母のタイムスリップ日記
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2002年11月30日(土) 辛抱の季節

母の指先にあかぎれが出来た。
冬になった証拠でもある。
在宅の時には食器洗い等の担当をしてくれたから、なるのだろうと思っていた。
でも、ホームでは、家と比べて水仕事は少ないと感じていたのであまり心配していなかった。
でも、出来たなと思っているうちにどんどん深くなってきた。
「痛そう」である。
あの分だと、指先がぶつかるたびに痛い思いをしているだろう。

家にいる時は、あかぎれができたら、水仕事中止。手を洗う度に良く手が拭けているかを確認。
クリーム塗布は勿論だが、ワセリンを指先に塗り水をはじき出すようにした。
それでも治りが悪い時は、指サックやカットバン等で保護した。
カバーをつけても濡れたりするので其の度に取り替えていた。

母は、昔からあかぎれが出来る体質だった。
病前なら、当たり前だが、放っておいても自分で処置できた。
病になっても、初めのうちは道具さえ準備してあげれば一人で処置できた。
でも、ここ数年は「酷くなるから」といって声を掛けないとできない。
自分の仕事と言う義務感と、忘れる事で直ぐ台所に立ってしまうので、「酷くなるから水仕事はいいよ。」と声掛けが必須だった。

今年もあかぎれが出来た。
ホームで家と同様の処置を望むのは無理だろう。
言葉で言っても忘れてしまうだろう。

命に関わる事でもないのだから、面会の度に処置して、職員の方にもお願いしてみまもるしかないだろうなあ。

あかぎれの痛みは、指先に出来た切り傷の痛みと同じ。
切り傷なら、数日で治るが、あかぎれは冬の間繰り返す。
母の辛抱の季節かな。



2002年11月29日(金) 出身地の事まで。

今日、少し遅くなってから、母の所に出向いた。
ここ数年の写真を手土産にした。
暫く見ていないので興味を持って見るに違いないと思った。

施設内は、職員との和やかなムードだった。
軽く挨拶をして入って行くと気配で母も振り向いた。
数冊のアルバムを渡した。此方での生活の写真だ。
あちらこちらに外出した時 特にさくらの花が咲いている時期の物が多かった。
地元の物、少し離れたさくらの名所等様々だ。
広げていたら、「この人に似てる」とFさんが母を指した。
「まあ、女優さんみたいにたくさんの写真だね」とFさん。
「エーッ。ずいぶん汚い女優さんだね」と私。
「そりゃ、女優さんにもいろいろあるよ。」とFさん。「んー。そうだ。そいう事だね」と私。後は、皆で大笑いとなった。

次々にみんなが母のアルバムを眺めだした。
見慣れた景色もあるのだろう。みんな、それぞれの思いで見入っていた。
景色の地名を言ってあげると、「あそうそう」とみな頷いた。
「じゃ、ここはどこかな?」と逆に尋ねると言葉に出てこなかった。
母は、頷きながらみていた。
地名などはわからない。だから、会話には着いていけない。
それでも、母は母で充分満足げだった。

久しぶりに生まれた地や育った所の話を皆に尋ねてみた。
細かい地名まで私が口にすると、「よく知っているね。そうなんだよ」とI氏は驚いていた。
「私もその近くに住んでいた事があるから」というと「へえー」と嬉しそうだった。
Iさんも話しにのって来た。どうやら近辺に住んでいたらしい。
それぞれ、住んでいたのはずれているのが判ったが、ここでは問題にならない。
話は其の地域の事で弾んだ。
O氏にも、出身地を尋ねた。県までは聞き取れたが後が明瞭でなかった。
紙と鉛筆を渡して書いてもらった。すると、故郷に近い方だった。
言語は不明瞭だけど、書いてもらえばよく判った。

ついでに、仕事を聞いたら、はっきり言えなかった。
でも、F氏の事は知っているので、「腕の良い××だったのよね」と声を掛けるとニコニコしていた。
入所者の事は、知らない事が多く 話のきっかけもそう多くは無い。
でも、母のアルバムを使って共通の話題ができた。
人のアルバムでも、充分通用するものだと不思議だった。

夫の写真や次男の写真もあった。
母に「誰?」と聞くと、「あなたのご主人と次男」と間違うことなく答えた。
「わたしは?」と聞きたい衝動に駆られたが、やめた。水を挿す事も無いのだ。
充分に回想できたのだろうと思った。








2002年11月28日(木) 死と向き合う事。

急に、読みたくなった本がある。

それは、「死とどう向き合うか」が書いてある本。

上智大教授のアルフォンス・デーケン氏のものだ。

一昔前、癌にかかった友人のすすめで購入した物。

友人は、自分のために読んでいた。

私は、父のことが頭にあった。

読んでみて、父のためではなく、自分自身のための

本であると思った。



なぜ、急に読みたくなったのか?

それは、年賀欠礼のはがきを手にしたからだ。

今年は、いつもより欠礼のはがきが多い。

今日も、3枚来た。

亡くなった方やご遺族には大変失礼な事なのだが、

殆どが、90歳を超えられた方々なので心の痛みも強烈ではない。

 

私は、介護をしておられた方の姿を思い浮かべてしまう。

介護なさった人々は、 いろいろの形で介護なされた。

それぞれ 立場も違うし関わり方も異なる。

けれど、親に対する深い思いは、皆さんに共通している。

そのお一人お一人の事をそっと想像してみた。

看取りの時の事を。



最近、つらつらと終末期の事を考えてはいたが、はがきから触発された。



再考するには、良い機会なのである。

今すぐ、死に直面した肉親はいない。気持ちの昂ぶりの少ないこの時期なら

余裕を持って読めると思った。



高齢になると、思いもかけず急に亡くなってしまうことも多い。

病ではないけど病。という奇妙な状態が多い高齢者。

病院や施設に3ヶ月しかいられない事も多い高齢者。

移した事が引き金となり亡くなられる事も多い。

最近も経験者から其の話を直接伺ったばかりだ。

これは、大きな大学病院でも、小さな病院でもある。

全てがそうかと言えば そうでもない。

柔軟に対応してくれる所もある。

だから、情報を集めている。中には幸運にも退院を迫られなかった人も居る。

同じ所で何故違いが出るのか それも一つの情報として取り込んでおく。



在宅の看取りを視野においている私にとって、良き医師と良き看護士さんの

情報を現在収集中。

今住んでいる町で、往診、訪問介護等のしている所は既にチェック済みだ。

ただ、中身の問題がある。

今の所、私の望むような所は探し当てていない。

看護に対しては人様々の思いがあるだろう。

私は、患者と介護者の心のケアを中心にし、延命の為の治療をしないという

所を望んでいる。

在宅での看取りは、相当な緊張が強いられる筈である。

簡単な事ではないのだ。



看取りの時は、何時訪れるか判らない。けれど、必ず来る。

生がある限り、死もあるのだ。一つのセットだから。



世間から「不謹慎」と思われるかもしれない。

でも、私にとって重要な事だ。

亡くなる人、見送る人共に大変な時なのだ。

「静かに、穏やかに其の日を迎えられるように」が私の目標。

介護の原点はそこにあると思っている。

勿論、自分が亡くなる時も含めての事である。



さて、屋根裏に上げた其の本の行方、早く探さなくては・・・。





2002年11月27日(水) ようやく実現できました。(3)


 今日は、雲ひとつ無い青空だった。
夫は、珍しく「帰宅遅いよ」と断って出た。
帰宅は、いつも遅いのだ。でも、ひょっこり早い時もある。
だから、なかなか難しい。
施設に電話した。
インフルエンザの予防接種の確認をした。
まだ、未摂取でこれから順にということだった。
「チャンス到来。今日は外せない」
急いで支度してソレッと施設に向かった。

海辺の町に行くのだ。
夏の終わり頃より考えていた。

ちょっと贅沢だけど、今回はタクシーも使う事にした。
帰郷しても、旅に出てもこれ以上かかる。
日にちだってかかる。今は、これしか出来ない。

母には「海に行くよ」とだけ言った。

行く道は、存分に景色を楽しんでいた母だった。
何処に行くという楽しみではなく「外に出た楽しみ」だった。

2時間足らずで目的地に着いた。
駅に降りてタクシーに乗り込み「海の臨めるおすし屋さんへ」と頼んだ。
運転手さんは、暫く考えて、動き出した。
着いた先は、申し分の無い場所だった。
すしのおいしさは、求めなかったのだ。
ただただ、海に近い所で寿司を食べさせたかった。
其の店は、海まで数メートル。ガラス張りの2階はもう見渡す限りの大海原。
母は、とてもとても喜んだ。「あー。ぐるり海だあ。」
おまけに富士山も望めた。
寿司より何より1番に望んでいたのはこういう場所だった。
寿司も母は喜んで「おいしいよ」と食べた。
そして、何よりも安心だったのは、お客が私達以外いなかった事。
貸しきり状態。何と贅沢なのだろう。
初冬を思わせる高い波でサーファーが波乗りをしていた。
平日だから、人も多くない。
ちょっとだけ外を歩いた。波しぶきが少し飛んできた。もっととも思った。

欲を言えばきりが無い。
海辺を歩いたり、街を見たりと・・・。
でも、今日はしない。そう決めていた。
ただ、幸いな事に「駅」が徒歩3分の所にあった。
だから、電車に乗って景色を楽しんだ。

そして、帰路に着いた。
夕暮れ時の帰り道は、疲れと夕暮れ症候群とで母は不穏になった。
勿論、計算済み。
電車で向かいの席の人にも不穏の視線を浴びせ始めた。言葉も。
仕方なく、タクシーに予定変更。
タクシーの運転手さんにも同じような視線と言葉。
私は、小さな声で「すみません」と謝り説明を加えた。
運転手さんは心よく理解してくれた。
母の不安は闇に包まれ始めると更に加速した。
「後ろから車がつけて来る。」「下りる時は心配ないのか」「皆、寝とてしまっているのではないか」と。
其の度に、母の手をぎゅっと握り締めていろいろのお話をした。

見慣れた景色になるとようやく母は落ち着き始めた。
本当に不思議なのだが、痴呆になってから来たこの地なのに認識があるのだ。
一人で歩けないだろうが、見た景色なのだろう。

ようやく、ホームに到着。けして、就寝する時間ではない。
皆が夕食をとるくらいの時間なのだ。

あの不穏さだったので「ここは家じゃない」と怒り出すことも想定していた。
でも、すんなりと「ただいま」とはいった。
家ではないけれど、「住んで居る所」という認識がやはりできているのだなと
感じて、ほっとした。

そそうしても 大丈夫なようにオムツ2枚とポケットティッシュ5組。濡れティ
ッシュと準備していたが使わずに済んだ。

母は、皆と共に夕食を食べ始めた。
私は施設を後にした。
家に戻り残り物で夕食を済ませ、急いで家族の為の夕食を作った。
全てセーフ。

これで、ようやく肩の荷が少しだけ下りたような気がした。

今朝、訪問者3000を超えました。
読んで下さった皆様 有難うございます。
3000はどなただったのでしょうか?
 


