与太郎文庫
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1958年10月21日(火)  シンコペーション 〜 決裂と和解 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581021
 
 いまも幻の甲子園にむけて“ブラバン”の応援は欠かせない。
(当時テレビの普及率は、同志社では90%に達していたようだ)
 この日、川上哲治一塁手も引退。矢守邸で(楠原大八と)観戦する。
 
 ピッチャーがキャッチャーに「二塁へ投げてみろ」と合図する。先に
指で捕球したのを心配しているのだ。捕手も投手を労わって、自分の手
で丹念にボールをこね、もみほぐしてから返球する。
 
 目が細くて、何を考えているのか分らないような男が、かくも繊細な
気配りを最小限の身ぶりで伝えるのは、まことに粋である。
 このような石本秀一の解説によって、与太郎は野球開眼する。
 


 石本 秀一  解説 18961101 広島   19821110 85 /広島監督“カープの父”プロアマ歴任
 川上 哲治 内野手 19200323 熊本 東京 20131028 93 /巨人監督“赤バット”“打撃の神様”
 稲尾 和久  投手 19370610 大分 福岡 20071113 70 /西鉄監督“神さま、仏さま、稲尾さま”

 
 その翌日は、さすがに器楽部室からの騒音がやんだ。
 めずらしく彼らが楽器をおいて、口々に意見を述べあったのである。
 いまだかつて、これほど仲のよい集団を見た者はいないだろう。
 
 昼休みはもちろん、わずかな休み時間でさえも、メンバーのほとんど
が部室をめがけて馳せつける。そうして思い思いの練習をはじめるので、
ひとしきり奇妙な騒音が校内にひびきわたった。
 
 オーケストラの新入生は、はじめて楽器を手にする者がほとんどで、
それぞれ嬉々として取りくんだ。ただし彼らの上達は遅々たるもので、
しばしば“ゴリ”の神経を逆なですることになった。
 
 なにしろ“ゴリ”はトロンボーンを始めるにあたって、肺活量の鍛錬
“潜水泳法”を開発したほどの“コリ性”だから、一部の新入生が面白
半分に練習しているように見えたらしい。
 
「あいつら、演奏会には出さん」と言いはじめた。
 ついに文化祭を目前に、与太郎と決裂する事態に発展したのである。
 与太郎も、覚悟をきめて云いかえした。
 
「それを言うと、どっちかが辞めなあかんぞ」
「ほなら、オレが辞めたらええんやろ」
 こうして“ゴリ”は、憤然としてオーケストラを去った。
 
 十八歳と十九歳の少年の舌戦にしては、いささか純度が低い。
 与太郎の俊敏な反応は、かくなる事態を予見していたともみえる。
 のちに“ゴリ”を瞬間湯沸器と揶揄したほどだ。
 
 その場で“ゴリ”を追放しても、与太郎がオーケストラを失うことは
できない。のちのち与太郎が「俺のほうが正論やった」と弁解すると、
老人になった“ゴリ”も「そんなことは当たりまえや」と応じたものだ。
 
 たちまち与太郎は、みんなに説明せざるを得なかった。
「意見が合わないので、ゴリはしばらく練習を休むことになった。君ら
は、心配せずに今までどおり励んでもらいたい」
 
 第二クラリネットの堀 悦夫 君が、遠慮がちに質問した。
「ぼくらは、ゴリさんにどういう態度をとったらええんですか」
「ゴリは、君らの先輩や。いままでどおり先輩や」
 
 遠くはなれた方角から、ひとり練習するゴリが、トロンボーンの名曲
《僕はセンチになったよ》を吹いていると、鹿の遠音のように聞える。
 オーケストラの音もゴリの耳に届いているだろう。
 
 ふたりの創始者を仲直りさせることは、誰にとっても困難だった。
 そこで、トロンボーンの先輩・森本 理 君が気をくばって、栄光館の
同志社EVE音楽祭前日のリハーサルに“ゴリ”をつれて来てくれた。
 
