麻痺があるのだが、右手が風船を受けるほど反射反応があるのか判らなかった。でも、どんな形で行っても、手の届く限りきっちりと返してきたのだ。
一時間近く紙風船で遊んだ。途中「疲れない?」と尋ねても誰もギブアップは
しなかった。
みんな、「あつい」と上着を脱いでいった。

で、母は其の間中、ずっと、塗り絵を続けていた。
周囲が、「キャッキャッ」と騒いでもわき目も振らずに塗り絵に集中。

母も紙風船遊びは好きなのだが、今日は、塗り絵が良かったのだろう。

職員の引継ぎも済んだ様で、夕食の配膳が始ったので帰宅した。

母とだけ遊ぶ事はなかったなあ。
軍手のモップは出せなかった。この次だなあ。







2002年12月06日(金) 作業のヒント。


 今日は、友人の勤務する福祉施設のバザーに出向いた。
毎年、母と共に出かけていたのだ。
でも、昨日の様子だと無理なので、一人で行った。

そこに行くと、手作りの作品を買い求めてくる。
とても味のある作品ばかりだ。
今日も、陶器を2点。
クリスマスカード、軍手モップ。等を買った。

実は、そこで、母の作業のヒントを戴いてくる。
今回は、軍手モップ。
毛糸のボンボン崩れをたくさん作り、軍手に縫い付けて出来上がり。
ボンボン崩れの方で、台等を拭くと「あっ、きれい」となる物。

毛糸のボンボンを作るのは、今の母には少し難しくなって来ている。
糸の量をつかめないのと、ボンボンにする時の糸の刈り込みが出来なくなりつつあるからだ。
でも、これなら、丸くしなくても良いので出来そうだ。

糸は山ほど戴いてあるので何とかなるでしょう。

出来るだろうと予測して駄目だった物もある。
それは、織物。
少しは、経験があるだろうと思って、小さな織り機を買った事がある。
ところが、これがなかなかうまく行かず失敗。

今は、押入れの奥で眠っている。これから、私が挑戦しようと思って取ってあるのだ。知り合いに糸を自分で染めて織り上げる人がいるので何れ教えてもらおうと予約している。
「やれば簡単よ」と言われるが、そうはいっても、私に出来るか?とも思う。
先の楽しみでもある。

さあ、明日は母の所に持って行き反応を見よう。
きっと、「これなら出来そう」と母は言うだろうな。
実際は、作ってみないと判らないのだが・・・。


2002年12月05日(木) 通院のために・・・・。

出先からまっすぐ母の所に向かった。昼抜きだった。
散歩して、話してそれから昼食を摂るつもりだった。
母はとうに済んでいる筈だった。

母は、畳に横になって泣いていた。
どうやら、足が痛むようだった。介護士さんによると「痛みを和らげる薬を塗布して居室で休ませている。」という事だった。
心理的な痛みかどうか、我慢できる痛みかどうか、判断がつかなかった。
トイレに誘導して、散歩に出る準備をした。

トイレから、「おかあちゃーん。痛いよう。」と泣く声が聴こえた。
介護士さんは、「待ち人がやっと来て良かったね」と言った。「????」
「私、一日おきに訪ねているのだけど」と思ったがいい意味に受け止めようと思った。

早々に外に出たが、どうもいつもと様子が違う。
打ち身の痛さとも違うようだ。
散歩せず、かかり付けの医師を訪ねた。
ちょっと、混んでいたが、仕方ない。じっと、座っていると痛みは感じないようで「腹が痛い」等とのたまった。「????」
一昨日通院したばかりなので、「何処が悪いの?」と受付で聞かれ「足みたいです」と応じた。
順番が来た。「おー。まず、血圧測ろうね。」母は、机の花を見て「きれい」
と言った。「おー。××(母の名)さんみたいにね」と医師。
母は「お上手ですねえ」と笑った。
見た限りではなんでもない様子。
でも、歩き方がおかしく痛くて泣き出すので・・・。と説明した。

暫くあちこち見ていたが、針を打ってみましょうとなった。
ここの先生は、針治療も保険内でしてくれる内科・外科医である。
15分ほどかけて終了。
少し楽になったみたい。「帯状疱疹」的な痛がりようだったが、少し治まったみたいだった。ホット一息。

そういう訳で、通院のため私の昼食は抜きとなった。


2002年12月04日(水) ライトアップ。


また始った。
書き上げる直前に消えてしまう「あれ」
「マイクロソフト社に報告しますか?」という「あれ」
どうにも、書く意欲が喪失してしまう。

気を取り直して再度書き込む。

施設のライトアップが始った。
日が暮れるのが早いので、今はとても綺麗。
外から、施設とは判らないのでアパートのライトアップに見えるかも。

ライトアップといえば、娘が「中年のおばさんは、ライトアップにどうしてあんなに盛り上がるのか?」と疑問を呈してきた。
きっかけは、故郷の友人がライトアップの確認をしてきたから。
どうやら、見物に来るらしい。
昨年暮れ、娘は観覧車で中年の女性と同乗したらしい。見ず知らずの人。
その人が、ライトアップされた事にとても興奮したらしい。

私はといえば、わざわざ、見に出かける事も無い。
でも、遠い町の灯に感動する事はある。
町の明かりはそれぞれの生活を意味しており、そこで営まれる風景をいろいろ
考えてみたりする。哀しい事も、嬉しい事も含めた灯りだと思うと其のきらめきにも意味があるように感じたりするのだ。