2002年11月26日(火) 個室ですが。


 母の施設は、個室対応。
でも、母の部屋には、他の方がよく入って来られる。
入所した当時は、母も自分の部屋と認識できずにいたので問題なかった。
暫くして、自分の部屋と認識するようになった。
すると、他の方の入室を嫌がった。「私の部屋です」
最近はといえば、特に嫌がる風でもなくなった。
「顔」を覚えてきたのだろうと思う。
でも、何かを話す訳でもないのだ。
入った人も、窓から景色を眺めて何とは無しに出て行かれるのだ。
わたしは、それもよいだろうと思っている。
入られるのが嫌な時は、無意識のうちに鍵をかけている母だから。

断りも無く入る人も居るのだから、断りも無く物を持ち出す人もいる。
それも、あり と私は受け止めていた。
だから、強く抗議した事はない。
でも、母の服を他の人が着ていたときには、職員にそれとなく所有を確認して頂いた。いままでに気が付いたのが2度ほどだった。
他にも、長期にわたり行方不明という物もある。
季節に使えなかったので、確認だけはして頂いた。
声を掛ければ、暫くしてから戻ってきた。
大した事も無い物は、特に声を掛けない。でも、いろいろある。
消耗してしまう物は、使った物と受け止めている。
例え使い切ってないと判っていても。

それが、昨日 固形石鹸が返された。
と言うのも、先々週後半に居室の洗面台から石鹸が消えた。
母が移動させたかな?と暫く探したが何処にも無かった。
だから、先週、ポンプ型の液体石鹸を置いたのだ。
母も時に使うし、私がトイレ掃除の後やオムツ替えの後などにしようするので
必需品だった。
時に、ハンカチ等も母に洗って貰ったので其の時だって使っていた。
「石鹸を食べてしまう人がいるので、ポンプを固定しました」と一人の職員から説明を受けた。「他にも、石鹸をお使いの人も居られますが・・・。」と補足された言葉に「何だろう?」と思った。
暫くして、別の職員が、新しい石鹸を持ってきた。どうやら、弁償らしい。
「すみません」と言っていたので、「施設の方でお使い下さい」と言ったが
「いや、沢山ありますから」と言われたので取り敢えずそれを此方に収めた。

「石鹸は使用しないで」と言うアピールなのだろうか?
居室は個室で物を置くのは自由だと思っていた。
貴重な物は置いてないので、心配は無い。でも、居室に入って物を持ち出す人にまで、こちらが気配りして物を置かないようにしてしまう必要は無いと思うのだ。

無くなっているのは、石鹸だけでないのに、何故 何も言わないのに石鹸だけ返って来るのだろうかなあ。
補充したからかなあ。でも、他の物だって 補充しているしなあ。
ちょっと、理解に苦しんでしまった。 


2002年11月25日(月) おばさん根性らしい。


 「あー。至福の時。」こういう事は滅多にない。
ちょっとした興味で買ってしまったお菓子。
普段、置いてないお菓子だった。
「日持ちします。」と言われた物だが、昨日ふと思い出し包みをほどいた。
それが、「ぴたっ」と私の好みに合った。
本当にうっとりするほどだった。
「おいしい。幸せ。」と言ったら、娘が目ざとく見て、「私も」とぱくり。
「んー。」「ねっ」阿吽の呼吸。

買う時は、単価計算なんてしなかったが、急に気になり計算。
かなり、高い。それから、残りの数を目で数えて菓子箱を片付けてしまった。

こういう話は、その昔年下の友人がよくしていた。
「誰にも食べさせないで隠しておく」と。
私はその心境が理解できなかったし不思議だった。

でも、昨日の私はまさにそれ。お汁粉を作って食べさせた事もあったのかもしれないが・・・。

娘に気持ちを説明して、「やっと、あの人達の言った事わかったよ。」と言ったら、「それが、おばさん根性と言うの!」とバッサリといわれた。
「・・・・・。」

** ** ** **

母は居室で一人 折り紙を折っていた。
かなり集中していて、数回呼んでも気が付かなかった。
こんな母の姿を見るのは久々だった。

居室の整理をしていたら、母は鼻歌を歌っていた。
本当に楽しそうだった。

ロッカーを開けると異様な臭いがした。
嫌な予感。やっぱりだった。
それは、手つき袋の中に入っていた。
ご丁寧に、下着でくるみ、其の上を上着でくるんでいた。まるで海苔巻きのように。幸い下着や上着に汚れは付着していなかった。
でも、臭いはたっぷりと吸い込んでいたのでした。 やれやれ。

その後、美容院に出向く。
年末に近くなると混み出すので、程よい時期を狙っていた。
少し早めではあるが、次回をカットにしたら、短時間で済むだろうと思った。
幸いな事に、美容院は空いていた。
今日の母なら、ゆっくりできる。
2度目の液を定着させる頃3時だった。待つ間に昨日のお汁粉でおやつ。
勿論、オーナーの了解を得て。
オーナーは、ハイビスカスティーに砂糖を淹れて母に出してくれた。
頭もさっぱりとして、店を出た。

「この調子なら・・・。」と「市」にも寄って見た。
「こにちわ。お元気で何よりですね。また来てくださいね。風邪などひかないように。」と母に声を掛けてくれた。
母も「有難う」と応えていた。
やはり、折角外出したのだから、いつもと違う人との会話をさせたいのだ。

そんなこんなで、今日の日程を終えた。
機嫌も上々の日だった。






2002年11月24日(日) 夜も更けてから 久々に。


 実は、先週はとてつもなく予定がびっしり詰まっていた。
「全て、こなしきれるか?」と不安だった。
一日ずつ、予定をこなして、ホッとする毎日だった。

当然、家事は後回しとなった。
だから、夫には悪いと思っていた。
夫を放り出して居た訳ではないのだが。

今日、夕食も済んで 夫はTV鑑賞。
私は、キッチンでりんごのコンポートを作っていた。
そこに、夫がCM抜けをしてきた。
「お汁粉食べたいなあ」という。

今頃?と思ったが、やはり私には後ろめたさがあった。
「今から?」と言いつつ、材料をチェックしていた。
みると、何とか出来そうだった。

白玉粉をこねてだんごを作った。
真空パックの小豆もあったので、コトコト煮た。
甘さを控えながら砂糖を加えて、簡単お汁粉が仕上がった。

夫は、「おいしい」と笑顔。
ま、これくらいは、仕方ないねえ。

母が家に居た頃は、夜仕事で、おやつを作る事が多かった。
おやつ作りを一緒に出来る時は安定している時で 其の天気は、何時変わるか
判らないのだから・・・。
前もって準備した方がベストだった。

だから、母が寝る前から支度をして、母に明日のお楽しみを与えて眠りへと
導入した。
眠りに就いたら、ささっと仕事にかかった。
お汁粉も 小豆の好きな母の為作った。

その、御相伴に預かったのが夫や娘だった。

母がホームへ行ってからは、其の回数は大分減った。

今日は、久々に夜も更けてからお汁粉作りだった。
明日は、母がお汁粉の御相伴に預かる事になるだろう。

先週、母の所には、3日しか行ってない。
丁度、インフルエンザの予防接種予定があるという事だったので無理は出来ないと思っていた。

さあ、明日からは、気持ちを切り替えてスタートしよう。


2002年11月23日(土) ご縁があれば。


 故郷の後輩から、数ヶ月前に頼まれた事があった。
「誰かいい人居ないかなあ。先輩しかいない。」と言われた。
友人のいとこさんの事だ。
私は、人脈等ないし責任をもてないし、まして、ヨイショと人様を持ち上げて
お話しする事も出来ない人間だ。
「無理」と言っては見たが、「何とか」と頼まれた。
「じゃ、心がけてみる」とだけ返事していた。

一人、つらつら考えて見た。
私の両親も周囲のご好意で出会いの時を与えられ結婚できた。
かくいう 私も 世話好きのおばさんから出会いの時を与えられ結婚できた。
私の娘も何れ誰かのお世話になるかもしれない。
そう思い、具体的に動いてみようと決めた。

ただ、私の範疇に適齢の人はどう考えても、いない。
親世代が、似ている友人にターゲットを絞るしかなかった。
其の中でも、信頼できる人・・・。
其の友人に電話して、おそるおそる尋ねた。
「誰かいないかしら」といきさつを話した。
すると、「いる」と言う返事。それは、彼女が、いつも頭の隅に気に止めて
今日まで来たと言うのだった。
彼女との長い付き合いで、こういう話は、初めて聞いた。

そういう訳で、今日がその1度目の出会いの日となった。

実は、私は引き合わせる二人には初めて会うのだ。
ここは、長い付き合いの中で、信頼できる友人の親戚という事での信頼しか
なかった。 誠実という事にかけての信頼であった。

