与太郎文庫
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1979年02月18日(日)  わが経営を語る   林 正典

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790218
 
 わが経営を語る 
 
 日本包装運輸株式会社(神戸市)
 代表取締役副社長  林 正典 君
 昭和54年2月18日・於 熱海 大観荘
 
 当社は包装運輸の名で、はじめ包装を本業として創立しましたが、現
在は倉庫・船舶のエージェント・通関など、輸出入の手続きを業務とし
ております。
 運輸の面では、トラックは一台もなく、かつて持ったこともあります
が、事故やその他の点で下請に依存した方がよい、という判断によりま
して、現在は持っておりません。
 昨年度売上約33億円、利益1.6億、社員230名ですが、下請からの出向
や、100%出資の子会社などを併せますと、総員は約500名であります。
 戦後、創業当時は繊維織物の包装を主として好景気が続いたのですが、
12〜13年前から悪化しまして、木箱包装に変るにつれて倉庫業務を強化
し、現在のような輸出入関係の業務を加えて参りました。
 コスト面での競争が激しく、その結果サービスの延長として、こうし
た業務が重要な部門に成長し、現在の目標としまして、海外業社との提
携による Door to Door Service を掲げております。
 こうした業務は、ほとんど政府の認可を受けながら進んでまいりまし
て、いわば封建的な業界である、といえます。
 加えて、高度成長期は、取引先の伸長が、そのまま自社の伸びにつな
がって、自社の努力があまり必要でなかったこともあり、取引先の七割
ないし八割が一部上場会社であったために、順調で安定した業績をあげ
ることができました。
 しかし、石油ショック以後は、取引先各社にも相当きびしい事態が生
じまして、たちまち荷物量が減る、という段階では私たち自身の努力が
要求され、その結果、体質改善を図らなければ、他社に負けていくので
はないか、という不安も生じました。
 この問題に対応するには、社員一人一人の向上のため、すべての社員
に経営の内容を認識させ、理解させるために、約3年前から“全員経営
参加”というテーマで、つぎの発表大会を設けることになりました。
 
 ◆ 期首期末の発表大会
 
 まず、各期のはじめに、社長・役員・各部長がそれぞれの立場から、
売上目標や利益の考えを示す“方針発表大会”では、その目的達成のた
めに各部・各課で何をすべきかを発表します。
 そして期末の“実績発表大会”で、その結果を分析し、同時に昇格人
事の発表、永年勤続者表彰、結婚出産などに金一封を贈る形式にしまし
た。
 実績表彰については、各部単位の評価で、総務や政府関係のスタッフ
から一人、さらに現業から一人、という三部門に分けて選び、公平を期
します。(総務関係者は、日ごろトップと密着した印象を与える点で、
事前の了解を得て、あまり表彰しない方針です)
 その後の傾向を見ますと、これまでは部単位の評価が、課単位のもの
に変っています。利益の対象に、課の効率を重視するようになり、各課
長の明確な方針が要求され、昨36期の期首発表大会では、課長中心とな
り、各課長が、現在の厳しい状況を認識した上で、全社員の前に、その
方針を明らかにすることになりました。
 
 ◆ 認識の徹底
 
 こうした発表形式の背景となったものに、従来ともすればマンネリ化
していた問題、営業と現業の分離がありました。それぞれの立場から、
たとえば原価意識など、お互いに大まかな形でしか把握していない点に
問題があったようです。
 その前に、部から“課の独立採算制”に移っておりまして、現業も独
立採算制を採るべきではないか、という議論もありましたが、そこまで
やると、今のように厳しいコスト情勢の中で、不必要なボーダーライン
を設けては、かえって活きたセールスにならない、と判断しました。コ
スト・フレキシビリティ(原価柔軟性)を重視したわけです。
 ただし、営業の取ってきた仕事を現場が受けるに当って、その仕事が
適切な単価であるか、もし標準単価を割る場合には、現場から下請に対
する再交渉により、実質的な原価コストを維持するわけで、三年前まで
は、まったく考えなかった方法で、その結果、営業にも現場にも原価意
識が徹底し、利益採算性の追求が厳しく行われるようになりました。
 こうして、時には部や課のあいだで、デッド・ヒートを見るようにな
りましたが、それぞれの部門が会社全体の中で、どのような役割りを負
っているか、という認識を高めるためにも、私たちは大いに奨励してお
ります。
 期首期末の発表大会だけでなく、毎週の部長会議を通じても、こうし
た方針を徹底させるよう努力しています。
 さらに、これまでの経験から、これら認識の徹底については、何度も
繰りかえし説得することが必要で、たとえば、部長会議では反応が速く
ても課長の段階で、なかなか効果があらわれない、といった傾向があり
ました。しかし、この三年間に改善され、全体的な流れを理解した各課
長の動きが、当社の大きなメリットになりつつあります
 
