与太郎文庫
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2001年09月20日(木)  悪友四重奏

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20010920
 
 悪友番付 〜 続・サンピツ 〜
 
 ホリデー・バーガーおよび杉さか屋の跡地を通りすぎ、南座に面する
パーラー・菊水で小憩(君子、南面ス)。
 四条花見小路の交叉点を渡ったところで馬場君と出会い、連れだって
美登幸の座敷に向かう。吉田君は、先に来て下座を占めていた。
(子曰く、まことに礼にかなっている)
 竹内君が現われるまでの、三人は七年と三日目の再会である。
…… 君子交リヲ絶ユトモ 悪声ヲ出サズ。 ── 《史記・楽毅伝》
 
阿波 どういうわけか、ボクの友人は、悪筆ばかりやね。
吉田 えらい、すまんな。
馬場 ゴリさんは、このところ上達しとるで。こないだの手紙なんか、
きっちり丁寧なもんやった。
阿波 それはみとめるとしても、当時の三筆といったからには、順位を
つけるために、ふるい手紙を再点検してみたところ、なんといっても、
筆頭は竹内君だ。彼は高校時代、新聞社に入るつもりだったらしいが、
放送局に変更したために、おおくの植字工が救われたはずだ。なにしろ
本人自身「ときどき読めない部分がある」というのだから、文句なしの
横綱だった。つぎの大関は、ゴリとアリガの争いとみていたが、実物を
くらべると、有賀誠一君が一歩まさって、ヒドイもんだ。したがって、
ゴリは関脇に甘んじるべきだ。バンバ君はそれほどでもないが、小結の
資格はじゅうぶんにある。
(判定しがたいのは河原満夫君で、悪筆ではないが、原稿のマス目にこ
だわらない不思議な書法なのだ。はじめから土俵を割っていて、番付外
の張出平幕筆頭とでもしておく。杉井先生いわく「どうも、あの男には、
近道や回り道の概念がないらしい」と評されたのが印象的だ。あるいは
与太郎と対比されての表現かもしれない)
馬場 成績に反比例する、いうのは何でや?
阿波 かならずしも確証はないのだが、頭の良い連中にとって、すでに
分っていることを、わざわざ文字に置きかえる作業が面倒なのだろう。
したがって、記号ごときに美学や意義をみとめないためではないか。
(すこし上の世代までは、達筆こそは秀才の条件でもあったのだが)
 
吉田 若いころ、きみはレタリングの話ばっかりしとったやろ。
阿波 ゴリがウンザリして、その話は誰ぞ人をやとって聞かせたらどや、
いうほど切実なテーマだった。
吉田 活字の“フトコロ”がどうとか言うてたのを思いだして、のちに
広告代理店の女社長に言うてみたら「へぇー、おくわしいですね」と、
感心された。
阿波 よう覚えていたな。ほかに“タマリ”というのもあるぜ。当時は、
記号や伝票のシステムが、とても重要に思われた。のちのち情報美学を
創称してみたが、結局イチモンにもならなんだ。
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── 《Day was Day 20001231 Awa Library》P048《サンピツ 〜 同中三筆 〜》
── Veterans Day /《米》終戦記念日《11月11日;法定休日(legal holiday);
 もともと第一次大戦の終結を記念して Armistice Day と呼ばれていたが、
1954年改称;国に尽くした軍人の名誉をたたえる/》
── 竹林 滋・小島 義郎・編《LightHouse 英和辞典 1987 研究社》P1580
 
 
 
 リ・タイア 〜 最後の名刺 〜
 
 まず、馬場君が定年退職後の日々を語る。
 日曜日は、バプテスト教会で神学研究会。週に二日は同志社大学神学
部で神学をまなぶ。さらに一日はプールで2.5キロメートルも泳いで、
翌日は医者に通う。もう一日は夫婦でドライブをかねて温泉をめぐる。
 すなわち予定がないのは一日だけであるという(バンバ・ホリデー)。
「毎日が日曜日やなかったのか」
「退役老人にしては、ちょっとぜいたくすぎるな」
 などと、とりとめのない会話がつづく。
「ぼくの誕生日は、アワくんと同じ一月二十日やろ。ことし満六十歳の
日付で定年退職した」
「すると、一月二十日も労働したのかね?」
「いやいや、前日までの勤務やった」
 一月二十日は土曜日だったが、これがもし月曜日ならどうなるのか。
あるいはゴールデン・ウィークのように休日が断続する場合はどうか、
など疑問点はいくらでもあるが、いまさら知っても何の役にも立たない
ので、質問しない。
 この世代の主要なテーマは、年金と保険と病気が三点セットである。
 与太郎は、かねて用意しておいたジョークをもちだす。
「きみは、タイヤ・メーカーを立派に勤めあげ、めでたく退職したんだ。
おめでとう、これでほんとの“リ・タイヤ”」(笑)
ことのほか(予想以上に)ウケたので、念のため確認する。
「このジョーク、東洋ゴムでは(創業以来)誰も言わなんだか?」
「うん、聞いたことないな」
「なんというクソマジメな会社に、きみは生涯をささげたのか! もう
いっぺん職場にもどって、みんなに教えてやれ」
 馬場君は、このジョークがいたく気に入ったとみえて、一時間あまり
おくれて駆けつけた竹内君に、早速ためしてみる。
「ぼくは、タイヤ会社を退職してな。これがほんまの“リタイヤ”や」
「あ、そう。なるほどね」
 竹内君は(食べるほうに熱心で)さっぱり乗ってこない。かわりに、
吉田君と与太郎が、顔を見合わせて吹きだした。
「空っ腹の相手には、このジョークは通じないらしいぜ」
 うまくやれば、終生ウケるにちがいない。与太郎は、このダジャレの
永久使用権を馬場君にプレゼントすることにした。ただし知的所有権は、
死後五十年まで、誰にもゆずらない。
 
