ジョージ北峰の日記
DiaryINDEXpastwill


2002年08月19日(月) 政治と政治家-2

 ゴルバチョフ出現と西ベルリンの壁の崩壊、続くソ連共産主義の崩壊は、第二次世界大戦後最大の歴史的事件だったと言えるのではあるまいか。しかもそれが、戦争もなく実現した点である。ゴルバチョフ出現後は、彼の魅力的な話し振り、エネルギッシュな活躍、そして、それまでの東欧諸国ではとても信じられない数々の政治経済上の変革、世界の誰もが彼の手腕に素直に拍手喝采を送った、と思う。ただ彼は、何故かソ連国内での支持が少なかったように思う。あまりに彼の考え方が進みすぎていてソ連国内の人々には理解不可能だったのかも知れない。あるいは、世界平和推進のためソ連の人々の利害をも犠牲にしてしまった国際派の理想主義者(ソ連から見れば片寄った)だったのかも知れない。彼についても、その後スキャンダルらしい話を聞いたことがない。アメリカは彼に亡命を薦めたそうであるが、拒否したと言われている。世界平和にとって、彼は本当に意味で骨のある立派な、歴史に残る政治を実現した政治家だったのではと私は考えている。
 第32代アメリカ大統領、ルーズベルト、彼の示した、抜きん出たリーダーシップはアメリカ、否 世界史の中でも特筆されるべきもので、戦後、世界の近代国家のあり方を決定付けた人と言っても過言ではないだろう。資本主義の大恐慌に際してはニューディ‐ル政策、第二次世界大戦に対しては (1)言論の自由 (2)信仰の自由 (3)恐怖からの自由 (4) 欠乏からの自由 を4つの理念として戦争目的に掲げ、連合国を指導、戦争を連合国側の勝利に導いた。アメリカの大統領として一人4選された傑出した大統領だった。今でもすごいと思うのは、ややもすれば忘れられがちな権利 (3)恐怖からの自由 (4)欠乏からの自由を人間の権利と明確に指摘した点ではないだろうか。当たり前のことのようで軽視されがちな権利では、と思う。世界の人々がアメリカを世界のリーダーと認知した、最も偉大な判断だったのでは、と考える。彼についても、やはりスキャンダルらしい話は聞かない。
 一方20世紀を風靡したイデオロギーにマルクス・レーニン主義がある。高校を卒業したばかりの私がテレビかラジオかの討論番組で‘社会を科学的に分析する’と言う言葉を聞いたとき、それが何を意味するのかさっぱり理解できなかった。
 そんな時、大学の社会科学の教官から大学生として常識だよと薦められて、レーニンの「帝国主義論」、毛沢東の「矛盾論」を読んだときの興奮、それはまさに「目から鱗が落ちる」と言った経験であった。それまで、狭いナイーブな目を通してしか、周囲を見る事が出来なかった。しかし、今は自分の視界が一挙に広がり社会の見方・読み方に一挙に自信がついたような気がした、一人前の大人になれたような自覚を持ったのである。周囲の人達の議論をレベルが低い(?)と馬鹿にしていたのもこの頃である。社会・政治・経済は科学的に議論しなければナンセンスだ等と分かったようなことを言って周囲の友人から煙たがられたのを思い出す。
 レーニンの考え方は、資本主義が高度に発展した段階では、独占資本による金融寡頭制が進む。その結果一握りの独占資本化によって国家、否、世界は支配され、労働者は搾取され貧困層が増加する。その結果、資本家と労働者、両階級に貧富の差が拡大、緊張が生まれる。そこで労働者が階級間の闘争の必然性を認識し、階級闘争を挑み、資本家からの自分達の自由を奪取しなければ、労働者は永遠に貧困と被支配階級から脱却することは出来ない。資本主義体制では、階級闘争は歴史的必然で、それなしに労働者は資本家からの解放、正当な報酬と自由を得ること、即ち人間性の回復は出来ない。
 資本主義のある発展段階で歴史を更に前進させる過程は、労働者による暴力革命の必然性の認識とその実践が不可避であると言った内容だったように思う。そしてレーニンは農民・労働者階級を組織、ロシア革命に成功、ソ連邦を樹立、また毛沢東は中華人民共和国の建設に成功した。
 その後は米ソの冷戦、また日本でも、共産主義の是非については長い論争が続いた。しかし当時頻発する政治的経済的危機や事件を分析しようとする時マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)ほど明快で、人を納得させる理論はなかった。当時、レーニン・毛沢東の著作ほど若いインテリを魅了した本はなかった、と思う。しかしレーニンは、ドイツの東西を分断していた壁の崩壊とともに英雄の座から引き摺り下ろされた。一方毛沢東は、文化大革命に際して、第4婦人、江青ら4人組による民主主義の弾圧と左翼主義の徹底を図ったが失敗した。その後、中国ではともかく英雄、毛沢東のイメージは地に落ちたように思う。