 彼こそは、かつて吹奏楽“中興の祖”と伝えられる故・森本芳雄先生
の次男(潔君の兄)であり、いまも与太郎は畏敬の念を抱いている。
(こういう配慮ができる人には、生涯に数人しかめぐり会えないのだ)

 しかるに“ゴリ”はステージに登ったものの、与太郎とは口を利かず
じまいだった。二人の対立を象徴するかのように、当日の曲目、ビゼー
《カルメン前奏曲》は、絶望的なシンコペーション(切分音)で終る。
 
 ゴリは先に高校を卒業し、キャバレーでトロンボーンを吹いていた。
 かたわら音楽大学受験のため、有賀誠一の姉のゆり先生のもとに通う。
 ピアノが買えないので、もっぱら紙の鍵盤で練習したそうだ。
 
 いつのまにか、ゴリは同じ方角にある予備校に乗り換えたらしい。
 昨年の秋から、ひとことも口を利いていなかった浪人生と落第生は、
卒業してからも、なかなか和解のチャンスは訪れなかった。
 
 いま思うに、あのときが和解するための、唯一の瞬間だったのだ。
 与太郎が乗っている電車のドアから、ゴリが現われたのである。
 ゴリは一瞬まよったが、意を決して与太郎に話しかけた。
 
「おまえ、音大進学あきらめたそうやな」
「うん」
「おれも、音大進学やめて、ふつうの大学に入りなおすつもりや」
 
 たちまち二人は和解し、日を置かず、ゴリは与太郎の家にやって来た。
 与太郎は、東京芸大・金沢美大・京都美大(のち芸大)の入試問題を
取りよせていたので、ゴリに診てもらった。
 
 ゴリは、与太郎の学力を即断して「なかなか難航するな」と云った。
 あいかわらず(ゴリらしい)辛辣な表現だが、図星にちがいない。
(同じ頃、美大受験をしくじって浪人中の平井文人など数人あらわれる)
 
 翌年、それぞれ大阪市大と武蔵野美校に進み、高校入学式では、ゴリ
の編曲による《あおぞら》《真珠採り》《その他》が演奏された。
 夏には演奏旅行を企て、この件は《あまちゅ・かっぽれ》に別記。
 
 上手なアマ楽団は下手なプロ楽団とおなじく、つまらない。
 これでもか、というくらい下手なアマ楽団こそが、プロ楽団にまさる
というのが、与太郎の賛歌《あまちゅあ・かっぽれ》である。
(20060123-0129)
 
 ◆ 
 
 尺八二重奏曲《鹿の遠音》は、雌雄の鹿が相聞歌を交わすさまを描く。
http://www.h5.dion.ne.jp/~nawate/syakuhati%20oto.htm
 ♪ここでは、心ならずも決別した両者の心情を比喩した(双竜外伝)。
 
 syncopation
 リハーサルで、ゴリはわざとシンコペーションを一拍おくらせた。
 ビゼーの切分音については未完、両者の進路とともに別記する。
 
 ゴリが高校一年の水泳大会でぶっちぎり優勝した“潜水泳法”を指す。
“潜水唱法”は、ビング・クロスビーよりうまくなるため、フランク・
シナトラが開発したという。
 
19600410 与太郎はヴァイオリンで参加し、《白鳥の湖》は、ところ
どころ第一第二ヴァイオリンを同時に(ダブルストップで)演奏した。
(若林君の書簡による。カザルスとの対話に言及あり)
 
Tel'20051121 12:30-13:10 from Mr.Yoshida,Hajime
Let'20051121 to Mr.Yoshida,Hajime
 他に《双龍正伝&双竜外伝》同封。
 

 仰木 彬 プロ野球 19350429 福岡 20051215 70/
1959西鉄二塁手1993-20010928オリックス監督“仰木マジック”
19580407北九州市民球場(当時は小倉球場)の第1号本塁打
を阪急ブレーブス・梶本隆夫から放つ。

 
(↓)NPBマーク画像(他に数種あり)→沖縄サミット
http://www.npb.or.jp/
 
(20051006-20060610 Upload)


1958年10月10日(金)  山脈・第十六号 〜 Gone from the Window. 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581010
 