 ◆ 延長と展開
 
 昨日、有岡先生のご発言にもありましたように、輸出環境がたいへん
厳しく、昨年一昨年に比べて、今後ますます伸び悩むであろうことは、
私たちも神戸港におきまして、日々実感していることでもあります。
 その影響をモロに受けながら、なおかつ脱皮する方法として、私たち
の場合、先にも申しましたように、サービスの延長以外にない、と思わ
れます。
 海外の提携先とのタイアップによって、船のゲートから現地の内陸
(ドア)に至る手続きを開発し、サービスとして展開するわけです。
 このことは、私ども自身が思いついたのではなく、欧米の同業社が、
こうした形態ですでに進出してきており、私たちがやらなければ当然、
彼らがやるだろうし、私たちの権益を守るための自衛手段として、やむ
なく採るべき方法でした。
 私たちの場合、その提携先に恵まれておりまして、ひとつの例を挙げ
ますと、西ドイツの会社ですが、同国内でのトラック輸送を中心に、繊
維製品のハンガー・システムを確立して、昨今の厳しい情勢下にあって、
なお年間約25%の伸び率を示しているところがあります。
 同社は、バイヤーのニーズに合わせたサービスというものに、非常に
熱心です。私たちの常識から申しますと、繊維製品をハンガーに掛けて、
送るだけでいいではないか、というところですが、製品の購入を決定し
たバイヤーにとって、必要なことは、もっとも速く短期間に手に入れる
ことなのです。
 そこまでを、ひとつの流れとして把え、先方の船が日本を出る時、ど
のコンテナにどの製品が入っていて、ハンブルグにいつ到着するか、1
個あたりの船賃はいくらかかったか、という内容の情報を、出帆後3日
以内に知らせなければなりません。その義務を私たちが負っているわけ
です。
 これらの情報を得たバイヤーは、終点のデパートに対して、売単価や
コストをはじいて分配し、すべての手配を済ませておくことが可能です。
船が着くまでにすべての製品について、配送先が決定しているわけです。
 こうしたすむーすな取引きが、魅力ある業社として、荷主に好印象を
与えており、私たちも勉強させられる点ですが、海外の業社の場合、常
によく考えぬいたサービスに努めるケースが多いようです。
 
 ◆ 経営者のすがた
 
 高度成長期にあっては、低賃金の人がモーレツに働くことによって利
益を生じたけれども、低速経済したでは、モーレツにも限界があるわけ
で、プラスアルファとして、頭を使うことが大切になると思われます。
 それには、経営者・管理職がみずから率先して、利益全体の70%くら
いをあげていく努力が必要です。
 そして、現実のリスクに対してチャレンジする姿勢も必要です。すな
わち社内に“リスク解決機能集団”を設けるとともに、私自身は最終的
に、経営理念というものが、もっとも重要ではないか、と考えておりま
す。
 昨年、京都でPHPの第1回講演会に参加する機会を得たのですが、
その折、松下幸之助氏は、つぎのように訴えておられました。
 ……あなたは経営者という仕事が好きですか? 経営者の仕事には、
心配ごとや困難なこと、そして思い責任があるんですよ。それでも好き
ですか? もし好きでなければ、あなたは経営者の仕事を止めるべきで
す……。
 取締役も部長も課長も、それぞれ仕事と立場が異なるが、その仕事や
立場が、好きでなければならない、といわれるのです。
 たとえば課長というのは、上と下の板ばさみの状態であることが、解
決への道程であります。
 私自身の反省を申しますと、二世という意識から、若干義務的な形で、
経営にタッチしてきたのではないか、会社があったから、社長に命ぜら
れるから、社員も居るから、という姿勢があったのではないか。経営に
従事する者は、その苦しみを楽しみとするくらいでなければ、現時点の
難問を乗りこえられないのではないだろうか。し霊前に、そういう信念
を持ちあわせていなければならない、ということに思い至りました。
 戦後の子供が、ドライで割りきった考えに偏っている原因の一つとし
て、親の姿の変化があるようです。
 私は、ことし40歳になりますが、私の世代では、たとえば母親の姿を
思い浮べる時、洗濯といえば洗濯板でゴシゴシと洗っている姿でした。
夜になってお休みなさいをいう時には、母親は編みものはつくろいもの
をしていました。
 戦後の子供にとって、洗濯といえば、電気洗濯機というキカイが思い
浮かび、夜になってお休みなさい、をいう時の母は、テレビを観ている
わけです。キカイに置きかえられた母のイメージが、子供に情を失わせ
た、とも思われます。
 経営者についても、私たち自身の姿が、そのまま従業員に訴える力と
なるのではないか、実際の行動ひとつひとつに信念のある態度を示して、
その中にも私たち自身の反省が認められなければ、全員の協力を得て、
危機を脱出できないのではないか、と思われます。 なかなか、できそ
うでできることではありませんが、松下幸之助さんは、しばしば“素直
になれ”といわれるが、当の、松下さん自身、素直になるのに30年かか
ったそうです。しかしヘボ碁も毎日、10年間打ちつづけておれば、初段
になれると申します。
 毎日毎日“素直になろう”と努力する、謙虚な気持ちになることが大
切であると考えます。
 
