ジョージ北峰の日記
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2013年06月21日(金) 青いダイヤ

 子供に何の制限もなく “自由”を与えますと副作用として、それに付随して不条理な事件が多発する事は当然予想されます。それに対して社会は、それ相応の代償を払わなければなりません。

  その代表的な最近の出来事は“いじめ問題”でした。
子供同士の喧嘩は昔からありました。しかし、大人顔負けの“お金がらみの脅し”や“自殺が絡む陰険な虐め”は、子供の犯す犯罪としては私の想像をはるかに超える出来事で本当に呆れてしまいました。
  
  最近あまり見かけなくなりましたが、警察に挑戦する“暴走族”の方が、まだしも---という印象さえ私は受けてしまいます。前者は大人社会でも最もさげすむべき陰険な犯罪(最近増えていますが)で、肯定すべき点は全くありませんが、後者はエネルギーあふれた若者が権力に対して挑戦する図式で、勿論大人社会にとっては、迷惑な話ですが、若者が大人に反抗する姿は何時の時代にでも見られたもので、判断は分かれるかもしれませんが、ある意味で“健全な行為”とも言えるでしょう。否、むしろ必要とさえ考えられる程で、これまで歴史を前に進めてきた原動力だったとさえ言えるかもしれません。
  以前、私が車を運転していた時、十字路の交差点で信号を無視して突っ込んできた暴走族の一団にたまたま取り囲まれたことがありました。「とんでもないことになった」と一瞬“不安”がよぎりましたが、どうしようもない状況でした。私の車の前後を彼らの車がとり囲んでしまったのです。
  リーダーは大型のバイクで猛烈な爆音を発しながら時速20キロ程度でゆっくり進んでいきます、仲間の車やバイクも一定の間隔を保って編隊を組んでゆっくり進んでいきます。一般車は危険を避けるべく一団から避けて別の方向へ転換してゆきます。

  この時、私は「こんな経験は滅多にないこと」と思いなおすことにしました。
  「こうなれば私も彼等と一緒に走ろう」と決心しました。横目で彼らを見ますと、彼らも私の方をちらちら見ています。「馬鹿なオジンだな」と思っていた違いありません。

   しかし私がその時不安だったのは、彼等のことではなくて警察が出動してきたとき「どうするか」でした。彼等と一緒に逃げるか----逃げたら捕まる---しかも捕まったら、暴走族と勘違いされる---その時はその時か----」、腹を据えることにしました。
   それでも少し不安を感じながら一緒に走って、5分ぐらい経った(随分長い時間に感じたのですが)でしょうか、リーダーが手を挙げて、もときた道へ回転し逆戻りを始めました。
   隣を走る車を見ますと、若い男の子が私の方をチラチラ見ています。
私は彼等から離れる決心をしました。
   私が「離れる合図」を送りますと、私に付き添って走っていたバイクも、車を運転していた若者も私の方を見て少し笑ったように見えました・
   そして彼等は関係ないという風にすぐリーダーの後を追って行きました。私を自由にしてくれたのです。ほっとしたことは言うまでもありません。
それは私が学生時代のデモで経験した仲間意識に共通した感覚でした。しかし、もう少し「あっさりした」した感覚だったかも知れません---。
   
   彼等の行為は反社会的で、勿論許されない行為と言えるでしょう。しかし、それなりにストレスのかかる行為であった事も確かでした。

   若さあふれる行為ではありますが“理由なき犯行”にしか見えないのが少し残念でしたが---。
   しかしこのような若者のエネルギーこそが、あの明治維新でさえ可能にしたのかもしれません。
   ただし“暴走”はやはり“理由なき”反抗のようしか見えない---のが少し残念でしたが---。

   一方、現代の学校で見られる“いじめ”は少し違います。あまり“若さ”が感じられません。現代の醜い大人社会の縮図を見ているような印象さえ受けてしまうのです。
    社会の進歩につながるエネルルギーどころか、単に大人社会の悪い面を見て真似ているだけの、正義のかけらもない行為に見えるのです。

   日本の某市で起きた虐め事件の顛末(てんまつ)が、子供達に彼らの悪行を反省させることなく、責任の一端は周囲の大人社会にあったかのような印象すら受けたのは残念でした。そして大人が“ああでもないこうでもない”と右往左往していたのがみっともなく映りました。
  この重大事件(子供教育の基本にかかわる)を見て見ぬふりをしてきたことは大人の責任ですが、やはり大人は社会基準に照らして子供の犯した誤った行為は厳しく罰する責務があったのです。
   それが出来なかったこと自体が現代社会の最も象徴的な問題だったと言えるではないでしょうか。