 
 やまなみ 16号 もくじ
 
    一茶の遺跡を訪ねて……………茂  義太郎… 1
    真の生活…………………………坂井 剛 …… 2
    パブロ・ピカソ…………………竹内 康 …… 4(去々日々)
    悔やまず…………………………下村 福 …… 8
    夏休みのある一日………………上原 麻子……10
    死に思う…………………………杉林 博子……11(虚々日々)
    詩・さよなら……………………原  昌子……12
      おまえ………………………対馬 晴子……12
      我が宿命……………………吉村 守 ……13
    彼岸花……………………………山本 典良……14
    泡…………………………………横田 三重子…18
    愛…………………………………今井 公子……20
    詩・哀……………………………笠本 義嗣……23
      一人ぽっちのねがい………水野 良清……25
    山陰線……………………………中西 宏 ……28
    はばたき…………………………山本 邦彦……34(19580921)
      執筆者紹介………………………………… 41
      後記………………………………………… 42

 
 編集者:笠本 義嗣・中西 宏/印刷所:芸林社
── 《山脈・第16号 19581010 同志社高校文芸部》
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
 前 略
 数多い投稿の中から、あなたの卓越した原稿を撰んで26日付学園欄
に掲載いたしました。
 おかげ様で学園欄に一段の光彩を加え得たことを厚く御礼申し上げま
す。今後とも一層の御協力をお願いいたします。
 なお、掲載紙に添えて同封いたしました品物は誠に軽少ですが、記念
品としてお届けいたします。
 ではお元気で
   9月30日
             毎日新聞社
                  社会部学園係
 
── 《学園欄 19580926 毎日新聞》
 Let'19580930 書簡目録・追補(No.0610-0611)
 
 窓の内外 〜 Gone from the Window. 〜
 
── 最後の表紙(第十六号)、机と椅子のモティーフは、誰かが模写
して投稿したらしく、毎日新聞のカットに採用され、学校宛に賞品が届
いた(Let'19580930)。のち東京時代に、ミニチュア細工で立体化したも
のをキャバレー・ミス東京のウィンドウ・ディスプレィに転用している。
 
 卒業後送られてきた、第十七号以後の表紙は、中西 宏君が担当して、
彼らしく率直に、ちゃっかりと基本スタイルを継承している。
── 《虚々日々 20001224 阿波文庫》P059
 
“クラスの横顔”カット(左から一年一学期、二年二学期、三年三学期)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19541122
 男女共学の発展のために
 
 与太郎は、中学卒業前にも、教室の窓外風景を描いている。
 小学校の優等生は佐々木康夫くんで、授業中に、先生や黒板から目を
そらすことがなかったという。
 
 ピアノ調律師の娘・吾郷美枝子くんは、いつも窓の外を眺めていたが、
ためしに先生が質問すると、ちゃんと答えるので、叱りようがなかった。
 与太郎は、ノートや教科書に、もっぱら落書きしていたのである。
 
 のちの流行語“窓際族”に因んだタイトルに改められた自伝は、空前
のベストセラーとなり、やがては“Windows”の時代が開かれた。
── 黒柳 徹子/いわさき ちひろ・画《窓際のトットちゃん 198101‥ 講談社》
 
 画像=山脈・第16号400dpi
── 《風と共に去りぬ Gone With the Wind 1939‥‥ America 19520904 Japan》
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1842/index.html
 
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↓=Non-display><↑=Non-display
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(20090429-0507)
 


1958年10月08日(水)  七五調の転生 〜 佐々木家の人々 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581008
 Ex libris Web Library;尾崎 士郎《ホーデン侍従 1958 垂水書房》
http://www.soratobuniwa.com/hobby/kosyodouraku/index25.shtml
 
── 尾崎 士郎《ホーデン侍従 19491230 暁書房》正之蔵書
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B00DW5SM5A
 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3018966.html(No.6 20070522 06:39)
 
 おもむき 〜 それがどうした 〜
 
 女性は、男声の容姿よりも、男らしい声に性的魅力を感じるそうです。
 言葉の意味や内容でなく、声音にしびれるのです。
 したがって「役者は一声二顔三姿」と云われます。
 