2002年08月04日(日) 政治と政治家-1

 20世紀の世界の政治家の中で印象に残る人物はと聞かれたら、やはりケネディー、ネ-ル、もう少し古い人物としてはルーズベルト、レーニン、毛沢東、最近ではゴルバチョフ等の名前を挙げることが出来るだろう。何れも歴史の転換期に卓越したリーダーシップを発揮、世界の政治・経済そして平和に多大の貢献・影響を与えた人達だからである。私は政治学者ではないので、彼等の歴史的業績について詳しいコメントを述べるつもりはない。しかしその時代、その時代に強烈な個性をアピール、そしてその個性で世界を動かしえた人達だったように思う。しかもその結果は(今から考えても)良くも悪くも、人類の歴史を前進させた人達だったのではあるまいか。いかに強烈な個性と言ってもヒトラーのように歴史の進行方向(ベクトル)を逆回転しょうと試みた人物は理想と言うべきではないだろう(反面教師としての存在感は偉大かもしれないが)。
 とりわけケネディーは40歳前半でアメリカ大統領に就任、人々の度肝を抜いたばかりでなく世界平和実現の理想を揚げて、若い情熱とそのエネルギッシュな活躍で人々を圧倒、世界の歴史にその名前を永遠に刻み込んだ人物だった、と思う。殊にキューバ危機、ソ連と戦争に発展しかねない危機に、彼の政治力が試された時、当時の人々の予想に反して、ソ連の挑発に敢然と受けて立ち、アメリカの主張を力の政治で押し通しただけでなく戦争の回避にも成功、当時のソ連の実力者(書記長)フルシチョフをして、その政治的手腕をうならせたと聞く。
 当時ケネディーは民主党の大統領で世界平和を主張する若い理想主義者とのイメージが強かった。
 しかし彼が危機に面し、考え抜いた末、下した決断は人々(恐らくフルシチョフをも)を驚愕させる内容であった。そう、それは一触即発、核戦争をも回避するものではないと言う一見無謀と言える大胆な決断で、凍りつくような恐怖に人々が固唾を飲んだ瞬間であった。しかしその直後、キューバ海域からソ連の海軍が撤退し始め、フルシチョフが戦争回避の決断したとのニュースを伝え聞いた時、当時、若かった私も言葉では表現できない、涙が出るほどの感銘に体が震えたのを記憶している。若いケネディーの決断が勝利した瞬間であった。
 当時ケネディーは世界平和実現に向けて、次々新しい政策を打ち出していた。その中にアメリカの若者の海外派遣政策があった。多数のアメリカの若者が文化交流の為日本を訪れる機会が増大、私も彼等と接触する機会が増加した。彼等に一貫する合理的な物の考え方は私にはとても目新しく大きなカルチャー・ショックで、それ以後、私の生き方、考え方に多大の影響を及ぼしたと思う。大統領の暗殺をテレビで知った時の人々の驚きと落胆。彼こそ、政治家として本当のカリスマ的存在であった、と断言できる。
 しかし暗殺されてから、何年か経って彼のスキャンダルがマスコミで頻繁に取り上げられるようになった。ホワイトハウスの大統領執務室の天井に抜け道があり、アメリカの有名な女優マリリン・モンロウとの密会が暴露された。彼は極めて有能・賢明な政治家だったが女性にだらしがなっかた、などと言った類のスキャンダルが数多く報道されるようになった(真偽は知らないが)。このような報道は彼のイメージを少なからず損ねたように思う。しかし、だからと言って彼の歴史に遺した計り知れない情熱、人類に与えた夢、業績に傷がつくほどのものではなかった、と思う。彼はそれに余りある存在だったのである。
 ネ-ル首相は現代の若者には馴染み薄い人だと思うが、私が子供の頃、インド独立にさいし初代首相に就任、その後世界平和に多大な貢献をした人だったと思う。当時米ソは犬猿の仲で世界の国々は東西に分かれ、それこそ何時戦争が勃発しても不思議ではない状況にあった。第二次世界大戦で疲れきっていた人々にとって大変不安な時代であった。そのような時代に、彼は核戦争の悲惨さと危険性を訴え、世界平和の重要性を強調、非同盟諸国の代表としてアメリカ、ソ連両国に絶えず対話による問題解決重要性を訴え続けた。彼は世界の如何なる問題も対話による解決が可能との信念を語り冷戦(cold war)と言われた緊張状態の緩和に誠心誠意努力した人であった。
 私は子供ながら彼の存在を頼もしく思い、また精神的にとても頼りにしていたように思う。彼が亡くなったとき“世界の親”のような存在を失ったと言う思いと悲しさで、彼の亡き後の世界に忍び寄る不安に心動揺したものだった。
 人々は、彼については本当に心から尊敬していた、と思う。また一度だってスキャンダルを聞いたことがなかった。そういう意味で、ネ-ルは誠実で理想的な政治家だったのかも知れない。


ジョージ北峰 |MAIL