でも、一抹の不安もあった。
「個性が強い人だったら、困るかもしれない。」と。

彼の方には、彼のおばさんである私の友人が立ち会う。
でも、彼女の方は、いない。
だから、二人に引き合わせる少し前に私と会い、私が彼女の立会人となる事にした。

待ち合わせ場所で、4人が出会ったとき、「あー。二人に酷いギャップはない」と何処かでほっとした。
これだけが、唯一の気がかりだったのだ。

落ち着く先は、決めていた。
娘のお手伝い先。そこで、席を予約して置いた。
おそらく、今日、娘はそこにいる筈。

ちょっと変わったお店で、話題に困らないようにと思っての事だった。

やはり、みな、初めてで、話のとっかかりは上々。
そこに、娘も顔を出して、皆に紹介。
その辺で、気分も大分和らいだ。

友人が、沢山のお話をしたので、二人が話をするのは少し少なかった。
甥である彼も、びっくりと言っていたくらい。
でも、けして、一人勝手な話ではなかったので、ま、側面からいろいろ考察できて、よかったのかもしれない。かわいい友人なのだ。(先輩を捕まえて、可愛いと言うのもおかしいが)

2時間くらい話して、場所を変えた。
また、話題性のある場所。
そこは、所謂、「カフェ」
広いので周囲をあまり気にせず、話題性も出来ると思った。

しかし、私の友人は方向音痴の出不精。退職したばかりで、外をあまり知らない。甥の方も、あまり外出はしないらしいので、初めての場所だったらしい。
「居酒屋?」と聞かれた。「まあ、そんな所。今時の若者の行く所。」と説明した。彼女の方は、仕事上、お付き合いで利用していた。
出てくる料理、店の雰囲気等で話は途切れる事はなかったし、食べ物の好みや
普段の料理等の具体な話が出て、お互いの事を垣間見る事はできたと思う。
お酒も程よく入り、緊張感もほぐれた頃、1回目の出会いの時を終了。

通常、どういう設定をするのか判らないが、2度目までは設定しようと思っていた。
その事は、前もって、彼女の方には話しておいた。
でも、「もういや」という事もあるので、其の時は「つんつん」で知らせてくださいね。と告げていた。
途中、聞いたら、「再会可」だった。
男性には悪いが、ここは女性優先。でも、彼女の居ない隙に尋ねたら「OK.」

そういう訳で、次回は「二人でデート。」という事にした。
具体的に、日時、場所を設定して私の仕事を終えた。

帰り、娘と久々に落ち合って、外食。
話は、今日の出会い。
娘は、少し興味があったらしい。どんな人達かと。
でも、「たまたま、縁が無くて来たのだなあ。と思わせる二人で大きく異なる事も無く、派手でもなく、地味でもなく お洒落感覚も程よくあったねえ。」
「やはり、こういう事はあるんだねえ。」と言った。
私も、同感だった。

後は、「ご縁があれば」の話である。
ここからは、本人同士の事です。
初めに、双方にその旨はお断りしてあるのだ。

家に戻ったら、故郷の友人から2度の留守電が入っていた。
1度目は、心配そうな口調だった。
2度目は、わりに弾んだ声で「ありがとう」と。
直ぐ、今日であった友人からも電話が有った。
「率直にどう?」と聞かれて、
おそらく、見た限りでお似合いと思う。ここからは、細かい事だから
何とも言えない。とだけ話した。

こういう1日で終った。
介護の介も無い一日だった。
でも、恩返しだと思えば、許してもらえるかな・・・。















2002年11月22日(金) いい 夫婦の日。

 そうなんです。今日は、そんな日なのです。
私の朝は、TBSラジオで始りますが、スタンバイ。ゆうゆうワイド。では、夫婦の話題が多かった。
「えっ?」と思っていたのですが、そういう日だったと夜になって気が付きました。

スタンバイでは、視聴者が。
レストランでのカップルの見分け方は。
男の人が、よくしゃべるカップルは夫婦でない。
と言うのが有りました。

これには、メーンパーソナリティーの森本氏がケタケタと笑って納得してました。私も、そうだろうなあ。と思いました。

若い時は、喧嘩もするけど、年を重ねた夫婦は、許容範囲が広くなり、けんかも少なくなるとも。
私もひとり、頷いてました。
喧嘩の出来る夫婦ってやはり、愛情があり それが裏返っているのではないかなあ・・・。と最近感じていたからです。期待もすれば、腹も立つことでしょう。

悠々ワイドでは、「綾小路 君麻呂」(?)文字が不確かです。
漫談の人ですが。
この人が、中高年の夫婦の情景を漫談にしていて、聴いていて思わず吹き出し
大笑いをしてしまいました。
「これを、聴きに行かないではいられない。」と思いました。
おそらく、喧嘩好きの夫婦でも、どちらかが聴けば なんとか治まる喧嘩も
有るのではないかと思うほど真実を突いていました。

実は、私は結婚前は、FMファンでした。
夫から、TBS.「聞け聴け」と言われ続けて、仕方なく聴きだしました。
気持ちは、今でもFM好きなのです。でも、現実は 夫婦の為の妥協です。
いや、TBSもこうやって楽しみながら聴いてはいるのですよ。
こういう事は、奥様でないと判らないかもしれません。

そんな事を考えていて私の親たちの夫婦の情景を思い起こしてました。
タイムスリップ前の両親は、見ていて「かかあ天下」 お母さんごめんね。
でも、最後の切り札は、父親だった。
でも、両親が結婚する時に 母は「私には帰る家がありません。どうぞ宜しくお願いします。」と言ったそうだ。母は、一人っ子で、其の時には、両親も
他界していたそうだ。
幸いな事に、父は、穏やかな人で滅多に怒らない。母が入退院を繰り返してもただただ、子供の世話を続けた。勿論 仕事しながら。
食事は勿論。アイロンがけだって。幼稚園通いの子供の服にいつも、
きちんとアイロンがかかっていて、周囲が驚いたというのだから。
父は、お茶も自分で淹れた。家族の分も淹れてくれた。
我が家では、当たり前の風景なのだが、訪問客には変だったのだろう。
「奥さん、お茶はご主人じゃない方が良いのでは・・・。」と父の友人に言われたそうだ。
母も素直で、「そうだ」と心底思ったらしい。でも、「お茶は、お父さんのがおいしいのよねえ」とここは、本音を覘かせた。

確かに、強い母ではあったが 父を本当に頼っていた。
だから、父は幸せだったと思う。
でも、子供の目から見たらの話ではある。
喧嘩はなかった。

父が病み、母の痴呆が始ったあたりより、たまに小さな喧嘩があった。
でも、これくらいは、長い間の事で、仕方の無い事だろうと思っている。

で、私たち夫婦は、というと 年を重ねた夫婦宜しく許容範囲を広げている。
形は、亭主関白。(夫から見たら、違うかもしれないが・・・。)
そして、夫の方が情熱があるのだろう。喧嘩を売ってくる。(真実は?)
私は、黙って聞き流す。流石に、聞き流しは上手くなりました。
いえ、大切な事は聞き流しませんよ。(うふふ)

なんだか、下らない事で長くなってしまったなあ。

森本氏は、言っていた。女性は大体「自分は悪くない」と思っている事が
多いよね。と。

そうかもしれない。でも 人に依っていろいろと思うけれど。
なんだか、夫がくしゃみしてるみたい。もう、止めようっと。
私達はいい夫婦なのだろうか?








2002年11月21日(木) 全ては心の内に。


 昨日、ある所である人達と会った。
其の中のお一人の事。
其の方の奥様が8年ほど前にアルツ発症。
お子様は学生さん。
難しい年齢の為、奥様の病名を伏せられたらしい。勿論親戚にも。
家事等 無縁だったのに、其れを機に始められたとの事だった。
「徘徊、物忘れ等で気が付く事無かったのですか?」と聞くと、
「他の病名で、逃げた」と言われた。
お子様の受験期も乗り越え、自らもお仕事をして、介護を続けられたとの事
だった。
「今までの事を書いたら、1冊の本が出来ます」とも話された。

私も、母を抱えて、娘の2度の受験と就活を通ってきた。
受験期のピリピリモードと介護は、かなりきつかった。
相当の愚痴が溜まった。友人達が、吸い取ってくれたので何とか乗り越えたが。
私は、自分の親なのにかなり参った。
けれど、其の方は、全てを一人心の内にしまい込み介護と子育てと仕事を
続けられてきたのだ。

今は、お子様も大きくなられ、全ての事をご存知なのだろう。
結婚なされて、一緒にお住まいだと話されていた。

「一通りの大変さは過ぎた」と話された。
今は、寝たきりで過されて居られる様子だった。

お話を伺い、大きな溜息が出た私。
自分の弱さを改めて思い知ったのだ。
呟きの多かった私。

青空の下に、赤、黄、オレンジ様々な葉の織り成す紅葉が見られた。
青空の下に、様々な人々の織り成す介護模様がみえた。

けれど、私は思った。
「大変なら、託せば良い。そして、一息ついてもいいじゃないか」と。
己の足りなさを自覚しながら、そう思った。  駄目な私。

今日の母は、寂しんぼモードだった。
「私が、ちょっと話した事が大きく広がってしまって・・・。」と困っていた。
「誰が?」と聞くとホールを指して「あの中の人」と言う。
見た限りでは、ホールは平和そのものだし、悪いモードではなかった。
私が着く直前に何かがあったのだろうか?
母の記憶はそう長く続か無い筈だから。
母の頭を撫でて「大丈夫?」と聞くと「なんだか 子供みたいだねえ。大丈夫よ。」と言った。

母と共に散歩に出て戻ったら、ホールは入居者のみだった。
どうやら、会議らしい。「判るけど・・・。」でも、保安要員ってという配慮はできないのだろうかなあ。そう思ったら、人の気配を感じたのか、おばさんが
入ってきた。
何処の施設でもそうなのだろうか?
確かに大人数の施設で一人の保安要員が待機したとしても、似たような状態ではあるから、何ともいえないが・・・。