 西欧の古典は、一に韻文、二に対話、三四がなくて五に散文です。
 シュリーマンは、乞食を雇ってギリシャ語の朗読を聞かせたり、言葉
の通じない国の遺跡で、ホメロスを吟じたら、みんな泣いたそうです。
 
 日本語の文学は、七五調の詩歌を生みだし、くわしく述べないところ
に趣向があり、代表作は芭蕉の「古池や、かわず飛びこむ池の音」です。
 いくら考えても、だからどうしたのか分らない点が、ゆかしいのです。
 
 ふだん「七五調で会話している」と、噂されている佐々木家の三代目
幸綱が(こどもの日に)長男と次男が裸のままはしゃぐさまを詠みます。
「風呂上り ふたつちんぽこ 端午の節句」いやはや……。
 


 佐佐木 定綱 幸綱の次男 19860519 東京  /2016 第62回角川短歌賞《非正規の歌》/書店員
https://twitter.com/darekautaeyo
 佐佐木 頼綱 幸綱の長男 19791002 東京  /201711‥ 第28回歌壇賞/編集者
http://bp.shogakukan.co.jp/mado/1708/young.html
────────────────────────────────
 佐佐木 幸綱 信綱の孫  19381008 東京  /治綱の子/国文学/20才誕生日に父・治綱没/「心の花」主宰
 佐佐木 治綱 信綱の三男 19090220 東京   19581008 51 /幸綱20才誕生日に没
♀佐佐木 由幾 治綱の妻  19141110 大連 東京 20110202 96 /幸綱の母/1937「心の花」同人/旧姓=
────────────────────────────────
 佐佐木 信綱 幸綱の祖父 18720708 三重 鈴鹿 19631202 91 /明治 5.0603
/第一回文化勲章〜《思草:おもいぐさ》《新月》
 佐々木 信綱    作曲 19751016 青森 /〜《金子みすゞの詩による5つの歌》《空の文字》
 佐々木 信綱 定綱の四男 1181‥‥ 近江   12420407 61 /養和 1.‥‥-仁治 3.0306/重綱・高信・泰綱の父
────────────────────────────────
 佐佐木 弘綱 信綱の父  18280826 伊勢   18910625 64 /文政11.0716〜《万葉集歌辞童喩》東京大学文学部古典科講師
 佐々木 定綱 太郎・判官 1142‥‥ 近江   12050429 64 /康治 1.‥‥-元久 2.0409/秀義&母(源 為義の娘)
 佐々木 頼綱 六角 三郎 1242‥‥ 近江   13110122 69 /仁治 3.‥‥-延慶 3.1224/泰綱&母(足利氏娘)
────────────────────────────────
 尾崎 士郎  作家    18980205 愛知   19640219 66 〜《人生劇場,1933》
 Michelangelo,Buonarroti 14750306 Italy   15640218 88 〜《Pieta 1500》
 Paulus III 220-221教皇 14680229 Rome   15491110 81 /[15341013-15491110]

 
 佐々木家では、七五調で喋ってる(?)佐佐木(=正/誤=)佐々木
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070203
 ダ・ジャーレ素材集 〜 Viva da-Jare ! 〜
 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1390050.html(No.1 20050517 17:17)
 
 美学の男性表象について・・・
 
 だれもが目をとめる、根源的なテーマですが、もとの出題者の意図が
いささか説明不足のようですね(思いつきでないことを祈ります)。
 わたしなりのスタイルで、自由に論点を列挙してみましょう(字余り)。
 
1.佐々木 幸綱の自選句「風呂上り ふたつちんぽこ 端午の節句」
 歌詠み三代「七五調で会話している」と、噂されている佐々木家で、
 長男と次男が(こどもの日に)裸のままはしゃいでいるさまを詠む。
 
2.女性のシンボルには諸説あるが、男性のシンボルは孤立している。
 尾崎 士郎《ホーデン侍従 1949 暁書房》は、ペニス(陽根)を主人、
 ホーデン(陰嚢)を従者にたとえた風俗小説。
 