 記録者 1979年度経営開発委員会 第二小委員会
     深町 征四郎
     高村 睦浩
  (JC 倉敷青年会議所)
────────────────────────────────
 有岡 正樹 ? 経営評論   19..・・
 深町 征四郎  山陽美装社長 193.・・ 山口 倉敷 1980・・ 4. 車中排ガス自殺
 林 正典 日本包装運輸社長 1939・・ 神戸 群馬 19850812 45 航空事故死
── 朝日新聞社会部《日航ジャンボ機墜落 19901005 朝日文庫》P266
 
 深町 征四郎  ワーゲンクラブ会員
〒710笹沖20000629JC倉敷青年会議所事務局421-9566(Mrs.Eguchi)
 OB訃報は《集年誌》に所載。命日を問合せるも、不詳。


1979年02月16日(金)  柳田文庫 〜 木綿以前の事 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790216
 
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》 (2)
 
 目次
 
 自序 ………………………………  3
 木綿以前の事 ……………………  11
 何を着ていたか …………………  20
 昔風と当世風 ……………………  33
 働く人の着物 ……………………  51
 国民服の問題 ……………………  58
 団子と昔話 ………………………  65
 餅と臼と擂鉢 ……………………  77
 家の光 …………………………… 107
 囲炉俚談 ………………………… 111
 火吹竹のことなど ……………… 123
 女と煙草 ………………………… 131
 酒の飲みようの変遷 …………… 136
 凡人文芸 ………………………… 148
 古宇利島の物語 ………………… 156
 遊行女婦のこと ………………… 161
 寡婦と農業 ……………………… 177
 山伏と島流し …………………… 202
 生活の俳譜 ……………………… 218
 女性史学 ………………………… 250
 解説(益田 勝実) ……………… 297
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
── 柳田 国男《柳田 國男全集32 19910226 ちくま文庫》P330
── 柳田 国男《年中行事覚書 19770310-19860829 講談社学術文庫》
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》
 
(柳田国男《居酒》考に傾聴せよ)。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070404
 蛇足 〜 いわずもがな 〜
 
 柳田 国男 民俗学 18750731 兵庫 19620808 87 /貴族院書記官〜《遠野物語》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19450115
 異母姉弟 〜 寒い日に生まれた女の子 〜
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 酒の飲みようの変遷
 
(略)
 
 足利後期の京都人の日記など見ると、別に「ゐなか」という酒が地方
から、ぽつぽつと献上せられ且つ賞玩せられている。田舎と謂っても勿
論富家の家であろうが、こうして自慢の手造りを、京まで持参しょぅと
するのだから、もうこの頃には貯蔵の風(ふう)が弘く行き渡り、或る
家には飲まずに辛抱している酒というものが有ったのである。しかしそ
ういう酒の自由になる人は、おそらくは有力者だけに限られていたこと
であろう。事実また尋常の日本人は、秋の穀物の特に豊かなる季節に、
祭礼とか秋忘れの寄合いを目あてに、大いに飲むつもりでめいめいの酒
を造ったので、貯えて置けるようならよいのだが、大抵は集まって皆飲
んでしまったらしい。
   秋になるより里の酒桶(さかおけ)
という『境野集(あらのしゆう)』の附句(つけく)もある。或いはま
た、
   ふつふつなるを覗く甘酒
という『続猿蓑(ぞくさるみの)』の句などもあって、まだこの頃まで
は甘酒の醸辞して酒になる日を、楽しみにして待っている人も多かった。
それが一年にまたは一生涯に、数えるほどしかない好い日であったこと
は言うまでもない。だからいよいよその日が来たとなると、いずれもは
めをはずして酔い倒れてしまったのである。
 