 吉田君と竹内君が名刺を交換したので、つられて馬場君も差しだす。
「これ、最後の名刺の残りやけど」
「前とか元のハンコ捺せば、まだまだ使えるぞ」
 この四人は、シンフォニエッタ・デビュー時の創成メンバーであり、
与太郎の結婚式での同席以来、三十四年八ヶ月ぶりとなる。
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tire    タイヤ(英=tyre)
tired    飽きる。
   ── ローマ人は、ローマ文明に飽きたのだ ──  Kerenyi,Karl
retire from 引退する。定年退職=the retirement age
re-tail  (話など)受け売りする。
BankHoliday 公休日(英)→バンバ・ホリデー(?)
 
 吉田肇&馬場久雄両君の名刺(略)→ 竹内君の名刺は前掲 20010105
/20020714 東京転勤
 
 
 
 草莽記 〜 銅像は残った 〜
 
 四人そろったところで、本宮先生に会えなかった事情を説明する。
(前日の電話で、東京の親戚にご不幸があったそうである)
 ついで、金谷先生に桃を送ったら、アマチュア・カメラマンでもある
先生が、自転車をこいで、与太郎の生れ育った家の現状、小学校の正門、
三条京阪の向いにあった店舗の跡地周辺などを撮影して、組写真にして
送ってくださったことを自慢する。
「諸君、ボクはすぐにお礼の手紙も書けないでいるんだ。ふるさとの山
に向いて云ふことなし、仰げば尊し我が師の恩……」
 みんなが、シュンとしたところで、つい演説をはじめてしまった。
 
阿波 父の店が在ったあたりは、ボクが中学に入ったころから、いずれ
京阪電鉄に買収され、立ちのきを迫られるという風評があった。いまで
いう地上げだ。そして二十数年のちに、その周辺一帯の生活者は、なに
がしかの金と引きかえに出ていった。商店ばかりではない、寺まで墓場
ごと消えたのだ。そもそも三条大橋といえば、東海道五十三次の終点だ。
竹内 双六でいえば、あがりだよね。
阿波 すくなくとも、東京遷都までは、日本のメッカだったのだ。
(諸国の要人を歴訪した高山彦九郎も、この三条大橋にたどり着くや、
旅のちりを払い、御所の方角に向って遥拝したのである)
 ところが、先生の写真をみると、そのあたりは、ゴースト・エリアに
なり果てている。それとなく商店らしいものはあるとしても、この場所
になくてはならぬものではない。ここに江戸時代の景観を再現するなら
ともかく、ほとんど活用されないまま、三十年以上も放置されている。
いったい誰がどんな権限でもって、そのまま捨ておけ、といったのか!
このままで誰かがトクをするとも思えない。(地上げの原理は、再開発
が目的ではなく、融資の担保物件としての評価額を高めることにあった。
かくて実体のない不良債権が自己増殖したのだ。われらが同志社中学の
地歴部はどう見るか、新聞部も黙過していいのか! ── 以下カッコ内
は、その場で言いそこねたことを、あとから補足した注釈である)
 
竹内 それがまぁ、経済の市場原理というものでね。
阿波 しかし、その経済学(とくに戦後日本の経済学者)が、どうかし
ていたんじゃないか。バンバくん、キミは経済学部出身なんだろ。
(ホコ先があらぬ方角に向いたので、法学部出身のゴリが助け船を出す)
吉田 それは京阪だけやない。ウっとこの阪急もふくめて、電鉄会社の
事業拡大は、いろいろな問題を生じた。
馬場 ゆりかごから墓場まで、いうてな。
吉田 ほんまに墓場の経営まではじめた部門もある。「そんなもん売れ
まっか?」テ聞いたら「まぁ、ボチボチでんナ」いいよった。(爆笑)
阿波 おいおい、ダジャレを続けると、だんだんレベルが落ちるぜ。
吉田 これ“おじんギャグ”いうて、さいきんの流行やけどナ。
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── 高山 彦九郎 1747.5〜1793.6.27(延享4〜寛政5)
江戸時代中期の尊王家。上野国新田郡(現在の群馬県新田郡)の農家に
生まれる。名は正之。彦九郎は通称。『太平記』を読み、建武新政府の
忠臣に感激し、諸国を訪ね尊王を説いた。たびたび上洛し、 <草莽の臣
高山正之> と叫び、皇居を遥拝するなど奇行も多く、林子平、蒲生君平
とともに <寛政の三奇人> の一人といわれた。その行動は幕府の監視す
るところとなり、ついに久留米(福岡県久留米市)で自殺した。
―― 《学習人名事典 19890501 三省堂》P479
 
