与太郎文庫
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1987年10月22日(木)  パリの104 〜 パリ市1985年3月電話加入者公式リスト 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19871022
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Awa Library;“進化した”パリの電話帳
 
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 取材にハンディ・ビヂオカメラを使うようになって一年半
が過ぎた。
 取材という行為は、自分の外の世界に散らばる数限りない
素「材」の一部を切り「取」ってくる行為なので、「取材」
というのである。切り取ってくるためには、道具がいる。取
材原始時代には、「眼」で見て「耳」で聞いて「肌」で感じ
て、それを脳に記録して取材トした。つまり肉体道具である。
今もそれが最も重要であることに変わりはない。ただ、この
取材肉道具は、正確さという点にかけては、少々心もとない。
 そこで筆記具とノートの利用が登場し、時代は取材古代に
進んだ。だが、これは筆記文字で概要を書いてくるだけなの
で、ディテールの記録能力に欠けている。そこで録音機が併
用されるようになり、取材中世時代を迎える。カメラの併用
も豊かな取材文化に彩りを加えたといえる。次いで、これら
取材機器の小型化、高性能化が起こる。マイクロカセット録
音機やそのテープの一本で二時間という長時間化、カメラの
小型化やオートフォーカス化がそれになる。取材近世時代が
花開くのである。
 しかしながら欲の深い人間としては、まだ満足でぎないの
である。例えば医学の学会の取材に行くとする。研究者の発
表形式は、短時間に相当な数のスライドを駆使しレーザー・
ボインターで映像を指しながら、猛然たる速度で原稿を読み
上げていくというものである。この取材は、ノートとぺンで
は歯が立たない。カメラでスクリーン上のスライドを撮り、
録音機で研究者の発言(ほとんど朗読だが)を記録するしか
なかった。だが取材後に写真と録音内容を一致さぜるのがき
わめて困難。研究者がスライドのどこを指していたのかの、
連続した時間的推移が記録されていないからだ。
 
 取材道異も近代に
 
 が、ついに時は釆た。8ミリビデオの登場である、一眼レ
フカメラなみの容積、重量で、外の世界の素材を、時間の推
移とともに完壁に取ってこられるようになったのだ。
 取材道具は、華々しい近代に到ったのである
 近代に入ったのはいいが、欲望はとめどもないものである。
新しいハンディ・ビデオカメラ、ハンディカム・プロ(CC
D−V90)がSONYから出たのだ。ちょっとよさそうな
気がして導入へ気持ちが動いてしまって、欧州取材に出る前
日、スタッフの山村紳一郎君に調べてくれるよう頼んだ。わ
が書斎の片隅で、ヨドバシカメラやビックカメラなどに電話
で問い合わせていた彼が、「む−っ]と捻った。「どこにも
ないのだ、全然」
「昨日まで一台あったけど」「予約して一カ月待って下さい」
「いつ入るかわからないので予約は受付けません」
 物資不足のモスクワである。手に入らないと知ると、いっ
そう手に入れたくなるのが卑しい書斎人なのである(困った
もんだ)。山村君は、『ビデオサロン』というビデオ機器専
門雑誌を賈ってきて、広告を頼りに片っぱしから専門店に必
死に電話をかけ続ける。五軒、十軒、十五軒。やはり「ない」。
 ここで作戦を練った。この広い東京圏のどこかに、必ず一
台くらいあるはずだ。東京の周辺部へ捜索を広めよう。ダイ
アルすること十八本目。町田市に一台だけあったのである。
 