 三
 
 それからまた一つの制限は、昔は酒は必ず集まって飲むものときまっ
ていた。手酌で一人ちびりちびりなどということは、あの時代の者には
考えられぬことであったのみならず、今でも久しぶりの人の顔を見ると
酒を思い、または初対面のお近づきというと飲ませずにはおられぬのは、
ともに無意識なる昔風の継続であった。こういう共同の飲食がすなわち
酒盛りで、モルはモラフという語の自動形、一つの器の物を他人ととも
にすることであったかと思われる。亭主役のちゃんとある場合は勿論、
各人出し合いの飲立て講であっても、思う存分に飲んで酔わないと、こ
の酒盛りの目的を達したことにはならなかった。すなわちよその民族に
おいて地を啜って兄弟の誼を結ぶというなどと同じ系統の、至って重要
な社交の方式であり、したがってまたいろいろのむつかしい作法を必要
としていたのである。
 婚礼とか旅立ち旅帰りの祝宴とかに、今でもまだ厳重にその古い作法
を守っている土地はいくらもある。我々の毎日の飲み方と最もちがう点
は、簡単にいうならば酒盃のうんと大きかったことである。その大盃が
三つ組五つ組になっていたのは・つまりはその一々の同じ盃(さかずき)
で、一座の人が順々に飲みまわすためで、三つ親の一巡が三献(さん
こん)、それを三回くり返すのが三三九度で、もとは決して夫婦の盃に
は限っていなかった。大きな一座になると盃のまわってくるのを待って
いるのが容易なことではない。最初は順流れまたは御通しとも称して、
正座から左右へ互いちがいに下って行き、後には登り盃とも上げ酌など
とも謂って、末座の人を始めにして、上へ向かってまわるようにして変
化を求めたが、いずれにしてもその大盃のくるまでの間、上戸は咽を鳴
らし唾を呑んで、待遠しがっていたことは同じである。この一定数の巡
盃が終ると、是でまず本式の酒盛りは完成したのであるが、弱い人なら
それで参ってしまうとともに、こんなことでは足りない人も中には居る。
それらの酒豪連をも十分に酔わせるために、後にはいろいろの習慣が始
まった。お肴(さかな)と称して歌をうたい舞を舞わせ、または意外な
引出物を贈ることを言明して、その昂奮によってもう一杯飲み乾させる
などということもあった。亭主方は勿論強いるのをもって款待の表示と
しておって、勧め方が下手だと客が不満を抱く。だから接伴役にはでき
るだけ大酒飲みが選抜せられ、彼らの技能が高く評価せられる。酒が強
くて話の面白い男が客の前へ出て、「おあえ」と称してそこにも変にも、
小規模な飲み食いが始まる。或いは客どうしで「せり盃(さかずき)」
などと称して、あなたが飲むなら私も飲むという申し合わせの競技をし
たり、または「かみなり盃」と謂ってどこに落ちるかわからぬという盃
を持ちまわって、その実予(かね)て知っている飲み手に持って行った
り、また或いは「思いざし」などと謂って、やや遠慮をしている人に飲
ませようとしたりした。酒宴の席の賑かなのを脇で聴いていると、大抵
はこんなつまらぬ押問答ばかりであった。しかしそうして見たところで
なお迷惑する人が、飲みたい方にもまた飲みたくない方の人にもできる
ので、これを今一段と自由にするために、いつの頃よりか「めいめい盃」
というものが発明せられた。是は一つずつ離したやや小さな塗盃(ぬり
さかずき)で、始めから客人の御膳(おぜん)ごとに附いている。これ
を用いるようになってから、組の大盃のまわってくるのを待たずに、向
こうもこちらも一度に飲むことがやっとできたのである。今日の小さな
白い瀬戸物のチョクなるものは、つまりこの「めいめい盃」のさらに進
化したもので、勿論二百年前の酒飲みたちの、夢にも想像しなかった便
利な器だが、一方そのために酒の飲み方が、非常に昔とちがった、だら
しのないものになった。酒を飲む者の目的または動機が、おそらくこの
陶器の酒盃の出現を境として、一変してしまったろうと思われる。徳利
(とつくり)は或いは独立して、酒を温める用途にもう少し早くから行
われていたかも知れぬが、少なくとも盃洗(はいせん)などというもの
はその前には有り得なかった。是で盃を濯(すす)ぐことをアラタメル
と謂ったのも、もとは別の盃にするという意味で、『金色夜叉』の赤樫
満枝という婦人などが、「改めてござい豊んよ」と謂って、盃を貫一に
さしたのを見ても判るように、本来は同じ盃の中のものを、分ち飲む方
が原則だったから改めなかった。それを今日は見事に飲み乾すのをアラ
タメルのだと思う者さえある。是ほどにもまず以前の仕来りを忘れてし
まっているのである。
 