   子供は大人に対して反抗をします。しかし、この大人と子供の“戦い”がある意味で社会の進歩につながるのです。大人は子供から逃げることなく戦わなくてはなりません。ただし、大人の戦い方が、不条理であっては駄目でしょう。その意味では、大人も子供に信頼されるべくしっかり勉強することが必要だったのではないでしょうか。

  某市の事件で自殺をした子供には、無責任になりつつある大人社会に“警鐘を鳴らした意味はあったよ”と言ってあげたい。
その他にも、現代では子供側の問題として登校拒否、ニート、動物の虐殺など色々な問題をあげることが可能でしょう。

  一方教育者の問題としては“体罰”がありました。某高校で“行き過ぎた体罰”が原因とされる子供の自殺事件が発生しました。
その議論の中で“教育に体罰は必要ない”または“誤りだった”という意見が圧倒的に多かったように思います。

     本当にそうなのでしょうか?
     本当にそんな簡単な結論でいいのでしょうか?
  私は子供に対する体罰の是非はケースバイケースだと考えます。子供に対する“体罰”は、大人にとって大変勇気のいる行為です。出来れば“体罰”は避けたいと思います。
   しかし子供が集中力を失い“自分が何をすればよいか迷っている”と判断した時、最初は“叱る”それでも“集中力”を失ったまま方向性を見失っている時“体罰”で方向性を示してやることも必要です。
  
   しかし、体罰は子供が理解できる合理的なものでなければなりません。そのためには大人は何が正しく何が間違っているかを判断する能力が必要ですし、それにもまして子供に対して愛情がなければなりません。

   体罰は基本的に親がするべき行為でしょう。先生が教育のために子供に体罰を加えることは避けた方がよいように思います。ただ十分に親と相談してからなら別ですが---、または、子供と先生の信頼関係があれば話は別ですが---。

   子供に制約のない自由を与えると、色々な問題がおこります。
しかし、一方で“自由”と表裏一体の問題として、何が“正義”かを考える能
力を養うことも重大なテーマとして取り上げられなけれならないでしょう。







2013年06月17日(月) 青いダイヤ

 子供に何の制限もなく “自由”を与えますと副作用として、それに付随して不条理な事件が多発する事は当然予想されます。それに対して社会は、それ相応の代償を払わなければなりません。

  その代表的な最近の出来事は“いじめ問題”でした。
子供同士の喧嘩は昔からありました。しかし、大人顔負けの“お金がらみの脅し”や“自殺が絡む陰険な虐め”は、子供の犯す犯罪としては私の想像をはるかに超える出来事で本当に呆れてしまいました。
  
  最近あまり見かけなくなりましたが、警察に挑戦する“暴走族”の方が、まだしも---という印象さえ私は受けてしまいます。前者は大人社会でも最もさげすむべき陰険な犯罪(最近増えていますが)で、肯定すべき点は全くありませんが、後者はエネルギーあふれた若者が権力に対して挑戦する図式で、勿論大人社会にとっては、迷惑な話ですが、若者が大人に反抗する姿は何時の時代にでも見られたもので、判断は分かれるかもしれませんが、ある意味で“健全な行為”とも言えるでしょう。否、むしろ必要とさえ考えられる程で、これまで歴史を前に進めてきた原動力だったとさえ言えるかもしれません。
  以前、私が車を運転していた時、十字路の交差点で信号を無視して突っ込んできた暴走族の一団にたまたま取り囲まれたことがありました。「とんでもないことになった」と一瞬“不安”がよぎりましたが、どうしようもない状況でした。私の車の前後を彼らの車がとり囲んでしまったのです。
  リーダーは大型のバイクで猛烈な爆音を発しながら時速20キロ程度でゆっくり進んでいきます、仲間の車やバイクも一定の間隔を保って編隊を組んでゆっくり進んでいきます。一般車は危険を避けるべく一団から避けて別の方向へ転換してゆきます。

  この時、私は「こんな経験は滅多にないこと」と思いなおすことにしました。
  「こうなれば私も彼等と一緒に走ろう」と決心しました。横目で彼らを見ますと、彼らも私の方をちらちら見ています。「馬鹿なオジンだな」と思っていた違いありません。