 画像検索」の電話帳を
 
 捜索を終え、入手を果たし、カバンに収めて無事欧州取材
に出たが、機上で今回の物捜しについて考察するうち、もっ
とうまい電話捜索システムがあっていいんじゃないかと思い
始めた。電話をかけた店のほとんどは、行ったことも見たこ
ともないのである。だが、「あそこの町の、あの横丁に、こ
っちの角に置いてありそうな店があったな」と、勘が働いた
店はあったのだ。だが、店の名前がわからない。104番な
り電話帳で、住所から電話番号を検索するシステムがあれば
いいのに。
 例えば、喫茶店の名前がわからなくても、お互い場所は知
っているため待合せをすることがある。それが突発の事情で
時間に遅れ、電話をしたくても、104番では無理なのだ。
 と、パリに着いて知人にこの話をしたところ、「そんなの
パリじゃ常識ね」と涼しい顔をするのである。ポンとだされ
た電話帳の表紙には、「パリ市1985年3月電話加入者公
式リスト」とあって、ぺージを開くと、サン・ルイ・アン・
リル街、パリ4区」という見出しの下に1〜9まで、番地別
に居住者の氏名と電話番号がずらりと並んでいるのだ。
 IMMUBLE(1)633 9472 と、KOHN Maurice medecim 633
9300というお二人の間には、Keiko Kishi と、かの岸恵子さ
んの電話番号も公開されているのだ。
 取材がぺンによる文字記録からビデオによる映像記録へと
進化したように、バリの電話帳は氏名という「文字検索」か
ら「あの街の角の……」という「画像検索」へと、すでに進
化を果たしていたのだった。
 こういう情報化社会の新事実がわかってよかった。やっぱ
りハンディカム・プロを買ったからこそ、こういうことがわ
かったのだと自らに言い聞かせているのだが、そんなことば
かりしているがために、今、ドイツのアウトバーンを行く車
中で、この部分を携帯用ワープロで打つハメになってしまっ
たのである。── 山根 一眞《スーパー書斎の遊戯術 28
書斎版「尋ね物」の時間 19871022 週刊文春》(隔週連載)
 
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── このとき、電話帳で最寄の医療機関を探すことが不便なことに気
づき、数年後《医薬104》を完成するきっかけとなった。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060209 肩組む人々 〜 四十肩から五十肩へ 〜
 
── 桑原 俊明《医療電話帖できる 19840619 朝日新聞》
── 阿波 之男《MEDICAL DATA 104 19840101 PAX 104》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19840531 岡山県版《医薬104》刊行に際して
 
── 余禄 〜 26年前の「あとがき」より 〜
http://q.hatena.ne.jp/1270699976#a1007009
 点と線 〜 中心で一致するが、周辺で散在する 〜
 
── 日本のIT革命は、とても進んでいるとは思えない。たとえば、
NTTが請求書を印刷して郵便で送ってくると、その数字を手入力して
いる。誤まりがないか確認すると、ふたたび印刷して、別の帳簿に写し
かえている。どうして、すべてをパソコンに任せようとしないのか。
── マイクロソフト創業者・ビル・ゲイツ《講演 20000616 立教大学》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20080723 電辞苑 〜 窓際の担当者 〜
 
http://www.ntt-east.co.jp/ryoukin/payment/kouza.html
 「労働の汗の信仰」“汗の報酬”
http://q.hatena.ne.jp/1146966576#a522398
 
── 「あなたのお名前は?」「電話帳に載っておりますわ」
「それなら、お電話番号を」「それも、電話帳に載っておりますわ」
http://q.hatena.ne.jp/1094924113#c13935 お嬢さん、お手やわらかに
 
(20100428)
 


1987年10月04日(日)  来賓祝辞 〜 YMK三君の披露宴 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19871004
 
 住谷 悦治 経済思想史 18951218 群馬 京都 19871004 91 /同志社総長
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050923
 点鬼簿 〜 与太郎の過去帳 〜
 
 ◆ Y君の巻
 
 ほとんどの場合、人品骨柄は一目で判別できるものだ。
 しかし、万が一はずれることもあるので、心ある者は沈黙する。
 与太郎の生涯で、もっとも風格を感じた知識人のエピソードを記す。
 
 同志社の同期生には、あきらかに優秀な者と、あきらかにそうでない
連中が混在している。優等生にも人格いやしい者もいるが、劣等生には
見るべきものが少ない。
 
 しかし、おおむね裕福なので、能力以上の見栄っぱりも多い。
 とくに結婚披露宴では、友人が少ないのに、来賓が大物だったりする。
 その日は、数万の学生を擁する立場にある総長が、なぜか現われた。
 
 こういう人は、うっかりすると毎日のように招かれるにちがいない。
 同志社の教師たる者は「徹頭徹尾、生徒を愛せよ」とあるらしいので、
成績のランクによって差別するわけにいかないのであろう。
 