18680903 慶応 4/0717 江戸を東京に改称
18681104 明治 1/0920 明治天皇、京都出発
18681125 明治 1/1012 明治天皇、江戸入城“無血開城”
18690418 明治 2/0307 明治天皇、東京定住“東京遷都”
 
「ゆりかごから墓場まで」は英国の福祉政策のスローガン、あるいは、
レイモンド・ローウィに冠せられたことば「口紅から機関車まで」。
 
 
 
 心のこり 〜 劣等生が優等生を叱る 〜
 
 昨年末、芝山先生からの電話に「ボクは、金もうけもできなかったし、
有名にもならず、教え子として先生にあわせる顔がありません」
「何いうてんの、そんなもんお金持ちや有名人にならんでも、よろし」
(仰げば尊し我が師の恩……。しかるに、おおむね貧しかった小学校の
同級生のなかで、いくばくかの期待をもって教育投資されたからには、
なにがしかの成果をあげるべきだった、と反省している)
竹内 同志社は、キリスト教の雰囲気なんか、よかったよね。
阿波 異文化の習俗を体験できたからね。同級生は成績もよかったし、
裕福で恵まれていた。卒業してからは、それぞれいっぱしエラクなった。
しかしながら(ボクは例外として)諸君が、小市民の幸せに甘んじても
いいものか、と最近では考えることもある。有数のエリートなんだから、
本来もっと社会的リーダーたるべき使命を負っていたのではないか。
 たとえば、ゴリの会社でいえば、田辺多聞という人が社長をつとめて
いたが、その父にあたる田辺 朔郎は、弱冠二十五才にして、琵琶湖から
京都へ水をひく大事業に取りくんでいる。われわれの同級生に、おなじ
能力がないとは思えないんだ。どうしてこのような歴史的宿命にめぐり
あわなかったのか、残念でならない。
馬場 それは、時代がちがうからやで。
竹内 後進国だったから、若い人材が抜擢されたということもある。
阿波 ならば、キミたち優等生はエラクなったのだから、すぐにでも、
二十五才の部下を大抜擢してみてはどうか?
吉田 なかなか、そういう具合にいかんのが会社組織いうもんやで。
(ここで、みんな考えこんだので、しばし沈黙となる。いちばんの落ち
こぼれがエラそうなことを云うから、話がややこしくなってしまった)
阿波 しかし、いまさら云ってみても、もはや手おくれにちがいない。
今夜のところは、このあと誰が払うのか知らんが、河岸をかえてパーッ
と行こうぜ。
竹内 なーんだ、結婚したころと、ぜーんぜん変ってないや。(笑)
阿波 四十五年前の仲間が三十四年ぶりに集まれば、当時の気分にもど
るのは当然だ。もっとも、ほとんどの細胞は入れかわってるはずだが。
吉田 君は手紙で「いまや君にも心ゆるせる酒場があるなら」と書いて
きたが、あいにくどうも心あたりがない。
竹内 ボクも、あんまり京都に居なかったもんで、どこにしようかな。
むかしの店は、ほとんど消えちゃったようだし……。イソムラあたりで
どうかな。
阿波 いそむら? 映画マニアの舶来居酒屋かな。よし、そこへ行こう。
(昔話に熱中するあまり、せっかくゴリが按配してくれた料理の品々に
箸がおよばなかった。女将に言いわけするついでに、軽口をたたく)
阿波 残してごめんよ。なにしろ三十四年ぶりの再会なんだ、ちょうど
オカミが生れたころかな。「ほゝゝ、ほんのちょっと前どすけど」
(ひょっとして昔の女に出会ったりすると、ガッカリするだろうな)
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 三木 のり平《のり平のパーッといきましょう 1999 小学館》?
 以下、雑稿《京大人品研究所・三大酒場》他につづく。
「ほとんどの細胞は入れかわってるはずだが」
 従来の定説では、脳細胞だけが不変とされた。つまり、もっぱら減少
する。ちかごろの新説は、周辺の細胞が変化適応して、その機能を補う
などという。それぞれの学者たちは、何才だったのか。
 
──「大きなもの、真正なものは、仕上げの笠石を後世にのこす。神よ、
私が何事も片づけてしまいませぬように」
── Melville,Herman《Moby Dick,or The White Whale 185110・・ London》
── 紀田 順一朗《世界の書物 19890320 朝日文庫》P285


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