3.ミケランジェロは同性愛者で、童貞の美少年を理想としたためか、
 壁画《アダム》その他の男性性器は、かなり小さめに描かれている。
 ローマ法王パオロ3世の命令で《最後の審判》の下半身に腰布を加筆
した弟子のダニエーレ・ダボルテッラは“ふんどし画家”と揶揄された。
(なぜ、わざわざ隠す必要があったのか、いまなお真相は不明のまま)
 昔の教科書では《ダヴィデ》像の、その部分を潰して印刷されていた。
 
4.写真・印刷の発達によって、絵画・彫刻の技法が色を失った。
 アダルト・ビデオでは、もっぱら女性のよがり声を補強している。
 もはや視覚的挑発が、幻想にすぎないことの証明ではないか。
https://images.google.co.jp/imghp?hl=ja&lr=&c2coff=1&gws_rd=ssl
 

http://twitter.com/awalibrary
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ検索)
http://booklog.jp/users/awalibrary(書籍目録)
 |
http://q.hatena.ne.jp/adlib/(はてなQ&A)
http://d.hatena.ne.jp/adlib+bilda/(準公開)
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=gswyn755
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19581008
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)

 
(20070914)(20181019)
 
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1958年10月03日(金)  高等学校新聞と生徒会役員

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581003
 
 予算会議の反省          評議員 阿波 雅敏
 
 こんどの予算会議が終って、九名の評議員が辞任を申出ました。それ
は、決して評議員同志の感情的なもつれとかではなく、予算会議のルー
ルというものが、毎年同じ矛盾を指摘されるだけで、一向次の年に改善
されない習慣を、こんどこそゆすぶってみようとしたのです。
 差出がましい気もするのですが理由もなく返ってきた辞表を前に次の
予算会議にはこうしたらどうか、という僕の思いつきを、なるべく具体
的に挙げてみたいと思います。
 まず、本会議のまえに、各部の説明会をもちたいものです。
 できれば申請〆切の直後にでも申請内容について詳しい説明を各部評
議員がするのです。各部の仕事は専門的なものですから、いきなり本会
議で聞いても知らない言葉があったり、判断に迷う場合も少くありませ
ん。また、各部がどんな申請の仕方をしているかを一とおり聞いておく
ことは必要なことだと思います。
 今年のある部は、生徒会予算が、補助金であると云われていたので、
支出総額のうち補助してもらいたい分だけ申請しました。ところが、他
の部はたいてい支出総額をそのまゝ申請しているので、原案委員に質問
すると、それは申請しなかった方が悪いとのことでした。その結果がど
うなるか、いうまでもありません。これは決して見解の相異ではなく、
言葉の定義が不徹底だったのです。こんなことは本会議で議論しても実
際には手おくれです。
 なお、今年は時間がないとかで品目に対する細かい申請額を、省略し
て議事を進められたのですがこれは各部の云い分を、半ば無視したやり
方で、許されるべきではありません。
 また、各部の立場は、それぞれ異っていて、各々が積極的な主張をも
っているので、お互いの間に充分な理解と思いやりがなければなりませ
ん。
 それには、例えば学年のはじめに、その年の計画や抱負を発表しあう
とか、前年度の会計報告をするなど、お互いの活動を刺激することにも
なって、よい結果が得られると思います。
 特に、会計報告は、次の年の予算の、重要な目やすとなるものですか
ら、申請の内容とあわせて、一目でわかるよう、ぜひ印刷してほしいも
のです。要するに、数日前には必要な資料が手もとにあって本会議まで
に各評議員が質問を用意できるようにすることが、大切なことなのです。

 従来の予算の議決方法は、図のようなグラフを用いています。
 これによると、同じ一人の評議員でも、運動団体と学術団体では数字
の上の発言力が異っていることが判ります。
  運動団体のA君──3.3%
  学術団体のB君──2.9%
 これは両団体の、部の数に差があるからてす。(今年は15対17で比較
的近寄っているのですが、三年前などは実に 12 対 17 でした。)
 
 ◆(図=採決グラフ)
 