 ◇
 
 つまり「こんなヤツが?」という手合いにも、なにか断われない事情
があるらしく、総長の姿を見ることになる。
 Y君の披露宴は、あきらかに身分不相応だった。
 
 与太郎は、Y君の小学校以来の友人としてでなく、カメラマンとして
雇われていたが、母上に「ちょっと、写真屋さん」と呼ばれて、ムッと
した(お母さん、それはないでしょう、と云いたいのをこらえた)。
 
 ほかに友人と云えば、司会をつとめるU君くらいで、これでよく一流
ホテルに百人も集めたものだと、あとになって舌を巻いた。
 開宴時間が迫るころ、与太郎は総長に呼びとめられた。
 
 もとより与太郎は、総長の講義を受けたわけではない。
 総長を間近に見たのも初めてである。
 しかるに総長は、一瞬にして与太郎を新郎の友人と認めたのである。
 
 ◇
 
「きみは、Y君の友人かね」「そうです」「新郎のことを、教えてくれ
ないか」「はい」「どんなスポーツをして、得意科目は何だったかな」
 さすがの与太郎も、返答に窮したが、知らないとは云えない。
 
 なかば当てずっぽうに「テニスをやってまして、得意科目は英語です」
と答えると、総長は、おもむろに手帳を取りだして書きこまれた。
 そして「どうもありがとう」と会釈して、悠然と壇上に向われた。
 
 たった一言のメモをもとに、総長の祝辞がマイクを通じて始まった。
 列席者の誰一人として、その内容を疑う者は居ない。
 風格おそるべし、与太郎は、すっかりおそれいった。
 
 下記の写真を見れば、その質実剛健の人柄が伝わってくる。
http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/bunmei/gunma18/ikeda.htm
 安中教会&住谷天来の生家(画像)
 
 ◆ M君の巻
 
 M君の来賓は、ゼミの教授だった。
 教授の祝辞は、ものなれた口調で始まった。
 しかし、よく聞くと、とんでもない辛辣なウィットにあふれていた。
 
「せんだって、M君から電話があって、披露宴でしゃべってくれという。
いちおう引きうけたものの、すぐに顔を思いだせないので、卒業年度と
名前のメモをたよりに、当時のアルバムをひろげてみた」
 
 ところが、記念写真を見ただけでは思いだせないので、直接会ったら
思いだすだろう、と考えて、きょう来てみたが、やっぱり思いだせない。
しかし、本人が覚えているのだから、たぶんわたしの教え子なんだろう。
 
 新郎の成績も、まったく記憶がないので、可もなく不可もなさそうだ。
 そんなわけで、わたしは覚えていないが、とにかくメデタイらしい。
 しまらない話だが、新郎新婦、どうか幸せになってもらいたい、以上」
 
 この先生の祝辞は、どこからどこまでがジョークなのか分らないが、
まさか大真面目というわけではないだろう。
 たぶん、誰に頼まれても同じ調子で、同じように述べているはずだ。
 
 ◆ K君の巻
 
 やたら政治家や名士の多い披露宴もある。
 いつも選挙カーに乗ってお辞儀している人が、どうしてエライのか、
そういう連中を招いて、なにが自慢なのかも分らない。
 
── K君の結婚披露宴(都ホテル)では、8ミリ撮影する与太郎が、
用意された食事を断わったところ、アシスタントに来ていた(後輩の)
W君が、ひとり別室でフルコースをあてがわれた。
 
 ウエイターがつききりで、フランス料理の作法を教えてくれたという。
 後年フランスに定住することになった彼は、このとき中華料理だった
ら、北京音楽院を出て上海交響楽団で働いていたやもしれぬ。(略)
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070320
── 《シンフォニエッタ50周年記念誌 20070320 Awa Library》P28
 
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
↓=Non-display><↑=Non-display            |
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(20070721)
 


1987年10月01日(木)  ルサコフ 〜 九月三十一日生れ 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19871001
 
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 ルサコフ Konstantin V.Rusakov (19090931〜)  ソ連元共産党書記
1943 入党 1948〜1957 の間3回にわたり漁業次官 1958〜1964 外交畑
勤務 1968 党中央委員会社会主義諸国連絡部長 1971 中央委員 1977〜
1986.03 党書記 
── 読売年鑑別冊《分野別人名録 1985〜19870301 読売新聞社》
<<