一人にしない在宅の生活。判断力の衰えた人達の小集団。
危険は無いのかなあ。そう、暖房も止まっていて、一人の人が「寒い」といっていた。服を出して、着せてあげたけど・・・。ちょっと、気になった。


2002年11月20日(水) 記憶。


 昨日の日記でも触れたが、母が2年前に診ていただいた歯科医の事を思い出していた。
嫌な経験は、記憶に残り不穏の原因になる事は、今までの経験から推測できたが、良い経験も記憶に残る事もあるのだ。
 
トイレから用を足して出ても、ドアを開けた途端 記憶が消えている。
食事した事だって、記憶から消える。
風呂上りだって、浴室で身体を拭いている最中に「風呂は行ったかな?」と言うほどなのだ。

それなのに、2年前の事を思い出せる・・・。

その記憶形態は、どうなっているのだろうか?
とても、私の中では整理できそうも無い。

2年前、母の記憶は、引き出してあげれば思い出せていた。
だから、「歯医者さんに行ったね」といえば、「あーいい歯医者さんだった。
偉そうなお医者さんが多いのに、丁寧な方だったね。」と引き出せた。
おまけに、其の前の歯科医から、怒られた事まで思い出せた。

ただし、昨日、一度目の診察が済んで、昼食を摂る時に入れ歯を預けてきた事
そして、入れ歯をつけてない事は、認識できなかった。だから、硬い物も食べようとした。噛み切れないと判るとそれを出した。
反応としては、正常なのだが、其の前に噛み切れない時点で「入れ歯が無い」と騒ぐ筈だが、それが無いのだ。

こういう、ちぐはぐさが、痴呆には付いて回る。

その辺を理解しておかないと、「わかっているのになぜ?」となってしまうのだ。

医師は、こういう記憶の事はあまり問題にしないように思うが、介護者にとっては、喜びでもある。
「あー。覚えてくれていたのだな。」と。
ホームに入って、暫く経ち、それまでお世話になったデイの保健士さんが、ホームを訪ねた折、母は、彼女の事がわかって、とても懐かしそうにしたそうだ。
それが、とても嬉しかったと彼女は言っていた。
母は、誰かは認識できない。でも、心地よい関係だった事と顔は、覚えていたのだろう。

今日、お会いした方も、目が見えにくくなって判別が付かないと言うお義母様が、声で、判別出来ていたようで「あー来てくれたのね」と喜ばれたと言われていた。息子であるご主人の事は、判別できなかったそうだ。

心と記憶は連動しているかのようだ。


2002年11月19日(火) 歯医者さんへ。

 ちょっと遅れ気味に母を迎えに行った。
今日は、歯科予約の日だ。
母はホールで絵を描いていた。だから、パタパタとトイレ誘導してコート着て
「外に行こう」と連れ出した。
ちょっと急がせた。でも、ひと頃よりも早足が遅くなっていた。
で、バス一本見送り。

歯科に着いてようやく通院の事を話した。
自分の通院ではないと思っていたみたいで「えっ」と聞き返された。
「入れ歯を調整するのだから痛くないよ」と待っている間中繰り返し答えた。
「きたことある?」と聞くと「前に一度来た事があるみたい」とくるりと周囲を見渡した。幸い 今日も小さな子がいて其の子の方を見ていた。

暫くして、名前が呼ばれた。
「2年ぶりですね」と歯科医と話す。
今日の治療は、ようやく抜けた歯のおかげで、下の歯のブリッジを変える必要があったのだ。そうしないと、入れ歯が容易に外れてしまうから。
様子を見て、食べられ無いほどの不便さは無かったのだが、話す時「すーすー」と音が抜ける感じがあった。
医師も、母の怖がりを知っており痴呆症も知っているのでお任せできる。
ホームにも、歯科医は来てくれる。幾度か見かけた事がある。
でも、やはり 良いと思われる通院できるなら其の方が私としては安心なのだ。
母の歯科通院では、一度苦い経験がある。
初めに「痴呆ですが、見ていただけますか?」と確認して「大丈夫ですよ」と言い治療方針まで立てた。でも、母が痛がって不穏になった途端 まだ治療途中なのに、「もうこれで、おしまいです。」と終了宣言。
母は、歯医者不信となり 大変な思いをした。

幸い今の歯科医は、理解があり「痛い」と言えば暫く待ってくれるし、私が
隣に付き添っている事も許してくださる。
だから、母がどんな治療を受けたかも見ているので解る。

入れ歯の型を取り、午後再度尋ねる事になった。
其の時だって、「お母さん 食事できなくなるなるけど大丈夫でしょうか?」
と心配してくれた。

母とお粥の出るレストランに入った。
これなら、歯無しでも 何とか食べられる。

食事が終えたら、なんだか疲れているように見えたので、我が家に戻り横に
なって貰った。けれど、今日は 少し不穏で 「あっ 時間だから帰る」
「おかちゃん」「おかちゃん」の繰り返しでじっとしてない。
「やっぱり、この不穏は健在か・・・。」と一人苦笑してしまった。
久々に 在宅の頃の大変さを思い知った。
そんなわけで、早めに家を出て、歩いて歯科医に向かった。

2度目に歯科医に行くと「あー。痛くしない丁寧な先生ね」とようやく以前
見て貰った事を思い出していたようだった。
私は、その事には触れてないので 自分の記憶を辿ったと思われる。
すると、今度は料金の心配を始めた。
「大丈夫。お金預かっていたでしょ」と言うと「あそう」
午後は、それの繰り返しだった。

まあ、今日は応急処置の入れ歯が仕上がった。
これから、様子を見て2週間後に通院という事になった。
見ている限り 抜ける音も無くなり きちんと治まったようでホッとした。

ホームに母を送った頃は 夕食の直前だった。

すっとばして歯科通院の様子を書いて見たけど、長くなってしまった。



2002年11月18日(月) 治療。


 此れから付ける友人に関する記述は、友人がどう書いても良いという了解を得て居ります。

以前にも触れたことのある友人の事。
彼女は15年ほど前にガンを宣告された。某私医大の付属病院で検査技師として仕事をしていた。
ガンを宣告された時、お腹には赤ちゃんが居た。其の状態でがんの処置はできず、出産後放射線治療を受けた。
宣告を受けた時は、彼女自身相当の打撃だった。当たり前の事であるが。
でも、治療を受けながらも自力で療法や克服法を手当たり次第学んでいたようだ。「この治療では、副作用が出る。」とかも学んでいた。
丸山ワクチンも試したようだった。「治療薬として認められなかったけど、あれは、数値的にも良い結果が出たよ。」と言っていた。
数年後、再度放射線治療を受ける時いやいや受けていた。
が、その後、近代医療に別れを告げて、定期的な通院もやめた。そして、仕事場を去った。自分で納得できないのに、検査など出来ないと決めたらしい。
もうひとつの理由は、単純。「PC導入」で其の作業も嫌だったらしいが。

今も彼女は健在である。
やはり、定期的な通院はしていない。
じゃ、何事も無いのかと言えばそうではなくて、いろいろ支障も出てきているのだが、普通に生活している。
6人の子供を育てた。今、一番下の子は、11歳かな?双子だ。
今も、子育て中である。

でも、失いつつあるのが聴力。かなり、聴こえにくくなり補聴器を使用している。

これは、誰でもが真似できることではない。
彼女自身、自分の病を自分の責任により管理している事なのだ。
本当は、ご主人やお子様たちの了解を得ながらやって欲しいと事あるごとに
伝えている私だ。でも、ご主人も医療職にあり、仕方なくというか暗黙のうちに彼女のやり方に同意なさっているようである。本人の意思を尊重しておられるのだろうと思う。

友人は、こんな風に治療の方法を選んだ。
そして、不自由さやマイナスもあるけれど、生活の質を高く維持できている。

さて、痴呆の場合、初期の治療の選択はできたとしても 記憶力、判断力が
衰えてきたら本人の意思確認、治療拒否等出来なくなる。
其の部分は、家族またはそれに変わる人が選択する事になるのだろう。
おそらく、本人の意思を想定しながら。
今の痴呆に対する治療って何だろう。手術は聞かないし、投薬治療になるのだろう。その、副作用って何処まで真実なのだろう。其の効用って、何処まで真実なのだろう。
治験をして認められるのだから、根拠となるデーターも出ているのだろう。

友人だって、医療の現場に居たのだから治験済みも当然知っていたし改善できる事もある程度知っていた。でも、拒否したのだ。

痴呆の人に治療拒否は出来るのかな?
やはり、其の選択は、家族と周囲の者の判断となるに違いない。



だとすると、介護者の責任は、介護、サービスを受ける事、施設入所、治療法
もろもろかぶさってくる。(あたりまえのことだけど)

今日、急にそんな事が気になった。
私は、自分と自分の家族のために、母を施設に送り込んだのだ。
きっと、母は家に居たいだろう。「ごめんなさい」と心の中で詫びるしかないなあ。

 



2002年11月17日(日) 娘と共に。


夕方近くになってから母の所に出向いた。
娘の運転する車で。
私も、免許は持っているのだが、暫く運転していない。
オートマ車になったのをきっかけに乗っていない。
歩かなくなりそうだから止めたのだが、どうも、寒くなってきて母の所まで
自転車を走らせるのは、「ブルブル。」体の中に風が入り込んでくる。
そんな訳で、今日は車使用。

母は、自分の描いた絵を染めるのに夢中だった。
ポンと肩を叩くと、「あー来たの」だった。続けて「何処に居たの?上?」
同じ所の階上に住んでいると思ったらしい。時々そういう事を言う。
きっと、職員の誰かが、母の不穏の時そういっているのではないかと思う。
私も、それを否定せず「そうよ」と受け止める事にしている。