 即ち、このグラフは、常に運動団体 50 %、学術団体 50 %の発言力
をもつようにしてあるので、それぞれのまとまった意見が必要なときに
は有効です。
 しかし、先のA君の部の予算を決める時と、B君の部の予算を決める
場合とでは、明らかにB君の部の方が不利です。数字の多少にかゝわら
ず、早急に改められねばなりません。
 ある年、一方の団体に予算が流れすぎる、との理由で、まえもって運
動団体に何割・学術団体に何割と分けてしまう方法が採られ、以来ずっ
と実施されていますが、原因を究めないうかつな方法だったと思います。
両団体の割合を決めた以上、先のグラフは使えないのです。
 この種の均衡が、どうしても必要なら、それぞれの団体毎に審議させ、
互いに承認しあうことが考えられます。承認の方法は、国会の二院制を
参考にしたらよいでしょう。
 要するに、グラフの問題も、この問題も、運動団体と学術団体という、
生徒会規約にもない区別が原因です。予算会議のときだけ、習慣的に出
てくるこの「団体」意識は、この際はっきりと処理すべきです。即ち、
クラブ活動の本質からは、こんな区別は全く根拠がありませんが、事務
的な面で必要なら、正式に設けてほしいと考えます。
 いまゝであまり問題にならなかったのですが、評議員が欠席したり、
代理人が来たりすることは、やはり考えておかねばなりません。従来は、
代理人は何となく認められ、欠席の際は、例のグラフを書き直すことが
平気で行われておりましたが、大切な会議だけにもっとけじめがあって
よいと思います。
 即ち、代理人を寄越す場合は、部長と連名の委任状を求めるとか、本
人・代理人にかゝわらず、本会議中は同一人物であること等の原則は、
却って代理人を公平に扱うことにもなりましょう。
 また欠席者の票は、「原案承認」として扱うことが正しいようです。
予算会議では、棄権は認められず、原案承認か否か、が常に先決とされ
ているのです。
 「原案」がきわめて有力な立場にあることは、いまの例でも明らかで
すが、それだけに原案作成は大変な仕事に違いありません。
 まず、各部の申請用紙にある、こまごまとした内訳に対して、一つず
つ金額をわりあてていく「ていねいな方法」か、それとも、前年度の決
定額を中心として、総額をわりあてていく「大まかな方法」のどちらを
選ぶかが問題です。
 実際には、この二つの方法を、適当に組合せてやるのが普通ですが、
不注意にやると、次のようなことになります。
 例えば、「ボール代が少なすぎるではないか」という質問があると、
「それではバットの分を少しボールに回したとして考えて下さい」とい
った種類の答弁が、しばしばありました。
 原案委員会としては、「大まかな方法」だけで、原案をこしらえたら
しいのですが、本会議で審議するには、どうしても「ていねいな方法」
でないと議論にならないのです。そして、一つ一つの品目について、原
案委員会としての一貫した方針と見解が示されてこそ議論が成立するの
です。
 ことしの会議で、とくに意外だったのは、各部での部費の負担が、ほ
とんど無視されていたことです。例えば、同じ条件で予算を与えられた
二つの部で、一人あたりの部費が、月五十円と百円であったら、これは
不公平といってよい場合が多いのです。
 僕は、各部予算というものは、大ざっぱに考えて、部員の負担に比例
して分配されることが正しいと考えます。たヾ、技術的にどう扱うかは、
とても難かしい問題です。しかし、資料を集めることはできるのですか
ら、今後は少くとも、こうした考え方が重視されてよいと思います。
 以上は、毎年会議が終ってから指摘され、会議中にも問題となったこ
となどを、できるだけ具体的な案として、まとめたものです。これらは、
会議が始まってからでは、なかなか取りあげにくいので充分注意してほ
しいと思います。
── 阿波 雅敏《予算会議の反省 19581003 同志社高等学校新聞・第34号》
 編集人:門戸 良彦/発行人:猿橋 庄太郎(時事問題・教諭)
 