 四
 
 支部の文人などには、独酌の趣を詠じた作品が古くからあったようだ
が、此方では今でも普通の人は酒に相手をほしがる。一人で飲むにも酌
をする者を前に坐らせ、また時々はそれにも一杯飲ませようとする。そ
うして手酌でこそこそと飲んでいる者を、気の毒とも悪い癖とも思う人
は多いのである。この原因は今ならは差尋ねてみることができる。現在
は紳士でも屋台店の暖簾をかぶったことを、吹聴する者が少しずつでき
たが、つい近頃までは一杯酒をぐいと引掛けるなどは、人柄を重んずる
者には到底できぬことであった。酒屋でも「居酒(いざけ)致し候」と
いう店はきまっていて、そこへ立寄る者は、何年にも酒盛りの席などに
は列なることのできぬ人たち、たとえは掛り人とか奉公人とかいう晴れ
ては飲めない者が、買っては帰らずにそこにいて飲んでしまうこれから
居酒であった。是をデハイともテッバツともまたカクウチとも謂って、
すべて照れ隠しの隠語のようなおかしい名で呼んでいる。しかもこうい
うのも酒を売る家が数多くなってから後のことで、以前はそんな撥会も
得られなかったのである。
 ところがこの一杯酒のことを、今でも徳島県その他ではオゲソゾウと
いう方言が残っていて、是によってはぽこの慣習の由来がわかる。ゲソ
ゾウは漢字で書くと「見参」、すなわち「見えまいらす」であって、始
めての、または改まった人に対面することを意味する。関東では婿が始
めて嫁の家を訪い、または双方の身内が親類として近づきになる酒宴だ
けをゲソゾまたは一ゲンというが、一ゲンはすなわち第一回の見参とい
うことで、婚礼の日に限るべき理由はない。現に関西では盆正月の薮人
がゲソゾ、古い奉公人の旧主訪問がまたゲソゾである。是に敬語を冠せ
てオゲソゾウというのも、目上の人への対面のことでしかない。『狂言
記』の中にも、「頭目はゲンゾでござらう」というのが奉公人の地位の
きまることを意味している。すなわち今日の御目見え以上に、いよいよ
主従の契約をする式が見参であった。こういう場合には酒が与えられる。
それも主人と酌みかわすのではなくて、一方が酌をしてやってその家来
だけに一杯飲ませるので、狂言では普通は扇を使い、何だか烏帽子櫃
(えぼしびつ)の蓋のようなものを、顔に当てるのが飲む所作となって
いる。すなわちあの時代にも一人で飲むのは下人で、主人との献酬はな
かったのである。それが後々は飲ませるかわりに酒手の銭をやることに
もなったが、やはり古風な家では出入の者などに、一杯飲んで行くがい
いと謂って、台所の端に腰を掛けて、親爺がお辞儀をしいしい一人で飲
んでいる光景が今昔も時折は見られる。大きな農家に手造りの酒があっ
た時代には、是が男たちを働かせる主婦の有力な武器になっていた。東
北ではヒヤケとも謂う小さな片手桶が、このためにできていた。是で酒
瓶(さかがめ)から直接に濁酒なり稗酒なりを掬んで、寒かったろうに
一ぱい引掛けて行くがよいと、特別に骨を折った者をいたわっていたの
である。勿論対等の客人にはこのような失礼なことはできない。すなわ
ち相手なしに独りで一杯を傾けるということは、ただ主人持ちばかりの、
特権といえばまあ特権であった。
 今日のいわゆる晩酌の起原も、是と同じであったことは疑いがない。
この酒を岐阜県などではオチフレ、また九州の東半分でヤツガイともエ
イキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸
県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに疲労を癒すと
いうことで、すなわち労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。
東京ではまた是をオシキセとも謂っているが、シキセほ元来奉公人に給
する衣服のことである。堂々たる一家の旦部が、その御仕着せに有付く
というのはおかしい話だが、起こりはまったく是もまた主婦のなさけで、
働いたその日の恩賞という一種の戯語としか考えられない。主婦の方で
もそう毎度相手と飲む酒盛りが家にあっても困るので、名義の穏当不穏
当などは問わず、一人で飲んでくれることを喜んだのであろう。こうい
う有難くもない名を附けられて苦笑しながらも、なお晩飯には一本つけ
て貰って、頭を叩いて飲んでいたというのも、結局は酒があまりにうま
く、かつて人々と集まって飲んだ味が忘れられなくて、何の祝賀でも記
念でもなく、また嬉しくも悲しくもない日にも、飲みたくなるような習
癖を生じたからで、一つにはまた買おうと思えば夜中にも、すぐに入用
の量が得られるような、便利な世の中になったためでもある。神代の昔
から、酒と名のつくものが日本に有ったからと言って、昔の人たちもこ
の通りに、女房の承認のもとにちょっとばかりの酒を、毎晩飲んでいた
と思うと大まちがいである。
 