ホールに、みんな集まり何か話していた。
こういう時の会話は、お互い違う話をしているのに、話が成立してしまう。
F氏が私を見て「きれいになったね。ちょっと大きくなったね」と声を掛けた。
それを聞いたHさんは、「お腹が大きくなった」と勘違い。
「赤ちゃんかね?」私は思わずポンとHさんの肩を叩き「いやねえ。そんなこと無いよ。」と言い訳をした。でも、きっとHさんにとって大したことでないのだ。私の方が少し戸惑い焦ってしまっただけなのだ。
話が終らないうちにF氏は、自分の話に節をつけて歌いだした。
私が、先日踊った事を何処かで覚えているようだった。
だから、また 私は、踊った。F氏の作った歌(即興)なので歌は直ぐ終った。
すると、母が孫に「もう終ってしまったの。まったく しっかり踊ったらいいのにね」と言ったらしい。娘が拡声して伝えてきた。
のりは良い方なので、F氏に再度歌をお願いして踊った。
F氏は、少し麻痺があり手拍子など普段しないのだが、今日はのっていたのか
もみ手宜しく手拍子ものだった。
娘は、それぞれの方と指相撲対戦を試みていた。
母を基準とすると、逃げのうまい人、押さえ込むのがうまい人それぞれで、
「強いなあ」としきりに感心していた。
O氏やI氏などもかなり強かったらしい。O氏は幾度も娘に挑戦していた。

母の部屋を簡単に整理して、今日は早めに帰路についた。

そう、今日は 今年獲れた稲穂を持っていった。
みんな、それを目ざとく見つけて「へえー」と触っていた。
おそらく、身近な親しみやすい物であっただろうと思う。
職員の方に飾って貰えたらと渡した。




2002年11月16日(土) 椅子とテーブル


 ホームでの暮らしも半年経過。
椅子とテーブルを揃えてあげたいと思っていた。
時々見ているのだが、まだ 納得できる物に会ってない。
それと、もし 特養に移るとなると無用の長物となってしまうのも少し気になるのだ。カーテン仕切りの所に椅子とテーブルまでは持ち込めないだろう。
今、此の儘ホームに居た方が善いのではないかと感じ始めている。
今回は、見送り再度申し込むほうが良いと思っている。
やはり、個室に逃げ込めることは、大事であるように感じる。
けして、個室に篭りきりではないのだから・・・。
母のフロアに未だ話したことの無い人が居る。
その人は、部屋を出る事は殆ど無い。食事も一人なのだ。誰かが迷い込んだり
部屋のドアを開けたりすると とても 不機嫌そうにドアを閉める。それはそれで、その人の過しやすさの問題なのだから良いのだが・・・。
 さて、椅子とテーブル。
先を見越して、どっしりとした椅子がよいのか?
でも、部屋に圧迫感がでたら嫌だなあ。椅子の高さも 今は、高いほうが使いやすい様だけど、もし不自由になったらどうなのだろうか?
テーブルも、小さめだと安定感に欠けるのだ。
今日もちらちらと眺めてきたが、今ひとつ決めかねる。
介護ベットがレンタルされるように、椅子とテーブルもレンタルという具合に
行かないものだろうか?
あれこれと考えるよりも、買ってしまった方が良いのだろうか?
母を見ている限り、無いから困っているとも見えないのだが・・・。
あれば、部屋らしくはなるのかなあ?
でも、今だって、低いテーブルや飾り棚、2枚のクッションはあるんだよなあ。決断できないなあ。 


2002年11月15日(金) 母との合作

 この時期になると、母と共に芋茎作りをした。
母は、いつも、「なにかする事ない?」と
聞いた。
私は、母の為の作業をいつも考えなければならなかった。
其の時、道具も要らず、実用的なこの作業を思い立った。
地場の農家の人が出すお店では芋の茎がこの季節になると出た。
芋茎は、食べた事があっても作り方は良く知らなかった。
いや、食べたのだって、故郷に住んでいた頃冬に1度くらい食べる程度だったのだ。母は、ひょっとしたら、作り方も知っていたのだろうけれど、私が育つ過程で作ったのは見たことも無いのだった。作ったという話も聞いた事も無いのだった。
そんな訳で、農家の人に作り方の確認をした。
きっと、私の何処かで、誰かから聞いているのだろう。
「これは、皮を剥き、干すだけで良いのですか」と。
農家の人は、皮は剥く人と剥かない人が居ると言った。
私は、作業が長く続いて欲しいので、皮をむくことにした。
手が灰汁で黒くなってしまうが、仕方が無い。
テーブルに新聞紙を広げて作業は始った。
割と感単皮が剥けるので、丁度良い作業だった。
剥き終えた芋の茎を紐で吊るせる様にして数日干して出来上がり。
これを、また料理した。
食べる時には、自分で作った事など忘れている母だが、「ほら、前に作ったでしょ」と食事時に話題にした。そうする事で唯食べるのでなく楽しみながら
食事が出来た。
今年は、未だ作ってない。
やはり、この作業は私が母から開発された能力なのだろう。
きっと、母が痴呆にならなかったら、作る事もなかっただろう。
だから、母に感謝しなければならないのだ。

今日、面会に出かけると、母の居るフロアは、お掃除の業者さんが入っており
誰も居なかった。別のフロアにみんないて、いろはカルタをしていた。
読み手がはっきり発音できないのと、耳の遠い人が居てなかなか進まず飽きている人も居た。ちょっとお節介癖が出て、補足読みをした。
みな、上手に探し出すようになった。
一度終って、再度挑戦。皆やる気を起こしていた。
2度目が終った時、Hさんが、カルタの読みを口にしたので、それではと、今度は、頭の言葉だけ読んで、次の言葉を言うようにしてみた。百人一首みたいなものかな?
みんあ、すらすらと言葉が出てきた。
聞けば、まだ、文字も知らないうちから、お兄さんお姉さん達がしているのを
見ていて覚えたと話してくれた。
それにしても、良く記憶に残っているものだと感心してしてしまった。
掃除も終ったので、自分たちのフロアに戻った。
みんな、いつもと違うフロアにいると気がついていた。
やはり、こういう事はわかるのだなあ。
その後、母と散歩した。かぜが、冷たく感じた。


2002年11月14日(木) 節電?

 寒い季節になると、暖房器具が必要になる。
母も「寒い 寒い」と言った。
我が家の暖房は、エアコンとホットカーペット、電気ストーブ、ガスストーブ
遠赤外線ストーブが登場する。
エアコンやホットカーペットは、母の気が回らなくなり 切るという事はなかった。
ただ、ストーブは、見えていると「危ない」と言って切った。
極寒の時は、やはりストーブの補助が必要になる。
切られてしまうと、とても困る。
母だって寒いのに。

痴呆になると、どうして ああも切りたがるのだろう。
言葉では「勿体無い」と言うのであるが。
やはり、昔の生活習慣からくるものなのだろうか?
施設でも、電灯を切る人が多い。
やはり、「勿体無い」と言う。電灯の切れた施設内は暗い。とても陰気な雰囲気になってしまう。私は、ころあいを見計らって点けるのだが、また切られてしまい いたちごっこになる。だから、もう気にしない事にした。
トイレ等の誘導は、明かりを点けたままにして、スイッチにはキャップをかぶせてしまえばわからない。それを、「おかしい」とは思わないところがずれて
いるのだ。

コンセントを見えなくしてしまう工夫でプラグ抜きは防げるだろう。
誰か、良い発明をして欲しいものだ。
ストーブだって、痴呆者には切られない工夫ってできないかなあ。

節電もとても大切な事だけど、「寒い」のはやはり快適でない。
ドイツでは脱原発のため 消費電力を抑える事に努めるという。そのため、建物の断熱効果を高めたり、南に大きく窓を作ったりしてるという。
それは、良い事と思うが、「今 どうするか」が課題の人は大勢いるだろう。
家電で済ませることができるなら、安くて助かる。


2002年11月13日(水) 入れ歯、歯ブラシ、コップ。


 母は、この所 歯ブラシ、コップ等を洗面台以外の所におく事が多い。
其の都度、元に戻している事は先日も書いた。
昨日、介護士さんが「夜、入れ歯や歯ブラシ等を何処かに移動させるのです。
翌朝、無いと騒がれます。」と言っていた。
「在宅時は、入れ歯等、母の見えないところに収納してましたから。」と話した。
施設でも歯は預かる事を検討をはじめていると言う。
これから、そうすると、多少不安が出るのではないかなと気がかりだ。
初めに、その旨は伝えたのだが きっと理解出来なかったのだろうな。

痴呆の始る前の母は、入れ歯は、洗面台の所に容器に入れて置いていた。
痴呆が進むに連れて、自分の枕元に置きたがるようになった。
痴呆になると、所有意識が強くなるのだろうか?
我が家に来てからは、「無くしたら困るから、大切に預からせてもらうね。」と言って預かるようになった。
でも、不穏な時は「自分で出来るから。」と母は紋切り型に言い出した。
其の時には「入れ歯は、雑菌が増えるから、夜は消毒すなくちゃ」と言って
預かった。
その後は、入浴前に歯磨きをしてもらい、其の隙に入れ歯を預かり母の目に止まらない所に置くようにした。
それでも、時折母が気付いてしまう事もあった。其の時には、母の枕元に置き
母が眠るまで傍にいて、眠ってから入れ歯を洗面台に移した。   

朝は、洗面台に歯ブラシとコップと入れ歯を出しておき、洗面所に誘導。
何事も無かったように洗面して、入れ歯をいれていた。

母への対処は母の様子に応じて変化した。
余計な衝突を避けるためでもあった。
 


2002年11月12日(火) 通院。


 耳鼻科通院。
母の耳は、耳たぶを引っぱても、耳の奥は覗けない。
だから、素人では耳掻きできないし、耳垢も自然落下しない。
溜まる一方なのである。お金が溜まるなら良いのだけど・・・。
耳垢で栓をしてしまい聞こえが悪くなるだけなのだ。
それに、気が付いたのは、母が病になってからだ。
あまりに、耳が遠いので、補聴器でもしようかと耳鼻科に相談に行ったのだ。
結局、耳垢が数センチたまり、穴の形をしたものが出てきた。
以来、半年に一度の通院で耳垢除去してもらっているのだ。
困った事に、母は「怖がりで、痛いのが嫌い」痛ければ、医師までも罵倒してしまうのだ。待ち時間が長いとそりゃあ大変なことになる。