────────────────────────────────
 
 予算会議「採決グラフ」の考案者は“カスミ”こと上田 堅一郎(数学)
教諭と伝えられる。
 
 辞任を申し出た評議員は、器楽部・文芸部・聖歌隊・英語部・宗教部・
新聞部・放送部などの学術団体、運動団体では山岳部・バレー部など、
すべて利害連帯がある。たとえば、山岳部には竹内康がいて、バレー部
は宮田昌洪・立石義雄など有力OBの親友である。かくて器楽部の獲得
予算は飽和状態に達していた。
 この年の予算会議々長すなわち生徒会長は、野球部キャプテン飯田勤
君。野球部が甲子園に出場するためにはブラス・バンドの応援が不可欠
であるから、なるべく友好関係を保ちたい。ところが、議事運営に矛盾
ありと辞表を突きつけられることになった。実際の審議は終っていて、
予算成立後の単なるパフォーマンスにすぎないが、これを議長不信任と
すれば、ひいては生徒会長の弾劾要求になるので、いわば声明文を公開
するための環境づくりであった。
 
 この号(編集人・関戸良彦)では、のちに京都大学医学部紛争の総帥
となる田原明夫君のエッセイ《ものは見よう》がある。「あの田原が!」
と驚いた同窓生も、これを読むといくぶん納得できるフシがある。
── 役員自身が気力を失ってゆくしくみになっていないか/環境の力
は大きい。しかし我々はなりゆくまゝに放置すべきではない/有志は集
おうではないか。──
 
 《走れメロス》は太宰治の作品。豊田勝義君のYMCAネットワーク
を見込んで約四十日間の下宿先確保を依頼すると、東京都台東区御徒町
の商人宿・喜又旅館をさがしあて、まさに有言実行であった。
 担任の杉井先生はホームルームで、同時に新聞に登場した教え子二人
を愛でて「かくいう私も、このほど礼拝の時間に話をする予定である」
と公表された。しかるに与太郎は、当日サボって聞きそびれた。
 
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 衆議院小選挙区 一票格差
 
 一九九四(平成六)年八月一一日に衆議院議員選挙区画定審議会が首
相に勧告した小選挙区区割案も一票の価値の平等を実現することはでき
なかった。その時点で人口格差が二倍を超える選挙区が三〇〇選挙区の
うち二八選挙区で、最大格差は二・一三七倍であった。ところが自治省
が同月一九日付けで発表した九四年三月三一日現在の住民基本台帳に基
づく人口によると、二倍を超える選挙区は四一選挙区に及び、最大格差
は二・二三倍になるとのことである。また、九五年八月一一日付で発表
した九五年三月三一日現在の数字では、二倍を超える選挙区は四六選挙
区になり、最大格差は二・二五六倍と広がった。九六年三月三一日現在
の数字では、二倍を超える選挙区は五二選挙区、最大格差二・三一倍と
なった。さらに、九七年三月三一日現在では、二倍を超える選挙区は五
九選挙区、最大格差二・三六倍となった。一般に何が平等で何が不平等
なのかは判然としない場合が多いが、選挙区間の一票の価値の格差は、
理念と現実との間のギャップを数字的に明確にするので、理解しやすい
貴重な例である。
── 《現代用語の基礎知識 19980101 自由国民社》P736
 
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── 岡野加穂留氏(おかの・かおる=元明治大学長、比較政治学)
7日午前9時25分、がん性脳髄膜炎のため自宅で死去、76歳。東京
都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。7月20日午後1時から東
京都港区芝公園3の3の1、東京プリンスホテルでお別れの会を開く。
喪主は妻論江(ときえ)さん。
 明治大政経学部長を経て1992−96年学長。著書に「政治風土論」
「多党制政治論」など。明治大ラグビー部部長も務めた。
── 《訃報 20060608 共同通信》
 