 五
 
 証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもず
っとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも
主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経
験したいためで、神々にもこれをささげ、その氏子も一同でこれを飲ん
だのは、つまりはこの陶然たる心境を共同にしたい望みからであった。
今でも新しい人たちの交際に、飲んで一度は酔い狂ったうえでないと、
心を許して談り合うことができぬような感じが、まだ相応に強く残って
いるのもその痕跡で、つまり我々はこの古風な感覚の片割れをもったま
まで、今日の新文化へ入ってきているのである。酒の濫用ということが
もし有りとすれば、現在の過渡期が特にその弊害の起こりやすい時だと
言い得る。すなわち我々は一方には古い名と約束に囚われつつ、他方に
は新しい交通経済の実情に押しまわされて、その中間の最も自分に都合
のまい部分を流れているのである。両者新旧の関係は改めて静かに反省
してみなければならぬと思う。
 今度の大事変が起こってから、不思議に日本人の研究心と、発明力と
は大飛躍をした。是までかつて考えなかった有形無形の問題が注意せら
れ、着々と新たな方策が立てられたことは、時過ぎて回顧すればいよい
よ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。今
まで同胞がうっかりと看過していたことを、問題にして見るのには今ほ
どの好時期はない。独り歴史の学問だけが、いつまでも古い知識と元の
方法とに、止まっていてよろしいという理由は有り得ない。我々は酒を
飲む習慣の利弊に関しても、是非とも今と昔との事情の変化を知って、
現在の状態が果して国の福祉と合致するか否かを、明らかに認識し得る
ようにしなければならぬ。それを各人が自由に判断するだけの歴史知識
が、現在はまだ具わっておらぬとすれば、少なくとも求めたら得られる
程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に掃
蕩せられつつ、何らの自信も無く、可否を明弁することすらもできない
のは、権能ある指導者の恥辱だと思う。
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》P139-147
 
(20081121)
 


1979年02月01日(木)  会社の生命は永遠です

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790201
 
>>
 
 社員の皆さま
 
 日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。そ
の永遠のために、私たちは奉仕すべきです。
 私たちの勤務はわずか二十年か三十年でも、会社の生命は永遠です。
それを守るために、男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社の
イメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。
 
 一月三十一日夜 島田 三敬
 
 ↑(社員の皆さま と書かれていた遺書)
 ◆
 ↓(遺書とは別にフェルトペンで便せんに書かれていた言葉)
 