今日は、午前中のうちに母を訪ねて、「外に出よう」と誘った。だまし討ち。
「外に行けるって楽しいなあ」とるんるんの母。
バスを降りて、耳鼻科に向かい始めた時通院の旨を告げた。母は、身を固くした。「大丈夫よ。上手なお医者さんで、この間も行ったでしょ」説明。

待合室は、比較的空いていた。小さな子供もおりその子相手に遊んでいた。
恐怖心は和らいでいたが、診察室に入ると再び固くなった。
「帰る」と言い出さないかとはらはらした。
だから、大きな声で
 私「このごろ、耳が遠くなったね」 母「いや、そうでもないよ」
 私「じゃ、この声聴こえるかな」と口ぱく。 母「ん?」
 私「ほらね、大きな声でないと聴こえないでしょ」母「そうかねえ」
 私「だから、耳を掃除してもらうの」 母「痛いでしょ」
 私「大丈夫。痛くないように よーく頼むから」 母「・・・・」
母の名前が呼ばれ先生の前に行く。
先生に会話の声が届いていたので今にも笑い出しそうだった。
状況はわかっているので、直ぐベットに横になリ耳垢取り開始。
耳の中の映像が映し出されるのでそれを見るように母に薦めた。
ここまでくれば、まな板の鯉同然。時々顔をしかめながらも、無事終了。

それから、だらだら坂をゆっくり上り、我が家に向かった。
久しぶりで我が家で昼食。出る前に支度してあったので、盛り付けるだけ。
「玄米入りご飯」「大豆とレンコンの変わり煮」「ほうれん草のお浸し」
「ガンモの煮付け」「鮭の粕漬け」「故郷の漬物」「味噌汁」
ちょっと固めのものもあったが、ぺろりと平らげた。

その後、後片付けをして、スケッチをした。
一輪挿しに小菊を挿したのを描いた。
時計との睨めっこが始ったので、「帰ろうかねえ」と外に出た。
近隣の住宅地を通り少し遠回りしてバス停へいった。
途中、歯医者さんの予約をしてホームに向かった。
「疲れた」と母は言った。

さあ、来週 は「歯科通院」今日のようにうまく行くかな?








2002年11月11日(月) 私が居ないと一人食事?

 植え込みの剪定作業が昼過ぎまで続いた。でも、そろそろ終る。

遅めの昼食を摂り、双眼鏡を手に 河原へ一人出た。
はじめに目に飛び込んできたのは、150羽程のカラスの群れだった。
広い河原だからあまり圧迫される事はなかったが、これが住宅地の上なら異様な景色だっただろうと思った。
カワセミ、小サギ、セキレイ、カワラヒワ、百舌等がいた。そうそう、カモメをみかけた。冬になるとここまで、上がってくるようになる。
やはり、寒くなったという事だろう。カワ鵜もいた。
私のお目合ては鴨だったのだが、護岸工事をしているせいかカルガモにしか
出会わなかった。ちょっと残念。
これからに期待する事にした。

河原は、母と私の散歩コースだった。
今日のような穏やかな天気なら母も楽しめただろう。
「いいねえ」という母の声が聴こえそうだった。

夕方、一人で食事。
ふと、母が夕食時にいつも言っていた言葉を思い出した。
「あんた、私が居なかったら、一人で食事するの?」
誰も居ないダイニングで「そう、ひとりよ」と思った。
私が育った家では、夕食は皆がそろっていた。
子供の頃は勿論だが、成人しても殆どそうだった。
田舎の公務員、サラリーマンなのだからできた事だろう。
今は、どうなのかわからないが・・・。
昔に帰りたいとは思わないまでも、できたての湯気の立つ夕食を皆で食べる事が出来たなら・・・。と思った。
 子供が幼かった頃は、我が家にもそういう夕食風景もあったが、今は、日曜でも時折ある程度。それぞれ忙しいのだから仕方ないのだが。

夕食は、多いと3回の我が家である。
 


2002年11月10日(日) 思い込んだら、何時までも。


 玄関に入ると 母が誰かに話しかけている声が聴こえた。
考えると、久々の事だ。こうやって、話している事もあるのだなあと不思議な
感覚になった。生活しているのだから、当たり前の事だけど、ホールで皆ボーっとしている時の訪問が多かったので・・・。
中に入ると、皆でお掃除していた。Oさんがいる時は、せっせとお掃除している姿を見かけたが、今日は皆でお掃除。こういう時は、必要に迫られるので
会話が出てくるのだろうなあ。
でも、あまり綺麗にならない。無理もない。

在宅の時だって、時間つぶしにのために掃除っていうのもあったなあ。
何かしてれば、比較的落ち着く母だった。
でも、あまり長くすると今度はつかれて、「いつまで、お掃除させるの。」と
怒り出すので、程ほどの所で休息してもらい、後は私が仕上げていた。すると「あんたばかり、大変ねえ」とまた仕事を手伝ってくれた。

今日も、様子を見ていると、母はぶつぶつ小さな声で「疲れた。いつまでさせるの?」と言っていた。
程よい所で、「もう、おしまい」と職員の声がした。
でも、母は止まらない。一度へやに戻って手を洗って、ホールに戻るとまた
掃除の続きだと思って動き出す。私は「お疲れ様。もうおしまい。」とその度に感謝し終了を告げた。そうだった。こういう事がよくあったと思い出した。

今度は、おやつ。
おやつを食べても、「食事をした」と言う感覚になるのは 母だけかと思っていたら案外そういう事が多いのだと感じた。
でも、今日は、おやつの前から食事と思い込んでいるようで、おせんべいのおやつなのに、お箸がないと何度も探していた。職員の人も母の言葉に気がついていたが、「お箸はいらない」とだけ対応していた。すると、母につられて、他の人まで、「お箸」と言い出した。職員には「食事と勘違いをしてます」と伝え、母には「お皿の中 見て。おせんべい食べるのにお箸いるかな?」と
幾度か問うた。食べ始めたら、箸とはいわなくなった。

おやつの後、散歩に出た。
畑の夏の作物は茶色になり、草も茶色になりかけていた。
母は、それをみて「霜枯れだねえ」と言った。そうなんです。適切な表現でした。なかなか聞かなくなった言葉だけど でも「当たり」
さっきまでの母でなくなっていた。
外で感じる事って こんな風にまともになる事が多いように思う。
自然の恵みは、皆に平等だなあ。
 


2002年11月09日(土) 楽しみに替える。

午前中、葡萄と金木犀の枝を剪定した。
木枯らしが吹くようになり、ご近所に枯葉を散らかしてしまうのが気になったからだ。
ご近所では、植木屋さんが入っているところもあるが、結構な料金となる。
一度頼んだ事があるが、3本で3万を超えた。
そんな訳で、勿体無い精神で自分でやってしまう事にした。
やってみると、楽しくなる。
判らないなりに、学習する。
やってみるなら、やっぱり楽しんだ方が精神衛生上良いように思う。
介護も、大変だけど、どっかで楽しんでいた所があった。
どう対処すると有効か、どう接すれば心地よく感じてくれるか等は苦し紛れであっても効果があるとほっとした。
ただ、楽しめるうちは良いが、余裕がなくなると イライラ感が募った。
それが、疲れのシグナルだと認識していた。
ショートで休息をとって、再度仕切りなおし。
そんな風だった。

午後、近くの学園際に行った。
お目当ての物はなくて、から戻り。

それから、軽く掃除して、銀行に回ったりした。
土曜日は、銀行も、郵便局も空いているので時間が無駄にならなくて助かると
最近気がついた。

その足で、プリンターを見に家電ショップに出向く。
PCを新しくしてから、プリンタが合わなくて使用できないのだ。
いろいろ考えた末、複合機の物にしようと決めた。
ただ、使ってどうかは判らないので、機種を決めて相談のため自宅に戻った。

夜、周囲の人にあれこれ聞いて、やはり、少しの難は目をつぶり早くて音が静かな機種にする事にした。

たった これだけの事だけど 私にとってはゆっくり自分の為ばかりに使えた時間だ。忙しい訳でないが、なかなか 取れない物である。


2002年11月08日(金) ロッカーダンスの中。

 今日は、冬物の衣類の追加分を運んだ。自転車のハンドルより広い袋に入れて、運んだ。
シルクや麻やサマーヤーンで編んだカーディガン等少し残っているのだが、それを羽織ってしまうので寒そうだった。だから、もう すっかり入れ替えてしまおうと思ったのだ。
ロッカーダンスを広げると、母なりに片付けた形跡があった。
パジャマとか下着とか、ブラウスとか別々に収納しているのだが、入り混じって入っていた。ハンガーに掛けておいたブレザーや、ベストは引き出しに入っていた。それらを全部出して、秋物を母の手の届かない所へ移動させた。
母には、その間、下着の引き出しを整理して貰った。
母は、下着を全部出して丁寧に畳んでいた。
引き出しの中には、歯ブラシや歯磨きチューブやコップなどもはいっていた。
そうそう、スリッパも。それらを、洗面台や下駄箱に移した。
やってもやっても、物は移動してしまう。でも、元に戻しておいた方が混乱しないだろうと思い元に戻す。母は、自分で動かした事など忘れているし、その事を咎めても不穏になるだけだから、黙って戻すだけだ。
 
母の部屋には、いろいろのぬいぐるみが置いてある。
今、外に出ているのは、3匹のぷーさん。母がとても気にいっているようだ。
他のは、ロッカーの中にある。
ただ、詰め込んでいるのではない。
几帳面に、まるで、ぬいぐるみたちが中で会議でもしているように並べてあるのだ。その場所も時々変わるのだ。
在宅の時もそうだった。
朝早く目覚めた時に一人でそれらを布団を囲むように並べたりしていた。
元気な頃や私が幼かった頃、母はぬいぐるみを買ったりしなかった。
それは、頑固なほど貫いていた。
でも、今、母は、ぬいぐるみで、少しは癒されているのだろうと思う。

ロッカーの整理をして、足りない物もあった。でも、人の靴下や、シャツも
1枚ずつあった。それらを職員にお返しした。足りない物を報告もした。

部屋においてある引き出しに 少しのお菓子を置いてきている。それをいつも
確認している。確実に無くなっている。きょうも、少し置いてきた。
心が淋しくなった時、きっと 甘い物で多少緩和するだろうと思っての事だ。

すべて、片付け終えたので、ちょっとだけ外に出た。
夕焼け空に白い三日月があった。散歩の間にその三日月が光り始めた。
「ほら」と指差すと、「あー。とっても綺麗なお月さん」と母は感動。
暗くなったら危ないのでホームに戻った。

ホームでは、職員のお姉さまが、新生児を連れてきていた。
母も、入居者もみんな目を細め頬摺りせんばかりの様子だった。
よく、連れてきてくださったと思いその行為に感謝の念を抱いた。

日も暮れたので、私は自宅へと急いだ。
雨戸を閉めようとして空を見ると あの 三日月がひときわ大きくなり輝きを
増していた。家に母が居たなら、直ぐにでも見せるのだけど・・・。
施設に電話して、「お月様 見せてやってください」と言うのもねえ・・・。


2002年11月07日(木) 動けない?動かない?