 太宰 治   作家   19090619 青森 東京 19480613 40 /情死遺体発見
/19480619桜桃忌/籍=津島 修治〜《桜桃/走れメロス/人間失格》
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 竹中 正夫  組織神学 19250906 北京 京都 20060817 80 /同志社大学名誉教授/米思想史
 岡野 加穂留 政治学  19290622 東京   20060607 76 /明治大学長
 麻田 貞雄  日米史  19360129 京都          /同志社大学教授
 杉井 六郎   日本史  19230613 静岡 京都 20111008 88 /京都女子大学教授
 上田 堅一郎 数学教諭 1926‥‥ 京都   20060515 80 /1979-1986同志社高校長“カスミ”
 Griesy, Paul V.英会話 19281227 America  20131010 84 /同志社高校講師/グリーシー“ポール先生”
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 宮田 昌洪  排球部  1939‥‥ 京都          /ミヤタ喫煙具店
 立石 義雄  排球部  19391101 大阪 京都       /オムロン会長
 竹内 康  NHK局長 19400930 京都   20090311 68 /同志社高校文芸部“DHS”旧暦1028-0215“如望忌”
 飯田 勤   生徒会長 1940‥‥ 京都          /野球部主将
 田原 明夫       1940‥‥ 京都          /京大医学部紛争の総帥
 豊田 勝儀       1940‥‥ 京都   19950905 54 /同志社中学教諭

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 我が信念、我が友情        三年 豊田 勝儀
 
『宗教部のくせに』『偽善者よ!お前は』とひやかされながら三年間。
反省と奮発の材となってきた。「人の事なんかかまってられるか」と三
年にもなると人間が利己的になるのか、ひやかすその人も自分の不誠実
を悟った為か、どうかは知らないがあまり此の頃は云う人もなくなった。
とにかく辛かった、頑張った、然し楽しい高校生活を送って来た。入学
時に思う「最も楽しい最高の思い出を持つ−卒業後いつ思い出しても−
思い切りやった。我が高校生活に悔いなし」と確信を持って語れる岩倉
時代を送ろうと。然してその大半は過ぎ去った。《恵まれボケ》の環境
に揉まれながらにも拘らず「同志社に学びし故に我が三年間悔いなし」
と云わしめる少くとも二つのものを得た。その一は、『俺の命は俺が生
きる』その最大に生きる生き方の原動力となるものである。「人もし全
宇宙を得るとも、その霊魂(ギリシヤ語で生命)を失はば何の益あらん
や、また人は何を以てその霊魂に易へんや」実にこれなり。私と云うも
のは私の他に無い。私に多少似た者はあるだろう。しかしながら私の半
身とか、第二の私とか称して全然私に似て正確にこれの代用をなし得る
者は宇宙永遠に渡り一人もない。自分の生命の貴尊、それに基ずいて幸
福の何たるかを学び得た。山のあなたのなお遠くに幸福を探る必要ある
なし。今日はその第二、《友情》について少しく私見を述べる。
 悲しい時の慰めとなる友を持つ人にとって、喜こぶ時に共に喜こびあ
える友を持つ人にとって友情の如何に尊く、なくてはならぬものである
かは自明の理である。ヨキ友ある故に有意義なる高校生活を日々体験す
る。打算的友交、単なる遊び友達、己れの利ばかり求めて与える事の満
足を知らん友人関係については今日は問題外。「私を待っている人があ
るんだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は
信じられている。私は信頼に報いなければならない」(走れメロス)求
めるべくして求めたのではなく、自然にあらゆる機会を通りて心と心、
人格の触れ合いにより成立。真の友情−卒業後も消息を知り急用あれば
いつでもとんで行く。真の友情の続くことを互いに確信している友情を
得たこと。これだけは声を大にして云える−持つべきものは友なりと。
金でもない。いわんや名でも位でもない。信頼出来、信頼されている友
なりと。
 
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 時の人 麻田 貞雄 君 〜 カルトン大学三大賞受賞 〜
 
 エールでは神学校に居るポール・グリーシーに度々会えるのを楽しみ
にしています。彼は去る三月カールトンに数日間戻って来た時に会い岩
倉の話にはずみました。ポールは礼拝の時にこちらの学生に彼の体験談
を語り、スライドを見せたりして「日本におけるカルトン」の意義を説
き、学生教授にも、日本への関心を湧かせるにに成功でした。四月には
同志社大学の竹中助教授が同志社の代表としてチャペルで話され、深い
印象を残されました。(グルー奨学生・受賞挨拶状の一部)
 
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(20060608)
 


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