だから、わざわざライトアップせずとも充分かなと思ったり。

我が家の明かりは、人待ちの明かりかな。
帰宅しない人を待つ そんな灯り。
今日も、遅くまで点灯することになりそうだ。


2002年12月03日(火) 通院


 風邪がはやっていると言う。
娘も学齢期を過ぎて、地域の風邪情報が入ってこないので解らなかった。

頭痛、下痢、吐き気でも熱は出ないと言う。
それが、今 多いという。

実は、2週間ほど前 そういう症状が私にあった。
胃腸の調子が良くないかなと思っていた。
疲れているかとも思った。
それでも、通院することなくやり過ごしてしまった。

でも、日曜から、娘がおかしかった。
それでも、動けるので普通の生活をゆっくりする程度にしていた。
月曜、頭痛、気持ち悪さ、でどうにもならない様子だった。
仕事がハードでストレスかと思い一回は医師に相談した方が良いとすすめて、
休ませた。
娘も、通院。
後日、再度通院予約を取り帰宅した。
今回の検査では取り敢えず異常なしということだった。
火曜日。
いつもより早く起床して、会社に向かった。
朝は、珍しく朝食を取りでかけた。一時間経過した頃娘からの電話。
気分が悪くどうしようもないと。
「このまま、様子を見て駄目なら戻りなさい」と思ったが、きっと会社に着いたら、また いつものように追われてしまい帰宅できないと判断した。
「戻ってきなさい」
それから、通院。
診断は、「風邪」だった。
今、この手の風邪が流行っていて、学級閉鎖寸前の所もあるという事だった。
取り敢えずホッとして家に戻る。

診察した時、「おばあちゃん元気?」と医師に聴かれたと娘が言った。
「しまった」今月の通院まだだった。
行かなければと思っていて、行ったつもりになってしまっていた。
慌てて、母を連れて通院。
少し血圧が高めだったが、変動の範囲内だった。
お薬を頂き、ホームへと戻る。

油断しているなあ。
気を引き締めて、過さなければ。


2002年12月02日(月) 母から言われた事。


最近、打ち間違いが目立つ。
それも、急いで書き込んでしまい読み直しもしなくなっていて、非常に良くないと思っている。
瞬間 違うと思っても其の儘にしてしまったりもするのだ。

「横着しないで」と母の声が聴こえるようだ。
「注意は充分に払っても払いすぎる事など無いのだよ」とも言われていた。

もう、母は、そういう言葉は発しないだろうな。

昔は、「うるさいな」と思ったけれど、やはり直接の注意は親でなければ出来ないのかもしれない。
心して思い出し注意を払い続ける事で許してもらおうかなあ。

大分前になるが、夫の兄嫁と台所に立っている時話した事を思い出す。
「あれやこれやと手伝いを頼まれて、ホトホト嫌で、『こんな事しないでも間に合うのに・・・。』と思う事があったけど、あれがあったから、今が有るんだよね。」と。

そうそう、お正月の事が気になり始めていた。
「家に呼びたいなあ」と家族に言い出せず暫くの時を過した。
でも、先日夫から「婆さん 正月は一緒だろ」と言われた。
「いいの?」「可哀想だよ」
という訳で母は、ここでお正月を迎える事になった。
お客さんもあるが、何とか出来るだろうと思う。
さあ、これから晦日までの日々 しなければならない事が山済みだ。

最後に パタパタしないで済むように少し急いでやりましょう。
予定表を作成しなくては・・・。






2002年12月01日(日) 探す。

気分一新。
読んでくださる人には解らないが、今書き上げた日記を保存に回した。
重たい日記となったのだ。
一呼吸置いてから少し手を加えて登場願うことにした。
母の事でないので、慎重にしたほうが良いと思った。

昨日、母の居室に置く家具を探し回った。
アンティ−クな物を置いてあるお店に出向いた。

前から、気になっていた店なのだが遠かった。
夫の評価は低い店なので夫には頼めない事情があった。
娘が車を出してくれた。
娘も、興味があるので一石二鳥だった。

いいなあと思えるものもあった。
でも、アンティーク故の難点もあるのだ。

それは、お店の人の何気ない言葉でも感じた。
お店の人は、品物の良さを訴えるつもりで発したのだ。
でも、此方には、決定的な一言だった。
「よく見られるのですか?」「えー。まー。雑誌などでも」
「雑誌だと蛍光灯等の明かりで大分雰囲気が違うでしょ。ここなら、よく解るでしょ」

「そう、よくわかるでしょ。」だって、照明が暖色系の灯り。暗いのです。
「見えないよ。傷が」
私は、角を手で触ってみた。綺麗に見えるが、角は物に依ってはささくれ立っていた。
これじゃ、母は危ない。とげが刺さってしまう。
急に白けてしまった。
一度に決めるのは危険だ。また、様子を見る事にした。

お店の人は、「ネットでも、解ります。」とパンフをくれた。

今日は、母の所にリースやらツリーを運んだ。
もう、12月。
今日も、母だけでなくみんなと話をした。
花札、マージャン、競馬、の話をした。
私は、経験はない。両親が嫌がった。
マージャンや花札は弟たちの中に入ってしてみた事はあるがほんのお遊び。
殆ど解らないのだ。
でも、話を出来るくらいはわかる。
母には全くわからない話だけど、やっぱり、頷きながら、笑いながら隣で聞いていた。
今週、予防接種実施できるらしい。書類に記入してきた。
接種の確認を取りながら過す今週になりそう。





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