 今日は介護の訪問日。
気温の低下で、私たちでさえ体が硬くなり始めている。
麻痺の残る方は、結構辛い季節が始った。
訪問先の方は、ベットに入られていた。「肩と腰が痛いと訴えられた。」8月に訪問を開始してから初めてだった。先週も、体が重いとの訴えがあった。昨日は、コーディネーターの保健婦さんとの電話連絡で、いろいろ話したばかりだった。
テーブルにセキュリティーサービスの訪問を受けた報告書がのっていた。
どうやら、3回ほどあったらしい。転倒したらしい。
体が思うように動かせないのでどうしてもそうなるのだと思う。
それに、一人なので不安と寂しさもそして辛さもあるのだろうと推測できる。

けれど、この方の場合 生活状態がよくない。気に障らない程度に注意を呼びかけているのだが、聞く耳を持たない。いや、聞いているのだが、取り入れないのだ。
昼から、お酒を召し上がる。
はっきりした量はわからないが、かなりの量になると思う。
転倒は、飲酒に拠る所もかなりあると思う。
偏食も多い。
お弁当も取っておられるが、野菜は殆ど手が付けられてない。
昼食を作る時も野菜抜きである。作りたてを食べて欲しいのに直ぐには召し上がらない。
こんな調子なので、リハだってなかなか難しい。

今日、パジャマの着替えの時に怒らせてしまった。
出来る限り、一人で着替えてもらおうと傍で見守っていた。
ところが、シャツを着る時「痛いから動かない」という。
麻痺の人の痛みはかなり辛い事は認識しており励ますように対応していたのだが・・・。そして、動かない訳でなく、お酒を召し上がる時は、何の不自由もないのだが・・・。
「これから、寒くなりますます大変になるから、もう少し・・・。」と声を掛けたら、「もう此の儘で良い」とベットの上に横になってしまわれた。
ここで折れてしまおうと思ったけれど、一息ついて再度声を掛けた。
「他のヘルパーさんは、きっと こんな事せずに優しく着せてくれるのでしょうね。だから、私は意地悪に見えるでしょう。ごめんなさいね。」と。
そして、再度起き上がってもらい、シャツを自力で着て戴いた。

本当は、怒らせずにするのが一番なのだけれど、「ごめん。不出来で。」と
誤るしかない。」

昨日の保健婦さんとの話しに戻るが。
「介護に当たる人達の、共通の認識と対応がないとここは、乗り切れないような気がしている。」と伝えた。たまたま、入っているケアマネさんは、顔見知りだし、医師も知っている。
此の儘、麻痺をほっておくには若すぎる年齢だ。

それにしても、こういう事への対処は 難しい。



2002年11月06日(水) みんなで輪になり。

 起床して、夫のお弁当をつめ、朝食を作り夫を送り出す。娘を起こして、お茶を出し、娘を送り出す。それから、洗濯、掃除。その後新聞をよむ。
そんなことをしていると、10時を過ぎてしまう。(単に行動が遅いだけかも)
そういう訳で、母のところに行くのが遅くなる。
この時期、母の所に行くと帰路は、日が暮れてしまう。
自転車なので、ライトを点灯するとペダルが重くなる。車とのすれ違いも怖くなった。

で、今日は、早めにでかけた。
冬に近くなったので、日差しも深い。ホール内にもお日様が入り込んでいた。
ソファーに横になり日向ぼっこしているI氏が、うとうとしてた。Fさんも隣の椅子で、こくりこくり。気持ちよさそうだったが夜大丈夫かな?

ふるさとからの土産を持参した。皆で食べればと思った。職員に渡す。全体的にのどかな感じのするホームだった。

車椅子のF氏は前に前に頭を下げ、テーブルに顔を押し当てるほどになった。息が止まらないかと心配になった。「F氏。折角の高い高い鼻が・・・。」と言いかけると、F氏は、「なに。ぺッタンコになれば丁度良いと思って。」と笑った。会話にならない事の多いF氏だが、今日の返しはベリィーグウ。
みなで、大笑いをした。

暫くして、他のフロアから2人の仲間が加わった。
テーブルを隅に移動させ、皆で輪になった。
そこで、民謡メドレー  懐かしのメロディー大会となった。
職員も歌集をだしてくれた。皆で歌いだす。とても気持ちよさそう。
O氏は、思い出と歌が重なるとポロポロ涙を零した。涙を零す事だって立派な
癒し効果があるのだ。
後半、職員や私が、歌集にない歌をうたった。古い歌なので節さえ出れば皆
歌いだせる。手拍子を取りながら、歌った。私はついでに踊ったりした。皆も
椅子に座りながら上半身を動かしていた。きっと、足が安定していたら踊ったのだろうと思った。
それにしても、歌の効果はすごいと思う。皆、不思議に覚えていて、途中歌詞を忘れても誰かが歌えて何とか纏まってしまう。そして、何より穏やかな表情になる。

大合唱の後、みなでおやつ。「おいしい。」の声。
でも、母はあまり食べなかった。好物で目が無いのに。お腹の具合も悪くないのに。「もう、沢山」と言った。
「外に出かけない?」と誘ったが「寒いから・・・。」と言った。
いつもなら、寒くとも「うん。行きたい」というのだが、今日は違った。
風邪でもひきかけているのかな?ちょっと心配。

お日様が西に沈む前に 家に戻った。洗濯物も湿らずにすんだ。

そうそう、今日は父の誕生日だった。
母は、忘れているだろうから、言わなければと思っていたのに 忘れてしまった。いかんなあ。


2002年11月05日(火) 故郷の景色。


 久しぶりに、混雑した電車に乗った。
友人と待ち合わせた場所に行く為。
娘と途中まで一緒。

娘と別れてから乗った電車は相変わらずの酷い混雑だった。
ドアが閉まって直ぐ隣に居た男性が少し向きを変え片手をおろしてポケットに
手を入れるような仕草をした。そこまでは、別段気にもならなかった。
ところが、その手の動きがなかなか忙しい。ちょっと怪しいかなと感じた。
その人に背を向けているので、ちょっと顔を向けた。ちろっと視線を合わせて
見た。おばさんと判れば、手を引くだろうと思った。
案の定、手は止まった。私が怖い顔をしたからか はたまた おばさんだったからか判らないがとにかくほっとした。
でも、傍に若い娘さんがいた。そちらにどうも動いている。娘さんは身体を前に前に移動した。何処にも逃げようがないのである。
注意しようと思ったが気のせいだったら気の毒だし、それに怖い。仕方ないので時々その男性を見ていた。それが、私に出来る精一杯の事だった。
途中でその男性は降りた。若い娘も降りた。娘さんはその時怖い顔をして男性を睨めていた。やっぱりだった。
全く 困った人も居るものだ。こんな時のうまい対処って・・・。と思った。

友人は、故郷の景色を運んできた。
峠は雪で真っ白だった事。高い山々にも雪が降っている。「寒いよ」と。
また、故郷ならではの物を持ってきてくれた。こちらでは、手に入らないので
とてもありがたい。明日には、調理して母の元に届けよう。

友人共に美術館に出向いた。祝明けの今日は、お休みところが多い。
でも、そこは大丈夫だった。
アールデコの銀の食器をゆっくり眺めた。柔らかな材質だと見ただけでも伝わってきた。「ああ無情」のジャンバルジャンをふと思い出した。どうやら、友人も同じ事を思ったようだった。
母を連れてきたのは、一年位前になる。ここまで、また 歩けるだろうか?
静かなゆったりとした時間の流れるここに、また、連れてきたいなと思った。





2002年11月04日(月) 久しぶりに自宅での入浴。


今日 久しぶりに母を家に連れてきた。
家の風呂に入れようと思った。
幸い、娘が新車を購入。試運転に運んで貰った。
家に車はあるが、夫は休日もあまりなく、仕事に出かける時は車だし・・・。

母は、孫の運転する車に乗った。
痴呆でなかったなら、きっと感激するのだろうけれど そういう感覚はなかった。でも、おととい、娘が車を買ったよと言うと「へー。ずいぶんお金持ちだねえ」と言っていた。