   しかし私がその時不安だったのは、彼等のことではなくて警察が出動してきたとき「どうするか」でした。彼等と一緒に逃げるか----逃げたら捕まる---しかも捕まったら、暴走族と勘違いされる---その時はその時か----」、腹を据えることにしました。
   それでも少し不安を感じながら一緒に走って、5分ぐらい経った(随分長い時間に感じたのですが)でしょうか、リーダーが手を挙げて、もときた道へ回転し逆戻りを始めました。
   隣を走る車を見ますと、若い男の子が私の方をチラチラ見ています。
私は彼等から離れる決心をしました。
   私が「離れる合図」を送りますと、私に付き添って走っていたバイクも、車を運転していた若者も私の方を見て少し笑ったように見えました・
   そして彼等は関係ないという風にすぐリーダーの後を追って行きました。私を自由にしてくれたのです。ほっとしたことは言うまでもありません。
それは私が学生時代のデモで経験した仲間意識に共通した感覚でした。しかし、もう少し「あっさりした」した感覚だったかも知れません---。
   
   彼等の行為は反社会的で、勿論許されない行為と言えるでしょう。しかし、それなりにストレスのかかる行為であった事も確かでした。

   若さあふれる行為ではありますが“理由なき犯行”にしか見えないのが少し残念でしたが---。
   しかしこのような若者のエネルギーこそが、あの明治維新でさえ可能にしたのかもしれません。
   ただし“暴走”はやはり“理由なき”反抗のようしか見えない---のが少し残念でしたが---。

   一方、現代の学校で見られる“いじめ”は少し違います。あまり“若さ”が感じられません。現代の醜い大人社会の縮図を見ているような印象さえ受けてしまうのです。
    社会の進歩につながるエネルルギーどころか、単に大人社会の悪い面を見て真似ているだけの、正義のかけらもない行為に見えるのです。

   日本の某市で起きた虐め事件の顛末(てんまつ)が、子供達に彼らの悪行を反省させることなく、責任の一端は周囲の大人社会にあったかのような印象すら受けたのは残念でした。そして大人が“ああでもないこうでもない”と右往左往していたのがみっともなく映りました。
  この重大事件(子供教育の基本にかかわる)を見て見ぬふりをしてきたことは大人の責任ですが、やはり大人は社会基準に照らして子供の犯した誤った行為は厳しく罰する責務があったのです。
   それが出来なかったこと自体が現代社会の最も象徴的な問題だったと言えるではないでしょうか。

   子供は大人に対して反抗をします。しかし、この大人と子供の“戦い”がある意味で社会の進歩につながるのです。大人は子供から逃げることなく戦わなくてはなりません。ただし、大人の戦い方が、不条理であっては駄目でしょう。その意味では、大人も子供に信頼されるべくしっかり勉強することが必要だったのではないでしょうか。

  某市の事件で自殺をした子供には、無責任になりつつある大人社会に“警鐘を鳴らした意味はあったよ”と言ってあげたい。
その他にも、現代では子供側の問題として登校拒否、ニート、動物の虐殺など色々な問題をあげることが可能でしょう。

  一方教育者の問題としては“体罰”がありました。某高校で“行き過ぎた体罰”が原因とされる子供の自殺事件が発生しました。
その議論の中で“教育に体罰は必要ない”または“誤りだった”という意見が圧倒的に多かったように思います。

     本当にそうなのでしょうか?
     本当にそんな簡単な結論でいいのでしょうか?
  私は子供に対する体罰の是非はケースバイケースだと考えます。子供に対する“体罰”は、大人にとって大変勇気のいる行為です。出来れば“体罰”は避けたいと思います。
   しかし子供が集中力を失い“自分が何をすればよいか迷っている”と判断した時、最初は“叱る”それでも“集中力”を失ったまま方向性を見失っている時“体罰”で方向性を示してやることも必要です。
  
   しかし、体罰は子供が理解できる合理的なものでなければなりません。そのためには大人は何が正しく何が間違っているかを判断する能力が必要ですし、それにもまして子供に対して愛情がなければなりません。

   体罰は基本的に親がするべき行為でしょう。先生が教育のために子供に体罰を加えることは避けた方がよいように思います。ただ十分に親と相談してからなら別ですが---、または、子供と先生の信頼関係があれば話は別ですが---。

   子供に制約のない自由を与えると、色々な問題がおこります。
しかし、一方で“自由”と表裏一体の問題として、何が“正義”かを考える能
力を養うことも重大なテーマとして取り上げられなけれならないでしょう。







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