 Let'19870518
 
 読売新聞社 読売年鑑編集局 御中
 
 拝 啓
 初夏の候、ますます御清栄の御事と、お慶び申しあげます。
 当・アィピー協会では、古今東西200ヵ国22000人の著名人を、
誕生日・命日ごとに網羅した《WHO'S WHO SERIES》を編集
しておりますが、下記の点について御教示ねがいたく存じます。
 
1.ルサコフ氏(Konstantin V.Rusakov) の生年月日は《読売年鑑》
  人名録によると、1909年9月31日となっていますが、正しい
  でしょうか?
2.その場合は、旧ロシア暦の日付けと思われますが、現在ありえない
  日は他にもあるのでしょうか?
3.さらに、ロシア暦に関する日本語の文献があれば、御教示ください。
  これまでの当方の資料を同封いたしましたので、なにとぞ御高覧の
  上、御高配賜りますよう、お願い申しあげます。
 
 恐縮ながら御返信用切手を添えましたので、下記宛に御返送ください。
                        敬 具
>>

 Let'19870526
 
 お問い合わせのルサコフ氏の生年月日についてですが、御指摘の通り、
九月三十一日というのは、確かにおかしいので、ロシア語の専門家にい
ろいろ調べてもらいましたが、ルサコフ氏の生年月日には、九月三十一
日のほか、十二月三十一日というのもあることがわかりました。
 九月三十一日をとっているのは、ロンドンのヨーロッパ・パブリケー
ションズ社のインターナショナル・フーズフー第五十版などですが、日
本語の現代ソ連人名辞典は十二月三十一日です。そこで、最も信用でき
るソ連で出したロシア語の人名辞典等を調べたのですが、いずれも一九
〇九年とあるのみで、月日の明記してあるものは見つかりませんでした。
両日付について、それぞれ根拠はあると思いますが、どちらが正しいの
か断定するに至っていないのが現状です。
 御承知の通り、ロシアが露暦からグレゴリオ暦に移行したのは革命後
の一九一八年ですので、ルサコフが生まれた一九〇九年には現行より十
三日遅れた露暦だったわけですが、この暦法移行が二つの日付と直接か
かわっているとは思われません。ロシア暦法については、三省堂のロシ
ア・ソビェト・ハンドブックにありますが、くわしいことはちょっと分
りません。
 ルサコフについては、十二月三十一日の方が正しいようにも思われま
すが、露暦九月十八日生まれに、単純に十三日を加えて、九月三十一日
にしてしまったことも考えられ、いずれも二次的資料だけでは断定でき
ない次第です。
 回答としましては、誠に頼りないことですが、外国の場合、こうした
ケースの確認も簡単にはまいりませんので、その辺の事情ご賢察いただ
きたいと思います。なお、ルサコフにつきましては、今後とも、確認す
べく、外報部に調べを依頼してあります。
   読売新聞社・読売年鑑編集デスク・情報調査部  武田
<<

 Let'19870529
 
 懇切な御回答、ありがとうございました。
 露暦に、単純に十三日を加えたのではないか、という御推察は、私の
経験からも、あり得べきことで (年によっては十二日を足しますが) 、
それなら、なぜ十月一日としなかったのか、微笑を誘われます。
 別の推測ですが、13が左右転倒して31の誤植になった、とも考え
られます。
 しかし、ソビェト連邦という大国が、膨大なロシア文化を継承したに
もかかわらず、ごく日常的な事柄が、すぐ分らないのは不思議ですね。
 中国の場合も、生没年月日については、伝統的な無関心が感じられま
すが、今後は、外交対策としての対応変化に期待されます。
 もうひとつの重要な暦法に、イスラム暦もあり、今後の課題ですが、
暦法が異なる国同志は、どうも仲が良くないようです。
 御精励のほど、祈りおります。
 
 Let'19870425-0518
 
 以下の宛先からは返信がなかった。
 
156 世田谷区経堂1-11-2          日ソ協会 御中 (19870425)
100 千代田区麹町2-3麹町ガーデンビル 日ソ親善協会 御中 (19870518)
106 港区麻布台2-1-1      ソビエト連邦大使館 御中 (19870518)

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 当初13000人の誕生日別人名録《BirthDays 366 19851001》にはじまっ
た《生没総譜》は、十六年後には100,000行のデータベースに成長したが、
インターネットで公開するためには、いまひとつ困難がある。
 もっとも奇妙な日付だったが、真相は不明のまま削除された。
(20030930)


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