家に着くと、母は、自分の席に着く。
自分が暮らしていた事など記憶にないように見えるのだが、やはり、長年の
感覚として体が記憶しているのだろう。
一休みして、「お風呂入る?」と聞くと「あーいいねえ。入りたいよ。」と言った。すっと立ち浴室に向かった。
まだ、着替えの準備もしてなかったので、洋服を脱ぐ間に下着を揃え、ついでに、タオル、キャップ、ドライヤー、椅子を準備した。浴室では、母が最期の下着を脱ぎかけていた。みると、大で汚れていた。出て間もないようだった。
「ちょっと待って」と声をかけ、袋とティッシュと濡れティッシュを運ぶ。
それから、ゆっくり下着を下ろして、それを袋へポィ。それから、少し前かがみになって貰い、お尻をティッシュで数回拭き取り、その後塗れティッシュで
拭く。それらを、袋にポィ。そして、母に見えないように袋を丸めてしまうのだ。ティッシュは、浴室の前に直ぐ取れるようにおいて置く。
そういえば、昨日 娘が「サツマイモがおやつだった」と言っていた。
母は、お芋の後は少し便がゆるめになるのだった。
自分が食べさせた時は意識して準備するが、人に任せていると抜けてしまう。

浴室に入りお尻をお湯で流して入浴。母は「気持ちよい」ととても満足げ。
温まったら、湯船を出て、洗髪。お湯をかけて、手でゴシゴシは母自身の仕事
だ。シャンプーをつけて、ゴシゴシするのは私。後は耳にお湯が入らないように手でふさぐ母。母の耳は特殊なので水が入らないように注意が必要なのだ。
途中で、ぷーんとにおい始めた。慌てて、ティッシュを取り出して拭き取る。
かがんでいると、お腹を刺激してしまうようだ。これも、いつもの事。
洗髪が済むと、すぐタオルで拭きキャップを被ってもらう。
それから、首から順に洗っていく。前の方は母自身が洗うが、仕上げ洗いは、
どうしても必要だ。
それから、お湯でゆっくり流し、顔を洗って終了。
再度、湯船に入っている間に洗面器を片付け、タオルを洗濯機へ。
すのこをシャワーで洗い流す。
あたたまったら、母が浴槽から出る。壁の隅に背を向けて後ろに倒れないように配慮が必要。
身体を拭いている間にドライヤーの準備。
それから、拭き終わった身体を再度私が拭く。そして、下着を着けて貰う。
今日のように便が緩めの日は、パンツのみ先に私が履かせてしまう。
後は、見守りながら傍に居る。

この間、私は入浴はしない。ジーパンをたくし上げて、Tシャツで浴室に居る。これが、昔からの私のやり方だ。一緒に入ってしまうと疲れがどーっと出てしまうからだ。夏は汗まみれ。冬は、寒くなるがそれだけは我慢するしかない。

洋服まで着たら、頭を乾かす。
これで、ようやく終了。「頭が軽くなったよ。いい気持ち」と母は満足げだった。
これが、もう少し冷え込むと浴室を暖めておく必要がある。身体を洗っただけで、「寒い」と訴える母だから。

それから、おやつ。水分補給で、お茶をたっぷり飲んでもらう。
和室でゆっくり寛ぐ。冷えないかと心配だったがどうやら大丈夫そうだった。

暫くして、娘が帰宅した。母を送ってくれると言ったが、今日の運動量が足りないので、ゆっくりと歩いて駅に向かった。
風呂に入ったから疲れてないかと幾度も聞いたが大丈夫との事だった。
25分ほど歩きバスに乗ってホームに帰った。




2002年11月03日(日) 今日はめでたく。


 友人の息子さんの結婚式。
息子さんの巣立ちもおめでたい事だ。
でも、私は友人が今日の日に母親としてその席に立てた事が一番嬉しかった。
これは、同じテーブルについた友人家族の知り合いは同じように思っていた筈だ。友人のご主人の大学病院の医師夫妻。友人の先輩のご住職ご夫妻。息子さんの大学時代にお世話になったと言う方、そして、私たち夫婦。
みな、友人の病を知っており、大丈夫と信じながらも いつも 何処かで案じて来たのだった。
今日、友人には、手話通訳のできる友人が付き添っていた。
この方も、影で支え続けた一人だろう。
支えるとは言っても、逆に彼女夫婦から教えられる事、学ばされる事があり、けして、一方的に支えていた訳ではないのだが。
そして、何より、彼女を受け止めていたのは、その後主人なのだが・・・。
息子さんや花嫁さんは勿論晴れやかでとても、逞しく美しかった。
式の準備も全て二人であたられていたし・・・。

 いろんなスピーチ、祝宴あったけど。
私が、不覚にも涙したのは、息子さんの妹さん5人のソーランの踊りだった。
上の二人は、晴れ着で望まれたが、その出し物の時には、赤いティーシャツに
白い短パン。日本一のねじり鉢巻を締めて、きびきびとリズムに乗って踊られた。ソーラン踊りが始った途端、目頭が熱くなった。ぐっと、我慢していた。
目にマスカラをつけていて、出掛けに娘から、「こすっても大丈夫だけど、水で濡らさない様に。」と言われていた事もあった。
でも、今日の日まで、けんか等をしながら練習したのだろうな。彼女も疲れながらも見守って来たのだろうな。と考え始めたら、もう堪え切れないほどの涙ががあふれ出てしまった。ハンカチでそっと拭き隣に居る夫を見ると夫もハンカチをあてていた。暫くすると、同テーブルに着いたみんながハンカチを目に
あてていた。やはり、思いは皆同じだった。
他のテーブルがどうだったかは解らないが・・・。
 ソーラン節はとても軽妙なリズムで、涙を誘うものではなく、お祝いの席にぴったりだったのだけれど・・・。
踊り終えて、私の横を通った娘さんたちとパチンと手をあわせた。
落ち着いてから、友人の席に出向いたら、ご主人が、「自分の娘だけど、もう
涙が出てしまって・・・。」と言われた。いつもは、動じないないご主人でもそうだったのだ。

いろんな、お式の席に座らせて貰ったけど、出し物でこんなに涙したのは初めてだった。小泉さんじゃないけど「感動した」

そして、母のところには、留守番役の娘が尋ねてくれたようだった。
知り合いの方の所にも寄ってくれたようだった。
母も知り合いの人も、落ち着いていて、いろいろのお話をして帰ってきたようだった。夜、母の施設の前を娘とドライブした。10じ30分。母の居室の明かりがまだ点いていた。まだ、起きているのかな?


2002年11月02日(土) ゴミ拾いと自然観察。


 来客が午後だとわかったので、急いで施設に出向いた。
テーブルで皆とぼんやりしていた。
服装が中が半袖ニット。外は模様編みのカーディガンだった。
風があり、寒いと思われたので居室で服選びをした。
その時、「ゴミ拾いに行きます。」という事だったので、一緒に外に出た。
燃えるゴミ。燃えないゴミ。と分別しながら近くの道のゴミを拾った。
他の人は安定しているが、母は、ちょっとした段差で転んでしまう。
手に物を持ったりしたら、バランスを欠く。
相当気を使って同行した。
母は、散歩していても「汚いねえ。どうして、こんな所に捨てるのだろう?」
と気にかけていたので、ゴミ拾いは良かったと思った。

歩きながら、畑の作物の話になった。
オクラを見て、「これがオクラなの?」と驚いていた職員。
作物に関しては、やはり、入居者のほうが わかるみたいだ。
こういう能力は、すごいと思った。
また、サツマイモが収穫された後で、弦だけが残っていた。
「戦争中は、これを食べたんだって。皆に聞くと教えてくれるよ」と職員に話すと、入居者の人は「そうだよ。これを茹でて、何かを煮た汁で味付けして食べたよ。」と話してくれた。職員は、「へえー」と驚いていた。

母は、小さな段差に弱いが、歩き続ける事はできる。
でも、他の人は、歩き続ける事が大変な様子だった。
ゴミ拾いだけの時間では、まだ足りない母は、其の侭皆と別れ散歩を続けた。
川沿いを久しぶりに歩いた。
私は鳥の声が聴こえるが母には聴こえない。
今日は、セキレイ、カワラヒワ、百舌、等がいた。
「あそこ、あそこ」と鳥たちを指差して教えた。「あーそうだね。いるね。」
また、足元の草をみる。
スカンポ、アカザ、等食べられる草は、虫食いで葉脈だけ残っていた。
よもぎも食べられるが、不思議に虫食いは無くて・・・。
母と「どうしてだろうね」と言う話になった。

こういう事は、昔 母に聞けば、説明してくれた。
また、鳥の事だって、母の方が詳しかった。
でも、今は、逆転してしまった。

今日 気が付いたが、みんな、ゴミを分別する事は出来た。
いろいろ、おかしな事はするけれど、解る時ってあるし、単純作業はできる物だと感じた。今日の作業は、地元へのアピールなのかな?





2002年11月01日(金) やれやれ。


 この所、日記を書き終える頃トラブルが発生して、データが消える。
マイクロソフトに報告しますか?とPCは言う。
「・・・・」どうしたのだろうか?
気を取り直して再度書き込みをはじめるのだが、どうも、同じ事を書くのが
面倒になってしまうのだ。

今日は、朝からパタパタだった。(友人にお惣菜を5品作って送ったのだ。)
夕方、やっと美容院に出かけた。
3日に友人の息子さんの結婚式なのだ。
編み込みをしたり、ひっつめにしたりと髪を纏めてはいるが此の儘と言う訳にも行かない。母は、まめに美容院に連れて行くが私はすっかりご無沙汰だ。
予約の電話を入れたら、「おばあ様ですか?」と聞かれてしまった。
「いえいえ私です」と説明が必要なほど行ってないのだ。
本当なら、明日かあさってに行きたい所だが明日はお客様が来るのだ。
泊まるかもしれないし、最悪の事を考えて今日にしたのだ。
久々に頭が軽い。
戻ったら、故郷の友人から電話があった。
5日に来ると言う。
ちょっと、そこらを案内することになった。
故郷ならではの物を運んできてくれるらしい。
母に食べさせて欲しいといっていた。
全く、他人の親の事までしんぱいしてくれて・・・。有難い事だ。

と言う訳で、明日から数日は、人に会うことの多い日が続く。
今日は、母に会いにいけなかったが、明日の午前中ならいけるだろう。
でも、たまには、休息もしたいなあ。


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