 今日まで、気の張りつめでした。頑張る、頑張る、でやってきました。
家族をギセイにし、家をギセイにして、そして、でも、日本一の航空機
部を作りました。誰が追随できるでせうか。
 決して、決して、政治家の力を借りた訳ではないのです。つきあいは
ありました。でも、その力を借りるという事は、期待できますでせうか。
それはない。自分の力、それ以外に何がありますか。政治家は便乗、役
に立たない。本当の力は私達でした。誰もが納得できるものを推す事が、
私達の戦術です。
 E2C然り、他に何にがありますか。対抗機は?
 F4EJ、他に何がありますか?
 F15、他に何にがありますか。対抗機は?
 良いものは、良い。必要なものは必要なんです。政治家は便乗、でも
良いものは良いのです。それに筋つけて、インネンつけるのは、おかし
いです。私は飛行機に生命をかけて来ました。生命をかけてきたものが、
採用されて何にが悪いんでせうか。
 他に何にがあるんですか。私は確信しているのです。国防を考えない
人は、何にか言います。チョコレート兵隊でも良いと、・・・それが本
当に防衛庁の声でせうか。防衛庁は国を守るのが目的です。おかしい。
国を守る事が本当に考へられているでせうか。淋しい事です。
 何にが何んだか解りますか。唯金だ、政治家だと言ふ事で、国会は大
さわぎ、本当に日本を考えている人は誰でせうか。事なかれ主義、それ
は、国、会社、組織をだめにします。こんなんでは日本は保てないと思
います。
 
<<
 
 島田 三敬(1980/02/01)→19790201
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/isyo/dazai.html
 


 野口 英昭  HS証券副社長  19670317 東京 那覇 20060118 38 /怪死
 島田 三敬  日商岩井常務   1923‥‥   東京 19790201 56 /飛降自殺
“ダグラス・グラマン疑惑”遺書「会社は永遠です」エアロスペース社長
────────────────────────────────
 牧 太郎 元サンデー毎日編集長 19441010 東京 /
1989キャンペーン「オウム真理教の狂気」「宇野首相のスキャンダル」
20000707Web《二代目日本魁新聞社》創刊/オウム“二代目”

 
>>
 
 キレの良いのが珠にキズ:歴史の偽装 〜 歴史は「うそ」をつく 〜
                         牧 太郎
 
 歴史が、すべて真実ではあり得ない……ことは百も承知で、あえて言
いたい。人の死をこれほど無造作に「自殺」で片付けて良いのか。
 
 ライブドアへの強制捜査。その2日後の1月18日午後、那覇市内の
ホテルの部屋の非常ブザーが鳴った。ベッドにあおむけで横たわってい
たのは、ホリエモンの側近だった野口英昭・エイチ・エス証券副社長。
病院に運ばれたが約1時間後に死亡、死因は失血死とみられる。38歳
だった。
 
 頚(けい)部、左手首、腹……計4カ所に鋭利な刃物で刺した跡があ
った。自殺? 他殺? ただ、切腹した人間が非常ブザーを鳴らすケー
スは少ない。危害を加えられ、必死で助けを求めた、あるいは謎の第三
者が“ある意図”で……と考えるのが普通ではないか。遺書もない。
 
 それが……警察はすぐに「自殺」と断定した。世間も「気の毒に」で
片付けている。
 
 しかし、フに落ちない。
 
 「おかしい」と思ったのは僕だけではない。ネットでは「自殺報道に
関する疑問を」という呼びかけに「前夜に会った人物と宿泊先が分から
ない」「飛行機から降りた後、いかに刃物を入手したか」「なぜ偽名は
山崎四郎なのか」……と数々の疑問が投げかけられている。ネットの匿
名氏(一部、実名氏)が真偽不明の他殺説を流している。
 
 自殺か、他殺か−−かつて、メディアは独自に調べたものである。出
来の悪い事件記者の僕でも、ダグラス・グラマン疑獄事件のキーマンが
ビルから飛び降りた時(79年2月1日)、彼と最後の食事をした人、
彼が最後に電話をした相手を探し出し、彼らの証言からやっと「自殺」
と判断した記憶がある。
 
 半月たって、週刊文春が「現場に、夫人が『主人のものではない』と
断定する血の付いたサッカーシャツが残されていた」と報じた。現場に
第三者がいた? 渾身(こんしん)のスクープ?
 
 ネットが世論を形成する時代がそこまでやって来ている。しかし、ど
この馬の骨か分からない匿名氏に“歴史のデッサン”を任せていいのか、
という疑問は常について回る。
 
 既存のメディアが「権力の発表」を鵜呑(うの)みにし、ある時はネッ
トに惑わされ、ある時は「署名の誇り」を忘れると……“歴史の偽装”
に加担することになる。メディアの正念場だ。(専門編集委員)
 
 毎日新聞 2006年1月31日 12時57分-14時00分)
 
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作成日: 2006/01/31


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